@uk_plus_
あの子はとても綺麗だ。
だからこそ蓮二の隣にいつもいていつも得意気な顔をして歩いているのだと思う。
いや、得意気に見えるのは私が勝手に感じていることだ。
だけど私は知っている。
「また喧嘩したんだ」
「……苗字」
大学のキャンパス内。
設置されているカフェテリアで見慣れた背中がひとつ。
迷うことなくいつも通りに心音を潜めて声をかければ、少し疲れたような彼の声が私の名前を、名字を呼んだ。
彼の癖だ。
ある一定の距離がある人間を、名字で呼ぶ癖だ。
これを知っているのは、きっと私だけだと思う。
「大丈夫?」
「今回は少し、大丈夫じゃない、かもしれない」
―大丈夫じゃないんだ。
目の下に出来たクマは、昨日夜遅くまで彼女と話をしていただろうことが窺える。
私は労わるように隣に座っていいか目線を送った。
彼は承諾として頷き、手を椅子へと差し出した。
「今度はどうして?」
「さぁ……いや、俺のこういうところなのかもしれんな」
「こういうところ?」
「そうだな。なんでも、流してしまうのだろう」
他人事のように、分析するように口にする彼は落ち着いているように見えた。
蓮二とその彼女は、頻繁に喧嘩を繰り返していた。
それは今に始まったことではなく、付き合いだした当初からだった。
しかし二人は別れることなく今に至っている。
綺麗な蓮二に綺麗な彼女。
学内で特に目立つ二人だから、そんなことも喧嘩するほどなんとやらと言われるくらいだった。
だけど私は知っている。
それは、そう言われているそれは、蓮二の多大な努力の下に成り立っているということを。
「発端は?」
「恐らく部屋でなんとなしに言ったことだ」
「へぇ」
部屋でという単語にちくりとする。
事の顛末は、講義がお互い無い日に出掛けようと準備を部屋でしていて、その時蓮二が彼女へ言った言葉が喧嘩の火種となってしまったということだった。
「なんて言ったの」
彼女にと付け足して、私は目を擦る蓮二の顔を観察する。
さらりとした睫毛がひとつ、頬にひっついているのが見えた。
その肌はいつも以上に白くて、それは寝不足のせいなのだろう。
きっと講義のレポートなんかも溜まっているだろうに、気の毒なことだ。
だけどきっと蓮二は、レポートも喧嘩についても手は抜かないはずだ。
完璧に決着をつけるだろう、どちらも。
それが、柳蓮二だから。
「なんて、か」
「うん」
「覚えてもいないくらい、どうってことない言葉だ」
吐き捨てるというのだろうか。
冷静でいたと思っていた彼は、そこだけ棘があるように言った。
「そっか」
戸惑いが表面に浮ばないように、努めて軽く返した。
ひとつでも溢してはならないのだ、私は。
―どうしてそうしてまで彼女といるの?
―彼女のどんなところが好きなの?
―そんなに彼女のことが、好きなの?
毎回浮かび上がる愚問たちを、私は静めるのに必死だ。
恐らくそれらを口にしたら、私と蓮二のこの距離感は終わってしまうから。
なんてことはない出会いだった。
その頃にはすでに彼は“彼女の蓮二くん”でありそれはとても有名なことだったので、私も人伝に知っていた。
―この講義のプリントとノートを貸してくれないか?
ひとつの講義に出席しようとしたとき、蓮二に声をかけられた。
そんななんてことない出会いだった。
その講義を取っていない蓮二が何故そんなことを言ったのか。
―彼女が風邪をひいたんでな、代わりに。
どうして私だったのか。
―彼女について行く時、たまに君を見かけていたんだ。
優しいんだね、柳くんは。
―……そうだろうか。
その時の蓮二のなんとなしに笑った顔が、とても好きだと思った。
好きだと思ってしまってからは、だめだった。
いくら頭で思わせても無駄だった。
好きになったら、好きになっていく一方で。
そんな私が唯一蓮二との距離を保つ方法は彼女の風邪の具合と講義について
話をすることと、喧嘩をしたとき彼の話を聞くことだけだった。
相談役でもいい。構わない。彼との時間を作れるなら。
人が聞けば健気な片思いは、そうしていつからか歪んでいった。
悩む彼の傍にいながら背中をさすり、また彼女の元に戻るように仕向け、また苦しみ出せば確実に私の元へと戻ってくる。
そして彼の苦痛を征服することが、私の何よりの快感と愉悦になっていくのにそう時間はかからなかった。
そんな私の気持ちを、蓮二は知らない。
だけど私は蓮二の全てを知っている。
たったそれだけの支配欲が、私の好きという気持ちを歪めて大きくする。
―あの子といないで私といて。
―どこにもいかずに私の隣で。
柔らかい恋心は、いつしか歪な形を経て―。
「苗字?」
「!」
少し考え込んでしまっていたようで、蓮二の声に私はハッとした。
顔をあげると心配そうな顔をした蓮二が私を覗き込んでいる。
「すまないな……毎回こんな話をして」
「ううん。だって蓮二大変でしょ」
「大変、まぁ、そう、大変だな」
苦笑してからひとつ息を吐いた彼が、空中を見つめながらふと口にした。
「そうだな。好きでもない女の乱痴気騒ぎに付き合うのは、大変だ」
「え?」
いつもとは違った口調に、ざわりと産毛が逆立った気がする。どうしたのだろうか。
私が聞き返すように声を出すと、蓮二は私を見てからふわりと笑った。
「もうそろそろ、別れてもいいだろうな」
「どういう、こと?」
優しく笑っているはずなのに、彼の表情が少し恐かった。
例えるならそう、獲物を見据える蛇のようで。
「別の女に幻滅されたくなくて今の彼女と付き合っていた、そう言ったら、苗字、お前は俺に幻滅するか?」
「……どういう、意味?」
私はまさしく蛇に睨まれた蛙のように動けず、それだけを口にするのが精一杯だった。
ここは学内のカフェテリア。私と蓮二だけ凍りついた空気の中にいるようだ。
「俺はずっとお前が好きだった。そう告げたら幻滅するか?」
「なんで」
逆立った産毛は収まることはなく、脳は痺れたようになる。誰を誰が好きだって?
言われていることがわからなくて私は固まることしかできない。
「……そういうことだ。今から彼女には別れてくれと伝えてくる」
物事が解決したとでも言うように、蓮二はすっと立ち上がりその場を立ち去ろうとする。固まる私を置いて。
しかし何かを思い出したように振り返ると、にこりと笑って一言付け足した。
「ああ。今日は十六時に全てが終わる予定だったな“名前”は。その時間にまたここで待っているよ」
落ち合おうと変わらない笑顔で言った彼は、本当に初めて見る蓮二だった。
「どうして」
彼が立ち去った虚空に、私は呟く。
見たことない想い人の姿に驚く頭は、もう何も考えられない。
「どうして、そんなこと……知ってるの」
俺は知っている。
彼女が努めて表情を揺るがせないようにしていることを。
それは彼女が俺に好意を寄せているからだということを俺は知っている。
「蓮二」
そして、カフェテリアの席で憔悴している俺の背中に彼女が声をかけるであろうことも。
その度俺は、できるだけ疲れた顔をすることも忘れない。
「……苗字」
「大丈夫?」
「今回は少し、大丈夫じゃない、かもしれない」
俺がそう言うと、彼女は俺の顔を窺うように椅子へと視線をやった。
だから俺はさっとその椅子へと促すように手を差し出す。
こうして彼女に話を聞いてもらうのは、何回目になるだろう。正確には十五回。
毎回彼女は、彼女の気持ちを表に出さないように努めている。
一言で言うならそれはとても健気だ。俺がそうなるように仕向けたのだけれど。
できるだけ彼女の中に俺が根付いて、剥がれ落ちないように。
出会いは彼女が記憶しているものよりもはるかに以前だった。
大学一年の頃に学内図書館で苗字を見かけたのが全ての始まりだった。
その頃俺にはすでに今の彼女がいたが、付き合ってみれば浮き彫りになる女という生き物の面倒臭い一面に、正直もううんざりしていた。そろそろ辞めてしまうか、そう考えていたときだった。
個別の机で書籍をゆっくりと開いている苗字を見つけた。
今の彼女と比べれば、華やかさや女特有の色香はない、そんな女性だった。だけど俺は苗字に惹かれた。
書籍の中に入り込む彼女の目と、紙を捲るその指から目が離せなくなっていた。
文学の人々はこれを恋に落ちると表現しているのだろう。
今の彼女はそのままに、俺はそれから苗字を観察することにした。
別れるために行動するのは時間の無駄だと判断した。
苗字を知ること、そのために時間を使った。
同じ学年の違う学科に所属する苗字は、下の名前は名前といった。
動くことに面倒でない服装を好むらしい彼女は、いつも動きやすいパンツスタイルでいた。
髪の毛も綺麗に纏め上げるのではなく、書物を読むために邪魔にならない程度に整えるに留めていた。
華美でないその容姿は、色付かないことこそ俺を欲情させた。
何より惹かれたのはその精神だった。
ある日ふと苗字と友人の会話が耳に入ったことがある。
驚いたのはその内容で、俺と現在の彼女についてだった。
当時も今同様に喧嘩をしていたが、互いに目立つ容姿をしているためかどうやら学科を飛び越えて噂が広まっていたようだった。
―柳くんと彼女さんさ、また喧嘩したって。
―えー?でも別れることないでしょ。
―喧嘩するほど仲がいいって?羨ましい。
―美男美女だしねー。何があっても絵になるよねぇ。
―彼女結構、高飛車?柳くん大変そー!
正直余計なお世話だと思ったし、やはり女はだいたいは下世話であるとも思った。
名前も知らない人間たちに噂をされるというのは、気分がいいものではない。
しかしその輪の中にいた苗字は興味なさ気に生返事をして、一言呟いたのだ。
―人の勝手じゃないの。
噂話を一蹴する彼女の声は、一見すれば冷たいもので、友人たちはうろたえていた。
しかし俺はそれを耳にしてから確信した。俺は間違いなくこの女性が好きであると。
それからの計画は簡単に済んだ。
彼女が風邪をひいたからと、同じ講義を取っている苗字に声をかけ、噂話まで利用して話をする機会を急速に増やした。
そして何より大事だったのが、清廉な彼女の中に俺という存在を確実に植えつけることだった。
彼女がいる男を好きになるという罪悪感は間違いなく苗字の中に残ることを計算して、俺は確実に彼女に喧嘩についての相談や話をしていった。
姑息であると言われようが、歪んでいると言われようがどうでもよかった。
とにかく俺は名前が欲しくて、手に入れたくて、そうならなくても彼女の中から俺が消えないようにしてやりたかった。
綺麗な彼女が歪むほどに、俺を求めるようにしてみたかった。
そうしてどれくらいの時間が経ったろうか。
ついに俺の悲願が達成する日がきた。