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ふしぎ遊戯 単発ss1

全体公開 1 3 35518文字
2021-10-07 23:57:46

1. 中秋節 / 張宿と井宿
2. 桃源郷 / 張宿、井宿、翼宿、柳宿、鬼宿、美朱、軫宿
3. 桃源郷2 / 井宿、張宿、翼宿、柳宿、鬼宿、美朱、軫宿、モブ商人
4. 邂逅 / 張宿、井宿、他 ※張宿外伝小説前提
5. 紅い伝承 / 張宿
6. 同行二人 / 井宿、翼宿
7.2025張宿誕生日リメイク140ss / 翼宿、井宿、偽翔、張宿
8. ある朝の話 / 翼宿、張宿、柳宿、鬼宿
9. 中秋節2・3 / 井宿、張宿、義翔
10. マウント合戦(仮) / 軫宿、井宿、昴宿
11. 11/22 / 星宿、張宿
12. 人智を超えた味 / 軫宿、張宿
13. 春のたより / 軫宿、井宿
14.鍋日和 / 井宿、朱雀七星士+美朱
15. 異世界の / 井宿、翼宿、美朱
16. 共犯者 / 井宿、美朱
17. 意味 / 柳宿、張宿
18. 金平糖 / 張宿、軫宿
19. 金平糖2 / 張宿、軫宿
20. チョコレートの祭典 / 柳宿
21. 杏仁豆腐 / 柳宿、美朱

Posted by @satomi8429

1.中秋節

つつましやかな虫の音が断続的に聞こえている。井宿は、使い込まれた座布団の上で組んだ胡坐を解くと、後ろ手をついて視線を上げた。濡れ縁の向こう側、濃紺の空にぽかりと浮かんだ月は、巨大な盆のような存在感で大きく丸く輝いている。それは蒸籠いっぱいに膨らんだ卵入りの蒸し菓子のように、柔らかくて濃いやまぶき色だった。目を閉じると乾いた夜気が瞼に気持ち良い。そうして耳を澄ませていると、背後から小さな足音が近づいて、ことりと盆を置く音がした。
「いい月ですね」
まだ声変わりを迎えていない、しかし随分落ち着いた声に振り向くと、結髪の少年が隣に膝をついて小さな茶器の蓋をつまみ、ほとほとと湯を注いでいた。ほんのり甘い香りが細く立ちのぼり、それからふわりと広がる。茶器の横には、切り分けられた月餅に梨と葡萄が添えてある。
「井宿さんはもっときれいな月をたくさん見られているでしょうけれど」
勧められた茶杯を受け取り、にこりと礼を現わすと、少年もはにかむように微笑んで言った。どちらともなく視線が月に戻っていく。
「確かにいろんな場所でいろんな月を見てきたのだが――
白刃のごとく冴えた月、黄金に輝く巨大な月、満天の星の中に浮かんだ月、こぼれんばかりの花枝の隙間から覗くおぼろ月。旅先で見た月は時に息を呑むほどの迫力だったが、近寄りがたい孤高の存在という態で空に浮かんでいるのが常だった。地を射す光は白銀で、清廉で、取りつく島がない。つめたい土の上にひとりきり――そこには屋根も壁も、心をゆるせる隣人も、胸をほぐす芳香も、熱いお茶もなかった。
「こんなに温かい月は、ものすごく久しぶりなのだ」
今宵の井宿は、皇帝陛下に呼び出され、少年への言付けを仰せつかっただけのはずが、なぜか成り行きで月見をしながらお茶をご馳走になっているのだった。
「明日にはまん丸になりますね。きっともっと良い月になります」
ほんとの中秋節は明日ですからね。そう言った少年は、井宿が喫するのを見届けてから、ゆっくりと茶杯を傾け、甘味を含んで微笑んだ。




2. 桃源郷 / 張宿、井宿、翼宿、柳宿、鬼宿、美朱、軫宿

 顔を上げた瞬間、張宿は目を大きく見開いた。
 緩やかな山道を登った先に広がっていたのは、溢れんばかりの花々だった。淡い空を埋め尽くす桃色が、視界いっぱいに広がっている。柔らかな風に揺れる枝が、桃色の雪を降らせているようだ。大量の花吹雪が周囲の景色を霞ませる。
「うわー! 満開だ~!」
 先を歩いていた美朱が歓声をあげて駆け出す横で、井宿が感嘆のため息をついた。
「すごいのだ……!」
「なんや、いきなり春やな!」
「桃の花か。夏になればひと儲け出来そうだな」
 同じく口をあいて驚いている翼宿の隣で早々に花の種類を鑑別した鬼宿が、早速脳内でそろばんを弾いていた。
「鬼宿、お前の土地ではないだろう……
 振り向いた軫宿の呆れ顔の横で猫がにゃあと鳴き、そんなやりとりは耳に入っていないのであろう柳宿がうっとりと両手の指を組んだ。
「素敵ねぇ、絵になるわ~」
 そうして柳宿が目を輝かせているその向こうに、張宿はちらと光るものを見つけた。目を凝らし耳をそばだてる。
「あの……何か音がしませんか?」
 これは、おそらく。指で示した方向に皆の目が向く。
「あっちの方から、水音、のような」
「行ってみるのだ」
 少し歩くと、徐々に水音が近づいてくる。音を頼りに草を分けて進むと、そこには桃の林を縫うよう走る小さなせせらぎがあった。気持ちよさげな水の中で時折太陽の光を反射しているのは、清流を泳ぐ小魚だろうか。萌え出た若葉が両岸を覆っている。人はなく、水音と鳥の囀りしか聞こえない。桃と水と緑の色が瑞々しく調和した、この世のものではないような美しさ。神々しい、というのが最も適している気がする。
「仙郷……?」
 思わず口をついて出た。仙郷とは、仙の住む郷のことだ。この世ならざる場所。それは作り話とも、彼岸と此岸の境にあるとも言われる場所だ。一度足を踏み入れたらもとの世界には戻れない、戻れたとしてもそこはもう二度と見つけられない場所だとも。
 張宿は唇を引き締め、ぎゅっと両手を握った。そんなところに迷い込んでしまったのだとしたら、朱雀召喚はもとより、家に帰ることもできなくなってしまう。足元がふわふわして、頭がぼうっとする。それでいて心の臓はどくどくと主張している。恐ろしいのだ、と後から自覚する。綺麗すぎて恐ろしい。暗くおどろおどろしいものばかりが恐怖の源ではないのだ。張宿は嫌な感じを払拭するために、唾を飲み込んで周りを見渡した。恐れるな。たとえここがそんな場所なのだとしても、大丈夫、独りではない。
「いや、そういうわけでもなさそうだ」
 ――と、現実的な軫宿の声が張宿の意識を呼び戻した。離れたところを歩いていた軫宿は、斜面の下に広がる景色を一同に示した。桃の花が少しずつ途切れたその合間には、民家の屋根が連なっている。この山のふもとには、人々の生活があるようだった。ということは、まだ、ここは現世だ。途端に安堵が胸に広がる。
「なんだかお弁当でも持って来たいところね」
「いいね~! 朱雀召喚が終わったらまた来よう、みんなで! ね、鬼宿」
 きゃっきゃとはしゃいでいる柳宿と美朱の様子に、張宿の指先にも体温が戻ってきた。楽しげな二人は、こののどかな景色に本当によく似合う。
 ――朱雀召喚が終わったら。
 強国の脅威に晒されているこの現状が打破できたら。故郷が戦火に見舞われることなく、平和を得られたら。そうすれば、きっとこんな平和な風景が維持できるのだ。
「そうですね」
 首を傾げて微笑んだ張宿の目線を、井宿が捉えてにっこりと微笑み返す。
「せやな、早く終わらせて、花見しながら酒盛りや!」
 翼宿が景気良く言い、お花見お花見! と美朱が同調する。
 その日ために、今できることを頑張ろう。朱雀召喚のために、己の成すべきことを。
 顔を上げてそう決意した張宿の足元には、赤々と朱雀の証が輝いていた。



3. 桃源郷2 / 井宿、張宿、翼宿、柳宿、鬼宿、美朱、軫宿、モブ商人

 仙郷、と張宿が呟いた時、おそらく井宿も同じ人物のことを思い出していた。
 花見をしようという話で盛り上がっている一同に微笑みかけつつ、仮面の裏で思いを巡らせる。文学者であり詩人として名高い陶淵明。彼の著書である桃花源記に描かれた理想郷には、匂い立つような桃花に溢れた岸辺と、その向こうに広がるのどかな田園風景があった。しかしそれは、神仙の住まうこの世ならざるものはなく、争いのない世界で穏やかに生きる人々の郷であった。軫宿が示した連なる屋根はここで生活している人間の存在を示唆しているから、確かにここは桃源郷なのかもしれない。――こののどかさが本物であればの話だが。
 井宿は僅かに眉をひそめて周囲を警戒した。より現実的なことを考えるならば、桃源郷そのもののような風景を見せてくる敵方の幻術である危険性もなくはない。幸せな世界を見せておいて油断させる意図の可能性も無視できない。
「井宿ー! こっちこっち! 道があったよ!」
「このまま下れば街に着けそうだ」
 考え込んでいたところへ、美朱の明るい声が割って入った。前を向くと、立ち止まって振り向いた軫宿が続ける。目線を遠くにやれば、なるほど緩やかな傾斜の先に、先程の家々が小さく見えているようだった。
 
「あら、あんなところに露店」
 しばらく歩いたところで、柳宿が立ち止まった。見れば、露店というには貧しい雰囲気の、地面に直接敷いたゴザにあぐらをかいて座った男がこちらを見ていた。くたびれた服装の男は、表情のない皺の刻まれた顔をして無精髭を生やしている。年季の入った様子は仙人に見えなくもないが、それにしてはなんともいえない俗人感が端々から漂っている。おそらくは、旅の者をつかまえては品物を売りつけるような輩だろう。彼の目の前に積まれているのは、目の覚めるような、大ぶりで黄色の果実だった。
「どうだい旅の人。今の時期しかない縁起モンだよ」
 男は果実を手に持って掲げると、突然愛想を良くして言った。
「おっちゃんこの辺の人なんか?」
「ああ、この山のふもとに住んどる」
「縁起物、とは……?」
 顎に手をやりながら軫宿が覗き込む。漢方のひとつに柑橘類の皮を利用したものがあるから、そのへんの知識を手繰りながら質問しているのかもしれない。
「これはな、『神さまの落とし物』。春先に出る甘夏柑だ」
 男が得意げに述べる。決まり文句なのだろう。
「この辺では春が来ると、春風と一緒に山の神さまが村に降りてくる。神さまは風のように一瞬で行ってしまうが、その通った後には甘夏柑が落ちているんだ。で、それを拾ったものには幸運がもたらされるという言い伝えがあるんだよ」
「でも、これが『神さまが落としていったもの』ってわけじゃないんでしょ?」
 柳宿が腕を組んで訝しんだ。立て掛けられた看板には、ひと山ではなく一個の値段が書かれている。
「せやで、おっちゃん。なんぼなんでも一個でこれは高すぎや」
 すごみのある翼宿の様子にまるで怯む様子もなく、男はにこやかに続けた。
「ああ。だがこの辺りの村ではその言い伝えにあやかって、この時期に甘夏柑を食べると良いことがある、と言われているんだ」
 ほれ、嗅いでみろ、と目の前に差し出された張宿が鼻をうごめかし、いい匂いですね、と清々しい表情を浮かべている。美味しそ~う! と目に星を浮かべた美朱が口元を緩ませている。井宿がよくよく気を凝らしても、怪しい気配は感じられない。
 ――杞憂だったか。
 井宿はいつの間にか力の入っていた肩から力を抜いた。俗世を離れた桃源郷を模した幻術かと警戒したが、俗人の住む村に隣接した、ただの桃畑だったようだ。伝承にかこつけて旅人相手にぼったくろうとする人間がいるのも、現実みがありすぎる。それに、桃花源記は作り話だが、古くからの言い伝えという話はそれより信用できる気がする。
「では、人数分頂くのだ」
「まいどあり!」
 井宿は懐から財布を出すと、男に貨幣を手渡した。
「たくさん買うから負けてほしいのだ」
「しょうがないな、どこぞの坊さん。特別に半額にしてやるよ」
 井宿が釣りを受けとり、皆がひとつずつ果実を受け取った。
「この道を下れば村に出る。遅くなるとやっかいだから、村の宿屋に泊まっていきな。俺の弟がやってる宿屋だからな、安くしとくよ」
 がははと笑う男に当たり障りない礼を告げ、一同は先へ進んだ。親切心と見せかけて、実際は金儲け目的なのだろう。ぼったくった金は、今日の夕飯になるのかもしれない。
 戦も争いもない、あこぎな商売をせずとも人々が腹いっぱい食べられる、住む人みなが穏やかで平和な、本物の桃源郷。朱雀を召喚することができたら、実現も可能なんだろうか。手に持った『神さまの落とし物』を眺めながら、井宿は未来へ想いを馳せた。



4. 邂逅 / 張宿、井宿、他 ※張宿外伝小説前提

「井宿さん、なにかおかしいです」
 陽の沈みかけた砂丘を駆ける蹄の音に負けじと、張宿はしがみついたその背の主に声を張り上げた。
「どうしたのだ?」
 手綱を緩めた井宿が振り返る。
 左右を走る軫宿と翼宿もそれに気づいて速度を落とした。
「僕たちはあの寺院に向かっているんですよね。それなのに、行けども行けども寺院が遠ざかっていくようです」
 目的地を目指しているはずが、なぜだか道を逸れているように感じる。ほんのわずかだったが、なんだか胸のざわつく違和感があった。いや、そもそも道などないのだが。
「確かに、妙なのだ」
 訝しむ井宿の横顔が険しい。例えば青龍側の術の可能性──先日の術者は倒したはずだが、他にもどんな術者がいるのかは皆目見当がつかない──、例えば砂塵が惑わす目の錯覚、例えば未知の地形、例えば砂漠の性質。様々な可能性に思いを巡らせているのであろう。かく言う張宿もまた、同様に思考を回転させていた。しかしこの状況を打開する有効な策は出てこない。
 遠くにぼうっと浮かび上がる寺院は、禍々しい気を漂わせている。
 それはわかるが、そこへたどり着く方法がわからない。
 ──と、張宿の視界にひとりの人影が映った。沈みゆく太陽の方角だ。逆光でよく見えないが、黒っぽい布を被り、小さな体に不釣り合いなほどの巨大なかごを手に持ってひとりぽつんと佇んでいる。
「あの」
 頭で考えるよりも先に声が出ていた。
 人影は張宿の声に振り向くと、その顔を見上げ息を呑んだように動きを止めた。
 こんな砂漠でよく知らぬ身なりの人間にいきなり声をかけられたのだ。驚くのも無理はない。張宿は怪しまれないようになるべく穏やかな口調を作って人影に話しかけた。不審がられることを気にしている場合ではない。
「あの寺院に行くにはどう行ったらいいかわかりますか? 僕たちさっきから向かっているんですけど、なんだか離れていっているように思えて」
 人影は我に返ったようにびくりとし、それから、意を決したような様子で、す、と指を伸ばした。張宿たちの向かっていた方角と垂直に交わる方向を指している。
「ここは、惑わせの谷と言われる場所です。このまま進むとどんどん離れていってしまいます。私の指す方向にまっすぐ向かってみてください。この窪地を抜ければ、寺院には間もなく着けるはずです」
 ささやかな鈴の音のような、それでいて凛とした声がそう告げた。
 小柄なこの人影は、張宿とそう変わらない年恰好の少女のようだ。布に身を隠すようにして立っている見ず知らずの少女の声に、しかし張宿は胸を掴まれていた。少女の声は、砂漠を彷徨い乾いた喉に染みわたる清涼な水のように、張宿の体に染みわたった。懐かしいような、ほんのり甘いような、それでいてきゅうっと胸を締め付けるような。
「ありがとうなのだ。教えてくれて助かったのだ」
 無言の張宿の後を引き取って井宿が少女に礼を言う。それに気づいた張宿は、慌てて井宿に続いた。
「ありがとうございます」
 ぴょこんと頭を下げると、筆の穂先のような髪の毛が一緒にぴょこんと揺れた。
「あ、あの」
 少女が慌てたように一歩踏み込み、覗き込む大きな目と張宿の両目の視線が重なる。
「どうぞ、あなたにご武運がありますように」
 硬い声で少女が言い、張宿の頭は突然湧き上がった疑問符で埋め尽くされた。
 なんで武運などと言うのだろう。自分たちが何をしに行くか知っているのだろうか。というか、自分が何者か知っているのだろうか。それより、自分はこの少女を知っているのだろうか。無論初めて会う相手だ。この国で会ったことがあるのは白虎の老夫妻だけだ。砂漠をひとりぼっちで歩く少女のことを、知っているはずがない。それなのにこの感じはなんだろう。この温かな感じは。涙が出そうに懐かしい感じは。頭で考えるより先に体に染みわたるこの感じは。
「ありがとうございます。あなたにも、幸運がありますように」
 頭の中は大混乱のはずなのに、張宿の口は勝手にそう動いていた。
「張宿、急ぐで」
 翼宿が言い、井宿が馬の向きを変える。軫宿は既に目指す方向へ馬を進めている。
 急に戻ってきた現実に、張宿は自分の両手で自分の頬をぱちんと叩いた。そうだ。今すべきことを成さねば。自分の使命を果たさねば。
「はい。井宿さん、お願いします」
「しっかり捕まっているのだ」
 頭を切り替えねば。自分たちはこれから敵陣に行くのだから。
 張宿はそう唇を噛むと、井宿の後ろで件の寺院をぎゅっと睨んだ。



5. 紅い伝承 / 張宿

 むかしむかしあるところに、小さな男の子がおりました。
 男の子は年のはなれたお兄さんと、お母さんと、三人でくらしていました。
 男の子のお父さんは男の子がもっと小さなころに亡くなってしまいましたので、お母さんははたらきながらふたりの男の子を大事に大事に育てました。お兄さんはもう大きかったので、お母さんを助けていっしょにはたらきました。おかげで、男の子の家はお金もちではありませんでしたが、その日のしょくじに困ることはありませんでした。
 男の子の家には、お父さんののこしたたくさんの本がありました。お父さんは生きていたころとても『ものしり』で、たくさんべんきょうをしておりましたので、お兄さんも男の子もお父さんからいろんなことを教わりました。お父さんはわからないことは本でしらべることも教えてくれました。お父さんとの時間は、みじかいながらもとても楽しいものでした。だから男の子にとって、本はかぞくや友だちのような、とても親しいそんざいでした。
 少し大きくなった男の子は、べんきょうをしたいと思うようになりました。たくさんべんきょうして、おとなになってしごとをして、たくさんお金をかせいで、お母さんやお兄さんに楽をさせてあげたかったのです。お母さんやお兄さんはいつもやさしくて、いつも男の子のためになることをしてくれました。だから男の子は、こんどは自分がお母さんやお兄さんにいろいろしてあげたい、と思っていました。男の子は家でおてつだいをしながら、そしてときどき本をながめながら、そんなしょうらいを夢見ていました。
 
 ある日男の子がひとりでおつかいに出かけると、道のとちゅうで大きな朱い鳥に出会いました。朱い鳥は、男の子に向かってこう言いました。
「そなたは、えらばれし童である。われはそなたに、たぐいまれなる知力をさずけよう」
 男の子はいみがよくわからなくてだまっていました。
「その力、わが国のためにつかうべし」
 朱い鳥はそう言うと飛んでいってしまいました。
 男の子が家にかえると、いつものようにお母さんがまっていました。男の子はいつものように、しごとからかえってきたお兄さんとお母さんとごはんを食べてねむりました。男の子は朱い鳥のことを話そうと思いましたが、なんとなく話せずじまいでした。
 
 次の日、男の子はいつものようにお父さんのへやに行きました。そしてよみかけの本を手にとると、なんということでしょう。今までわからなかったことが、わかるではありませんか。
 男の子は、日がくれて暗くなりお母さんがよびにくるまで、読んで読んで読みつづけました。読めば読むほど世界がひろがって、時間をわすれるほど楽しかったのです。
 朱い鳥が言っていたのはこのことだったのでしょうか。
 男の子はしあわせでした。本をよむのが、今までよりもっともっと楽しくなりました。
 ときどき、つきものが落ちたように、わかっていたことがわからなくなることもありました。でも男の子は気にしませんでした。男の子にとっては、それはそれでその時間も、楽しい時間だったからです。
 ところが、その楽しい時間はあまり長くはつづきませんでした。
 男の子の知力は、ある時はとどまるところを知らずどこまでものびていき、ある時はほとんど何も考えがうかばないほどにちぢんでしまうのでした。知力がない時、それは今までとなんらかわりのない、へいぼんでなきむしな男の子なのでした。かつて、男の子はそれでしあわせでした。でも、知力がある時を知ってしまった男の子は、ない時の自分を歯がゆく思うようになりました。できる自分を知ってしまったから、できない自分がとてもつらくなったのです。
 男の子がつらいのはそれだけではありませんでした。
 知力のある時というのは前ぶれもなくとつぜんおとずれ、また前ぶれもなく去っていきました。とてもかしこいことを言っていたかと思うと、次のしゅんかんには何もわからなくなっている男の子に、まわりの人はささやきました。
 あの子は何かにつかれているのではないか。
『にじゅうじんかく』なんじゃないか。
 それは男の子の耳にも入り、男の子はとてもかなしくなりました。自分でもなんでこんなことがおこるのかわからなかったからです。
 男の子は、知力のない時の自分をなさけなく思うようになりました。そんな中でも、男の子のお母さんとお兄さんはいままでとかわらずあたたかくやさしくしてくれたので、男の子はお家にいるときはいくぶんかなぐさめられるのでした。
 
 そんな折、男の子の耳にとある話がとびこんできました。
 国の王さまが、ふしぎな力をもつ者をさがしているというのです。
 男の子はこまりました。男の子の知力はたしかに抜きんでたものです。でも、いつもそうというわけではないのです。手を上げて出て行っても、知力のない時は、ただのごくふつうの童でしかないのです。
 王さまは、これは国のききであると言いました。
 それをすくうためにふしぎな力をもつ者の力をかりたいのだと。
 出て行って、やくにたたないとわかったら?
 まわりの人から言われるのとおなじように、うそつきだとののしられたら?
 そうしたら、自分も、そしてお母さんやお兄さんまでもろうやに入れられてしまうかもしれない。それはそうぞうするだに、ふるえ上がるほどおそろしいことでした。
 それに、お母さんやお兄さんのいる家をはなれて自分ひとりでやっていくなんてとてもできない、という思いもありました。このあたたかいばしょをすてるだなんて。そう思うと、男の子はとてもつらくかなしく、そして苦しいきもちになりました。
 知力のある時、男の子は知ってしまったのです。
 この、国どうしのあらそいには、勝ち目はほとんどないこと。
 男の子の国はとても小さく、ふみこまれたらひとたまりもないということ。
 国をすくうために出ていくというのは、行きの食料しかもたずに海へ出るようなものだということ。
 行けば、きっと家には二度と帰れない。
 でも、ここで行かなければかならず国はたおれてしまう。
 万にひとつののぞみをかけて、出ていくことが良いのか。
 お母さんやお兄さんをかなしませることになるだけではないのか。
 行かなければ。行くしかない。行きたくない。
 行きたくない。行くしかない。行かなければ。
 男の子は何日もぐるぐるとなやみました。
 
 そして、ある晩。
 男の子はあの時の朱い鳥がにわにいるのを見つけました。
 朱い鳥は男の子をじっと見ると、何も言わずにとんでいきました。
 
 朱い鳥が空たかく消えていったあとには、
 秩序ただしくならんだ星がきらきらときらめいて、男の子を見おろしていました。



6. 同行二人 / 井宿、翼宿

 あれから何年の月日が経っただろう。
 国は順調に復興し、都に立つ市は賑やかな商人とその客とで溢れ返っている。
 久しぶりに都の地を踏んだ井宿は、人混みに揉まれながら目的の茶屋の前にたどり着くと、笠をずらしてほうと息をついた。少し前まで冬だったというのに。暦が春に変わった途端、暖かい日差しが容赦なく降り注ぎ、人混みにいると汗ばむほどだ。おおらかに人々を照らす太陽をさけ、店の軒下で仮面の下の目を細める。日陰はほっとする。
 井宿は店の主人に待ち合わせだと告げ、軒先の椅子に腰掛けて道ゆく人間を眺めた。待ち人は、山賊でもあるかつての仲間だ。最後に会った時は橙の髪を逆立てていたが、最近はどうなっているのだろう。まあ、目立つ頭がなかったとしても、周りに決して溶け込まぬ、目を引く雰囲気の男だからきっとすぐにわかるだろう。
「井宿! 久しぶりやな!」
 まもなく現れた件の人物は、以前と同じ獅子のような髪を揺らしてこちらへ近づいてきた。相変わらず存在感がやかましい……いや、焔のように力強い、とでも言おうか。
「翼宿、久しぶりなのだ」
 隣の椅子に腰掛ける翼宿を懐かしく眺める。筋肉質で体格のがっしりした、しかし中身は少年のように天真爛漫な、かつての翼宿そのままだ。息災か、と明るく問うのにゆっくりと頷いてみせる。
「翼宿こそ、変わらないのだ」
 
 二人で向かった先は、柳宿の墓だった。
 あれから柳宿の家族は、北甲国まで使いをやって、遺体を連れ帰ってきたらしい。街から離れた一角にあるその墓に、花を供えて手を合わす。
 久しぶりに墓参りツアーせんか? と誘われたのが数ヶ月前。梅の咲く頃、仲間の墓参りをしようという提案に、井宿は二つ返事で諾の意を返したのだった。命を落とした仲間は、それぞれ家族が供養してくれている。しかし、七星士として共に過ごし、七星士としての勇姿を残して逝った仲間を仲間として供養できる人間は、もうこの世界に自分たちしかいない。
 柳宿の墓に線香をあげ、比較的近くにある張宿の墓にも手を合わせ、星宿の墓……にはいくらなんでも一般人は近づけないので墓所の外側から拝み――七星士として正式に依頼すれば入れるのだろうが、それに付随してくるであろう歓待の数々を考えると気が引ける、というのが、二人の経験からくる結論だった――、最後に宮殿の裏手にひっそりと立つ供養墓地で軫宿の墓に手を合わせた。
 軫宿の墓からの帰り道、翼宿がふと呟いた。
「なぁ、……お前、まだ『あれ』使うてなかったんやな」
「あれ?」
 首を傾げると、翼宿が軫宿からもろたあれやあれ、と手でその形を示してみせる。
 井宿は意図を理解し、ぴたりと張り付いた仮面に手をやった。お参りの時は毎回仮面を外していたので、その度に気になっていたのだろう。
 仮面の中の、当時からずっと変わっていない、傷と隻眼。
「この傷は、このままでいいのだ。傷も、片目も、自分がしたことの証。忘れないための戒めなのだ」
 親友のことも、恋人のことも、自分の罪も、生涯忘れないための。
「せやけど、そのままだと不便やろ。なくせる不便はなくした方がええで」
「別にいいのだ。もう慣れたのだ」
 翼宿がため息をつき、目尻を落として自分を見る。聞き分けのない子供に困っているようなその顔つきに、なんだかちぐはぐな気持ちになった。立場が逆転したような、妙にきまりの悪い空気が流れる。
「足が悪なったら杖をつくし、目ぇ悪なったら眼鏡をかけるやろ。それはなんも悪いことちゃうで。欠けたもん補ってるだけや」
 補えないもんもぎょうさんあるやろけどな、元に戻せるもんだってあるんやから。
 そう言いながら振り返る翼宿の視線の先には、亡き軫宿の墓が、そして亡くなった仲間たちや親しい者が見えているのであろう。変わらないと思っていたが、やはり数年分の年月を経た大人の横顔がそこにあった。
 どこかで鴉がかぁと鳴き、隣で翼宿が頭をガシガシと掻いた。
「だいたい、忘れないため言うけどなぁ、お前みたいにじめじめ後ろ髪引かれまくってるような性質のやつが、忘れるなんて一生無理やろ。それに、忘れないことと不便を解消することは別やと思うけどな」
「別……?」
「過去を忘れないことと、未来を少し楽に生きられるようにすることは、両立できるで」
 よくわからない。これは、この不便を含めて戒めなのだ。償いであり、過去を切り離さないための。
「お前が傷を治したって、視力を戻したって、過去を忘れることにはならない。ただ、生活がしやすくなる。それは、ええことなんちゃうかな」
 戻らない過去も、戻らない人もある。だから、戻せるものは戻してもいいのだと。
 軫宿の神水は、いつも大事に持ち歩いていた。軫宿の形見だからだ。だが自分は、失ったものと罪悪感とを抱えたまま、はたして新しく始めることができるのだろうか。元の機能に戻った自分の姿で生きていくことを、自分は許してやれるのだろうか。
 俯いていると、翼宿がいきなりバン! と肩を叩いてにやりと笑んだ。
「ま、最後はお前が決めることやしな。俺がとやかく言うても仕方ないこっちゃ」
「痛いのだ」
 井宿の苦情を意に介さずに、翼宿は続けて豪快に笑った。
「せやせや。戒めが足りん思たら、俺が半分引き受けたるわ。俺が忘れないようにしたる。やから、どうや」
……考えておくのだ」
 そんなむちゃくちゃな、と思いながらも、井宿の唇はほんのわずかにほころんだ。するのかしないのかは置いておくにしても、このあっけらかんとした明快さには救われる。
「あー、腹減ったなぁ。なあ井宿、この辺になんやうまい店あるか?」
「もう少し行った先に、食堂があるのだ」
「よっしゃ! 今日はあいつらの分までがっつり食うで~!」
 いつもがっつり食べてるのだ……と呟きながら視線を上げれば、太陽はすでに地平に沈みかけている。ずんずん進む翼宿の後ろをゆっくりと歩きながら、井宿はふと軫宿の言葉を思い出していた。
 ――いつか時が過ぎて心が落ち着いた時に、よかったら使え。
 布越しに小瓶に触れる。無私無欲で、いつも周りを気にかけ、身を削って他者を救おうとした仲間の彼が、その心遣いとともに井宿に残したものだ。
 きっと心配されていたのだと、今は思う。
 目を元に戻すことは、全てをまっさらにして生き直すことなわけではないと、翼宿は言う。今の自分には、過去を精算し前を向いて歩いていくなんて、おこがましくてとてもできないけれど。けれどいつか。いつか、時が来たら。
「井宿~! これどっちや。こっちか?」
 気づけば翼宿は先の分かれ道に立ち、手を振っていた。
「そっちじゃないのだ!」
 慌てて応え、小走りに追いかける。
 袈裟をなびかせる井宿の背を、夕暮れの風が優しくそっと撫でていった。


7.2025張宿誕生日リメイク140ss / 翼宿、井宿、偽翔、張宿

「もう葉桜ですね」
「ええやないか」
 桜は満開が美しいだの散りざまが潔いだの言うらしいが、そんなものに興味はない。儚い花より力強い葉の方が好きなのだ。夏に向かってぐんぐん伸びるみずみずしい命。
「花より団子や」
 言うより先に、二人分の酒を注ぎつつにやりと笑う。
「あの僕まだ」
「硬いこと言うなや」

ーーー

「うわぁ井宿さん、来てくれたんですね!」
 晴れ着の裾を翻して若者が駆け寄った。
 小さかった彼も今では並べば視線を上げねばならぬほどで、そんな背丈ではしゃぐと目立つのだと思いつつ、ついつい口元が緩む。
「お久しぶりです」
 成人の儀に来るようここ半年依頼し続けた彼の兄も、同じ笑顔で会釈した。
「だって井宿さんいつもすぐいなくなっちゃうんだもの」
 はしゃぎすぎだと笑って諌めると、張宿は子どものように頬を膨らませた。
『こうでもしないとまたどこかに行ってしまうでしょう?』とことあるごとに言い、とうとう約束を取り付けてしまった彼の兄と同じことを言う。
「本当に、君たちには敵わないのだ」

ーーー

 三十歳か、と問うと、男は柔らかに口元を緩めた。
「はい、おかげさまで」
「時が経つのは早いのだ」
「そうですね」
 丁寧なのに堅苦しさを与えない、少年の頃の面影そのままだ。
 そう思ってふっと目を細めると、男も応えるようにふわりと笑った。
「じゃあ、三十歳の誕生日に」
 盃を渡すと、自分も軽く持ち上げる。
「乾杯」



8. ある朝の話 / 翼宿、張宿、柳宿、鬼宿

 それは、宿で出された食事をとっている時だった。
「翼宿さんって、食べ方がきれいですよね」
 隣でゆっくりと咀嚼していた張宿が、飲み込んでからそう呟いた。
「なっ……
 不意打ちすぎて手が止まる。
「なんや、藪から棒に」
 今日の食事の主菜は魚で、それも骨まで食べられるような小魚ではなく、海で獲れたような大きめの魚の姿焼きだった。張宿の手元を見ると、張宿もまたきれいに身を剥がし、骨を避けながら食べている。
「確かに! あんた、見かけによらずきれいに食べるわよねぇ」
 柳宿が向かいから覗き込み、周囲の仲間たちがつられて翼宿の手元に目を向けた。
「なんやなんや、お前ら。俺をなんやと思とんねん」
 辟易しながら声を上げると、鬼宿が斜め向こうからもっともらしく「だってよ」と言う。この響きは、柳宿への同意だ。翼宿はむっと片眉を上げた。
「お前山賊だったんだろ。山賊っつったら、こう、豪快に肉にかぶりついてるとかそういうイメージじゃねーか」
「やかましいわ!こちとら姉貴が五人もおんねんぞ。やれ箸の持ち方がおかしいだの、やれ行儀が悪いだの、いちいちいちいちどつかれとったら、こんくらいになるわ」
 そう言うと、翼宿はわざと行儀の悪い手つきで、付け合わせの野菜に箸をぐさりと突き刺した。──と、その瞬間、耳元でキンキンした突き刺さるような声が響いた。
「刺し箸すんな、このあほたれが!」
 ハリセンの飛んでくるようなスパーン!とした勢いに、背筋がぞわりと粟立ち、翼宿は慌てて箸を引き抜く。幻聴だ。ここに姉がいるはずがないのだから。
 実家にいた頃は、食べ物を刺せばどつかれ、食べ物を口に入れたまま喋ればゲンコツをくらい、魚のほぐし方が少しでも汚いと薪拾いだの畑の収穫だのを余分に──なぜか姉たちの担当分まで──させられた。初めは反抗していた翼宿も、いつしか乱暴に刷り込まれた行儀作法が身体に染みつき、今となっては無意識にでも手が動く。いかつい風貌に山賊然とした声音とは、確かにミスマッチなのだろう。山ではよく山賊仲間にもからかわれていた。
「なんや、文句あるか!?」
 なんだか恥ずかしくなって、あえて乱暴にそう言葉を投げる。
 だが隣にかけた年下の仲間は、あろうことか少し恥ずかしそうに微笑んで首を傾げた。
「いえ、箸の所作は僕も兄に教わったので……おそろい、嬉しいです」
 そう言う張宿はきっと、こんな風ではなく、優しく普通に教わったのだろう。生育環境の差は大きいのだろうが、張宿がおそろいだと喜んでくれるのなら、どつかれまくった甲斐もあるというものだ。
「まあ、それなら、ええわ」
「なーに照れてんのよ」
「照れてへんわい!」



9. 中秋節2•3 / 井宿、張宿、義翔

 どれくらいそうしていただろう。
 ゆったりと浮かぶ月を眺めながら、静かにこぼれる言葉のやりとりが夜に溶けていく。
 すっかりくつろいだ気持ちで最後の一服を飲み終えると、井宿は息をついて腰を上げた。久しぶりの、穏やかで心地よい夜だった。心からの感謝をこめて張宿に微笑む。
「すっかり長居してしまったのだ。とても良い夜だったのだ」
「え、井宿さん……?」
 何か言いたげな張宿に笑みだけを投げると、井宿は立てかけてあった錫杖を手に取った。そうしてさっき入ってきた同じ場所から濡れ縁に出ようとした、その瞬間││。
「道輝、風呂を沸かしたから、お客様に入ってもらいなさい」
 背後の扉がスッと開き、そこにいたのは張宿の兄だった。
 父が早くに亡くなったので、兄の義翔は父代わりでもあるのだと張宿から聞いていた。自分と同じくらいの年恰好の、物腰の柔らかい男だ。笑った横顔は、造作は似ていないものの、雰囲気は張宿にそっくりだった。
「いや、あの、オイラはもうお暇するのだ。ごちそうさまなのだ」
 義翔に向かって頭を下げ、顔を上げると張宿の縋るような目に出会ってしまった。
 もう帰るのか? とその大きな目が言っている。
「またそのうちどこかで、なの……だ!?」
 一方的に別れの挨拶をして立ち去ろうとしたその時。
 縁側から地面へ踏み出そうとした視線の先には、さっき脱いだはずの靴が跡形もなくなくなっていたのだ。驚きのあまり声が裏返る。靴が消えるはずなどない。だがここへ来てから今まで、誰もここを通ってはいないはずだ。
……これは、どういう……?」
 わけがわからず張宿を振り返ると、張宿は縋るような目はそのままに口を開いた。
「最近は夜露もありますし、さっき玄関に移動させておいたんです」
 まずかったですか? と小首を傾げる張宿に慌てて手を振る。
「そ、そうだったのだ。気を遣わせてすまなかったのだ。そしたら申し訳ないのだが、ちょっと玄関まで家の中を通らせてもらうのだ」
 方向転換をして入り口へ向かおうとすると、眉をハの字にした義翔と視線がぶつかる。
「え、帰られるんですか? もう?」
 信じられない、という顔で義翔が咎める。やはり造作はそんなに似ていないのだが、張宿そっくりの雰囲気でそう言われると、なんだかたじたじとしてしまう。二の句がつげないまま張宿を振り返ると、こちらは見慣れた張宿の顔が、やはり眉をハの字にして自分を見つめている。
「せっかくいらっしゃったのに……帰っちゃうなんて寂しいです」
 同じ表情の二人に挟まれ、井宿はその場に立ち尽くしたまま肩を落とすしかなかった。
……わ、わかったのだ……
 
 かくして井宿は、張宿の家で一夜を過ごすことに相成ったのであった。

___


 すっかり夜も更けた頃。
 井宿は窓越しに差し込む月明かりと、それに照らされて安らかに寝息を立てる張宿の顔とを眺めながら、穏やかにため息をついた。
 あの後、張宿と義翔の視線に負けて一番風呂に入らされ、風呂から出たら食事ができていた。今度こそ遠慮をしようと試みたが、張宿の母││こちらは張宿によく似た顔面に穏やかな笑顔││に押し切られる形で食事までご馳走になってしまった。その後も折を見ては暇を告げようと試みたが、全く押しが強そうにも見えないのに、実際のところとても押しの強い三人に流されて、気づけばこんな時間になってしまっていた。
 ││昔みたいで懐かしいですね。
 先刻、二組敷かれた客布団に寝転び、解いた結髪を揺らしながら、張宿がそう微笑んだ。食事が済んだ張宿が母親に、自分も客間に布団を敷いて寝てもいいかと聞いていたのを思い出す。旅を終えて、だいぶ大人びたと思っていた張宿だったが、そうやってせがむところはまだまだ子供で愛らしい。確かに旅の間は、ちゃんとした宿が取れた時以外は全員で雑魚寝だったな、と思い出しては微笑んだ。
 しゃべり疲れて寝入ってしまった張宿の肩に布団をかけ直すと、井宿は自分の布団をそっと畳んだ。自分の服を着、借りた着物を畳んで置くと、音を立てずに廊下に出る。
 朝、張宿は目を覚ましたら落胆するかもしれない。
 そう思うと少しだけ胸が痛むが、これでもだいぶ長居をしてしまったのだから仕方がない。ひとつのところに長く居るわけにはいかないのだ。
 心の中で別れを告げて、そろそろと扉を閉める。││と、暗い廊下に一部屋だけ、灯りのついている部屋が見えた。義翔が起きているのだろうか。見つからないように通り過ぎなければ。井宿はひっそりと気合を入れ、音を立てずに廊下を歩いた。
 灯りのついているその部屋は、さっき月見をした小さな部屋で、先刻と同様に開け放した縁側からだいぶ傾いた月が見えている。あまりの月の大きさに、井宿は気配を消しながらも、ちら、とそちらを見てしまった。それがいけなかった。
「井宿さん」
 振り向いた義翔に呼び止められ、井宿は足を止めざるを得なかった。
「ぎ、義翔さん、こんな夜更けにどうしましたのだ」
 ついしどろもどろになってしまうのは何故だろう。なんだかさっきからペースを乱されっぱなしだ。明日は朝から用事があると言おうか。それとも帰るの一点張りで乗り切ろうか。頭を巡らせていると、義翔が盃を持ち上げながら微笑んだ。
「月見ですよ」
 そう言いながら、端によけてあった座布団を隣に敷いて目配せをする。
 ││しまった。と思った時には遅かった。
 断りきれずに座布団に膝をつくと、義翔は伏せていた盃をひっくり返して酒を注いだ。
 ││まずい。この流れは。
 どうやって断ろうかと思案していると、義翔がぽつりと言った。
「私はね、井宿さん。道輝に泣かれるのに弱いんですよ」
 藪から棒にどういうことだろう。
 返せずにいる井宿に、義翔は、ひどい兄馬鹿でしょう? と笑う。
……それは、わかりますのだ」
 思わず緩んだ頬で答える。
 張宿に泣かれると弱いのは、自分も同じだ。そして、朝になって自分がいなくなっていたら張宿が悲しむであろうことは、もう、よくよくわかっていた。
「気が合いますね」
 そう言って盃を渡してくる義翔に、井宿はとうとう観念した。
「敵わないのだ。……張宿にも、義翔さんにも」
 苦笑しながら座り直す。秋の夜は、まだまだ半ばだ。



10. マウント合戦(仮) / 軫宿、井宿、昴宿


 広い部屋に敷かれた布団は、乾いていて清潔で、ありがたかった。
 つい先ほど「布団や~! ホンモノの布団や!!」と歓喜の声を上げてバッタリ倒れ込んだ翼宿と、落ちてくる瞼にどうしても抗えないといった表情で翼宿の隣にもそもそと潜り込み目を閉じた張宿が、規則正しい寝息を立てている。
 軫宿は、そんな彼らの健やかな寝顔に安堵の息をつくと、持参の荷物にわずかに残った薬草をがさごそと探った。砂漠でだいぶ落としてしまったが、これだけあればひとまず全員分の薬湯は作れそうだ。あとは、鍋と水と火を借りられれば……
 そう考えて部屋を出ようとしたところで、じっと座っていた井宿が顔を上げた。
「軫宿、どこに行くのだ。軫宿も休むのだ」
 振り向けば、咎めるような視線があった。布団の上で瞑想の姿勢をとっていたので、何か考え事でもしているのかと思っていたが。
「俺は、まだいい。こいつらの薬を煎じるのが先だ。お前こそ、早く休め」
 淡々と告げると、珍しく井宿が食い下がった。
「だめなのだ。軫宿だって衰弱していたのだ。休んで回復するのが先なのだ」
「その言葉、そのまま返すぞ。なんの考え事をしていたのか知らんが、お前こそ、休んで回復するのが先だ」
「オイラはいいのだ! オイラは大人なのだ! 大人は大人ですることがあるのだ!」
「何言ってる。俺だって大人だ」
 なだめるように言い含める。井宿だってだいぶ疲れているはずだ。その証拠に、今のこの物言いからしても、普段と比べ語彙がだいぶ貧弱になっている。小さな子供が駄々をこねているような雰囲気すらある。
「軫宿はふたつも年下なのだ! 張宿や翼宿と変わらないのだ!! 年下は大人しくオトナの言うことを聞くのだ!!」
 むちゃくちゃだ。もはや三頭身の様相である。そんな口調でオトナを主張されても、説得力に欠ける。仕方ない。
「お前は確かに年上かもしれんが、」
 軫宿はため息をつきながら向き直った。
「俺は医者だ。衰弱している患者は、医者の言うことをちゃんと聞け」
 井宿が反論しようとしたところで、すらりと部屋の扉が開いた。
「はいはい、そこまで!」
 顔を上げると入ってきたのは、大きな籠を手にした、この家の老婦人だった。
 老婦人は、そう言いながら張宿と翼宿の顔と呼吸を確かめ、枕元に置かれた衣類を、テキパキと籠に詰めていく。
「あたしから見たら、あんたたちは全員、生まれたての赤ちゃんだよ」
 思わず井宿と顔を見合わせていると、老婦人は「ほら早く、あんたたちもこれを脱ぎなさい!」とびしっと言い、有無を言わさぬ迫力で井宿と軫宿の砂だらけの服を回収していった。ついでに軫宿が手にしていた薬草も回収すると、
「じゃあね、ちゃんと寝るんだよ! 煎薬は作っとくからね! 以上!」
 と一方的に言いおいて、呆然とする二人を置いて出て行った。
……じゃあ、寝るか」
……なのだ」
 軫宿は井宿と顔を見合わせると、そのまま布団に横たわった。
 ││次に起きた時には、回復しているといい。
 そう思いながら目を閉じる。
 窓からの乾いた風が、心地よく額や瞼を撫でて通り過ぎた。


11. 11/22 / 星宿、張宿

 それは、星宿が執務室で書き物をしている時だった。
「陛下、失礼いたします」
 控えめに扉が鳴った後、そう言って入ってきたのは王道輝││朱雀七星士として共に戦った仲間であり、今では役人としてよく働いてくれている││だった。
「張宿か。どうした」
 微笑みながらそう応える。星宿は、二人きりの時は昔のように七星士名で呼ぶことにしていた。公の場では役職名で呼ぶのだが、このような『私』と『公』の間のような時間を、星宿は快く、また楽しく思っているのだった。張宿の方にもそれが伝わっているのか、真剣な面持ちの口元がほんの少し緩んでいる。
「作成していた資料が出来上がったので、お持ちしました」
 張宿は机に書類の束を置くと、わかるかわからないかくらいの微かなため息をついた。
「わかった、確認しておこう」
 星宿は、端正な文字が連ねられている紙束をチラと見、背もたれに背を預けて事務的に言った。それから前に立った張宿の表情を眺める。なんだかいまいちすっきりしない顔をしているな、と星宿は首をかしげた。
「どうかしたのか、張宿。浮かない顔だな」
 そう水を向けると、張宿は昔のようにはにかんだ笑顔を見せた。
「星宿様にはわかっちゃうんですね。いや、その、私事なんですが」
 苦笑のように眉を下げながら張宿が言うには、今朝細君に言われたことがずっと引っかかっているのだという。張宿は昨年結婚したばかりの、新婚ほやほやなのだった。
「ミイヤさ……いえ、あの、妻が、今日は何の日だか知っているか、と言うんです。でも、どちらの誕生日でもないし、記念日でもないし、思い当たるふしが全然ないんです。きっと僕が何か忘れているんだと思うんですが……帰るまでに思い出さないとと思うんですけど……
 妻が、と口に出すのがまだ照れ臭いのだろう、どもりながらそう言う張宿は、背丈も体格もすっかり青年になっていてもまだ、かわいらしさを残していた。星宿は得心してゆったりと微笑むと、頷きながら、わかった、と呟いた。
「わかったんですか!? さすが星宿様です……! あの、教えて頂いても」
「今日はもういいから、早く帰りなさい。細君が待っているんだろう?」
「え、でもまだ仕事が」
「もうまもなく終業の時間だ。今日は残業せずに帰るように。……大臣たちにはうまく言っておくから」
 突然の展開についていけていないであろう張宿が慌てて言うのを、星宿は穏やかに制した。
「宮殿を出てすぐの川沿いの道は、紅葉が盛りだと昨日大臣が言っていた。甘いものでも食べながら散歩、なんて良いのではないか」
……えっと、星宿様? 今日はなんの日……なんでしょう……? 早く帰ることと何か関係が……? あ!!」
 ついに正解に思い至ったらしい張宿が、小さく声を上げた。
「ありがとうございます! 失礼します!」
 バタバタと出ていく張宿の後ろ姿を見送りながら、星宿は満足の息をついた。
 今日は十一月二十二日だ。
 今日は自分も仕事を早く切り上げて妻と過ごすことにしよう、と、星宿は心に決めた。



12. 人智を超えた味 / 軫宿、張宿

 それは、軫宿が胃薬を仲間に配り歩いている時だった。
 絶大な破壊力のある料理だった。幸いなことに鬼宿以外はひと口程度しか食べていなかったので、回復も早いだろう──もちろん、鬼宿にはすぐに最大量の薬を内服させたが。
 あとは張宿だけだ。大丈夫だとは思うが、他の者と比べて身体が小さい分、強く影響が出ていないかという懸念はあった。
「張宿、いるか」
 白虎夫妻宅の書斎の扉をそっと開く。
 目に入った張宿の背中は机に突っ伏しており、軫宿は息を呑んだ。倒れているのか、と眉根を寄せた瞬間、ぺら、と紙を繰る音が室内に落ちる。
 ──音?
 よくよく見ると、張宿は腕の上に伏せた顔を横に向け、反対の手で本をめくっているのだった。
 ──倒れては、いない。
「張宿、胃薬を調合してきた。飲めるか?」
 ほっとした軫宿が声をかけると、張宿がのっそり顔を向けた。
「あ、軫宿さん……ありがとうございます……ところで、あの、」
「なんだ」
 緩慢な言葉。怪訝に思いながら先を促すと、張宿の視線が本に戻った
「さっきの、美朱さんの、料理……軫宿さん、どう思いますか?」
 ──どう、とは。
「あの舌の痺れ、甘いのに苦いような、……でも辛いような、なんとも言えない味……甜麺醤の中に、大量の花椒が入ってたんでしょうか……それとも、焦げることによって、出現した苦みが……
「張宿」
……でも、あの口に入れた瞬間に、突き抜けるような匂いは……。やはり、何かと何かが反応してできた、という気がしますし……そうなると」
「張宿!」
 うつろな目をしたままどんよりと怠そうに、しかし言葉を止めない張宿を、軫宿は強めに制止した。字が出ているのだろう。しかし、そんなしょうもないことに能力を使っている暇があったら、早く胃腸を休めてほしい。
……すみません、僕……
「いいから、これを飲んで少し寝ろ。胃が重くて痛んでいるだろう」
 言いながら軫宿が本を取り上げると、張宿はばつの悪そうな笑顔を見せて、素直に薬を飲み干した。



13. 春のたより / 軫宿、井宿

 軫宿の住む村はずれの診療所には、時折旅の僧侶が訪ねてくる。
 ある時は両手に青菜の束を下げて、ある時は穀物を入れた麻袋を腕に抱えて、またある時は巨大な背負い籠を背負って。
「今回は、またずいぶんと大きな籠だな」
 思わず薬草をすり潰す手を止めて軫宿が言った。
「こんなにいらないと断ったのだが」
 苦笑いをするように隻眼の顔を歪めて、僧侶はよいしょと籠を下ろす。あの村の長老が持っていけと聞かなかったのだ。そう言いながら示された籠を覗くと、中には立派な筍が何本も入っていた。青い匂いと土の匂いが色濃く香る。
「これは重たかっただろう」
 軫宿がため息混じりに言うと、
「重かったのだ~。でも、大したことはないのだ!」
 僧侶││井宿が、おちゃらけた高い声で返した。糸目の仮面をつけ、よく三頭身になっていた頃の井宿の声に似る。かつて巫女と、それから仲間とともに旅をした頃が思い出された。あれからずいぶん時が経った。今では巫女とも仲間ともなかなか会う機会がないが、井宿からの情報によると、それぞれの場所でそれぞれに、元気に過ごしているらしい。
「しかし……筍か」
 軫宿は顎に指を当てて考えた。
 今日はうららかな晴天だ。数時間前に目覚めたばかりの真っ青な空に、雨を降らせそうな雲は見当たらない。そして、おそらく掘り立てであろう筍。
「よし、湯を沸かすぞ」
 軫宿は、作りかけの膏薬を一旦保留にし、すりこぎを巨大な鍋に持ち替えて立ち上がった。
 
 
 弔い帰りに軫宿の診療所を訪ねるのは、最近ではもう恒例となっていた。
 朱雀召喚からはや数年。井宿は、未だふらふらと旅をしては、時折仲間の元を訪ねる、という生活を送っていた。しかしながら、この格好で歩いていると、本職の僧侶と勘違いされるらしい。不幸があっても葬式をあげる余裕のないような貧しい村では、井宿は引っ張りだこなのだった。善良な村民は、それでもわずかな金を支払おうとした。金は受け取れないと井宿が断ると、ならば、と渡されるのが、金にはならないような、しかし彼らの精一杯の、お礼の品なのだった。そう言われれば断り切ることもできず、ある時は形のよくない野菜を、ある時は不揃いな米を、そしてある時は││。
「今日は筍をもらったのだ」
 ここに来れば、そんなお礼の品を軫宿が活用してくれる。
 自分で調理するほどの情熱はないが、無駄にするのは本意ではないからだ。軫宿ならば、干して薬にしたり、挽いて粉にして病人用の保存食に作り変えたりしてくれる。
 ││と思っていたのだが。
「湯を沸かすぞ。鍋がでかいから庭でやろう。ひとまず二時間はかかる。お前も手伝え」
 まるで急患が来たかのような、一刻を争うような言い方だ。
「わ、わかったのだ……!」
 軫宿の手際は確かだった。ザクザクと筍の穂を切り落とし、切れ込みを入れ鍋に放り込む。それから黄土色の粉と乾かした唐辛子を入れ、火を起こし、井宿に鍋の番をするよう言い置いて部屋の中に戻っていった。
 
 
 ちょうど二時間経ったところで、軫宿は鍋を引き上げた。
 皮を剥いて、山と積み上げ、炊事場に場所を移す。かまどでは先ほど仕込んだ米が小さな音を立てている。軫宿は、筍を一口大に切りながら、かまどの湯気を確認した。もう少しで炊けるだろう。さっき火から下ろした鍋には、昨日作った汁の残りがたっぷり二人分残っている。味噌をといて葱と揚げを入れただけのものだが、これは最高に『あれ』に合う。新しい鍋に調味料を沸かしながら、軫宿の唇は自然と綻んだ。
「軫宿、取るのはこれでいいのだ?」
 振り向けば、井宿が瓶に入った削り節を棚の上から下ろしているところだった。
「そうだ。かしてくれ」
 醤油と味醂がぐつぐつ煮立つ鍋の中で、筍の白が時折小さく揺れている。
 軫宿は瓶からひと掴みの削り節を取り出すと、鍋の中に無造作に放った。途端に、削り節のいい香りが色濃くふわりと立ち上る。
 
 
「これを煮詰めたら、出来上がりだ」
 鼻をくんくんさせていると、軫宿が炊飯釜を下ろして、汁物を火にかけていた。
「これは……?」
 さまざまな湯気が交錯する炊事場で、井宿は首をかしげた。なんとなく成り行きで手を貸してしまったが、気づけばすっかり一緒に調理しているような構図になっている。
「昼飯だ。それは昨日の残りの汁。食っていくだろう?」
 他の野菜や米なら保存するんだが、と軫宿は少し微笑んで言った。
「筍ばかりは、掘り立てを調理しないともったいないからな」
 軫宿が炊飯釜の蓋を開けると、こちらは米の炊ける香りが湯気となって立ち上る。
 炊き立ての米の香り。
 鍋からはほんのりと味噌の香り。
 筍の鍋からは煮詰めた醤油と鰹の濃い香り。
 井宿はそれらの混ざりあった味を想像し、口元を緩めて鼻を膨らませた。
……匂いがすでに、ごちそうなのだ」
 窓からは春のひざしがゆるく差し込み、うらうらとそれらの湯気を照らしていた。




14.鍋日和 / 井宿、朱雀七星士+美朱

 紅南国に雪が降った。
 それも、ちょっとやそっとの雪じゃない。多少のことには動じないと自負している井宿でさえ、一瞬面食らってしまうほどの大雪だ。夜中に降り出したさらさらと軽い雪は、地面に木々に屋根に降り積もり、あっという間に世界を白く包んでしまった。
 それでも朝はまだ良かった。
 きんと冷えた空気の中、太陽に照らされた雪の表面はふんわりと柔らかそうで、温かそうとさえ思えるほどの丸みを帯びて微笑んでいた。だが、問題は夜だ。
 降っては止み、降っては止みを繰り返していた雪は、地面に新たな層をこしらえ、人々の歩みを遅らせ、体温を奪っていった。そうして、また降り出した雪の中、膝上までもありそうな雪を漕ぎながら井宿がたどり着いた先は││。
「あ、井宿! いらっしゃい! 入って入って」
「井宿~! 早く来いよ!」
 扉を開けるなり、気配に気づいた仲間達の声が飛んでくる。
「すまなかったのだ、雪が、すごくて」
 笠と蓑の雪を落とし、藁で編んだ雪靴の雪を払いながら苦笑する。部屋の中が暖かいを通り越して暑いくらいなのは、人口密度が高いからなのかどうか。
「早よ来んかい、こっちは待ちくたびれとるんや」と翼宿が急かし、
「大丈夫だ、今ちょうどできたところだから」と軫宿の落ち着いた声が被さる。
「今持ってくから、早く座んなさい!」と言う柳宿の声が台所から飛び、
「井宿さん、ここ! ここ座ってください!」と張宿が自分の隣を示して声を上げた。
 見れば、座卓の真ん中に鍋敷きが置いてあり、それを仲間たちが囲んでいるのだった。卓の足……というか、卓の上部以外はぐるっと全てが布団のようなものに覆われていて、そういえば雪深い異国の文化にそういうのがあったな、と、昔見た書物を思い出す。
 すでに椀や箸は配られていて、各々の前に置かれた茶碗には、ほかほかと温かそうな米飯が盛られていた。張宿の隣に腰を下ろすと、反対隣にいた星宿が「こうやって足を入れるのだぞ」と、布団を持ち上げて中を見せた。中に橙の熱源がある。言われるままに足を入れると、かじかんだ指先がじんと痺れた。
「はいはい、ちょっとよけて~!」
 柳宿が持ってきた大鍋を卓におろし、蓋を開ける。もわりと熱い湯気が広がり、中からぐつぐつと小さく揺れる白い豆腐が現れた。そこここから歓声が上がり、やがて湯気が退いたところから覗くのは、椎茸に榎茸、葱に白菜、底に敷かれた出汁昆布。鮮やかな緑の春菊に、雪のように白い鱈。鍋の真ん中では、刻み葱や鰹節が山盛り入った出汁醤油の小鉢が、醤油のいい香りを放っている。
 鍋の様子に目を奪われていると、「はい」と椀を差し出された。
 どうやら今夜の鍋奉行であるらしい柳宿が、皆に湯豆腐を取り分けているのだった。お代わりは自分でやんなさいよ、と言いながら、しかし楽しそうでもある。穴の空いた杓子で豆腐を掬っては、出汁醤油の小鉢に浸して椀に盛っている。薬味まみれになった豆腐と野菜が、ほわほわと湯気を立てながら、電気の光を反射する。
 井宿は柳宿に礼を言うと、両手で椀を受け取った。
「頑張って来た甲斐があったのだ……
 すっかり冷えてしまった指先に、湯豆腐椀が温かい。
 豆腐はとても柔らかかった。ふるふるとした豆腐を箸で取り、息を吹きかける。口に入れると、熱々の豆腐が舌にとろけた。醤油と鰹節と葱の絡み合った優しい味に、ついつい箸が進んでしまう。
 雪に埋もれた、寒い夜。
 こんな日は、皆で囲む鍋がぴったりだ。
 そんなことをじんわりと思いながら、雪の夜は更けていくのだった。




 15. 異世界の / 井宿、翼宿、美朱

 四角い盆に四角くて薄茶色の物体を乗せ、井宿は列に並んで息をついた。
 小さな店内には同じような薄茶色の物体が所狭しと並べられており、小麦の香ばしい匂いが充満していた。それは確かに小麦の匂いだったが、肉饅頭や桃饅頭を蒸した匂いとはまた違っていて、ついくんくんと鼻をうごめかせてしまう。
 井宿は前に数人並んでいることを確かめて、改めて周りを見渡した。
 薄茶色の物体は、色こそ似通っているものの、見た目は多岐にわたっていた。数え切れないほどの、丸いもの、四角いもの、細長いもの、粉のかかったもの、溶けた何かで覆われたもの、肉や野菜が挟まったもの。目線を手元に戻せば、盆に乗った四角もただの四角ではなく、上の部分だけこんもりと、二つの山のように盛り上がっている。
 ふ、と気配を感じ、硝子張りの窓の外を見ると、すでに買って外に出ていた美朱と翼宿が井宿に手を振っていた。
「次の方どうぞ~」
 声をかけられ我に返ると、いつの間にか井宿は列の先頭にいた。
「お、お願いします、なのだ」
 しどろもどろになりながら盆を置き、美朱から預かった硬貨を取り出して渡す。
「ありがとうございます。焼きたてなので袋の口は開けておきますね」
 にっこり微笑む目の前の婦人に、どうにかぎこちない微笑みを返し││婦人の言っていることが何ひとつわからないのだから仕方がない││、渡されるままにカサカサとした茶色の紙包みを抱きしめ、井宿はそそくさと美朱たちのいる方へ向かった。
 
「ふぅ、大変だったのだ」
 額に汗をかきながら言うと、向かいで翼宿が、何がやねん、としれっと言った。腕には同様の茶色の紙包み。先刻の翼宿は、美朱の指示を即座に理解し、さっさと目的のものを得てここに戻ってきていたのだった。異世界だというのに、要領の良いやつなのだ。
「しょうがないよ、あたしたちの世界は初めてなんだもん。ね、ありがと、井宿」
 美朱が笑顔で慰めてくれるのが、ありがたいやら情けないやら。
「あーよかったぁ。ここのパン屋さん、週に一回だけ並ぶこの食パンが超~~美味しいんだけど、おひとり様一点限り、なんだぁ。翼宿と井宿がいて助かったよ!」
 今日はお母さんもお兄ちゃんもいないしさ。魏もバイトだし、と言いながら歩き出す美朱に、まあ美朱がそう言うなら、と苦笑する。格好の悪いところを見せてしまった気もするが、そんなに喜んでくれるなら、頑張った甲斐があると言うものだ。
 
 美朱の家に着くと、なるほど他の家族はいないようだった。
 とりあえず食べよう! と言う美朱に促されて食卓につく。
「食パンはねぇ、冷めてもトーストしても美味しいんだけどー、ここの焼きたてパンはこれが一番」
 茶色の紙から取り出した『食パン』の、なだらかな山のてっぺんを両手で片方ずつ持って、美朱は井宿の目の前でそれを二つに割った。
 その途端。
「おおぉ……!」と翼宿が目を輝かせ、隣で井宿が思わず息を呑む。
『食パン』の断面から、ふわりと湯気が立ちのぼったのだ。
 同時に小麦のいい匂いが、店の名残のように食卓の上に広がった。
「なんやこれ、ええ匂いやな」
 鼻から息を吸い込みながら翼宿がいう。
 井宿も同じく吸い込みながら、同時に断面の白にも目が吸い寄せられた。饅頭の皮の断面よりも白くて繊細で、綿のように柔らかそうだ。
 美朱はそれを木の板の上に載せて刃物でさらに三等分し、自分と翼宿と井宿の皿に分けた。
「ジャムとかバターとかもあるけど、まずはこのまま食べてみて!」
「んじゃ、いただきまーす」
「なのだ」
 言われるままに、まだ温かいそれを齧り取る。
 柔らかい。そして、ほんのり甘い。
 しゅわっと舌の上で溶ける感じは、まるで雲を食べているかのようだ。
……おいしい、のだ」
 舌に残った味にうっとりして、それから視線を前に転じれば、とっくに食べ終えていたらしい美朱が、第二弾を食べるべく、もう片方の山の部分を切り終わるところだった。それから美朱は、背後にある巨大な四角い箱の側面を扉のように開いて、中から何かを取り出した。
「これもよかったら塗って!」
 目の前に、赤色や橙色の瓶が並べられていく。じゃむ、という名前らしい。
 ││異世界の、食べ物なのだ。
 美朱の世界には、本当に色々な、興味深いものがある。
 二枚目の『食パン』に手を伸ばしながら、井宿は感慨深くそう思った。



16. 共犯者 / 井宿、美朱


 草木も眠る丑三つ時。
 井宿は、宮殿の廊下を歩いていた。
 庭で考え事をしていたら、いつの間にかこんな時間になってしまっていたのだ。刺すような寒さの冬から季節は進み、春の足音が聴こえるかどうかという時期になった。とはいうものの、長時間の野外はやはり冷える。井宿は足音を忍ばせつつ、こらえ切れずに控えめなくしゃみをした。もしかしたら、花粉も飛んでいるかもしれない。
 七星士にあてがわれた部屋はこの廊下の先だ。井宿は、表側の豪奢な廊下ではなく、洗濯場や炊事場などの裏側に面した廊下を歩いていった。こちらの方が近道であることを、発見したのはつい先日だ。昼間はさまざまな職種の者たちが忙しなく行き交っているこの廊下も、こんな夜中には人っこ一人いない。
 ││早く布団に入ろう。
 ││いや、その前に、厨房の湯を拝借して白湯でも飲んでからにしようか。
 すっかり冷えてしまった井宿が、真っ暗な厨房に入ろうとした、その時。
 ……ずっ、……ずずっ
 微かな音を、井宿の耳が捉えた。
 こんなところに、こんな時間に人がいるとは考えにくい。
 となると、この音は一体なんだろう。虫の鳴く音でも、羽虫の飛ぶ音でもない。
 じっと耳をそばだてる。
 音はどうやら、厨房の隣にある、調理人たちの休憩所からのようだった。
 壁にぴたりと張り付き、そっと部屋の中を覗く。││と、薄暗い部屋の卓上にぼんやり灯りが灯っており、そこで背中を丸めているのは││。
「み、美朱ちゃん……!? ……なのだ……?」
 大声をあげそうになり慌てて声を抑える。びくりと肩を震わせ、それからゆっくりとこちらを向いたのは、やはり朱雀の巫女、美朱だった。
「井宿……! いや、あの、その、これはね、深~いワケが……!」
 慌てて両腕を振って苦笑いをしている美朱の手元には、湯気の立つ何かがあった。
「さっきの音は、これなのだ? これは一体」
「こ、これはね! 夜食! 夜食なの! 受験生の定番、カップラーメン!」
『夜食』はわかるが『かっぷらーめん』はわからない。『めん』というからには、麺料理なのだろうか。覗き込むと、信じられないほど細い麺││おそらくだが││と汁とが入った椀が見える。
「いやー、ついお腹がすいちゃって! ……お願い井宿、このことはみんなには内緒にして!」
 箸を持ったまま両手を顔の前で合わせる美朱に、井宿はため息をつきながら微笑んだ。
「夜食はわかったのだけど、なんで内緒なのだ?」
 なんといっても美朱だ。年齢的にも育ち盛りだろうし、食べて悪いということはない。夜中に食べなくても良いとは思うが、しかし。
「だってぇ、いっつもお兄ちゃんやお母さんに怒られてたから……夜食はいいけどカップ麺はだめ! 体に悪いでしょ! 、ってさ~」
……体に悪いのだ?」
「でも美味しいんだよっ!」
 キラキラした目で覗き込まれる。そう言われれば確かに、あたりには食欲をそそるような匂いが漂っていた。美朱は一度口を閉じ、椀の中に残っている麺と汁を一気にあおってから言った。
……でもさ、きっと軫宿は、お母さんたちみたいに怒るでしょ、夜中に食べたら体に悪いって。翼宿や柳宿に見つかったら面白がられてぜーんぶ食べられちゃいそうだし、張宿には研究対象にされて逆に食べられなくなっちゃいそうだし、……それにそれに、鬼宿に見せたら珍しがられて、きっと売り飛ばされちゃう」
「な、なるほどなのだ……
 切々と訴えてくる美朱の手には、荷物の中から新たに取り出された二つの物体││さっき平らげていた『かっぷらーめん』と同じものだ。おそらく、未開封の。
 美朱は、本当はみんなとも食べたいけど、残りがもうこれしかないから、と悲しそうな顔をした。それから、何かに気づいたように手に持った物体に視線をやり、いいことを思いついた、と言わんばかりの笑みで井宿に向き直った。
「よし、決めた! 今から二人で食べよう!」
 
「なんでお湯が沸かせるのだ?」
「昨日柳宿に教わったの!」
 ひそひそと話しながら、厨房で湯を沸かす。卓の上には、ペリペリと紙のふたを半分剥がした『かっぷらーめん』が鎮座していた。椀の中には、鮮やかな黄色や、四角い茶色や、くちゃくちゃになった小さな緑色の物体が入っていた。その下に、細長い白いものが、糸くずを丸めたようにぎゅぎゅっと、凍った春雨のように固まって入っていた。それら全部にまぶされているような茶色い粉は、美朱曰く、汁の味付けなのだそうだ。
 とぽとぽと快い音がしんとした部屋に響き、真っ白な湯気が視界を塞ぐ。線まで入れて、蓋して三分ね、と美朱が得意げに言った。今更の気づきだが、美朱はどうやら二個目を食べる気でいるらしい。
 待っている間、井宿は思い立って椀を手のひらで包んでみた。紙でも木でも陶器でもない不思議な手触りの椀は、じんわりと温かく、冷え切っていた指先が和らいだ。
「お、完成!」
 美朱が言い、蓋に置いていた重しを外す。
 蓋を捲るとふわりと湯気が舞い上がり、いい匂いがあたりに広がった。
「井宿はラーメン食べたことあるの?」
「麺料理ならそれなりに食べたことはあるのだが、あんなに細い麺は初めて見たのだ」
 椀をのぞけば、さっきのぎゅっとなった黄色や茶色や緑色が、二倍くらいの大きさになって麺の上に乗っていた。
「こうして混ぜて、啜って食べるんだよ」
 美朱が手本を見せるように、椀に箸を入れてぐるぐる混ぜると、細い麺を箸で掬った。ずるずると立てる音に、井宿はそうか、と納得をする。最初、通りかかった時に聞こえてきた謎の音は、麺を啜る音だったのだ。
「さ、どうぞどうぞ~」
 言われるままに箸を取ると、ふうふうと息を吹きかけ、それから口に入れる。さっきの美朱を真似て、ずるずるずると啜ってみる。
 ││軽い。軽すぎる。
 麺というのはもう少し、こう、もっちりとして重みのあるものではなかったか。咀嚼もほとんど要さないようなふわふわした麺の軽さに、井宿は仮面の内側で目を見開いた。
 しかも、とても味が濃い。何かの香辛料が入っているのだろうが、それは井宿の知る香辛料のどれでもなかった。どれでもないが、確かに旨い。すぐに次の一口を口に入れたくなるような、中毒性のある味だった。
「美朱ちゃん、これは……?」
 黄色いものを箸で持ち上げると、これまたふわりと軽やかだった。
「それは卵で、こっちはお肉だよ」
 はふはふとしながら教えてくれる美朱の箸の先には、茶色の物体が示されている。
「卵……?」
 卵とは、あの卵だろうか。
 生であればどろりとしており、火を通せば黄身と白身がそれぞれ固まるもの。混ぜて炒めればふうわりとした食感になるが、すぐに食べなければ傷んでしまうもの。
 炒めた卵を乾燥させたというのか? どうやって? と井宿は首を捻った。乾燥させた肉や野菜を湯でもどすというのは理解できるが、卵はさすがに。……美朱の世界には、珍しいものがあるのだ。
「どう? 美味しい?」
 嬉しそうに問う美朱を見れば、その手元の麺はすでに半分ほど平らげられている。
……初めての味なのだ」
 なんともいえずにそう答える。
 明日の朝には胃がもたれていそうだなと思いつつも、おかげで冷えた体はすっかり温まったようだ。ほかほかになった胃のあたりに手を当てて、井宿はほう、と息をついた。



17. 意味 / 柳宿、張宿

 ことのはじまりは二月の半ば。灰色の雲が垂れ込めた、うっそりと寒い日だった。
 訪ねてきた年下の少年は、ぐるぐるに巻いた濃紺のマフラーに顔を半分埋めながら、相談があるのだと言う。珍しいこともあるものだ。
「張宿が、あたしに相談? 一体全体どうしたの」
……いや、その、実は……
 埋まった口元からぼそぼそと聞こえる言葉は、普段の控えめながらもはっきりと喋る張宿とは明らかに違っていた。伏せがちな目、マフラーから覗く赤い頬、二月半ばの相談。これは、もしや││。
 ピンときた柳宿は、無意識に上がる口角を抑えられなかった。これは、もしかして。いや、もしかしなくても。歓喜の声を上げてしまいそうな自分を懸命に抑え、柳宿は耳に神経を集中した。自分の予想が当たっていたとしても、張宿本人からそれを聞く前に騒いだりして、張宿の繊細な気持ちを台無しにはしたくない。むずむずする口を押さえつけながら、柳宿は懸命に聞いた。とにかく聞いた。そして。
「好きな子に手作りチョコをもらったぁぁ!?」
「ぬ、柳宿さん! 声! 声が大きいです!」
 最後まで聞き届け、大袈裟に驚いてみせると、張宿は瞬間湯沸かし器のように一気に顔を赤くし、湯気を立たせた。なんとも素直で可愛らしい。さすがあたしたちの弟だわ、と、柳宿は内心で微笑んだ。
「それで、お返しに、何を上げたらいいのか、分からなくて、その、相談を」
 どうにかこうにか全文を口から出し、力尽きたようになっている張宿の肩を叩く。
「いいじゃない、いいじゃない! そうねぇ、やっぱり、手作りのお返しは手作りがいいんじゃない? 心のこもった手作りお菓子。いいわね~、青春青春!」
 お菓子、の言葉に一瞬笑顔になりかけた張宿の顔が、すぐさましゅんとなる。
「お菓子、ですか……
「なあに、どしたの?」
「いえ、手作りお菓子、すごくいいなぁって思ったんですけど、実は僕、お菓子なんて作ったことなくて」
 なるほど、それでテンションが急上昇からの急降下だったわけね。
……母に教わろうにも、母は料理はしますがお菓子を作ってるところは見たことがなく……兄も台所はからきしですし……それは僕もおんなじで」
「え、じゃあ一緒に作る? 教えたげるわよ」
 なぁんだそんなこと、という気持ちを込めて言うと、張宿の顔がパッと輝いた。
 
 * * *
 
「その辺にてきとーに座って」
 柳宿の部屋に招かれた張宿は、よその人の家、という環境に少しばかり緊張しながら勧められるまま腰を下ろした。
「し、失礼します」
 床に敷かれた毛足の短い敷物はふわふわと気持ちが良く、その上に置かれたローテーブルも、その向こうにある勉強机や本棚も、すべて柔らかい色調で揃えられていた。まるで柳宿そのもののように、堅苦しい印象がまるでない。
 こちらに背を向け、棚の本を探していた柳宿が、あったあった、と歌うように言う。見れば柳宿が手にした本には、季節のお菓子、というタイトルが書かれている。
「で、どれにする?」
 柳宿が開いてくれたページには、イベントごとで贈るお菓子の種類とその意味が書かれていた。ホワイトデーに贈るのに適したものは、と張宿が順に見ていくと、見慣れない横文字が目に留まる。
『マカロン』
 初めて目にする単語ではないものの、この字面で内容が思い浮かぶほどには、マカロンは張宿にとって身近な菓子ではなかった。導かれるままに示されたページを開くと、そこにはつやつやと丸い形の、色とりどりの『マカロン』の写真が載っていた。クッキーサンドのように、間に同色の何かが挟まっている。つるんとした表面から単色のハンバーガーのようにも見えるが、きっと甘いものでできているのであろう。ちゃんと見たのは初めてだ。無論、食べたことなどない。どんな味かもわからない。でも││。
「あの、これ……
「ああ、マカロン」
「これ、が、いいです……
「これぇ!?」
 柳宿が作り方のページを見て、驚きの声を上げた。手順を見ながら眉を顰めている。
 柳宿は作ったことがあるのだろうか。難しいから無理なのだろうか。ドキドキしながら待っていると、柳宿は本と張宿の顔とをまじまじ見比べて、それからにっ、と笑った。
「いいわよ、これにしましょ」
「ありがとうございます……!」
 よかった、と張宿は胸を撫で下ろした。
 自分一人で作ると考えると気が遠くなりそうだったが、柳宿が教えてくれるのならきっとうまくいくだろう。柳宿の手製のお菓子は今までも何度ももらったことがあったし、それはどれも美味しかったから。
「じゃあ早速、来週の日曜ね。材料はこれよ。一旦二倍量買ってきて」
 来週? 二倍? と張宿は首をかしげた。ホワイトデーは来月だし、そんなに早く、しかも二倍も作って、いったいどうするのだろう。
 頭に疑問符を浮かべている張宿の顔を見て、柳宿は手を腰に当て、ため息をついた。
「練習よ、練習。マカロンって難しいんだから。一発で成功するとは限らないでしょ」
「は、はい!」
 鞄からメモ帳を取り出しながら、張宿は慌てて返事をした。
 難しいのか。なんでも軽々と作ってしまう柳宿が難しいと言うなんて。そう少しだけ怖気付く自分を、いやいや、ここは頑張りどころだぞ、ともう一人の自分が叱咤する。
 張宿は心の中で自分を鼓舞しながら、材料の名前と量を、メモ帳と頭に刻み込んだ。
 
 マカロン:あなたは特別な人


18. 金平糖 / 張宿、軫宿

 軫宿の荷物からぽとりと落ちたのは、きれいな紅色の巾着だった。
 あ、と思って拾い上げると、張宿の手のひらより小さなそれは、高価そうなちりめんでできていた。かしゃりとささやかな音がする。
 ――お守り……とかなんだろうか。
 物入れにしては小さい気がして首を傾げる。だが、お守りにしては大きいなとも思う。
「軫宿さん、落ちましたよ、これ――
 振り向いた軫宿は、張宿の手の中の赤に気づいたらしい。一瞬驚き、それから目を和らげて礼を言った。
「ああ、すまんな」
 受け取った巾着をしまおうとした場所は軫宿の医術関係のものを集めた荷物の中で、張宿は興味を抑えることができなかった。
「あの、それって、お守りか何かですか?」
 不躾かなとも思ったが、気になったのだ。山奥のお医者様を思わせる渋い色味の衣服や荷物の中で、それだけが雅な光を放っている。
「これか? これは、『よく効く薬』だ」
 いたずらっぽい目をして、軫宿が薄く笑んだ。
「よく効く……?」
 軫宿の大きな手が、巾着の口にぐるぐる巻かれた紐を解く。
 広げられた中を覗き込むと、小指の先ほどの粒がたくさん入っていた。よく見ると粒にはたくさんの突起があり、まるで夜空に浮かぶ星のようだ。
 きれいだろう、と軫宿が言った。
「砂糖菓子だ。苦い薬や痛い治療を頑張った子供にやる用に、な」
 張宿が目を輝かせていると、大事な秘密を打ち明けるように声を潜めて軫宿が言う。大人にはないからな、内緒だ、と。
「張宿も、苦い薬を飲むようなことがあったら、これをやるからな」
「ぼ、僕は、大丈夫ですよ」
 慌てて強がってみせると、軫宿は目を丸くしてから、朗らかに笑った。
「すまんすまん、そうだったか」
「もう! 子供じゃないんですから!」
 頬を膨らませながら言う。
 だってもう十三なのだ。
 家を離れ、立派に……ではないかもしれないが、どうにか一人でやっているのだから。
 ――それでも、と、内心でこっそり思う。目の裏に、さっき見た像が映る。
 目の覚めるような、艶やかな紅色の巾着。
 その中の、お星さまのような砂糖菓子。
 ――それなら、何かあっても安心だ、と張宿は思った。病気をしても、怪我をしても。
 
 本当は、苦い薬は大の苦手だったから。
 そう思いながら、張宿は自分の荷造りに戻るのだった。



19. 金平糖2 / 張宿、軫宿

 軫宿から渡された茶碗には、湯気の立つ茶色の液体がなみなみと注がれていた。
……これ、飲むんですか……?」
 わずかな湯気を鼻から吸い込んだだけでむせそうになる。
 昔風邪を拗らせて母に連れられて行った治療院の、扉を開けた時に漂ってきたなんともいえない薬の匂いを思い出す。あれを百倍にして煮詰めたみたいな匂いだ。これを口に入れて、さらに飲み込むだなんて、難易度が高すぎる。
「そうだ」
 軫宿の言葉は容赦ない。
「治りたかったらな」
 上目遣いに見上げた軫宿の顔は、しかし言葉とは裏腹に、とても優しい目をしていた。
 
 ――あの時。
 箕宿と対峙して自刃し、もはやこれまでと思った時、すんでのところで救命してくれたのは軫宿だ。自分では覚えていないが、箕宿の命が消滅し自分の命も消えかけたその瞬間に、能力で一命を取り留めてくれたのだと聞いた。傷は塞がったものの瀕死の状態だった自分を、朱雀の能力を失ってなお、会話できるまでにしてくれたのも軫宿だ。そんな命の恩人の言うことなのだから、きちんと聞かなければいけない。
 そうだ。僕は朱雀七星士なんだ。ここで逃げたら、情けなさすぎる。
 こんな僕を強い男だと言ってくれた翼宿さんにも合わせる顔がない。
 張宿はそう自分を鼓舞し、ごくりと唾を飲み込むと、目を閉じて覚悟を決めた。
……飲みます」
 顔を背けてひとつ息を吸い、息を止めてその液体を喉に流し込む。
 吐きそうになる隙を与えず、軫宿から渡された水を、ごくごくと一気に煽った。
 水で流し込んでもなお、口の中いっぱいに薬の強烈な苦さが残っている。
 あまりにも不味い。ちょっとでも油断したら、今からだって吐きそうだ。
 見開いた張宿の目には、気づけば涙が滲んでいた。でも飲めた。ちゃんと飲めた。
「よく頑張ったな」
 走った後のような呼吸をしている張宿に、軫宿がおかわりの水を差し出して微笑む。
 そうして――
「ほら、もうひとつの薬だ」
 その言葉に、張宿は静かに絶望した。
 これで終わりではないのか。まだ薬があるのか。もう無理、頑張れない――
 そう思いかけた張宿の視界に、赤い何かが映った。それは鮮やかな紅色の巾着だった。
 軫宿が手にしたそれから転がり出たのは、小指の先ほどの、小さい、星のような。
「これは口の中で溶かす薬だ。舐められるか?」
 軫宿が、手のひらに乗せた星をつまみ上げて張宿に手渡す。
 おそるおそる口に入れ舌の上で転がすと、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「よく効く薬だ。それを舐めて、ひと眠りしろ。起きた時には少し楽になってるはずだ」
 軫宿が、いたずらっぽく目を細める。
 その顔を見て、張宿の頭の中で過去の光景が繋がった。
『張宿も、苦い薬を飲むようなことがあったら、これをやるからな』
『もう! 子供じゃないんですから!』
 まだ自分が合流したばかりの頃の、旅立つ前の光景。
 ――あの時の、砂糖菓子だ。
 懐かしさとありがたさと、ほんの少しの恥ずかしさとが張宿の胸に込み上げる。
……はい。ありがとう、ございます」
 張宿は小さくそれだけ言って、言われた通りにおとなしく布団に潜り込んだ。



20. チョコレートの祭典 / 柳宿

 二月のとある日曜日。
 柳宿は冷蔵庫の扉を閉めながら、満足のため息をついた。
 一週間前にその冷蔵庫に陣取っていた食材の数々は、柳宿の手によって冷凍品や作りおき常備菜に加工され、あるいは調理の末に消費され、冷蔵庫から姿を消していった。そして今、閉じた扉の中には無数のチョコレートが眠っている。
 
 大量の製菓材料を買い集め思う存分腕を振るうのは、年に一度この時期の、柳宿の楽しみなのだった。毎年作っている定番のトリュフ――粉砂糖とココアパウダーの二種類――に、小さなアルミカップに絞ったガナッシュ――ハート型の砂糖菓子とアラザンを散らした愛らしいものと、ナッツやドライフルーツで飾りつけた洋酒入りのクールなもの――。砕いたビスケットとグラノーラを混ぜ込んだ豪快なチョコレートバー――腹持ち第一のキッズ向け――に、ドライフルーツのチョコレートがけ――こちらはビターチョコをたっぷり使ったオトナ向け――。どれも毎年ブラッシュアップを重ねた、柳宿の自信作だ。何枚もの銀色のバットに整然と並んだチョコレートたちは、冷蔵庫の青白い光の中で、ラップ越しにつやつやと輝いている。
「さて、と」
 柳宿はエプロンを外しながら時計を見上げた。
 今日は美朱と百貨店の催事場に行く予定なのだ。鬼宿にあげるチョコ選びに付き添う……と見せかけて、自分用のチョコも選ぶ気満々なのである。もちろん、手製のチョコを作る過程は最高に楽しいけれど、それとこれとは話が別だ。キラキラ輝く宝石のような、素人にはとても真似できないパティシェ作のチョコレートたちを女同士でキャッキャしながら選ぶ時間もまた、最高に楽しいのだから。
「たまちゃんは、あたしに感謝してくれてもいいと思うのよね」
 鏡の前で髪を直しながら、鏡の中の自分に言う。そもそも催事場に美朱を誘ったのは柳宿だった。だって、去年の鬼宿は美朱の手作りチョコのおかげで一時期胃腸が大変なことになってたんだもの。
「あたしって仲間想いだわ~」
 お気に入りのリップを取り上げ、唇に艶と自然な血色を足す。玄関の鏡で全身をチェックし、オフホワイトのロングダウンコートを羽織って、ヒールブーツのチャックを上げる。ドアを開けたら、冷えた空気が気持ちよく頬を冷やした。
 美朱との待ち合わせまではあと一時間。
 今から行けば少し早めに着きそうだから、先にぶらぶら見て回っていようかしら。
 そんなことを考えながら、柳宿は心ときめくチョコレートの祭典会場に急ぐのだった。



21. 杏仁豆腐 / 柳宿、美朱


 その日、柳宿は宮殿の厨房にいた。
 昼過ぎの厨房は、ひと気がなくがらんとしている。昼餉の片付けが終わり、夕餉の支度が始まる前のひととき、料理人たちの束の間の休息時間なのだ。
 顔馴染みの料理長から借り受けたすりこぎとすり鉢で、ふやかして皮を剥いた白い種をすり潰す。細かくなるごとに、ほんのりと香る繊細な甘い匂いが鼻を刺激する。
「あー、柳宿! こんなところにいた! ……何してるの? いい匂いね」
 振り向けば、美朱が後ろに立っていた。さっきは自室にいたと思ったが、匂いに釣られてきたのだろうか。だとしたら、相当の嗅覚の持ち主だ。こと食べることに関して、我らが巫女はアンテナが鋭い。人懐こい仔犬のように、ぶんぶんと振っている尻尾の幻覚が見える。
「いいでしょ。軫宿からもらったのよ。薬になる種と間違えて買っちゃったんですって」
 すりこぎの中身は杏子の種──の中の核の部分──だ。乳白色の実は、匂いと同じく少しかじるとほんのり甘い。咳の薬になる種類の種は、すごく苦いのだそうだで、これとそれとは似て非なるものなのだと軫宿が言っていた。
「せっかくだから、杏仁豆腐でも作ろうと思って」
 そう言って目配せすると、思った通り、美朱はよだれを垂らしながら目に星を浮かべ、あたしも一緒に作りたい! と前のめりになった。
『あたしも食べたい』の間違いじゃないの、と内心でぼやきながらも、ちょうど一人ですり潰すのも疲れてきたところだったので、せっかくだから手伝ってもらうことにした。
 美朱と二人ですり潰した核を、布に包んでよく絞る。更に広がる香りに美朱が鼻をうごめかした。絞った汁を小鍋に移し、牛乳と砂糖──どちらも宮殿でなければ手に入らない高級品だ──を混ぜながら火にかける。寒天を溶かしてさらに混ぜ、器に入れて冷やして完成だ。美朱のつまみ食い攻撃から杏仁豆腐を守り切った柳宿は、やり遂げた充実感を胸に鍋を洗った。
「片付けが済んだら、星宿様に差し上げにいくわよ」
「はーい!」
 素直な返事。ほんとにこのこは、人懐こい仔犬みたいだわ。
……っと、その前に、検食ね」
「けんしょく?」
「んーとね、毒味っていうか……味見よ、味見」
 これ、ちょっと検食に持ってってくれる? と、近くにいた厨房見習いに杏仁豆腐を一つ持たせ、見習いが出ていくのを見届けると、美朱と自分にも器を配った。
「あたしたちも、毒見しちゃいましょ」
 微笑みながら片目を閉じて、小首を傾げる柳宿に、美朱が元気に頷いた。
 適度に冷やされた杏仁豆腐は、ぷるんと小さな抵抗をしたのち、華奢な金属の匙を滑らかに受け入れた。とろけそうな緩さの杏仁豆腐だ。ひし形に切られ、かっちりとしたものとはだいぶ違ったが、口に入れた途端、杏仁の甘い香りが口内にふわりと広がることは変わらない。寒天が少なすぎたかもしれない、と思いつつ、もったりとした、しかしコクのある濃厚な杏仁豆腐も、それはそれで美味しいわよねと柳宿は結論づけた。舌触りもなめらかで、申しぶんない。
「おいひいね」と、うっとりと美朱が言い、
「当たり前でしょ、作ったのあたしなんだから」と柳宿が胸を張る。
 さて、星宿様は今どちらにいらっしゃるかしら。喜んでくださるかしら。
 柳宿はそう思いながら立ち上がり、杏仁豆腐の乗った盆をゆっくりと持ち上げた。


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