@akirenge
【吉野朝太平記を浄化せよ】
直木三十五は欠伸を一つして、本館の地下書庫の方に散歩に出ていた。
帝国図書館本館は閲覧専門の図書館であり、規模が非常に大きい。地上にも本が多いが、地下にも本があるのだ。
『直木三十五』
「あ?」
『こっち』
適当に地下書庫の本を手に取って、読書でもしようとしていたら、呼ばれた。
その声を直木は聞き覚えがあったのだが、本館で聞けるとは思わなかったのだ。こっち、と言われた場所には扉があった。
直木はドアノブに手をかけると開ける。
中は暖かかった。
「珍しくないか。アンタがここにいるってか、俺をここで呼ぶなんて」
『呼ぶ必要があったのよ。……早朝だけど、眠れなかったの?』
「寝たよ。午後九時ぐらいに寝たんだ」
『速い眠りね』
作業部屋とその部屋は言われていた。この部屋の主であり、直木の目の前にいる彼女が作業をするための部屋だ。
外見は十代後半から二十代ぐらいの黒髪の長髪に黒ずくめの服を着ている女性、加護者がそこにいた。
部屋は明かりがついている。意外と狭い部屋だ。壁の全てを本棚が埋め尽くしている。
加護者は浄化専門図書館であり、表向きは近代文学を扱っている帝国図書館分館の管理者である。
部屋には書き物机があったが、直木の前に丸いテーブルと椅子が出てきた。座れということらしいので直木は座る。
いつの間にかテーブルの上には皿に乗った大きなパウンドケーキがあり、側には小さなカップに入れられたアイスクリームが置かれ、
傍らには温かいミルクティーが出されていた。そしてチョコサブレが何枚も置いてある。
「チョコサブレは司書のじゃねえのか」
『買い込みすぎだし。どうぞ』
「おう」
くれるのか、となるが加護者は元々はそれなりに文豪たちを気遣ってくれるものだった。それなりにとつけているのは、
直木も彼女を見ることが少ないからだ。今だって久しぶりに会った。いつのころからか引きこもり度が上がってきて、分館の管理だって
もう一人の管理者の方に任せているし直木としてはそちらの方とはよく話すし親しい。
『私があなたに話しかけたのは、緊急の依頼があるからよ』
察したのか、加護者が直木に話す。直木は立ててあったパウンドケーキをぱたりと寝かせてフォークで半分に切っていたが、手を止めた。
「俺が通りかかったし、俺でいいやとなったのか?」
『貴方じゃないと駄目なのよ。……貴方でいいかな? となるんだけど、貴方じゃないと駄目なのよ。有碍書の浄化』
加護者は感情がないようでいて、ある。貴方でいいかな? のところはいいような、悪いような、誰でもいいわけではなく、
直木三十五でないと駄目なのだが、かといって直木を送り出していいのだろうかというような声音をしていた。
半分に割ったパウンドケーキを四等分する。パウンドケーキは茶色い生地の上に白い何かが載っていた。生クリームか? となり、
口に入れてみる。
「これ、チーズか」
『クリームチーズとナッツのパウンドケーキ』
「美味い。今度の『ウルタール』の時の夜食はこれ半分でいいな。気に入った。――で、俺でよくて俺じゃないと駄目ってのは何の本だ?」
話を先に進めることにした。紅茶を一口飲んでみる。熱いが濃い。パウンドケーキと共に食べるために濃く淹れてあるようだ。
直木は飲み食いをしつつ加護者の話を待つ。直木がパウンドケーキを三分の二ほど食べたときに彼女は右手に本を浮かせていた。
『これ』
本は殆どが侵蝕されていた。
五冊あるが、侵蝕が強いのは二冊だ。タイトルと著作を読み、直木は加護者の言葉を理解した。
「アイツの本だな。俺が死んだ後に俺の名前が付いた賞を取った本だ」
『貴方のことを抜かしても、面倒案件でね。館長補佐が本を持ってきたのだけれども、あの子は爆睡しているし、貴方が偶然近くに来たから』
あの子とは特務司書の少女のことだ。加護者は元々特務司書の少女に利害の一致で協力をしている存在だ。特務司書の少女が特務司書をやる前からの
付き合いである。館長補佐は滅多に帰らない外見二十代の青年で天気予報がうまいのと政府と図書館の折衷をしている。
館長補佐が持ってくる案件というのは厄介なものだろうとなる。
「政府絡みか?」
『他の国定図書館絡み』
そこは回答をしてくれた。直木はパウンドケーキを食べ終えて、アイスも食べた。
「やる。浄化すればいいんだろう。準備はここでもできるのか」
『出来るわ。……概念操作をして遅延させてるけど、酷いわね……』
ここでもと聞いておいたのは本の世界に潜ることは魂だけの存在である文豪ならば、本があればできるのだが、外部から援護は出来る。
「文学を守るのが役目だし、アイツの本も守らねえとな」
『そのアイツが……』
加護者が言いかけたとき、本棚が大きく揺れた。加護者と直木が同時に音のする方へと意識と目を向ける。
「ナオキ、いました。部屋、気配、重い」
「ハワード」
『丁度、良かったわ……直木三十五に潜書してもらおうとしていたのだけれども、どうなるかわからなかったのよね』
「浄化、謎。本、何です?」
『知らないでしょうけど』
ラヴクラフトに加護者はタイトルを見せた。
「読めません。タイトル」
でしょうね、と呟いた加護者の側で、
「吉野朝太平記……よしのちょうたいへいきだ。作者は鷲尾雨工」
「わしおうこう」
直木はタイトルを読み上げる。この本を見たとき、直木は加護者の言い回しと、自分に頼んだ理由を理解した。
「俺の友人だった奴が、書いた本だよ」
小川未明は地下書庫へと降りていた。隣には島田清次郎がいる。
「地下書庫の本だって、いつ必要になるのか分からないのに」
「とはいえ、こんなに本があると、どれが消えたのか分からないな」
「本館スタッフさんによっては術式……? で把握しているみたいだけれども」
未明は何冊かの本を持っていた。鈴木三重吉と新美南吉が地下書庫から持ってきた本だ。彼等と話していたら借りてきたというが、
借りっぱなしになっていたらしい。スタッフには許可を取ったというが未明は先に返しに来たのだ。
清次郎はというと爆睡していて、起きて、散歩をしていて、暇だったので未明に付き合っていたのだ。
帝国図書館の図書館部分は文学書以外にも多種多様の本がある。本館は閲覧専門であるが、文豪達ならば許可を貰って本は借りられた。
その許可を貰うで本を借りて行っていいかは決まる。本館に保管されている本は貸し出し目的よりも、書物の、知識の保護がメインなのだ。
「――空気が重い」
「どうしたの」
本を返していたら、清次郎が未明の側で言う。声が苦しそうだ。未明が周囲を見回すと、扉があった。
「あそこだ。あそこの空気が悪い。いつも近づきたくないが、今日は一層そうだ」
「作業部屋……南吉は好きなんだけど。山田さんもよくこもるから二葉亭さんが困っていた」
「良く入れるな。分からないのか。墓のような重さを」
「(墓……)見てくるよ」
清次郎に待っていて、と言っておいてから、未明は作業部屋の閉じた扉の前に立つとドアを何度ものノックしてから入るよ、と言う。
返事を聞くよりも先に扉を開けた。
「小川じゃねえか」
「直木さんとラヴクラフトさん。僕は本を返しに来て、島田さんも一緒だったんだけど島田さんが空気が重いって気持ち悪そうにしていたから」
「分かるのか。――実は緊急の潜書があってよ。特殊案件になるみたいなんだ」
部屋にいたのは直木と皿に乗った大きなパウンドケーキよりもアイスクリームを食べている……朝からそんなものを食べてお腹を壊さないだろうかと
なるぐらいの勢いで食べていた……ラヴクラフトであった。部屋にいた加護者が本を見せる。
「……誰? 鷲尾雨工って、吉野朝太平記」
誰となってしまったが、未明は誰なのかわからなかった。
「俺の友人だった奴だ。アイツの本が侵蝕された」
「それが特殊案件……?」
「ああ。そうなっちまうんだ」
特殊案件になるみたいだと直木が言う。特殊案件だからこそ、作業部屋の空気が重くなって、重さが外にまで伝わってきたのだろうかとなる。
「作業部屋って、加護者さんが趣味で集めている本もあるけど、マイナー文豪の本がたくさんあるんだっけ」
『私が研究……でいいのかしら……しているのはそれだから、部屋にある本田と田澤稲舟の作品とかあるわ』
作業部屋については面白い本が沢山あるんだよとは南吉が話していた。いいのかしらなんて言っているのは本人が好きでやっているからというのがある。
田澤稲舟……は誰だろうとなってしまった。マイナー文豪としているが未明も解釈によってはマイナー文豪だ。
加護者が指先でトスしてクリップで止められた紙束を未明に放り投げた。未明は受け取る。紙に書いてあったのは随筆だ。
未明は随筆を読んでいく。やがて、顔を上げた。
「直木さん」
「皆まで言うな」
「護ります。ナオキ」
未明の顔が険しくなる。特殊案件になると言ったことについて未明は分かった。
「潜書は? 直木さんとラヴクラフトさんは決定としても」
『誰を潜書させるかなんだけど……分かったと思うけどメンバーをどうしようかって……関係者として久米正雄か菊池寛を考えたけど』
「久米はどうにかなるかもしれねえが、ヒロシが潜書をするのは危険だぞ」
久米正雄と菊池寛は第四次新思潮のメンバーであり、直木の友人達でもある。加護者が悩むのは珍しいとなったのだが、そうもなるだろうともなる。
有碍書の中がどうなっているか分からないのだが、考えられる危険性は排除しておかなければならない。
「浄化すればいいんだよね」
『文豪として出るかは未定だけど、浄化はして。このままだと完全侵蝕される。遅延させてるわ』
未定と加護者が答えた。彼女がそういうのだから、そうなのだろうとなるが、完全侵蝕は避けたいところだ。
そうなればその文学は人々の記憶から忘れ去られてしまう。
「僕が行くよ。それと、司書さんじゃなくて、貴方が仕切っているのは」
『案件がこれだから。それにあの子。湯たんぽを抱っこして寝ているわ』
「……起こそうよ」
「着いてきてくれるんだな」
「心配」
直木が嬉しそうにしているが、未明にしろ、ラヴクラフトにしろ、ついていかなければとなってしまっている。直木は気さくでとてもやさしい文豪だ。
童話組とくくられている文豪たちも直木には好印象を抱いている。加護者が仕切っているのは鷲尾雨工について知っていたからだろう。
「待ってて。外の島田さんに話してくるから。あの人は潜書は無理だけど」
『この部屋は相性があるのよ。入ったら発狂するやつとかいるわ。――墓場のようなものだから』
「そんな部屋作らないでってなった」
未明はまずいるだろう清次郎に話をしておくことにした。清次郎に何かあるととても心配している斎藤茂吉がもっと心配をしてしまう。
彼等はこの部屋に入っても何ともないが清次郎が入れば発狂するかもしれないとなる。
――文豪たちは過去が過去だけど。
過去は各々で違うし、死因だって自殺したり、病死したり、交通事故死したりとしているが、今回は死ぬ前の生きている間に起きていたことが、
非常に大変なものであった。直木が、大変なのだ。
崩壊しかけていた世界で、何かが落ちてきたことが分かる。
光だった。
その光を知っている。
光。光。
かつて心に焼き付いた。焼き付いて離れない光。
感じ取る。
ゆっくりと、それは動き出す。
直木がラヴクラフトと未明と共に『吉野朝太平記』へと潜書した。潜書自体には成功した。
「見事なまでに侵蝕が進んでいるな」
「この侵蝕を進めている親玉の侵蝕者を倒して、浄化する、だね」
それは毎度やっていることだ。直木は自身の書物を刃に変化させた。今回の刃担当は直木だ。未明は銃だし、ラヴクラフトは鞭だ。
ラヴクラフトは鞭分類になっているがあれ鞭なんだろうかとなるが鞭である。
指環を使えば未明は鞭になり、ラヴクラフトは弓になる。三人で潜書をしたのはバランスがそれなりに取れているのと、
予備はいたほうがいいからだ。
「司書。起きます」
「加護者も強いが、モノに寄ったら負担が司書に来るから、司書が最初からやった方がいいし」
「ここ。場所。よしのちょう。町?」
「町の方じゃなくて。政府の方だな。吉野朝太平記は。吉野朝。後醍醐天皇から後亀山天皇までの時代だ。吉野は奈良県南部」
歩きながら、ラヴクラフトと話す。ここは吉野のはずだ。奈良県南部。吉野朝太平記は、分類としては大衆文学になる。
侵蝕者に対して警戒をしていたが突然、ラヴクラフトが前に出た。壺が光、ラヴクラフトの傍らに弓が構築された。
弓と言っても、分類上は長弓になるのだが、弦がない。異様な機械の根が弓になったように上下で別れていて、
中央部分が開いている。ラヴクラフトの周囲には矢が浮いているが、矢は西洋式で矢じりと柄の部分の途中がねじれていた。
「撃ちます」
「……侵蝕者……!」
それは、大群のバッタのようだった。伝わらぬ洋墨の大群が飛んでくる。
ラヴクラフトは弓を展開すると手を翻し撃ち始めた。銃の乱射のように大量に。矢を放つ。未明も二丁銃で応戦した。
落としていく中で、気が付いたことがある。
「狙われています。ナオキ」
「俺かよ。アイツはどうなってるのやら」
「分からないけど。目指すは最奥」
「そうだな!」
直木は刃を伝わらぬ洋墨に振り落ろす。真っ二つに伝わらぬ洋墨は割れた。目指す場所は、最奥だ。
どうしようもない奴だ。
本当に、どうしようもない。
こんなにも尽くしたのに返してくれなかった。こんなにも、こんなにも。
そんなお前を理解できるのは、――だけだ。
お前は本当にどうしようもない。
『『吉野朝太平記』、著、鷲尾雨工。第二回直木賞受賞作』
一人になった部屋で加護者は浮いている本を見上げていた。援護はするつもりだが、まずたたき起こした特務司書の少女待ちだ。
『上手く浄化してね……でないと。直木三十五が取り込まれてしまうわ』
彼女は息を吐き出すとともに丸テーブルの上にある食器を片付けた。
島田清次郎は本棚に寄りかかり、未明を待っていた。
作業部屋の話については聞いたことがあるが、清次郎は一度たりとも入ったことはない。部屋の主についても余りあったことはない。
清次郎からしてみると作業部屋辺りから出ている気配は触れれば飲まれてしまうような禍々しさがある。
「島田さん。僕、これから潜書に行ってくるから。浄化作業」
待っていると未明がやってきた。潜書をするらしい。
「どこにだ」
「鷲尾雨工の『吉野朝太平記』。直木さんの友人だった男だって……」
「? 何か危ない奴なのか……?」
「そんな感じ。島田さんは休んでて。作業部屋に入ったら、潜書するよりも先に倒れそうだし」
未明の様子がおかしいことを清次郎は感じ取る。童話組と呼ばれている未明、新美南吉、宮沢賢治、鈴木三重吉の中でも、
彼はリーダー格というか余り喋らずに縁の下の力持ちと言ったタイプだ。その未明が潜書に出るという。
文豪たちは各々でかなりの強さを持っていた。浄化作業は積極的に行っているため、戦闘経験も積まされることになるのだ。
鷲尾雨工という名を清次郎は知らない。もっと悩めば想いだせるかもしれないが、悩む気力がなかった。
「潜書メンバーは、お前と……」
「直木さんとラヴクラフトさん。バランスもとれてるから。本の侵蝕が酷いみたいなんだ」
直木は明るい文豪だし、人にそこまで干渉してこないので話しやすい。ラヴクラフトは謎の奴だが、以前に貰ったイチゴジャムの瓶を
皆で食べようとテーブルの上において置いたら全て高級食パンにのせて食べてしまったことは未だに根に持っている。
斎藤茂吉に後で飯を奢られたとしてもだ。
「分かった。行ってこい。闇の力に飲まれないようにしろ」
「気を付けるよ。伝達はされるかもしれないけれど、他の文豪にも伝えておいて」
「待て。その資料。読んでおきたい」
されるかもしれないとなっているが、この図書館は伝達はしっかりしている。未明が言ったのは念のためなのだろう。
彼が手に持っている紙束を清次郎は気にした。一ページ目に『鷲尾雨工について』と書かれていた。未明が紙束を渡す。
作業部屋へと戻る未明を見送ると清次郎は深呼吸をして、本棚から離れて地下書庫から出た。
広々とした空間に本棚が所狭しと並び、その中に本たちが入っている。
帝国図書館本館はまだ開かれていないため、静かだ。歩いていれば誰かに会うだろうと清次郎は歩いた。
「島田か」
「おはよう。体調が悪そうだけど」
「……芥川と菊池……アンタ等……に、言っておく」
本館の図書館スペースから出て、医務室に行くか自室で休んでいるかを悩んでいると、清次郎は二人の文豪と会った。
芥川龍之介と菊池寛、清次郎よりも先に転生をしてきた文豪だ。清次郎が慕っている徳田秋声よりは後に転生したものの、
彼等も古参の文豪になる。そこまで清次郎は会話をしない相手だが今回は緊急事態である。
「言っておくって何を」
「鷲尾雨工の『吉野朝太平記』が侵蝕された。小川と、ラヴクラフトと、直木で浄化に入ったんだが、侵蝕が強く闇の力が支配している」
「! 直木さんが」
「……鷲尾だと?」
芥川と菊池は特に直木と仲の良い文豪と記憶している。何せ、菊池が作った賞が芥川賞と直木賞であるし、
三人で一緒にいるところを清次郎は何度も見かけている。直木が潜書したことの方に反応したのが芥川であり、
鷲尾の名の方に引っかかったのが、菊池だ。
「どんな作家なんだ……? 友人だったっていうが」
「直木とは大学時代の同級生でな。侵蝕されたのは『吉野朝太平記』だと言ったな」
「ああ」
「『吉野朝太平記』は第二回直木賞受賞作だ。俺と久米が選考委員だった」
直木賞。
それは芥川賞と同時期に設立された賞だ。菊池が無き友人二人、芥川と直木の名字を関して千九百三十五年に設立された。
「つまり、アイツが死んだ後で、出来た賞を取った本が侵蝕された?」
「そうなるが、鷲尾は……龍! 慌てるな!!」
「直木さん達は強いけれど、何かあったら」
「潜書先は分館じゃなくて、本館の潜書部屋でもなくて、作業部屋だ。こっちだ」
芥川が潜書先に向かおうとしていたが清次郎が止める。潜書自体は対象の本があればできるのだが、安全な潜書のために
潜書をするときは場所を決めて潜っているのだ。潜書部屋はいくつもあるが、今回は作業部屋である。
清次郎は芥川と菊池を潜書部屋の方へと案内した。潜書部屋は地下書庫にある割に場所がたまにわからなくなるのだ。
管理者がそうしているらしい。地下の階段を降りようとして、清次郎は気持ち悪さを感じた。
「どうした」
「……なんだ? 闇の力が濃くなっている。作業部屋から溢れているのか。たいそい」
「気持ち悪いって意味だね」
清次郎は思わず方言を口に出してしまう。たいそいとは清次郎の故郷である石川県やその近辺の方言であり、気持ち悪いと
いう意味だ。階段を上っていた時は階段には気持ち悪さがなかったのに今は階段に足をのせただけで飲まれそうになった。
芥川がたいそいの意味を知っていたのはここで教わったからか、かつて石川に行ったことがあるせいか、どちらにしろ、
意味を理解してもらえれば解読してもらえた。
「お前はここで休んでいろ。龍。向かうぞ」
「分かってるよ」
「鷲尾は直木に対しては危険なんだよ……アイツは直木に対して執着していた」
――友人だった、って言ってたな。
だった。過去系なのだ。友達通しだったのに仲たがいをしたのだとなる。仲たがいをした理由とかは資料に書いてあるかも
しれないが読む気力がない。
「騒がしいようだが、何が」
「斎藤さん。作業部屋の方で鷲尾雨工の『吉野朝太平記』を浄化中なんだけど、一筋縄じゃ行かないみたいだ。医務室を任せたいのと
島田君をよろしく。――確かにあの部屋は気持ち悪いね。埋もれた作家達の書物が沢山収められているから」
斎藤茂吉が散歩をしていた時に清次郎達の声を聴いたのか、こちらに来る。清次郎の顔色が悪いことに顔を険しくさせ、
芥川の状況説明を聞いていた。
埋もれた作家たち。
研究の一環で収められているようだが、それが墓場のような雰囲気を出しているのか。
「後詰めはいたほうがいいからな。司書は」
「はーい。呼ばれてきたんだよ。状況はアイツから聞いてる」
菊池が言う。
清次郎が気持ち悪さに襲われている中、春の木漏れ日のような声がした。外見は十代後半に見える茶色い髪を背中まで伸ばした少女、
彼等文豪を転生させた特務司書の少女がそこにいた。
「司書さん」
「りゅーさん、『覚醒の指環』を準備ね。しませいさんは休んでて、茂吉さんはしませいさんを休ませて、菊池さんも来て」
「そうするよ。司書さん」
『覚醒の指環』は最近発見された新しい力とされていて文豪の中では持っている者が少ないというが、芥川はその指輪を所持していた。
特務司書の少女は階段を降りようとしていて、足を止めた。
「司書、どうした」
「――アイツから伝言。直木さん達が侵蝕者の親玉と接触したって」
菊池の問いに特務司書の少女が答える。
アイツとは作業部屋の管理者のことだろう。利害の一致で協力関係にあると聞いたことがあるから伝えられたのだろうとなった。
芥川が地下書庫への階段を下りて行き、特務司書の少女も降りていく。菊池も走っていった。
「医務室の準備をしておこう。動けるか。島田君」
「ああ……そうだ。小川から預かったんだ。読むために。鷲尾雨工について」
「まずは医務室に」
茂吉に促される。気持ち悪さは続いているが、先ほどよりはマシになっていた。
「”友人だった”か」
文豪たちは生前、各々の人生を過ごしているが、直木の過去に鷲尾は関わっていて、鷲尾も直木に影響を受けたようだ。
資料を読めばわかるだろうかとなりつつ、清次郎は茂吉と共に医務室で休むことにした。
直木がやったことと言えば、ラヴクラフトが取りこぼした侵蝕者を刃で倒していくだけだった。
数が多い。
ラヴクラフトは弓矢で侵蝕者たちを圧倒している。自動射出は強いとなる。
「『尊敬のかげ』か」
丸っこくて白い侵蝕者が浮いていた。
『尊敬のかげ』は尊敬している相手に対する暗い思いが形となった侵蝕者だ。ラヴクラフトの展開した弓から放たれる矢が、
容赦なく貫く。未明が銃弾を何度も当てて倒した。
戦い続けたおかげか、侵蝕者の襲撃はぴたりと止んだ。止んでいるうちに直木たちは進むことにする。
ラヴクラフトと未明がいてくれて助かったと直木は想う。帰ったらアイスや食べたいものを奢ってやろうと決めた。
「今回は敵を倒しておくだけみたいだね。この話は、楠木正成の話だって言うけど」
「よく題材に使われているな。楠木正成。エージも話を書いたんだ。『私本太平記』」
楠木正成は日本の歴史の中でも忠臣として名高い武将だ。
『太平記』というのはそもそも、日本の古典文学の一つであり、最長の軍紀物だ。
直木の友人である吉川英治も自分なりの解釈で『私本太平記』という作品を書いている。長編小説だ。
『貴方が書いたのは『南国太平記』ね。直木三十五。これちなみに古典文学の方とは関係ないわ』
加護者の声が聞こえた。耳元で聞こえてくる。
話しかけられなかったのか、今なら話せたのかは知らない。『吉野朝太平記』には万全の準備で潜書した。
直木も『南国太平記』という話を書いているがこの話は薩摩藩の話であるし、明治が来るときに近い幕末の話なので、
『太平記』とは関係ない。
「話しかけてくるとはな。今のところは順調だぜ」
『侵蝕度は調整し続けてるけど、部屋の外にも気配が漏れて当てられる奴は倒れるわね』
浄化は出来ないのか? となるが浄化が出来るのは言葉の力を知る文豪のみである。調整としているから遅延に遅延をかけているのだろう。
そういうことが出来るのも、概念操作の一種らしい。ラヴクラフトがどこからか取り出したチョコサブレを食べていた。
特務司書の少女が好きな近所のケーキ屋が作っているチョコサブレだ。十枚ぐらい食べているがどれだけ持っているのかそして司書は
どれだけ購入したのだろうかとなる。
「敵の数が酷いよ。今はやんだ。油断はしない」
「補給します。チョコサブレ。美味しい」
「鷲尾の奴は見つからないな」
鷲尾らしい気配はない。文豪として形がなっているかもしれないし、なっていないかもしれない。
それすらも曖昧だ。逢ってみないことには何とも言えない。
「その人、貴方と大学の動機で、一緒に会社も作ったりして潰したんだよね」
「そうだな。潰した。結構遊んでたからな」
未明は加護者から渡された資料を呼んでいる。事実なので否定はできない。鷲尾と直木は大学時代の同期であった。
鷲尾雨工は直木の友人だった男だ。彼と共に冬夏社を経営したが関東大震災によってわずか半年で潰れている。
『借金四天王の一人だものねぇ。石川啄木と川端康成と内田百閒と貴方で四天王』
「それ言ったの。司書さんだよね。聞いたことある」
四天王にされているが啄木も川端も、内田と直木は借金をしやすい。返す気がある者もいれば返す気がないものもいるので、
態度自体はまちまちだ。
「言いました。司書。借金。返す。大事。面倒、借金取り、相手」
「今はそこまでしてねえぞ。ヒロシにならしてっけど」
『――菊池寛は貴方のマイナス面も認めたうえで評価した。……貴方って人たらしだから』
「すっごく、分かる」
「人たらし。ナオキ。人たらし?」
「そうだよ」
「分かる」
「本当に分かってるのかってか。分かられても困るけどよ」
菊池には借金をしているが貸してくれるしとなる。加護者が直木に関して言う。彼女は文豪たちに対する知識を非常に持っている。
だからこそ、今回の特殊案件となりうる潜書を引き受けて采配をしているのだ。
未明は見た目は子供であるが中身は大人だし、ラヴクラフトは……子供みたいなところはあるが、きちんとしたこととは
学んでほしいとなりながらもきちんとしたことって? となる。自問自答だ。
ラヴクラフトで映画を撮りたいとか思って話しかけたりしていたら、いつの間にか懐かれていた。
「この作品は貴方が死んだ翌年、貴方の名を冠した賞を得た」
「ヒロシの奴は俺が生きていたら賞をやったかわからねえとは言っていたけどよ。死んだ後で賞を作るから」
「貴方も芥川さんも早死にしたから。菊池さんは残されたんだよ。……あの人は、貴方がこの話を評価するとしたら、直木賞を
鷲尾さんにあげるかは分からないって言っていたけれど」
転生した身だ。死語に出た作品も評価も読むことが出来るし、帝国図書館には豊富に資料も書物も残されていた。
この作品が直木賞を受賞した際、一巻と二巻しか出ていない。当時の菊池のコメントとしては直木が生きていたらこの賞を
鷲尾に贈ることを反対していたかもしれないと、そんなことを言っていたようだ。
「あげました? ナオキ、ナオキショウ。芥川。太宰、あげません」
「……あれもなんつーか、太宰がはじけているよな。川端もだけど」
『評価するときにいきなり徳田秋声の名前を出してきたわよね。アイツ』
ラヴクラフトに問われたが、ラヴクラフトが連想をしたのは芥川賞であり、太宰とひっかけたらしい。
太宰は芥川賞を貰えなかった。それを今も引きずってはいるが、芥川賞は芥川が評価をしてあげているわけではない。
ちなみに芥川賞は同人誌を含む雑誌に発表された新進作家による純文学の中編や短編から選ばれる賞であり、
直木賞の方は新進作家や中堅作家によるエンターテイメント作品の単行本から選ばれる。直木賞の場合は長編小説か、
短編集が対象なのである。
余談だが川端は芥川賞に関する話をしている際、いきなり徳田秋声の話を出している。かなり関係ないのにだ。
川端は秋声の大ファンである。
「景色が……」
歩きながら話しているうちに景色が変わっていた。未明とラヴクラフトは臨戦態勢に入る。
空が暗澹としていた。
『――キ』
「声……?」
誰かが、直木を呼んだ。加護者の声ではない。男の声。
『ナオキ。ウエムラ』
直木は刀を握りなおす。直木三十五、本名は植村宗一。
その名を知る者は数少ないし、消去法で、直木は咄嗟に思い当たる名前を告げた。
「鷲尾。鷲尾雨工……いるのか。お前、何処に」
いるんだ、と言おうとしたが声にならない。
世界が、崩れていく。
『青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ』
加護者の声が聞こえた。崩れかけた世界が止まる。止まったものの、辺りは黒色であふれていた。
空がひび割れている。
「楠公の歌……」
楠公の歌は明治に作られた楠木正成の歌だ。加護者が外から干渉してくれているのだろう。ラヴクラフトの顔が険しい。
領域をかろうじて固めてくれているから無事であるが場所によっては虚無空間らしき場所に落ちる可能性もあった。
ある、かもしれない。防御が効いているからどうにかなっている。
「直木さん」
「ナオキ」
「お前等に守られてばっかりもなんだからな。俺も戦うぜ」
未明とラヴクラフトに声をかけられながらも、直木は刀を構えようとした。矢先、足元を鞭のようなものが走った。
銃声がして、未明が鞭を落とし、指環の力で彼も鞭を装備した。先端に尖ったひし形の石が着いたグリップ部分が赤く
鞭部分が黒い鞭だ。
『オマエハ オマエガ イル コノバショニ ナオキ ウエムラ オマエガ オマエガ オマエガ』
黒く、肌が青黒く。着物姿の、男がいた。辺りから茨のような鞭が現れる。
手には刀が握られていたが、太刀だ。
「侵蝕者になりそうなのか。お前。この作品を完全に侵蝕するな。忘れられるぞ」
『ナオキ オマエハ 理解 していない』
「理解……?」
予想はしていた。
鷲尾雨工は侵蝕者になりかけている。なりかけている文豪は珍しくはない。対処としては侵蝕者となりそうな文豪になりそうな
存在を切り離すことだ。なりそうなばかりをつけているが、存在がまだ確定してないのだ。
『直木三十五! この作品の崩壊加速度が上がった。コイツ、貴方とこの作品と共に心中』
加護者が叫んだ。声が途切れた。切られたのだ。ラヴクラフトが直木の手を握り矢を鷲尾に放つ。
侵蝕というのは作品世界が破壊されるというパターンもある。つまり。
『俺に焼き付いて離れない。ドウシヨウもないもののが、お前だ。悪しき男だ。お前から受けた屈辱を晴らすために歴史小説を書いた。
書き続けた。だがお前はいる。お前はいる。ここに来た。来たんだ。直木三十五。植村宗一。お前を消すためならば、これが崩壊しても構わない』
侵蝕者の群れが湧き出てくる。ラヴクラフトがすぐさま矢を次々と打っていく。未明も鞭から銃に切り替えた。
文豪というのはわがままな者である。自分の作品は大切だが、書いた作品だからこそ未熟だから消したくなったりそれにより
書きたい他のものが評価されなかったりして恨んだりもする。
ラヴクラフトの矢が鷲尾に到達しようとするが、茨の鞭で落とされる。
「死んでやらねえし、お前の作品も消させやしないさ。鷲尾」
やるべきことは。
侵蝕者となりかけている鷲尾雨工を倒すこと。直木は指環を外し、鎖分銅型の鞭にした。
理解していない。
分かっていない。
分かっているからこそ分かっていないのか、理解していないからこそ理解しているのか。
そうだから。
光であるから。
焦がれて焦がれた悪しき者。
直木三十五。
植村宗一。
死の間際まで。
逃れられなかった者。
芥川の下駄の音が地下書庫に響き渡る。図書館内は走らない! とか図書館スタッフがいたら怒りそうだが、今回は緊急事態だ。
地下書庫の本棚の間にある扉を壊すような勢いで開ける。
「直木さんは!」
『さはいえ悔し願わくは 七度この世に生まれ来て 憎き敵をば滅ぼさん さなりさなりとうなづきて。――今のところは無事』
芥川の叫びは聞いているだけで鬱になる歌声にぶつかる。唄い終わってから反応が来た。
「……七回は生まれ変わって殺すか。ゾンビか? ってなるし、自刃前のことだよね」
「そんだけ殺したかったってことだな。憎い敵だ」
空中に浮いているのは殆ど真っ黒になってしまっている『吉野朝太平記』であり、唄っていたのは加護者だ。
楠木正成について唄った『楠公の歌』の歌の最後部分である。歌声が精神を削られる声音をしていた。
上手いのだが心を抉ってくる。
その歌声に対して平然と歌詞について話したのは後から入ってきた特務司書の少女で、さらに話したのは菊池だ。
七回は生まれ変わって殺す……七生滅賊は正成とその弟である正季が最期に意志を確認しあった言葉である。
部屋の内部は明るいようで重々しい。加護者は直木たちは無事だと言っている。
『七回生まれ変わっても、国賊を倒したい。という言葉だけど、貴方にとっては感覚が薄いわね』
「その辺はな。敵は殺す、でいいのに。で、『吉野朝太平記』に何があった。お前は他の国定図書館の実験のせいだとか言っていたが」
特務司書の少女としては国賊とか肩書はいらないので敵は敵だから消すときは消そうぐらいの調子だ。
彼女はまず、詳しい事情を加護者に聞いていた。
国定図書館とは帝国図書館もそうだが、国が運営する図書館である。内情はと言えば、図書館が半分と研究施設が半分という
認識でいいらしい。研究施設で何をしているかはそれぞれの国定図書館で違っている。
『文豪を意図的に転生させる実験の一環だったの。文豪の転生って、”登録”される文豪がどんなのが出るかってのは殆ど運なのよね』
「それは知っているし、かなりわかってないところもあるから、半ば勘みたいなところはあるよね」
有魂書や有碍書にに文豪や魂だけの存在が潜書をして対象者を連れてきて特務司書の少女の力である”魂を現世に固定させる力”で、
固定するというのが、文豪の転生のプロセスだ。有碍書から文豪が転生するときは浄化をある程度行ってからの方が転生しやすいとかがある。
”登録”とは、発見された文豪がまた転生しやすいように認識すること、と前に芥川は教わった。ここの図書館は自称などにかなり適当な名をつけている。
有碍書や有魂書から発見された”登録”されていない文豪を転生させるときはその文豪に強い意志がいる。認識のしやすさや許可証のようなものらしい。
転生については勘のようなところがあり、有魂書に潜書しても意図的に結果を固定しない限りは誰が転生するかはランダムである。
「殆ど運のところを意図的にこいつを転生させるとかしようとしたわけか。……先行転生とか前にあっただろう」
『あれも勘みたいなところがあるのよ。”書物の世界”には流れがあって、それを視て、コイツが転生しそうとアタリをつけて潜書。いずれ固定』
菊池が言い、加護者が答える。最近は先行転生や転生研究をしていない。
ちなみにアタリをつけているのは館長補佐、と加護者が付け足した。
”書物の世界”は有魂書でも有碍書でもひっくるめた世界のことである。街中のようだったり、文字の海だったりする場所だ。
「意図的に転生させるのになんで鷲尾雨工なんて……こういうと何だけど」
『元々は別の文豪を転生させようとしたんだけど、意図的に”登録”文豪を作ろうとしたら、偶発的に鷲尾雨工が引っかかったの』
「偶発的」
特務司書の少女がそういうのも無理はないと芥川は想う。名前を聞いたら十人中九人が誰だろうとなる文豪だ。文豪は各々に知名度があるが、
それでも、多少は名前は聞いたことがある……ぐらいになる文豪ばかりである。
加護者の方が文豪たちについての知識はあり、特務司書の少女は薄いがそれでいいとはなっていた。知りすぎても仕事に支障が出る。
『その図書館が別の件でやらかして館長補佐が処理をしたのだけれども、この有碍書は残ったから浄化してくれって来たの』
「……その図書館については詳しいことは……あとでいいや」
意図的に、ということは確実にその文豪を転生させるということだが転生のメカニズムはあやふやで人工的なこともあるが、天然なところもある。
それを操ろうとして何かが起きたようだが、知っている加護者は説明を省いたし、そのことについては後回しだとこの場にいる誰もが思った。
重要なのは『吉野朝太平記』の浄化だ。直木たちが巻き込まれたのだ。
「直木じゃないと駄目だったんだな」
『交流は知っているでしょう……? 第一会派を叩き込む手も考えたけど』
「そうだね。浄化についてはたまにその文豪じゃないと駄目だって時もある」
菊池ならば知っているだろうと加護者は放り投げる。
浄化作業と一言で言っても文豪たちが潜書をして中にいる侵蝕者を倒したりすることもあれば、その物語の登場人物となって、
物語の間違っているところを直したりすることもある。第一会派とだけ言われると初期文豪である織田作之助、最古参文豪の徳田秋声、
正岡子規、尾崎紅葉のことだ。戦力としてはトップクラスである。
「それで鷲尾雨工って改めて教えてもらったけどどんな文豪? 変わった名前だけど」
『本名は鷲尾浩。雨工は奥方が南総里見八犬伝からとったのよ』
特務司書の少女の上に紙束が落ちてくる。彼女は受け取ると中身を読み始めた。特務司書の少女と加護者は精神的につながりがあり、
心中で会話が出来るというから概要は教わっているだろうが、詳しい知識を求めた。
貴方も一応、と芥川の頭上にも資料が落ちたが芥川の頭の上に載ってしまった。
「龍」
「ごめんごめん」
資料を読でいく。時間が過ぎていくが、知っておかなければならないことであった。
「……大衆文学の人だね。書いたのが殆ど歴史系で、徳川家康に織田信長、伊達政宗に黒田如水」
特務司書の少女が紙に書かれた鷲尾雨工の著書を読み上げる。どれもこれも、歴史では有名人だ。歴史に疎い者でも
名前ぐらいは聞いたことがある武将である。
『彼の小説は直木三十五を見返すために書いたとされているわ。貧困から抜け出すには小説を書くしかないと』
「紅葉さんが文学で金を稼げるようにしたんだっけか」
文学で食べて行けるようになったのは尾崎紅葉の活躍からとは言われている。それまで文学で食べていくことなどは出来なかった。
芥川だって菊池だって生活のために書いていたところはあるし、直木だってそうだ。
「アイツは、鷲尾は直木からは逃れられなかったんだ。『直木三十五の美醜』っていう随筆があるんだが、あれに酷く書いてある」
菊池が説明をしてくれた。菊池はかつてのこともあり、文豪たちに顔が広い。
鷲尾と直木は早稲田大学の同期であり、鷲尾は直木に歴史や文学の面白さを語った。それは読書によって蓄積された知識であり、
直木に歴史小説の書き方を教えたのは俺だとも言っていたらしい。
「鷲尾さん。彼は……」
資料は加護者の言葉で書いてあるし、集めた資料にしろ加護者や資料を書いたもののことも加味して読まなければならないが、
鷲尾は直木に執着しすぎていたのはある。
資料にはこう書かれていた。直木賞によって、鷲尾は作家として自立することが出来た。菊池が作った。直木の名を冠した賞によって。
加護者が目を細めた。
『状況が動いた。準備して』
「りゅーさんたちを送ればいい? お前は直木さん達の補助とかしてるだろう」
『心中しようとしてるところを嫌がらせしてるわよ。念入りに準備して送り出したけど』
「直木さんは殺させないよ」
状況については話しながらでも把握をしていたようだ。加護者が鋭く告げる。特務司書の少女もアルケミストとしての力を発揮することとなった。
直木たちについては出来る限りの準備をして潜書させたようだが、それでも現在は緊急事態だ。
援護をしているから作業部屋の気配が濃く、強くなっているのだろう。となる。特務司書の少女も芥川も菊池も気にしないようにしているが、
刺すような気配がする。
「ラヴクラフトと小川も助けねえとな。直木について行ってくれたんだから。一人だとアイツ、帰ってこられなかっただろう」
『史実って凄いわね』
菊池の言葉に答えずに加護者が呟いた。一人だと帰ってこられない可能性が大きいということを暗に示していた。
「焦がれてしまったんだね。鷲尾さん。直木さんに。直木さんはそう言う人だから」
「そういうで解決するのもなんだけど、そういう人だよね」
援護に行くタイミングについては加護者が教えてくれるだろう。芥川は穏やかな表情で資料を握りしめる。特務司書の少女が仕方がなさそうに
そうなってしまったのだろうというように、言葉を発していた。
こんなにも狂ってしまった世界で。
こんなにも歪んでしまった世界で。
世界の歪みも狂いもどうでもいいのだけれども。
光は変わらない。
降り注いだ光。
落ちてきた光。
お前が死んだ世界でお前の名を冠した賞を取った。お前はいない。
いないからこそ賞は出来た。
お前の名を刻むために。
そのお前はここにいる。
変わらない。
変わってしまっていても変わらない。
鮮烈に。
焼き付いた光が、今も。
軍勢が。
小川の眼前に軍勢が広がっていた。先ほどよりも、多い。壊れかけた世界の大地を埋め尽くすような軍勢。
槍や刀を持ったヒトの形をした侵蝕者やここに来て何度も倒して来た侵蝕者が『吉野朝太平記』の世界に現れる。
(この世界そのものが、直木さんを狙っている)
資料にあった。『吉野朝太平記』は鷲尾が書きたかった作品で、
書こうとしていたきっかけは直木を超えるためという感情もあるのだと。
鷲尾に手が届きそうだったのに大量の侵蝕者たちに遮られる。
「ナオキ」
ラヴクラフトが壺を右手に抱え空いている左手で直木を自分の側に引っ張り込む。弓から鞭へと武器が切り替わる。
鞭と言ってもラヴクラフトの鞭は刃のついた輪のような武器だった。刃のついた輪が回り、侵蝕者たちを切り刻む。
小川は飛び掛かろうとしていた侵蝕者を右手の銃で撃った。
「俺の出番がねえな」
「護ります。ナオキ、襲います。世界。侵蝕者」
「アレを浄化しないことには何も解決しないんだけど」
外は、援護の手を回してくれているし、次の手も考えてくれているだろうが、期待はしすぎない。期待のし過ぎは腕を鈍らせる。
小川は鷲尾の姿を探すとかなり離れたところにいた。小川は二丁銃の引き金を同時に引いて、炎で攻撃しようとしてきた
『炎上する嫉妬心』を撃つ。そのまま飛び出して、また撃ってとどめを刺した。
矢が飛んでいく。
武器を切り替えたラヴクラフトがまた撃ち始めたのだ。鷲尾に届く前に他の侵蝕者が壁となって矢は止まってしまう。
「侵蝕、そこまで受けてねえのがよかったな」
「ラヴクラフトさんが撃ち続けてくれているから」
「お前も侵蝕者を撃退してくれてるし」
浄化はし続けているが足りない。大本を倒さなければ終わらない。念入りに下準備でかなりの無茶をしてもなんとかなるかもしれないが、
無茶のし過ぎは止めておくことにする。この世界は、鷲尾の創作物、鷲尾のフィールドなのだ。
ラヴクラフトは撃ち続けているが矢は鷲尾に当たることはない。
自分たちにたどり着こうとしていた侵蝕者を小川は銃弾で直木は鎖分銅型の鞭で撃退する。
「心中する。聞きました。世界。ナオキ」
「しねえが、アイツはそう望んでいるみたいだからな」
「『吉野朝太平記』はあの人が書きたかった題材を使用した作品であるけれども、貴方を超えようとして書かれた作品だ。
貴方は歴史小説を切り開いたヒトでもあるから」
楠木正成、忠義の厚い者として知られた男。
鷲尾は彼を題材に『吉野朝太平記』を書いた。直木三十五を超えるために。
直木は『南国太平記』によって時代の寵児となった。鷲尾の目には直木は歴史小説を切り開いた者である。
あまたの作家の中で彼だけが、直木だけが、明らかにその本筋を通っているとしていた。話ながらも侵蝕者を倒していく。
物量はあちらの方が上だ。
「歴史小説以外も書いてるんだぞ」
直木と言えば歴史小説ではあるが他にもゴシップ記事も書いていたし、執筆速度は非常に早い。
ぐしゃり、と。
直木を襲おうとしていた刀を持った武士の形をした侵蝕者がラヴクラフトの刃のついた輪により切り刻まれた。
『ナオキ』
「武器は変えないで。ラヴクラフトさん。このまま。直木さんは武器を変えて!」
直木しか見ていない声が、した。
背筋が冷える。
小川は直感で指示をした。書物の世界では小川はかなり動ける。
外に出れば運動神経はないが、ずっとずっと小川は戦闘経験を積んできたのだ。
侵蝕者を倒すために戦って基礎能力を上げるための開花もした。
力はあれば困ることは殆どないよ多分なんて特務司書の少女は言っていたがそれだ。
役に立っていた。
直木が指環をつけて武器を刃にする。
引き裂くように茨のような鞭が直木に振り上げられた。ラヴクラフトが刃のついた輪で切る。
輪は回転し、侵蝕者たちを切り刻んでいく。
直木を守るようにして小川は前に立つと銃口を構え、直木の前に現れたモノに二つの銃口を押し付けて引き金を躊躇なく引いた。
『邪魔をするな』
小川の足に茨のような鞭が絡む。激痛が小川に走った。痛みをこらえる。侵蝕された。
直木が刃を振り下ろして小川の拘束を解除する。
「俺を狙えよ。鷲尾。お前の狙いは俺なんだろう」
『お前は変わらない。あの頃から。あの頃も。お前は俺が育てた』
「大学時代はお前の話を聞いて楽しかったりはしたけどな」
『お前だけだ。お前だけだ。お前が……』
明るく話している直木だが、小川には分かる。直木は危機を感じていた。世界の空気が重くなっている。
地響きがした。
足元がぐらつく。侵蝕者となりかけている鷲尾が小川に向かって手に持っている刃を降ろし、小川の体を切り裂いた。
負けじと小川は銃弾を叩き込む。
「落ち着けよ!」
直木は鷲尾の背後から刃で鷲尾を攻撃する。再び攻撃しようとしたが、茨のような鞭が背後から直木を襲おうとする。
ラヴクラフトが指環を切り替えて距離を取り、矢をうち茨のような鞭を破壊した。間髪入れずに切り替えて、
輪のような刃の鞭で鷲尾を切り刻む。
ダメージは与えていた。
「浄化を狙って!!」
決着をつけなくてはならない。
サポートはあるものの、サポートは無限ではない。小川は鷲尾に銃弾を当て続ける。先のことは不透明だが浄化をするしかない。
『直木、この作品は――』
また地震が起きた。
小川は足元を踏みしめようとして、地面がないことに気が付いた。側にいる直木が目を見開いた。
「ハワード。未明を守れ!」
鷲尾が手を伸ばして直木を掴んだ。さらに世界が揺れる。ラヴクラフトが矢を撃つが、矢が届かない。
――ああ、もうこの人は!
小川は叫びそうになっていた。直木は自分よりも小川を優先していた。それで怒りそうになったけれども、
別の事実に気づいたので考えが打ち消される。
「そうか……この作品は……」
資料に書いてあったことを小川は想い出した。『吉野朝太平記』は第二回の直木賞を受賞した。その時に鷲尾は
”故人直木君と僕とのきづなが再びここで無図ばれたので、感慨が深い”と言っていたのだ。
だから。
この作品は、この世界は直木を逃さない。鷲尾の手が直木を掴む。
『ようやく』
直木に鷲尾は刃を振り下ろし、切り裂いた。茨の鞭のようなものが小川とラヴクラフトの足元に絡み、締め付ける。
世界が、溶けていく。
黒く、染まる。
かつて、直木は文字の海に居て、手を引かれて外に出た。手を引いてくれたのは、夏目漱石だった。
『龍之介君の友人ですね』
龍之介。芥川龍之介のことだ。
帝国図書館に転生した際、懐かしい顔と会った。何人も何人も。
菊池にエージ、久米に横光、自分が死んだ後で菊池が自分の名字を冠した賞を作ったことについては驚いた。
浄化専門の図書館である帝国図書館分館にはあまたの本が揃っていて、直木はいくつもいくつも読んだ。
その中にあったのだ。
鷲尾雨工の本が。
参考資料も集まっていた。時間もたくさんあったし、直木は分館の本を読み続けた。
「暗いな……」
『お前がいる。直木』
世界はまだ完全には侵蝕されていないし、直木はまだ生きていた。加護は守ってくれているようだ。
小川とラヴクラフトは無事だろうかとなる。二人とも直木を守るためについてきてくれた。
『何を考えている』
首に、手を回された。ぎりぎりと締め上げられる。
「お前がここにいることだよ。鷲尾」
懐かしさはある。
早稲田大学で直木と鷲尾は出会った。暗い中、首に回されている手の冷たさだけが目立つ。
『いつの間にかここにいた。そしてお前が来た』
「頼まれたからな。放り込んだ方は、行かせることを躊躇していたが」
『そいつは殺せばいい』
おいおい、となる。アレは死ななさそうだが、どうだろうとなる。戦場ではなく、広がっているのは暗闇だ。
「殺すんじゃねえよ。お前は俺を殺すんだろう」
本はあるが、動けない。体が重い。侵蝕は完全には入っていないが、攻撃をされれば入る可能性がある。
入る。侵蝕だ。耗弱状態や喪失状態になり、さらにそこで侵蝕がすすめば直木の存在は消えてしまう。
切り札はとっておいてあるが、万能ではないし、気づかれてはいけない。
『お前は俺を裏切った。裏切ったんだ。こんなにも尽くしてきたのに』
「そうか」
出版社のことだろうかとなる。だろうなともなるが、想い出は残っていた。文豪によっては忘れてしまっているものも、
いるからだ。鷲尾と直木は会社をやっていたが関東大震災の影響で潰れた。鷲尾が金を融資していて、それにより鷲尾は
困窮したのだ。直木だって鷲尾を助けようとしたがすれ違った。
『死んだんだ。お前は。俺が逢いに行ったが会えなかった。だけど、逢えた』
「俺もお前に会えるとは思わなかったよ」
『逢えたならこれはもういらない。これでお前に会えたから、いらない』
追悼文も読んだ。鷲尾が書いたのは『人間直木の美醜』という文であり、直木に送られた追悼文は賛辞ばかりだったけれど、
アレは違っていた。
ここまで執着されるとは、となるが、どこかでそれぐらいは鷲尾に思われていただろうなとは想う。
振り返る時間もあったからではあるのだが、直木の方は鷲尾をそこまで気にしていなかった。
刃が直木の腹に突き刺さる。引き抜かれた。外に出れば補修が出来るが今は痛みに耐えるしかない。
「自分の作品、捨てるなよ……」
『お前は栄光を得た。俺を蔑ろにした。だが俺はお前が懐かしい。直木。かつてのように語り合った。あの頃も、これからも、今も』
じわじわと、侵蝕されていく。
直木は栄光を得た。時代の寵児と言われた。とはいえ、今はそう名前は伝わっていないし、直木賞としてならば伝わっているようで、
伝わっていない。それについては別にいいとはなっている。
鷲尾は大学時代に歴史について教えてもらったり、芸術についても話し合っていた。
(小川とハワードは無事か……? ……外は……)
あの二人は生きているだろうか。生きているはずだ。取り込まれたのは直木だけだ。
『この作品は俺とお前の墓場だ』
墓場と言われて。
直木の声が鋭くなる。
「――大衆小説なんて、読み捨てられて、忘れられても構わねえが、自分の作品は無下にするな。お前はこれを俺を超えるために書いたんだろう」
それは否定しておかなければならないとなった。大衆文学に対する直木の誇りは、こんな状況でも失われてはいない。
こんな状況だからこそ、失うわけにはいかない。
『直木、お前は……』
「俺たちの文学は生きている全ての人のために、無名の人々の幸せのために存在し続けるんだよ……」
大衆文学は、大衆のための文学だ。純文学と境界があいまいなところはあるけれども、人々のための文学なのである。
鷲尾は小説を書き続けていた。『吉野朝太平記』で一躍有名にもなった。直木とのかかわりで『人間直木の美醜』の文章によって、
他の文豪との交流が避けられたりもしていたけれども、彼は時代小説を書き続けていた。戦争もあった。
これからというときに鷲尾は病死した。
文豪なんて名前が残るのは、作品が残るのは運というところもあるし、伝えて行ってくれたものの力もある。
作品だってそうだ。
どんな気持ちで作品を書いたのかなんて文豪それぞれだけれども、消えて行っていい作品はない。
『それでこそ直木三十五だ』
「そーかよ」
賛辞のように恨みのように鷲尾は声を放つ。首に回された手がどんどん絞められていく。
『ああ、だから、だからこそお前は……』
呼吸が出来なくなる。
意識がぼやけそうになりながらも、握っていた刃は離さない。
『高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた』
軽やかな文が、軽やかな声が、耳元で聞こえた。
知っている。
忘れてはいない。
だってこれは直木を一躍有名にした『南国太平記』のもので、その序文を言っているのは彼を転生させた――。
分かる。
手が伸ばされている。
声が聞こえる。
だから、
「樵夫、猟師でさえ、時々にしか通らない細い径は、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、
両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた」
『その文は』
直木は答えた。
鷲尾の手が離れる。刃が振り上げられて――。
『私は花火の事を考へていたのです。我々の生のやうな花火の事を』
今度は、別の文。
暗闇を振り払うかのように特務司書の少女の声がして。
直木の作品ではない。けれども、直木ととてもかかわりの深い文豪の文だ。
その文は誰が書いたのか、何の作品化を直木は想い出して、
「暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた」
文を繋げる。
光が、弾けた。