9.まとう/风息・洛竹・虚淮
10.よろう/虚淮・风息・洛竹
11.昔語り/年老いた妖精 ※映画数百年後捏造、虚淮死ネタ注意
12.昔話/虚淮・风息(過去大捏造)
13.その夜明け/虚淮
14.知道了/虚淮
15.妖精の味方/洛竹、无限
16.おなじかまのめし/洛竹
17.あにおとうと/天虎、洛竹
@satomi8429
9.まとう(龍遊時代 風息、洛竹、虚淮)
「風息、見て。なんか変な人間がいるんだ」
洛竹に呼ばれて、風息は隣の木に飛び乗った。洛竹の立つ木からは村の様子がよく見える。以前はよくここで村祭りの準備を眺めたものだった。櫓が組まれ提灯が吊り下げられ、日々の繰り返しばかりの村がにわかに活気づく、その様子を見るのが楽しかった。
洛竹の指先に目線をやると、そこには同じ格好をした集団が足並みをそろえ、低くて無遠慮な音を立てて土を削るように行進している。
「村の人間じゃないよね。誰なんだろう」
村の人間はあんな格好はしない。風息たちとも交流のあるこの村の人間たちは、つぎだらけの簡素な布の服を着て、身につけているのはせいぜい手ぬぐいと襷くらいなものだ。今眼下をぞろぞろと歩いている集団は、重そうな上下に重そうな靴と帽子を身に付け、手には長い得物を持っている。
「あれは軍隊だ」
風息が口を開きかけた丁度その時、後ろからふわりと虚淮が枝に降り立って言った。
「いくさになるのだろう」
「いくさって?」と洛竹が振り返る。
「村の子供たちのチャンバラごっこを見たことがあるだろう? あれを大人がやる。国同士のいさかいだ」
「チャンバラ? あいつらが?」
洛竹は風息に、風息は虚淮に稽古をつけてもらうことはあったから、鍛錬のための試合いというのは想像がつく。しかしそれはあくまで稽古であって、本当に殺しあうわけではない。しかも、勝つには身軽さが重要だ。俊敏に動くために、身は軽い方がいい。あんな重たそうなものを身に付けていたら、防御も攻撃も遅れてしまうだろう。
「馬鹿な奴らだ。たかだか何十年しか生きられないくせに、同族同士で殺しあうなんて」
虚淮は腕を組んで吐き捨てた。
「人間は弱い。体を損傷すればすぐに死ぬ。あの手に持った棒で刺されれば死ぬし、火で焼かれても死ぬ。やつらは身軽さよりも殺されないことを第一にああいうものを着ているんだろう」
「へぇ、弱いもの同士で殺しあうのか。しかも同族を」
人間ってわっかんねぇな、と洛竹が言った。
「そうだな」
風息は村を見下ろしながら頷いた。
秋のはじめの乾いた風が吹き、風息の着物の袖や裾をはためかせて通り過ぎていった。
10.よろう(離島時代 虚淮、風息、洛竹)
「それだと、ここでは暑いんじゃないか?」
着替えを終えた風息に虚淮は眉をひそめた。人間に似せた硬めの上下は、胸と背と腰を覆っている。のみならず、上衣は身体にぴったりと張り付く黒だ。さらに手首も厚く布で覆われている。
「ここは冷やさない方がいいらしい」
俺は獣だから、と風息が言った。生き物としての弱点は、覆っておいた方がいいと思うんだ。一応な。
「それなら、脚は」
ひらひらと大きく開いた袴を見遣る。軽やかな下衣の、裾だけがいつもの風息だった。
「……全部が窮屈だと息苦しいだろ」
そう言いながら、風息は腕を曲げたり身体を捻ったりしてみせた。
重たそうだし動きづらそうだ。おまけに色まで暗い。しかし虚淮は黙って息をつくだけにとどめた。
「虚淮は? いつもと変わりないな」
「私はこれでいい」
たっぷりした裾、ふわりと風に踊る袖、胸と背には月の徴。
「生き物ではないからな。弱点はない。服を重くして速さや瞬発力を損なう方が不利だ」
「まあ、虚淮がいいなら」
波の音が微かに聞こえる。
夜の森には月明かりが射して、石を切り出して作られた池の水面をゆらゆらと光らせていた。ここは、苔に覆われた人工物がそこここに不気味に立つ森、人間に忘れ去られた場所だ。
「風息、虚淮、こんなんでどうかな!?」
顔を上げると、風息と同じように胸を鎧った洛竹が、明るい調子で枝を操り降りてきた。
11.昔語り(年老いた妖精)
※映画数百年後捏造、虚淮死ネタ注意
妖精館の居住区域の一角で、時折語られる昔話がある。幼い妖精たちが昔語りをねだるのは、遠い島からやってきたという齢数百年の妖精だ。小柄な背中を丸め、皺の刻まれた口元を少し笑ったようにしている。老婆のようないで立ちは、本人曰く省エネなんだそうだ。ゆっくりと語る声はまるでやわらかな子守歌のようで、波の音に抱かれて揺蕩っているような心持になる。
その日もその妖精は、幼い妖精たちに囲まれていた。どんなお話がいいんだい? と問う妖精に、誰かがふしぎな話! と声を上げた。妖精は幼い妖精たちを愛おしそうに見つめ、それから少し黙って、何かを思い出すように目を閉じてから、ゆっくりと語り始めた。
私の育ったところは遠い遠い南の島でね。白い砂浜に緑の蔦が這って、桃色の花がたくさん咲いていた。浜には波の音しかしない、とても静かな場所だったよ。浜の裏には森が広がっていてね。むかぁしむかし人間が作った石の建物なんかがあったけど、人間はひとっこひとりいない。大きな樹が生い茂っていて、石は苔に覆われて、そりゃあきれいなところだったんだ。少しだけど妖精もいてね。みんな思い思いに暮らしていた。ところがある日、島に妖精館の職員という妖精がやってきた。見たこともない大きな生き物に乗ってね。妖精館の妖精はこう言った。「ここはもう人間の土地になった。あなたたちはここを出なければならない」それから手を差し伸べて、妖精館で一緒に暮らしませんか、と笑った。私たちがぽかんとしていると、その妖精はすぐに決めなくてもいい、と言った。明日には人間が来るから、よく考えてください。また参りますのでその時にどうするか伺います。
その後、その妖精の言う通り、人間がたくさんやってきた。木を切り倒し、地面を土でも石でもないもので埋め、鉄でできた建物をみるみる作り上げていった。妖精館の職員はしばらくしてまたやってきた。どうしますか。このままここに住みますか。私たちと一緒に来ますか。私は人間が来てから数日間逃げまどう生活をしていたからね、もうとてもここにいることはできないと思ってね。妖精館に行くことにしたんだ。島にいた他の妖精の多くは同意見でね、島にいたほとんどの妖精は一緒にいくことになった。ただひとり、あの妖精だけは行かなかったんだよなぁ。ああ。あのきれいな妖精のことは今でも憶えている。青い髪に青い肌で、大きな二本の角があって、よく水の上に立ってじっとしていた。長いこと同じ島で暮らしていたはずなのに、話したことはあの時一度きりだった。あの日、私が一緒に行きましょう、と言ったら。あの妖精は静かに、私はもうどこへも行かない、と言ったんだった。その時すでにあの島には、もう何も残っていなかった。あるのは人間の持ち込んだ機械ばかりで、石は砕かれ木も草も剥ぎ取られた後だった。でも私は、その妖精のきっぱりとした様子にそれ以上誘えなかったんだ。なんとなくわかってしまったからね。何を言ってもその意志は変わらないだろうということがね。それでもね、出発当日の朝、私はやっぱり気が変わったりしてないだろうかと思って、最後に一度だけ、とその妖精のところに行ったんだ。こんなに荒れ果ててしまった島に、その妖精だけ残していくのはやっぱり心苦しかったからね。そうしたらね。もうその妖精はどこにもいなくて、代わりにその妖精がいた場所にはひと抱えの氷の塊があった。朝の太陽に照らされて濡れた表面がきらきらと光を反射していて、そしてその真ん中に、――驚いたことに――小さな芽が生え出ていたんだ。土じゃない、氷の中にだよ。
人間の持ち込んだ黒と灰色の世界の中で、そこだけが神々しい絵のようで、私は涙が込み上げたんだ。でも不思議だよね。あの妖精はたぶん氷の妖精だ。氷の妖精は、水を操ったり凍らせることはできても、植物を育てることができるなんてのは聞いたことがない。でもあの妖精が消滅したであろう跡には、今まさに萌え出たような新芽が確かに存在したんだ。あの妖精は一体何者だったんだろうね。あれはとっても不思議で、哀しい出来事だったねぇ。
12.昔話(虚淮・子风息)
「虚淮、見て見て!」
袖を引っ張る風息についていくと、黒々とした山の斜面に、柔らかな黄緑色が点在していた。それは、うっそりと低い灰色の空から白いものが舞い落ちるかどうかという今の季節には明らかに場違いな、萌え出たばかりの双葉だった。
「見ててね、いくよ」
手を離した風息は地面にうずくまり、両手をふわりと土にかざした。息をつめ真剣な面持ちで念を込めている。黙って見ていると、ぽん、と音を立てて新芽が顔を出し、さらにするすると茎が伸びて、二枚の小さな葉が左右に開いた。
「見た!? 虚淮! すごいでしょ!」
額に汗を光らせて、風息が満面の笑みで振り返る。いつのまにこんな力が使えるようになったのだろう。つい先日まで飛び跳ね回る毛玉だったのに、成長とはこんなものか。期待に溢れた眼差しで顔を覗き込む風息に、虚淮はすごいな、と言った。
「……本当だ。疑うな」
心からの発言だったが、表情筋を動かす経験が乏しいせいで、平坦な低音と相まって、心にもないことを言っているように見えたらしい。風息がじっとりと不満そうな視線を向けてくる。虚淮はしゃがんでやると言葉を重ねた。
「それは、どうやってやったんだ?」
「あのね、土の中にはたくさんたくさん種が埋まってるの。その種に、出てこーい、出てこーいって呼びかけるんだよ」
「ほう」
「それでね、うーんって出てきたら、今度は頑張れ、頑張れ、って応援してあげるの! そうすると葉っぱが伸びてきて、ぱかっと開くんだよ!」
芽を模したふうにしゃがんだ姿勢からうーんと伸びをして、風息が得意げに両手を広げた。
「そうか。すごいな」
表情は今度もあまり動かなかったが、風息は満足そうに口角を上げて息を吐いた。気温が低いせいで、風息の吐く息は白く空中に溶けていく。ほよんほよんと生まれ漂う精霊に混じって、雪がふわりと落ちてきた。
夜が来て朝になった。東の空が白みはじめ、やわらかく積もった雪の上に太陽がゆるゆると色を刷いていく。何色とも形容し難い光彩に森じゅうが染まり、一瞬後には見慣れた雪景色が現れる。雪は結局夜通し降ったようで、綿帽子をかぶった枝々が重たそうにしなっている。日なたに張り出した枝の雪は、まもなく太陽に溶けだしてぽたりぽたりと下方の雪に穴を穿つだろう。虚淮が雪の上にじっと立って気を集めていると、寝床の方角から悲痛な叫びが響いてきた。ああああああ! と言うが早いか飛んできたのは、黒い獣のかたちに変化した風息だ。
「どうした、騒々しい」
「だって虚淮、こんなに雪が積もって……!」
風息が雪を見るのは初めてではない。初めて見た時はそれはそれははしゃいで面白かったが、今では雪の存在にも慣れ、雪の性質もある程度は――触ると冷たいとか、温めると溶けるとか――理解している。そうか、と虚淮が眉を解くのを待たずに、風息は昨日の場所へ急行した。
虚淮が追い付くと、風息は雪に膝をついてうなだれていた。なだらかな斜面にはふっくらと雪が積もり、芽が存在した形跡は全くない。芽吹いたばかりの、虚淮の小指の爪の先ほどもない小さな小さな双葉だった。完全に季節を無視した芽吹きは、雪の冷たさと重みに果たして耐えられているのだろうか。確かこの辺だったよね、と風息が前脚で雪を掘ろうとするのを、虚淮が止めた。
「掘ってどうする。もう寒さと重さで駄目になっているかもしれない。まだ生きていたとしても、どこにあるのかお前にわかるのか。不用意に掘ってその爪でひっかいては逆に傷つけてしまうだろう」
「でも」
「こんな真冬に生えさせたお前が悪い。諦めろ」
「だって……」
接続詞を発したまま、風息の唇はわなわなと震え出した。じっと地面を見つめた両目から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。
やれやれ、と虚淮は思った。風息は赤くなった頬のまま、しかし泣き声はぐっと堪えて立ち尽くしている。声を上げるのは恥ずかしいと思っているのかもしれない。あれこれ思いを巡らせた挙句に良策なしと結論付けたのか、風息は垂れた鼻水もそのままに振り向いてしゃくりあげながら言った。
「……虚淮、どう、すれば、いい?」
「お前はどうしたいんだ」
「おれ、助けたい……あの芽を、助けたい」
「わかった」
虚淮は両手を広げて雪原に手をかざすと、ゆっくりと手のひらを返しながら腕を天に向かって上げた。辺り一帯の雪が虚淮の手に集まり、雪のなくなった地面の中に、昨日芽吹いたいくつかがぽつりぽつりと現れる。しかしほとんどの芽は虚淮の言った通り、雪の重さと冷たさに耐えきれず、べったりと地面に伸びてしまっていた。風息はひとつひとつ指先で確認し、折れてしまった幼い茎を見ては悲しい顔をいっそう悲壮に歪めていく。まあ、仕方のないことだ。虚淮が溜息をついた瞬間、風息は「あ!!」と大声を上げた。
「見て虚淮! これはまだ生きてるよ!」
覗き込むとひとつだけ、ゆっくりと双葉をもたげる芽があった。茎は曲がってはいるが折れてはいない。顔を輝かせる風息に虚淮が問う。
「しかしどうする? このままここに置いておけばまた雪に見舞われるかもしれない。掘って寝床に持ち帰ってもいいが、そうすると太陽の光を浴びることができなくなる」
それに、木は土に根を張って生きるものだろう? 虚淮が眉を上げて言うと、しばし考えていた風息がぱっと顔を上げた。じゃあさ、と風息が言った。
「虚淮が持ってて! おれが初めて育てた芽、春になったらまた土に戻せるように!」
やがて時が過ぎ春が来ると、風息は水を得た魚のようにあちこち駆け回っては山の芽吹きを手伝ってやっていた。その頃には、生まれた芽を大きく成長させることもできるようになり、育てる場所も注意深く選ぶようになった。そうして春が終わり夏が来て、また冬が過ぎて春になった。風息はどんどんできることが増える自分の能力をためすのに夢中で、虚淮に預けた芽のことはすっかり忘れているようだった。虚淮も特に何も言わなかった。
かくして風息の初めての新芽は、虚淮の霊域の中でその姿を保ったまま、何百年の時を過ごすこととなるのだった。
気が遠くなるほど昔のことのような気もするし、かと思えばつい先日の出来事のような気もする。虚淮は、広大な霊域の中で凍りつかせた、かつての姿そのままの小さな双葉に目を細めた。昔の話だ。とるに足らない。
ただ、それがかつて確かにあったのだという――あの小さな風息は確かに存在したのだという――証を確かめたくて、虚淮は時々それを眺めに行く。
昔の話だ。昔々の。
13.その夜明け(虚淮)
捕縛された虚淮が連れて行かれたのは、どこぞのビルの屋上だった。妖精館の妖精が立ち並び、皆険しい顔をしている。彼らの囲んだ中央には、先に捕縛されていた仲間たちが居た。膝をついて俯いていた洛竹は虚淮に気づくと泣きそうな顔で腰を浮かせ、天虎は大きな身体をみじろぎさせた。目で頷いてやってから黒い半球に目を遣る。明けはじめた夜の薄青い空の下。
辿り着きたかった。辿り着けなかった。静かに奥歯を噛み締めていると、突然半球が消え、周りの妖精がざわつく。寡黙な虚淮の代わりに、洛竹が小さく息をつくように、風息、と呟いた。楽園の礎はかくもあっけなく潰えた。
――と、伏せかけた目が動くものを捉えた。巨大な樹がするすると天に向かって伸びている。あれは領界のあった場所だ。本来の樹の成長を何百倍速にもしたような、急激な繁茂に目を瞠る。そこからほとばしる霊力は、この世の誰よりも知っている。
虚淮はすべてを悟った。
それからふと、この霊域に預かったあの日の双葉を思った。
昔々、春になったら植えるのだと言っていたのに、結局忘れたままだった。まったくしょうのないやつだ。
かつて風息は、地面の中に呼びかけて植物を起こすのだと言った。それから成長を応援してやるのだと。あの時の小さな手と、小さな新芽が脳裏によみがえる。それから、我慢の限界だと思い詰めた顔をして、膝に置かれた大きな手。目の前では森のごとき堂々とした大樹が朝の風に枝を広げている。ずいぶんと大きな樹を育てられるようなったな、と場違いなことが頭に浮かんだ。
それから、風息がこの手に残したものを思った。結局自分は、風息に「わかった」と言うことしかできないのだ。あとは任せろと。心配しなくていいと。
まったく、しょうのないやつだ。
変わらない表情のまま、虚淮は長いため息をついた。
14.知道了(虚淮)
風息は「ごめんな」と言う時、決まって同じ顔をする。
よく動く眉を少し下げて、まつ毛の影をごくごく僅かに頬に落として、口元にほんの少しだけ困ったような笑みを浮かべて。
その台詞は「ごめんな」ではなく「悪い」の時もあったし、謝罪ではなく「いいか?」と許可を求める時もあった。しかしいずれも意味するところは同じで、いつなんどきでも虚淮のこたえは「わかった」なのだった。
わかっているのだからそんなにいちいち言わなくてもいいと思うのだが、答えのわかっている謝罪を、もしくは問いを、風息は律儀に繰り返す。繰り返すが、腹の底では知っているのだ。虚淮が風息の謝罪を受け入れないことなどあり得ないと。風息がどんな判断をしようとも、否定するという選択肢は絶対にないと。
お前がお前のまま生きるために必要ならば、私は何度でも言うだろう。
世界の全てがお前に背を向けたとしても、私は常に同じくここに在ろう。
お前の意思を、判断を、その結果引き起こされた全てに、私はすべて許諾しよう。
たとえそのせいでお前を喪うことになったとしても、
それがお前の在り方であり、これが私の在り方だから。
15.妖精の味方
顔を見た瞬間、頭に血が昇った。
漆黒の長い髪、手首に巻かれた鈍色の金属、冷たく鋭い両眼、表情のない顔。思えばこいつと初対面だった時、俺は何も知らなかった。何も。なんにも。
がしゃん、という大きな音が耳に入り、気づけば牢の格子の間から伸ばした手でその胸倉を掴んでいた。その顔面を痛いほどに睨みつける。
「無限……!」
無限。最強の執行人。人間とは思えない実力を持つ。兄の声が耳によみがえり、捕縛されてから聞かされた執行人からの情報が重なる。――無限は最強の執行人。妖精の味方。妖精との共存のために尽力している、人間。
「お前……風息に、何をした!?」
掴んで引き寄せようとするが、無限はぴくりとも動かない。後ろで手を組んだまま、冷酷な目が見下ろしている。無限が動かないので、自分の方が鉄柵にぶち当たる。洛竹は構わず、噛み付かんばかりに顔を近づけて激昂した。
「風息に何をした!? なんで! お前妖精の味方なんだろ!? 最強なんだろ!? なんで助けてくれなかったんだよ! そこに居たのに、なんで見殺しにしたんだよ! なんで今風息はいないんだよ! なんでだよ!!」
無限は目を逸らさずに、されるがままになっていた。長いこと沈黙していた無限が、言い訳はしない、とぼそりと言い、怒りと涙で顔じゅうぐしゃぐしゃになった洛竹が動きを止めた。
「風息はそう言った。私も、言い訳はしない」
無限が去った後も、洛竹は格子に縋ったまましゃがみ込んでじっと動かなかった。
風息は言い訳はしないと言ったという。そして無限もまた。ふたりがそうである以上、洛竹は自身を省みざるを得なかった。無限に放った自分の言葉が刃となって胸を刺す。
俺は風息に何をした? ――なにもわかってなかったくせに。
風息の味方だったんだろう? ――なのになんでここに居る?
修行して強くなったんじゃなかったのか? ――なんの力にもなれなかったくせに。
なんで助けられなかった? ――あんなにそば居たのに。
なんで見殺しにした。なんで力になれなかった。なんで助けられなかった。なんでだよ。なんで――
「くそ……っ」
洛竹は震えるこぶしを冷たい床に打ちつけた。何度も、何度も。
16.おなじかまのめし(洛竹)
かつかつと無機質な足音が遠のいていくのを、洛竹は背中で聞いていた。
食事はいるかと聞きに来た妖精の言葉に視線ひとつ遣らずに無言を貫くと、妖精はしばらく無言で佇んだのち、気が変わったらいつでも言うよう言い置いて去った。昨日来た妖精は、この牢は適度な気の補給ができるようになっていると言った。ならば食事だなんだといちいち聞かなくてもよかろうにと思う。罪人相手にご丁寧なことだ。
洛竹のいる牢は暗くて冷たくて静かだった。隣にも反対隣にも牢が連なっているようだったが、結界が張られているのか一切の気配がない。格子のはまった扉に石の寝台、扉と反対側にある窓はとても高い位置に、申し訳程度についているのみだ。小さく切り取られた空が、牢の中で唯一変化するものだった。
いっそあのまま殺してくれればよかったのに。
立てた片膝に顔を埋めて、もう何度反芻したかしれない言葉を浮かべる。住処を奪われ家族と引き離されたまま、こんな場所で生きながらえるのはうんざりだった。それだけならまだしも、人間に与する連中の理論を植え付けられ連中のいいように生かされ続けることを考えると、吐き気のする思いだった。気を補給できるような環境を用意されて、さらに望めば食事がもらえるなんて。その裏におぞましいものがあるように思えて身の毛がよだつ。
そもそも洛竹は、食事などなくても問題なかった。虚淮も風息も、天虎だって別に食べなくても生きていける。食事はただの娯楽だった。
はじめに食事というものを持ち込んだのは風息だった。人間の里に下りるのが好きだった風息は、人間社会で見聞きしたものを自分たちにも取り入れたがった。洛竹は興味津々でその話を聞いたものだった。
「人間にはたいてい『家族』というものがあるらしい」
「かぞく?」
「動物と同じように親から子が生まれ、子がまた子を産み、それらが一緒に住んで一緒にすごしたり、食べたり、寝たりするらしい」
「いっしょに遊んだり寝たりするならおれたちとおんなじだね?」
「そうだな。俺たち妖精には血のつながりというのはないけど、虚淮と俺は昔からずっといるし、洛竹も天虎も生まれた頃から俺たちと一緒だからな」
「わーい、おれたちは『かぞく』だ!!」
またある時、風息は新しい『家族』の話を持ってきた。
「おなじかまのめし?」
何かの呪文のような言葉を、風息は頷きながら教えてくれた。同じ場所で作った食べ物を一緒に食べて、酒を飲みかわすことだという。そして、同じ釜の飯を食べて仲良くなったら、それは血のつながりがなくても『家族同然』なんだそうだ。
「へえ。じゃあおれたちも『ちのつながり』はないけど、いっしょに『おなじかまのめし』を食べたらほんとの『かぞく』になれるっていうこと?」
そんなことしなくても俺たちは家族だけど、と風息はにっこり笑った。せっかくだからやってみようか、と。その日は虚淮も一緒になって『おなじかまのめし』をやるためにせっせと準備をした。人間のような釜はない代わりに、取った魚や拝借した肉を枝に刺し、木の実を集めた。虚淮が大きな植物の種をふたつに割って水を注いで、それを酒の代わりにした。最近口から炎を出せるようになった天虎が肉と魚を焼いてみると、ほっぺたがおちるほどうまいことがわかった。
俺たちは生きるために食べる必要はなかったけど、その時食べた食べ物の旨かったこと、たらふく食べて満ち足りた腹、家族になるんだという高揚感は今でも鮮明に覚えている。心ゆくまで食べて飲んで騒いだあとにみんなで身を寄せ合って、胸の奥がほかほかしたまま眠りについた。木々の間から見える星空、あの安らかで満たされた夜は、もう二度と返らない。
小さな四角に切り取られた空が見える。
今日は曇っているのか、月も星も見えない。何も見えない。
(……なんでだよ、風息)
どこへともなく兄の名がこぼれた。血の繋がらない兄。同じ釜の飯を食べた兄。
(俺、風息のいない世界なんて知らないのに)
ずるずると横たわると、石の床が冷たい。
身体をねじって真上を向くと、暗い天井が迫って見えた。
17.あにおとうと(映画何十年後の天虎、洛竹)
龍遊市郊外の森の一番高い樹にのぼると、天虎はいつもするように東の空を眺めた。
はるか向こうに小さく見えるビル群の、さらに向こうに大きく繁ったせいの高い樹が見える。かつて兄弟とともに館に戦いを挑んだ龍遊の都の中心。そしてそこは、兄の没した場所だ。
この森には妖精がたくさんいる。人間に擬態できず、天空の館に住まうことも望まなかった妖精たちの森だ。動物よりも妖精のほうが多いくらいで、初めは驚いたがもう慣れた。ここは館の監視下の森なのだと釈放の時に聞いた。特殊な結界が張られていて、人間は入ってこられない。囲ってあるわけではないが、入る気がなくなったり、入ってもすぐに外に出てしまうような仕掛けになっているとのことだった。ここから出なければ自由に暮らしていいことになっている。兄が聞いたら怒りそうという気もするが、天虎は今の生活をまずまず気に入っていた。気に入ったと思おうとしていた、というのが正しいかもしれない。ここにいれば人間におびやかされることもないし、ここに留まってさえいれば不自由はない。すっかり人間の街になってしまった故郷に何も思わないではないが、何かことを起こして他の兄まで失ったらと思うと、まったくもって、ここで大人しくしているほうがましなのだった。
人間に化けることができない自分だったが、この姿は存外気に入っている。時に小さくなることもある。小さいほうが便利な場合――たとえばすぐ上の兄と街に出る時なんか――は、兄が抱えられるくらいに小さく変化して人間の子供が持つ『ぬいぐるみ』に化ける。動いてはいけないのでちょっと気を遣うが、昔に戻った気分でなかなか楽しい。とはいえ、大きな体のほうが楽なので、普段はこの格好だ。大きななりは都会には窮屈だが、昔は抱き上げてもらってばかりだった自分が、今では兄を抱きとめることもできるのはなんとも誇らしい。龍遊市街で暮らしている洛竹は、時々天虎のところに遊びに来る。ある時は寂しくなかったか? と朗らかに笑いながら、ある時はおいしいものが手に入ったから、と食べ物を片手に。
その日も天虎は森に近づいてくる洛竹の気配を感じると、大きな体のまま身軽に飛び跳ねて樹から降り、森の入口まで迎えに行った。洛竹は人間に擬態して暮らしている時は人間のような服を着ているが、この森に入る時は、島にいた時の恰好に戻っている。以前なんでかと尋ねたら、なんでだろうなと洛竹は笑った。戦うのを、完全に止めたら、いけない気がしてるのかも。口元は笑っていたけれど、伏せた目に喪った兄の面影が重なった。人間の街で人間のように暮らしていても、隠された森でありのままに暮らしていても、まったくの元通りというわけではないのだ。兄の欠けた場所は、今もなお欠けたままだ。ここまで来るのに何十年、戦いをやめてもいいのだと思えるまでにはもう何十年かかかるだろう。それでもいい。兄には自分がいるし、自分には兄がいる。
いつもの姿で駆けて来た兄は、森の入口に立つ自分に、そのままの勢いで飛びついた。兄が全力で飛びつける毛皮と体躯。こんなふうに受け止めるなんて、ヒト型の妖精には真似できないことだ。そのまま毛皮の中に抱きしめてやると、「やっぱり天虎はいいなぁ。森の匂いがする」と兄が笑う。ぎゅっと瞑った目やこっそりすすった洟には気づかなかったふりをして、兄が身じろぎするまでずっと、森の匂いで包んでやった。