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九割不在

全体公開 ソーロキ 1 28777文字
2021-11-23 12:55:58

MP39発行 新書/46頁/600円 ドラマロキをベースにしたソーロキです。
どんなロキにもソーがいて、ロキの中にある欠落はいつもソーの形をしているみたいな話。
ワイシャツ姿のロキ(2012年のロキ)が変異体ロキたちの過去を膨らませて勝手に語ります。
中身は全部ここで読めますので冊子は紙で欲しい人向け頒布です

Posted by @syuu_29

注意
・公式の都合の悪いところを無視している
・いつものソーとロキはほぼ出てこない
・鰐は肉食なので猫以外にもいろいろ食べる
・執着はあるが性愛描写ない
・ドナルドは人間のソーの名前ドナルド・ブレイクから来ている(これどこにも説明できてなかった)
・入稿と合わせて内容はすべてこのようにウェブ公開済みとしています
・誤字脱字はwebで少し直している

プロローグ 2≫
夜来たる 3≫
水兄弟 4≫
リメンバー運命 5≫
汝ら罪なし 6≫
アイム・ヒア 7≫
エピローグ 8≫


両開きの扉を開けた先を見て、かつて家族と囲んだダイニングルームを思いだす者も多かったはずだ。空間の大部分を占拠しているのは木製のディナーテーブルだった。
虚無の建物には珍しく、アライオスの被害を免れて完全な形を保った平家だ。その佇まいや正面に設けられた大きな両開きの扉から、それこそ断酒会でも行われるような小ホールが期待されたが、扉を開いてみればそうして大きなテーブルがまず目に入った。重厚な造りのテーブルを囲むのは白い床に白い壁。どれもどこか古ぼけた印象で、人の気配はまったく残っていなかった。それに部屋の照明は傘に埃を被った大きめのスポットライトが天井にひとつだけ。今は天井近くに明かり取りとして設けられた窓からぼんやりと光が差し込んでいるが、夜にもなれば部屋の隅々まで照らすような光量は期待できないだろう。奇妙なことに照明だけならガレージのようなのに、部屋の大部分を占めているテーブルときたら脚一つをとっても丁寧に揃えて装飾が掘り込まれている。磨かれたぶ厚い天板にしても、作業台と思うには豪奢すぎる机だった。それに食事こそ並べられていなかったが、その場に集まる二足歩行のロキたちが座るのに十分な数の椅子が並べられていた。歪にも家長の座るべき場所に椅子はなかったが、代わりにダイニングチェアとは限らずスツールさえあった。そしてひとつだって同じものはなく、どれもそれぞれのロキがひと目で争わずに選べるような椅子だった。
さらには控えめに壁へ寄せられたサイドボードの上と、その足元には、二足歩行をしないロキたちのためにも暖かでふわふわの毛布や、太い枝とよい香りの新鮮な葉っぱがきれいに敷き詰められた巣までが用意されている。
「少し不審すぎないか?」
「この虚無に秩序ある場所があると?」
「作為の話をしているんだ。あんたほどの慎重派が何も思わないのか?」
扉を開け放ったワイシャツ姿のロキは訝しい顔で古風なタイツ姿のロキを振り返り、言い返した。意見を向けられた老人は頭から爪先まで黄色の装いで、道化のようにも見えそうなものだったが、それにしては表情は堅すぎるぐらいに白けていた。彼はそのまま「それをやめたからここにいるのだろう」と冷ややかに答え、自分たちの足元を見た。
二人の脇を、細くて長い毛並みの大型犬と、すました様子の黒猫とが通り過ぎ、ついでとばかりに頭上をカササギが飛んで過ぎていく。それらを一通り視線で追ってから、あらためて年若いワイシャツ姿に言う。
「獣のロキは勇敢だな」
「無謀は勇気じゃない。兄上をみて学ばなかったとでも?」
「ねえ、いいから入って。さもなければどいて。邪魔だから」
「何をもめてる? 場を望んだのはお前だろう」
「いや、私は野原でもよかった」
「ロキならみんながそうだとでも? 私は屋根が欲しい」
「だが――
「まさか怯えてるのか?」
とうとう背後から鼻で笑うようにして少年のロキが言うと「ぜんぜん」と彼は口をへの字に曲げて、ようやく扉の向こうへ進んだ。先頭の彼に続いて、全員がそうした。
その場に集まった全てのロキは、そうして一つの屋根の下に集まった。それこそ時間変異取締局を恐れさせた変異体ことシルヴィをはじめとして、少年に抱き抱えられたままの鰐のロキも、彼に続いて年長者ぶる古風なロキも。それに鰐を警戒する政治家のロキに、飾り立てた自分が大好きな自慢屋のロキ、それからそれ以外のロキたちだってみんな。さまざまな世界の、さまざまな可能性の先であった変異体のロキたちは、その小さな建物に集まった。そして自分の腰をおろす場所を選んで、まるで告白しあう自助会のように視線と仕草で最初の話し手を探り、譲り合った。
やがて一人が口を開いた。
この建物の扉を開けたワイシャツ姿のロキだ。
「こうしてせっかくさまざまなロキが集まったんだ。それぞれの過去を知り合わないか? 調べるんだ」
なにを?と誰もが思って、話し手に視線を向けた。
「違いを。ささやかで、でも決定的な違いが私たちにはあるはずだ。そうでなきゃおかしいだろう。剪定後に私たちをここに送り込む意味は? 他の変異体みたいに記憶をいじってエージェントにしない理由は? 時間変異取締局がロキだらけになるから? そんなわけないだろう。だいたいそれならそんなものだと刷り込めばいいだけじゃないか。簡単だ。それに女性の姿をしているのがシルヴィだけなのは何故だ? 一体ここはいつからある? どれぐらいお前たちはここにいる? 気にならないのか? 私は気になる。例えばお前――そう、その立派な毛皮の肩当てのお前。手作りのハンマーを握りしめ、石をすべて集めたと自慢してきた自慢屋のロキ。お前のことだ。どんな風にここへきたのか。どんな風に育ったのか。お前があるべき時間軸とはどんなものだったのか――私は私のあるべき結果とやらを知ってるが、お前たちはどうだ? どうせ見ていないんだろ。興味もなく、探しもしなかったに違いない。さあ、どうだ。倒すと決めてアライオスを倒し、ここに戻ってきた私の言葉をお前たちはどう受け取る?」
かくして口火は切られた。
ワイシャツ姿のロキ、その銀の舌によって。


夜来たる
自慢屋のロキ

もはや背もたれは遥か遠い背面にあり、どのような感触であったのかさえ思い出せない。ロキには前のめりになって盤を覗き込んでおり、自分の顔が険しい自覚があった。なにしろ今になって急に自分の失敗が浮かび上がって見えた。過ちを犯した駒がぼんやり光っているように錯覚するぐらいにはっきりと。いや、手に浮かんだ脂汗が駒の表面に浮かんでいるのに気づいて、そんな風に思うのかもしれない。面差しを雄々しく見せる完璧な角度に剃り上げた顎髭に指を添え、指の腹を湿らせる汗を髭に拭わせながら、ロキは一つずつ駒の動きを振り返る。だが逆回しにするほど過ちはよく見えてくる。盤を物理的にひっくり返しでもしないかぎり勝敗はもう目に見えていた。
卓の向こうのソーは、ロキとは対照的にゆったりと背もたれと肘掛けに上半身を預けている。余裕の笑みで目尻に寄った皺は盤上の容赦のない振る舞いとは結びつかない柔らかなものだ。だがソーはいつもこうだ。ソーはまるでさかさまにすべてを映す意地悪な鏡のようにロキと違う。
背丈こそたいした差はないが、筋肉質なロキに比べればソーは細身だ。暗い青のマントはその体格を補うようにたっぷりとした布地で、いまは肘掛けと胴の間で複雑に波打っている。それに胴を包む黄金の鎧はロキから見れば装飾性に乏しく、磨くのもさほど熱心には行われていないものだから、表面に落ちる腕と髪の写り込みは亡霊のような影でしかない。実にもったいない代物だ。そしてお互いに兜も冠も頭上にないが、頭を剃り上げたロキとは違い、ソーは伸ばした縮れ毛を縄のように編んでいる。そして父オーディンと同じく隻眼だ。傷どころかシミの一つさえないロキの面差しとはまるで似ても似つかず、褐色の肌の濃さと黒髪以外に同じものはひとつだって持っていない。
だがそもそも血縁関係にない兄弟だ。
ソーはアスガルドを統べる王オーディンの末の息子に違いないが、ロキは違う。ちびに生まれついてしまったのでまるで巨人には見えないが、これでもヨトゥンへイムの王ラウフェイの末の息子である。千年前に結ばれた両家の平和協定のかすがいとして、オーディンの末の息子になったのだ。
しかしそのような立場のなかでロキはまこと健やかに育てられた。フリッガは乳母をつけずに直接世話を焼いたし、オーディンとソーはもちろん、とっくの昔に館を出て死の国を治める長子のヘラでさえも、ロキを純粋に末子として扱った。そもそもソーは既に成人していて、跡目争いなど誰であろうと考えられもしないぐらいの年齢差だったせいもあったかもしれない。なにより既にソーは右目を自らミーミルの泉に捧げ、次の王にふさわしいだけの知恵を授かってもいたことだし。とにかく結果として、ロキはただの末子として扱われ続け、養子であることが本人の意識によぎることさえ、ヨトゥンヘイムとの定期的な夜食会のときぐらいだった。それにしたって巨大で青い肌の実父とは広大なディナーテーブルを挟んでの対面でしか会うこともない。親しみを持つのも難しいうえに、いまだに『最初のころなどソーのマントを掴んで離さなかった』などとロキの記憶にないような思い出話を持ち出してくるところが嫌だった。ロキはもう成人しており、自分で鎧を見立てる事もできるし、今では立派な髭だって蓄えているというのにいつまでもちび扱いなのだ。それほどまるで縁の薄い実家に対してロキが思うところなど、その程度の淡い不満の他にはとくにない。ロキにとっての我が家はオーディンの黄金の館に他ならず、ヨトゥンの兄や姉も存在は知っていてもそれだけで、それこそ時折しか顔を出さないヘラがソーの姉であるという認識とほとんど同じ、実感の薄い他人事だった。だからいくら歳が離れていても、ロキにはソーが兄として振る舞ってくる唯一の兄弟だった。
だが一方で、歳が離れていなければずいぶん恨む相手になっただろうと想像するのは容易い相手でもあった――それこそ、今ロキが卓上を眺めて感じる恨めしさよりよほど日々に影を落とすものだったに違いない。
元から得意とも言えなかったが、ロキは今ではこの卓上遊戯が苦手だった。嫌いと言ってもいい。頭の中の仮想敵ならこんなこと――などと屈辱的なことを思う程度には、いまやアスガルドの王となった偉大なる兄と囲む卓となれば負け続きだからだ。まだ王になる前の兄ならば、勝たせてくれたこともあった。だが今や勝てる見込みがないのだから、やりたいとはもう思いもしない。
だというのに、このところ兄はどうにもしつこかった。
以前ならロキのほうから剣や槍の名手たちとの模擬戦を兄に見せようと足繁く兄を訪ねていたものだ。だが最近では逆に模擬戦の約束を取り付けようと向かう先に先回りされている。なんならロキが模擬戦を持ちかけるはずの相手へ先に話しかけていたり、直接的に皆を追い払っていることさえある。繰り返されれば、わざとだとわかる。
それで「いやだ」と誘いを突っぱねたというのに、ソーはちっとも堪えない。それどころか「ロキ」と窘めているのか甘やかしているのかわからない穏やかさで名前を呼ぶのだ。そして砂糖で煮詰めた果実のパイみたいに甘くてやわらかな声で弟を懐柔しようとする。
「そう嫌がってくれるな、ロキ。お前がいいから誘いに来てる。おれの相手の褒美には何をやろうか、武器が欲しいか? それとも魔法の果実や馬でも欲しいか?」
ロキの勝利の褒美にと言わないところがいかにも嫌味だが、そんなふうに誘惑と侮辱を織り交ぜて誘ってくるのだ。
それでも求められているのは間違いがなく、ロキは結局兄と二人、盤上の戦争をしてしまう。いつも後悔するのに誘われる嬉しさにロキは何度でも目が眩む。兄の懇願に、その唇の吐くやさしげで甘いその言葉に、何度も騙される。期待をする。この先もこれが続くかと思えば我に返ってうんざりもするが、かと言ってこのソーのささやかで陰湿なこのやり口から抜け出す術をロキはまだ持っていない。これまでは相談だって何もかもソーにばかりしてきたから、このソーの振る舞いについて他の誰にどのように伝えればいいのだかもわからない。戦場での振る舞いも、自分に似合う鎧だって迷ったりはしないというのに。
きっとソーもそれは見越しているに違いない。
残念なことにロキはソーのように魔術の才能に恵まれてはいなかったが、巨人としての肉体のおかげで、体を鍛えるのは性に合っているようだった。それに武器を扱うのも得意だった。アスガディアンに比べれば底無しといっていいような体力のおかげで、どんどん力はついていった。だからロキは早くから戦場に出たがり、それを皆に認めさせるだけの実力をつけられた。養子であることや種族の違いへの差別はその中にだってなかった。それでも、評価の考慮にその出自をまったく入れないまま認めてきたのは、ソーだけだった。それになにかひとつを覚えたと知らせると、ソーは誰より誇らしげにそれを喜んだ。
そもそもソーはハンマーを片手にどこへでも飛んでいく身軽な神だった。しかし武力よりも対話を好み、それを相手に選び取らせるために自らあちこち出向いて準備をするのが得意でもあった。そのようにロキの物心がついたときからずっとソーは誰からも頼りにされ、長らく民の信頼が厚い。国中の誰からも、それどころかオーディンの治める九つの世界のどこにおいても、一目を置かれる存在だ。その兄に特別に扱われることはロキの自尊心をたまらなくくすぐった。だから何か一つでも成したなら、誇れることができたなら、ロキはもれなくソーに見て欲しくもなった。あちこちついて回り、なんなら仔犬だとヘラに例えられたことがあるぐらいだ。「おまえの仔犬が」とソーに説明するのを聞いて、すこしだけ慎ましやかにするようには心がけたが、結局長くは続かず、今でさえソーに自分の手柄を誇ってしまう。認められたいし、褒められたい。それはロキが生まれ持って持っている尽きることのない欲らしい。
だが肝心のソーのほうがすっかり変わってしまった。
もしかするとオーディンの隠居と引き替えに授けられた不可視の冠は、ソーから何かを奪ったのかもしれない。
劇的と言っていいほどソーの振る舞いは変化した。ハンマーの代わりに槍を持ち、オーディンの使い魔たちと契約をしたあとはとくに、言葉数もずっと減っていった。言葉をより深く慎重に選び、思案に沈むようになった。
そうして前王のオーディンの浮世離れした雰囲気とは少し違って、ソーはただそこに居るだけで周囲の者を緊張させる王になった。そして何よりもその一方で、その確かな存在の重みやエネルギーに満ちた佇まいとは裏腹に、このところ髪も髭も色が抜け、徐々にまだらになってきてもいた――老いの兆しだ。これまでソーがずっと打ち勝っていたはずのその戦いの行方には、急激に影が落ち始めていた。永遠に若くあるとさえ思えたマイティ・ソーさえも、とうとう老いという重力に捕まったのだ。
それこそは何事も不変はないということの証明といえるかもしれない。だが、智略で駒を奪い合う卓上遊戯でロキがソーに勝つことはまだ考えられない。
結局ロキは苦々しくも負けを宣言した。ソーは喜ぶでもないまま「三手前が悪かったな」と駒の動きをお互いの三つ前まで戻して指摘した。実際にその盤上ならまだ逃げ道はある。だがロキだってじっくりと考えて敗北を認めたのだ。それだけでは足りないこともわかっていた。結局遅いか、早いか。その違いしかない。もっと前まで遡らなければとソーに勝つことはできないはずだが、ロキなりに盤面をたどったところでたどり着くのはその結論止まりだった。勝つ道順がまるで見えないからだ。
「王の視座にはまだ遠いな、ロキ」
その言葉に顔をあげると、ソーはじっとロキを見つめていた。きっと感情が滲んでいるだろうその視線の意図が、しかしロキには少しも伝わってこなかった。
「べつに必要ないだろう。策略を考えるのは兄上でいい」
「必要になるぞ。お前だって王の子だ」
「末のな。どっちの家でも縁遠い」
「なりたくはないような口ぶりだな」
ソーが目を丸くしているのが不思議だった。
「王に?」
ロキは王座が自分のものになると思ったことはなかった。本当に一度だってない。だってアスガルドの王位は最初からソーのものだとわかっていたし、ソーの次はもちろん、その子供のものになる。馴染みのない故郷のヨトゥンへイムでは正式に王位継承権があるにはあるが、こちらも上の兄姉たちがそれこそ何人もいる。欲しくないとまで強く言えば嘘になってしまうが、期待をするほど愚かでもなかった。だいたいそれは競う気どころか比較する気だって起きやしない輝かしい兄ソーのせいでもある。その非の打ちようのない王らしさの前で自分がふさわしいとはロキは思わない。いや、ソーがいなかったら、また少し気持ちは違ってくるに違いないけれど――でも現実にソーがいる。だから、別にいい。欲しくなんかない。だってべつに王じゃなくても、ロキは何でも手に入れられる。ミョルニルみたいな魔法のハンマーを扱えなくても、金色で丈夫で力強いすばらしいハンマーを自分で作れる。魔術は得意じゃないが、腕力には自信があるのだ。足だって遅くない。ミッドガルドにでも行けば若かりしソーがかつて築き上げた栄光も塗り替えてしまうことだろう自信がある。なにしろロキはアスガルドの戦士として腕を認められている。それにロキに似合って、ロキの魅力を引き出してくれる素敵な鎧がどんなものかだってわかっている。さらには誰より何よりソーがそれを認めてくれているのだ。そうなれば不足はただ、みんなからの賞賛ぐらいしかない。だから――もちろん、王様というのが魅力的じゃないなんて言わない。言葉だっていい響きだと思うし、民に認められるのは、たぶん、とても気持ちがいいことだろうと考えたりもする。なにしろ誰より偉くて、誰もに一目を置かれる存在だ。ソーのように。讃えられ、認められ、慕われる存在だ。そうなれたなら、どれだけソーに与えられても満たされず尽きない欲が、それこそ満たされるかも――なんて、このところは何度も考えてしまっている。
それこそソーのせいだ。そしてこのゲームのせいだ。
駒を並べ直すために盤上から手元に駒を拾いながら、ロキは尋ね返した。深い意図はなかった。冗談のつもりだったし、半笑いの言葉だった。
「まさか兄上はおれを王にする気が?」
ソーは返事の代わりに微笑んだ。なぜかその目元には、言いようのない暗い影が落ちて見えた。瞳がぎらりと輝くようで、ロキは言葉を探した。急に不安の影がさしてくる。まだ昼間のはずだが、まるで夜になってしまったかのようにも思えた。ロキが得体の知れないその感覚に硬直していると、ソーは言葉を選ぶように瞼を伏せた。
「なあロキよ――俺がお前にやれるものは、限られる。愛情も賞賛も望むだけ与えてやれる。お前は俺の弟だから。だがヨトゥンの者だ。アスガルドはやれない」
「では」
やはり冗談だと笑い飛ばそうとするのに、ソーがそれを許してくれなかった。
「だが幸いにもお前には故郷がある」
そしてその言葉でようやく、ロキは思い当たった。最後にヨトゥンへイムの王を招いた食事会を開かれたのはずいぶん昔ではなかったかと。
「大丈夫だ」
なぜか慰めるような兄の甘い声を聴きながら、ロキの頭のなかで、日々の小さな違和感が次々と浮かび上がっていく。まるで進め方を間違えた駒の動きのように、するすると無意識のうちに関連付けられ、思い出される。稽古場で凍傷を負っている兵がいたこと。怪我が最近多いなと思わなくもなかったことそれに兵舎が空で、演習に誘われなかったことも。でも疑問が浮かぶ頃にいつも、ソーが声をかけてきた。卓上遊戯に誘われてきた。他ならぬソーに。
今更行き着く妄想を打ち消せる反証をロキはまるで持っていなかった。なにせヨトゥンへイムに興味がなかった。兄たちの暮らしぶり一つだってそもそも知らない。だいたい父たちの間には、両国には、協定がある。自分という存在で明確化されたものが。あるはずだ。不変のものが。
「欲しくない」
「嘘だな」
ロキの口から咄嗟に溢れた言葉をソーが切り捨てたそのとき、烏のうち一匹が窓の外から帰ってきた。王に九つの世界の報告に来たのだ。それ自体は普通のことだ。見慣れたものだ。だというのになぜか今はとても不吉に思えた。
肩に留まる烏の嘴を労るように撫でてソーは言った。
――よい報せだといいな、ロキ」





――何だ。そんな兄上じゃないって? ああ、わかった。ハンマーを振りかざす必要はない。どうせこの話はここで終わるつもりだった。とにかくお前は甘やかされて育って、そのくせ満たされなくて大口を叩くロキなんだろ。私はそれが言いたくて――ああだから、次の話をするさ!


水兄弟
鰐のロキ

ロキは卵から生まれた時のことを覚えていました。なんとか殻を破って、ぼんやりとした世界がはっきりとしてくるころ、覗き込んできた目があったからです。真っ白な頭に、黒くてまあるい大きな目。それはきっとソーだったに違いありませんが、とにかくその目の主は、まだ殻のかけらをくっつけていたに違いないロキを覗き込んで、細長く二股に分かれた舌をしゅうしゅう言わせて注意深く観察していたようでした。それがロキの一番古い記憶です。でも、これはロキの頭の中だけの秘密でもありました。だってそういうことをするのはなにかを探っているときだけです。ソーがロキを調べたり疑ったりするだなんて、ちょっと記憶のほうが疑わしい出来事だからです。
ロキはずっとソーと一緒でした。他の蛇のことは知りません。ロキがまだ狩りができないような小さい頃には、ソーはとぐろを巻いて囲ってくれましたし、水辺で暮らす中では時折くっついて、巻きついて、じゃれあって。兄弟よと呼びかけ、何もしらない弟に色んな事を教えてくれました。誇らしげに、それから時にはちょっと困った様子で。なにしろ彼はロキの兄で、兄というものはそういうものだとロキに教えたのだってもちろんソーでした。
でも今ではソーが長く眠ってしまう頃、かわりにロキが守ってやることができます。ロキはとても大きくなりました。水面に映さなくたって二人はすっかり違う生き物に見えるぐらいです。兄弟なのになにもかもが違っています。
ロキはとぐろを巻いたソーだって飲み込んでしまえるぐらいにすっかり平たく太ってしまって、ソーみたいにすらりと成長することはありませんでした。背中はなんだかあちこちごつごつして鱗だって硬くなっていきますし、目だってソーに比べたら大きくぎょろりと不気味です。口だってひっこむかと期待していたのとは裏腹に、どんどん長く大きく伸びてしまいました。
いろんなところが違っていたのは最初からですが、ソーにそれを言うたびに、まだお前は小さいからだと言いました。だからロキは大きくなればいつかはソーみたいになるのかと思っていたのに、ちっともそんな兆しは訪れませんでした。そうこうしているうちに、ソーとすっかり同じになるなんて夢見ることはできなくなっていまいました。
だって、ロキにはソーみたいに体に巻きついて獲物を絞め殺すことはできません。そのかわりにするどくて太い牙がたくさんあるので、獲物を咬み殺すことができます。ソーみたいに上品に獲物を丸呑みすることはできなくても、飢えることはありません。
それにソーはしゅうしゅう言うばかりでちっとも吠えたりしませんが、吠える声がロキには何通りだってあります。ソーがびっくりするのであんまり吠えたりしませんが、獲物を目の前にするとどうにもできずに漏れたりします。
そしてなによりも、ロキにはソーにはないものがありました。これはロキが最近知った言葉でしたが『脚』というものでした。なにしろロキはソーみたいに身体をくねらせて歩くことはできません。でも体を支えるその『脚』で歩くことができました。ソーは「そんなのそのうち取れるよ」「おれにも昔はあったんだ」なんて言っていましたが、絶対違うとロキにはもうわかっていました。だってこれは気がついたときからずっとあって、思った通りに動かせるし、触ったものだってわかります。大地も水の温度も、草の感触だってきちんとわかります。脱皮したって脚は逞しく育っていくばかりです。そうそう、その脱皮だってソーとはずいぶん違うのです。ロキの鱗はぽろぽろ剥げて、ソーみたいにひと繋ぎのきれいな形になったことなんか一度もありませんでした。ただぽろぽろ剥げるばかりで、ぜんぜんすてきなものじゃないのです。
だから、ロキだって薄々思ってはいたのです。
――僕と兄上、本当に「おなじ」なのかな?って。

最初に「鼠」が言いました。
つぎに「鶏」も言いました。
さらには「犬」も言いました。
なかでも「猫」なんて、こう言いました。
「きみ、どこからどうみたって鰐でしょう」
ロキがキョトンとしていると、猫は得意げににゃあにゃあ鳴いて笑いました。
「ばかだなあ! 鰐が蛇になったりするもんか! 蛇が鰐になることだって! そんなのあたりまえだろ。だって別の生き物じゃないか」
「でも、兄上は……
「きみ、何にも知らないんだねえ。ここいらじゃきみたち、有名だよ。はぐれものの蛇が鰐を育てててるって! でもまさか蛇のつもりで育ててたのかな? それなら蛇もずいぶんばかな蛇なんだね」
なんてひどいことを言うんでしょう!
ロキが思わず吠えると、猫は飛び上がって逃げていきました。それでもやもやしたままソーのところへ戻ったロキは、失礼なことを言われたのだと兄に言いつけてやりました。ソーは舌を出してシューシュー言いながら聞いていましたが、すっかり黙り込んだきり、ひどいとも侮辱だとも言いませんでした。そうして黙り込み続けるソーに耐えかねて、ロキは名前を呼びました。それがこれまでで一番しょんぼりして不安な声になった自覚はありました。
でもソーのほうも枝にうなだれて、ぽつりと言うのです。
……おまえが蛇ならいいなって、思ってたんだ」
ロキはすぐに、続きを聞いてはいけないのかもしれないと思いました。でも、そうじゃないかもしれないと期待もしてしまいました。だってソーはいつだってロキを弟よと呼びかけて、鱗をすり寄せあい、体温を分け与えてきたのです。何も知らないロキに一つ一つを教えてきたのです。
「ほんとは、ちょっと、大きいかもって思ってた。でも、大きいほうがいいだろ? だから、たいしたことじゃないって。でも、でも……殻が割れたら……おまえは違くて……おれもびっくりしたんだ」
ソーは残酷なことを言っている自覚なんかないのでしょう。でも、後ろめたさでロキからそっぽを向いたきりです。
もうそれ以上を聞きたくなくて、とうとうロキは逃げ出しました。ソーが今の自分に追いつくのがむずかしいことはもうすっかりわかっていました。
そして、みんなが言ったことが本当だということも。

嵐みたいに草をかき分けて、ロキはさっきの「鼠」を見つけると、ぱくりと丸呑みにしてやりました。
それがなんの意味もないことはすっかりよくわかっていましたが、「鰐だ」と言った相手をみんなお腹に納めて、なかったことにしていこうと思ったのです。
だってロキも、ソーの願ったとおり蛇がよかったのです。
暴れる「鶏」には口の中が羽根だらけになりましたし、口の中をひっかかれて、ずきずきするようになりました。
「犬」のときはまず噛み付いて、大人しくさせました。ぽろぽろ涙がこぼれましたが、噛み付いた牙に向けられた痛々しい鳴き声のせいなのか、血が口の中の傷にしみたせいだかはわかりません。
最後に「猫」のときには、一言だって声を聞きたくなくて、これ以上にないぐらい口を大きく開いて、これも兄がそうするみたいに丸呑みで飲み込んでやりました。ロキからしたらその「猫」は思っていたよりずいぶん小さかったので、あんぐりと口を開ければそれは簡単だったのです。
「ああなんてこと!」
でも尻尾を口に納めた頃、口の中にいるはずの猫とそっくりの毛並みの、ちょっと大きな猫が飛んできました。
きっと二匹は兄弟だったのでしょう。悲しいことに、ロキにはひとめでそれがわかってしまいました。
だってロキにもずっと兄弟がいたのですから。

ロキはぼろぼろ泣きながら、もう一匹の猫もお腹の中に押し込みました。涙はもう一生分溢れきってしまったに違いありません。
ロキはもう、ひとりぼっちでした。
ソーは追いかけてきません。追いつけないんじゃなく、たぶんもう二度と追いかけてこないのでしょう。水辺で身を寄せ合って暮らしてきた全てが間違いだったのです。
だってロキには蛇のように獲物を絞め殺すことも、丸呑みすることだって向いていません。小さな獲物ならともかく、噛み付いてちぎって、楽ですし、咄嗟にそうしてしまいます。なにしろロキには土を踏みしめる脚があり、肉を削ぐ牙があるのです。ソーとは違う生き物でした。やっぱりそれはどうしようもなく、そうなのでした。




――……寝てるって? それは残念だ。あんたが抱えてくれているものだから噛まれる心配もないと思って喋ったのに。


リメンバー運命
クラシック・ロキとキッド・ロキ

なにも過去の鏡を覗き込んだように似ているわけではなかった。それでもひと目で『ロキ』だとわかった。かつての私。あるいはその可能性であろうと。時間変異取締局の言っていた変異体という言葉の意味をひと目で理解できた。退屈そうな頭上を飾っているのは見覚えのあるものではなかったが、確かにツノの生えた黄金の冠だし、肩口で外に跳ねる黒髪にも、愛想のない面差しにも、どこか見覚えがあった。それはかつての曇った鏡の中で、あるいは精密ではない肖像画のなかで見たものだ。揺れる湖の水面に映る影のように近くて遠く、朧げな近似性。少年はフーディーの上にベロアの上着を羽織り、冠と揃いの黄金のベルトで留めていた。ベロアと揃いの緑に染められ、着古された革のズボンはブーツに突っ込まれており、簡易的だが武装した姿はピントのずれた写真を遠巻きに見るかのようだった。細部こそ違っているが、それでも意匠遣いの好みには極めて近いものを覚える姿。ただ、自分が少年の肉体であったころであればもっと幼い顔立ちだっただろうと思わせる表情だった。
倒壊した白い家の面影を残す無惨なポーチで、彼はロッキングチェアに身体をすっかり預けて船を漕いでいた。そして突然降ってきた私の無様な着地音を聞いて気怠げに瞼を上げたのだった。
ロキはその出会いをよく覚えていた。なにしろこちらが尻餅から身を起こしているとその少年は「間抜け」と今にも再び落ちそうな瞼を押し上げて息をつくように罵ってきたのだから。
とっさに罵り返さなかったのは、私が彼の幼稚さを流せる程度には歳を重ねていたおかげと言ってもよかったが、こちらを見下げるその瞳が気怠げでやけっぱちで――それこそ今にして思えば、アライオスの跋扈するこの虚無にふさわしかったせいも多少は影響していたのかもしれない。
見た目通りの年齢とは思えぬほど冷めた眼差しに言葉を失っていると、彼はこちらの様子などまるきり無視して猫が体を伸ばすように伸びをして、軋む椅子から弾むように立ち上がった。そうして立ち上がる姿は子供にしては上背があり、並んだところで大した身長差は生まれなかった。せいぜいが頭ひとつ程度の差だ。それでも無警戒に目の前に歩み寄った彼はまるで巨人でも見るような大仰な仕草で私の爪先から頭の先までをじっと眺めてから「ふうん、なるほど。お前はなかなか長生きらしい」と顰め面で言った。
顔を顰めたところでどこか物憂げな様子は変わらなかった。だが腰に手をあて、胸を張る仕草は意図せず身に染み付いた癖だったのだろう。きわめて自然なその傲慢の色は、はじめて見える彼の幼さでもあった。世間知らずの子供っぽさとも言えた。なにしろ透けて見えたのは先程の冷ややかな面差しが嘘のような青臭さ! 思わず苦い気持ちが胸の奥に広がり、その気持ちと裏腹に唇の端が笑みで緩む自覚はあった。
「それは――否定はできそうにないな。まあ、お前に比べれば大抵は老人なのだろうがね」
少年は肯定こそしなかったが、目を細めて小さく笑った。
――『虚無』へようこそ、ご老人」
そしてそのまま無遠慮かつ傲慢な態度のまま手を差し出してきた。生白い肌には不釣り合いな、剣を握り慣れた手のひら。幼くとも無骨で、魔術に傾倒した自分とはまるで違う手のひらに面食らいながら握手に応じる。手のひらは態度に似合わず温かく、その年頃だった兄を思い出させた。
そんな風に遠いかつてを思い出すことなどずいぶん久しぶりのことだった。そもそも一人きりで辺鄙な惑星に潜んで過ごして長かったものだから、人と出会うこと自体がなかったせいもある。だが少年の振る舞いはたしかに、頭の奥へとすっかり追いやったはずの遠い記憶をくすぐるものだった。落ちているはずもない影をいつかどこかのロキの面差しに見るなどとは、とても信じられないことだったが。
なにせ似ているところなんてどこもないはずなのだ。
だってこれはロキだ。私だ。光と影、太陽と月。陳腐な例えがいくらでも浮かぶ。かつての自分の可能性にその影を見るだなんて、とんだ錯覚だった。それこそ比較されては似ていないと繰り返されてきた相手だ。かつての自分にその類似性を認めるなど、にわかには信じられなかった。
しかしそれは幾度頭の中で打ち消しても、潮の満ち引きのように何度も襲ってくる感覚だった――たとえばアライオスから二人、初めて逃げ出したその時さえもそうだった。いや、その時が一番色濃くそう思わせた出来事だった。
記憶の再現かと思うほど「お前の魔術など効かない」と私を侮り、罵るように吐き捨てたその声は、魔術を侮り、弟を侮り、拗ねた顔で言い捨てた兄の蔑みの声とそっくり同じ調子だった。その屈辱が今の出来事のように去来し、危うく目の前が真っ赤になるかと思うほど。
しかしその場においての少年の言葉は当時の兄と違って正当な言葉には違いなかった。なにしろこの世界を徘徊するあの怪物ときたら、この偉大なるロキの魔術をスナック感覚で飲み込んだのだ。
それなりの威力を込めて編んだ魔術をぱくりとやられ、ようやくあの倒壊した家の名残が思い当たった。迫り来る実体のない怪物が追いつく前に、彼に倣って駆け出す。
「あれの原因か!?」
よもやと頭に浮かんだ予想に悲鳴じみた質問を向ければ、少年は鋭く肯定した。
「だからすぐわかると言ったんだ!」
命からがら、なんとか小高い丘の下に埋もれ崩れた屋敷の一部へ逃げ込む頃には、お互いに足がもつれそうだった。肩で息をし、飛び出しかねない勢いの心音が収まるのを待つ。一緒に建物に転がり込み、倒壊で積もった埃を遠い光源のなかで舞い散らせた少年は、いつの間にか床で大の字になっていた。それから彼はやがて深いため息をひとつ吐き出すと、そのまま心底呆れたと言いたげな声をこちらに向けてきた。
「ところでお前は世間知らずだな、先人の助言は聞くものと学んでこなかったのか? そんなに年老いておいて?」
「お前こそ、人生の先輩は敬うべきだとは教わらなかったのか?」
言い返せば、少年は一瞬きょとんとしてから吹き出した。
「先輩だって!?」
肩を震わせて笑いはじめた彼の無礼さに眉を顰めていると、彼は笑いに震える体をどうにか起こした。震えながらも立てた膝に額を寄せながらこちらを見る。
「ああ、そうか。そうだな。まだ説明していなかった。悪かったよ、その点は詫びよう」
その笑みは無邪気とは正反対のもので、にんまり笑う唇に違和感を覚えるような笑みで、煮詰めた悪意を透かすかのように暗かった。
「ここは永遠に終わり続ける場所だ。意味がわかるか、ご老体。すべてが起きて、すべてが起きない。時間の終わりだ」
……何が言いたい」
もういつだったか忘れたが――と少年は唇を皮肉げに釣り上げ、仄青い瞳を細めた。奇妙なことにその表情は意地の悪いことを言って私をからかったかつての兄にそっくりだった。血など一滴だって繋がっていないのに。
「ここでは歳など取らない。肉体年齢だけなら勝ちを譲るが、骨董品が僕より年上かは議論が必要になるぞ」
その――一音を吐き出すほど自信に満ちあふれてゆく唇、それから己が全能性を疑いもしないような目つき。
まったくもって驚くべきことだが、それは自分が弟の知らないことを知っていると確信し、その優越感に浸るソーが見せる表情そのものだった。
重なるわけもない面影が見える。幻が見える。一緒に暮らした歳月より長く会っていないその顔が思い出される。
まさか冠にツノのみならず翼の意匠まであるためなのか。いや、そんなはずもない。これは本質の問題だ。
言葉の意味よりも重なる影に私が驚き、目をみはっていることなど思いもよらないだろう少年はこちらのリアクションに気を払うことなどないまま言葉を続けた。その様子ひとつにさえ、兄が思い出される。まるで一度思ってしまえはもう二度と解けない呪いのよう。
「お前はよく逃げ延びたのだろう。なにしろお前ほどの老人ははじめてだ。お前が変わろうとするよりずっと早く、みな轍を外れてここへ来る」
――知らなかっただろう、と。その自慢げな子供っぽい笑みは似ても似つかないもののはずなのに。髪型も髪の色も、輪郭も唇の厚みも、鼻の形も瞳の色も形もすっかり違っていて重なるわけもないのに。
それでも記憶の中の兄と、目の前の少年の浮かべる笑顔はまるきり同じものとして私の瞳には映った。
私のソーは、兄上は、無邪気な男だった。無邪気――今となってはこれほどあれに似合う言葉が他にあるとは思えなかった。己の恵まれた身の上に無自覚なところ以外は偉大なオーディンそっくりの輝かしい王の息子。そう在れと望まれたとおりに素直で愚かな生まれながらの王。
幼い頃から比べられ、肩を並べながらも違う道を選んだのは遠い過去の出来事だ。千年共に暮らして少しの成長があろうとも、そもそも手本があの九つの世界を治めるオーディンだ。傲慢になるのは必然であっただろう。なにしろアスガルドに馴染まぬ頑固者の弟もいる。比べればなおさら鼻は高くなっていく。その上少しばかりの自惚れは武勲を誇るアスガルドとは大層相性がよいものだった。そうともなれば自惚れは改まる機会を得ることなぞなかった。何より私だってそれを許していた。兄のその愚かさは憎めないものでもあったし、所詮ははしかのようなものだろうとたかを括っていたことも否めない。手のかかる子供はかわいいというのはまさにあれだ。実感として兄に抱いていたものは。
一方で私は手がかかる子供ではなかったはずだ。私にお前は面倒だと文句を言うのはソーばかりだったし、ソーが関わりさえしなければ私はいつだって優等生をやっていられた。それは性に合っていたし、なによりか釣り合いがとれていた。私にとっては。
それでも体格に差が現れ、得意にも違いが開いていき、惹かれるものがすっかり分かれる頃にもなれば、あの偉大なオーディンの息子ときたら愚かにも自分の両親もまた優れた魔術師でもあることをすっかり忘れ、弟の魔術を侮るようにもなっていた。些細とはいえ悪戯でそれなりに痛い目を見せているはずなのに――いや、今にして思えばだからこそだったのか?――兄はいつだって私を侮って扱った。いくじなしだの、ひ弱だの。剣を取らずに魔術の腕を磨くことを面白くないと思っていたのは確かだろう。武勲への執着心を隠したことも。だが誰が勝てないとわかっている腕を磨くというのだ? 昔からソーは考えが浅かったが、とうとう訂正する気も失せた私を侮り続けた。それこそ短剣で脇腹を刺してやったところでけろりとして、豪快に笑ってみせもした。私が呪いで蛇の姿になって遊んでやれば熱烈にかわいがるほどすっかり騙されていたのに、種明かしをすればいつも「大した魔術じゃないな」と小馬鹿にするのを忘れなかった。私も今ほど達観できていなかったので、馬鹿げた喧嘩はしょっちゅう起きて、そのうち侮られていることを逆手に取れるようになるまでは険悪な時期もあった。
それでも「拗ねるな」とうなじに手を添えて、金の睫毛で瞳に影を落としながら額を寄せて。頬を寄せ合い戯れ合う小さな子供じみた触れ合いがいつまでも続けられると、私自身も心のどこかで信じていた。

ふいに瞬きから意識を浮上させると、ロキは自分が眠り込んでいたのに気がついた。自分の肩が跳ねるのを感じて目覚めれば、片腕には乾いたグラス、もう片腕は黄色いマントで包むように栓を抜いた葡萄酒の瓶を抱え込んでいた。水音はひそやかで残量の細やかさはすぐにわかった。
まったく老いたものだなとロキは感傷的な思い出を振り払うように額を撫でた。それから冗談めかした玉座で眠っている永遠の子供に視線を向けると、指を鳴らして毛布でその体を包んでやった。
葡萄酒をグラスへ一杯分だけ注ぎ直し、すぐそばの小さな水辺に視線を向ける。
彼の水鉢は小さくて浅いものだが、小柄な鰐の薄い体のほとんどを沈めることができるものだ。今うとうととして見えるのが哺乳類と同じ状態なのかはわからないが、瞬膜がゆっくりと瞬く様子はくつろいでいるようにしか見えなかったし、すぐに人の手や裾を噛みちぎりたがるやんちゃを思えば、今はすこぶるご機嫌なのは間違いがないその小さな変異体へ瓶を傾け、ロキはおかわりを確認する。
「いるかね?」
応えて小さく吼える声は是であろうと身を乗り出し、体の半分はありそうな大きな口のなかへ葡萄酒の残りを注いでやる。この鰐は意外なことに酒を好むのだ。今だって口から溢れた酒で水が赤く濁るのをちっとも気にしておらず、水を飲むのが下手な猫のように喜んでいる。体長を考慮すれば、今のところこの鰐こそがうわばみロキと言えるだろう――まあ、まだ蛇のロキには出会っていないから、暫定ではあるのだが。
いまのところ哺乳類ではない変異体のロキはこの鰐だけしか出会っていないが、誤った猫を食べて剪定されたことぐらいしか実は知らない。したがってこの生き物の兄がどのような姿なのかだって知らなかった。なぜなら神といえども鰐の言葉のすべてを解せるわけもなく、いくら小さな頭を撫で回したところで記憶だって哺乳類と違ってうまく読み取れやしなかったからだ。
けれどもこれもロキだ。であれば、やはり同じようにソーがいたのは違いないだろう。
それが実の兄でも義理の兄でも。どのような関係にしろ、必ずロキにはソーがいる。どのような関係でも自分を照らす眩しい太陽がいると知っている。少なくとも時間変異取締局に捕まり、この生ぬるい悪夢に棄てられる愚かなロキは等しくそうなのだろう。過ちも愚かさも真実も見ないふりをして生き残ろうと逃げ回る。だからこんなところにやってきてまで生き延びてしまう。
なにしろこの虚無の王たるあの少年が言ったのだ。
ここに来るロキはみんなそうだと。スポーツマンでも、魔術師でも、ペテン師でも、海賊でも。それこそ政治家だろうがテロリストだろうが王であろうが変わらない。みながそれぞれに緑色と自分を飾り立てることが大好きで、必ずソーと出会っている――自分が除け者の神であることを思い知らせてくれる唯一に。妬んでも恨んでも、結局のところどこまでだって憎みきれない、そのただ一人に。どのような形であってもいつも出会う。出会わずには生きられない。だからいつか変化してしまう。必ず岐路に立つ。
ロキは葡萄酒を喉奥へと流し込み、自分の思考から逃げるように軋む椅子の背もたれへと背を預けた。




――おや。今回は皆だんまりか? まあいい。では次だ。


汝ら罪なし
シルヴィ

魔術のかかったマントをフードのように頭から被り、車輪の振動をダイレクトに伝えてくる壁に寄り掛かって体をあずけながら、ロキは息を潜めていた。
あと五秒だけ、十秒だけ。いや、やっぱりあと三分ぐらい――ううん、だめだ。重い瞼を押し上げようとしては失敗し続けているが、なにしろくたくたのぼろぼろの状態なのに、糊まで効いた清潔なシーツの山と同席している。これが羽毛布団だったらきっと抗えていないから、まだ救いのある状況ではあるけれど。ホテルでなくてよかった。寝台車の硬いベッドでも横たわったら一瞬だろうけど、とにかくはやくすっかり意識を手放してしまいたかった。朦朧としはじめた自分の手のひらに爪を食い込ませてなんとか活を入れ、手のひらがじわりと緊張に汗ばむのに意識を集中させる。重いブーツの足音がたしかに近づいてくるのには間に合った。幸いにも足音は一つで、距離はあと十歩、いや七歩。距離を測りながら、短剣をイメージする。薄くて鋭くてなめらかで重みのある、美しいものを。革を巻いた持ち手の、その使い込み傷跡の想像まで、呼吸するように馴染んだものだ。手の中に現れたそれを握りなおすと、ロキは息を吸い込み、扉の向こうに飛び出した。駆け巡るアドレナリンは体を軽く感じさせるほどだった。勢いづいたまま、すらりとした刃先で武装した局員の喉をかき切る。少しの躊躇も慈悲もなく、本人が気づいて喉元を抑えたところで手遅れで、嫌な湿った音の次に倒れ込む肉体が大きな音を立てないように抱きしめる。自分の倍の厚みがある人体のずしりとした重みの他に、襟元にはじわじわと温いものが染みてくる不快な感触があった。でもそれを努めて無視して、相手のプロテクターに守られた肘で通路向かいの窓を叩き割り、ようやく大きな音がたつのを無視して割れたガラスの向こうへ飛び出した。
走っている列車から飛び降りたのだ。当然、体が紙屑みたいに風に踊る。はためくマントを手放さないように裾を握りしめ、着地の衝撃に備えて体を丸くやわらかくイメージした。さっきまで身を預けたくてたまらなかった眠気はすっかり吹き飛んでいた。なにしろ線路沿いの土手から激しい勢いで転げ落ちていく真っ最中だ。あたりどころが悪ければ怪我だけではすまない。転がる我が身から早く勢いが削げるように必死で魔術をかける。死ぬわけにはいかなかった。この窮地を逃れてもまだやることはある。やることだらけだ。ロキは逃亡者だから。いつだってそう。お前の存在は間違いだと糾弾する奴らから逃げている。
時間変異取締局がやってきた頃、ロキは魔術の一つだって使ったことはなかった。遊ぶのはいつもひとりで、体を動かして遊ぶよりも、部屋の中にいる子供だった。物語のなかの数々の冒険譚に胸を弾ませ、自分がヴァルキリー部隊の一員になって様々な冒険に身を躍らせることを空想するような。けれど突然見知らぬ武装した人々が部屋にやってきたのだ。有無を言わさず抱え上げられ、おもちゃもなにもかも取り上げられた。それからお前の人生は誤りだとわけもわからないまま断罪された。あの頃の自分を思えば、逃げ出せたのは奇跡だった。もうずっと前の話だ。
逃げたところで何も持たない子供が生き残るのは大変なことだったが、どこの世界にも優しい大人というものがいて、幸いにもそういう人たちの間をロキは、シルヴィは転々とする子供時代を過ごした。それは事情に踏み込んでこない老夫婦、事情がある兄妹たち、自らも事情を抱えるやくざもの。こどもを利用しようとする脛に傷あるろくでなし。とにかく世話を見たり見られたり、騙されたり騙したりしてなんとかすっかり成長した。
けれどその都度うまくやっても、やらなくても、結局武装した時間変異取締局が現れるのは変わらなかった。何度も何度も何度も。その時々で姿も数も違う追手から逃げるうちに、アスガルドでの日々の記憶は擦り切れてよく思い出せないぐらい遠くになった。定められた時間軸で、自分がどうなる運命だったかなんてもう想像もつかない。そのくせ変異体めと追い回される日々は続いていて、いいかげんうんざりしていた。シルヴィという名前もそんな頃にもらったものだ。だから今はもうロキと名乗ったりしていない。二度と名乗るつもりもなかった。ロキとして正しくないと言われるのなら、喜んでロキをやめてやるつもりだった。髪の色だってあれこれと試してきた。でも自分で黒い髪を染めるのだけはいつまでもうまくならなくて、完璧な髪色はいつも、仲良くなった人がうまく染めてくれるときだけだった。
だがいくら別人になろうとしても時間変異取締局――略してTVAは何度でも時空を渡ってやってくる。放っておいてくれればいいものをいくらでも蟻のように湧いて出てきて、タイムキーパーの定めた正義を信じこみ、道を外れたというロキを罰しようとしてくる。狂信といってもいい。説得も泣き落としも無駄だと悟るのに時間はかからず、しかたなく逃げ延びる術を研いだ。盗みを覚えたし、必要であれば殺すことも覚えた。殺さず逃げられるほどの余裕なんかなかった。なにしろ魔術は使えなかった。習ったこともないから、基礎は魔術書を盗んで覚えて、あとは想像と失敗の繰り返しで身につけた。今は呼吸ほど簡単なことも、はじめてできたときの興奮を鮮明に覚えている。
シルヴィは自分の手のひらの中にタイムパッドがしっかり握られているのを認識してから瞼を押し上げた。現実にどれぐらい意識を手放していたかはわからないが、もう列車の気配は近くにない。
土が頬についているのだから、頭だってひどいありさまだろう。ただでさえ首元は血を吸っている。でもマントの認識阻害の魔術は残っているようだし、五体満足で、敵も今は近くにいない。一息ついていてもまあ許されるところだ。深いため息をついて、改めて手足を放り出す。
さっき飛び降りた列車はあの先で大事故が起きる。そのうちに今いるところだって火の手が回るほどの大事故だ。ドミノ倒しのように影響は続き、やがて島ごと海に沈む大惨事のはじまり。シルヴィは避けられないその運命を既に知っている。知っているからここにやってきたのだ。今はまだ高く青い空ものどかな空気もちっとも緊張感がないが、数時間後には空が赤くなるほどの事故が起こる。だがそれを待って休むだけの時間はたしかに残っている。
どこへ行っても追手が来るが、終わることが決まっている場所では時間変異取締局の追手が緩む。なにをしても無意味だとわかっている場所を調べるという手間を嫌うらしいとわかったのは最近の大きな収穫だった。
なにせ逃がしてくれないというのなら、立ち向かうしかない。シルヴィはただ自由が欲しかった。ロキと扱われず、ただのシルヴィとして存在を許されたかった。気兼ねなく誰かと関わりたかった。信用のできる誰かが欲しかった。それこそ心の中を覗いても失望せずに済む誰かが。
はじめて人の心を操ったのは男だ。妻と自分を混同させて、隠し事を洗いざらい教えさせた時は涙ぐんでしまったぐらいには悲しい出来事だった。今ふりかえれば警戒心を高めてくれたいい出会いだったと言っていいかもしれないが。なにしろ自分の才能に気がついたきっかけだ。初恋ではなかったが、恋して、愛してさえいたはずだった。
追手から身を隠す生活といえど、シルヴィにもそれなりに恋愛はしてきた。それは公園のベンチで出会った女の子や、列車で肩が触れ合った青年だったり何気ない出会いから運命的な出会いまで様々だが、いつも必ず静電気みたいにビリビリと感じるものがあって、すぐにわかるものだった。いつか本で読んだ郵便配達人を薄ぼんやりといつも思い出すぐらいだから、たぶん一番最初のビリビリは彼だったのだろう。でも結局ビリビリくる相手は何人も見つかるのに、逃げるのに巻き込みたいと思ったのは一度だけで、それがドナルドという男だった。刈り上げた金髪に鍛えられた逞しい腕。メッセンジャーとしてあちこちを忙しく駆け回っている男で、秘密を隠すのが得意な男だった。それこそシルヴィが自分の能力の発現に気づけず混乱してしまったぐらいには嘘の上手な男だった。半年も入れ込んでいたことが悔しくて、シルヴィはしばらく彼を心をいじくり回す練習台にして――まあ、思い出は美しいままが一番だ。とにかく彼のおかげで人を操る魔術の腕はすっかり磨き上げられ、猜疑心は海の底より深くなった。
最初に局員の心を覗き込んだのは、逃げるためだった。心を操るのはコツを掴めば手っ取り早いし、スムーズだ。でも、そうして頭を覗き込んでみたら、思わぬ真実まで見えてきてしまった。自分を追う局員たちも誰かの変異体で、タイムキーパーに創造されたりスカウトされたわけじゃないっていう真実。本人の持つ記憶をみんな操作されていることを知ってからは、ただ逃げていたときよりもずっと慎重に振る舞うようになった。だって途方もなく頭にきた。さっさと滅ぼした方がいいに決まっている。こんな組織は。なにが神聖時間軸だ。そんなの知ったことか。やり口がペテンもペテン。人権意識のかけらもない。さすがは人を勝手に断罪するだけはある。みな記憶を消され、操られ、無自覚に同胞を始末させてるなんてひどい方舟もあったものだ。なにがタイムキーパーだ。神気取りで実質はただの洗脳なんて。
そこで逃げるのから目的を変えた。組織の壊滅だ。二度と私を追わせない。私みたいに断罪させない。私なら――何だ。もういい? 終わりにしろ? いや、まってくれシルヴィ。私は真面目に……ああ、わかった、わかったよ。君を怒らせたいわけじゃない。本当に。こればかりは本心だとも。


アイム・ヒア
キッド・ロキと虚無

黄金の睫毛に縁取られた目玉はいつもきらきら眩くて、宝石のようだった。覗き込めば映り込んでいる自分が見えそうなぐらいのぴかぴかで、その青い瞳はいつだってその存在の絶対性を信じさせる力強さがあった。磨く必要もない天性の輝きだ。さざ波に煌めく海のように深く美しい青。その青い瞳が驚きに瞬き、それから暗くくすんで――うっすら潤んだ。そうして驚いた兄の唇から音もなく力が抜けるのがわかると、それが最後の瞬きだということもわかった。静かに、けれど確かに変わってしまった瞬間はそのようにやってきたのだ。静けさのせいで、ロキはいつかソーが投げ入れた小石が湖面を揺らしたことを思い出した。二人で波紋を残しながらボートを漕いだ記憶は、まださほど遠いものではなかった。ふいに場が静まる度にどちらともなく「小石」と思い出させて笑いを誘った出来事だった。それはソーが投げた小石がしばらくして大蛇に姿を変えた事件のことだ。大蛇のおかげで突然の大波に揉まれることとなり、二人のボートは転覆しかけた。そこで慌てて飛び上がったソーがムジョルニアで大蛇の頭を力一杯叩き、その巨体を再び水中深くへ沈める羽目になったのだ。何気ない小石一つで。結局シーソーよろしく極端な揺れに見舞われたボートは奇跡的にも転覆しなかったが、二人ともずぶ濡れで顔を合わせ、ボートを沈めてしまいそうな水を魔法で汲み取りながら大笑いした楽しい思い出だった。
自分より一回り以上大きい兄と連れ立てば、そのように大抵の場合は賑やかで、退屈とは無縁だった。もちろん時には穏やかに静かな時を過ごした日々もあった。それだって数えられないぐらいの多くの日々で、健やかなるときも病めるときも連れあう伴侶のように肩を並べ、じゃれあって過ごす日々は楽しかった。どんなにロキの猜疑心が強くとも、ソーの持ち前の素直さによってお互いに腹の内など探り合わず隣にいられた。たとえ他の誰が陰口を叩いても構わなかった。それこそ兄はいつも一歩先に踏み出しては大人げなくも誇らしげに煽って来たし、負けじと肩をぶつけ返すのがお決まりだった。いつも。いつまでもそうして過ごすはずだった。
それなのにいまやロキの小さな膝の上でソーは醒めることのない眠りについている。口から溢れた血はきれいに拭取れたとは言い難かったが、それでもただ眠るように穏やかな顔だった。整えるように兄の髪を指ですきながら、その死に顔をぼんやりと眺めて思い出に浸っているといつまでもそうしていられるような気がした。だがそこへ時間変異取締局はやってきた。
だからロキは兄の遺体がどうなったか、そしてアスガルドがどうなったかを知らない。ただ、被告人席に引っ立てられてようやく、兄の死が自分以外の現実でもあったとわかっただけだ。
結局のところロキにとって兄を殺した事実の前では、裁判が名ばかりの処刑だろうが何もかも意味を持たず、どうでもよいことだった。ソーの死は確かに大きな出来事で、宇宙規模の損失だと言われて否定はできない。だってこれから先、ラグナロクの予言すらハンマーで軽々と打ち壊すような日が来たかもしれない。あの兄ならそうしたかもしれないと思わせるような、欠けるはずのない存在だった。
それなのにその罰らしい剪定という行為が与えてくれる物は死ではなかった。槍で刺されたと思った次の瞬間に、放り出されたその場所は誰もいない湿った野原だった。生き物は潜んでいるかもしれなかったが、物音はなく柔らかな風が草を揺らす音しか聞こえない。流刑かと呟くその声さえ聞く者はいなかった。
それで行くあてもなく小石を蹴りながら歩けば、野原はやがて終わり、蔦の絡まる建築物の残骸に行きあたった。倒壊し、半壊以上のありさまも少なくなく、まるで遺跡だと思ったが理由はすぐにわかった。嵐のせいだ。
長らく名前を知らずにやり過ごすことになるこの意思のある嵐との初遭遇に、ロキは思わず笑ってしまった。なにしろ体は勝手に走り出し、避難場所を探したからだ。そうして一度笑ってしまうと、何もかもちっともよくない自覚があとから追いついて来て、もう諦めて身を放り出すことはできなかった。ロキにはソーのように天候を操る魔術もハンマーもない。対抗手段はない。だが身を投げ出すような真似をしたら、もう二度とソーに肩をぶつけ返したりする自分には戻れないと思った。思ってしまった。ソーならどうするかを。そんなのはもちろん決まっていて、立ち向かうに決まっている。だがロキが立ち向かうのはただの無謀だし、ソーだってだめだとわかっていることはしない。
だから逃げた。嵐がロキを見失うまで必死に。
結局それからも度々遭遇することになったその嵐は、エネルギーを求めて徘徊している生き物らしかった。嵐から逃れようとする生き物を見つけて、ロキはそれを理解した。
行くあてのない日々は続いていたが、まず出会ったのは兎だった。大きな耳に力強い脚、それに黄金の兜と胸飾りをふわふわの毛並みに埋もれさせた兎だ。赤茶けたまだらな毛並みにつぶらな瞳、忙しなく動く鼻先はかわいらしかったが、まだその頃はさまざまなロキに出会っていなかったので、まさかロキだとは露ほども思わなかったが。それは次に出会った蛇にしてもそうだった。まだその頃はロキの知らぬ世の流行かなにかだとばかり思っていたが、腕に四重にも巻きつく体長のこちらも、黄金のツノを冠していた。ただ、意思疎通さえできたなら違う結末を迎えていたかもしれないが――この二匹はひと目でお互いを敵視しあって、最終的には不幸な結末を迎えた。
その次に出会ったのはロキではない海賊だったが、そこでようやく言語の通じる相手に遭遇し、この世界のことがわかってきた。もっとも、アライオス――これは海賊が読んでいた呼び名だ――だけでなく、その後は海賊の乗り回す車からも逃げ隠れすると誓うような出来事ではあったし、剣の腕を磨こうと密かに決心させられもしたのだが。
とにかく嵐からも海賊からも身を隠しながら、ロキは、ずいぶん長い間一人で過ごした。彷徨うなかで見つけた隠れ家を転々としながら、迷った時の判断基準を思いきってすべて『ソーならどうするか』に定めた。もちろん、ロキでは現実的ではない選択肢になることも少なくはなかった。なにしろ二人はまるで違っていて、能力だって近くはなかった。けれどもそうして選び続ければ、不思議と局面を乗り切ることができた。そしてそんな晩はいつも、深く眠ることができた。
それからとうとうナイフよりも魔術よりも剣に手のひらが馴染んだころになって、ロキはようやく二足歩行の別のロキに出会った。一度出会うと、不思議なことに堰を切ったように新入りのロキはいくらでも増えるようになった。ロキには怪盗もいたし、捜査官を気取ったやつもいた。ただ共通しているのは皆一緒に過ごしてみると、自分の嫌な部分を見つけてしまうようでなかなか長くは一緒に過ごせないことだった。それに歳だってばらばらでのくせに、子どものロキは現れる兆しさえ見せなかった。女性の姿をしたロキもだ。タイムキーパーの仕事の偏りが偶然であるのか気になってきたその頃に、政治家のロキが現れた。そして老人のロキが。
政治家のロキはそれまで出会ったロキのなかでいちばんの権力志向で、いよいよ同じ場所にいるとうんざりするので他のロキたちが離れていったのを真似て、今度は自分から離れることにした。
「支持者になれなくて残念だ。心からな」
そうして心にもないことを言って、眉尻を下げたスーツ姿に別れを告げると、老人のほうは平然と「では行こうか」と後をついてきた。それで結局はしばらく二人になった。
そこに合流したのが鰐のロキで、老人が「ロキだ」と言い出したのを疑わしく思っていたが、これもどこかのありえた自分かと思うとおもしろくて、親しみが持てた。なにより鰐の言葉がわかると言う老人が語る顛末がなかなかおもしろかったせいもある。抱き上げても抵抗せず、気持ちの良い肌触りの背中を撫でさせてくれるところも、なにもかもが気に入った。それに鰐のほうも満更ではない様子なので、隠れ家を移る度に水場を作ってやることにもした。
剪定される数が増えているのか、虚無は賑やかになりつつあった。最初のころにはとても考えられない。時々自慢屋がロキを頼りにやって来るが、度々裏切ってはまた戻ってを繰り返す。
「懲りないやつだな」
「そこはやはり我々だから」
しかたがない、と肩をすくめる老人と同意するように吠える鰐だけは長らく一緒に暮らせている。もしかすると、それこそいつかまた小石が投げ入れられる時が来るまではずっと、この繰り返しなのかもしれなかった。


ここに記すのには割愛した物語もあったが――とにかくこれでおしまいだと言外に示すためか、ぱっと胸の前で手を開き、ワイシャツ姿のロキは満足げに瞼を下ろした。背中を小さな背もたれに預け、それから来るべく賞賛を受け止めるように両手を広げる。自分を疑うなんて考えつきもしないのだろう。その口角はぴかぴかの頬を上に押し上げていて、押し上げられた頬ときたら自惚れでうっすらと紅潮さえしていた。与えられるはずの賞賛をまるで疑っていないのは誰が見てもわかることで、その様子に何人かが項垂れ、顔を覆ったことなど彼はまるで気づかない。
確かに、その舌は一度だって絡れなかったし、自信に満ちたその語り口は人の意識を惹きつけるものだった。語り手としては適切なしゃべりだった。内容はともかくとして。思考が口の速度と比例することはなかなかなく、また比例したところで人に向けて語ることはまた別の技術を伴う。だが練習でもしたかのように言葉は途切れず続き、沈黙するべき間だって心得ていた。耳を傾けさせる話術というものを感じさせる点については、話を聞いていたその場の全員が認めてもよいことだろう。なにしろ実際にはワイシャツ姿のロキは髪だってそれなりに乱れ、汗や土埃でどろどろなのは間違いがないのだが、話をしているその時ばかりは上質な仕立てで糊の効いたシャツや、足をさらに長く見せるように計算されたスラックスにもきちんとセンタープレスがついているような気にさえさせたものだ。その堂々とした語り口はさながら優秀な商人のようだった。
何人かのロキは実際に母の襟元に何度も布地をひっぱっては机に反物を積み上げていく商人のことを思い出したほどだ。やれこの絹はどこの産地で染色はどう、仕立てはこれこれこうすると今風だの、細工品や宝飾品との相性を並べたてては、無限に底がないらしいトランクの中からあれやこれやと提案し、部屋中の机を埋め尽くさん勢いで色とりどりの布地を出し、説明を並べる有能なその手際を。それを眺めたり一緒になってあれやこれやと注文をつけたかつてを思い出した。
――つまり、きっと他人の物語ならよかったのだ。
どれもけっして喜劇ではなかったが、楽しむ余地は大いにあった。そう、完全な創作なら。あるいは他人の話として聞くのなら、それなりに。
だが全てが的外れだった。他のロキの人生をそれぞれが知っているわけではないが、少なくとも自分の人生とはまるで違う物語を『まあこんなところだろう』などと勝手に訳知り顔で語り出されたのだ。それを豊かな想像力と取るにしろ、愚かな妄想だと見下げるにしろ、他のロキのこれまでを語ったその銀の舌はたいそう滑らかなことは確かだが、その囀りに宿る信憑性については察してあまりあるというものだった。動物のロキたちなどは賢しくも皆すでに最初の話で見切りをつけたらしく、それぞれ眠ってしまっていた。結局のところ最初こそ前のめりになって話を聞いていたはずの少年だって今や肩を背もたれに預け、寝入ってしまった鰐が自分の膝からずり落ちないように腕を伸ばし、余ったもう片方の腕は膝置きから落とさないように神経を割くのに忙しい。
わざとらしい咳払いで苦い顔をした政治家のロキは胸の前で指を組み――メカニカルな義手の関節で黄金が指輪のようにきらきらとして意識を引いた――控えめに中立的なコメントを述べた。
「お前は悪戯ではなく創作の神のようだな」
「そう言うお前は気遣いの神か?」
だが皮肉げな声がフォローを茶化す。
「言えてるな」
それに批判ももちろんあった。
「妄想と空想は別だろ? だいたい、どれも陳腐だった」
「だが、堂々と語れるところはロキらしいんじゃないか?」
「それってロキの要素か?」
「さあ?」
「なんにせよ想像力が足りない。なんでそう雑なの?」
シルヴィは呆れを隠さず目をすがめていた。
「それでいいと言ったろ。今更何だ。聞き捨てならない」
「雑だから雑と言ってるの。そんなんだから記憶を読み違えるんじゃない?」
「それは――
「ラメンティスを忘れた? あれはひどかった」
「なんとかなっただろ!」
「私があの兵士を操らなきゃ捕まってた! そもそもその『なんとかなる』って何? あなたの哲学? おまじない? それとも経験則?」
畳みかけるように問いかける言葉に口角を下げ、ワイシャツ姿のロキは視線をそらした。
「それは……
「経験則だろう。兄上はそうだった」
老人が堪えきれない様子で笑みを零し、口を挟んだ。
「そんなことない。兄上の言う『なんとかなる』は何事か起こるという予言だった」
「だがいつもなんとかなった」
「そんなの……だいたい、皆そうでは? お前たちはロキだろう? 悪戯は計画だけでは成り立たない。運と度胸も必要だ」
「でもあんたのは計画じゃないって何回――
ふいに建物がみしみしと鳴り、地面がぐらりと揺れた。
カササギが羽ばたき、犬が吠え、猫は毛を逆立てる。
それから天井でランプが不安定に揺れながら急に灯り、視線を奪った。椅子に座っていたロキたちは皆それぞれに肘掛けか座面かテーブルを咄嗟に掴み、続く揺れに備えた。
――本当に倒した? あの雲を?」
鰐のロキをテーブルに乗せ、少年が訝しげな視線を向けた。シルヴィたちは顔を見つめ合ってほとんど同時に言い返した。
「倒した」
「復活しないかは知らない」
その答えを待っていたように、屋外から聞こえる音は一際大きく響いた。瓦礫となった建物が倒壊しているだろう音と、それを引き起こしているであろうアライオスの声が。
「一網打尽にされるまえに退散しよう。ほら皆逃げろ」
最初に扉を開けたのは少年だった。続いて自慢屋、それから動物たちを伴うように政治家のロキと続いていく。ロキたちは皆次々と立ち上がり、「次に会う時は結論を聞かせてほしいものだな」と足早に去りながらワイシャツ姿のロキへ言葉をかけていった。
「あなた残るの? 二人でアライオスとまた戦う?」
「いや、残らないし戦わない。逃げるついでに何か食べに行かないか」
「いいけど、好み合わなそう。あなたジャンクフード食べたことある?」
「それぐらいあるしそっちの好みに合わせるさ」
扉を片方だけそのまま開き、先に出るよう促しながら、ロキは背にしていた屋内を眺めた。まったくもって作為的で不自然なセッティングを。まるでロキたちを招いた誰かを見つめるように。
――次は食事も用意してくれ」
それからようやくほんの少しだけ微笑んで、扉を閉めた。
(了)
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おそまつさまです
マジで自分以外の感想(というかリアクション)が欲しい


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