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華と虎

全体公開 5536文字
2021-11-04 23:02:28

張華文虎
※文鴦伝異聞のネタバレを含みます

 文虎が兄・文鴦と離れて暮らすようになり、早三ヶ月が過ぎた。これほどの長期間、兄と離れて過ごしたのは文虎にとって生まれて初めてのこと。
 兄のいない日々は、静かで穏やかだ。気を揉むことも振り回されることもない。そして、それは思いの外、寂しい。
「どうですか。ここでの暮らしは」
 と言いたいところではあったが、文虎を感傷には浸らせてくれない人がいた。その男は図ったかの如く、文虎が物思いに耽っている頃にやって来る。
………張華殿」
 彼はやたらと頻繁に、文虎の元を訪れた。それもまるで、こちらが人恋しくなるタイミングを分かっているかのように。それが偶然なのか否か、文虎は未だ計りかねていた。
「はは。そんな、いかにも疎ましそうな顔をしなくても良いじゃありませんか」
「そんなつもりは……
 それほど露骨に、自分は嫌そうな顔をしていただろうか。少し厄介だと思っただけで、邪険にしたつもりはなく。文虎は慌てて否定をしたものの、張華はそれにのほほんと微笑み返すばかり。
 真実、彼を疎ましく思っているなんてことは少しもない。むしろ、頼れる知人のいない独り身に細々と気にかけてくれる張華の存在は、文虎にとっては有り難かった。
「ただ、ボクのことに構っているほど暇じゃないでしょうに。と思いまして」
「ごもっとも。猫の手も借りたいほどに多忙ですね。平和な世の方が僕の仕事は多い」
 であるが、文虎は素直に感謝する気持ちにはなれなかった。文虎をこのように複雑な心境にさせているのは、数ヶ月前に彼が何気ない調子で告げた言葉のせい。
「わざわざ時間を工面して会いに来ているのですよ。と言ったら、あなたは困りますかね」
………
 全く表情を変えずに張華は訊ねる。困るかと問われれば、文虎の答えはイエスだった。とは言え、仮にも命の恩人にそのように辛辣な対応はできない。兄が相手ならば幾らでも浴びせられた文虎の皮肉も、肉親以外には発揮されないのだ。
「その言い方はズルいです」
「それは申し訳ない。あなたが僕を避けるから、少し意地悪をしてしまいましたね」
 柔らかで優しい微笑みを向けられた文虎は、対照的に唇を一文字に引き結ぶ。他にどういう反応をしろと言うのか。
 文虎が返答に窮していたら、張華はその目を真っ直ぐに見つめ、更に目を細めて笑う。その眩しいくらいの笑顔を直視できなくて、文虎は思わず視線を逸らした。
……で、今日はどういった用で」
「用が無ければ来てはいけませんか?」
………
 少し冷たいかとも思えるほど、文虎は他人行儀に張華へ接する。しかし、彼は文虎の塩対応などものともせず、畳み掛けるようにまたズルい台詞を吐いた。
「まあ、用が無いこともないんですけどね」
 頑に目を合わそうとしない文虎へ、張華が短く溜息を漏らす。
 彼と話していると、まるで自分が駄々をこねる子供みたいに思えてくる。らしくない己の反応に、文虎はわずかな羞恥を覚えた。
「例の件の返事を、そろそろお聞かせ願えないかなと思いましてね」
「それは………
 ドクンと、文虎の心臓が大きく跳ねた。その動揺を悟られまいとして、殊更に表情を無にする。が、異常なほどに瞬きの回数が増えてしまっていたことに、文虎は気づいていなかった。
「いやあ。ボクもまだ色々と、ゴタゴタしていまして。もう少し、待っていただけるとありがたいんですが」
「もう、二ヶ月も待ちました」
………
 努めて、いつもの調子で。のらりくらりと躱そうとした文虎の目論見は、微笑みのまま張華に一刀両断されてしまう。
 張華が文虎へその言葉を告げたのは、ちょうどふた月ほど前。兄と離れて一ヶ月が過ぎ、最も恋しさを募らせていた時期だった。
……だいたい、ちょっと手が早すぎるんじゃあありませんかね。張華殿」
 わざと刺々しい口調で、文虎は張華へ苦言を呈する。今日まで、歳上の張華に遠慮していた文虎であったが、もはや限界であった。
 恐らく、このままやんわりとはぐらかし続けていても、張華から逃れることはできない。文虎も口は上手い方ではあるが、それは相手が父や兄のような単純人間の場合の話で。本当に頭の回転が良く弁の立つ、張華のような男には敵うわけがないのであった。
「新しい暮らしにもまだ慣れていない。家族とも離れ、頼れる人間もいない環境で苦労しているボクの気持ちも、もう少し考えて欲しいものです」
「おや。これは手厳しいね」
 相変わらず、張華の口調は軽い。彼の笑顔の裏に隠された、本心を読むのは難しい。故に、短気な兄に比べれば随分と心の広い文虎でさえも、心がざわつき、わずかに苛立ちを覚えたりしてしまうのだった。
「だから、もう少し間を置いてから……
「そんなの、わざとに決まっているじゃないですか。兄離れをして弱っているあなたにこそ、付け入る隙がある。そう思ったんですよ」
―――ッ、性悪……
 つらつらと、張華が性根の捻くれた発言をするものだから、思わず、本音がポロリと漏れた。わざと文虎を苛立たせようとしているのか。そう考えてしまうほどに、張華は飄々としていて掴みどころがなかった。
「そうですよ。ようやく、気付いて下さいましたか?僕はね。まるで善人ではないのですよ」
 その台詞とは裏腹な、優しげな微笑みで張華はやはり、真っ直ぐに文虎を見つめる。なかなかどうして、食えない男である。兄や父のような単純明快人間とばかり接してきた文虎にとって、彼はあまり得意なタイプではなかった。
「幻滅しましたか?」
………いいえ。最初から、存じておりましたので」
 繰り返すが、文虎は張華を疎ましく思っているわけではないのである。嫌いではない。けれど、好きと断言できるほど、彼をまだよくは知らないだけ。
「ならば、良かった」
 皮肉を言ったつもりだったのに、やはり張華は微塵も動じたりしない。
 兄にも文虎の皮肉は通じなかったが、それは皮肉を皮肉と理解していないから。それに比べて、張華はそうと分かっていてこの反応なのだ。その緩い態度が、何故だか文虎を不安にさせる。
……だいたい、なんでボクなんですか。兄上じゃなくて」
 溜息混じり、文虎は常々疑問だったことを張華に問うた。
 兄のような眩しい光の人間に惹かれる者は、あまたと存在するだろう。だが、その影でおまけのようにくっついている文虎の何が、そんなにも気に入ったのか。考えてみても、その理由はさっぱり検討もつかなかった。
「我の強い人って、僕の好みじゃないんですよ。そういうタイプが好きならば、僕はとっくに彼女と懇ろな関係でしたよ」
 屈託のない笑顔で、張華はなかなかえげつないことを言う。宰相殿が、かの悪女とただならぬ関係になっていたならば、世は更に混沌としていたことだろう。
「あの方と兄上を同種に扱われましても……
「同じですよ。自らの力で未来を切り拓いてゆける人種。その向き方が正か邪かという違いなだけで」
「そこが大問題な気がするんですけど」
 兄を貶さてたように感じられ、文虎が少しムッとした。その反応にすぐさま気付いたのか、張華がクスリと笑う。
「本当にあなたはお兄さんがお好きでいらっしゃる。やはり、文鴦殿のような勇ましい方でなければお嫌ですか?」
「そ、そういう訳では……
 兄のことは好きである。が、それは当然ながら兄としてである。文虎は兄を理想としたことも、憧憬したこともない。文虎は兄のようになりたいわけでも、兄のような人を好むわけでもない。ただ、兄その人を愛しているだけ。
「安心しました。じゃあ、僕にも可能性はあるってことですね」
「本当に小狡い人ですね。あなたは」
 ああ言えば、こう言う。侮蔑的な視線を向けても、どうして張華はのほほんとしていた。
「そもそも、ボクの質問にも答えてくれていないし」
「ははっ。バレましたか。まあ、それはまた次の機会にということで」
 口が達者な宰相様に口論で勝とうとしても無駄である。であるからして、文虎はそれ以上、無駄に争うのを止める。そうしなければ、逆に自分が余計な発言をして、ボロを出してしまいそうな気がしたから。
「いいでしょう。待ちますよ。もう少しだけ、ね」
「ありがとうございます。さすがは、お優しい張華殿だ」
 どうせ効果がないと知りつつも、文虎は物言いにたっぷりの皮肉を込めてしまう。
 その裏にある心理は、真剣に張華の気持ちに向き合う勇気がないから。文虎がそう自覚するには、残念ながら、まだ時間が必要なのであるが。
「そうやって好きなだけ、のらりくらりと逃げておいでなさい。そうしている内に、外堀はどんどん埋まってゆきますので」
「へ……?」
 しかし、それだけ気長に待ってくれる張華でもなさそうで。甘い顔に似合わぬ辛口な台詞を吐いて、彼は意地悪く微笑んだ。
「もう、お兄様には了承を得ていますしね。弟さんを僕に下さい、とね」
「き、聞いていませんよ!?そんなこと!」
「あれ、言いませんでしたっけ?」
 とうとう、文虎は顔を赤くし声を荒げた。まさか、先手を打って兄にまで余計なことを吹き込んでいたなどとは思いもしなかったから。しかも、結構ド直球に。
……で、兄上はなんと?」
「おう!と、元気の良いお返事を頂戴いたしました」
「うーん。その光景が目に浮かびますねえ」
 絶対に何も考えていない、なんとも兄らしい返答だった。恐らくは、張華の意図するところも正しく理解してはいないのだろう。
「覚悟しておいて下さいね。追い込みは羊飼いの得意分野です」
「なるほど。ボクはいたいけな羊というわけですか」
 張華は羊を柵の中へと追い込むことなど、いとも容易いと豪語する。元羊飼いの言葉と思えば、確かに説得力がある。だが、残念ながら文虎は羊とは違う。
「言っておきますが、ボクもあの父の血を引く文家の次男ですからね。兄のように鳳凰にはなれなくとも……虎くらいの素質はあると思うんですよね」
 従順な草食動物と侮ってもらっては困る。兄のように誰彼構わず喧嘩を売るようなことはしないが、文虎とて、それなりに身の危険を感じれば噛み付く。そう簡単に、羊飼いの作った囲いの中に入ってやる気はさらさらなかった。
「そうきましたか。生憎、虎を飼ったことはないのですが。うん。まあ、なんとかなるでしょう」
「相変わらず、ゆるーい人ですね。まるで、本心が読めない」
 いざとなれば牙を剥く。文虎がそう釘を刺したにも関わらず、張華はそれをまるで意に介さない。気の抜けた微笑みは、こちらの毒気すら抜いてしまいそう。
「僕は常に、あなたには本心を語っているつもりなんですけどねえ」
「はいはい。じゃあ引き続き、要検討ということで」
 このまま攻防を続けていても、埒が明かないということだけは確かだった。
 物腰柔らかく見えて、張華は存外に強情である。とは言え、文虎もまだ結を下せる段階ではない。虎になるか、あるいは羊になるか。
「ええ。今日はこれで引き下がりましょう。あなたを困らせるのは、僕の本意ではないですからね」
………どうだか」
 平行線になるだけの問答は、かくして張華の身引きで一旦の終止符を打つ。無論、諦めてくれたわけではないだろうから、いずれまた対峙することにはなるだろうが。
 その未来を想像して、文虎はげんなりと深い溜息を吐き出す。兄や父に振り回されて、気を揉んでいた日々の方がよっぽど気楽だった。まさか己の進退について、悩む日が来ようとは。文虎は夢にも思っていなかったのである。
「まったく、厄介な人に気に入られたものですね。どうしたものか……
 自分が矢面に立たされることは、文虎の何より苦手とするとことだった。だって、文虎はずっと兄が主人公である物語の脇役に過ぎなかったのだから。
 だけどもう、その主役は自分の傍には居ないから。文虎は己のための人生を歩むしかないのである。なんでも兄の行く道に従ってきた文虎にとって、自ら大きな決断を下すというのは思いの外に大仕事で。どれだけ時間をかけ、頭を悩ませても足りないくらい。
「ああ、もう!助けて、兄上……
 考えすぎて頭が痛くなってきた文虎は、とうとう存在しない兄に助けを求め始める。戦場でどんな窮地に立たされたとて、兄に助けを求めたことなど一度もない文虎が、である。
 しかし、兄は遠い所へ旅立った後。どんなに文虎がその名を呼べども、駆けつけてくれるはずもなく。この問題は、自らの手で解決する他にはないのであった。


―――っくしゅん!!」
「どうした。風邪でも引いたか?」
 道中で偶然出会った同行人が、馬鹿デカいくしゃみを放った文鴦の顔を心配げに覗きこんだ。文鴦は鼻を啜りながら答える。
……いや。大方、誰かがオレの噂をしているんだろうが」
「ほう。人気者なのだな」
 同行人が皮肉っぽく返した。その台詞が、文鴦のよく知る誰かさんを連想させ、少し懐かしさを覚える。もしかしたら、自分の噂をしていたのはその誰かさんなのかもしれない。
 そろそろ、兄のことが恋しくなってきた頃合いだろうか。なんて言ったら、弟は自惚れるなと怒りそうな気もする。どちらにせよ、まだ当分は帰る予定もないのだけれど。きっと、文虎は兄などいなくても元気にやっているだろう。
「よし、先を急ごうぜ」
 弟の窮地などつゆ知らず、文鴦は旅路をゆく。次にその顔を拝む頃には、随分と様変わりした弟の姿を目の当たりにすることになろうとは、今の文鴦には知る由もなかった。


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