@shikanoko_aki
「痛い痛い!いった〜いっ―――!!」
耳をつんざくような叫び声。ただでさえ人並み外れた声量で煩いのに、それを耳元で聞かれてる方の身にもなって欲しい。
「も〜!暴れないで下さいよ、兄上!?全然、消毒できないじゃないですか」
腕の中でジタバタと暴れ回っている子供みたいな人。残念ながら、子供などではない。彼が文虎の実兄・文鴦である。
「だって、いてーんだもん!もっと優しくしろよな〜!文虎」
「痛いって、そりゃあ痛いでしょうよ。肩の肉がぱっくり裂けてしまっているのに」
見ているこっちの方が、痛くて仕様のないほどの重傷。腕がもげなかったのが不思議なくらいである。と言いたいところであるが、多分、兄はそんなヘマをしない。
「そうじゃなくてさあ。滲みるんだよ。その薬が」
文虎が綿に染み込ませ、傷口に塗りたくっているのは、傷の悪化を防ぐための薬であった。医学の知識はないのではないので、それ以上のことは知らない。
「薬が滲みるくらいなんですか。刀傷に比べたら、こんなもの子猫に引っ掻かれた程度でしょうに……」
「戦場で受けた傷はいいんだよ。戦ってる最中は、痛みなんて感じねえんだから」
「そっちの方がよほど、僕には恐ろしいですけどねえ」
文鴦はたとえ腕を失ったとしても、それが戦いの末の結果であったならば、からからと笑って帰って来るのだろう。その光景がありありと想像出来た文虎は、兄の無茶苦茶ぶりに対する非難を込め、深い溜息を吐くのだった。
「やれやれ。戦、戦って。死ぬ思いまでして剣を交えることの、何が楽しいのやら。僕には少しも理解できませんよ」
戦好きの文鴦を、事も無げに文虎は皮肉る。弟という立場でありながら、文虎は兄に容赦がなかった。
「そんなこと言われてもさあ。オレにはコレしか能がねえんだ」
ムスッと膨れた不貞腐れ顔で文鴦は言う。本当にまるきり子供みたいな人だ。終始こんな調子なものだから、どちらが兄だか分からない兄弟などと、周りからもよく揶揄されたりする。
「……そんなことはない、と思いますけどねえ。僕は」
そんな文鴦であるが、ひとたび戦地に赴けば目を見張るような働きを見せる。すぐに判る。兄は文虎など、到底及びもしない将であると。
「ただほんのすこ〜し、兄上は思慮に欠けるというだけで」
「考えるのは苦手なんだよ〜〜!!」
文虎の指摘がグサリと兄に突き刺さる。頭を使うのが苦手だという自覚は文鴦にもあった。
己の欠点を指摘された兄は、あからさまに唇を尖らせてへこんでしまう。その表情には愛嬌があり、思わず文虎はクスリと笑った。
「まあまあ。いいんですよ。兄上はそのままで。だけど……」
「………だけど?」
すっかりしょぼくれてしまった兄の頭を、文虎がくしゃりと撫でる。その一瞬だけを切り取って見れば、本当にどちらが兄だか分からない。
「あまり危ないことばかりしないで欲しいな、と僕的には思うわけですよ」
勇気と無謀は違う。文鴦が考えるより先に身体が動くタイプだと、誰よりも知っている文虎としては時々ヒヤリとしてしまうのだ。武芸において、そう簡単に負ける兄ではないと知りつつも、いつか命を落としてしまうのではないかと。
「これでも心配しているんですからね。やんちゃな兄を持つ弟としては」
父は人並みに野心や私欲があるが、兄にはそれが無い。故に、どこまでも勝利を追い求めてしまうところがある。文虎がその腕を掴んでやらねば、いつか兄は手の届かぬところへ行ってしまうかもしれない。
「ありがとな。文虎は優しいな」
「……別に。普通でしょう。兄弟なんですから」
今度は文鴦の方が、弟の頭をわしゃわしゃと撫でた。力加減がデタラメだから、少しだけ痛い。甘やかすのはいいが、甘やかされるのは苦手だった。
照れ隠しのように、文虎はいつも以上にぶっきらぼうな返答をする。皮肉屋な弟と正反対に、兄はどこまでも真っ直ぐな人だから、時折その素直さにどぎまぎしてしまう。
「つーかさ。お前は無理して、オレたちに付き合わなくてもいいんだぜ?」
弟の髪を弄びながら、あっけらかんと文鴦は述べる。それは戦を拒む文虎への嫌味や当て擦りではなく、兄の心から弟を想い発せられた言葉だった。
文虎は厭戦家だった。将として功を挙げたいという志は無く、ただ平和に暮らせればそれで充分。戦わねば生きられないという時代でもなし。何故、そんなにも率先して剣を奮いたがるのか。
「……馬鹿ですね。兄上は。誰も嫌々、付き合ってるわけないじゃあないですか」
「そーなのか?」
溜息混じりに、しかし、至極柔らかな声音で、文虎は兄の提案を一蹴した。事実として、昔気質の武人である父や兄の気持ちを、文虎はさっぱり理解出来なかった。
でも、本当に嫌ならば文虎はとっくに安全な地にでも隠居していただろう。
「確かに、戦うのはボクの性分じゃあないですけど。それ以上に、家族と離れ離れになるのは嫌なんですよ」
もちろん、平穏に暮らせるのがいちばんだ。土埃や血に塗れて争い合わずに済むのならば、文虎にとってはそちらの方がよっぽど良い。けれど、そこに父と兄が居ないのはダメなのだ。
「兄上の生きる場所が戦場だと言うならば、しょうがないから僕も着いて行きますよ。どこまでもね」
「文虎……」
一人で平和な暮らしを得ても意味がない。そんな退屈な毎日を送るくらいならば、父や兄と土埃や血に塗れている方がずっと良かった。
他人からは利己的な人間だと思われがちな文虎であったが、案外そうでもないのである。己の優先順位の最たるは肉親だった。
文虎がそれなりに情で動く人間であることを知るのは、恐らくは家族くらいなものだろう。
「いいんですよ。僕は。父上や兄上のためなら、いつ命を落としたって悔いはない。そういう覚悟は出来ているんです」
「それはダメだ!」
いつも通りのゆるい口調で、文虎が重い覚悟を口にする。すると、文鴦の声が食い気味に、弟の声を掻き消してゆく。
相変わらず、耳をつん裂くような声量と、やけに真剣な眼差し。兄の目があまりに真っ直ぐ文虎を映すものだから、自分と同じ色の瞳に思わず魅入ってしまうそうになる。
「文虎はオレより先に死んじゃあならねえ。お前はオレが守る」
「そんな大袈裟な。僕だって、もう子供じゃあないんですから……」
兄には及ばないものの、文虎とて守られなければならないほど弱くもない。戦場に立つからには、自分の身くらい自分でどうにか出来た。
「幾つになっても変わらねえよ。だって、お兄ちゃんは弟を守るものだろう?」
呆れるほど純粋に、それでいて力強く。文鴦は兄が弟を守るのは当然であると、平然と言ってのけるのだった。何の疑いも持たない澄んだ眼差しは本当に子供みたいで、文虎は反論する気すら失せてしまう。
「……本当に。兄上は馬鹿ですねえ」
「おう!文虎はオレより頭が良いからすげえよな!」
いつだって、兄の言葉には嫌味も皮肉もない。こちらの毒気さえも抜いてしまうくらいに無垢で、故に危なっかしい。
「言っておきますけど、僕の頭が良いんじゃなくて、兄上が考えなさすぎなだけですからね?」
「ぐぬぬ……」
正反対な兄弟だった。似ているところを探す方が難しいくらい、文鴦と文虎は好みも性格も何もかもが合わない。
だからこそ、好きだった。何よりも大事な、兄弟だった。それを本人に伝えたことはないのだけれど。だって、照れ臭いから。
「だから、兄上は難しいことなんか考えなくていいんです」
「だけど……」
兄には自由であって欲しかった。無鉄砲で危なっかしくても、純粋で、一途なままで。そういう兄のゆく先には、文虎には決して辿り着くことの出来ない何かがあるような気がした。
「そんな心配しないで下さいよ。僕だって、文家の子です。それに……」
「………それに?」
会話を続けながら、文虎は中途半端のまま忘れかけていた傷の手当を再開する。綿に染み込ませた薬を文鴦の傷口へ、容赦なくギュッと強く押しつけた。
「いっっってええ!!?お、おま…ぶ、文虎!?今のぜってー、わざとやっただろ!!?」
すると、文鴦は大袈裟なくらいに痛がって、その場でのたうち回るのだった。戦場ではあんなに強気な将のくせをして、弟の前では、ただ子供っぽいだけの兄。
「……あなたが勝ち続けている間は、僕たちも安泰なんですから」
どちらの姿も文虎の好きな兄だった。だから、別に現状不満はない。それはそれとして、皮肉は言わせてもらうけれど。だって、それが自分の性分なのだから仕様がない。
「期待していますからね。お兄ちゃん?」
「……おう!!」
まあ、どちらにせよ。どれだけたっぷり皮肉を込めたところで、兄には通用しないのだから困ったものだ。
今日も今日とて、どこまでも素直な兄。その姿を見ていたら、不満も不安も吹き飛んでしまうような気がする。ああ。だから、憎まれ口を叩きながらも、弟はその背中を追ってしまうのだろう。