@uk_plus_
「ありがとう、パパ」
シンクを打つ少し温かい水道水を止めてリビングへ入ってきた彼へそう声をかければ、もうすっかり見慣れてしまった高さからゆっくりと返事をしてきた。
「ぐずらなかった?」
「少々元気だったが、問題はなかった」
「そっか。今日はパパ早いよって言ったら、夕方でも騒いでたの」
水滴を拭き取った大皿や小皿を食器棚へ戻しながら笑うと、ふっと近づいた巨躯が私に倣うように皿たちをしまいだす。
「ありがとう…月光」
「こちらこそ、いつもありがとう」
もう何度も見たことあるはずの、しかしそれでも珍しい我が夫の小さな口元の笑みに私も笑って返事をした。
週末金曜午後九時は点けっぱなしのテレビから流れる少し高い演者の声と、夫の月光が手際よく食器棚へカトラリーだとかをしまうカチリカチリという音が混ざる瞬間だ。
日頃帰りの遅い彼がこの時間に私服姿で私の家事を手伝っている光景に、自然と口元が緩む。子供が出来てからは家のことに配慮しながらも仕事の配分を少々増やしたようで、平日は基本的に帰りの遅いことが続いているから尚更だった。それでも月光は金曜だけは定時に帰宅して、いつもこうして私の傍らにいてくれる。穏やかで静かな幸福だ。
「これで全部か?」
「うん、終わり。ありがとう、お陰で早く済んだよ」
なんでもないと言いながらぱたりと棚の戸を閉じて、それから彼は私の左手を掬った。
「今日もありがとう」
「特別なことは何もしてないよ」
「いや…元気で二人、いてくれたことに」
握った私の左手を両の手で包みながら慈しむように撫でて、月光は私を見つめる目を細めた。そんな彼に少々恥ずかしく思いながらも笑い返して、私はゆっくりとその巨躯に抱き付く。
「月光も。今日もお疲れ様。頑張ってくれてありがとう」
「ああ」
頭上から低くも柔らかな彼の声が私に返事をした。そして私の背中をその大きな両手でゆっくりと包み返してくれた。
付き合った頃から何度も握った妻の手を、越知はその度に愛おしいと思うようになっていた。苦楽を共にすると誓った日から、まさしく様々な苦楽を越える度に彼女のその手は確実に越知を支えていたからだ。
妻に一日の感謝を伝える折に握る細く白い手。その薬指に光るプラチナを認める度に、越知は自身を鼓舞し、そしてここに在れることに安堵していた。
柔らかな体躯の妻を抱きとめる腕を緩めながら彼女の顔を覗き込むと、身長差のあるその双眼が越知を見ながらなんとなしに聞いてきた。
「疲れてるでしょ?もう寝る準備する?」
時刻は午後九時。今日は週末の金曜日。問う彼女の声には純粋な気遣いしか存在しない。
「……寝てしまっていいのか?」
「え?」
一度リビングの時計を見てから、また妻へと視線を戻して越知が静かに聞き返せば、腕の中の彼女はきょとんと自分を見上げたままだ。そんな彼女にじれったく思いながらも、ゆっくりと腰を曲げて越知はその他意のない愛らしい唇をひとつ啄ばんだ。
「そんな寂しいことを言わないでくれ」
「…っ!ね、寝る準備、してからね!」
まるで怒ったように言いながら己の腕から逃げてリビングを出た妻の背中を見送り、しかし彼女の頬が真っ赤であるのを認めていた越知はキッチンでひとつ苦笑した。