@uk_plus_
塗りたての指先を気遣いながらポリッシュの蓋を閉めて、私は時計に目をやった。
シンナーの香りが漂うこの部屋は時刻二十三時。
今からおよそ一時間はこの染められた指先を置いておかなくては、折角の綺麗な色も無駄になる。艶やかなエナメルの指先をまじまじと見ながら、私がひとつため息を吐いた頃。ポリッシュ瓶のそばに置いておいたスマホが明滅して震えた。そこに表示された名前を見てからああと思い、爪が当たらないようなるたけ指の腹で私は通話ボタンをスライドした。そして通話が繋がってすぐにスピーカーのボタンを押す。表示された名前は彼氏の月光だ。
「どうしたの月光」
「いや、もう寝たかと思ってな」
「起きてたよ」
「ああ」
電話をしてきた当人よりも先に話し出せば、静かな声がスマホの簡易なスピーカー越しに聞こえてきた。いつもは直に耳へ当てている音が拡散されて聞こえるのが新鮮で、私は小さくくつくつと笑ってしまった。
「…何かしているのか」
「あー、いや、爪をね」
「…ああ」
それだけ言えば納得したような短い返事がスピーカーから聞こえてきて、それに応えるように私が続ける。
「だからスマホ握れないから、スピーカーにしてるの」
「いつもと音が違うのはそのせいか」
「あ、やっぱり違う?電話しにくい?」
「さして問題はない。むしろ邪魔になるなら切ろう」
「大丈夫大丈夫」
表面が乾けば平気と言いながら、私は狭い部屋にあるキッチンへと向かった。
「というか何かあった?」
「何故だ」
「いや、前日に電話してくるの珍しいから」
予め入れておいたポットのお茶をマグカップへ注いでからそれを持ってスマホの前まで戻ってくると、何気なく月光が何してると聞いてくる。それにお茶入れたと答えてから、私は先ほどの話を続けた。
明日は電話の相手と午後から食事の予定を付けていた。そのために私は爪を染めて、クローゼットの中を思い出しながら何を着て行こうかと考えていたそんな夜だった。
「時間とか、場所とか、変える?」
「いや、変わりない」
「そっか。じゃあ何?私と話したかった?」
乾いてきた爪をそっと撫でながら私がけらけら笑う。するといつもより静かに月光の声がした。
「そうだな」
そんな声に私はきょとんとして、そっかとだけ返事をした。
月光と付き合い始めて二年が経っていた。不仲ということはなかったが、付き合いたての頃のように何の理由もなく電話をしあう頻度はだいぶ少なくなってはいた。私に不満は何もなかったし、会う時間が少ないということもなかった。今回みたいに適度に予定をすり合わせて、二人とも“いつも通り”を過ごしていたと思う。それは恐らく年月をそこそこ共にした恋人には普通のことだ。
「寂しくなった?」
「いつも通りだが」
「そう言われちゃうと私が寂しいかな」
「それはすまないな」
事も無げに言われたそれにもう一度けらけらと私は笑う。なんとでもないやり取りが私と彼の間の二年を表しているようだ。
「冗談だよ」
「冗談なのか」
「簡単に寂しがる女だと思ってる?」
「ないな」
「でしょ」
躊躇いもなく返された言葉に笑いながらもう一度指先を撫でて、そこそこ乾いたことを確認した私はスピーカーを切り替えてスマホを握って耳に当てた。
「もう爪はいいのか」
「うん、大丈夫」
直に耳へ入り込んだ心地の良い月光の声にほっとしている自分に内心呆れながら、改めて自分は彼が好きなのだなと思う。
するといつも通りのやり取りの間にできたちょっとした沈黙の先で、月光がひとつ息を吸った音がした。それはきっとスピーカーでは聞き逃してしまうほどの小ささで。
「どうかした?」
「何がだ」
「ううん、別に、なんとなく」
気になって問えば逆に問い返されて本当になんとなく気になってしまったことだから私がそう言えば、一瞬だけ電話越しの空気がひりついた。
「…本当は明日に、話すつもりだったんだが」
「ええ?何?」
二年間を過ごして恐らく久々に感じるその空気感に、私の胸が少しだけざわついた。本当に微かな違いだったが、月光の声がいつもより低かったせいだ。
「その、お前が嫌でなければ」
「…うん」
「一緒に、暮らさないか?」
ぽつりと落とされたその言葉に、マグカップへ伸びていた私の指先がぴたりと止まった。何度も脳内で反芻しても、うまく言葉が自分から出てこない。
「無理ならば、今のままで構わない」
そう繋げられた言葉の声は全然構わないと思っていないんだろうなとふと感じて、思わず私が笑いだすと怪訝そうにどうしたと聞かれた。
「ううん、ごめん、ごめん違うの」
「なんだ」
「はー…ううん。いいね、それ、うん。いつからがいい?」
「お前の部屋の更新前に。来月だろう」
「よく覚えてるね」
「この前話していたが」
そうだっけと返事をしながら掴み損ねていたマグカップを次こそ掴んで、嬉しい気持ちと一緒に私はお茶を飲み下す。
「明日話せばよかったのに」
「そうだな。…ただ」
「何?」
「気持ちが、急いてしまったんだ」
今度は少々上機嫌そうな声が聞こえてきたから、本当にそうなのだろうとますます私は頬が緩んだ。
「一旦そっちに住めってこと?」
「そうなるな。こちらの更新はもう少し先だ」
「わかったよ」
彼の口ぶりから私は少し未来のことを考えて、ああ荷造りをしなくちゃと狭い部屋を見渡す。
「明日またよく話そう」
そう電話口から声が聞こえてきた頃には、私のエナメルが光る指先はすっかり乾いていた。
そして次の日彼に会った私のその指先は、一時的に住むことになる月光の部屋の鍵を受け取った。