@shikanoko_aki
「もう!子上くんなんて知らない!!」
「待て、元姫。話をき……」
それは弟の司馬昭とその妻・王元姫の声だった。司馬昭の声は相変わらずの淡々としたトーン。と思いきや、わずかに焦りを感じる。
王元姫はと言えば、いつも通り元気いっぱい。ではあるが、どこか穏やかではない。お互いに声を荒げているところから、口論になっているのではないかと推測された。
「離婚だ!離婚してやるーー!!」
穏やかではないセリフと共に、目にも止まらぬ速さでそれは司馬師の目の前を横切って行った。すれ違いざま、長くさらりと綺麗な髪が一瞬、その指を掠めた。
「………何やら、物騒な単語が聞こえてきた気がしたが」
「兄上」
努めて明るく微笑んで見せれば、対照的に、司馬昭は力なくその表情に影を落とした。珍しいこともある。と、司馬師は思う。弟は喜怒哀楽の、特に怒と哀の部分に関しては滅多に面へ出すことがなかった。
「珍しいな。お前が夫婦喧嘩か」
「大したことではないのです。お恥ずかしいところをお見せしました……」
大したことではないとは到底思えない表情をしていることに、どうやら司馬昭は気が付いていないらしい。眉間に皺を寄せて難しい顔をしている弟を、不謹慎ながら司馬師は可愛いと感じてしまうのだった。
「フフッ。どうだ、わたしに相談してみては」
「い、いえ。兄上の手を煩わせるほどの案件ではありません。……ただの痴話喧嘩です」
弟が痴話喧嘩をするようなタイプではないことを、兄である司馬師はよく知っていた。愛想はないが要領は良い。その上、妻は大らかで気立ても良い。この二人が、そう頻繁に衝突するとは考え難かった。
「まあ、良いではないか。たまには、わたしに兄らしいことをさせてくれ」
更に一歩、司馬師が踏み入ったところで、ようやく司馬昭はおずおずと事の経緯を語り始める。
実の兄弟にさえ、ここまで遠慮がちな弟がどれだけ妻に本心を吐露できているのだろうか。余計なお世話と知りつつも、司馬師は少し心配してしまうのだった。
「……俺が悪いのです。約束を反故にしてしまったから」
「約束?」
コクリと弟は頷く。五日後に家族で久しぶりの遠出をしようかと、提案したのは司馬昭からだったそうだ。王元姫はたいそう喜んだ。付き合いの浅い司馬師にとて、その様子は容易に想像ができた。
「しかし、確かその日は……」
「はい。父上から急な呼び出しが」
今朝方、父から兄弟への招集があった。いわゆる、家族会議のようなものだ。と言えば聞こえはいいが、今後の進退についての密談といったところだろうか。
曹叡の死後、司馬家の周囲は常に不穏だった。表面上は平和にも見えるが、呑気に一家団欒を楽しんでいる場合ではないのである。
「……こんな時だからこそ、大事にしても良いのではないか。家族の時間を」
「兄上。ですが………」
そうと知りつつも、司馬師は理性的な意見を棄却して、あえて感情論を述べた。己の生き死にとて、明日はどうなるかも分からない。だからこそ、妻や子を優先したいと思うのも人の情。
「父に言い難いのであれば、わたしからそれとなく伝えてやろうか」
司馬師と司馬昭の父は厳格な性格ではあるが、存外に家族の調和を重んじる。それは内輪から綻びが出ることを、最も嫌っているかのようにも見えた。
「……いえ。やはり、自分の口で伝えます」
少し考え込むような間を置いて、司馬昭は兄に告げる。その表情にもはや影は落ちていなかった。だから、司馬師はフッと微笑み応える。
「そうか。ならば、わたしが介入するのは野暮というものだな」
「……兄上。ありがとうございます」
恐らく、事は良い方に転ぶだろうという気がした。なにせ、弟は要領が良いのだから。あとはどれだけ、心の内を面に出せるかということだけ。
「まだ、拗ねているのか。元姫」
「子上くん……」
王元姫はうじうじと、部屋のすみっこで膝を抱えていた。いつも明るい彼女にしては珍しい。よほど落ち込んでいたのだろう。その原因が自分にあると思えば、司馬昭の心も痛むというもの。
「例の件なのだが、その…悪かっ……」
「ごめんね!子上くん!」
司馬昭が謝罪の言葉を口にしようとしたその瞬間、王元姫の声がそれをかき消す。予想外にも先に謝られてしまったことで、司馬昭は思わずその先に続くセリフを飲み込んでしまった。
「大事な用事があるんだって、分かってるのに。わがまま言っちゃったね……」
「元姫……」
無理をしたぎこちない笑顔。明るい笑顔を絶やさない彼女だからこそ、余計にその表情が司馬昭の胸をつんざく。
「いや。俺の方こそ、悪かった。一度した約束を、反故にするべきではなかった」
「もう、いいよ。気にしないで!今がすごく大事な時期だってことは、私もよく分かってるから」
その微笑みは優しいものへと変化していた。どうやら、本当にもう怒ってはいないらしい。ただ少し、まだ心に寂しさが残っているだけで。
「……父には、きちんと話して了承を得てきた。予定通り、炎も連れてどこかへ出かけるか」
「本当にいいの?」
途端に王元姫の瞳が期待に潤む。ころころと表情を変え、喜怒哀楽を面に出す彼女は素直に可愛らしく思えた。
あらゆる点で、王元姫は司馬昭と正反対だった。だから、時々ふと考えてしまう。彼女は自分といて楽しいのだろうかと。
「ああ。事はそう、急には動かない。今はまだ、平和な時を楽しもう」
「子上くん……!」
ギュッと王元姫は司馬昭に抱きつく。その華奢な身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、強く。彼女の過剰な愛情表現に戸惑いながらも、司馬昭はやんわりとその身体を抱き締め返した。
自ら是が非でもと求めた妻ではなかったが、司馬昭は王元姫を思いの外に気に入っていた。夫としての義務などではない。素直に心から、彼女を守りたいという気持ちが存在していた。
「お前の笑顔を守るのは、俺の役目だ。……そのためにも、動かねばならぬ時が来る。そうしたらまた、寂しい思いをさせるかもしれないが」
仮初めの平和は長くは続かないだろう。現に、権力をほしいままにしている曹爽は愚鈍であった。
「……子上くんってさ。たまに、ものすごーく恥ずかしいセリフを真顔で言うよね」
「そうだろうか……?」
王元姫は喜怒哀楽のどれでもない顔をしていた。その頬は、わずかに紅潮している。熱でもあるのかと司馬昭が額に手を当ててみれば、彼女は不満げに唇をへの字に曲げた。
「お前の悲しむ顔は、できれば見たくはない。それだけだ」
「もー!恥ずかしいセリフ禁止!!」
「……?」
機嫌を直してくれたのかと思いきや、何故だかまた彼女を怒らせてしまったようだ。けれど、司馬昭にはその原因が、全く検討もつかないのだった。
「父上。子上は……」
「子上はおらぬ。今日は妻と出かけるそうでな。仲睦まじくやっているようで、何よりだ」
父はいたって平静と、司馬師の問いに答えた。司馬昭に欠席を許したということは、やはり本日の招集はさほど重要な案件ではなかったのだろう。恐らくは、近況と今後の立ち回りについて伝える程度だろうか。
「子上には王氏の娘は合わぬかと危惧していたが、存外分からぬものよな。男女というものは」
「正反対なのが、逆に良いのかもしれませんね。子上には足りないものを補ってくれている」
司馬昭の夫婦仲に、父が危ぶむような不安はない。兄の目から見ても、彼らの関係は至って良好で。どちらかと言えば、危険視されるべきは己の方。
「……どうなのだ。お前の方は」
当然、父もそれを理解していないはずがなかった。墓穴を掘ったと言うべきか。妻の話題を出されるのは、司馬師にとって少々頭の痛いことだった。
「……彼女はよくやってくれていますよ。至らない点があるとするならば、むしろわたしの方だ」
「ほう……」
父の反応を見てから、司馬師は自分の失態に気付く。無意識に夏侯徽を庇うような発言をしてしまったこと。それを父は夫としての建前と捉えるか、それとも……
「お前に非はない。子元。これは言うなれば、わたしの失策よ」
はっきり、父は失策と述べた。司馬師と夏侯徽の婚姻のことを。まるで、それが間違いであったかのように。
「お前に夏侯の娘など嫁がせるべきではなかったか」
「………」
独り言のようなその発言へ、上手い切り返しが咄嗟に思い付かず、司馬師はただ口を噤む。夏侯家と司馬家の関係は、もはや一触即発。恐らく、修復は不可能で、お互いに我を通す限りは近々崩壊するだろう。
そうなった時、彼女はどうなるだろうか。司馬家と夏侯家の板挟みとなって、その進退を求められる。
「そう遠くない未来、彼らとは袂を別つ」
本来であれば、夫である司馬師が夏侯徽を守るべき立場である。が、司馬師には恐らく出来ることは何もない。父がそれを望まぬ限りは。
「まあ、覚悟はしておきなさい。波風立たずに事が済むことだけはあるまいて」
「………はい」
努めて淡々と、司馬師は返事をした。父の意向に逆らうという選択は、自分の中には存在しないから。多分、それは夏侯徽も同じで。彼女と司馬師はよく似ていた。子が親と家の為に尽くすことに、何の不満も疑いもないところとか。似すぎているから、上手くいかなかった。弟夫婦とは反対に。
本当に自分に非はなかっただろうか。父の話に相槌を打ちながら、司馬師は頭に片隅にて思考する。もし、己がもっとうまく立ち回れていたならば。そんなことを考えたとて、既に何もかも遅すぎたのだろう。