@uk_plus_
まさか、と手帳を見て思う。先月の赤く記したマークと日付を見比べて、さっと頭が冷えた。
「嘘だ」
思わず漏れた言葉に、それを押し戻すように手で口を覆った。自分の年齢はまだあまりにも“それ”を成すには若すぎるはずなのに。いろんなことが脳を駆け巡って、そして最後に落ち着いたところは彼のこと。
―月光に、なんて言えば。
いや、まだそうと決めつけるには早すぎると頭を振って、次のマークがまだついていない手帳を閉じた。検査薬はもちろん病院にも行っていないのだから。落ち着くんだ。
「妊、娠…?」
可能性のある言葉をぽろりと呟いて、私は力の抜けた体を椅子に預けた。
あまり眠れなかった夜が過ぎた次の日は、もちろん顔色が悪かった。それを隠すために珍しく薄化粧を施して、私は重たい体のまま家を出た。
いつも通りの賑やかな教室に入った時、いつも通りに彼氏である月光の姿を認めて肩を震わせる。一晩考えてもなかなか疑惑についてを彼に言うことができなかった。スマホをつけては消してを繰り返していたら、あまり眠ることなく朝になってしまったのだ。何と言われるのか、ただそれだけが恐くて。
「おはよう」
「お、おはよ」
私の姿を目にした月光が静かに挨拶をしてくれて、私もそれに返答する。なるべくぎこちなくならないように。
「――…」
「何?」
「いや…」
すると何も言わずに私を見ていた月光が、問えば珍しく言葉を濁した。何かあれば必ずちゃんと言葉にする彼が。
「珍しいと思った」
「な、何が?」
「化粧をしているな」
めざとい。いや、それだけ私のことをよく見てくれているということなのだろうけど。しかし今はそれがとても怖く感じられた。
「え、あーうん。ちょっと寝不足で、顔色悪くってさー」
「平気なのか」
「大丈夫大丈夫。合間の休み時間に寝るよ」
その大丈夫はまるで今の自分の心境を落ち着けるための言葉のようだ。いつも通りに彼へ笑いかけて、私は自分の席へと着く。そして鞄を開けたところで月光が私のところへやってきてがっしりと腕を掴んだ。
「来い」
「えっ、何」
「いいから来い」
日頃に比べるととても強い言葉で、半ば強引に月光は私を教室から連れ出した。時刻はホームルーム開始の十分前。それでも構いはしないように、月光は私を引っ張って歩いていく。
「ど、え、何、月光、どうしたのちゃんと言って」
「無理はするな、家まで送って行く」
「え、帰れってこと?」
よく見れば彼の肩には鞄がかけられていて、どうやら本気のようだった。未だに引かれる腕に少しだけ力を入れ、それに反抗するように私は言葉を紡ぐ。
「だ、大丈夫、大丈夫だから」
「お前はそう言っていつも無理をする」
「そんなことないって」
「そう言って先月も早退していたろう」
「よ、よく覚えてるね」
「お前のことだからな」
たしかに先月は生理痛が重すぎて、頑張って授業を受けていたものの昼過ぎから耐えられずに早退していた。言われて嬉しいはずの言葉も、今のこんな心境ではざわりと嫌な気持ちを引き起こす。全てが全て先月まではいつも通りのはずだったのに。
「それに―」
「え?」
「今日はいつもと、違うようだ」
そう言って振り返った月光の瞳が見えた。眉を顰めながら私を見つめるそれは、ひどく心配しているようだった。
私はその目に弱い。観念するようにひとつため息をついて、私は頷いた。
反芻する先ほどの彼の目を思い出しながら、私は自分の動く足を見ていた。その視界には制服を纏った己の下腹部もちらりと映る。
―いつか、言わなきゃいけないのだし…。
午前の帰り道は、朝の喧騒とは全く違って人があまりにも少ない。月光に手を引かれたままゆっくりと歩きながら、私は胸につかえていた話題を引きずり出した。
「あのね、月光」
「なんだ」
「あの…びっくりしないで、聞いてね」
「どうした」
「…生理が、来てない」
びたりと止まった彼の歩に、一歩遅れて私も足を止めた。するといつもの緩慢な彼の動きからは考えられない速さで私の方を振り向く。それに私が肩を震わせ驚くと、月光はゆっくりと口を開いた。
「それは…」
「ええと、たしかめてないけど、妊娠、してる、かも」
青い髪の間から覗いた切れ長の目が大きく開かれて、しばらく私を見つめていた。私はそれに耐えられず顔を逸らして、ええとと言葉を漏らす。
「ほ、ほんと、まだ何にも確認してないんだけど、えっと、て、手帳?手帳見ててさ、こう、ほら日付?見ててさーなんかすごく日が空いてるなーって。あ、あんまりそういうことなかったから私びっくりしちゃってさーあは、あはははは」
貼り付けたように私が笑っても、月光はぴくりとも動かずそのまま私を見ていた。私はやはりその瞳を直視できずに、自分のつま先に視線をやる。
「いつだ」
「…」
「いつ気付いた」
「…昨日。怖くて、連絡できなかった」
「そうか」
「うん…」
そう言葉を繋げれば、視界のつま先がぐにゃりと歪んだ。ああこんなにも自分は不安だったのだと、重力に逆らわずに私はそのまま涙を落とした。
「すまない」
彼の声に弾かれるように顔を上げると、屈んで私を覗き込むようにした月光に頭をひとつ撫でられた。その大きな手はいつも通りの大好きな手だ。
「なんで、謝るの…?」
「ひとりで、怖い思いをさせた」
「だって、言わなかったし…」
「二人の問題だろう」
そんな言葉にまたひとつ涙が落ちて、だけどそれは月光が親指で拭ってくれた。
「とにかく、今は帰ってゆっくり休め」
「うん…」
「もし、その、本当にそうなら…」
「そうなら?」
「尚のこと、無理はするな」
自宅までの帰り道。近所のドラッグストアへ寄って、検査薬を一箱買った。自分で会計に行くからと言ったのに、有無を言わさずにさっさとレジへ向かった月光に私は面食らった。時たま強情なところを見せるそんな姿も今は頼もしく感じられて、大きなその背中がいつもと違うように見えた。
そして二人きりの家で、私は大きな声を上げる。
「…い、陰性!」
お手洗いから出て、陰性を示したそれを持ったまま私は自室に入った。
「ち、違ったって」
部屋で座って待っていた月光の隣に腰掛けて、私は手元の棒をまじまじと見つめた。そして安心した気持ちと、その奥から残念だと思う身の丈に合わない思いが去来する。
「…そうか」
すると月光にしては珍しくわかりやすい声音で返事があったものだから、私はきょとんと彼を見つめてしまった。
「どうしたの?」
「いや…少々―」
―残念だと思った。
消え入りそうな声。逸らされた顔。それでも髪から覗いた赤い耳。ああ、私は何を怖がっていたのだろうか。
「色々、考えてた?」
「…そうだな」
「私も」
どうなるかわからない不安がとても怖かったけれど、胸が躍るようなことも少しは考えてはいた。その事実は先ほどなくなってしまったけれど、不安がなくなった今、思い出すように私は彼に話した。
「男の子だったら月光に似るのかな、とか」
「……」
「だとしたら、とっても大きくなるのかな、とか」
「…どうだろうな」
「そしたらやっぱり、大変かな?」
「俺が何とかなっているのだから、大丈夫だろう」
ぽつりぽつりとお互い話し出して、そうして二人で苦笑した。
もしこの先がずっと続くのだとしたら、その時も二人で笑っていられるといい。月光と。
―――――――――――――――――――
「それでも寝不足なのは変わらない。このまま休め」
「…もう少し、一緒にいてくれる?」
「……あと少しだけだぞ」