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杞憂のヒール

全体公開 11 2316文字
2021-10-20 13:27:12
Posted by @uk_plus_



 雑踏の中に、ピンヒールを纏う綺麗な足先を見つけてしまった。揃えられたつま先が向かうのは恐らく、愛しい恋人の方向。すらりと高くその美しい人は、私に嫉妬をさせる隙すらない。

 それをぼんやり眺めていたら高い位置から安らぐ低い声で呼ばれて、私ははっとする。待ち合わせていた月光が私の背後まで来ていたらしかった。そんな気配に気づかなかった私にゆったり声をかけてくれた優しい彼は、今一度私を窺った。

「何かあったか」
「えううん、ちょっとぼんやりしてた」

私の言葉を聞いて、青い一房から覗いた切れ長の瞳が少し引き締まった気がする。しかし特に深く追求することもなくそうかと頷けば、月光のその目は前髪に隠れてしまった。そして少々冷たい指先が行くぞと私の手を掬ったから、私は先ほど目にしたヒールのつま先を忘れようとした。


 「何を考えていた」
「えっ?」

以前から行きたいと言っていたケーキの美味しい喫茶店に入り、注文を済ませてからすぐに月光が口を開いたから私は驚いてしまう。いつの、なんのと私が問う前に彼が言い直した。

「ああ、すまない。いや、ここに来る前に」
「来る前?」
「少々、考え事をしているように見えた」

だからと濁された言葉の先を特に促すこともなく、私はああと視線を目の前のお冷に落として、それを両の手で掴み指先でカチカチと叩いて遊んだ。じんわりとグラスに付く水滴が、ひんやりと自分の指も冷やしていく。

「綺麗な女の人がね、いたの」
知り合いか?」
「ううん、全然」

グラスを見たままに緩く笑って言葉を紡ぐ私を、月光はどんな顔で見ているのだろうか。首を振って依然グラスを指先で撫でる私に、じゃあ誰なんだと問う彼の声がとても不思議そうにしていた。

「全然知らない人なんだけど、見かけて、綺麗だなぁって見惚れてたの」
そうか」
「それでね」

 すっかり汗のかいたお冷から視線を月光へと移した時、店員さんの声が私たちの会話を遮ってしまった。流れるようにテーブルに置かれたケーキと紅茶とコーヒーたちが、つらりとそこに並ぶ。

「わあすごい、美味しそう」
それで」
「え?ああ。それで」

いただきますとフォークを握った手でケーキフィルムを剝がしていると、珍しく月光が促すように言葉を繋いだ。私はその動作を止めないままに、少し指先についてしまったクリームを口に入れながら続けた。

「その人、ピンヒールをね、履いてたの」
「ピンヒール
「そう、すごく高い、ピンヒール」

綺麗だったんだと繋げて、きらりと光るフォークの先でひとつ取ったケーキを口に放り込めば、予想していたよりも滑らかなクリームが舌に触った。

「わあ、美味しい」
それだけか?」
「え、ケーキ?美味しいよ。欲しい?」
違う」

口内に広がる甘さに感嘆していると自身のコーヒーに手も付けずに月光が問うものだから、そうやって私が聞き返してあげれば彼は怪訝そうに口元をむっとさせていた。

「はは、嘘だよ。それだけって?」
「他に何か、考えていたんじゃないのか」
……そうだね」

 そう言われて先ほどまで忘れようとしたひとつの思考が、私の脳裏に垂れる。

ああしてヒールを履いて歩いているほうが、月光の隣に相応しいのかしら。

なんとでもない虚しい独り言は私の胸中に霧散する。あの女性のピンヒールがまだ姿を現さない月光を連想させることは容易く、そして私を関係性の低い嫉妬へと酷く駆り立てていったのだ。驚くほど綺麗なわけじゃない自分、月光の隣に立てば性差関係なく絶対的に足りない丈。それを補えるのがひとつのヒールにあったとしたら

 「少し高いヒール、履いてみようかなって」
「何故だ」

思考の先の先、醜い全てを脳裏で濾してから吐き出した私の言葉に月光が驚いたようだった。あまり履かないだろうと言いながらようやく口に運ばれたコーヒーを、私は見つめる。

足りないものを、補いたくて?」
「足りないもの

そうと返事をしながら温度の落ち着いた紅茶へ指を伸ばすと、月光が少し真剣そうに言葉を紡いだ。

「そんなもの、無いと俺は思っているが」
「そう、かな」
「お前はお前だからな」

全てを含めて、好きだと思う。

そう続いた言葉にかちゃりと指先のソーサーとカップが鳴る。

「そっか」
「もしお前が自分に何か足りないと思っていたとして

月光の鋭くも温かい目が、本意をいつも隠す前髪から少し現れて私を見つめてきた。そしてテーブル越しに私へ少々詰め寄り、ほんのり意地悪く笑った。

「俺がお前の全てを好きでいることに、何か影響のあることなのか」

かち合ってしまった奥深い瞳から自分の目を離せないまま私が首を振ってみせると、月光は満足したのか視線を下にやってひとつため息をついた。そしてケーキ皿に放っていたフォークを摘まんで、特に許可なく艶やかなクリームを一口食べる。

美味しいよね」
「ああ」

愛しい綺麗なその彼が、今度は優し気に口元で小さく笑った。

 雑踏の中に、ピンヒールを纏う醜い杞憂を見つけてしまった。出来ないはずの嫉妬をする私が思うのは恐らく、愛しい恋人のこと。すらりと高くその美しい人は、しかし私に嫉妬をさせる隙すら与えてくれない。



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