登場人物
猪熊 羊(いのくま よう)…白軍下級傭兵軍部所属 3年
石本 理央(いしもと りお)先輩…白軍上級傭兵軍部所属 3年(※フォロワーさん宅のキャラクターをお借りしております)
@MeisouSheep
元々は上級傭兵軍部(19〜21歳)からの出撃だったが、戦況長引くにつれ人員が不足し、元々は訓練生の位置付けだった下級生(16〜18歳)も出撃することがデフォになりつつある学戦の世界線設定
※※※※※※※※
石本先輩には、敵わない。
「捕縛用の麻酔管理してんのって、ここ?」
薬品庫の整理中、不意打ちで背後から声が飛ぶ。
思えばこれが先輩との初対面だった。
昼下がりだというのに、光に弱い薬品類に配慮した保管庫は薄暗く声の主の表情はよく見えない。
「今、行きます」
返事をまるで聞いていないかのように、声の主はズカズカと薬品庫の奥へと足を踏み入れる。
「ここ、立ち入り禁止区域です」
「へえ〜。こんなに色々入ってんの。思った以上にあるもんだなぁ」
「…あの」
制止する声を振り切るように、あちこち戸棚の薬品類を眺めたり不躾に触れては「ふ〜ん、おもしろ」と呟いている。
「あの」
2回目の声がけで、ようやく声の主は振り返る。
「あ、アンタがここの管理してんの? えーと誰だっけ」
「猪熊です」
「いのくま…あー、あの、『変わり者の』イノクマくん」
初対面でずいぶんと失礼な言い草だが、あんまり否定もできない程度の自覚はあるので、はてさて一体どこまでどんなふうに自分の噂が広まっているものなのだろう。
「…管理簿と鍵が必要なので」
話を取り合わないようにしながら、声の主と一緒に部屋を一度出る。さしずめ同学年のどこかの部隊の使いっ走りだろうと思っていたら、相手の腕章と軍服が目に入り、咄嗟に身構える。普段あまりこのあたりに立ち入ることは少ない、上級傭兵軍部の人間だ。
「あっ…これは、失礼、しました」
「またまたぁ。思ってもないことを」
けらけらと笑いながら、声の主はその姿を陽の光の下に現した。色素の薄い髪色と緋色に燃える瞳、白い軍服は昼下がり暗室から出た僕にとって余計光を吸収し眩しく反射して見せた。ところどころおかっぱのように切り揃えられた特徴的な髪型は、部隊長会議で幾度か遠くの席ながら見かけたことがある。
「…まさか、部隊長自らがいらっしゃるとは」
「そういうキミも、部隊長サンじゃん」
「僕は下級なので」
「戦地に上も下も右も左もないっしょ」
すたすたと僕の後ろをついてきて、僕の研究室内にナチュラルに入ろうとする。
「…立ち入り禁止区域ですから」
「どこにも書いてないじゃん」
「…バレたか」
「ははっ 面白いね、君」
制止するのを諦めた僕は、部屋に入ってきた新しい来訪者に椅子を勧め、棚の奥からごそごそと帳簿と鍵を引っ張り出してきた。キョロキョロあたりを見回す彼に、帳簿とペンを手渡す。
「うわ なにこのヘンテコな形の瓶。キングギドラじゃん」
「3口フラスコです」
目線や興味は全くの外にありながら、器用にも差し出された帳簿にさらさらと名前を書きつける。
石本…理央……。
壊滅的に人の名前を覚えるのが苦手な僕は、チラッと盗み見して相手を確認する。イシモト、リオ。
「で? あとどこに何書けばいいの」
「捕虜用セットの所にマルつけてください。あと数量も書いて」
言ってるそばからザザッとマルをつけ、10と数を入れる。10…多いな…。
「…承知しました。準備するのでちょっと待っててください」
「ほ〜い」
終始砕けた調子で相槌を打ちながらナチュラルに備品に手を伸ばす姿が視界の端に入ったので、くるりと振り返って釘を刺す。
「それ、触らないでくださいね。危険ですから」
「触ってないよ〜。人聞きの悪い」
サッと諸手を上げながらおどけて言う。
「……いいじゃん、減るもんじゃなし」
「爆発しますよ」
「え、爆発すんの?!」
しないけど、それくらい言っておかないと何するかわからない相手には適当に脅しておくしかない。
薬品庫に戻り、鍵付き金庫から箱に入った捕縛セットを10個取り出し、アンプルのラベルと個数を確認する。数のズレは管理上命取りだ。
数分後研究室に戻ると、僕の回転椅子に腰掛け、背もたれに頭を預ける格好で天井を見上げてくるくると回りながら、石本先輩はこう言った。
「この施設に…こんなラボがあるなんてね。上級の施設にも研究所はあるけど、なんか置いてあるものもニオイも全然違うような」
「僕が来てから作ってもらったので…」
最初は、小さな部屋だったが、少しずつ増改築して今の形になった。でも基本的には僕一人しか使っておらず、たまに助手兼部下がヘルプで出入りする程度だ。
「あそこでは研究、しないの?」
「ソリが合わなくて…解毒剤の研究ばっかりしてるからですかね」
「あれ? 猪熊くん、毒薬の専門じゃなかったっけ?」
「一応、毒薬の専門家として在籍していますが、武器として毒薬を扱う以上、解毒剤の開発が重要だと僕は考えています…強力な毒薬を作ること自体は容易いのですが、強力であればあるほど、肝心の解毒するすべが無いと、味方殺しもしかねないし、交渉もできない。本来、毒薬は解毒とセットが鉄則なんです。黒軍はどうも…強すぎる毒ガスを多用する傾向にありますが、彼ら解毒の術もなく自爆っぽく突っ切ってくる印象がありますね」
「そう…最近特に彼ら、激化していてね…。ヤマトダマシイだかなんだか知らんけど、肉を切らせて骨を断とうとするんだよなぁ。厄介なもんだ」
「で、上級ラボの先輩らは強い毒薬ばかり開発しては悦に入っているので、それじゃ黒軍と同じだろうと。僕が解毒剤の開発はどうなっている? と指摘しまくるもんだから、厄介払いされました」
「ふふっ、やっぱり変わり者。にしても、異例の待遇だね」
「僕も元々、ある意味捕虜でしたから」
「え…? そうなの?!」
「半分信用されて、半分信用されてないんだとは思います」
話しながら、3年前初めてこの施設に潜入した時に思いを巡らす。あの時白も黒も赤も興味がなく、ただ、単純に戦況のとばっちりで資材不足に陥っていた一般市民の僕は、当時いずれの軍のものとも判別のつかぬバイオ兵器による農作物の二次被害を解明して食い止めるため師匠と一緒に解毒剤の開発をしていた。しかし、開発途中で師匠が何者かに殺されてしまい、その意思を引き継ぐために思い余って、前から軍需施設があると噂のこの施設に潜入して資材を盗み出そうとした。今思えば若気の至りで無謀すぎたと思うのだが、捕縛された時ここまで潜入できた能力と、敵軍ではなく一般人な上、持ち歩いていたいくつかの毒薬が当時の軍の技術には無いものだったので撃ち殺すには惜しい、と判断され契約条件のもとここで技術提供することになったのだった。
「ふーん、なるほど。捕虜出身の猪熊くんが、今や部隊長……」
「効率的な発想と実績主義な、白軍らしいですよね」
ふんふんと頷きながらその瞳はせわしなく立ち並ぶ試薬のラベルを目で追っている。ひとつひとつに、いたく興味をそそられているようだ。
「帰属意識があるようでいてちょっと浮いて見えるのは、そーゆうことだったのね」
「浮いて、見えますかね」
「だいぶ」
歯に衣着せぬ言い方ながら、不思議とこちらを揶揄したり馬鹿にしているわけではない、と直感的に感じる。
「で…捕縛セットなんですけど」
箱を開け、3種類のアンプルを見せる。赤色のアンプルは麻酔、黄色は自白剤、青色は拷問用。本来麻酔しか提供していなかったが、あまりに自白剤や拷問剤も一緒に要求されることが多く面倒に感じてセットにして提供している。断っておくが、自白剤も拷問剤も、僕のシュミではない。
「ほーん。自白……拷問。えげつな」
ぽいっと吐き捨てられるセリフは、今までここに同じ薬剤を取りに来たどの人間からも出たことのない言葉で、思わず面食らう。
「そんな非生産的なもん、俺は使わない」
彼は黄と青のアンプルは箱に残したまま、赤のアンプル10本だけを抜き取って立ち上がった。
「これだけあればいいのさ」
僕もそう思います、と頷きながら、いつのまにか黄や青のアンプルを言われずとも提供する癖がついていた自分に、許し難いはずの戦争がいつのまにか麻痺して己の日常になっている事実を感じ無関係なタイミングで食傷気味になったのだった。
「次会う時は部隊長会議かな? 猪熊くん。名前、なんだっけ」
「羊です」
「OK、ヨーくん。生きてまた会おう」
台詞の重さを全く感じさせない軽やかな笑顔と足取りで、ヒラヒラと手を振りながら先輩は部屋を出て行った。
会議前夜、つい遅くまで作業してしまいぼんやりとした頭でシャワーを浴びながら耳の端っこにこびりついた「生きてまた会おう」という台詞がふと蘇り、頭の中を幾度となく駆け巡る。気になって研究室に戻り、PCの電源を入れ上級傭兵軍部のデータベースを立ち上げ、石本先輩の部隊のプロファイルにアクセスする。実践経歴も、作戦実行回数も下級の僕の部隊に比べると流石に歴然としている。あの「死線の戦い」と言われた、黒軍軍需工場爆破作戦にも指揮官の一人として参加していた。
「そんなもん見て、面白い?」
また不意打ちで後ろから声が飛ぶ。
「ノックぐらいしてくださいよ」
「わり。どこにもそんなこと書いてなかったからさ〜」
先輩はこの前の軍服姿ではなく、トレーニングでもしてきたのだろう、Tシャツにパーカーを羽織っている。武器の三節棍は年季が入っており、腰のホルダーから下げてあった。首元にかけたタオルで額の汗を拭いながら、僕の肩越しにPC画面を覗き込み、こう言う。
「こんなもん、ただの数字でしかないんだ。結果がなきゃ、意味がない」
「充分戦績を残されてるじゃないですか」
「そーゆうことじゃなくてさ、羊。君ならわかるでしょ」
「結果……」
「そう、結果。この国を変えなきゃ、意味がないんだ」
「国替えするのに、政治家になった方が早い時代は、とうの昔に終わりましたからね」
「皮肉言うなって。俺は真剣さ」
変えなきゃ……勝たなきゃ。でなきゃ、俺は空っぽさ。そう先輩ははっきりと言葉を結んだ。
情熱的な真っ直ぐさがあるのに、飄々とした雰囲気のせいかうまく僕の中で先輩の人物像が定まらない。ぽっかり空いたドーナツの穴みたいに、そのコアを占めているものが見えない。
「羊は? なんでここに身を置いてるの」
「僕は……勝ち負けってより……兎角戦争を犠牲少なく、一刻も早く……終わらせたいだけなんです。犠牲を少なくするためにも、負けたら良いとは決して思ってないけど、敵味方問わず傷を負う人が増えるたび、正しさが……わからなくて」
「ふーん。方向性は一緒かな……俺も出来るだけ犠牲は少ないに越したことはない派だし」
「えっ、じゃあ先輩……こんなに実戦を経験していると…迷いとか、しんどい時とか、無いんですか」
思わず最近の茫漠とした不安が口をついて出てしまった。部隊長は孤独だ。しかし、心の重荷を顔や言動に出せば、自分の部下がどんな気持ちになるかぐらいは、はみ出し者の僕にだってわかる。
「迷い……? しんどい……? うーん……あんまり考えたことなかったな、そんな時間が惜しいから」
「それは…わかるんですが」
「この状況を変えるには、ひたすらに前に進んで、ひたすらに勝つしか、ないじゃん」
言ってる事はシンプルに正しい。そして、余計なことは言わない。やっぱり、この人も他の上級の人達と同じく、結局目的という大義名分のために、いろんな弱きもの達の犠牲があることにはあまり目が向かないというか、そこは割り切れてしまうからこそ生き延びてこられたのだろうか。
言葉を飲み込んで、代替になる質問も応酬もうまく浮かばず、うつむく。極めて、合理的だ。AIが蓄積されたデータから最適解を導出する緻密なアルゴリズムのように。翻訳ソフトが何の迷いもタイムラグもなく未知の単語を0.5秒後には最も汎用性高く使われる見慣れた単語に転換させるように。
こぼれ落ちた他の可能性は、経験則と一般論の力で切り捨てられてしまうのか。
「先輩みたいに、迷いなく進めるだけの……原動力が僕にはまだ……あ! ちょっと! それ何飲んでるんですか?!」
「へ?」
問答を続けたかった僕は、頭をフル回転していたせいで石本先輩の手癖の悪さをすっかり忘れていた。気づけば先輩は傍のコーラの缶を手に取り乾いた喉にごくごくと流し込んでいた。
「いや〜ちょっと喉乾いちゃっててさ。最近暑くて、さっきもトレーニング中に水全部飲んじゃって」
「そ、そういうことじゃなくて……!」
「え、もしかして潔癖症? ごめんごめん〜、悪かったよ」
違うのだ。その中には……
「それ、コーラじゃなくて自白剤です」
「えっ」
間の悪いことに、廃液用の大きな缶は部下がついこの前処分に出してしまい、一時的に廃液を入れるものがなく、期限が迫った自白剤をまとめて処分しようと、コーラの缶を容器として代用していたのだ。
「どのくらい……飲んじゃいました?」
「ええっと……4〜5口くらい 甘かったから、気づかなかった……」
「まずい……それだけ飲んじゃうと効き目が出てくる……しばらく立てなくなります、」
言ってるそばから先輩の身体がふらつきだし、がく、と地に膝をつく。額や首元からブワッと汗が滴り落ちる。早くも目の前が霞みだしたようだ。
「う……う、な、なんだこれ……」
「とりあえず、横になりましょう」
捕虜用にアスパルテームでジュースの味に違和感を与えぬ範囲で甘味をつけてあったのが、仇となってしまったようだ。
「やばい……力が入らない」
「捕まってください」
肩を貸し、傍のソファに寝かせる。一種の麻酔に近いものなので、意識がどんどん朦朧としだすのだ。
「こんなものを……使う奴もいるのか……」
「最近、要望が特に多かったんです。対話よりも、サッサと情報を吐き出させたい人達からの……」
「だんだん……頭が……回らなくなって、きた」
「大丈夫です、少し休めば元に戻りますから」
水を飲ませてやり、薄手の毛布をかけてそばに座る。
「特に害はないのですが……聞かれたくない話をし出してしまうかもしれません、僕は耳栓してますから」
「そんなもんしなくていいよ。たいして……俺の中身なんて空っぽの、人形みたいなモンだから」
「いや、でも……」
「それより周りが暗くなってきた、……狭い……寒い……」
「僕はすぐ横に居ます。大丈夫、効果が消えるまで離れませんから」
言った手前、どうしようかと逡巡する。自白剤を飲まされた捕虜の様子は幾度か見たことがあるが、その人の本質が出たり、精神状態が退行したり、恥ずかしくて墓まで持っていきたくなるような事を喋り出すこともあるからだ。飲んだ本人は深層心理の深くに潜り込む事で酩酊状態に近くなり、ふわふわとした意識の中で夢と現実の区別がつかなくなる。
「ん…でも不思議とこれ以上はぼんやりしてこないぞ、やっぱりなんにも出てくるもんなんか無いんだ」
「……とりあえず、そのまま休みましょう」
あまり何かを考え、迂闊に発言させるようなことをしたくなかった。不本意にも先輩の心の奥底を覗くような行為はしたくない。
先輩はしばらくぶつぶつとうわごとのように何かを呟いていたが、やがて瞳を閉じて静かな寝息を立て始めた。
※※※※※※※
「ここは……どこだ、」
薄暗い、途方もない広さの空間に俺はいた。
壁と思われるところに近づくと、子供達が書いたと思われる習字の紙が一面に貼られている。それから、学級新聞。拙い絵。メダカと金魚が泳ぐ水槽。ランドセルを置くための棚。おそらく学校の教室のような所なのだろうか。
歩けば少しずつ先があると分かるけれど、立ち止まれば段々黒い霧が立ち込めてきて、すぐに一寸先が見えなくなる。今自分が部屋のどの辺に立ち尽くしているのかも全くわからない。踵を返すと、こつん、と右足に椅子のようなものが当たる。腰掛けようと引き寄せるとそれは椅子ではなく小さな子供が弾くサイズのピアノだった。
上を見上げると、部屋だと思っていたそこに天井はなく海面のような波が漂っていた。海上は夜なのか、真っ暗な中に時折か弱く月の光がゆらゆら、泡末の編み目模様から差し込んでくる。ゆらめく波間を見上げているうちに、随分深いところまで潜ったのだなぁと他人事のように思っていた。
ふと視線を戻すと、さっき引き寄せた小さなピアノの前に、小さな男の子がちょこんと座っている。
その子は片手を使って上手に、きらきら星を弾いて見せて、誇らしそうな顔をした。
途端、周囲の黒い霧が複数の人の形になり男の子を取り囲み、人の声とも残響ともつかぬゴウゴウとした音を出しながら話し始めた。
「次は『ちょうちょ』を」
ちょうちょ、を男の子が弾き始めると、途端にその横から別の黒い霧が話し出す。
「『こいのぼり』を」
「『むすんでひらいて』を」
「我が軍の軍歌を」
男の子は顔色ひとつ変えず、リクエストに応じては笑顔で黒い霧たちを見上げるが、その瞳はうつろだった。
唐突に風がびゅう、と吹き込む。天井の代わりに存在する海面が大きく荒れ出し、黒い霧は吹き飛ばされる。風圧が壁一面に貼られた習字の半紙を引き剥すと、ばさばさ、音を立てて舞い散り、幾つかが足元へ落ちてくる。何気なく視線を落とすと、それら半紙には「太陽」「向日葵」「大和」…と見覚えのある字体で書き連ねられられ、全てに…石本理央…と、俺の名前が書かれてありギョッとする。慌ててさっきの子供を見やると、じいっとこちらを見ていた。でも、顔は真っ黒に塗りつぶされ、どんな表情をしているのかもわからない。
きっと、あの子は…俺。
不安で叫びたくなる気持ちをぐっと堪え、力なくその場へへたり込むと、かさ、と足元で音が鳴り、一枚の半紙を靴の端で踏んでいたことに気づく。
大ぶりで堂々とした文字で「金魚」と書かれたそれは、点やハネが力強く何処かで見覚えのある筆跡だ。傍に添えられた名前は……石本理紅……、り、理紅…!
心臓が音を立てて鳴り出し、絞り出す様な声で叫ぶ。
「理紅!理紅…どこだ? どこに居る?」
必死で目を凝らしながら周囲を見回していると、ざわざわ、黒い霧たちがまた人の姿を模しながら集まってきて、さっきの小さなピアノを取り囲み始めた。ド……ミ……ソ………シ……ド。おぼつかない、たどたどしい音が零れ落ちる。
「まぁ、じょうずだこと」
「かわいいわねえ」
「楽しい?」
霧たちに囲まれていたさっきの男の子はおらず、別の子供がこちらに背を向けピアノの前にちょこんと座っていた。彼もまた、鍵盤に指を置き、気まぐれに適当な音を奏でている。
その子が何かを喋ろうとするたび、黒い霧達は歓声を上げ、喜び讃えた。一挙一動が、愛くるしくてたまらないといった様子で。
直感的に、それは理紅だと強く感じた。
「理紅! そこに居るのか? そいつらから離れろ! 俺と一緒に逃げよう!」
我を忘れて夢中で叫ぶ俺に、周りを見回しにこにこと愛嬌を振りまいていた子供が一瞬こちらを見て何かを言おうとした時、びゅう、とまた風が吹き習字の半紙が舞い上がり、視界を遮る。
「理紅!」
視界を塞ぐ半紙を払い除けながら、その子供の元へなんとか歩みを進めると、その子は俺をじっと見つめてすっくと立ち上がった。
「センパイ、は、なんで、ここに、身を置いているんですか?」「迷いは?」「センパイの原動力って、何ですか?」
理紅のはずの「それ」は、理紅と同じ色の瞳をゆっくりと瞬きしながら理紅の声ではなく、猪熊羊の声で語りかけてきた。
「兄さん!」
突然、背後から聞き慣れた声で呼び止められる。
慌てて振り返ると、黒軍の軍服を見に纏った、理紅がそこに立っていた。
「理紅!」
駆け寄ろうとすると、激昂した様子で理紅は叫ぶ。
「裏切り者!」
「違う! 話を聞いてくれ」
「どうして出て行ったんだよ!」
「父さんから聞いただろ。思想が変わったんだ。黒軍の時代はもう終わるんだ」
「そんなはずはない! 兄さんだってずっと信じてきただろ? 僕と一緒に……家族として……外国に平伏すれ、と。我が帝国の繁栄を願い大和の魂を国に捧げよ、と……!」
「お前が生まれなければ、俺は気づけなかったと思う」
激昂する理紅を見るうち、俺の心はなぜか鏡面の湖のように静まりかえってゆく。
「なんでだよ……僕は兄さんみたいになりたくて……兄さんが居なければ僕は……」
理紅は顔を赤くし、今にも泣き出しそうな顔で両掌を握りしめ、ぐっと唇を噛み締めている。
「お前が居なければ、俺はなんの疑いも持たず黒軍系の思想で突き進み、家訓に従い家も継いで黒軍の軍人となっていたと思うさ。俺自身はずっと空っぽの操り人形だったからな」
「どういう……」
「父に言われる通りに生きる事で、期待通り、思惑通り。褒められても、評価をもらっても、自分が心から望んだ事じゃないから、嬉しくない。なにもかもどうでもいいって思ってた、褒められても、嬉しい素振りをするだけの日々。別にそれでよかったのかも知れない。でもな、お前が生まれて、周りの反応を気にしない、顔色を窺わない、無邪気な純真無垢さを知り、無条件に愛される姿を間近で見た。羨ましいとかじゃない。別に親の望む通りの姿、立ち振る舞いでなくとも、お前は愛された。それでいいのだと初めて知ることができた。お前を通じて愛することの意味を知った。それまで空っぽだった心にこんな感情が湧き上がったことなんて、無かったから。それから変わったのさ。魂を捧げるべきは国ではなく、愛へ。進むべきは操られ疑問を抱かない因習と過去の柵の道ではなく、自ら手繰り寄せ迷いながらも大切なものを守りながら前に進める未来へ、と」
「ぼ……僕達が守り従ってきた思想だって、大切なものじゃないか!」
「先代が守ってきたものは、先代のものさ。それ以上でもそれ以下でもなく、別に否定したいわけじゃない。お前を否定するつもりもない。だから俺は家を出て行ったんだ。俺の道を押し付けるつもりもない。でも俺たちが守るべきものは俺たち自身で、選び掴み取るべきだ」
「……迷いは、ないのですか?」
理紅の姿をしたそれは、猪熊羊の声で再び語りかけてくる。唐突に、視界が乱れ始め、足元に影を落とす海面の影が激しく揺めきが来ていることを感じる。
「迷ってるヒマなんか……ないよ」
水槽からメダカと金魚が飛び出し、部屋中を泳ぎ回りながら海面へ向かってどんどん上昇してゆく。
「……この国の未来を守ることが……お前を守ることなんだから…」
幾匹かの金魚が通り過ぎ、それらを懐かしそうに見やりながら、再び理紅の声で理紅の姿をしたそれは、寂しそうに微笑みながら彼は答えた。
「……金魚は、食べちゃいけないよって。初めてきちんと教えてくれたのは兄さんだったな。何やっても褒めてくれる大人達よりも……正解を教えてくれる兄さんが、僕は大好きだったんだ」
突然、足元の底が抜ける感覚に襲われる。
「兄さん。兄さんは……間違ってる。僕が……僕が、必ず連れ戻す」
理紅の姿をしたそれは、ゆっくりゆっくりと、底の見えない暗闇へと静かに沈んでいった。俺は唐突にふわりと身体が浮く感覚になり、気づけば懸命に天を仰いで海面へと浮上しようともがいていた。
※※※※※※※
「………ぷはっ……!!」
先輩の瞼の下の眼球が目まぐるしく動き回っていたかと思うと、突然横隔膜が激しく上下し呼応するように息を吐き出し、そして大きく吸い込む。まるで長いこと、息を止めて水中にでも潜っていたかのようだ。
「先輩…、石本先輩! 聞こえますか? 僕です、猪熊です」
「はぁっ…はぁっ………、っう……っげほ、げほ」
目を大きく見開き咳き込み、肩で息をしながら先輩はゆっくりと身を起こした。
「……あれ……俺……寝てたの」
「寝て……ました」
「嘘つけ」
「いやホントですって」
「……そう」
……僅かな沈黙。時間にすると0.8秒ほどだったかも知れない。でも、一方的に秘密に触れておいて、しらばっくれることは失礼だと思い直す。
「……実は、……少しお話ししました。しっかりした口調だったので、てっきり覚醒してるのかと思ったんです」
「……やっぱりな。時々お前の声が聞こえた」
「弟さん……が、いらっしゃるんですね。袂を分かった…」
「…もう、6年にはなるかな。羊と歳近いんじゃないかな」
「……そうです、か」
敵軍に弟がいる。これって結構な機密事項で、なんなら軍内にその事実を知る人なんて居ないんじゃないだろうか。もしくは、上層はそれを知ったうえで任務を遂行できる先輩の能力を買っているか、だ。
「随分久しぶりに理紅に会えた。これ、そういう薬だったっけ?」
「いえ……自白剤は酩酊作用があるので、その人の深層心理に直接語りかけやすいんです。潜在意識に話しかけるので、隠し立てがしづらいというか。見たもの経験するものは、その人それぞれで」
「へえ……んじゃ、本当に理紅に会えたって訳じゃ、ないのか」
しっかりした受け答えで弟がいる、と語り出したものだから、てっきり薬が切れたものだと話しかけた僕も迂闊だったが、どうやら深層心理の中で記憶を元に弟さんと会話していたらしい。
「喋っていたのは、お前だったのかな」
「時々会話が噛み合わない部分もあったので……その部分については、僕からの問いではなかったかもしれませんが」
ハハッ……と、寂しそうに笑って先輩は首を振る。
「自問自答してたってわけか」
先輩の体調が落ち着き自室に戻るころには、明け方近くになっていた。過失とはいえデリケートな部分に迂闊に踏み込んでしまった後ろめたさで、居た堪れない気分になっていた僕は、ぼんやり煙草を吸いながら朝焼けを眺めていた。
聞きたいことがまた増えてしまった。
ふと気になってまた、データベースを見返す。
「黒軍軍需工場爆破作戦」
いくつかのフォルダに情報が仕分けられ、そのうちの1つはロックされていた。部隊長の持つパスワードを幾つか入れてみても、弾かれる。どうやら下級の僕の権限では、部隊長と言えどアクセスさせてもらえないらしい。
ちょっと知りかけると益々知りたくなってしまうのは、研究者の悪い性か…それとも、放っておけない何かがそうさせているのか。残りのフォルダを見漁り、大まかな情報だけ目を通すと、PCをそっと閉じた。
ほとんど眠れぬまま、久しぶりに部隊長会議に出るため、くたびれた白衣を脱いで軍服に着替える。今回は上級と合同の会議なので、流石に正装でないと『示しがつかない』とお叱りを受ける。
起こしに来たと思われる部下兼助手とドアの前で鉢合わせし、心底驚かれる。
「えっ……隊長、もう起きてるんです……? て、そのカッコ……出るんですか?! 部隊長会議……」
「たまにはね。ちょっと気になることもあるし」
「せ、正装までして……! ゆ……雪が降る……!!」
「失礼な」
驚きふためく部下を尻目に、タブレットを片手に部屋を後にする。優秀な部下兼助手だが一言二言多い。
出るなら一言言っといてくださいよぅ、資料くらい準備しますからぁ! と耐えず鼻先にずり落ちる丸い大きなメガネを引き上げながら喚きながらついてくるのを制止しながら、会議室に入る。少し先に到着していた石本先輩も席に着いており、軽く目配せをしてくるので、小さく会釈をしつつ下級の部隊長らの席に着く。
議題は現在の戦況報告、直近で進行中の作戦の状況報告、帰還兵からの報告書から集約した情報……そして目当ての「今後開始予定の作戦について」。
上級の作戦本部総部隊長が、計画の概略を話し始める。要約すると、先だって大きな戦績を上げた黒軍軍需工場爆破作戦において現場の状況や潜入部隊、捕らえた捕虜たちから機密情報を幾つか得ることに成功した。軍需工場は幾つかあるが、先だっての爆破工作は陽動作戦であり、意図的に大破させず怪我人も極力出させず施設中枢とセキュリティだけをターゲットとし、内部に送り込まれた諜報部らが情報を探るうちに地下に大規模な毒ガスのラボを探り当てたという。その作戦は戦果は大きかったものの地下ラボで幾人かの諜報部員らが捕虜になってしまい通信が途絶えてしまった。セキュリティが強化される前に、今回はそのラボへさらに少人数の精鋭で奇襲をかけ捕虜を奪還、毒ガスの成分情報を得ることであった。上級ラボの隊員の説明によれば、毒ガスは既に兵器化されているかもしれず、次は実践で登場する可能性も考えると、ある程度その道に詳しい人間が現地に行き死線を切り抜ける手助けが必要らしい。
蛇の道は蛇ってわけか。
そう思いながら展開予定の作戦を聞いていると、唐突に「総部隊長ぉ、ちょっといいすかぁ」と聞き慣れた声が横入りしてきた。
「石本部隊長……どうぞ」
「今回も俺の部隊が出るということなら、地下ラボ潜入の同行は、猪熊部隊とがいいでーす」
「な…?!」
ざわめきだす会議室。上級の、僕を良くは思っていないラボの先輩連中が口々にもったいぶった言い訳を並べている。
「この作戦は下級は原則的には後方支援で……」
遮るように先輩が言う。
「戦地に、上も下も右も左もないっしょ」
随伴するはずだった上級ラボの部隊長が僕の方を見ながら何かを言おうとしていたので、
「行けます。宜しくお願いします」
と遮って石本先輩の方へ向き直り、敬礼する。
「……両者が問題ないなら、許可します」
総部隊長は淡々と応答し、その場が収まった。
「よし、これで安心して向かえる。なんせうちの軍随一の『毒薬のプロ』だもんな」
緋色の瞳が煌めくのを見て、小さめに目で返事しながらそっと席につくと、何事もなかったかのように会議は再開された。
作戦は2週間後のため、しばらくは準備期間に明け暮れることとなる。虫の知らせか気になって朝方確認していた黒軍軍需工場爆破作戦は、図らずもその続きの作戦が発生したわけだ。名付けて「黒軍地下毒ガスラボ捕虜奪還&成分データ入手作戦」。複雑な作戦になりそうだったので、指揮官のうちの1人に前回もこの作戦に関わったことのある石本先輩が抜擢されていた。
会議後、部屋から続々と出席者が退出する中で、すれ違い様にポンと肩に手を置いて石本先輩が言う。
「ヨロシクね、猪熊部隊長♪」
「……そんな腹づもりがあったなら、事前に聞かせてくださいよ……」
「アドリブよ、アドリブ。俺の直感と閃きがそうさせたの」
そっと耳そばまで顔を寄せて言う。
「……上級ラボの連中、開発は頑張ってるけど解毒剤には弱いだろ。お前の方が適任だよ」
ようやく合点が行った。
石本先輩が僕に近づいたのは、この作戦の遂行が目的だったのだろう。
目的遂行のための下調べも兼ねて僕に接触してきたわけか。その周到さに、僕は舌を巻くしかなかった。
「宜しくお願いします。指揮官どの」
「やめろよ水臭いなぁ〜。とりあえず作戦準備、よろ〜」
軽快な様子で笑いながら、彼は部屋を先に出て行った。やれやれ、先輩には敵わない。
それからというものの、何かと理由をつけて石本先輩は僕のラボに来た。
「よっ! 羊。ちゃんと食ってる〜?」
その時僕は電子顕微鏡で細胞の状態を確認していたため、目も手も離せない状態だった。解毒剤のテスト液を注入して、毒に侵された筋肉細胞にどういう変化が起こるのか、細かく投与量を調節しなければならなかったのだ。
「食べてます」
「嘘つけ……カップ麺のゴミだらけじゃねえか」
「食べてるでしょ」
「カップ麺は飯にカウントされねえよ」
「だから食べてますって」
顕微鏡から顔を離さないままま、指さした先にはバランス栄養食の空き箱。
「いやまともなモノ食ってる?」
「……」
「ようくーん。ねえってば」
「……」
「……ちゃんと寝てる?」
視野の中で起こる変化が自分の仮説とすり合わさっているか、つぶさに観察していたので集中が邪魔され、思わず毒づいてしまう。
「んも〜。ちょっと後にしてくださいよ」
ある容量まで投与量が到達した途端、活動停止していた筋肉細胞が唐突に大きく脈打ち始め、仮死状態だった細胞が蘇生を告げる。
(や…やったぞ!)
心の中で大きくガッツポーズをしていると「はい、そこまで〜」と顕微鏡から引き剥がされ、回転椅子ごと向き直らされる。
「ちょっと……今いいとこだったのに……」
「羊。そんな事言ってたらキリないぞ」
珍しくハッキリした口調で真っ直ぐ顔を見つめられ、思わずドキリとする。人に正面から指摘を受けたのはいつぶりか。
「入り口で通せんぼしてた子から聞いたぞ。集中しだすと何日もここに篭りっきりになるって」
助手め……誰も通すなと言ったのに……。
「あの子も心配してたぞ。食堂の食事を取りに行ってくれないので運ぶんだけど、活動時間が違うのか、中々食べないって」
「スイマセン。集中するとつい……」
「ま。そんなとこだろうと思って」
と、傍に携えていた紙袋の中身をいくつかデスクの上にどさどさとぶちまける。
鯖缶、ツナ缶、調理済の肉料理やカレーなどのレトルト、真空パックの米、乾パン、遠征用の高カロリー栄養剤…それらに紛れて、あんみつの缶がいくつか転がり出る。
「これは?」
「食糧庫からちょっとばかり拝借してきた。カップ麺よりはマシだろ。あんみつは俺のだから、食うなよ」
「……」
「自分の部屋や部隊の部屋だとバレた時説明面倒だから、ここを当面、隠し場所にさせてくれよな」
「僕まで濡れ衣着せられるじゃないですか…」
そんなことはお構いなしに、先輩はあんみつの缶を一つ手に取ると傍の缶切りでキコキコ、音を立てて蓋を開け、備え付けのスプーンで中のあんこを丁寧により集めて口に入れる。
「ん、やっぱりこしあんに限るな」
先輩があんみつを食べ始めたのを見て、これは自分も何か食べるまでは解放してくれないんだろうなと諦めがついた僕は、手近にあった鯖の缶詰を手に取る。
「……じゃあ……いただきます」
先輩は淡々とあんみつを食べながら、じいっと僕の様子を伺っているので、たまりかねて缶詰を開き、鯖に割り箸をつけた。
「なんで……心配してくださったんですか」
「……や。そんなに心配はしてないぜ」
「あらそう」
「ちょっと暇つぶしに様子見に来ただけ」
そうは言ってるけど、本当はそうじゃないのは鈍感な僕でもわかる。
「あの……今度の作戦の件」
「ははっ。上級ラボの連中、鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔してたな」
寒天をより分け、ぎゅうひを大事そうに口に含みながら、先輩はケラケラと笑った。
「優秀な人材は眠らせず有効活用しないと、だろ?」
「差し置いちゃって大丈夫ですかね」
「大丈夫だろ。それに、毒薬のデータにしか興味が無い上級ラボの連中では、チンタラしすぎて話になんねーから」
「それは……光栄なことで」
「だからこそよ」
さくらんぼを口に放り込み、ゆっくりとそのほっぺたをもぐもぐ動かしながら先輩は続ける。
「気負ったり、背伸びせず作戦に参加して欲しい」
「そんなつもりは……」
「……そう。ならいいけど」
さくらんぼを口に含んだまましばし思案に耽り、おもむろに口から飛び出したそのヘタをつまむ。果肉を綺麗に削ぎ落とした種が繋がった状態でずるりと器用に出てきた。かなり食べ慣れているのだろう。一体何度食糧庫からこのあんみつを拝借しているのだろうか。
「毒にも薬にもならん連中と違って、お前は無害そうに見えて案外ひと癖ふた癖ありそうだからな。いちお、釘、刺しとかないと」
台詞に反し朗らかな笑顔を見せられ面食らった僕は、鯖の骨が喉奥に派手に刺さりかけ、思わず盛大に咳き込む。
「ありがたい忠告ってことで……受け止めときます」
おずおずと返事をする。
先輩は、指先で少しの間そのヘタつきのさくらんぼの種を弄んでいたが、唐突に興味を無くしたのかそれをぽいと捨てると残りの寒天と黒蜜をかき込み、「じゃ、また」と部屋を出て行った。
……多分……これは、勝手に暴走するなよ、という忠告なんだろう。
早々に釘を刺されてしまった僕は、思案に暮れながら作戦に備えるしかなかった。
2週間後、時刻は深夜マルヒトマルゴ。
いよいよ黒軍軍需工場地下ラボへの潜入作戦開始。僕らと石本部隊は1組あたり3人体制で行動することになった。石本部隊からは9名、猪熊部隊からは6名の小規模編成で、僕の部下らが各1名ずつ先輩の部隊の後方支援や毒ガスサンプル採取かデータ取得に対応する。部隊長の石本先輩には僕と僕の部下が就くことになった。
「俺と羊だったら2人でも行けるんじゃないの」
と作戦会議中、先輩は言っていたが、部隊長クラスは何かと捕虜に狙われがちなので共倒れを防ぐため僕の部下を連れて行くことにしたのだ。
前回の作戦で大破させた工場側面ゲートは警備が厳重なのを見越し、予め諜報部がマーキングしてあったセキュリティの薄い一角に小型爆弾を仕掛けて爆破し、守備良く潜り込んだ。どうやら工場内の奥にある倉庫内らしかった。
部下が言う。
「βチームが別ルートから潜入し、新兵器のデータ採取を並行して開始します。我々αか、βのどちらか先にデータ採取に成功したら、作戦終了です。また、chary、derta、echoチームが捕虜奪還成功もしくはトラブルが発生したら、βは作戦続行するか否かの指示を我々αに確認します。ただ……地下施設に入った時から予想されていた通り、通信が安定しません」
「了解。基本的にはデータ採取を最優先にしつつ、これまで情報が得られてないエリアに潜入するので傍受のリスクを考えて俺たちは無線が使いにくいかも知れない。羊、どうする?」
「僕の部下らには超音波をキャッチさせる機械を持たせてあります。万が一の撤退命令時にはそれを使います」
「超音波……? 聞いたことないな。どうやって発信するんだ?」
「僕が軍に内緒で勝手に開発しました。非常時しか使わないので、まぁ、その時が来ればわかるかと」
「そうか。任せておく」
倉庫内は薄暗く、蒸し暑いがとにかく広大だった。膨大な資材が所狭しと並べられているが、いずれも最近はあまり使われている形跡が無いのか埃を被っているものが多かった。
探知機でトラップや監視カメラが無いかを確認しながら物陰づたいに息を潜めて進む。
2箇所ほど暗視カメラがあることに気づき、冷や汗をかいたが、幸にして旧式なのか、可動式の赤外線センサーなどは付いておらず死角から通り抜けることができた。
倉庫出口はカードキーと暗証番号で施錠されていたが、部下が基盤パネルから小型PCで侵入し短時間ロック解除を成功させる。
「ここまではとりあえず良しとして……問題はここからだな」
「地下の階層を目指しますか。情報によればまだ下があるはず」
階段かダクトを探しながら慎重に薄暗い廊下を進む。深夜なので消灯され、非常灯の弱々しいグリーンの光だけが頼りだ。
「いてっ」
すぐ後ろで石本先輩が何かにつまづく。どうやら足元にあった消火器にぶつかったようだ。
「なんでここにコレがあるって羊はわかったの……?」
「暗闇に慣れるまでは暗視できるよう瞳孔散大させる薬を使ってるから……逆に今閃光弾とか当てられたらひとたまりもないけど」
「マッドサイエンティストめ」
「失礼な」
小さく毒づき合いながら、非常階段を探り当て、下のフロアを目指す。地下1階近くまで降りたところで、見回りの警備兵とおぼしき人影が階下を歩く様子をやりすごし、フゥと息をつく。
地下への階段がこれ以上なさそうな地下3階までたどり着き廊下へ入ろうと曲がると、別の見回りの警備兵と遭遇した。
「あっ……!」
警備兵は小さく声を出し慌しく腰から拳銃と思しきものを取り出し身構える。その一閃、傍を白い光が稲妻のように走り抜けたかと思うと、三節棍の鈍い音が辺りに響きわたり、既に昏倒した警備兵がそこにいた。
「ふぅ〜。ようやく目が慣れてきたぜ」
「速……」
「肉弾戦の方が、何かと早く片付くだろ」
言いながら先輩は手早く警備兵が持っていたカードキーをくすね、その鮮やかさに部下が小さく拍手をする。
部下が警備兵のペンライトを拝借し、そろそろと足元を照らしながら殺風景な廊下を突き当たりまで進むと、明らかにラボと思われる重厚そうな金属の扉が登場した。扉のすりガラスからは青白い光が漏れ、消灯後のそこは不気味な存在感を放っている。
「ここっぽいな…」
「いかにもって感じ」
「どうします? 早速入りますか」
「チームβは…まだ辿り着けてないみたいだしな」
「とりあえず…ガスマスクだけはしておくように」
「確かにな」
「俺、喘息持ちなんで」
今のうちに…と言いながら、突入に備え部下は気管支拡張薬を吸い込んでいる。それぞれがガスマスクを装着しつつ、その場の状況を確認する。
「ここにダクトと運搬用リフトがありそうだな」
「了解。脱出経路確保」
「じゃ、行きますか」
先輩は無言で頷き、カードキーを扉のセンサーにかざした。その瞬間、けたたましい警報音があたりに鳴り響く。突然スモークが天井スプリンクラーから物凄い勢いで放出され始め、視界一面が覆われる。一気に臨戦態勢になり、各々が武器を手に合図を交わそうとしたその瞬間、僕の足元の床が唐突にガコンと音を立てて抜けた。
「うわっ」
「……おい! 羊!」
「猪熊隊長!」
2人が叫んで手を差し伸べるも間に合わず、僕は成す術もなく1人階下に吸い込まれるしかなかった。
「っイテテ……ここは、どこだ?」
なけなしの受け身を取った僕は、着地の時にしたたかに腰と尻をぶつけているようだった。ただ、幸いにして打ちどころは悪くなく、動けそうだった。
腰をさすりつつ立ち上がって状況を確認する。
さっきのラボとおぼしき入口のあったところが最下層だと思っていたのに……まだ下の層があったのか。
「えっ……なんだここ……実験場?」
薄暗い室内はあちこちが汚れており、天井は低く、空間一体の空気が澱んでいた。整然として無機質だったこれまでの設備の印象を覆すように、有機的で正体不明のものが暗闇の向こう側で蠢いているかのような気配を感じる。壁面にずらりとならんだガスボンベには、ひとつひとつにホースがついており、天井をつたい、まるで血管のように部屋のあちこちを張り巡らされているようだった。それらのバルブは電子制御されているようで、中央に大きなシステムを埋め込んだパネルがぼんやりと青白い非常灯に照らされ佇んでいる。
あたりを見回すと部屋の隅の方には大きな檻がいくつか設置されており、その中には既に生き絶えた動物たちの死骸がそのままになっている所もあった。嫌な予感がしてガスマスクの通気孔を出来るだけ最小限にし、息を潜める。さしずめ開発された毒ガスの効力でも試していたのだろうか。哀れな被験体を視界の端に追いやり、自分の呼吸が乱れないように呼気を強く意識する。額を冷や汗が流れ落ち、そっとぬぐう。ここに捕虜たちが送り込まれてなければ、いいのだが……。
突然、非常灯もブツンと音を立てて消され、一面を闇が覆い、不意に奥から声が聞こえてきた。
「……汚いドブネズミが罠にかかったと聞きつけて来れば、お前か」
どこかで聞いたことのあるその声の主は、カツンカツンと、靴底の金属を威圧的に響かせながら近づいてくる。僕はその間じりじりと身を潜めながら手探りでセットしてあった瞳孔散瞳薬を少しだけ大腿に追加する。漆黒の闇も、朧げに人影を捉えはじめると、記憶の中のプロファイルが合致する。
およそ一年前の作戦で一度対峙したことがある、黒軍の東雲参謀だ。捕虜として捕らえても良かったのだが、他の作戦の途中ということもあり連れ帰るにもゆかず、咄嗟に奴の筋肉系を麻痺させてその場を後にしたのだった。
東雲は神経質そうに眉をひそめながら「臭い。キサマが居るから尚のこと空気が悪い」と忌々しそうに吐き捨てる。
「……人違いならどうするんだ?」
「すっとぼけるな。俺には貴様の姿が見えている」
東雲は近接戦を得意とし、特徴的なヘッドギアと金属製と思われる骨の形をした尾状のベルトを武器として装備している。ゆっくり歩みを進めながら、楽しむようにガリガリ、ザリザリと尾が左右のガスボンベ群をヒステリックに引っ掻き、摩擦で火花を散らす。
僕はそっと床に尻をつけた状態で後退りながら、状況を確認する。奴は確かに僕の姿を赤外線センサーか何かで捉えているようだ。
「どうした? 何か仕掛けて来いよ、バケモノめ」
「……」
ここで派手に騒ぎを起こされてはたまらない。他のチームも作戦中だ。こいつは単独行動なのだろうか? それとも僕らの行動を知った上の事なのだろうか。慎重に見極める必要があった。僕は上のフロアにいるであろう先輩と部下に静かに超音波信号を送ろうと息を吸い込んだ。
「何をしている!」
僕の動きで何かを察知したのか、東雲は一気に間合いを詰めて身体を捻り、僕の頭目掛けて尾をぶつけてこようとした。慌てて地面を蹴って転がりながら済んでのところで斬撃を避けるが、しなる先端が白衣の裾に当たり、僅かに切り裂かれる。あの尾の攻撃を喰らうとひとたまりもない。
「今日こそぶち殺してやる!!」
「っうわ、っぶね」
左右に飛んでくる尾の斬撃をなんとか交わしながらも、このままだと分が悪い。大腿にセットしてある薬剤をいくつか持ち替える。前回麻酔薬を打ち込んで動きを封じた相手だが、今回も同じ手が通用するとは思えない。あの時も、普通の麻酔ではうまく動きを封じることができず手こずった。それに今回はこの先も麻酔銃は使う必要があるので、ここでは温存しておきたくて、咄嗟に知恵を絞る。
唐突に、東雲のトランシーバーが鳴り響く。
『東雲参謀、捕虜が脱走した! 援軍を要請する。コード203へ至急応答を』
「うるさい! てめえのミスはてめえで片付けろ! 捕らえてあったゴキブリなんぞにハナから興味はない」
『東雲参謀! 応答せよ! 東雲!』
「俺に指図するな!」
捕虜が脱走……? つまり、チームchary、derta、echoらの作戦成功を意味するのでは?
東雲は応答の様子から、単独かつ、輪から外れた行動をしていると見て間違いないだろう。
僕は不意をついて奴の懐に飛び込み、咄嗟に持っていた麻酔銃のグリップ部分を握ると東雲の頭部めがけて振り下ろす。狙い通り、鈍い音を立ててヘッドギアが外れ落ち、側頭部をしたたかに殴られた奴はぐらりとバランスを崩すも、暗闇の中でもタダでは倒れないといった執念で僕の胸ぐらを掴み、共々床に転がり取っくみ合う。
その瞬間、ブォォン……! とダクトが大きく音を出し、止まっていた換気口がゴウゴウと音を立てて空気を循環させ出した。漆黒の闇だった室内に再び青白い非常灯が灯る。
「っしゃ成功!」
天井奥から声が聞こえ、次の瞬間天井ダクトを突き破って部下と先輩が部屋の中に突入してきた。
「羊! 大丈夫か?!」
先輩の声と共に三節棍がヒュヒュンと音を立てて鼻先を掠めしたたかに東雲のこめかみを殴打する。
「ッググ……くそ、仲間か」
額から流血しよろめく東雲から素早く身を離して数歩引き下がると、先輩はすかさず東雲の尾の攻撃を三節棍で受け止め、続いてその後飛んできた足蹴りも逃さず受け止める。
「ヒュウ〜、予想外な動きすんのねこれ」
「邪魔を……するな……ッ!」
「まぁそう言わずに。とりあえず俺の相手が先ね」
体術派同士の動きは鮮やかで、東雲が尾や足で打撃をし、先輩が三節棍や腕に付けた防具で器用にガードし攻撃を受け流す。東雲は己のこめかみから流れる血で片目を閉じていたが、それでも尾は予想から外れた方向へのたうっては傍のガスボンベやそのホースを少しずつ切り裂いてゆく。
「羊! どうする?」
「あんまり長居は得策じゃないです」
「んなこたぁわかってるよ、こいつはなんとか俺が時間稼ぐから脱出ルート考えてくれな?」
ガスマスクでくぐもるその声は、焦らず冷静そのものだ。さすが、百戦錬磨の石本部隊長。
「了解」
「誰だお前は! そこをどけ! 俺の邪魔を……するなァァ!!」
「はいはい。話し合いの余地……は……なさそうね」
その場は先輩に任せ、急いで視界を取り戻した部屋を見回し部下の元へ駆け寄る。
「隊長! ……さっきβチームから通信があったんです。向こうはラボに入れたみたいなんですけど、セキュリティが厳しすぎて毒ガスのデータもサンプルも得られないって」
「んで、捕虜奪還チームがミッション成功か……残るはガスサンプルかデータの採取、と」
「それが……」
「どうした?」
「奪還した捕虜たち、部屋から脱出した途端皆ほぼ動けなくなっちゃって。運ぶのに手一杯でβチームもそっちに支援に行ってて」
「ふむ……」
作戦続行か、脱出か。どのみち東雲に行手を阻まれている間は、足止めを食らっていて先に進めない。見る限り単独行動なので、援軍はむしろ呼ばないだろう。
「奪還した捕虜たちが心配だな。βチームも作戦続行出来ない時点で、深追いしない方が良さそうな気がする」
「ですよね……でも、この部屋のこの感じ……この制御パネル動かしたらサンプルゲットできるのかも」
「気持ちはわかるけど、ここの状況だってもう知れてるだろうからすぐにでも他の輩が乱入してくるかも」
「決まったか〜?」
悠長な声とは裏腹に、鋭角に飛び込んできた斬撃をすんでのところで交わしながら先輩が背中越しに尋ねてくる。三節棍のうちの一本が、東雲の尾先の鋭利な部分に深く食い込み、ギシギシと嫌な音を立てているのが、こちらにまで聞こえてくる。
僕はそっと通信機で先輩のインカムに囁く。
「一旦脱出しましょう。合図したら奴から離れて」
先輩が後ろ手に隠した右手でこちらにOKサインを作るのが見えた。
部下にそっと耳打ちしたあと、僕は右手に薬をセットした薬液銃を、左手に照明弾を持ち、身をかがめる。東雲がこちらの動向に気を取られた瞬間、部下がパネルをハッキング操作しながら叫ぶ。
「今です!」
声と共にパッと先輩が体を引き、部屋の非常灯が消え再び漆黒の暗闇に暗転する。急に視界を奪われ一瞬たじろぐ東雲。
僕は薬液銃を構え、東雲の肩あたりに針付きアンプルを命中させる。
「くっ……なんだ……? 目が見えてきて……」
よろよろと体勢を立て直した東雲が先輩の三節棍を掴もうとした瞬間、すかさず照明弾を投げ込む。あたり一面、光に包まれ、東雲は断末魔の叫びをあげてうずくまる。一瞬で多量の散瞳薬を打ち込んだので、今奴の目は僅かな光でも大きな刺激を受ける。
「目が……目がぁぁぁっっ………!?」
「今だ」
自分の大腿にセットしてあった蝙蝠薬をフル注入する。どくどくと心拍数があがり、背中が身を裂かれる激痛に襲われる。
「うっ……く……」
「何だ?! 何が起こってる? 羊!」
「石本部隊長、大丈夫です。こちらへ…」
閃光弾の光が徐々に弱まる中、部下が先輩を呼び寄せ、2人がかりで激痛と刺激で目がくらみ額を地面に擦り付けてうずくまる東雲の両手首を後ろ手にさせ手早く結束バンドで留める。その間に僕の背中からは蝙蝠の両翼が飛び出し、ばさばさと音を立てる。
「うわっなにそれ……」
「説明は後、しっかり捕まって下さい」
腕を差し出し、部下が右腕を、先輩が左腕をそれぞれ掴む。
「させるかァァァァ!!」
東雲はありったけの力を振り絞ってのたうつと尻尾を振りまわす。操作パネルにその先端があたると、突然周囲の装置が音を立てて稼働し始め、切り裂かれたホースの割れ目からシューツと音を立ててガスが噴出され始める。もはや自滅覚悟というわけか。
「まずい! 脱出するぞ!」
慌てて羽ばたくとそう高くない天井のダクトにはすぐ近づけたが、迫り来る毒ガスを避けようにも限界がある。一度に2人抱えて飛ぶのも初めてだ。案の定バランスを崩しかけたが、先輩が機転を効かせて羽ばたく時の動きの反動をうまく利用し先程突入時に破壊して開けた大きめのダクト穴に滑り込んだ。そして僕を引きずり上げようするので、あわててその手を掴み引っ張り上げてもらう。
シューーーッ!!
その時、大きな噴射音と共に噴射されるガスの圧力に負けたのか、一本の大きなホースが取り付けてあった壁面を離れた。そしてそれはバタバタとのたうつ蛇のように暴れ回りながら白いガスを吐き出し、僕の右腕の先にいる部下に直撃させた。
「アラタ! 大丈夫か?!」
いくらガスマスクをしていてもこの状況だ。100%防ぎ切れるとは言い切れない。
慌てて2人がかりで引きずりあげると、激しく咳き込みながら部下がこう言った。
「ゴホッ、ゲホッ……隊長……やりましたよ、サンプル、ゲットです」
激しく咳き込みながらそう言うと、サンプル採取機を誇らしげに掲げてみせる。
「馬鹿……そんな時に無理してやり遂げようとすんな」
「そりゃ……猪熊部隊二番手のプライドとしてね……あと……ひっさしぶりに名前で、呼んでくれましたね……てっきり俺の名前なんて忘れてるかと」
「いいから……喋ると毒が体に回るぞ」
早速毒ガスの影響か、意識が朦朧としているようだった。見下ろすと、怒り狂った東雲がまだ目を抑えのたうちまわったまま何かを叫んでいたが、そのまま自軍の毒ガスに包まれていった。
「……あいつ死ぬかな」
先輩が階下を見下ろしガスマスクをきつく締め直しながら言う。
「……多分、こんな程度じゃ……死なない気がします……変態だし」
「……知り合い?」
「……うーん」
「何そのリアクション……」
「あんまり出くわしたくない相手って、いるでしょ……先輩にも」
「ん……そだな」
階上に戻り脱出を急ぐ。厳戒態勢が敷かれ始め所々で遭遇する警備兵に先輩が応戦し、僕が部下をおぶった状態で後方から麻酔銃を撃って支援しつつ、どうにか施設の地上フロアまでたどり着く。サイレンの警報に混じって、古びた館内放送のスピーカーから聞き覚えのあるクラシック音楽がピアノの演奏で聴こえてきたことが印象的だった。
βチームと合流し、先輩は奪還した捕虜たちを護送支援することになり、僕は部下の手当てのため一足先に援軍に駆けつけていた待機班のジープで帰還した。
※※※※
救護班の診察によれば、部下はどうやら微量ではあるものの短時間に勢いよくガスに曝露させられたため、無傷というわけにはいかないようだった。一旦は人工呼吸器を装着して落ち着き、このまま意識を取り戻すだろうと思われた……が、軍の医療施設に収容されて3日が経過するも、中々意識がはっきりとはせず、少し醒めては、また眠りに落ち……という様子を繰り返すようになった。他の、奪還した6人の捕虜たちの経過は、もっと奇妙だった。部屋に突入した時は拘束はされていながらも意識はあったのに、徐々に倦怠感や眠気を訴え出し、施設の出口に着く頃にはばたばたと一斉に意識を失いだしたらしい。全員、苦しみというよりは穏やかな笑顔だったという。そのまま、深い昏睡状態に陥り、人工呼吸器と心電図モニターで状態をつぶさに観察しながら治療法を探るしか無いようだった。
この3日間、救護班のスタッフとも幾度となく情報交換したもののお手上げ状態で、上級のラボにも支援を求めたがうまく解決策が見つからず、徐々に6人の捕虜たちの意識レベルが落ち気味であることが気がかりだった。
僕は焦っていた。毒薬の専門家として、現地に赴いたのだ。何がなんでも、部下が決死の思いで採取したサンプルが無駄にならないようにしなければならない。救出されたが故に昏睡状態になってしまった捕虜たちの意識を復活させなければならない。捕虜たちは既に何らかの毒物を投与されていると見て間違いないが、部下の状態と異なるので、別のものを投与されていると考えるしかない。しかし、こんな状態では当人らから何をされたのか、情報を聞き出すことも難しい。一体、どうすれば……ええい、考えるんだ。考えろ……
自室で手をあれこれ動かし、複数機材を動かして同時進行でいくつかの解毒候補成分の合成に奔走する。このガスの系統はおそらく神経毒、微量でも意識レベルが落ちて中々回復せず安定しないのは代謝された後の成分にも毒性があるからだろう、肝臓の数値から見るに酒が解毒される時の酵素を使っていそうだし、その酵素が強い人ほど昏睡のレベルが強く心配だ。中々抜けないのは半減期がめちゃくちゃ長いんだろう。それでも数日のうちには体内から徐々に消えてゆくはずなのに、一向に良くならないどころか少しずつ階段を降りるように悪化していくのは、不可逆的な変化が体内で起こってるからだ。じゃあ何故部下は時々意識レベルが回復することがある……?
黒板に仮説をいくつか書き連ねては立ち止まり、頭を掻きむしる。
そんな時、聞き慣れた声が再び背中に飛んできた。
「煮詰まってるかい」
「……」
「よっ! ヨーくん」
「ノックぐらい、してください」
「したよ〜。結構、大きめに、3回も」
「……」
帰還後、3日ぶりにひょっこりと姿を表した先輩は、部屋に入るや否や器具の戸棚に勝手に仕舞い込んでいたあんみつの缶を取り出して食べ始める。こんな状況でも、平常運転なのだろう。気付かずスイマセン、と詫びながら椅子を勧め、自分は背を向けて作業を続ける。
「こんな状況でよく、食えますね」
「こんな状況、だからだよ」
「………」
「いやー、大変だったよ、上への報告とか状況確認とか諸々」
「……」
「色々、羊にも聞きたいことがあんだけどさ」
「………」
「無視?」
無視したいんじゃない。でも、今の今までなんとか理屈で思考を支配させて余計な感情が生まれないよう必死で押し込めていたので、口を開けば溢れる不安と焦りで整理できていない感情が、何を口走らせるかわからなくなっていた。
「……」
先輩も何かを察したのかそれ以上は言及せず、またこの前のようにあんみつのあんこを食べ終えた後さくらんぼを大事そうに口に入れる。じいっと僕のPCのデスクトップや散乱する成分分析結果の出力紙の山、黒板に無数に書き連ねられた有機化合物の化学構造式を眺めつつ、口先に飛び出たヘタをゆっくりと弄んでいる。
「……気持ちはわかるけどさ、羊」
「……」
「今お前が倒れたら、元も子もないんだぞ」
「……」
うつむき、うなだれるしかない。
「羊、一旦休め。どうせ寝てないし、どうせ食べてもないんだろ?」
「……」
図星だった。
「仲間達の奪還は成功したけど、この兵器の謎を解かないと、俺らは不利な状況なわけだし、逆襲にも遭いかねん。その準備のためにも休息して、手分けして情報整理して、力をつけないとな」
お前も食え、と言わんばかりにあんみつの缶詰を放って寄越す。気遣いの言葉が嬉しいのに、御礼を言おうもんなら声が震えているのが知られてしまう。先輩に強がったところで、いいことなんかひとつも、ないのに。
缶切りであんみつの缶をキコキコ音を立てながら開け、一口で甘ったるいあんこを無理やり口に押し込みながらなけなしの憎まれ口を叩く。
「先輩秘蔵のあんみつを、くれるなんて」
「ありがたく食えよ……俺は3日あんみつ断ちして死ぬかと思った」
「今、なんて……?」
「ありがたく、食えよ?」
「その次! なんて言いました?」
「み、3日絶たれて死ぬかと……?」
「それ! それだ!!」
閃きが頭を席捲し、先輩の両手を掴む。
「……え?」
「ありがとう! 謎が解けそう!!」
「えええ?」
「急性中毒と、慢性中毒なんですよ! 要するに! やっぱり、捕虜もアラタも同じ毒ガス吸ってて、それぞれ別の現象が起こっていたんだ!!」
「……状況が見えないんだけど、なんか糸口が見つかったってことかな?」
「そうです、とりあえず……捕虜達の容態の悪化は食い止められるはず…」
言いながら早速作業にかかろうと器具に手を伸ばそうとして、先輩から強めに後頭部にチョップを食らう。
「ほら。すーぐそうやって自分で解決しようとする。そんなんじゃ体が幾つあっても足りんよ? 上級に話通しておくから、あいつらも上手く使いな」
「……ハイ」
「ほいじゃ、俺もちょっと用あるからこの辺で。生きてまた会おう、な。」
そこまでの少し落ち着いたトーンから唐突にニコッと笑ってみせられると、いつもの口癖ですらも縁起でもないものを感じかけてしまい、ふるふると頭を振り払いながら生返事をするしかないのだった。
先輩が僕の部屋を後にして入れ違いになるように、捕虜室内空気のデータ解析結果が届いた。空気中に極微量の毒ガスが含まれていた環境だったようで、検出が難しく手間取ったらしい。やはり、同じガスで間違いなさそうだ。
その時、救護班から内線が入り、部下が意識をはっきり取り戻したと連絡が入った。
救護班の隊員らに案内されて病室を覗くと、いつもの大きめメガネをかけて上体を起こした状態で座っている部下がそこに居た。
「猪熊隊長、ご心配おかけしましたぁ! も〜、こんなの初めてですよ〜、実践経験少ないなりに勉強になったというか」
「意識が戻ったり戻らなかったりが続いて心配したよ……回復してくれて本当によかった」
「いや〜まっさか、作戦前に気管支拡張薬吸っちゃってたのが裏目に出ちゃいましたね……」
ガスマスクしてたのに極少量でも中毒症状になってしまったという皮肉さ、しかしむしろそのお陰で毒ガスの謎が解けそうなことに礼を述べる。
「命がけの謎解きだな……やるべきことが山ほどあるよ」
「手伝いますよ〜なんたって俺、猪熊部隊二番手ですから! 次期ラボはお任せくださいねっ♪」
「……それだけ調子に乗れるなら、ほぼ回復だな」
部下の場合は、急性中毒だったために比較的早めに毒が体内から排泄されたようだが、問題は他の捕虜たちだ。もう5日近く経過しているのに、未だ状態は良くならない。
手始めに、部下が採取したガスサンプルの複製を試みていた。ガス中には笑気ガスに近い成分が微量に混合されており、捕虜だった諜報部隊員たちが眠ったままにも関わらず穏やかな笑顔である辻褄があう。主成分はおそらく農薬と麻薬の特性を併せ持つ合成化合物だろう。そこで毒性をかなり抑え目にした類似物質を作ることにした。慢性中毒に陥り、ガスがない環境では意識が保てない程度にゆるやかに毒された捕虜達には、まずは恒常的に吸わされ続けていたであろうガスに似た物質を中毒症状の緩和剤として、少しづつ摂取させる。これで徐々に意識レベルを取り戻させ、解毒剤完成までの時間を稼ぐことが先決だろうと救護班に提案していた。麻薬中毒の緩和には一般的に取られる方法であるものの、まさしく毒を持って毒を制さなくてはならない。
これの化合物の合成が思った以上に難しく、部下と二人がかりで作業するも中々成功とはならなかった。合成はできるものの、ものの数分で物質が速やかに体内の酵素で分解されて消え去ってしまう。捕虜達に吸わせるには、もう少し分解時間を遅らせる必要があった。しかし分解時間が遅れすぎるとあっという間に毒性反応が強く出過ぎてしまう。実験台のラットの様子をそわそわしながら観察しては、ため息をつきながら次の試行錯誤が続く。正確な構造式が判明すれば早いのだが…先輩を通じて支援を頼んであった上級ラボからも、なかなか良い結果は得られず、一進一退の状況が続いていた。
そうこうするうちに、部下があまりにも寝不足が過ぎたのか、フラスコを落として割ってしまったので、見かねて仮眠室に押し込む。
一度光が見えかけたのに、いよいよ煮詰まってきた僕は、そういえばこの前先輩は何の用事で尋ねてきてくれたんだろう、と気になり久しぶりに自分からラボを出た。
時刻は消灯時間の21時を回った頃だった。上級のフロアに行くと流石に出歩く人はおらず、だだっ広い廊下は足音がやたらと響く。上級の部隊長クラスの宿舎は、殺風景でシンプルな下級の宿舎とは違ってクラシックでシックな調度品が並び、絨毯は軍の紋章が金や銀の糸で織り込まれており、消灯後の薄暗さでもそれらの絢爛豪華さがうかがえる。階段を登って突き当たりを右、その先手前から順にひとつ、ふたつ、みっつめ、ここか。石本と表札に書かれたそこには部隊長用に与えられている書斎と居室の扉が並んでおり、どちらに在室だろうか、と暫し思案する。
ふと、書斎の中から声が聞こえてくる。おそらく、先輩の部下らだろう。
立ち聞きはよくないと思い、少し離れた場所で手持ち無沙汰に壁に寄りかかりながら、端末のメールを確認する。話し合いが終わらない様子なら、また出直そうか……そう思ったとき、聞き慣れた先輩の声が聞こえてきた。
「今回の作戦はできるだけ小規模で行う……それと、限られた人にしか任務内容も公開しないという上層の方針だ……情報の取り扱いには気をつけるように」
何やら、新しい作戦のようで、機密事案らしい。上級の部隊長クラスともなれば、そういう事はままあるのだろう。軍内にも末端には密偵が居たり、僕みたいにあまり忠誠心はなさそう、と勝手に思われていたりする下級部隊長もいるくらいだから、容易に想像はつく。
「地下ラボの手前の床通気口に、……、最深層へ抜ける実験場があるが、……ここには……」
聞くつもりはなかったものの、断片から察するに僕らが東雲と対峙した部屋のことが語られているようだ。
「……潜入は俺単独で行う。……、後方支援に…」
待、待ってくれ。先輩、あそこに再び乗り込もうってのか? それも、単独で。作戦の詳細は分からないが、いささか無謀すぎやしないだろうか。解毒剤はおろか中毒の緩和剤すら完成してはいないのに。部屋に入りたくなる気持ちをグッとこらえて、お呼びではない僕は一旦頭を冷やすためにその場をそっと離れることにした。
翌々日、上級ラボの支援もあって、合成作業は徐々に成果を見せはじめた。僕は部下と一緒にホッと胸を撫で下ろしつつ、ようやく完成した中毒の緩和剤を注意深く捕虜たちに投与した。期待通り、脳波は正常に近く戻ってきて、救護班達と一緒に歓声を上げる。ところが……意識はあるはずだが、捕虜たちは一向に目を覚さない。揺さぶっても、声をかけたり光を当ててみたりしても、生体反応はあるのにうまく応答や身じろぎも見られず、変わらず眠ったままの彼らに僕たちは困惑した。
またしても、袋小路だ。
「……なぜだ!」
ラボに戻って荒々しくドアを閉める。
中毒の緩和剤はうまく出来ていた、はずだ。現に捕虜たちの昏睡状態の脳波が正常にまで回復したのだ。成分に間違いは無いはず。全くわからない、さっぱり検討がつかない。類似物質がわかったなら、化合物が正解なら、これを少しずつ分解解毒する成分を開発すればゴールだ。でも、それは彼らが目を覚まして、僕の仮説を立証させる必要があった。彼らが目を覚さないままなら、全く意味がない。
わあっと叫び出してデスクの上に散乱する山のような資材を床一面にぶちまけたくなるような苛立ちをギリギリでこらえ、たまらずベランダに出て煙草に火をつけ、深呼吸する。
ベランダからはグラウンドが見え、下級生たちが訓練中の様子が垣間見える。疲れ切った頭の端っこに、静かにニコチンが染み込んでゆき、焦りで動揺する心臓を静かに沈めてゆく。
「ひどい顔だな」
振り返ると、あんみつの缶を手にした先輩が窓に寄りかかってこちらに軽くひらひらと手を振っていた。
「……救護班から聞いたよ。諜報部の捕虜達、脳波戻ったんなら、最悪の状態は脱出、だろ。そんなに落ち込むなよ」
すたすたと隣までやってくるとチラッと僕の吐き出す紫煙を眺め、コラ、未成年がダメだぞ、と小声で咎めるのを、聞いてか聞かずか曖昧なまま受け流す。
「でも……覚醒しないんです。これは……見当を誤ったか、ブレンドされてる他の成分で見落としがあるのかも」
「そんなに抱え込むなって。他にも原因はあるのかもしれない」
「先輩だって」
「……え」
「先輩だって……抱え込んでるじゃないですか。どうしてまたあの施設に乗り込むんですか、それも単身で」
つい、口をついて昨日立ち聞きしたことをこぼしてしまった。
「……聞こえてたの、ね」
「スイマセン……盗み聞くつもりは無かったんですが」
「まぁ、そういうわけだよ」
「いつ発つんですか? 単身はさすがに……」
「もう決まったことさ」
「どうして教えてくれなかったんですか」
「すまん。規則で明かせない」
「でも……解毒剤の件もケリがついてないのに、一体何の目的で」
「いずれわかる」
「危険すぎますって!」
「危険じゃ無い任務なんか、無いよ」
「じゃあ尚更だよ! 何が規則だよ! もっと俺を信用してくれよ!!」
思わず先輩の襟首を掴んでしまった。
「信用してないとは言ってないだろ? 逆に信用してなければ、力を借りてない」
一切動揺を見せずに、襟首を掴まれたままの状態で、先輩は淡々と言葉を返す。ただ、いつもの飄々とした様子ではないことは確かだ。
「……下級なんか連れて行く方が足手まとい、ですか……」
ダメだ。捕虜たちの件の動揺から冷めない苛立ちと焦りが頭に血をのぼらせ、思ってもないような理不尽な怒りの矛先を先輩にぶつけてしまっている。
「落ち着けって、羊」
「……」
「お前は充分良くやってくれてるよ。な?」
「全然、ぜんぜん……役に立ってない。彼らが目を覚まさなきゃ、意味がないのに……」
「だからそれ、羊だけの責任じゃないから」
「じゃあ誰が……一緒に解決してくれるんですか……」
「俺も居るだろうが」
静かに、それでも強い意思が燃える緋色の瞳でぐっと見つめ返され、僕は思わず言葉を呑む。先輩は落ち着き払った様子で、襟首にかかった僕の指先をゆっくりとほどく。
「必死で考えてるのは、お前だけじゃないんだぞ」
「……」
「この前もこの件で話に来たけど、何かに気づいたみたいでそれどころじゃなかっただろ」
「………」
返す言葉もなかった。1人で抱え込んでなんとかしようと行動していたのは僕のほうだった。
「専門のことは確かに俺にはわからない。歯痒いし、もどかしいよ。物理的に羊やラボの連中に頼らざるを得ない部分があるのは、事実だよ。でも、それが重荷にならないようにするために、俺が居る」
「……だからって、先輩も何も1人で行かなくても」
「お前だって立ち向かってるだろ。解決の仕方が違うだけで、考えてることは一緒さ」
「じゃあ俺も一緒に行きます」
先輩はそう言い出すと思ったよ、と呟きながら僕の肩をぽんぽんと軽く叩く。
「今お前を連れて行って何かあったら、誰が皆を救うんだよ。今は目の前のことに集中してくれ」
「……」
そこまで真剣な顔だった先輩は、ニコッと笑ってみせる。
「そんな顔すんな。大丈夫、生きてまた会えるさ」
僕は強く握りしめた拳を解いて、力なく頷くしかなかった。
先輩が部屋を出ていった後、黙々と作業を続ける間も思考は止まらず、手を動かしながらじっと逡巡する。
幾度となく先輩が僕のラボを尋ねていたのは、作戦のことを相談したかったのかもしれない。捕虜の扱われ方や黒軍のこれまでの兵法、使用兵器、動向にももっと詳しいはずだ、聞いてもらうばかりじゃなくてもっと先輩の話を聞くべきだった。冷静になってから気づくことは何もかも自分の必死さが仇となっていた気がしてくる。辿り着いた結論は、一言謝るべきということだった。
そう思い立って、翌朝ラボを出ようしたらドアに挟まれていたのか、白い封筒が一通かさりと軽い音を立てて床に落ちた。
封筒は無記名だったが、さらさらとした筆跡は帳簿に名前を書きつけていた先輩の走り書きに一致する。
1枚目には、所属部隊の押印と先輩の直筆サインが添えられ、こう書かれてあった。
「俺に何かあった時、この毒ガスの謎を解けるのは猪熊だけになる。その時は、彼の指示に従って欲しい」
2枚目はこうだった。
「羊へ 別行動になってすまない。俺は俺のやり方で早く皆を助けたかった。麻酔銃と通信機、勝手に借りてごめん。何かあった時、この手紙を俺の部下や他の上級に説明するとき使ってくれ」
先輩は覚悟を決めていた。僕は震える手で、ただただその紙を握りしめることしかできなかった。
※※※※※※
時刻は午前様のマルヒトマルマル、俺は再参入作戦のため単身、黒軍軍需工場の裏口に居た。
数ヶ月前に一部が爆破され、その後先週にも再び潜入された事もあり、セキュリティはいよいよ厳重この上なくなっていた。極力作戦に参加する人数を減らしたのも、飛び交う無線の傍受を極力減らすこと、内部の構造を知る人間に限定して最小限の動きで目的を達成するためだった。
単身と言っても別経路からも他の隊員が2名ほど潜入するし、後方支援部隊がすぐ側でいつでも突入できるよう待機もしており、黒軍内部には諜報部も居る。
顔全部を覆うフルフェイス型のガスマスクは息苦しく、自分の呼吸音がやけに耳に残る。インカムからは絶えず無線の信号音が聞こえており、何かあればすぐに応答されるよう手はずは整っていた。
内部の諜報部からの合図を皮切りに、建物の3階部分までワイヤーロープで一気につたい登る。一ヶ所、セキュリティロックのかかってない普通の窓サッシがあり、ガラスカッターで切り抜くと容易く内部に潜入できた。どんなに磐石な守りにしようとしても、増改築を繰り返した巨大な建築物には絶対に抜け穴があるものだ。
真っ暗な廊下を、特殊ライトで照らす。諜報部が日中仕込んでいてくれていた紫外線蓄光マーキングに沿って施設内を進む。今回は毒ガスそのものよりも、それをどうやって扱っているのか、内情が知りたかったのだ。羊が苦戦していたように、この毒ガスは不可解な事が多い。少量なら急性中毒で済んでしまうが、一定量以上だと慢性中毒に陥ること。慢性中毒だと、むしろ意識はあり見かけ上普通に活動できること。ところがあるタイミングで意識を失い、中和しようにも脳波は戻るが覚醒ができないこと。
この一番最後の「脳波は戻るも、覚醒ができない」がクセモノで、羊は分析結果の解読ミスや、化合物の合成のミスを疑っていたが、俺はまた別の理由があるのではと踏んでいる。
諜報部からの情報でたどり着いた小さな物置は、どうやら救護室に隣接しているようだった。無線の信号音は、予想通りどんどんノイズだらけになり、傍受のリスクも心配だったので一旦切る。長いこと使われていない様子の、埃がうっすら積もった机や椅子を静かに押し除けながら進むと、壁の薄い所にマーキングがされていた。そっと盗聴用聴診器を当てると、こんな時間なのに朧げながら会話が聞こえるようだった。意を決して壁の脆さを確認し、携帯してあった工具でコツコツと叩くと脆い素材なのかしてあっけなく小さな穴が開く。小型スコープと聴診器をセットして中を覗き込んだ。
「やれやれ、困ったものだよ」
声の主は黒衣を纏い、ベッドに横たわる患者に点滴を繋ぎ直している。さしずめ治療中といった様子で、7〜8台のベッドが並び、そのうちの2つが埋まっているようだった。傍らで、看護服を着た助手と思しきスタッフが行き来し、機材を確認している。
「M-16が使われ出してから、ろくなことが無い。解毒剤もままならないのに、言わんこっちゃない。こうして身内でも被害者が出ているのだから」
「あまり大きな声でそう言ったことを…言わない方がよろしいかと」
助手に咎められた黒軍の救護班と思しき人物は、ちらと奥に眠るもう1人を見やりながら毒づく。
「いいや。開発班は功績として讃えられているのかもわからんが、こちらとしては迷惑千万だよ」
「……」
「先週もまたひとり。白軍乱入騒動で…催眠班の連中が何をしてくれているのかわからんが、いい加減最低限の情報しか下さないのは人命がかかっている今、非常識だと思わないか?」
「本部の方針ですから」
「……全く……組織ってやつは。毒ガスってだけでも厄介なのに、この上催眠操作だなんて胡散臭いものを取り入れやがって。大体この施設自体、色々と……」
「……班長、そろそろ。引き継ぎ時間です」
俺らが脱出する時に流れていた、館内放送の古びたピアノの曲が唐突にスピーカーから流れ出して、思わず身を固くする。なんだろうか、この曲は……聞いたことのある、懐かしくてとんでもなく場違い感のある……確か、クラッシックの有名な曲だったはず。
横たわる患者と思しき人物達の瞳孔をライトで確認しながら、小声で助手に何か応答し、2人は部屋を出て行った。
少しして館内放送は止み、機材の規則正しい信号音を発する以外は、静寂に包まれている。
……コンコン。入れ替わるようにノックする音がして俺は咄嗟に身を堅くし、息を呑む。
「東雲参謀、入ります」
「失礼します」
ぞろぞろ、3人分くらいの足音が聞こえてくる。患者のうちの1人は、剣を交えたあの男だったのか。
「意識が無いのに、話しかけたってさ」
「そうは言ってもさ、一応な。参謀だし」
話している連中は何者なのだろう。全員ほぼ顔の隠れるマスクをして、物々しい機材を抱えて患者の周囲を取り囲む。身に纏う軍服の様子から、救護班ではなさそうだ。
彼らが東雲の横たわるベッドの周囲で、元々設置されていた機材を押しのけてさらに別の、漆黒に不気味に塗られた機材をいくつか設置し、付けられていた装置のコードを一部付け替えたりしている。
死角になっているためあまり伺うことは出来ないが、何かヒントになるかもしれないと思い無線機器のスイッチを入れるが、案の定通信妨害がものすごく、ノイズだらけになり通信を諦める。気を取り直し、こっそり持ち出してあった別の通信機のスイッチを入れてみる。こちらはどうやら妨害を受けていないようで、静かにこちらの信号を受けているようだった。
「……上官許可が降りているのは?」
「東雲参謀だけです」
「今回も彼のほうは起こしてもらえず、か……」
「シッ。触らぬ神に、祟りなし、だ。俺たちは指示通りやればいい」
「脳波は?」「クリア」
「心拍クリア」「呼吸問題なし」「バイタル、良好」
「よし。大丈夫そうだな」
「了解、覚醒装置セット。3、2、1…」
カウントと共にヴゥーンと機材が大きな音を立てたのち、急に無音になった。覚醒装置が一体何なのか、皆目検討も付かないが、しばらく、沈黙の時間が流れる。
「……ではまた明朝」
そう言い残して、3人はあっさりと出て行ってしまった。てっきりすぐ目を覚ますのかと思っていたが、どうやらそうでは無いらしい。
しばらく息を殺して見守っていたが、状況は変わらないので、痺れを切らした俺は思い切って隣室へ潜入することにした。
救護室内は薄暗かったが、もうかれこれ数十分は目を凝らしていたため暗さには充分目が慣れていた。音を立てぬよう、慎重に引き戸を閉めると足音を立てずに東雲が眠っているベッド側に近づく。鼻筋の通った和人離れした端正な顔立ちに、違和感のないプラチナゴールドの髪色。規則正しい呼吸音と共に閉じられた瞼と睫毛の繊細な造形に、うっかり美しさすら感じるが、既に一度最悪な形で邂逅していたのでそこはぐらつかない。生まれる時代が違ったら別の活躍もできたかもしれないのにといささか同情に似た感覚を覚えてしまう。
慎重に観察するも、身じろぎ一つせず寝入っている様子で、本当に覚醒するのだろうか……と思いつつふと、東雲の両耳に小型のワイヤレスヘッドホンが取り付けられている事に気づく。
一体……どういう事だ……?
じっと耳を澄ませていると、僅かながら音漏れしているようだ。そっと息を殺して耳を近づけると、漏れ聞こえてくるのは……やはりあのピアノのクラシック音楽だった。それと何かをボソボソと語りかける人の声のようなもの。
「……聴こえるか」
おもむろに小声で通信機の向こうの相手に声をかける。
しばらく間があって、通信相手が口を開く。
『僕らが脱出の時、流れていたピアノ。ちょうど調べていました。トロイメライ。シューマンという人が作曲した、子供の情景という楽曲群の中で最も有名な曲ですね』
「ああ。さっきから事あるごとに聞かされているが、まさか覚醒作業中にも使われているとは、な」
『結局、これは……』
「そう、催眠術だ……比較的シンプルなね」
捕虜を捕らえた時、一般的には尋問、拷問、そして情報を引き出すために心理操作や催眠状態にかけられていることはそう珍しい事ではない。その解除方法さえ知れば容易いことだ。
『まさか、科学ではなく心理学の分野で思わぬ足止めを喰らっていたとは』
「パスワードだってそうだろ。英語数字だけじゃない、そこにごくシンプルな記号が加わることだってあるさ」
『……盲点だったな……』
「まだ東雲が眠っている以上、確証は定かではないが、恐らくは」
通信の向こうで羊はほうっと安堵のため息をつく。
『……やれやれ、超音波通信機を勝手に持ち出すなんて。一言声かけてくれたら、全員にお貸ししたのに』
「いくつかの部隊や諜報部とも連携していて、作戦の全体としては俺すらも把握できていないんだ。借りるとなると何台必要かも見当がつかず、すまなかった」
『まだ作戦途中なんですか? 』
「ああ。おそらく最後の潜入作戦だから、他の作戦も並行して行われているみたいだ」
『そうですか……』
会話しながら、部屋のあちこちをそっと調べ回り、暗視カメラで撮影をする。ふと、1番奥に寝かされているもう1人の患者が気になり近づく。東雲より少し上の世代のようだが、同じように深く眠りについている。呼吸の数も極端に少なく、仮死状態に近いと言っても良いのかも知れない。
「あれ、何だこれ」
その男は黒衣を着ていたのでてっきり救護班と似たような部隊かと思いきや、ポケットを探って出てきた名刺からは開発班の主任部員であることが分かった。そして、名刺入れの背面に小さなポケットがあり、逆さまにした拍子に床にマイクロチップが滑り出て来たのだった。咄嗟にそれをポケットに仕舞う。
「羊、今もう1人の隊員からマイクロチップを手に入れた。この隊員……開発班らしい。もしかすると……」
『何かのデータかも知れませんね』
「ああ。持ち出させてもらおう」
眠ったまま起こしてもらえない哀れな開発班。軍の明暗を分けるような危険な兵器を開発し、それが使われているさなかでのこの状況は、のっぴきならない事情でもあるのだろう。
「とりあえず一旦はここを後にする。俺からは通信を切らないが、もしもの時は……頼む」
『……了解。通信状態は安定しませんが、そちらの作戦を邪魔しない範囲で、サポートします』
「結局頼ることになっちまったな。わり」
先ほどの物置部屋に戻り、手早く小型端末でデータの中身を確認すると、予想通り。M-16の開発データや、特性がざっと纏められたフォルダのようだった。意図的なのか、ロックもパスワードもかかっていないことにこれは罠ではないか? と不安を覚えたが、取り急ぎは羊と上級ラボにデータを転送する。
転送が終わる頃、急に警報が鳴り出した。データの送信が何らかのセキュリティに引っかかったらしい。慌てて通信を切断すると、廊下に出て退路を駆けだす。
諜報部が付けてくれていたマークを頼りにエアダクトをくぐり抜け、煤だらけになりながら2階の廊下に降り立ったところで唐突に天井から防火シャッターが降りてきて進行方向を阻まれてしまった。まずい。窓を蹴破って出ようとするが、3階とは違い分厚い防弾ガラスのようだった。
「……最悪な目覚めだと思えば、貴様か」
薄闇の中、聞き覚えのある声に振り返ると、さっきまでベッドに居たはずの東雲参謀が腕組みをして立っていた。赤い非常灯にぼんやり照らされたその瞳は同じように紅く爛々と輝いている。
「……覚醒したのか」
返事はせず、鋭くこちらを一瞥した後、歪んだ笑顔を見せる。
「貴様だけか? あの化け物はどこだ」
「……化け物なんて知り合いに居ない」
「この前は一緒に居ただろう。猪熊、羊と」
「……今日は居ない」
「ふうん」
言いながら、ゆっくりと歩みを進めてくるのでホルダーの三節棍を後ろ手にいつでも触れられる位置にあるか確認する。
「お前のソレ、厄介だよなぁ。扱うのは難しいだろう?」
「……お喋りしている時間は無いんだ」
「もう少しゆっくりしていけよ。貴様、良い腕してるじゃないか? 褒めてやる。だから」
大きく身をかがめ、猛然とダッシュで間合いを詰めてくる。
すかさず飛んでくる右拳を左手で受け止める。反動をしなやかに流しながら、みぞおちに膝蹴りを入れようとすると、先を読んだのかガードで弾かれる。素早く二歩、身を引いて相手の間合いから距離を取り三節棍を引き抜き両手に持ち構える。
「……もう少し、遊んで行けと言っているのだ!」
叫ぶや否や、一度体勢を立て直すために引いた間合いを無遠慮に詰めてくる。時間稼ぎのつもりなのだろうが、こちらは足止めを喰らい続けるつもりは無い。屈めた身体の中心部に容赦なく右パンチ、左パンチ、ローキックが矢継ぎ早に飛んでくる。どちらかというと小柄寄りな体躯からは予想もつかない重ためのボディブローをあやうく受けかけ、俺の肋骨の代わりに衝撃を受ける三節棍がミシミシ、鈍い音を立てた。
「あいにく……先を急ぐもんでね」
グッと拳の圧に負けぬよう押し返すと、一瞬均衡になった双方の力が拮抗しあう。カタカタ、小さく震えながら力を受け止める三節棍越しに視線が交差し、東雲はニヤと笑いながら言う。
「2回も忍び込んできた野鼠を、生きたまま帰すと思っているのか?」
すかさず体を捻って繰り出すあの忌々しい尾の斬撃が三節棍に絡みつく。金属同士が激しく擦れ合い、グリップ部分が傷つき周囲に火花が飛び散る。やれやれ、この前コーティングをかけ直して修理したばかりなのだが。
「仕方ない」
左腕に持ち替えた三節棍で奴の尾を捉えたまま、空いた右手で腰後ろに隠し持っていたピストルを引き抜き素早く東雲の肩の付け根付近に2発、撃ち込む。羊から拝借したままの麻酔銃だ。一瞬ぐら、とよろめくが奴は倒れない。
「ハハハ…! 貴様、さてはそんなもので俺の動きが封じられるとでも思っているのか…?」
「?!」
「元々麻酔漬けの俺に、こんな程度のものが効くとでも?」
そうか、羊が東雲とあまり出くわしたくは無いと言っていた理由がこれか……
動揺するもすかさず、ベルトに忍ばせてあった工具を放り投げ東雲の頭上の非常灯を叩き割る。ぱらぱらとガラス片が東雲に降り注ぎ、それらを彼が振り払う一瞬の隙をつき、身を翻して猛然と駆け出す。暗転する視界、諜報部の残したサインが他にないか必死で探しながら辿ってきたダクトめがけてだだっ広い廊下を疾走する。
「小癪な。ああ、つまらん、貴様もその程度の野鼠か」
背後で禍々しい声で叫び声をあげている。ぞっとしながら気配を感じて振り向くとすぐ隣を東雲が並走している。速い……! 足音がしない……走っているのではない。軍服の背中から大きな翼が生えており、それで音もなく滑空し追い付いていたのだ。
「敵に背後を見せるなと、教わらなかったのか?」
振り切ろうとするも、翼の端で片足を掬われ、バランスを崩して派手に転ぶ。咄嗟に受け身は取ったが、すぐさま鋭い鉤爪が飛んできて肩を掴まれ仰向けに引き倒される。一体何が起こっているんだ。
「はぁ……はぁ……、っ痛たたた……!」
息が上がったまま、馬乗りになってきた東雲と取っ組み合う。首根っこを抑えられて、呼吸が苦しくなりガスマスクが邪魔で剥ぎ取りたくなるのをぐっと堪える。少しずつ意識が遠のき始め、命の危険を感じながらも相手の正体が気になって目を凝らしていると、薄暗い中でもわかる位、黄金色に光る、人間のそれでは無い大きな瞳孔と目が合う。猛禽類の大きな両翼が視界の端にそびえ、掌の指先に並ぶ鋭い鉤爪が喉に食い込んで思わず呻き声を漏らす。
「……く……化け物…………っぐぅ……」
「そうだ。お前のお仲間の化け物と似たような、薬を作らせた。まだ試作段階で、あいつを葬るために、取っておきたかったが……実戦使用は今日が初めてだ。ククク…光栄に思え……!」
「……同じ手を使っても…アンタはきっと……羊に……負ける……」
「うるさい!!ウオオオオオオオ」
雄叫びを上げながら、持っていたシリンジを自ら大腿部に乱暴にぷす、と突き立てる。途端に、両手の鉤爪がメリメリと、音を立てながら黒革の手袋をやすやすと突き破って大きく長く伸びてくる。アレに喉でも突かれようものなら、一貫の終わりだ。
と、その時だった。幸か不幸か、警報がけたたましく鳴り響き、騒々しく音を立てながら数人の兵士らがライトを持って駆けつけてくる。
「東雲参謀……! その姿……!」
「一体何があったんですか?!」
口々に叫ばれ、大きく振りかぶった鉤爪が鼻先で止まる。
「なんだ……貴様ら……俺の…邪魔を……するなッ……!」
「我々が侵入者を捕らえますから! 離れてください!」
駆けつけた兵士たちなどまるで意に介さぬよう大きな翼で容赦なく薙ぎ払う。身内すらも敵に回す言動におののく兵士らを一瞥して嘲笑った後、ゆっくりと視線をこちらに落とす。首に巻きつく鉤爪の力は容赦ない。
「なぁ……お前……お前を殺したら、あいつはどんな顔をするかなぁ?」
形のよく整った唇が歪み、色素の薄い髪の中で光る瞳孔は恍惚で細くなる。
「……ぐっ……か……関係ないだろ……それに……羊は……そんなこと、気にも……留めないさ」
「……本当かなぁ? ……試してみようか」
毅然とした態度と視線で相手をキッと睨みつける。
「……やってみろよ、変態」
「ククッ……ククククク…面白い…お前…どうせ、繋がってるんだろ、奴と。なぁ化け物! 聞こえてるか? 今貴様の仲間とやらを……この手で……締め殺している最中だぞ?」
ニヤニヤと笑いながら、知ってか知らずか、通信機越しの羊に語りかけてくる。超音波式無線はこの状況で正常に作動しているのか分からず、羊からの応答も確認ができない。ぎりぎりと首を締め上げられ続けて意識が遠くなり出す。おそらく薬の効果なのだろうか、相手の常人離れした力に危険を感じた俺は咄嗟に脱力しこと切れたフリをする。
「……ん………死んだか?」
東雲に顔を覗き込まれる瞬間、残る力を振り絞って持ち歩いていた工具のキリを奴の首根っこ深くにずぶり、と突き刺す。
「っぐあああああああアッ……この……野郎ッ……」
大きく翼を広げながら、頸動脈をおさえ痛みによろめく身体を押しのけようと試みる。兵士らが取り押さえようと駆け寄って来たが、東雲は力を振り絞って一喝する。
「こいつはァ! 俺の獲物だァッ!!」
噴き出す鮮血にまみれたまま身内にすら怒号を張り上げる東雲参謀に、一瞬怯む兵士ら。顔面に降りかかる彼の返り血とようやく解けた拘束で激しく咽せる俺に、怒髪天に触れたのだろう、彼は至近距離で小型の手榴弾を投げ込んできた。爆発する…と観念した刹那、それは手榴弾ではなく液体と気体が混ざった煙幕だったようだ。猛然と煙があたりを覆い隠す。液体は超低温なのか冷たく、軍服を通して染み込むと刺すような痛みが走る。咄嗟に「あのガスだ……」と感じた。
煙幕の中から東雲の高笑いが聞こえる。
「その身体でしっかり味わえよ、なぁ? ……大人しく殺されておけばよかったものを、ずっと無意識の世界に閉じ込められるのだ。残念だったな!」
ガスマスクをしていなかった兵士たちがごほごほ、咳き込む音が響き、東雲はどくどくと血が流れる首元を片手で押さえながらも執念でふらふらと身体を動かし俺の身体を掴もうとにじり寄ってくる。口元には薄ら笑いを浮かべて。
「東雲参謀、そこまでだ」
閉じられていたシャッターがガラガラと大きな音を立てて開き、ガスマスクを被った集団が登場した。全員漆黒の軍服に身を包んでいる。
「誰だ……貴様……どこの部隊だ」
「本部から来た。1度ならず2度も規律違反だぞ、東雲参謀。それにその薬も煙幕も、開発班からの報告には無いが」
「……こいつは……この工場を……幾度となく攻撃している。重罪犯だぞ……殺すか、捕虜にして痛めつけなければ……」
「話は後で聞く。救護班、東雲参謀を運べ」
「待て! まだ決着はついていない! ……やめろ! あれは……俺の獲物だ!」
バサバサと翼を羽ばたかせて暴れるも、早くも効果切れなのだろう、徐々に変化した部分が元の人間の姿形に戻っていく。そのまま複数人の兵士達に取り押さえられて担架に乗せられ、運ばれていった。
「……さて、君もこれから調べさせてもらおう……と、思ったが。とりあえずは捕虜になってもらおうか」
おそらくその中の隊長格と思しき人間がそう言うと、後ろから突然麻袋をすっぽり頭から被せられ、視界を奪われる。
そして、あっという間に手足を拘束され、ひょいと抱え上げられて体が宙に浮く。
一体何処へ連れて行かれるのだろうか……。至近距離で喰らったガス入り煙幕のせいか、息苦しさと首や肩にかかった液体のそれがじわじわと体内を侵食していく気持ち悪さに襲われる。ここは抵抗せず大人しくして、隙を見つけるしかない。
運ばれる間も懸命にこの状況の打開策を考えるも、東雲との戦闘で満身創痍、疲れ切った頭はうまく回らない。ガスマスクを被った小隊はこの軍需工場に元々居た部隊ではないようだ。本部から来たとは言っていたが……
気づけば、俺を囲む兵士達がいくばくか減り、人の気配が少しずつ薄くなる。俺を担いだ兵士が薄暗い部屋に入るや否や乱暴にどさっと床に置かれた。目隠しされたままでは受け身も取れずに背中をしたたかに打ちつけ、ぐうと呻く。伝わる床の振動でここはおそらく昇降機の中だと気づく。
ウィーン……ブゥン……ブゥン……ガコン、ウィーン……
古い昇降機なのだろうか。時々止まりながら、ゆっくり階下へ降りていく。その場の状況が知りたくて、倒れた状態のまま側に居るであろう兵士に話しかけてみる。
「……なぁ。これどこに向かってんの?」
「……」
当然ながら回答はない。そりゃそうか。
もう少し意表を突かないと、と思い直し咄嗟に質問を変える。
「アンタさ、結構力持ちだな。軽々男1人持ち上げるなんてさ。実戦、多いの?」
「……」
相変わらず返答は無い。
昇降機の調子が悪いのか、途中でガコン、ガクンと揺れが起き、その度に頭がぐわんと揺れる。
兵士はどうやら昇降機内にもう1人居るらしい。気配で感じるが、そいつは異様なほどに気配を消し去って離れて立っているのだろう、初めは気づかなかった。恐らく俺を抱えていた兵士より格下なのか、ずっと黙っている。
「幾つなの?」
「……答えなきゃならないか?」
「……まぁ……」
そうだよな、と思っていたら、ぼそり、ガスマスク越しにくぐもった声が聞こえる。
「……16」
「ふーん。年端も行かぬ子供にこんな嫌な仕事させるなんてお前の上司、狂ってんな」
「お前は」
尋ねられるとは思っておらず、無意識に答えてしまった。
「21」
「……上官か」
「その辺は偉い人には秘密にしといてね」
「……」
再び昇降機が大きく音を立てて揺れ、今度は止まってしまった。兵士らのうち片方が外部に連絡するための通信を立ち上げているようだった。
地下実験場、という単語が聞こえて来て、恐らくあの地下の施設に連れて行かれるんだろうな、と嫌な汗が背中を流れ落ち、あの檻の中の無惨な状態の生き物達が脳裏をかすめる。
「……なぁ。こんなやり方で、おたくらほんとに正しいと思ってんの?」
「……正しさって何だ。お前ら白軍が偉そうに言うことか」
「中々鋭い質問。じゃどう思ってんの、黒軍さんの正しさってよ。こんな非人道的なことやっといてさ。まるで人体実験よろしく、じゃないの?」
「捕虜と会話は許されていない」
「そっちから尋ねてきたんじゃん……」
話が断ち切られ、暫し沈黙が流れる。外部電源が起動したのか、昇降機は再び音を立ててゆっくり動き出した。
ぼそり、兵士がつぶやく。
「連れ戻したい人がいる。それが叶わないなら、殺すしか無い」
「……え?」
「……」
何かを、尋ねたいような、尋ねたらとんでも無いことになりそうな気配が空間を支配する。
こんな状況でなければ。冷静に振舞っていても、心理的な焦燥が心拍数を上げ、思わず動揺する。
昇降機がガクン、とまたしても大きな音がして揺れ、停止した。今度は室内の電気も完全に停電した模様だ。
「どういうことだ!?」
「っわ」
「何だよ、復旧させたんじゃ無いのか?」
「はい……そのはずなのですが」
もう一人の兵士は慌てて昇降機に備え付けの非常通話機能で外部へ連絡を試みるも、通話機能ごとシャットダウンさせられているようだ。
ガクン、と再び大きな揺れと共に、何者かが飛び乗ったかのような足音が昇降機内に伝わる。天井部分がガコンと音を立てて開くと何者かが呼びかけてくるようだった。
「隊長!」
「こちらへ!」
「何者だ!」
ドタドタと足音が響き、何者かが乱入し、兵士が抵抗しながらも拘束される様子が聞こえる。被せられた麻袋を外され、ようやく視界を取り戻すと、諜報部達が2人がかりで俺を運んでいた兵士を取り押さえ、その頭に俺が被せられていた麻袋を被せたところだった。
もう1人の兵士は立ったまま静かに俺のそばで軍刀を抜く。思わず身構えるが、その兵士は俺のすぐそばまで来ると手と足の拘束を切って解いてくれた。
「アンタも…?」
黙って頷く。彼もまた、諜報部だったのか。
麻袋を被せられた兵士は抵抗が止まず、手こずり出した様子だったので諜報部の一人がこちらを見て尋ねる。
「どうしますか? 殺しますか?」
咄嗟に頷く。
「俺がやる」
答えると先ほど東雲に使った麻酔銃を取り出し、有無を言わさずその兵士に撃ち込んだ。動かなくなった彼を見て、恐らくその場の人間の目は欺けたはずだ。
殺すのは……直感的に出来なかった。殺してはいけない、と自白剤を飲んだ時の暗い海の底に居た俺が、心の中で強く叫んでいたからだ。
「……ここは僕が何とかします」
俺の拘束を解いてくれた諜報部が言う。他の諜報部達は敬礼し、速やかに昇降機の天井穴に紐をかけて脱出の準備を始めた。この施設内を出入りしている諜報部のIDは連番になっているので、すぐわかるのだが、先程の軍刀の男の装備品に付けられたIDは見覚えが無かった。
「お前……そのID、登録になかったな」
「僕は外部の暗部で……契約で長期潜入していました」
道理でより危険な本部に潜り込んでいたわけか。
「あの……お願いがあります」
「なんだ?」
「毒ガス……はやく……解いてください。お願いです……僕の……大切な仲間が……まだ眠っています」
「大丈夫、必ず解ける。その……仲間の名前は? お前さんのこと、伝えておくよ」
「規約で……言えないんです」
「石本隊長! 脱出しましょう! ここは彼に任せて! そろそろこのリフトの非常電源が戻ってしまいます!」
上から諜報部に声をかけられ、縄が下ろされる。それを掴みながら、尋ねる。
「じゃあ……アンタの名前は?」
彼はガスマスク越しに少し言い淀んだ後、小さな声でこう言った。
「……藤白です」
藤白くんね、覚えとく。恐らく赤軍なのだろう。俺は昇降機の上に引っ張り上げてもらった後、天井穴から覗き込んで声をかける。
「そっちも無事でな」
「はい!」
互いに敬礼をした後、諜報部に手を貸してもらいながら昇降機内のロープを滑車で上階まで上がり切ったところで、再びトロイメライが聞こえてくる。警報が派手に鳴り響き出し騒々しくなる周囲とは別に、俺は耐えがたい睡魔に襲われて意識を失った。
※※※※※※
石本先輩が救護室に運ばれて来た時、大怪我こそ無かったものの、所々外傷があったそうだ。
処置後すぐさま病室に通してもらって、首元やあちこちに巻かれた包帯を見るうち、東雲につけられた傷なのだろうか……と思うとはらわたが煮えくり返りそうになる。そして毒ガスを吸ったか触れたかして催眠効果が発動してしまったのか、意識を失った状態だった。助けに入った諜報部の話では昇降機を脱出する直後までは意識はしっかりしていたのだそうだ。
先輩を助けに入った諜報部に連絡を回したのは僕だ。東雲と先輩が戦っている時、超音波無線機の通信は途絶えがちだったものの、断片的な音声で先輩が危険な状況と察した僕は居ても立っても居られなかったのだ。慌てて先輩の部隊が居る野営地を探り当て駐在する部下達に先輩の動線を説明し、すぐさま危機的状況と判断したのだろう。潜伏活動中の諜報部が首尾よく救出してくれたのだった。
「この状態……この前の捕虜達よりも深刻ですね」
傍で状態を確認していた救護班のうちの1人が顔を曇らせて言う。昏睡状態が続いていて、更に一部皮膚からも毒ガスが触れたためか、より深く侵されてしまっており、生体反応も乏しくなりそうだという。予断は許さず、一刻を争う状態だとか。
「大丈夫ですよ」
「でもまだ解毒薬は……」
救護班が言いかけるのを、右手をあげて軽く制止する。僕は数時間前、石本先輩が送付してくれた黒軍開発者のデータをギリギリなんとか受信し、解析し終えたところだった。
「隊長……」
部下が指示を待ってそわそわと尋ねてくる。
「大丈夫、僕がなんとかする」
用意してきた輸液をセットし、点滴の準備をする。救護班が手伝おうとしてくるが、それも制止する。
「ここから先の処置は、特秘事項とさせてください」
「でも……」
「石本先輩からの、お願いなんです」
先輩直筆の手紙を見せる。
救護班達は目を通すと静かに頷いて敬礼し、部屋を出て行った。
「……お前もだ」
「え、俺居ちゃダメですか?」
「すまん……アラタは誰か来ないか、外で見張っててくれないか」
俺も立ち会いたかった……と口を尖らせながら、部下も外に出る。部屋の中は僕とベッドに横たわる先輩だけになった。
白衣のポケットから端末を取り出し、入れてあった音源を流す。ロベルト・シューマン作曲の、子供の情景……この中の名高き名曲、『トロイメライ』の美しいピアノの旋律が流れ出す。決して長くはない、3分そこらの曲だが、美しくも儚い昔の記憶を懐かしみ、帰ってはこない日々を慈しむような気持ちにさせてくれる。こんな美しい曲を時報のように日常的に軍内で流し続け……心理操作に使うなんて。
「先輩……聞こえますか」
緊張を抑え、冷えかけて固く閉ざされた手をそっと握りながら、語りかけてみる。
「今、先輩……の、身体に話しかけています……もう貴方には僕の声が無意識ではなく意識の元に、聞こえているはずです。あなたの耳は僕の声を、脳ではその意味を処理しているはず。この握った手の温もりも、伝わっているはず。ただ、身体が無意識に支配されて、動かせないだけで」
トロイメライが、終わりに近づく。先輩の指先が、微かにぴく、と動くのを僕は見逃さなかった。祈るような気持ちで、掌の汗を握りしめながら言葉をかけ続ける。
「今……解毒剤を打っています……ようやく……完成に辿り着きました。先輩、もう大丈夫ですよ。他の人達も皆、助けられます。先輩のおかげです」
曲が終わった。点滴を続け、それもやがて終わる頃、先輩の瞳が静かに瞼の下で動く。
「先輩! 理央先輩!」
「……ひっさしぶりに、下の名前で呼ばれたな」
眩しさに眉をしかめながら、先輩が目を覚ました。
「よっ……生きてまた、会えたな」
僕は思わず先輩の首元に抱きついてしまった。ぐぇ、と変な声を出しながら先輩が笑う。
「く、苦しい……」
「よかった……本当に、よかった……!!」
「心配かけて、ごめんな……てなに? 泣いてんの?」
「……泣いてませんよ」
目の端にうっすら浮かぶ涙を拭いながら、僕は強がることしかできなかった。
そこから半月ほど、慌ただしい日々が続いた。救護班と協力して解毒薬を投与された人達の体調管理。先輩から送ってもらったM-16のデータ解析の続き。合間に、上級ラボからM-16の情報について呼び出されるが、僕はラボのトップの考え方が気に入らず、忙しいだのよくわからないだのと、のらくらと交わしていた。
そのうち上級の統括組織にも呼び出されだしたが、要領を得ない返事を続けていたら、周辺に先輩以外の見慣れない上級の軍人や兵士たちが監視目的なのか、近くをウロウロするようになってしまった。
「た、隊長……」
部下がラボにたどり着くなり弱り切った顔で囁く。
「もうそろそろ、いいんじゃないですかぁ? まーたとっ捕まってめっちゃ尋問されて、疲れたっすよ」
「やれやれ…またか」
僕の部下達には皆、尋ねられてもはぐらかせ、部隊長しか知らないと言え、と伝えてあったが、アラタだけは側近に近いのでそうも交わしきれなかったらしい。
「すまないな。いつも大変な思いさせて」
「いや……なんか……仕方ないってか、そろそろ無理が出てきたというか」
「然るべき時が来たらちゃんと伝えるよ。もう少しだけ……耐えてくれないか?」
我慢強いアラタですら音を上げ出しているということは、いよいよ手に負えなくなってきたか。キャパ越え気味の頭を抱えて僕は意を決したのだった。
夜更け過ぎ、上級どころか下級すらも気配の途絶えた頃合いを見計らってそっと部屋を抜け出す。監視の目が張り付く日中、先輩と接触することすら良くない気がして、幾度か先輩が来てくれたものの居留守を使って黙するしかなかったのだ。
そっとドアをノックすると、返事はなくドアだけがガチャリ、と音を立てて開いた。
躊躇してると「早く入って」と声がする。小声で「失礼します」と返事し、そそくさと足を踏み入れた。
下級の隊員室のそれとは明らかに質感の違う、柔らかな深緑色の絨毯は薄汚れたブーツで踏むのも申し訳なく、そろりそろりと足を踏み入れる。部屋の明かりは消されているが、奥に窓があるのかして仄かに白んだ月明かりが差し込み、部屋の調度品の影を床に落としている。
「こっちだよ」
聞き慣れた声にホッとしながら向かうと、月明かりに照らされたベッドの上で腰掛ける先輩がそこに居た。首から上にちょうど光が当たってなくて、表情は見えない。プライベートな空間に足を踏み入れてしまった不躾さにドギマギしてしまい、辺りを見回す。
「そこに座って」
傍にあったスツールを勧められ、そっと腰掛けて一息つく。いつもラボの硬いパイプ椅子に慣れていたので、クッションの柔らかさに思わずたじろぎつつ、口を開く。
「こんな夜更けに……すみません」
「唐突にメールが来たかと思えば『話があります』って一言だけなんだもんな」
「……中々、僕の部屋の周りは監視がうるさくて」
「監視……?! 最近、俺が羊のラボに行っても居なかったから、若干心配してた」
「実は……」
最近の状況を話す。先輩含めて捕虜らは皆無事に回復が確認され、後遺症もなく過ごせていること。M-16の事で上級ラボと対立していること。上級統括組織にもたびたび呼び出されていること。周辺で監視の目を感じること……。先輩は一通り黙って腕組みをしながら話を聞いていた。
「……それで不在がちだったのか……。解毒薬の製造については公開していないんだろ? せっかくのお手柄なのに。それはなぜ?」
影に隠れていた先輩の顔がようやく月明かりに照らされ、その表情が見えて僕は安堵する。初めて僕のラボを訪れた時に見せた、好奇心旺盛なあの瞳だ。
「はじめは、公開するつもりでした。思うところがあって……それで」
「……なるほどな。まぁ、聞こうじゃないか」
執務室のデスクいっぱいに広げた、黒軍施設の見取り図。気密性の高い施設なのだろうかして、あちこちに換気ダクトが張り巡らされており、このうち人がぎりぎり入れそうな大きさのものには脱出ルートとしてマーキングがされている。
これに、僕の部隊が石本部隊と一緒に潜入した時に部下らに取らせておいた施設内のガス濃度分布図をマッピングさせ、それを元にガス排出口位置をシュミレーションした見取り図を重ね合わせる。
すると、両者はぴったり重なり合う。
「これは……!」
「そう……つまり、換気ダクトだと思っていたものはガス排出口だったんです」
「……しかもこれ……ほぼ全区画にあるじゃ無いか」
「そうです。地下の実験場に留まらず、エレベーターホール、倉庫、廊下……そしてトイレまで」
「一体なぜ……」
「僕も初め信じられませんでした。これを読むまでは……」
持ってきたノートPCを開く。黒軍の毒ガス開発データの裏ファイルに書き記されたメモを開くと、先輩がそっと覗き込む。
「なんだこれ……上へ報告した時は気づかなかった……」
「……M-16の隠しデータに紛れ込んでいました。おそらく、あの研究者の手記です」
そこにはこう記されてあった。
●月▲日
今日も本部から大勢の視察があった。本部所属から異動し、華々しく新しい施設の開発センター長になったプレッシャーと高揚感で、昨夜はほぼ眠れなかった。新しい機材が続々と届く。M-16の開発はまだまだ途中だが、上層からの期待の大きさが物語っている。
●月■日
M-16の特性がまた一つ明らかになった。吸入量で身体に出る影響が少しずつ異なり、初めて対峙する者にとって大いなる恐怖感を与えるだろう。一度に大量吸入すれば意識混濁を起こし、相性が悪ければ死に至る。これだけでも兵器としては充分だが、無臭・無着色なので微量に摂取しても気づかない。少量吸入だと、視力や聴力、嗅覚などの身体機能が低下したり、平衡感覚を失うこと、一時的に酩酊・催眠状態に陥りやすくなる、などがマウスでは確認された。濃度を変えたり、使い方次第で撹乱が起こせそうだ。防毒マスクである程度防ぐことはできるが、長時間であれば皮膚呼吸からも僅かながら吸収するし、エアロゾル状にして直接浴びたりしても類似の効果は出る。暗示にかかりやすくなるという点は捕虜の洗脳や二重スパイ育成に使えそうだ。
兵器としての能力の前に、化学物質としても興味深い。学会報告したいと持ちかけるも、当然ながら却下された。ただし、恐ろしいことに解毒方法がなかなか見つからない。
上層部は意に介していないようだが……
▲月○日
この頃から、催眠部隊という新しい部隊がやたらと出入りしだした。常にマスクをした珍妙な連中だ。別室でよくわからない実験を繰り返しているようだ。こちらに情報はもらえぬまま、サンプルを提供している。気になって仕方がない。
▲月×日
大規模な改修工事が相談もなしに入り出した。なんでも、換気用ダクトの数を増やすのだとか。セキュリティ上、研究室と地下実験場だけで充分なのでは? と進言したが、却下。最近、自分の意見が聞き流されている感覚になる。
▲月●日
恐ろしいことに気がついてしまった。自分の身体に、慢性的に微量M-16に触れ続けているマウスと同じ症状が出始めている。換気を入念に行う。実験室でのM-16は念のため硫黄の匂いをつけてあるので、気づくはずなのだが……部下らに現場の作業を任せても、症状はおさまらないどころか悪化していく。なぜだ? 手の震え、頭痛、不眠。早急に、解毒剤の開発に目処を付けなければ。
▲月○日
常にぼーっとしてしまう。不眠のくせに、時折、意図しないタイミングで意識を失っている。そのまま次の日の夜まで眠っていた、ということが増え、仕事をすっぽかすことに恐怖を覚える。
カフェインの錠剤でむりやり眠気を散らして覚醒を保つが、神経毒が蓄積されているのか手足の痺れや吐き気が止まらない。
■月▲日
体調が優れず、解毒剤の開発が進まない。このままでは降格にする、と脅しをかけられている。
ラボでは時々、予定にない作業をした形跡があって、不審に感じる。一体誰が?
■月×日
本部からの視察隊が、実験区画外でも常にガスマスクを装着するようになった。応対する我々はガスマスクをつけて居ないのに。なぜ?
■月●日
被験者らにある音楽を聴かせると眠る、という催眠部隊の演習を覗き見した。大変だ……
×月▲日
捕縛した捕虜たちをM-16で再洗脳するという。人道的ではない……
×月■日
たまたま執務室の換気ダクトの側でM-16検出器の整備をしていたら、僅かながら数値を叩き出した。壊れているのかと思い、点検したが直らない。場所を変えても換気ダクトのそばではM-16が検出される。よくよく調べると、ダクト内に所々見覚えの無い細い管が走っている。これは……これは……
●月○日
予定にない作業形跡が続くので、不審に思い監視カメラを設置した。真夜中に寝ているはずの時間、館内放送で音楽が流れ、その後地下ラボに降りて作業している自分自身の姿が映っているのを見た時、背筋が凍った。
この工場丸ごと、大きな洗脳の実験室だったのだ。
●月▲日
研究者たちがどんどん、本部の者たちへと入れ替わっていく。元々いた部下たちは1人また1人と、捕虜室に連れて行かれた。自分はM-16に関する知りうる全ての情報を報告することを求められているが、この作業が終わりしだい、用済みとされるだろう。
表のデータに、現時点知っていることを記した。解毒剤が生まれなければ、ここは丸ごと大きな実験室のままだ。中の人間たちは皆解毒の方法をもたず全員がゆっくり穏やかに毒されており、いずれM-16無しでは外の世界では生きられなくなる。実戦でもしこれが使われ出したら、と思うとゾッとするが、そんな日も遠くなさそうだ。
解毒薬のデータは試作であり完成版ではない。どうかこれを完成させてほしい。自分の手でやり遂げたかったが…色々知ってしまった今、こんなものを世に生み出してしまった以上…もう逃げ場も選択肢も残されていないようだ。
手記はここまでで途切れていた。
「……なんか、すごいもの見てしまったな。これ、上層に報告……」
「してないです」
「なぜ……?」
「曲がりなりにこちらも軍です。黒軍ほど極端なことはしないにしても、兵器としての使い道が明確に知れ渡ればこの先の想像がつく。ましてや、こちらには解毒薬のアテもある」
「……確かにな」
「僕も実は上層部に圧力をかけられ始めています。解毒薬の合成方法を公開しろって。どうしたらいいか……」
「うーん、なるほど。俺は解毒薬の完成が皆に安心をもたらすものだと思っていたんだけどな」
「僕も初めはそう思ってました。でもこの手記を読むにつれ、軍という組織が人を本当に駒みたいに扱う時は、手段なんか選ばないよなって」
先輩はしばらく考えこむ。ぽつり、また、抱え込ませてしまったな、と呟きながら。
「上級ラボは」
「案の定、解毒薬の開発よりも、M-16に似たものを作ろうと躍起になっていて…」
先輩はため息をついた。
「そうか…こう言っちゃなんだけど嫌なもんだな」
「…毒薬って、そういう世界です。このまま行くとなんとなく、この黒軍の開発者と似た運命を辿る未来しか見えなくて」
僕もため息をつくしかなかった。
しばらく黙りこくった後、先輩はおもむろに口を開く。
「なんとかしなきゃな……実はこの前の上級部隊長会議で、上級ラボから『M-16の有効活用案』という議題が次回出されると聞かされていてね」
「それ、まずいですね」
「そう。ちょっと作戦会議しようか」
先輩は軍人であると同時に、巧みに流れを変える策士だと思う。
数日後の部隊長会議にて、それは存分に発揮された。
「エー、それでは、我が軍屈指の開発部上級研究室からの議題を発表させていただきたく……我々としましても今回の分析には時間を要しまして、まだ途中部分も大いにはございますけれども、エー、今段階での大まかな方針をですね、エー紹介いたしたく」
慇懃な上級ラボ長の、回りくどくて長口上の導入に、聞いているのか聞いていないのか定かでない気だるそうな拍手が響く。
「つまるところ敵軍毒ガス兵器M-16の効用としては非常に特徴的なことがわかっており、エー、つまりは催眠効果を得やすい部分について、有用性について見出しましたところであります。しかるに、たとえば若手の教育の一環に。或いは、捕虜をスパイに仕立てることも。心理作用については研究がより必要であり、よって……」
「……ちょっと、いいっすか?」
このタイミングで異例の割り込みに、唖然とするラボ長。
「石本部隊長どの。話の途中なのだが? ?」
ざわめきが起こる中、ラボ長は統括部長へ助けを求めるように目線をチラチラと配りながら、苛立たしそうに話を続けようとする。しかし、統括部長がそれを手で静止する。
「石本部隊長。議題の提案中の挙手とは、余程のこと。何か理由があるのかね」
「はい、失礼を承知で申し上げます。本件未だ報告共有されていない情報もあるため、一旦先に情報提供元である当方の部隊と、猪熊部隊よりまとめて情報提供させていただいた方がよろしいかと」
「…確かに、まだ分からない点も多い中で活用の話とはいささか性急には感じていた。ふむ、聞かせてくれ」
まずは先輩から、M-16の毒性について回復した諜報部隊員に協力してもらい予め集めておいた証言が紹介された。先輩自身も、どのような感覚があったか、自らの体験も交えて語られるそれは生々しいものだった。
続いて先輩から僕へとバトンタッチし、M-16の黒軍機密情報から得た神経作用と毒性について、中毒状態で覚醒が難しかった当初の話、そして非公開としていた解毒薬の合成方法について紹介した。紹介したのはプロトタイプで、合成に時間がかかり少量しか作れない手法だ。実際は新たに効率的な方法を編み出せているものの、意図がありそれは明かさなかった。
上級ラボ側の隊員からヤジが飛ぶ。
「もっとさっさと大量合成したらどうだ!」
「お言葉ですが」
何もしなかったくせによく言うよ…内心、腑煮え繰り返る思いをグッと堪えて冷静に言葉を選ぶ。
「あなた方よりはこの件については努力をしているはずです。それに、解毒薬を提供後もその副作用がないかどうか、帰還した諜報部隊員らの体調管理含めてサポートさせていただいております」
「そんなことは救護班がやることだろうが!」
再び飛ぶヤジ。下級相手だと選ぶ言葉も粗雑になるのだろうか。煽りに乗りかけながらも、つとめて淡々と続ける。
「救護班は医療行為の専門であって、ケアや処置には長けていますが。毒物を体から排泄させたり毒性を和らげる方法について検討、対応するのは我々開発者の領域ではないかと」
医療班からも手が上がる。
「心外だが…まさにその通りだ。元々思っていたが治療すなわち何でもかんでも救護班任せとあっては困る。今回あなたたちは猪熊部隊のように、捕虜達の救命に少しでも尽力したか?」
会場を沈黙が包む。
総括隊長は「ふむ」と頷くと、上級ラボもまずは解毒薬合成に尽力しなさいと命をくだす。
「お、お言葉ですが」
怒りに震えながら上級ラボ長が脂汗でズレたメガネを神経質そうに中指で押し上げながら言葉を絞り出す。
「わっ……我々は兵器としての毒薬の合成のエキスパートであり……解毒薬なんぞ……それに……こっ……こんなにも有用性のある、魅力的な新兵器を手に入れられそうな時、でありますよ? 黒軍の情報をもとにこれから更に改良を重ねまして、我がラボチームが総力を結集しまして……」
「アンタたちの仕事は、兵器を生みだすことか?」
「いかにも? その通りだが? 石本部隊長」
先輩の巧みなカットインに苛立ちを再び露わにするラボ長。僕は内心ヒヤヒヤしていたが、先輩は涼しい顔で手元の書類の束をラボ長にぽいと投げて渡す。
「これは……!」
「これがこの前の新聞の記事。情報部に集めてもらっておいた。そっちは一昨日の。これも、それも。あちこちでM-16が既に実戦や何らかの作戦で使われ出して、民間にも被害がちょくちょく出始めているけど?」
「なんたることだ」
総括部長が呻く。
「これが何を意味してるか、賢いアンタならわかるはずだよな? 上級ラボ長どの」
ラボ長は真っ赤になったり真っ青になったりしながら、侮辱するなだの、訳のわからないことを口走って立ったり座ったりしている。民間にまで兵器が知れ渡っているというのは彼にとって誤算だったのだろう、アドリブに弱い人種とはこういうのを言うらしい。
「わ、我がラボでは……軍に貢献するために叡智を結集させ……改良すれば使いやすくより良い戦績をあげていただくために……その……」
「話、聞いてたはずだよね? 諜報部の証言。猪熊隊長からの説明。アンタたちも薄々分かっていながら、更にM-16を活用するなんての、一体どこの大義名分?」
「僕も下級を代表して言います。実際に目の当たりにして思いますが、あんな恐ろしいもの、単なる毒ガスに留まらない。催眠作用も、若手の教育? 捕虜をスパイに? それってつまり、弱い立場では洗脳に使われるのかも、捨て駒のように扱われるのかも、と不安になります。現実として、黒軍は対策も持たず捨て鉢で使用し、民間も巻き込んで敵に回し始めている。我々まで似たものを使い出したら、収拾はいよいよつかなくなります」
諜報部隊長も手を挙げた。
「うちの隊員達は今回かなり尽力し、それだけ被害も被った。石本上級部隊長や猪熊下級部隊長のお陰で、尊い隊員らの命を守ることができた。諜報部はいつだって最前線で動いている。黒軍で今この瞬間も、任務中の隊員達だって居る。彼らも不安な状況だ。これから先安全に諜報活動を行うためにも、これ以上リスクの高い兵器には関わりたくはないのが本音だ」
じっと話を聞いていた総括隊長がおもむろに口を開いた。
「大義とは。守るべき節度、人としての道義を果たすことである。我が軍の行動原理はこの国の未来を守り健やかに導くためのものであり、それを見誤って戦績にこだわり自軍や周囲への影響を鑑みないのは、まさしくあちらの軍と五十歩百歩、言語道断。それを上回る利益があってこその提案ならば、続けたまえ」
ラボ長はぐうの音も出ず、激昂して資料とPCをぐちゃぐちゃにまとめると、バン! と激しく扉を閉めて部屋を出て行った。後に残された彼の部下らは、決まり悪そうな表情だった。
物議を醸した会議の後、昼時をだいぶ過ぎた食堂を通りかかると先輩がカウンター上のメニューを見上げていた。
「上級のレストランもあるのに、下級の食堂ですか」と声をかけると「こっちのメニューもたまには食べたくなるんだよね」と顔を上げたまま一生懸命ざる蕎麦に乗せる天麩羅のトッピングを探している。僕は食堂をあまり利用しないが、たまには良いかと思って一緒にうどんと海老天を注文した。
「やっぱ蕎麦には天ぷらだよな」
サクサクといい音を立てながら南瓜や蓮根の天ぷらを齧る先輩の横で、僕はほうじ茶を啜る。
「…打ち合わせ通り、でしたね」
「おうよ」
口をもぐもぐさせながらハイタッチ、とでも言いたげな風に片手を挙げてきたので、内心気恥ずかしながらも遠慮がちにチョンと先輩の掌に触れ、素知らぬ顔で海老天を頬張る。
「ちょっとは、スッキリした?」
「ええ、だいぶ」
散々やり合ってきたラボ長が大勢の前で集中砲火に遭い、真っ赤な顔をして出ていくのは、気の毒ながらも傑作だった。思わず思い出し笑いしかけるのを噛み殺していると、その顔を見た先輩がプッと吹き出し、結局顔を見合わせてゲラゲラと笑ってしまった。
「……なんか、下級の部隊長らも居る前で、上級ラボの嫌なとこダメなとこをここぞとばかり露呈しちゃってたな。いつもあんなの相手にさせられてる羊が気の毒だよ」
「同じ開発者として一回くらいギャフンと言わせたかったので、もう充分ですよ。今のところ毒ガスの開発を阻止する目的は果たせたし」
「ま、これに懲りず、上級に進んだらよろしく頼むよ」
「さぁ……今回の件でおそらく敵も増えてしまいましたし……昇格させて貰えるのやら」
下級から上級へは、年次だけでなく戦績や貢献、先輩らからの後押しなども必要要素として含まれているのだった。
「羊なら大丈夫だよ」
「だといいのですが」
久しぶりに食堂で食べるうどんは、ラボでやっつけで食べるカップ麺よりも随分温かく感じた。
それからさらにひと月程して、一通の匿名の論文が新聞各社や医学会誌に投稿された。M-16の膨大かつ詳細なデータがまとめられ、その毒性の一つに催眠作用があること、ある施設においては音楽をトリガーとして集団催眠にも使われていた事、更に迅速な解毒方法まで克明に記されていた。出処は不明なものの確かな情報そうだ、ということでたちまち注目を浴び各紙で取り上げられた。
奇しくも、各地の作戦で目立ち始めていたM-16による民間の被害の拡大と、近隣医療機関への負担、解毒剤を求める民間人の混乱で黒軍へのバッシングが激化し、こちらにもその火種が飛びかけている頃だった。同時に、ニュースではあの黒軍の軍事工場の周辺地域に住む住民らのデモが激化したところで内部の極秘資料の数々が流出し、それが匿名論文の内容とも一致していたことから、黒軍内の統制がいよいよ混乱を極めていることは明らかだった。白軍の統括部長は、メディアに登場し「我が軍の技術で、M-16による被害を受けられた民間の方の治療を支援する」とちゃっかり政治利用していた。
流れてくるラジオからそれらの情報を確認すると、僕は大きくあくびをしてスイッチを切った。
あの会議以降、監視される事も、呼び出されてM-16の件で問われる事もすっかり無くなっていた。上級ラボは必死で効率的な解毒剤の合成方法の開発に取り組んでいたようだが、元来解毒薬の開発には不慣れな連中だ。結局あっさり出所不明の論文に先を越されていた。
別件の作戦で忙しくしていた先輩は、最近あまりラボに顔を見せる事もなく、元々上級なのですれ違う事もほとんどない。
僕はどうしてもひとつだけ、伝えそびれたことがあって幾度か先輩の部屋を訪ねたものの、不在がちなことが続いていた。またどこかでメールでも送らなければな、と思っていた矢先のことだった。
「なぁ、一つ……気になることがあるんだけど」
「……ッびっくりした……ノックくらい」
先輩のことを考えていたとはいえ、当事者がまさか登場するとは思わずビクッと飛び上がりそうになる。それと同時に、久しぶりに先輩の声が聞けて、なんだかホッとする。手にはいつものあんみつの缶詰ではなく分厚い資料を携えていた。
「したよ」
「……スイマセン、考え事してて、気づかなくて」
先輩は勝手知ったる他人の部屋、といった様子で早速ソファに身体を預け頬杖をつきつつレポートをぱらぱら、眺めながら呟く。
「…羊、なんか俺に隠してることあるだろ?」
一箇所、ぐるぐるとボールペンで丸をつけながら言う。
「…俺、脱出時に意識を失っていたけど、救護班の証言と羊の証言が噛み合わないんだが」
救護班のレポートでは、その時の先輩の診断は意識不明の重体、僕のレポートでは重症。そこに気づいたようだった。
「救護班は先輩が意識を失っていたことに重きを置いての判断で、僕は東雲につけられた外傷が治る期間を見込んでの想定だったので食い違ったのでは?」
石本先輩は首をかしげる。
「うーん。それって最初から意識戻るって思っていたってことだろ?」
「そうです」
「ところが、羊の処置は特秘事項になっている。というか、記録に残されていない」
「他の捕虜達への処置と、おんなじですよ」
「…その割には、他の捕虜たちの処置は二週間後だな。なぜすぐ、彼らを助けなかった?」
僕は観念した。どう切り出そうか迷っていたが、これがまさしく先輩にはいずれ打ち明けなければならないことだった。
「……理由は、……解毒薬の開発が遅れていたからです」
「ん……? じゃあ、俺に使ったやつは? 試作か何かか?」
「いえ……」
すこし間を置いて、思い切って口を開く。
「……あれは、……偽薬なんです」
「プラセボ……って、空っぽの薬か?」
「そう、空っぽ。あの点滴の成分はアミノ酸とグルコース」
「……それで、俺よく助かったな……」
「この状況でプラセボなんて、人道的でもないので、相当ためらいました」
「……どうして……」
「先輩から黒軍研究者のデータを送ってもらってから戻ってくるまでの数時間で、解毒薬の開発ができるはずもなく……先輩、M-16を液体で浴びてもいたので、見た目以上にダメージが深くて容態、意識レベルが危険で時間がなくて」
「……一か八かの、賭けに出た、と」
「解毒と覚醒を同時にやる必要があって急いでいたとはいえ……もしもうまくいかなかったら、って思うと……怖かったです……無事意識を取り戻してもらえたからよかったものの、先輩を危険に晒してしまいました。プラセボだけでは限界もあるので、その後の経過観察時に、完成した解毒薬を少し補わせてもらっています。でもほんの少しの量で済みました。大半はプラセボで後遺症もなく回復できて….本当に……不思議なものです」
「ああ……あの時か。検査とはいえなんでこのタイミングでもう一回点滴なんだろう? と思ったよ」
「今まで黙っていて、本当に……ごめんなさい」
深々と頭を下げる。
しばしの沈黙の間、先輩はじいっと何かを考えていたが、やがて口を開く。
「結果オーライだから良いとしてさ……一体どうして効いたんだろうな……」
「僕の仮説では、あの時先輩は確かに意識は失っていたものの、聴覚は機能していると思ったんです。ということは、僕や救護班の言っている事もきっと先輩には聴こえていて。そもそも、催眠にかかるための入り口が音楽だった。催眠を解く出口も音楽。それならば、僕からも『先輩は絶対に回復する』という催眠だってかけられると思ったんです。でもそれが叶うのは僕と先輩のこれまでの関わりがあったからで、例えばこれが部下のアラタとか、救護班なら難しかったかもしれません。僕が先輩を信じているだけでも成り立たなかった。先輩も僕のことを、心から信じてくれていたから、プラセボといえど効果を発揮したのだと……思います」
「まさしく、科学でなく心理学の問題だったと」
僕は頷く。
「単に覚醒の話だけじゃなくて、解毒剤が解決すべきはずのM-16の他の毒性の部分にだってサイコロジーが入り込んできてもおかしくはないです。そして先輩がそれを突き止めてくれなかったら、助けることは難しかったかも、知れません」
「……それで特秘事項ってわけか」
「今更……言い訳は成り立たないので、公開して処罰を下していただいて、構いません」
「ま、俺と羊の間の秘密ってことにしようぜ」
僕はひたすら頭を下げることしかできなかったが、ぽんぽんと優しく肩を叩かれて顔を上げる。
「俺からも秘密の話、していい?」
僕はそっと頷いた。
「あっちで捕虜になりかけた時、ひとつ報告してないことがあってさ。俺……実験場に連行される昇降機の中で、救出される割と直前まで、1人の兵士と喋ってたんだけど。そいつがさ、俺を助けに入った諜報部に取り押さえられた時、俺、そいつ殺さなかったんだよね」
「……」
無益な殺しはしたくない、先輩の判断だとは思うが、それ以上に言葉では言い表せない何か、があって僕は言葉が出なかった。
「殺さなかったっていうか、殺せなかったっていうのが正しいかな。咄嗟にその場を誤魔化すために、借りてた麻酔銃で眠らせて、殺したって報告した」
「……」
「な。これでおあいこ。報告義務違反は規律違反」
「……です、ね。秘密ってことで」
そんなことくらい、あんな状況では見落としたり間違えたりなんてザラにあることで、意図的だとしても確かめようもない。なぜ僕に打ち明けてくれたのかわからないが、先輩の心の奥底にある秘密なのだろうと悟る。
先輩は「ふぅースッキリした。これにて一件落着」と分厚い資料をパタン、と閉じ大きく伸びをしてごろん、とソファに横になる。
僕はPCを開いて残っていた事務処理を始めた。始めた、というより、何かを言わなきゃいけない空気になるよりは、静かに受け止めておきたくて、事務処理をしている風を装った。
カタカタ、カタカタと時折キーボードの音が響く中、後ろでぽつり、ぽつりと先輩が話し出す。
「……自白剤を間違えて飲んじゃった時さ。覚えてる?」
「……はい」
「その時、俺、海底にいたんだ。海底に教室があってさ……机とか、椅子とか。習字の練習したやつが、壁に貼ってあったりしてさ。多分まだ幼少期とか、黒軍の学校に居た時とかの……記憶のコラージュだと思うんだけどさ。
もう当時の記憶なんて忘れ去っているもんだとばかり思ってたんだけど。
海ってさ、真っ暗で……中に何が潜んでて何が出てくるかわからないじゃん。中に潜ってみて、そこに光が差し込んできてようやく、何がそこにあったか、わかるっていうか。ずっと自分の中って、本音が見えないというか、なんにもないって思ってたんだよな。でも潜ってみたら、違った。理紅が居るんだなってことがよくわかってさ……」
キーボードを打つ手が止まりかけるが、そのまま作業をする。先輩は続ける。
「もう二度と会えないかもな、て思ってたのにさ」
昇降機の中で殺さなかった兵士に何かを重ねたのだろうか。或いは、その兵士が。
「東雲に毒液かけられた時、それから昇降機で実験場へ連行される時……あ、俺このまま終わりかもな、なんて思ったりさ。でも絶対羊が後は何とかしてくれるって、思ってたもんな。根拠、無いけどさ。
……プラセボもさ。中身はなんにもない、ハズじゃん……なんにもなくても、自分が思ってる以上に……自分と周りのこととか、これまでのこととか。今回は俺と羊。一緒に考えて立ち向かって、解決しようとして。そういう願いなり想いなりが奥底にあって、思わぬ形で発揮される時、それって実は奇跡でもなんでもないんだよな。むしろ必然。安直に『信じるものは救われる』とか『想いは叶う』みたいな、楽観主義なこと言ってるんじゃなくてさ。積み重ねてきた色々が、大きな意味を為す時、プラセボだって万能薬になる」
「なるべくして、なる……起こるべくして、起こる……」
「ま、そういうことだね」
僕は振り返られずに、目の前のデスクトップの画面をじっと眺めることしかできなかった。でも、先輩の心のうちに触れ、静かに暖かな気持ちになっていった。
「……あと、論文。流石だな、ゴーストライターさんよ」
部屋を出る時に、背中越しに置き土産のように言われて、ドキリとする。
「……さぁ……誰のことやら」
「またまたぁ」
「……きっとそいつも、先輩に感謝していますよ」
立ち上がり、振り返って敬礼すると、先輩もニッと笑って敬礼を返す。それ以上の余計な詮索はせずに、彼は颯爽と部屋を出て行った。
やっぱり、石本先輩には、敵わない。
<了/海と偽薬>