18.风息は、/天虎、洛竹
19.おかえり/洛竹、虚淮
20.遠くへ/洛竹
21.媽媽の名は/モブ妖精、虚淮
22.てつだう/天虎 ※肉食獣の捕食描写あり(ややグロ注意)
23.おとむらい/天虎、モブ人間、洛竹 ※動物が車に轢かれる/解体される描写あり(ややグロ注意)
24.きょうだいへ
25.ある妖精/モブ妖精(+紫羅蘭)
26.取り引き/虚淮、モブ
27.ふるさとの風/天虎
@satomi8429
18.風息は、(洛竹、天虎 映画後)
釈放されてしばらくした頃、森に会いに来る洛竹からはいつも新しい話題があった。
風息が根を降ろしたあの場所で生きると決め、花の妖精が営む花屋――最近の人間は花を店に来て買うんだ、と以前洛竹が目を丸くして教えてくれた。信じられないだろう? と――で働き始めた洛竹は、花束が作れるようになったこと、それに巻く色とりどりの紐の扱いが難しいこと、『きねんび』には皆が同じ花を買っていくことなんかを教えてくれた。それから、同じく人間に擬態して生きている花の妖精に教わった人間の食べ物の食べ方だとか、電話のボタンひとつで『しゃしん』が取れることだとか、それに映る時はこうやって笑うものらしい――特に楽しいわけでもないのに――、だとか。不思議だろう? とか可笑しいよな? とか言いながら話した後に、兄は決まってほんの少し困ったような笑顔を浮かべた。かなしい? と聞こうと思ったがそれも兄を困らせるような気がして、言葉の代わりに肉を差し出した。
もうこうして焚火を囲むのも、ふたりだけになってしまった。「俺なにやってるんだろうな、っていつも思うよ」と、兄は肉を手に持ったまま言った。
最近の兄は、時々人間の食べ物を持って遊びに来る。今日持ってきた茶色い紙袋に入った飲み物は『たぴおか』というらしい。飲んでみたらぶにょぶにょした丸い粒がたくさん入っている。弾力があって、けれど昔に食べた『もち』とは別モノなのだそうだ。最後の一滴まで平らげてから眉をひそめて「あまい」と言うと、兄はからからと笑った。
「俺さ、最近はスクーターって乗り物に乗って配達もしてるんだ。玄関のチャイムを押して人間とひと言ふた言会話して、花を渡して金を受け取って。店によく来る人間には親し気に笑って、その人間の飼ってる犬の話とか最近流行りの食べ物の話とかしてさ。……まるで本物の人間みたいに」
そう言って兄は言葉を切り、あの頃と同じ、どうしようもないから仕方なく笑ってるみたいな顔をした。
「こんなに人間みたいにして暮らしてる俺を見たら、風息はどう思うんだろうな」
あいにくその場に肉も酒もなかったので、天虎はからっぽの手を洛竹の肩に乗せた。ずっと一緒に生きてきた、コソコソ生きることを善しとしなかった、人間を追い出し妖精の楽園を取り戻そうと奔走した、非力な自分たちの代わりに前線に立って、戦って戦って戦って、そのままひとりで遠くへ行ってしまった風息。洛竹は人間みたいにというが、自分だって似たようなものだ。姿こそありのままだが、館の監視下の森で、敵だった同族に牙を剥くこともせずにのうのうと暮らしている。
「風息の望みと反対の方向に進んでる俺を見たら、風息は悲しむのかな」
天虎は洛竹の肩に手を乗せたまま、ゆるゆると首を横に振った。
「かなしまない」
あの日屋上で、風息は兄弟たちに言った。叶子と阿赫は龍から降ろした後もしばらく地面に臥していたし、小黒はしなやかに飛び降りるとくねくねと宙を泳ぐ画龍を珍し気に眺めていたから、聞いていたのは兄弟たちだけだった。
「時間がない」
幾つもの術を使い、無限とやりあった直後であるはずの風息は、しかし息も乱さず全く落ち着いた態度でそう告げた。
「恐らく館は小黒を取り返しに来るだろう。他にも何らかの攻撃を仕掛けてくるはずだ。最終的には俺と虚淮が無限を迎え討つことになると思う」
虚淮が隣で微かに頷いた。日が沈んだばかりの辺りは薄暗く、四角く切り立ったコンクリートだらけの屋上は気温以上に寒々としていた。
「館の奴らの能力は予想がつかない。全員揃っているならともかく、もしもばらけてしまったら洛竹と天虎は不利だ。応戦して無理と思ったら、お前たちはとにかく逃げろ。お前たちが館の連中を引きつけている間に俺たちがなんとかする。小黒の力を借りて領界ができればこっちのものだ。そうなるまで、お前たちは俺の気配と逆の方向にとにかく逃げろ」
わかった、と隣で洛竹が首肯する。同じように頷こうと息を詰めると、風息のほうが息をふっと吐いた。風息の少しつりあがった猫目と口元がほんの少し和らぐ。
「緊張するな、いつもやってた訓練と同じだ。領界ができたら落ち合う。いいな。逃げて、生きて、また会おう」
あの時の会話が兄弟みんなでの最後の会話になってしまったな、と天虎は反芻する。そりゃあ後悔はいろいろある。悲しみもある。いろいろあるけど、天虎は洛竹の目を覗き込むと、かなしまない、と言った。
「生きてる」
風息は生きろと言った。逃げて、生きて、また会おう。また会おうと言った本人がいなくなってしまったけれど。
「そうだな。生きてる」
顔を上げた洛竹が天虎の手の上に手を重ねる。熾火のような深い色の目にいつもの力が戻るのをみとめると、天虎は兄と同じ顔で笑った。
19.おかえり 洛竹、虚淮
はっ、と起き上がった洛竹の目に映ったのは、間もなく地平に消えんとする太陽だった。周囲のほとんどを覆う薄闇の中、かあかあと巣を目指す鳥たちのシルエットが遠くを横切る。見ていた夢の手触りがまだ生ぬるく残っていて、洛竹は急いで現実を呼び戻そうとした。ここはいつも遊んでいる山で、頃合いは昼過ぎで、自分は植物の種を操る練習をしていて、思うようにいかずに煮詰まったのでちょっと休憩のつもりで寝そべって、それからうとうとしていたのだった。見回すとさっきまで練習していた種と草が散らばっている。
あれは夢だ。ほんとうじゃない。
そう思おうとしたが、心臓がまだばくばくしている。風息がいない夢だった。ふと気がつくと風息がいなくて、走り回って探す夢。ねぐらも水辺もいつも遊ぶ山の斜面も、洛竹の思い当たる場所は全部探したが見つからない。夢の中の洛竹は途方に暮れて、それでもなんとか探さねばと走り続けていた。特大の心細さが胸に重くのしかかっていた。
「ふー……しー……」
声に出したら唇が震えた。
背を這い上がる恐怖にかられて、立ち上がって見渡す。誰もいない。
「ふーしー!!」
叫んだらジワリと涙が込み上げた。あれは夢だ。そうだ。ただの夢。自分が呼べば、いつだって風息は来てくれる。いないなんて、絶対にありえない。そう思うのに、涙が頬を伝うのを止められない。無性に悲しい気持ちになって、もう一度叫ぼうと息を吸う。
「洛竹」
背後から呼びかけたその声は、期待したものではなかった。しかし、洛竹は救われた思いで振り向いた。
「虚淮! 風息は!? 風息はどこ!?」
虚淮の着物にすがりついて焦る洛竹の様子を見て、虚淮は驚いたようだった。
「どうした。風息は天虎を連れて祭に行くと、お前にも声をかけていっただろう?」
「まつり……?」
目を見開いて思い返すと、そういえばそんなことを言っていた気がする……と思い至った。丁度練習が佳境にはいった時だった。一緒に行かないかと誘われた気が、しないでも、ない。もうちょっとというタイミングだったので、そういえば上の空で返事をしたような……。
「祭か……そっか……天虎と……そっか」
自分が忘れていたことに気付いて、洛竹はそろそろと虚淮から手を離した。天虎は小さな毛玉のようなふわふわの洛竹の弟分で、ここへ来て初めての祭の季節だからと、風息が前々から行く計画を立てていたのだ。きまり悪くて半笑いみたいな顔になる。祭か。そっか、と繰り返していると、虚淮が見下ろしながらずばりと言った。
「嫌な夢でも見たか」
洛竹の夢の一部始終を、虚淮は頷くでも遮るでもなく淡々と聞いていた。涼やかな態度の虚淮の横にいると、洛竹は自分も段々冷静になってくるのが常だった。高揚した気分や余計な雑念がそぎ落とされて、核心が浮き彫りになる。自分が何をしたかったのか、何を思ったのか、一番大事なところを見つめることができる。いつだったか虚淮にそう伝えたら、やはりいつもの「そうか」というシンプルな返事があったんだっけ。
だが今日の洛竹はいつもと違った。夢の話は核心に近づけば近づくほど洛竹から落ち着きを奪っていった。核心は、恐怖だった。
「ねぇ虚淮、風息、いなくなったりしないよね?」
「ただの祭だ。夜になったら帰ってくるだろ」
そうだ。祭に出かけても風息はちゃんと夜には帰ってくる。でも、じゃあ明日は? 明後日は? 夢の余韻が心臓をひやりと撫でる。いきなりいなくならないなんて、誰に言えるだろう。
うかない顔の洛竹を黙って見ていた虚淮が口を開いた。虚淮は、私は、と言った。
「私は風息じゃないから、いなくなるともならないとも言えない。ただ――」
虚淮の言葉は容赦ない。嘘がないのだが、今の洛竹にはだいぶ刺さった。いや、わかってる。わかってるけどさ。
「洛竹がそんなに心配なら、風息が帰って来たら『おかえり』と言ってみたらどうだ」
続けた虚淮の言葉に洛竹がその双眸を見上げた。
「『おかえり』?」
「私もよくは知らん。風息が人間の里から仕入れて来た言葉だ。人間は帰ってきた者にそう言うらしい」
「どういう意味なの?」
「ただの挨拶だ」
期待していただけに、洛竹は首をがっくりと垂れた。ただの挨拶。
「だが、言われたほうは、ああ居場所に帰ってきた、と思うらしい。お前を待っていた、お前の居場所はここなのだ、と伝える言葉なんだそうだ」
風息の感想も混ざってるんだろうがと虚淮は付け加えた。洛竹は虚淮の言葉を口の中で繰り返す。お前を待っていた。お前の居場所はここなのだ。それはとても、ふわっと胸が温かくなる言葉だ。おかえり。おかえり。洛竹の口にゆるゆると笑みが広がった。
「それ、いいね!」
「そうか」
「おれ、風息が帰って来たらおかえりって言う!」
「ああ」
陽はとうに沈み、満天の星が森に降る頃、洛竹は虚淮の膝に頭をもたせかけてうつらうつらしていた。洛竹は、風息が帰ってくるまで起きて待って、『おかえり』を言うんだと意気込んでいた。しかし昼間の疲れは睡魔となって、洛竹を眠りに誘うのだった。時折はっと頭を浮かせては、虚淮にまだだ、と額を撫でられ、またうとうとしての繰り返しだ。もう寝床に行くか? と何度か聞かれた気がするが、夢うつつのまま断った。絶対に風息に『おかえり』を言うのだと言い張って。
それからどれくらい時間がたったろう。気が付くと洛竹は温かい腕に抱えられていた。鼻をくんくんと動かすと、森の香りと里の香りが混ざった風息の匂いがする。風息だ。風息が帰ってきた。
「ふーしー? ……おかえり……」
半分夢の中のような状態でそう呟くと、ああ、ただいま、といつもの声が降ってきた。
よかった。もう安心だ。
そうして洛竹は長い一日を終え、深く心地よい眠りへと落ちていったのだった。
20.遠くへ 洛竹
遠くへ、遠くへ。
そう念じながら洛竹は逃げていた。意のままに伸びるしなやかな蔓と、樹々の間を駆け回って鍛えた自慢の両脚はしかし、コンクリートジャングルの中では半分も自在にならなかった。足場が少なすぎるし取っ掛かりがなさすぎる。起点となるべき枝や幹の代わりに在る、冷たくそびえた均一な壁や橋や電柱は、表面が平らすぎて何度も滑った。足下にはやはり塗り固められた地面が伸びていて、着地の衝撃が直に体に伝わる。不用意に着地すると足の裏からびりびりと痛みが頭の先まで駆け巡る。暗くて硬くて冷たい地面だった。これが龍遊か。これがふるさとか。歯を食いしばり何度も思った。洛竹の知っている龍遊は、芳ばしい土の匂いがして、足の下には柔らかな草が生え、風が吹けば森がざわめき、精霊と種子たちが木漏れ日に踊る地だった。春には花の、夏には緑の、秋には風の、冬には雪の匂いのする地だった。こんなに固くて冷たくて変な煙の匂いのする場所が龍遊だなんて。びかびかと不自然に白い街も不気味だったが、五感に響く無機質さもなかなか酷い。
こちらが脚で駆けるのに対し、敵は宙を自在に飛んでいた。追手を撒こうと高く低く逃げれば、相手もこちらの高度に合わせて上下する。館の妖精の強さは聞いていたが、確かにまるで歯が立たない。逃げに徹する洛竹にぴたりと張り付いてくる。
天虎は逃げられただろうか。途中ではぐれてしまった天虎。叶子と阿赫も心配だ。逃げおおせられるといいが。虚淮は強いから大丈夫だろうけど、束でかかられたら? 逃げられるか? それから風息は。――風息。思い浮かべて胸の中にもやもやと苦いものがこみ上げる。洛竹は嫌な思いを振り払うように蔦を伸ばすと、勢いよく飛び上がった。橋の下側の足場は空からは見えない。その隙に地面をひた走り、追手を確認するとまた別の方向に飛び上がる。
遠くへ。遠くへ。
風息の位置を見失わないように、さりとて近づかないように。できるだけ敵を遠くへ撒いて、領界が安定したらそこへ飛び込めるように。
領界。風息の創る妖精の楽園。小黑。風息を一途に慕っていた。止められなかった。妖精の楽園は妖精の犠牲の上に成立する。俺はそこで笑って暮らせる? 小黑を自分の手で犠牲にして、それで風息は幸せになれるの?
無視したはずのもやもやがまたこみ上げて、洛竹の踏み切りは一瞬遅れた。あ、と思った時には遅かった。飛行してきた館の妖精が洛竹の足を狙って蹴り上げ、洛竹の身体は空中で一回転した。そのまま蔦を伸ばしてジャンプしようとしたが、次の瞬間洛竹の頬は地面に押し付けられていた。洛竹の逃走は終わった。
連れていかれた屋上には、叶子と阿赫と天虎がすでに縛られて座っていた。数人の執行人が取り囲み、その周囲には結界が張られ、もうどうにもできない状態でそこに居た。天虎が洛竹を見上げ、悲しい顔を一層悲しくゆがめた。
まだ深い夜の底で、ただ明らかに周囲の闇とは違う漆黒のドームが街のど真ん中にそびえている。あれが領界か。風息はどうしているだろう。それから虚淮は。
東の空が地平線からじりじりと白みはじめ世界が薄青く染まる頃、虚淮がやってきた。体幹を縛られた虚淮を見、洛竹は計画の失敗を悟った。
それからしばらくして、黒い半球は突然ぷつりと消えた。ああ、はやり。周りの仲間も溜息をついて肩を落とした。
恐らくこれから風息もここに連れてこられるのだろう。館への反乱軍として捉えられ、牢屋にでもぶちこまれるに違いない。風息はリーダーだった。館の掟では敗戦の将はどうなるのだろう。なんにせよ、自分は仲間で諸共だ。館が風息を罰するなら、自分もともに罰されるまで。意気込むみたいな気持ちでそう思った瞬間。
「え」
目が点になった。
領界のあった場所からするすると育っていくあれは、風息の生やす樹だ。もう何百回、何万回と見た。登れない斜面に根を伸ばして渡らせてくれた。樹の上から滑落すればその背を枝で支えてくれた。館のやつの攻撃から守るためにその幹で壁を作ってくれた。懐かしい、温かい、いつもそばにあった风息の樹。そしてその巨大な樹からほとばしるのは、風息そのもののような強くて優しい大きな気だった。
「そんな……」
洛竹はよろよろと立ち上がった。声が震える。こんなにたくさんの気を放ったら、風息自身が消滅してしまう。土も草もないコンクリートまみれの地面から、見たこともない速度で繁る巨大な樹木の、輪郭がみるみる滲んだ。
「嘘だ……風息」
風息が消滅する? まさか。風息。違うだろ。そこじゃないよ。
だって、俺が言いたかったんだから。
喧嘩しても、腹を立ててても、どんな時だって、俺は、いつも、
「俺が、おかえりって、言いたかったのに」
ここはお前の居場所なのだと。お前の帰る場所はここだと。
「……馬鹿風息、風息の大馬鹿野郎! なんで、そんな、嫌だよ、嫌だ」
おかえりって言うのが俺の役割だったのに。
おかえりって、言うはずだったのに。
言いたかったのに。
歪む視界の隅で、隣に座っていた天虎が肩を震わせている。
洛竹のこぼした涙がぼたぼたと落ち、コンクリートにしみこんでは消えていった。
21.媽媽の名は/モブ妖精、虚淮
「あのねぼすけに務まるのか……?」
洛竹が花屋で働いていると聞いた虚淮は、いつも半分しか開いていないように見える目を見開き、細い指を顎に当てて開口一番そう言った。
花屋の仕事は朝が早い。早朝の市場で競りをし、店の花の世話をし、開店前までに花を売れる状態に手入れしておかねばならない。こんな古風ないで立ちの妖精がなぜ街の花屋の事情を知っているのかは謎だったが、確かに朝は早いはずだ。そんな事実はともかくとして、虚淮の発言に、周囲にいた誰もがある言葉を連想し、それから飲み込んだ。
そう、皆が飲み込んだその言葉をうっかり口に乗せてしまったのは自分だけだったのだ。――あなたは媽媽か。――と。
失言に気付いて慌てる自分に、虚淮がまっすぐに驚きの表情を向けた。絶対零度の視線が突き刺さって痛い。
「心外だ。以前も同じ視線を向けられたことがある。自慢ではないが、私はこう言ったところで洛竹に対して特別何をするわけでもない。媽媽だというなら、断然风息のほうが妥当だろう。そもそも洛竹は风息が育てたようなものだし、あれが同じことを聞いたらきっと洛竹の起きるべき時間よりも早く起きて洛竹の部屋の前でやきもきし、起きてこない洛竹を本人よりも焦って叩き起こして仕事に行かせるだろう。私なんかより风息のほうがよっぽど媽媽だ」
理路整然とそう言い放つ虚淮に、今度こそ場を沈黙が支配した。
知ってはいたが、洛竹のことのみならず风息のことまで事細かに観察し予測している虚淮は、やはり理解の深さが違う。自分をはじめ、おそらくその場にいた全員が胸の中で突っ込んだ。
――そういうとこだよ。
22.てつだう/天虎
うちの兄たちは『めんどうみ』が良い。
なんでそんな言葉を知っているかって? この前風息と人里に遊びに行ったときに――もちろん草の影から覗いていただけなんだけど――人間がそう言っていたんだ。小さな子供たちを連れ歩いている少し大きな子供に、大きな人間が。あら、めんどうみがいいのねぇ。風息に聞いたら、目下の者の世話をよく焼くという意味だと言う。
それでいくと、うちの兄たちは本当にめんどうみが良い。自分に対してなにくれとなく世話を焼くからだ。どこへ行くにも連れて行ってくれるし、こわいことがあれば助けてくれる。食べ物もいちばん食べごろのものを分けてくれるし、何かできるようになれば手を叩いて――つい先日は、風息のように本物の獣のような姿に変化できたことを、割れんばかりの拍手で――喜んでくれた。天虎は兄たちが大好きだった。うちの兄たちはさいこうだ。せかいいちだ。天虎はいつもとても満足だったが、実は最近物足りなさも感じていた。兄たちに不満はない。ただ、なんというのだろう。兄にしてもらっていることを、自分も誰かにしてみたい。『めんどうみ』が良く、なってみたい。そんな思いがむくむくと胸の中で育っていた。
その日、天虎は朝早く目が覚めた。隣で寝ている洛竹はいびきをかいて大の字で寝ており、まだまだ起きる気配はなさそうだ。
よし、と天虎は思い切って、一人で出かけることにした。寝床から遠く離れなければ大丈夫だろう。いつも洛竹と遊んでいる範囲だ。
朝の空気はつめたく心地よく、ひとりきりの冒険に胸は弾み、頬は熱くなっていた。いつも洛竹が手を引いてくれる斜面も、今日はひとりでよじ登る。足が滑った時はひやっとしたが、なんてことはない。朝露に足を濡らし柔らかい草を踏みながら、腕を振ってずんずん進む。しばらく草だらけの山を登ると、いつもかくれんぼする森に到着した。まばらな木立ちが隠れるのにちょうど良いのだ。よし、よく歩いたし休憩しよう、と手ごろな樹の根元に腰を下ろすと、向こうにカサカサと草の鳴る音がした。なんだろう、と耳を澄ます。風ではない。生き物の気配だ。天虎は息を呑んでそっと背伸びをしてみた。と、そこに居るのは小さな獣だった。短い耳をしゅんと下げ、尻尾も力なく垂れている。その獣は何かの周りをぐるぐる回っており、時折首を傾げ、何かを咥えては離したりしている。
胸をドキドキさせながら、天虎はそろりそろりと近づいてみた。覗き込んでみると、獣がうろうろしている中心にいるのは大きな鳥だった。半分上を向いた片羽が見える。羽以外は力なく地面に伸びており、いつまでたっても動かないところを見ると死んでいるらしい。獣は鳥を食べようとしているようだが、食べ始める様子がない。天虎はさらに少し近づいてみた。物音にはっと顔を上げた獣と目が合う。天虎はびくりと肩を震わせたが、獣は天虎を妖精と理解したのか、困り顔でひと声鳴いた。
「とり、たべない?」
おそるおそる声をかける。見たところ、獣は肉食獣だった。肉食獣は肉を食べる。通常は生きている動物を狩るのだろうが、死んだ動物の肉でもそう変わりはないのだろう。目の前の獣が獲物を前にして食べないのが不思議だった。
「食べたいのはやまやまなんだけどね、あたしはほら、年寄りだから歯がもうだめでさ」
獣はそう言った。覇気のない口元を見遣ると、確かに鋭い牙はすり減って、他の歯もいくつかぐらついているようだ。灰色の毛並みも艶がなくぼさぼさしていて、年寄りなのだとわかる。今までは誰かの食べ残しとかさ、骨ばっかりであんまり残ってない肉をしゃぶるように食べてたんだけどね。ああ、こんなにおいしそうな獲物があるのに、この歯じゃあね。
天虎は眉を下げた。この獣はこのままだと食事にありつけないのだ。困り顔の獣と同じ顔でしばし見つめ合ったあと、天虎はいいことを思いついた。
「てつだう」
そう言うと、天虎はしゅるりと獣の姿に変化する。风息に教わった、本来の獣の姿。大きさは大人には程遠いが、立派な牙のある子虎だ。
天虎は鳥に近づくとその牙で腹を裂いた。まだ生温かい血が流れ出る。前脚で首を抑え、腹の皮を咥えて引っ張ると肉と臓物が露になった。
獣は天虎に礼を言うと、鳥の肉にむしゃぶりついた。おいしいなぁ、ありがとう。天虎はいつもの姿に変化すると、照れくさくなって鼻をこすった。
それからというもの、天虎は死の迫った動物を見つけるとしばらく観察することにした。たいていはあの獣のように、肉食獣がそれを食べに来る。天虎はそれを見届けると、そっとその場を立ち去った。動物の死骸はやがて土になり、草や虫や木に命を与える。存分に生きた草や虫や木はやがて動物に食べられ、その動物も別の動物に食べられる。動物はみなやがて死に、そして土になる。生き物の命はそうやってぐるぐる回っているんだよ、と風息が教えてくれた。
寄ってきたのが親とはぐれた子供の獣だったり、年寄りだったりしたときは、彼らが食べるのを手伝ってやった。年寄りは歯が悪いし、子供は噛み砕いてやらないと食べられない。そうして食べ終えた骨や皮は、後で土の上に戻してやった。食べられた獣が、また土になって草になってぐるぐる回っていけるように。
獲物があっても、誰も来ない時もある。次の日に見に行っても誰も食べていない時は、天虎が自ら牙を使った。皮を切り開き骨から肉を引きはがす。いつか風息と見た人間を真似て、落ちている棒きれに刺した肉を火であぶると食べやすいことがわかった。
誰も来なければ自分で食べるが、においに惹きつけられて寄ってきた獣がいれば天虎は惜しむことなく分けてやった。妖精である天虎は食べなくても生きていけるが、原型が虎であったし食べることは好きだった。だがそれ以上に、おいしそうに食べている獣たちを見るのが好きだった。
兄たちのように『めんどうみ』良くやれているだろうか。今度は兄たちにも食べさせてやろう。肉を焼きながらそんなことを考えて、まだ何も食べていないのに頬がゆるむ天虎なのだった。
23.おとむらい/天虎、モブ人間、洛竹
いのちは巡る。太陽と水と土が植物を育み、その植物を動物が食べる。植物を食べた動物をまた別の動物が食べ、その動物もまたなにがしかの理由で最後には土に倒れる。倒れた動物をまた別の動物が食べ、小さな生き物がそれを分解し、やがて土になった亡骸はその懐で別の植物を育てる。その全てが自然の仕組みであり、等しく尊い。命はそうして同じ環を幾千年も巡り続ける。
どん、という鈍い音が天虎の耳に飛び込んだ。それはごくごく微かな音であったが、ここに住んでいると時折耳にする音なので、すぐに気づくようになってしまった。森の中はいつも騒々しく、それでいて静謐なため、外部の音はよくわかる。
ここは館の管理する森、妖精が暮らす地だった。人間の里と隣接していながら、人間の目から隠されている。人間がやってこないように結界を張ってあるのだといつか聞いた。天虎は音の場所を確認するために、首をぐるりと回しながら鼻をくんくんとうごめかした。たいていの場合、音のあとに僅かに漂ってくるのは血の匂いだ。音は瞬時に消えてしまうから、場所の特定には匂いのほうが正確だった。陽が落ちたばかりであたりは薄暗い。まもなく何も見えなくなるだろう。天虎は昇っていた木から飛び降りると、匂いを頼りにその場所へ向かった。
ああもう、ついてない。
俺は荷台の軽くなった軽トラのハンドルを握り、溜息とともに呟いた。完全に陽の落ちた闇の中、ふたつの目玉のような車のライトが白く照らす山道をぐねぐねと走る。ガードレールはあるにはあるが、時折天を仰ぐようにひん曲がっている箇所があり、指先がぞわっとする。油断したらきっとこの急斜面を真っ逆さまだ。道路を睨みながらカーブでちらりと横を見ると、眼下に壊れかけの民家が見える。グロテスクに這う緑の蔦に覆われていて、まるでお化け屋敷だ。
そもそも、とさっきまでのあれこれを振り返る。そもそもこんな時間に配達というのが無謀なのだ。午後も遅くにかかってきた電話を、ことわりゃいいのに受けた親方には、若干の殺意を覚えた。結果、俺が駆り出される羽目になって、先方の時間に合わせるために焦って運転することになったのだ。――そりゃあ途中に警告はあった。黄色の四角に狸だの狐だの猪だのが描かれた、動物注意の立て看板。だがこんなところで本当に動物に遭遇するなど誰が考えるだろう。そんな山道で、しかし自分は何かを轢いた。ような気がする。気がするというのは確認していないからで、それは平たく言うと轢き逃げだった。でもそれが動物だって誰が言える? 前の車が落として行った毛布を踏んだだけかもしれないし。そんなバカみたいな言い訳を考えながら、しかし冷静なほうの自分が頭の中で冷たく言う。そんなところに毛布を落とす奴があるか。
災難はそれだけではない。たぶんその時動転したせいで、林檎箱をひとつ落下させたのに気づかなかった。おかげで注文と数が違うと客に散々なじられ、謝り倒してやっと帰ってきたのだ。そして今度は、箱ごとなくしたことを親方に叱られるのだろう。あーあ、もう。ついてない。せめて箱だけでも見つかれば。そう思いながら速度を一段落として、周りに注意を払いながら走る。いつしか横に見えるのは急な斜面ではなく黒々とした深い森になっていた。たしかこの辺りで落としたのだ。轢いた動物――毛布かもしれないが――を見るのは嫌だったが、商売道具を失くして叱られるのも不本意だ。のろのろと走っていると、道の端に林檎がひとつ転がっているのが目に入った。こんな場所に、こんな赤々とした林檎が落ちているはずがない。間違いなく自分が落としたものだ。こんな場所誰も通らないと思いつつ、これ以上トラブルはごめんなので車を端に寄せて停止させる。スマホのライトを頼りに周囲を見まわすが、動物の死体は転がっていなかった。よくよく見ると道路の中央に黒いしみのようなものがある。血痕、という言葉が過ぎって一瞬息が止まる思いがしたが、徐々に心拍が落ち着いてきた。なんだ、やっぱり何もいないじゃないか。
こんなひと気のない山道に、たかだか数時間で動物の死体処理をする人間が来るとは思えない。轢いたと思ったけど、やっぱりあれは気のせいだ。動物の死体に遭遇しなかったことに思った以上にほっとして、気を取り直して林檎箱を探す。ひとつめの林檎は道の端に転がっていた。見回すとふたつめは、道を外れた森の中に転がっている。周辺に箱はなかったが、この林檎を辿れば箱も見つかるかもしれないという淡い期待が生まれた。しかし、夜である。街燈もないここは、星明かりとスマホのライトだけが頼りだった。それにこの森はなにか入ってはいけない嫌な感じがする。しかし、踏んだり蹴ったりの俺はもうやけくそになっていた。少しだけ森に入ってみよう。見つからなければ潔く引き返せばいい。そう決心し、唾をごくりと飲み込むと、スマホを片手に昏い森へ足を踏み入れた。
それは狸だった。
アスファルトに横たわる獣にそっと触れる。身体の下には黒々と血が流れ出ており、見開いた目はぴくりとも動かない。天虎は狸の目を閉じてやると、屈んでいた足を伸ばして立ち上がり、周囲を見渡した。冬の初めで彩度の低い山道の中、点々と落ちている紅い実はぴかぴかととても目立っていた。それが入っていたのだろう、木でできた箱も横になって置き去りにされていた。天虎は落ちている紅い実――それは大きな林檎だった――を箱に詰め、一番上に狸も乗せると、箱を抱えて森の中に戻っていった。
アスファルトでは還れない。
巡り巡る命の環に戻してやるのは、もうずっと昔からの天虎の習慣だった。
もうすぐ夜だ。天虎はこういう時いつもするように火を起こし、ぱちぱちとはぜる火の粉の舞う中黙々と狸を解体した。毛皮を裂き、内臓を出し、肉を切り開く。途中やってくる獣がいれば分けてやり、残った分は枝に刺して火で炙った。今日はすぐ上の兄が遊びに来ていたので、兄と一緒に火の回りにぐるりと並べ、ついでに林檎も、葉で包んで火に入れた。
「こういうの、多いのか?」
屈んだ姿勢で順々に肉をひっくり返してくれていた兄が言った。
「多い」
最近は、山で食料が確保できずに里に降りていく動物が多いらしい。害獣として銃で撃たれたり、こうして車に轢かれたりする。解体し傍らに積み上げた皮や骨は、このあと土に埋めてやる。せっかくなので林檎も一緒に入れてやろう。
いつの間にやらあたりはすっかり夜になっていて、見上げると煙の隙間から星明りがぽつりぽつりと見え隠れする。運搬に使った後にほっぽらかされた木箱の文字が炎に照らされゆらゆら揺れる。
その時。天虎の背後でがさがさ、と音がした。ふたりして振り向くと、そこに居たのは人間だった。四つん這いになり木箱に手を伸ばしている。しかし、立ち上がった天虎の影に気付いた人間は、首を反らして天虎を見上げると、裏返った声で悲鳴を上げ、そのままがっくりと倒れてしまった。
「人間が来るなんて」
「めずらしい」
失礼な話だよな、俺たちを見てぶっ倒れるなんて。
洛竹がいいながら人間を検分している。完全に意識を失っているようだった。仕方がないので、天虎は人間を、洛竹は箱を担いで、森の出口まで運んでやった。軽トラが放置されていたので、その荷台に人間と箱を並べて置く。もう来るなよ、と洛竹が呟き、天虎が隣で頷いた。ここは館の管轄の森だ。人間に見られたとなっては、どのみち誰かが記憶を消しに来るだろう。
「肉、焦げちゃったかな~」
「大丈夫。弱火にした」
「さっすが天虎!」
からからと笑う朗らかな声と、どっしり落ち着いた低い声が森の奥へ消えていく。
夜の帳には、氷を砕いたような星がちらちらと輝いていた。
24.きょうだいへ/龍遊組誰でも
※ぜひ一番先頭の文字を下から上へ読んでみてください。
よく晴れた春の野
だっこで行ったいつもの道
きいろい鳥の飛びかう
すんだ川の流れる
大きな山並みが遠く近く
もりの茂みには優しい陽の射す
でもそれは想い出の中にだけ
まだまだ日々は
つづいていく
いいにおいのする風の中に
もうそのおもかげはないけれど
つい振り向いて探してしまう
いつもおんなじただ青い空
25.ある妖精/モブ妖精(+紫羅蘭)
ごめんください。入ってもよろしいですか? いやいや、通りかかっただけなんですが、いやぁ、ここはいい庭ですね。広々として、草花がみんなのびのびしている。あなたがお世話を? そうですかそうですか。こんな街のなかで妖精に出会えるとは。
ああ、申し遅れました、私はこの街のはずれに住んでいる妖精でして。ええ、普段は人間のように暮らしております。いやぁそれにしてもいいお庭ですね。ここにかけても? お邪魔でないですかな? そうですか、ではお言葉に甘えて。おや、そこに居るのは精霊ですね。いやいや素晴らしい。春爛漫とはこのことですねぇ。……龍遊の春、懐かしいことだ。――ああすみません。ひとりで感慨に浸ってしまって。
ときにお嬢さん、『龍遊の風息』ってご存知ですか? ああ、そうそう、あの樹のところが公園になる予定なんですよね。その名前が……そうです、その噂は聞きました。ですが私が言っているのは『風息』ではなく、『龍遊の風息』――はは、通り名みたいですね。仕方ないんです。私にとって『龍遊の』と『風息』は切り離せないものなんです。サンドイッチのパンと具を分けて食べたりはしないでしょう? それと同じです。『龍遊の』と『風息』はセットなんですよ。でも、そうですね、お若いお嬢さんはご存知ないですよね。いや、私もそんなに年寄りというわけではないんですよ。妖精としてはね。百年は生きているが二百年には届かない、そんなところです。人間の世界ではこの見た目が暮らしやすいというだけで。小柄で初老の男、というのは風景に溶け込めますからね。ひとりでいても怪しまれないし、何か聞かれたら「妻を亡くしまして」とでも言えば、人間はそれ以上聞いてきません。便利なものです。
ああ、話が逸れてしまいました。私が龍遊の風息と出会ったのはずっと昔、人間でいう少年くらいの背丈の頃でした。私は龍遊の森の端のほうに住んでいましたから、龍遊の風息のことは噂でしか知りませんでした。その時なぜ私の住むあたりに龍遊の風息が来たのか、理由はわかりません。平和な時分でしたから、きっと神の気まぐれだったのでしょう。――ああ、『神』というのは人間がつけた呼び名ですね。正確には……というか、私が妖精たちから聞いていたのは『守護者』という呼び名でした。龍遊の風息はこの森の守護者である、と。龍遊の風息は、軽やかな着物を纏い、陽に透ける綺麗な紫紺の髪を揺らして、風のように私の前に降り立ちました。そして、守護者という荘厳なイメージとはかけ離れた屈託のない笑顔でこう言ったんです。
「樹の妖精か。俺も木属性だ。ともにこの森を盛り立てていこうな」
それは、初めて出会う若い妖精皆に言っている台詞だったかもしれません。でも私は、私だけに向けられた、心からの承認に感じられました。龍遊の風息と同じ木属性、ということは、私の心のなかで密かな自慢でした。それから龍遊の風息と顔を合わせることはありませんでしたが、その時の記憶は永遠に欠けない宝石のように私の胸の中にあります。
それから随分時が経って、私たちは住処を追われました。人間が土地開発を進めていったんです。どんどん壊されていく森の中で私たちは祈りました。守護者である龍遊の風息の加護を信じて。ある時、人間の開発が一時停止したことがありました。列車や建物がなにものかの大きな力によって破壊されたのです。私は思いました。龍遊の風息だ。彼はやはり守護者だった。人間は山の神が怒ったのだと噂をし、私たちの住処は護られたと思いました。でもそれは一夜限りの夢でした。人間の開発は止まらず、妖精を救いに来たと言う妖精館の手で、我々妖精たちは一旦故郷を後にすることになりました。……仕方ないんです。私たちは弱い。小さな木属性の妖精がいくら寄り集まっても、土を削られてはひとたまりもないのです。妖精館の妖精は、この土地の妖精は皆移住をしたと言いました。だから私は、龍遊の風息も一緒に移住したと思っていました。でも移動した先の妖精館のどこにも、龍遊の風息はいませんでした。後から、龍遊の風息とその仲間は遁走したのだという噂を聞きました。私は悔しく、そして悲しかった。一緒にこの森を盛り立てていこうと笑ってくれた顔が脳裏に浮かんで、自分がその笑顔を裏切ったような気がしました。もう永久に顔を合わせることができない、という気持ちになった。もう取り返しがつかない、と。
それから何十年も、私は妖精館の庇護のもとで暮らしています。人間のような見た目で、人間の社会に紛れて。私はこのまま一生を終えるのだろうと思っていました。それが……。お嬢さんもご存知ですよね。あの樹がそびえた時の事。
――ああ、すみません、泣くつもりはなかったんですが。いえ、気にしないでください。それより、いやはや申し訳ない。すっかり身の上話をしてしまって。お忙しいところお邪魔ではないですか? そうですか、いや、ありがとう優しいお嬢さん。ではもう少しだけ、年寄りの繰り言に付き合ってくれますか。
あの日のあの夜のこと。妖精館の妖精が夜陰に紛れて上空を飛び交っていた時、私は強い光に惹かれて家の外に出ていました。私の住処は街のはずれですから、中心部の騒ぎからはだいぶ離れています。それでも、周りの人間たちも外にでてあれこれ囁き合うくらいには大騒ぎでした。人間たちは、街の中心に黒いドームができている、と言っていました。が、私にはそれは涙がでるほど懐かしい光に見えました。遠くに見えるドームの中にある、かつての龍遊の山並み。そこへ射す白い光。澄んだ川。繁れる緑。その隙間を縫う暖かい風。そこへ遊ぶたくさんの精霊。そして思いました。龍遊の風息が帰ってきたのだと。守護者風息が、私たちの故郷を再び守り育もうとしていると。私は叫んで駆けだしたいほどの衝動を、拳を握って堪えました。どうにかしてあそこに行きたい。今度こそ、龍遊の風息とともに故郷を守りたい。そう思いながらも、金縛りにあったように身体は動きませんでした。私は弱い妖精です。ただ長く生きているだけで、なんの力もない。行ったところでなんの加勢にもならないだろうということはわかりきっていました。動けないまま夜は徐々に明けていき、街は舐めるような太陽によって輪郭を現わしていきました。そして、ああ、なんということ。そのドームは、つつかれたしゃぼん玉のようにあっけなく消えてしまったのです。私は混乱しました。何が起こったのかわかりませんでした。そして、次の瞬間、龍遊の風息の気が――かつて私たちを守護していたものが、夜明けの空じゅうに広がっていったのです。迸り拡散し薄まって消えていく気を感じて、私は茫然としていました。ああ、私はまたしても、何もできなかった。龍遊の風息が折角戻ってきたというのに。
とめどなく流れる涙に視界が歪み、気が付いた時には、ドームのあった場所には大きな樹が茂っていました。かつての故郷にあった老齢の大木にそっくりな木でした。
……すみません、また泣いてしまって。こんなに心の内を誰かに聞いてもらったのは初めてです。お嬢さん、聞き上手なんですね。いやすみません、お恥ずかしい。こんなうららかな春のお庭でこんな話を聞かせてしまって。あの、また寄らせてもらってもよろしいですか? こんな黒ずくめの妖精が来たらご迷惑かもしれませんが……いや、これはまだしばらくこのままのつもりなんです。いつまでですかね。私の気持ちに区切りがつくまででしょうね。喪に服すために黒をまとうなんて、まったく、私も人間の習慣に染まってしまいましたね。でもしかたないんです。それくらいしか思いつかないので。……そうですね、どうしてでしょうね。忘れたくないんでしょうね、私が。覚えていると思っていたい。のだと思います。
申し訳ない、本当に長居をしてしまいました。しかし本当にここは良いお庭ですね。とても懐かしくて癒される。どうもありがとうございました。では、私はこれで。
26. 取り引き/虚淮、モブ
悪魔に魂を売ったなんていうのは非力な人間の言い草だと思っていた。だからまさか自分がそんなことをすることになろうとは露ほども思わなかったが、今の状態を表すのにこれ以上適当な表現はない気がする。私は悪魔に魂を売った。
かの島に流刑になり長い時を過ごしたのち、私は謹慎を解かれた。ある条件をのむことと引き換えに自由の身になったのだ。ある条件とは、『龍遊には立ち入らないこと』。
私はたいそう不服だった。自由の身になったら行きたい場所は龍遊だったからだ。そこに住まおうなんて思っちゃいないし、ましてや問題を起こしてやろうなどと微塵も思っていない。ただ一度、一度でいいから、龍遊にあるという大木のもとに立ってみたかったのだ。かつてを思い起こさせる巨きな葉の緑を屋根に、隆起した根を踏みしめ、幹に手をついて、風が葉を揺らす音を聞き、地面に踊る木漏れ日を眺めたかった。それがあいつの姿だとか、そこにはまだあいつがいるとか、そんな人間みたいな感慨があるわけではない。ただそこに身を置き、その樹を実感したかった。
何かに固執するという経験に乏しい自分がなぜそんなにと自らを訝しみながらも、私はその望みに執着していた。それは燃え盛る炎のようではなかったが、熾火のように熱くいつまでも消えない熱でもって胸の奥に留まっていた。
そいつとは、龍遊周辺の街をうろうろしていた時に出会った。どこかにきっかけが落ちていないか、龍遊に潜り込める隙はないか、そればかり考えていた時だった。気配を消すことができるとはいえ、妖精館の多岐にわたる能力者に勘付かれないようにするのは至難の業だ。妖精であれば、他の妖精の気配は、よほどの仙でない限り察することができる。自分は厳重注意としてマークされているのだろうから尚更だった。
「よう、取り引きしないか」
横を見遣ると、声の主は小汚い中年の男だった。ひと気のない路地に座り込んだ男が、ツノを隠して人間に擬態し通りすがった自分に、黄ばんだ歯を見せながらにたりと笑った。煤と垢で汚れ黒ずんだ顔をこちらに向けたそいつの気配は、人間でも妖精でもなかった。異質さが薄気味悪さに拍車をかける。
「断る」
そう言って足早に通り過ぎようとすると、絡みつくようなねっとりした声で男が言った。あんた、龍遊に入りたいんだろぉ?
得体のしれない他者にずばり本心を言い当てられ足を止める。相手は、巣に入ってきた獲物を眺める蜘蛛のように、にたにたと笑いながら虚淮を上から下まで眺めると、膝に手をつきおもむろに立ち上がった。
虚淮はほどなく龍遊の街に足を踏み入れた。以前入ろうとして拒絶されたことのある結界は、その気配すら感じ取れず、龍遊の街は何の抵抗もなく虚淮を迎え入れた。
虚淮は立ち止まり、手を握ったり開いたり、足を曲げたり伸ばしたりしてみた。氷の身体とは違う、生ぬるくてどんよりと重い四肢を感じた。軽く飛び跳ねてみると、いつもならそのままふわりと上空まで浮上できるのに、ほんのわずかに地を離れた両脚はすぐに重力に引っ張られて地面に落ちた。胸に手を当ててみると、どくどくと拍動が手のひらに伝わる。これがなくなったら死ぬのか、と虚淮は実感のわかない頭で考えた。おそらくこの皮膚――それはもとの青白い色ではなく薄橙に白を混ぜたような色をしていた――が裂ければ、人間でいうところの『血』が流れるのだろう。痛みというのは想像できないが、それもおそらく同時に発生するのだろう。
取り引きを提案してきた男は、妖精の身体と能力と引き換えに人間のそれをくれてやると言った。人間になれば龍遊に自由に入れるだろう、と。虚淮は数秒考えたのち、その提案に乗ることにした。わかった、といういつものシンプルな返事ひとつで。
それはとてもあっけなく、そいつが何者なのかは最後までわからなかった。強奪と似た能力者なのだろうと思ったが、能力だけでなく妖精であることも奪い、代わりに人間のかたちを与えるというのは強奪単体とはまた違う気がする。気配からみて妖精でもないようだったし、おそらくあれは悪魔というものなのだろう。
虚淮はそこまで考えて、そこから深く考えることをやめた。別にあれがなんであっても、自分には関係のないことだ。虚淮は龍遊に入るために、妖精であることをいともあっさりと手放した。
人間。弱く、脆く、集団でなければ何も成せないもの。怪我をしあるいは病気をし、あるいはどちらもしなくても寿命という枷に囚われ、数十年で命を終えるもの。しかしその頭脳と集団の力で自然を破壊し妖精の住処を奪うもの。
だが虚淮にはそんなこと関係がなかった。ただあの樹のところに行きたかっただけなのだから。その先のことなど知ったことではない。
人間といったって生き物なのだから、寿命を終えればただの肉塊になり土になり樹の養分となれるのかもしれない。それもいい、と思う。
道路沿いに立っている地図を眺め、目的地を定める。
はやる気持ちを抑えながら、虚淮は念願の地に向かった。
27.ふるさとの風/天虎
自分には兄が三人いる。
いちばん世話を焼いてくれたのはすぐ上の兄だし、いちばん何でも知っているのは一番上の兄だが、自分にいちばん近しかったのは真ん中の兄だ。
真ん中の兄は、一番上の兄ほどではなかったがほとんどのことは知っていて、とりわけ生き物については誰よりも詳しかった。すぐ上の兄ほどではなかったがよく手を引いてくれた。遊びに出かけて眠たくなったらすぐに抱っこしてくれるのも真ん中の兄だった。すぐ上の兄と過ごすのは楽しかったが、真ん中の兄と過ごすのは安心だった。低くて優しいひだまりのような声も、豊かな森のように深いまなざしも。兄の両腕にすっぽり収まった時の安定感は抜群で、そのがっしりとした温かさは、ほんの数秒で自分を夢の中にいざなった。こう言ってはなんだが、すぐ上の兄は安定という言葉とは縁遠い性質だったから。
兄は、獣の姿でかけっこをしたり、獲物の捕らえ方やそれを知った上で動物たちと仲良くする方法を教えてくれたりした。獣の姿で山を駆ける兄は風のように速く、その姿はしなやかで力強く、見とれてしまうほどに格好良かった。あんなふうになれたらと憧れないほうが無理な話だ。しかし天虎は、自分のまるっこい身体を見下ろして兄との違いにがっかりすることはなかった。兄はことあるごとに自分を撫でまわしながら「天虎はまるくてふわふわでかわいいな」「天虎は最高だ」と言ってくれたから。だから天虎は、自分のことを『丸くてふわふわでかわいくて最高だ』と思っていた。自分の身体が大きくなってからもそれは変わらなかった。兄は天虎を抱きかかえることができない代わりに額や顎や頬を撫でて、やっぱり自分を褒めてくれた。
それから兄は「天虎といると安心する」「天虎は友達をつくる天才だな」とも言った。そんなのは兄のほうこそだった。どんな生き物へも生き物としての礼儀を忘れず、しかし相手の懐にすっと入ることに長けた兄だった。一緒にいると安心するのはもちろんのこと、友達をつくる才能にも恵まれた兄、とひそかに兄について思っていた天虎は、その兄本人から同じ言葉を返されることで、ますます兄と自分を好きになるのだった。
乾いた風が顔を撫でる。ここの風は、かつての龍遊のような涼やかで豊かな森の匂いも、かつての島のような湿度の高い濃厚な森の匂いもしない。風はただの風となって都会のビル群の隙間を縫い、それからこの森に辿り着く。風の奥底に兄の気配が混ざってはいないか、天虎はつい鼻から息を吸い込んでしまう。
かつての天虎は、兄の言葉をそのまま信じ、兄の考えをそのまま受け入れ、兄の行動の一助となれることを喜びとした。その気持ちに嘘はなかった。だって最高の兄なのだ。ただ天虎は、それは兄の望んだ自分の姿だということも知っていた。それでよかった。兄にとってこの世界はままならないことだらけだった。それならせめて自分くらいは、兄の望む姿で、変わらないままで。
今も天虎はありのままの姿で、ありのままの暮らしをしている。不自然なことといえば、ここが館の管理する森だということくらいだ。そんなことは取るに足りないことだった。どうでもいいわけではないが、ともかく自分は自分らしく存在しているのだから。兄に傍にいてほしかった、とは思うが、それはわがままなのだろう。一番上の兄もすぐ上の兄も、皆欠けた穴を抱えながらそれでも生きているのだから。
『天虎はまるくてふわふわでかわいいな』
『天虎は最高だ』
兄の言葉を反芻して天虎は目を閉じた。
風が草を揺らし、撫ぜる兄の手のひらのように通り過ぎて行った。