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茨姫

全体公開 1573文字
2021-11-05 21:11:14

ショパンの別れの曲を聴きながら書きました

 別れの言葉を言わせてください。

 最期に話が出来たとして、何を話すだろう。いつものように他愛ない会話をするだろうか。あの頃と変わらず文学の話をするだろうか。別れの言葉を交わすだろうか。
 星の綺麗な夜だった。月明かりの冴え渡る夜だった。白く照らされた部屋は現実味がなくて、夢でも見ているようだ。ひとのいのちを奪うことをするような雰囲気ではない。
 ひとの倖せとは何なのか。このまま、いつ目が覚めるかも分からぬまま生かしておくのは果たして倖せと言えるのか。貴女は倖せでしたか。こんなことになっても尚、平気だと笑いますか。今更訊いたところで答えは解るはずもなく。
 白い顔に影がかかる。まだ人として居るうちに、忘れないように輪郭をなぞる。開くことの無い眼に、最期に自分を映してもらいたかった。もう言葉を紡ぐことのない唇から、もう一度貴女の声を聴きたかった。
 華奢な手に触れられるのもこれで最後。握り返すことのない手は冷えていた。
 本当に、これで最後。これで最後にしよう。いつまでも引き摺ってはいけない。それこそ冒涜だと思うから。
 ひとを看取るのがこんなにもつらい。断ち切ろうとする手が震えてしまう。息が詰まるような心地だ。職業柄慣れていたはずなのに、どうしてこんなに苦しいのか。だからこそ、いま一度訊ねたいのだ。「私なんかで良かったのか」と。



 何事もなく終わらせることが出来た。もう疲れてしまってこの場から動ける気がしない。このまま眠って、また起きたら夢だったとかそんな都合のいいことは起きはしないかと薄ら思った。意識もゆっくり輪郭を失くしていった。
 それはきっと都合の良い夢だった。いつか二人で行った、菖蒲の咲き誇る公園に立っていた。懐かしい声に呼ばれ、振り向けばあのひとが居た。嘘だとしても、嬉しかった。
「どうしたんですか、ぼんやりして」
 なんでもないと返した。それなら良いと、あのひとは笑って手を取った。そうだ。あの時も、年甲斐もなくあのひとははしゃいでいて、自分の手を取ってどんどん公園を散歩していた。
「ちょっと休憩しましょう、休めるところもありますし」
 ハナミズキの下にあるベンチを指差した。こんなところあっただろうかと疑問に感じつつ一緒に腰掛けた。心地よい風が吹き抜けている。沈黙さえも穏やかで、ずっとこのままがいいのにと願ってしまう。
……ねえ、私は貴方に出逢えて良かったですよ」
 突然の言葉にはっとする。くすくすとあのひとは笑っている。
「聞こえてないと思いました?」
 返答に困る。これは夢だったはずだ。
「他でもない貴方の声を聞き逃したりなんかしませんよ。私がどういう女なのか、貴方が一番ご存知でしょう?」
 わけもなく涙が出てきた。ひどいことをしてごめんなさい。嫌ってくれて構わないから、せめてひとつだけでも、聞かせてほしいことがあると伝えた。
「ひどいだなんて思ってませんよ。そういう運命だったんです、私は。あとそう簡単に貴方を嫌いになるような女でもないですし」
 花の刺繍が施されたハンカチが、目元の水分を吸い取った。こんなに優しい手を、忘れそうになっていた。
「ねえ、私に聞きたいことってなんですか?」
……それで貴女は倖せだったんですか、私で良かったんですか」
「私を見れば分かるでしょうに。間違いなく、倖せでしたよ」
 嗚咽が零れる。ふと強い風が吹いて、どこからともなく大量の花弁が舞った。
……ねえ、馨さん。約束させてください」
 襲はいたずらっぽく笑って小指を立てた。ほら、と促されて周もそっと小指を絡めた。
「来世なんて、不確かなんですけど。……また、お会いしましょうね」
 それまでお別れです。舞い散る花弁と共に、消えた。小指の感覚だけはまだそこにいるかのように残っていた。


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