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労咳屋敷

全体公開 大逆転裁判 4 2 10466文字
2021-10-04 00:12:48

亜双義の家へ挨拶に行く話

Posted by @fengli25

 帝都にある亜双義の屋敷には、立派な松の木が何本も植えられている。白塀から顔を出した枝々が、門前までの道のりを行く客人に目配せし、主人より先に会釈する。さながら門番と庭木が一体になったかのような主張の激しさ。きっと主人に似たのだろう。
 見事な松もさることながら、ちょいと下にある瓦屋根もよく手入れされている。話によると、今年の雪解けをきっかけに、ところどころ修繕したばかりなのだそうだ。歩く道すがら、どの瓦が新品のソレなのか、質感の滑らかさから気づいたときなど無性に微笑ましく思ったものだ。アイツも結構マメな奴だと。根雪に埋もれて何も分からなくなっていた冬のうちから、近々職人を呼ぼうと決めていたのかもしれない。
 亜双義は、誰よりもこの屋敷を大事にしていた。ようやく留学先から帰った矢先、少々荒れていた庭先を見た途端、烈火のごとく留守を預けていた庭師へ怒鳴りこみにいったほどだった。
 それも今や、屋敷の内にも外にも、人の姿はない。
 
 成歩堂は門を潜り、亜双義の屋敷へと足を踏み入れる。
 かの主人へ、最期の挨拶をするために。
 
 +++
 はるばる祖国へ戻ってきた亜双義は、存分に蓄えた知識を元に、すぐにでも大審院の検事となるはず、だった。実際は帰国してから一ヶ月は宙ぶらりんの待ちぼうけを喰らう羽目になったとぼやいていたのを聞いている。元は弁護士として英国留学した手前もあって、登用されるまでの手続きが難航したための空白期間だったそうだ。
 一度決まったことを変えるには時間がかかる。たとえ喉から手が出るほど欲しい人材だったとしても、そうやすやすと受け入れるには大審院の大扉は重すぎた。
 こうして走り出しから躓いたものの、まあ仕方あるまい、と一転笑い飛ばした亜双義は、かつて大英帝国の港で剣を掲げ、その切先を交えたときよりも、ひとまわりもふたまわりも大物になっていた。
 そんな彼を、成歩堂は「なんてかっこいい奴なんだ」と、改めて感動しながら見つめたものだった。その頃の自分といえば随分と弱気になってしまっていて、亜双義が帰ってくる便りを何よりの支えとしていたのだから、尚更想いもひとしおといえた。
 
 亜双義が検事として大審院へ戻ってくるより前、一足先に帰国した成歩堂は弁護士として精力的に活動し始めていた。かつて滞在した大英帝国という先進的な舞台と同じように動くには、立場も経験も、環境の整備すらも足りはしない。けれど一つだけ『ほんの些細な』、それでいて『大革命』を成歩堂は成し遂げた。
 法務助士に限り、女人禁制とされる大審院への女性登用を認めさせたのだ。今までの弁護士人生に欠かすことなく法務助士と共にあった成歩堂からしてみれば些細なことだが、女と肩を並べる発想すら持ち得なかった祖国日本の大審院にしてみれば前代未聞の大事件である。
 今に至るまで、司法関係者から市政に渡り、なんたる横暴なんたる蛮行か、と並べた反発の声は未だ収まる気配を見せていない。特に件の大革命を起こすきっかけとなった法務助士、御琴羽寿沙都への風当たりは強くなる一方だった。
 
 あるとき、御琴羽の家が荒らされている、と人づてに聞かされた成歩堂が慌てて現場へ駆けつけ、その悲惨な現場を目の当たりにする一件があった。その惨状たるや、常より穏やかな成歩堂が底知れぬ怒気を露わにするほどだったという。とても口には出せないような光景だったのだ。
 一度は犯行時刻に目星をつけた成歩堂が下手人をひっ捕らえ(実際に捕まえたのは当の法務助士である寿沙都本人だった)、諸々の証拠を手土産に警察へと突き出した。それでも嫌がらせは止まなかった。世間からの逆風は法廷にまで吹き荒れる。大英帝国での実績を盾に、なんとか凌いでいくしかないのが現状だった。
 これが祖国の現実なのか。
 戻って早々、かつて学んだ大国とはまるで違う世界への失望と己の無力さを思い知らされた。あの大探偵が住まう屋根裏部屋で、寿沙都の父より、祖国大審院へ弁護士として来てもらいたい、と熱望されたときから予想はしていたが、ここまで凝り固まった淀みを見る羽目になるとは思い至らなかった。見通しが甘かったとも、受け止める覚悟が足りなかったとも自覚せざるをえなかった。
 かといって諦めるわけにはいかないと己を奮い立たせたのは、誰よりも辛いはずの寿沙都が平静を保っていたからだ。成歩堂のために資料をまとめ、法の知識を隣で補い、共に真実を追い求める。そうして、いつものように笑っている彼女の前で、弱音など吐いていられない。
 成歩堂龍ノ介と御琴羽寿沙都は、たった二人で法廷に立ち続けた。理解のない検事、弱腰の裁判長、謂れのない暴言を吐く傍聴席、その全てに正面から立ち向かった。
 
 それでも。たった一度だけ、信じたはずの依頼人が法廷から逃げ出し、あえなくお縄についた日の夜。御琴羽の家の前で、どうしようもない吹き溜まりを吐き出したことがある。
 
「辛くはありませんか」
 
 誰からも信用されない法廷に立つのは、さぞかし辛いのではないでしょうか。
 そのとき寿沙都は、視線を落とし俯く成歩堂の正面へと静かに立った。
 
「成歩堂さま」
 
 一声かけられ、どうしたものかと不自然な間があく。問いかけた筈のこちら側に差し向けられた呼びかけに思わず怯んでしまったのだ。やむなく顔を上げる。
 一転、世界から音が消えたように思えた。しん、と耳鳴りがするほどに辺りが静まりかえる。目の前の唇から、落ちる声以外は何もない、無音の世界だった。
 寿沙都は微笑んでいた。あの、慈愛の眼差しをもって、傷ついた者の心を確かに見通す目をもって、彼女は成歩堂を見つめていた。
 
「寿沙都は一人ではございません。成歩堂さまがおられます」
………ぼくで、いいのでしょうか」
「成歩堂さまだからこそ、です。たとえ辛くとも、二人で進む道程なら、どこまでも歩いて行けますとも」
 
 だから、お辛いときは声をかけてくださいまし。これからは寿沙都も言葉に出します。共に分かち合いましょう。
 
 今になって、成歩堂は当時を振り返る。かの大英帝国を揺るがした『大事件』で自覚するに至った覚悟。人を傷つけ、法を揺るがし、過去を暴き出してようやく掴んだ真実から逃げない覚悟。全てを一人で抱えこもうと、思いつめていた時期だった。日本男児たる自分ならまだしも、婦女子の身である寿沙都には「さぞかし辛いだろう」と、気に病んでいた時期でもあった。
 しかし、本当に辛いのは問いを投げかけた自分自身だったのだと、あっさり見抜かれてしまった。そして自覚したのだ。この辛さを、失望を、己が無力さを、共に分かち合える存在がいてこそ弁護士として立っていられる。目の前にいる彼女が、どんな嫌がらせを受けようとも、法務助士として立っていられたように。成歩堂が抱いた覚悟は、寿沙都が抱く覚悟でもあった。
 どちらが欠けても成り立たない、二人は共同体だった。
 
 亜双義が帰国するまでの間、幾度となく弁護席に立った大審院の光景を思い出す。あのときは二人だけで立ち向かおうと気負っていたが、もし、検事席に彼がいたなら、どんなに心強かっただろうか。
 屋敷の玄関を避け、庭の玉砂利をそっと踏みしめつつ、ぐるりと奥の間へ回る。外から見た立派な松の木の根元は、青々とした雑草に覆われていた。ところどころに、よくわからない苔がへばりついている。そう遠くないうちに木々の表情を蝕んでいくであろう確かな予兆が見てとれる。成歩堂は視線を逸らし、振り切るかのように奥へ、奥へと進んでいった。
 
 +++
 大学を卒業してからの成歩堂は、専ら御琴羽の家にお邪魔することが多くなっていた。弁護士として活動するに成歩堂の実家は遠すぎたため、というのが理由の一つ。他にも理由がいくつかあるが、一番の決め手は、いつまでも下宿で学生気分に浸るのはどうか、と思いきって出払って手狭な空き部屋に転がりこんだ住居環境に違いなかった。学生どもをえいやと詰めこんだ下宿先すら極楽だったのか、と眼を見張るほどの手狭っぷりだったのだ。こんなところに人が住めるのか? と大家に訴えた時の返し文句は「物置も住めば都だよ」だった。今でもよく覚えている。
 そんな成歩堂の様子に見かねたのか、寿沙都自ら、御琴羽の家を自由に使っても構わないと許可を出した。これがいけなかった。
 法廷に立つ日は必ずといっていいほど、御琴羽の家を二人で出て、同じく二人で帰路につく。三食すべて世話になる日もある。流石にここまで面倒を見てもらうのは申し訳ないと、食費だけでもと渡すときが多々ある。
 二人は近すぎた。留学先でたった二人の異国人同士、身を寄せ合っていた時期とは訳が違う。暫く続いた日々が噂になったのか、御二人はご夫婦なのですか? と、確認される場面が徐々に増えていった。
 最初は二人して大いに戸惑った。
 
 夫婦など、ぼくたちは弁護士と法務助士であって、そのような関係ではありませんよ。
 成歩堂さまの言うとおり、夫婦の契りは交わしておりませんので、そう呼ばれても困ります。
 
 そうやって、あしらいも慣れてきた頃には、お互い『夫婦』について深く考える時間が増えていった。当初は思いもよらなかった指摘への動揺も、よくよく考えれば当然の疑問だったのだ。自分たちは共同体である以前に、男と女だったのだから。
 しかし、成歩堂の中に、寿沙都を嫁に迎え入れようといった発想は、遂に出てこなかった。たとえ夫婦のようなくっつきぶりを種にからかわれた直後、明らかに普段と違う素振りを見せた寿沙都に気づいてしまっても。下手くそに取り繕った笑顔をみせるのが精一杯、といった有様だった。そのたび彼女の瞳の中に、確かな安堵を見つけてしまうのだ。
 自分たちは同じ思いを抱いている。この関係性が壊れてしまう瞬間を、何よりも恐れている。成歩堂は、そう確信していた。
 
 あるとき、寿沙都の父である御琴羽教授に、それとなく発破をかけられたことがあった。
 
 ここを我が家としても構いませんが、しかし。
 あの子もそろそろ良い年頃なのです。
 
 月を肴とした縁側の席で、お猪口と徳利を手に、相伴にあずかったところ先の問いを投げかけられた成歩堂は思わず噴きこぼした酒を拭いつつ眼を泳がせた。どう返したら良いものか、さっぱり見当もつかなかったのだ。
 
「あの子が望むように、幸せになるのなら、どんな道を選んでも構わない。私はそう考えています。何度か家の者に薦められて、見合いの席を設けたらどうか、と話には上がったのですが」
………お見合い、ですか」
 
 酒で赤くなった頰が、心なしか冷えていく。寿沙都が誰とも知らぬ家へ嫁ぐとなったら、果たして、自分は平常でいられるのだろうか。かといって己のものにしたいとも思えないのだ。成歩堂家に嫁がれたとして、果たして今までのように接することができるのだろうか。何にせよ、彼女が望むとなれば賛成も反対もできない。このようなどっちつかずの心で向かうのは、不誠実ではないだろうか。
 明らかに気を落としている成歩堂の横で、お猪口を傍らに置いた御琴羽教授は、浮かぶ月を眺めている。今夜の月は、いつもより少々赤みがかっていた。
 
「しかし、あの子は望まなかった。他の家へ嫁げというなら、法務助士である自分も、共に向かいます。そう言っていました……意味はわかりますね」
「えっ! あ、はい」
「それだけの話です。キミがどのように感じたか、解釈は任せます」
 
 くれぐれも他言無用でお願いしますよ、と念を押された成歩堂は、酒もそこそこにして席を外すことにした。腰を浮かせた成歩堂に対し、御琴羽から、そのまま帰るなり泊まるなり、どちらを選んでも構わないと許可を貰う。いつもの決まり文句だったが、その重みはひたすらに苦痛だった。
 
 今日は手狭っぷりが見事な私室に戻ろう、と借りている部屋から、ある程度私物を取り出す。着替えと資料を風呂敷に纏めている最中、ふと、万年筆がコロリと畳に転がった。そのまま机の下を通りすぎ、奥の柱へと行ってしまう。また遠くに転がったものだ、と追いかけ腰を曲げた成歩堂は、柱の一部に傷らしき跡を見つけた。
 見方によっては、スサト、と読める。その横には一本の横線。どこか見覚えがある跡は、成歩堂の実家の柱にもいくつかあった。あちらにはリユウノスケ、と書かれてあっただろうか。幼い頃、早く背が伸びないものかと印を付けた記憶が蘇る。
 ここは寿沙都さんの部屋だったのだろうか、と跡を辿っていくと、だいぶ上の方にもう一つ、別の名前が刻まれていた。
 見覚えがあるどころではない。よく知っている三文字を目にした途端、成歩堂は血相を変えて逃げ出すように部屋から飛び出した。万年筆と風呂敷を忘れなかったのは奇跡であり、本能でもあった。あの部屋にもう一度戻ろうなんて、考えるだけでも恐ろしく、受け入れがたい責め苦だったのだ。
 
(あぁ、許してくれ。ぼくはそんなつもりじゃなかったんだ)
 
 ───亜双義が眠る部屋は、屋敷の入り口から見て最奥にある。
 といっても庭から回りこめる立地のため、玄関から入らずとも面会できる場所なのだ。このように、人目につかず、その気になればこっそり顔を出せる場所だった。
 目的地の庭先へと数歩足を踏み入れた途端、廊下を挟んだ障子が、ゆっくりと隙間を空けた。まさか他に人がいるのか。肩を強張らせた成歩堂の耳に、こんこんと、か細い咳が届く。
 
「亜双義!?」
 
 下駄を脱ぎ捨て、袴を翻して廊下へと駆け上がった成歩堂の目に、障子のすぐそばで咳き込む親友が映りこんだ。濃い群青色の寝巻きを纏い、腰まで覆う半纏の帯を腹の前で結んでいる。その首には手ぬぐいが巻かれていた。ところどころ赤く染まっている理由を想像するより前に、しゃがみこんだ成歩堂は亜双義の背に腕を回す。
 
「寝ていなければダメじゃないか……ほら、布団に戻るよ」
 
 部屋を見渡せば、障子から布団まで数歩ほどの距離がある。寝巻き合わせの乱れようを見る限り、這ってここまで来たのだろう。股下など目のやりどころに困るほど、おおっぴらにはだけている。どうしてそう無茶をするのだろうか。この男らしいといえば、そうなのだろうけど。
 
…………成歩堂」
 
 多少落ち着いた様子の亜双義から、喘息まじりの声が上がった。数ヶ月ぶりに見た親友の顔は、それもう魚の腹のように、真っ白になっていた。落ち窪んだ目元に影が落ちて、さながら髑髏のように見える。しかし、それでも男前な容姿は相変わらず、それどころか泡雪を連想させる人外じみた色香を感じ取ってしまい、ぞっとした。掠れた声も後押ししているところも、尚更タチが悪い。
 
「よくここまで来たな、薄情者」
……それを言うために、ここまで這ってきたのかよ」
「もちろん。オレ自身、ここまで体力が残っているとは……想像していなかった、が。何とか、なるものだ」
「ほらまた咳が出るから……布団に戻ろう。沢山寝なきゃダメだよ」
 
 随分と軽くなった身体を膝に乗せ、にじり寄るように湿っぽい布団へと横たえる。ヒューヒュー鳴らした喉の下をよく見れば薄く骨が浮き出ている、掛け布団を乗せようとすると「暑い」と抗議の声。そろそろ冷えこんでくる時期だったので、腹のあたりまでかけて、妥協させた。また軽く咳が漏れる。
 
………いつまで、ここにいるつもりだ」
「そんなに長くはいないよ」
「そうか。ならば……さっさと、帰れ。キサマに移ったら死んでも死にきれん」
「御琴羽教授も言ってただろ。明日から伊豆の療養所に向かうって。空気の綺麗な場所に行けば、おまえの病気も、きっと良くなる」
 
 亜双義の屋敷には誰もいない。人を雇うよりも前に、主人が結核で倒れたからだ。正式に検事として登用されてからすぐ、控え室で突如血痰を吐いた亜双義は、そのまま倒れ、とうとう大審院の検事席に立つことなく病床に伏してしまった。夏も終わりにさしかかった頃の出来事だった。
 法医学の権威と呼ばれ、最先端の医療技術にも携わっていた御琴羽教授が治療にあたった際、寿沙都はもちろん、成歩堂まで面会を許されはしなかった。そもそも結核とは何か。御琴羽によると、ここ最近の医学界では結核は遺伝によるものか、または人から人へ移る病と考えられているらしい。一度血を吐いてしまえば、咳と激痛に苛まれながら苦しみ抜いたのち、死に至る。しかし必ず死ぬ病でなければ、かかったとして重症化しない症例もある。まだ手遅れと決まったわけではない。そう説明にあったものの、かといって会わせるにはあまりにも危険すぎると判断したのだろう。なにしろ今の医療技術の中で、結核の特効薬は存在しない。栄養を摂って、空気の綺麗なところで療養するしか治療法はないのだ。
 自宅へ戻ってきた御琴羽教授から、土間へと上がる境でそう聞かされたとき、糸が切れたかのようにがくりと膝を折った寿沙都が床へと泣き崩れ、唇をわななかせた成歩堂は呆然と立ち尽くすしかなかった。寿沙都の悲痛な泣き声が遠い記憶を揺り起こす。
 
『あの地獄のような苦しみを味わうかと思うと』
 
 一度は死んだと思われていた亜双義が生きているかもしれない、そんな可能性から目をそらした寿沙都の、血を滲ませるような吐露だった。あのとき、既に仮面の従者と会っていた成歩堂は、もしかしたらと、どこかで希望を抱いていた。今は違う。亜双義が確かに血を吐いて、その掌や床を汚した様を、自分は見ていたのだ。これは変えようのない事実だ。今になってようやく彼女の慟哭を真に理解した成歩堂は、家にも帰れず、一晩中泣き伏す傍らに付き添ったのだった。
 
 亜双義一真が病に倒れた。大審院で血を吐いたという。人に移る病だと聞いたぞ。噂は瞬く間に広がり、いつしか屋敷の周りから誰も彼もが姿を消していった。
 噂については亜双義の耳にも入っていたらしく、病院であらぬ噂をたてられるよりも、療養所の空きが見つかり次第移れるよう、ひとまず自宅療養としていただきたい、と自分から願い出たという。亜双義たっての希望を聞き入れた御琴羽教授は、日に一度、亜双義の屋敷へと診療へ向かうことを条件に許可を出した。
 つまりは、誰が見張っているわけでもなければ、気づかれなければ責める者もいない。その気になればいつでも会いに行ける。それでも今まで足を運ぼうとしなかった成歩堂が、ここに至って亜双義の屋敷を訪ねることになる。きっかけは、伊豆への転院が決まったのを、御琴羽から聞いた朝だった。
 
 +++
 再び咳こむ様子をよく見ると、眉間のシワがありありと苦痛を訴えていた。結核は、己が身を削って血の混ざる咳を出し続ける病と聞いている。起き上がるのも辛かったろうに、おそらく庭先から聞こえた足音だけで、障子へと手を伸ばしたのだろう。それほど人恋しかったのだろうか。
 うっすらと目を開いた亜双義は、部屋へ入ってすぐの、布団の横に座る成歩堂へ緩く顔を傾けた。色の失せた頰に、血の滲む唇の紅色が、おぞましいほど鮮やかに映えている。しかし彼はかすかに笑みを浮かべるのだ。痛みより喜びが強く表情に出るなんて、やはり、人恋しかったのかしら。
 
「赤子のように、言われるのは……おもしろくないな」
「ぼくの心を読むなよ」
「分かり易すぎるのだ。キサマは……それで……何の、用だ」
………うん」
 
 組んだ足を正した成歩堂は、改めて亜双義へと向き直った。言うか、言うまいか、できることなら墓場まで持って行こうと夢想していた想いを、つまびらかにするときが来たのだ。一呼吸、深く肺に吸いこんで、吐き出す。
 
「寿沙都さんを、ぼくにくれないか」
…………
「ぼくだって男だ。寿沙都さんと共に行くなら、おまえの許可を貰うのが筋だと思って、ここに来たんだ。いきなりで悪いけれども」
…………は」
「亜双義?」
「はっはっはっはっはっ! 言うにことかいて、キサマ、ゲホッ」
「うわああああッ!? ああああ亜双義!! 死んじゃダメだ!!」
 
 身を丸め、とびっきり大きな血痰を吐いた亜双義に、飛び上がるほど動揺した成歩堂は、すぐさま部屋の隅に置かれていた手習い机から、何枚かチリ紙を手に取り、身を乗り出した。口元へ拭う手を弱々しく押し戻される。やめろ、と鋭い視線が突き刺さり、ハッと我に返った。移る病。亜双義は、結核に侵されているのだ。
 奪い取ったチリ紙をその手で握りつぶした亜双義は、ヒューヒューと呼気を漏らし、その身を巣食う痛みと戦っているようだった。見ているだけの自分に出来ることはない。こんなにも辛そうに、苦しんでいる親友がいるというのに。成歩堂の視界がじんわりと滲む。
 ようやく、あの事件から解放された矢先に、どうして彼が苦しまなければならないのだろう。彼が、何をしたというのだろうか。
 そう思ってしまったら止まらなかった。
 
……な、るほどう……?」
……おまえにだけは言っておきたくて。ぼく、ぼくは、本当だったら、夫婦なんて……望んじゃいないんだ」
…………
「このまま、寿沙都さんがぼくの法務助士でいてくれるだけで、よかったんだ……ぼく、ぼ、ぼくはッ」
 
 たった二人で立ち向かう大審院の向かい側に亜双義の姿があったなら、どんなに心強かっただろうと、何度も何度も思い描いて、その帰りをずっと待ち望んでいた。二人で歩いていくには足りやしない。亜双義がいなければ、亜双義がいてくれたなら。きっと、どんな闇も恐ろしくはないのだと、胸を張って言える。
 なのに、おまえがいなくなってしまったら、悲しいじゃないか。寿沙都さんは今も泣いているんだ。ぼくも一人でいるときはボロボロ泣いているんだ。ひどい、あんまりだ、こんなのってない。
 
「嫌だ、嫌だよ……おまえがいなきゃ嫌だ……死ぬなんて言うなよ、もう嫌なんだよ……ぼくたちを置いていかないで……
「死ぬ気などさらさら、ないが」
「さっき死んでも死にきれんとか言ったじゃないかバカヤロウ」
……まぁ、なんだ。チリ紙ならまだあるから、顔を拭け。酷い有様だぞ」
「亜双義のバカヤロウ……
………
 
 しまいには声まであげて泣き始める。大の男が外聞も恥もなく涙をこぼす有様を、亜双義はただ黙って、見守っている。一言も声をかけず、慰めの一挙動も見せず、ひたすら待ち続けた。
 ひとしきり布団の上で泣きはらした成歩堂は、手元に引き寄せたチリ紙を何枚も丸めて、ようやく落ち着いたようだった。真っ赤に腫らした目元が痛々しい。何度も鼻をすすりあげる様子を、亜双義はじっと見つめていた。
 静まりかえった部屋に気まずげな声が落ちる。
 
「取り乱して悪かったよ……ここ最近、バカみたいに涙が出るんだ」
「そうか」
「今言ったことは内緒にしてほしい。寿沙都さんも、それどころじゃないだろうし」
「そうだな……次会うときも、絶対に公言はしないと誓おう。オレは約束を守る男だ」
……次、また会えるよな。約束だよな」
「あぁ、約束だ」
 
 亜双義の言葉を受け、こみ上げる感覚を抑えこむように、袖で目元を拭った成歩堂はそのまま踵を返して部屋を後にした。玉砂利の音が遠のく、かと思いきや引き返し、開けっ放しの障子がそっと閉じられていく。畳に転がったチリ紙の山も片づけてもらいたかったのだが、と言いたげに眉をひそめた亜双義は、ふう、と目を閉じた。
 
 つくづく義理堅い男だ。貰うも何も、あの大英帝国の一件で済んだ話じゃなかったのか。
 ここまで気に病まれると後ろ髪を引かれるなぁ、と咳こむ部屋の中で、亜双義の呟きは霧散した。
 
 思ったより長居してしまった気まずさはそう簡単に終わらなかった。屋敷の門前で、ばったり御琴羽教授と出くわすに至ってしまったのだ。
 人目を避けてこっそり侵入したというのに、最後の最後で見つかってしまうとは中々の運の悪さ。対する発見者も発見者で、思ってもみなかったところから出てきた青年に一瞬固まってしまう。御琴羽は、やれやれと首を振った。
 
「彼と話をしましたか」
「は、はい。亜双義と話をしました!」
 
 直立不動の姿勢のまま、さながら尋問される証人よりも証人らしく答える。成歩堂龍ノ介という男は、妙なところで大胆不敵な行動を取るが、そのくせ妙に、ヘマをやらかした際の開き直り方が実直すぎるのだ。これ以上追求しても何もならない、と判断した御琴羽からの詮索はなく、代わりに今日、帰り次第診察するので必ず御琴羽家に来るように、と釘を刺して終了とまとまった。
 
「くれぐれもあの子には何も言わないように、頼みますよ」
 
 そう言って、御琴羽は屋敷の奥へと消えていった。
 
 立派な松の青々とした葉の向こうは夕焼け色に染まっている。屋敷の奥の部屋で見た血痰よりも、随分と優しい色だった。
 やがて、成歩堂は誰もいない路地へと歩き出す。泣き腫らした目元をどうやって誤魔化すか、我ながら頼りない策をいくつも吟味しつつ、久しぶりに、御琴羽の家へ泊まりに行く。自分の帰りを、他でもない寿沙都が待っているのだから。
 
 次の日の昼前、亜双義は人知れず伊豆へと移っていった。それから数週間は経ったが、御琴羽に訊ねても、寿沙都に確認しても、彼からの便りは来ていない。
 今日も便りはこなかった、と肩を落とした成歩堂は、喉に違和感を覚え、軽く咳をした。


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