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「あっ」
声をかける動作などよりも先に、見かけてしまったことの驚きで声が出てしまった。そしてそんな些細な音でも聞き逃してくれることなく、越知くんは私の方をゆっくりと振り返る。
「…苗字」
「お、お疲れ様」
今日の出来事が頭から離れず、放課後の教室で少し時間を潰していたのが良くなかったのだろう。日は暮れて、天気予報の言葉通りにざっと強く雨が降っていた。どうせいつも通りの時間に帰宅をするだろうと私は傘を持ってきていなかったのだ。友人も帰ってしまっていて、私は校内で雨が止むのを待つ他なかった。
私たち二人きりの昇降口。時刻は放課後になってから随分と経っている。ちらつく蛍光灯だけの光源が私たちの沈黙を浮き彫りにしてしまっていた。
私がぎこちなく部活だったんでしょ?と声をかければ、静かに越知くんはひとつ頷いた。
昼休みのことが脳内でフラッシュバックして、それ以上何も言えなかった。このまま越知くんが帰ってしまえば何も問題などないのだけれど。けれどと続いた思考が、ぽつんと心に落ちた気がした。
「帰らないのか」
「えっ!あ、か、傘を忘れちゃって」
「…予報を見なかったのか」
「見てはいた、んだけど」
言えるはずもない。昼のことを思いつめてしまって帰れなかったのだ、などと。苦笑いしながらその先を濁せば、越知くんはひとつ考えたような仕草をしてから手に握っていた男物の黒い傘を私に突き出した。
「え」
「使うといい。少し大きいかもしれないが」
「越知くんが困るじゃんか」
借りれないよとやんわりそれを押し返せば、彼は外に目をやってからもう一度私の方へ視線を移した。
「家はどっちだ」
「え!?駅の方…そこから少しだけ、二駅くらい、かな」
唐突な質問に戸惑いながら返答すれば、越知くんはもう一度考える仕草をし始めた。
「あのね、もう諦めてここで雨を待つつもりでいたの。弱まるって聞いてたし」
私のそんな言葉に顔を上げて、そうなのかと返事をした越知くんがいよいよ帰ってくれるかと思った私が甘かったのだろう。
「一人で待つつもりなら、一緒にいてもいいだろうか」
そんな意外な一言に面食らってしまった私は、彼の顔を見つめて言葉に詰まる。一体それはどんな気持ちで言っているのか。そしてやはり昼のことが脳内をよぎってしまう。何か話でもあってそう言っているのかもしれないと。
「え…でも、越知くん、遅くなっちゃうよ」
「構わない」
言い切る彼に、更に返答に困ってしまう。私はどうしたらいいのだろう。断る理由もないのが余計に困った事態を作り出していた。そんな私の様子を知ってか知らずか、越知くんは言葉を付け加える。
「こんな時間に一人で帰るのは、危ないだろう」
「そ、っかな」
「ああ」
そうまで言われると観念するしかなかった。じゃあと私が腰を下ろすと、彼も同じように隣へ座った。
ざあざあと振り続ける雨音と、蛍光灯のきらきらとした音が折り重なる。やはり昇降口には私たち二人だけだ。そのまま特に会話をすることなく、私たちはガラスのドア越しに雨を眺めていた。雨を降らす曇り空は鈍く暗いままで、反する校内の明かりがより暗さを際立たせる。
「越知くん」
「なんだ」
「……ありがとう」
なんとなしにお礼を口にしてから、ふと越知くんを見上げれば、昼にかち合った眼光が私を見下ろしていた。その目に見つめられると、あの時と同じように私の体に微熱がこもる。それに気付かないふりをするために、私はついとまた視線を雨に移した。再び二人の間に沈黙が訪れたが、今度は越知くんが口を開いた。
「苗字」
「何?」
もう一度視線を戻して彼を見れば、眼光はそのままに私を見つめていた。呑み込まれてしまうような瞳の奥に、私はまた動けなくなってしまう。すると彼の大きな手のひらが、私の頬にそっと触れた。
「越知、くん?」
そう声で問うも、越知くんは黙って頬に触れたまま私を見つめている。
その時だ。ばりっと昇降口の光源が消えた。
/////////////////
雨が激しく打ち付ける外は、曇天を広げていた。
普段どおりの部活を終えて越知が昇降口で帰り支度をしていると、後方から己の胸にずっと残っている彼女の声が聞こえた。それに抗うことなく振り返れば、気まずさなのか彼女から弱々しくお疲れ様と言われた。
それから彼女の状況を察して越知は傘を差し出したが、申し訳なさそうにする彼女に断られてしまった。しかし越知の胸中では、何故か引き下がるという選択肢が現れなかった。
とにかくこんな天候の中で彼女に無理をしてほしくなかったのだ。傘を差し出せど申し訳ないと断られる。一緒に帰宅をしようかと思えどこのざんざん降りの中では、身長差のある二人の肩がすぐずぶ濡れになってしまうだろうことは簡単に予想できた。無言の中で考えあぐねている越知に、彼女は困ったように笑いながら言った。
「あのね、もう諦めてここで雨を待つつもりでいたの。弱まるって聞いてたし」
そしてそれを聞いて、越知は咄嗟に答えてしまった。
「一人で待つつもりなら、一緒にいてもいいだろうか」
とても驚いた彼女の表情を見てから、越知は自分が何を言ったのかと驚いてしまった。とにかく彼女を一人にしたくなかったのだ。いやあるいは自分が―。
「え…でも、越知くん、遅くなっちゃうよ」
「構わない」
今一度やんわり断ろうとする彼女の姿勢に、越知は言い切った。
「こんな時間に一人で帰るのは、危ないだろう」
「そ、っかな」
「ああ」
尤もらしい理由を述べて、越知は困惑してるだろう彼女を納得させたつもりだった。それは同時に越知自身の胸中を納める言い訳でもあった。そして観念したらしい彼女が遠慮がちにそこへ腰掛けるので、越知もそれに倣い隣に腰掛ける。
昇降口で越知と彼女は腰を下ろし雨が落ち着くのを待っていたが、二人の間には沈黙が流れていた。彼女は特にそれを気にしている様子はなかったが、じっとガラス戸の先で降り続ける雨を見つめているようだった。ひっそり盗み見た横顔が、少しだけ赤いような気がする。それを見て、越知の心頭が切迫した。
昼の出来事が脳裏を過ぎり、鮮明なその時の感覚を思い出させたからだ。そして記憶の中だけにある彼女自身が、今自分の隣に無防備にも小さく座っている。
「越知くん」
「なんだ」
「……ありがとう」
脈絡なく呼ばれた名前に何気なく返事をすると、唐突に礼を述べられた。それはきっと越知の行為に対して発せられた言葉なのだろうが、小さくしかし愛らしく頬を染めた声音は越知の奥に深く突き刺さる。大きな体をも振動させてしまうのではないかと思えるほどの脈拍に越知が少し動揺していると、ふと彼女が顔を上げた。
白い肌が桃色に色づいて、その顔にある潤む大きな双眼が奥深くまで見える。そしてそこには動揺する己が映っていた。混ざり合う視線が、昼のあの時間を思い出させる。
彼女も同じことを思ったのだろうか、ついと逸らされた視線がまた雨に移った。
「苗字」
そのことがひどく残念に思えて、越知は躊躇うことなく彼女の名前を呼んでいた。
「何?」
もう一度向けられた視線が混ざり合った時、その白磁の頬に触れていた。無意識であったが、それをやめようという気にも越知はならなかった。
「越知、くん?」
それは困惑と怯えと、期待の声音。するりと滑る感触の肌を指先に感じて、今一度越知が彼女を捉える。その時、辺りが一瞬で暗闇になった。
「て、停電、かな」
急に暗くなった視界は全く役には立たなかったが、越知のすぐそばから聞こえた鈴のような声を聴覚は認知した。その声には少し張りがない。
「そう、みたいだな」
暗闇の中で、自身の手を戻しながら越知はその声に応えた。慣れてきた視覚でそばをゆっくり見回したが、光源が回復する様子はない。そしてその時ふと見えた自分よりも小柄な彼女の制服が、越知には眩しく見えた。
「苗字」
「何?」
「怖くは、ないか」
彼女が怯えてはいないだろうか。越知が真っ先に思ったことだった。先ほどの声が、そのように越知には感じられていた。逡巡するような衣擦れの音がして、今一度声が聞こえる。
「ううん、大丈夫」
「そうか」
「越知くんがいるから」
付け加えられた一言に、越知の心音が跳ねた。もうすっかり慣れた目で隣の彼女を捉えれば、彼女も越知を見つめているらしかった。微かな外の明かりが、くるりと丸い瞳に反射されている。縁取った瞳の光を認知するよりも前に越知はその手で彼女を抱き寄せた。柔らかで甘やかな体がバランスを崩して、完全に越知へもたれかかってしまう。
「お、越知くん、あの」
「苗字、すまない」
慌てたように言葉を紡ぐ彼女がその謝罪の意味を理解するには至らなかった。それよりも先に、越知が彼女の唇を塞いでしまったから。
暗がりの中に走った小さな電撃が、重なった唇から越知の脳髄へと広がった。かさついた己の唇とは違う感触に越知は誘われるように離してはまた唇を重ねる。
「っ…ふ、ぅ…」
息継ぎを欲しがって薄く開かれた彼女の口に、少々強引に口付ければ悩ましい吐息が漏れた。越知はびりびりと痺れていく背筋に抗えず、幾度もそれを繰り返した。
雨音。吐息。雨音。吐息。
幾度も幾度も繰り返された何回目かに、交じり合う名残惜しい唇をどちらからともなく離す。糸引かれる余韻に、言葉もなく目を合わせたまま。そして越知が再び彼女の香りに誘われた時、ぱっと昇降口が明るくなった。急に開けた視界に目をしかめたが、しかし確かに越知の目には映ってしまった。紅潮する頬と、昼に見たような少女とは違う顔をする彼女が。困ったような顔をして涙に潤う瞳を越知に向けていたが、彼女はそれをついと逸らした。そして小さく小さく呟いた。
「あ、雨……」
それにつられるように越知もガラス戸を見やれば、ざんざん降りの雨音はいつの間にか小雨のようになっていた。
「…帰るか」
「そう、だね」
越知の言葉に促されるように彼女は立ち上がり、スカートの皺を直した。その様子を見ながら呆然としていた越知だったが、振り返った彼女がいつも通りの顔になっていたことに少し驚く。
「越知くん」
「…なんだ」
「ありがとう」
それはまるで何もなかったかのように、しかし彼女はとても綺麗に越知へと笑いかけた。
越知はそれを自覚できなかった。全ての始まりだった。