令和三年十二月二十一日に発行した同人誌『その正体はきっと、』から全文掲載。
恋心を自覚できないオニイチャンが恋心に振り回される話。呼称等III参考設定等捏造過多。
この話(https://privatter.net/p/6841633)に大幅加筆修正をした話になっています。
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01.■文
「なぁ、烈風刀。告白されたってマジ?」
口に含んでいた食物を喉に押し込み、雷刀は今日一日抱えていた疑問をぶつける。箸を止め、目の前に座る弟をじぃと見つめた。
突然投げかけられた言葉に驚いたのか、米を口に運ぶ烈風刀の手が一瞬止まる。箸に乗せたものを口に放り込み、咀嚼し、嚥下したところで、少年は熱烈な視線に真っ向から対峙する。エメラルドグリーンの瞳は、じとりと眇められていた。
「…………何故、貴方が知っているのですか」
彼にしては珍しく、問いに問いで返してきた。この話題が出た――否、この話を兄に知られてしまったことが心底嫌だということがありありと分かる声音だった。
明確な答えは返ってこなかったが、その問いが実質の答えであり肯定である。自ら口にしたことが事実である驚きに、ほへぇ、と空気が漏れ出るような音が口から吐き出された。一拍置いて、ルビーレッドの瞳がキラキラと輝き出す。
「えっマジ? マジなの!? すげー!」
「あぁもう、食事中ですよ! 静かになさい!」
今にもテーブルから身を乗りださんとする兄を、弟は鋭い声と視線で押し込める。はぁい、と気の抜けた声が食卓に落ちた。
静寂の中、二人は黙々と食事を続ける。しかし、朱の目はテーブルに並ぶ料理ではなく、向かい側に座る碧へと幾度も向けられた。詳しい話が聞きたくてたまらない、というのが嫌でも分かる有様である。静かにしろと言われて大人しく口を噤んでも、こうも視線がうるさければ意味が無い。
「……告白されたのは事実です。もう何日も前の話になりますけれど」
チラチラと伺ってくる様子に嫌気が差したのだろう、静かに箸を置き、少年は溜め息とともに言葉を紡ぐ。どこか投げやりな響きをしていた。今すぐにでもこの話題を終わらせたい彼にとっては、そうなってしまうのも仕方の無いことだろう。
箸を持ったまま、兄はキラキラと輝く瞳で弟を見つめる。そこには羨望の光と、少しの嫉妬の影があった。
弟が告白されたと耳にしたのは、今日の昼休みのことだった。移動教室の準備をしている際、すぐ後ろにたむろしていたクラスの女子グループが話していたのが聞こえたのだ。三組の子が烈風刀に告白したらしい、と。
突然耳に飛びこんできた噂話は、今日一番の衝撃だった。確かに弟である烈風刀は頭が良くて、基本的には落ち着いていて、同年代よりも大人びていて、それでいてどこか抜けた可愛らしい面もあり、いつだって何事にも全力で、自己研鑽を決して怠らない男だ。兄弟である贔屓目を抜いても、女子から羨望や尊敬の念――そして、恋愛感情を抱かれてもおかしくはない魅力を持った人間だ。
それでも、女子から告白をされるだなんて、身内が知らぬ内にそんな青春の一大イベントを体験しているだなんて思ってもみなかった。『恋愛』という思春期真っ只中の少年にとって一段と興味がある事象に、身近な人間が遭遇したのだ。話が聞きたくて仕方が無い。
「どうだった!?」
「どうも何もありませんよ」
「ドキドキしたーとか、かわいかったーとか、そーゆーのねーの?」
「ありません」
追い縋るように問いを重ねるが、返ってくるのは否定のみである。あまりにも素っ気ないそぶりに、朱は不満げに頬を膨らます。碧は何食わぬ顔で食事を続けるだけだ。
「もちろん断りましたけど」
無慈悲な注釈をし、烈風刀は再び米を口に運ぶ。そこには、これ以上語る気など無い、という強い意志が見て取れた。
「えー、もったいねぇ」
「レイシス以外を選ぶはずなどないでしょう」
「そりゃそうか」
当たり前の事実に、雷刀は納得の声とともに首を縦に振る。自分たちが焦がれるほど恋をしているのはレイシスただ一人で、それ以外の女子など恋愛対象になどならない。そんなことなど分かっているが、やはり告白だなんてイベントに遭遇すれば、たとえ堅物な弟であろうと何らかの感情が動くのではないかと思ったのだが。己が未だ体験していない事象に対しての興味は当分尽きそうにない。
「もういいでしょう。さっさと食べてしまいますよ」
固い声で言い放ち、碧い少年は黙々と箸を動かす。彼の目の前に置かれた食器は全て空に近い。反して、己のそれはまだ四分の一は残っている状態だ。早く食べてしまわねば、後片付けや風呂の時間を無駄に圧迫してしまう。朱い少年は急いで箸を動かし、まだ温かな夕食を胃袋へと収めていった。
しかし。
ふとよぎったものに、雷刀は箸を咥えたまま動きを止める。深紅の瞳は、綺麗に浚われつつある皿をぼんやりと眺めていた。
烈風刀が告白された、と聞いて、まず浮かんだのは驚愕だった。身内にそんな大イベントが発生する日が来るだなんて思ってもみなかったのだから、仕方が無いだろう。
次に浮かんだのは、軽い嫉妬だった。レイシスという恋い焦がれる唯一の少女がいるものの、自分だって『告白』というイベントを体験してみたい。双子の兄弟故、顔はそっくりだとよく言われる。他者から見れば同じ見目をしているというのに、弟だけ先に体験するのは何だかずるく思えた。
そして、今になって浮かんできたのは焦燥だった。
何故かは分からない。何に対するものかは分からない。けれども、漠然とした焦りがこの胸をじわじわと蝕んでいった。
なんだこれ、と内心首を捻りながら、少年は食事を進める。もごもごと動く口の端はほんのりと下がっていた。
ごちそうさまでした、と対面から聞こえてきた声に、慌てて箸を運ぶスピードを上げる。皿の上に残っていた炒めものを寄せ集め、大きく箸を開く。そのまま、一気に掴み取った。こぼれないよう持ち上げ、めいっぱい開いた口に急いで放り込む。噛む度広がる野菜の甘みと醤油の香ばしさに、下がっていた口角がゆるりと持ち上がった。
薄く揺らめく焦燥の靄は、料理とともに胃袋へと押し込んだ。
教師の声がどこか遠くに聞こえる。心地良さすら覚える低い声をたぐるように、意識がゆっくりと浮上していく。開いた視界の中に、ぼやけた黒板と滲む生徒の背中が映った。
どうやら授業中に寝てしまったらしい。いつものことだ、と最早罪悪感すら覚えず、雷刀は欠伸を噛み殺す。己の腕と頭の下敷きになっていたノートは、買った時と変わらぬままの白さを保っていた。
残る眠気でけぶった目で黒板を見やる。暗い緑の板の上には、様々な数字と地名か人名かよく分からないカタカナがたくさん並んでいた。小難しいそれがまた眠気を誘う。まだ重い瞼が再び帳を下ろそうとした。
これ以上寝ていてはさすがに叱られてしまう。少しは真面目に授業を受けようと、少年はシャープペンシルを手に取る。シンプルなノックボタンを親指で押すと、カチカチと軽い音とともに黒い芯が顔を出した。
今一度黒板に目をやる。視界の端、鮮やかな浅葱が映り込んだ。紅葉色の目が、無意識にその色に吸い込まれる。黒板とノートを目で往復しているのか、形の良い頭は不定期に上下していた。
告白された。
あの日聞いた言葉が、脳内にリフレインする。まただ、と紅緋の目が険しげに細められる。ぽかりと間抜けに開いていた口が、真一文字に引き結ばれた。傍から見れば、授業が分からず悩んでいるように映るだろう。
あの日――弟が告白されたという事実を知った日から、彼を見かけるとふいに『告白』という二文字が頭をよぎるのだ。何故かは分からない。どうしてなのかなど分からない。何も分からないまま、抜けた部分のある脳味噌は同じ言葉を何度も繰り返し思い浮かべるのだ。
身内が『告白』なんてものをされたのが、そんなにショックだったのだろうか。自分は小難しいことなど気にしないおおらかな性格だと思っていたが、意外にもそうではないらしい。少なくとも、実の弟が告白されていただけで数日間こんなことになる程度には。
訳の分からないものを脳内から追い出そうと、くしゃくしゃと片手で頭を掻く。少しでも気を紛らわせよう、と今度こそ黒板へと視線を移した。先ほどまで書かれていた文字はいつの間にか消され、新たな文字列と地図らしき図形が鮮やかな色で描かれている。己の顔を隠すように立てて広げた教科書と見比べ、分からないなりに情報をノートに書き写していく。何なのかよく分からない図形も、ふにゃふにゃとした線で真似て書いた。
朱は珍しく熱心に授業を受ける。窓から差し込む陽光が、鮮やかな朱色の髪と黒で彩られゆくノートを照らし出した。
手に持つ小型端末の表面をなぞる。指の動きに合わせて、液晶画面に映った漫画がゆっくりとスクロールされていく。一番下、最後のページと広告バナーが映し出されたのを見て、雷刀はタブを閉じる。そのままスリープ状態にし、端末をベッドの上に放り投げた。白い機器から背を向けるように寝返りを打つ。腕がマットレスに沈む音が静かな部屋に響いた。
告白云々の話を聞いて一週間。少年の頭には、未だ焦燥が薄く膜を張り思考を覆っていた。
烈風刀を見ると、『告白された』という話が脳裏をよぎる。事実を思い出す度、何かが胸を引っ掻き小さな痕を残すのだ。痛みはない。けれど、確かな何かが胸の内を掻き乱すのだ。
それがあの日抱いた焦燥だと気付いたのがつい最近。何故傷を残すのかは、どれだけ考えても分からずじまいだ。
何で、と数え切れないほど繰り返した問いを今一度口の中で呟く。答える者など、自分を含め誰もいない。
何故弟が告白されたことにこんなにも焦りを覚えるのか。先を越されたからか。自分には未だ春が来ないからか。そんなにも羨ましいのか。いくつか思いつく答えは、どれもしっくりこない。かといって、他に解は導き出せない。結局、原因解明には至らぬままだ。
うーん、と低く唸り、仰向けになる。頭の後ろで腕を組み、枕代わりにする。いきなり動かした肩が少しだけ痛みを訴えた。
告白。付き合う。好き。愛してる。恋してる。恋愛。恋。愛。片想い。両想い。想い。
とにかく関連しそうなワードを思い浮かべ並べ立てていく。細かなパーツを組み合わせ、どうにか言葉を作り出そうとする。しかし、どれだけ頭を捻ってもどれもこれも上手くいかない。納得できる文章は組み立てられないままだ。
ヒートする脳味噌が限界を訴え始める。やはり、今日も何も分からないままだ。何度目か分からぬ試行を放り出そうとした時だった。
――烈風刀が誰かと付き合うのが嫌だから?
いきなり思い浮かんだ言葉に、少年は大きく目を見開く。は、と疑問符たっぷりの声が思わず口から漏れ出た。
本人が言った通り、烈風刀がレイシス以外の女子と付き合うなどまず選択肢として存在しない。絶対にあり得ないことだ。では、何故そのあり得ない事象に焦りを覚えるのか。全く分からない。
そもそも、弟が誰かと付き合うことを嫌がるなどどういうことだ。相手が自分の想い人であるレイシスならば話は別だが、それ以外の女子とならばまず祝福すべきことである。軽い嫉妬の一つや二つはするかもしれないが、焦燥を生むことなどないはずだ。むしろ、恋の競争相手が減ったことに多大な喜びと多少の余裕を覚えるはずである。
だけど、何で。
分からない。理解出来ない。ごろん、と寝返りを打ち、うつ伏せになる。そのまま枕を引き寄せ顔を埋め、うー、と唸り声をあげた。
「……嫌、なのかなぁ」
くぐもった声が、枕と顔の隙間から漏れる。音にした瞬間、脳はそれが正当解であるかのように強く主張を始めた。んな馬鹿な、と理性は言う。それから外れた何かが、そうなんだよ、と強く言い切った。また呻き声一つ。少年は枕に頭を擦り付けた。
烈風刀に彼女ができる。
烈風刀の隣を、誰か知らない女の子が歩く。
烈風刀が、誰か知らない女の子に笑いかける。
烈風刀が、誰か知らない女の子と――
あるかもしれない未来を想像した瞬間、胸に鋭い痛みが走った。杭でも打ち込まれたように心臓が強く痛む。血液が沸騰しているかのように脈がおかしな調子で揺らめく。反して、身体は真冬の寒空の下に放り出されたように冷えていく。カッと開かれた目は暗い色に染まり、ふるふると揺らいでいた。
そんなの嫌だ。烈風刀の隣に、知らない誰かがいるなんて嫌だ。レイシスでも自分でもない誰かがいるなんて嫌だ。誰か知らない人に笑いかけるなんて、そんなの絶対に嫌だ。
一度思い浮かべてしまった光景を、脳が必死に否定する。子どものわがままなんて比にならないほど酷い、自分勝手にも程がある主張だ。いつかあるかもしれない弟の幸せをこんなにも力強く否定するなんて、なんと酷い兄なのだろう。けれども、焦燥と絶望に駆られた頭は、嫌だ嫌だと駄々をこねた。
何故このように思ってしまうのか、全く分からない。何故こんなことでこんなにも頭が、心が掻き乱されるのか、皆目見当がつかない。何故。何故。何度も同じ問いを繰り返すが、答えは一つも浮かばなかった。
見開いていた目をぎゅっと閉じ、瞼の裏に愛しい家族を思い描く。温かな海にも似た碧の瞳は、己をしっかりと見据えていた。
夏の足音が聞こえてくる朝は、生ぬるい空気で満ちている。シャツの胸元をパタパタと扇ぎ、汗ばむ肌に少しでも空気を送る。焼け石に水だが、無いよりマシだ。あちぃ、と気怠げに呟く声は、雲一つ無い蒼天へと昇って消える。そうでもないでしょう、と少し呆れた調子の声が隣から聞こえた。
降り注ぐ太陽の熱に抗いながら、兄弟二人は普段よりも少し遅い時間に登校する。ラッシュは過ぎ去ったのか、普段は学生で溢れている下駄箱には人影はあまりなかった。
今日の一限なんだっけ。古文ですよ。資料集ロッカーにあったかな。そんな他愛もない会話を繰り広げながら、雷刀はスニーカーから内履きへと履き替える。靴紐を結び終え立ち上がると、そこには立ち尽くした烈風刀がいた。
いつもならばさっさと履き替えてしまうのに、一体どうしたのだろうか。下駄箱の扉を開いたまま固まった少年の手元を覗き込む。ドアで隠れた左手には、何か四角い紙のようなものがあった。折りたたまれ方や装飾などを見るに、封筒だろうか。
「何それ」
尋ねる兄の声に、弟の肩が大袈裟なほどビクリと跳ねる。手にしたものを素早く下駄箱に押し込むと、急いでその扉を閉じる。ガタン、と金属のロッカーが耳障りな音をたてた。
一体どうしたのだろう、と朱は小さく首を捻る。下駄箱。封筒。そして弟の不可解な反応。いくつもの要素が線で繋がり、鮮やかな緋色の頭は一つの解を導き出す。
「えっ!? ラブレター!?」
「静かに!」
弾き出された解を反射的に叫ぶと、瞬時に鋭い声が被される。天河石の瞳は強く眇められ、貫かんばかりの鋭さでこちらを睨めつけていた。あまりの気迫に一歩引くも、次第に好奇心がむくむくと湧き上がってくる。一歩、二歩、とじりじりにじり寄り、自分と一つ違いの学籍番号が書かれた鉄扉へと手を伸ばす。少し大きな手は金属の冷たさを感じることなく、パシンと乾いた音とともに痛みを訴えた。
「見せませんよ」
「えー」
「見せるわけがないでしょう」
他人に見られたくないからこんな手段を選んだのでしょうに、と続け、弟は扉を押さえたまま兄を睨む。言葉通り、見せる気は欠片も無いようだ。けち、と吐き出しかけた言葉を急いで喉の奥に押し込む。そんな言葉を吐いては余計に怒りを買うだけだということぐらい、さすがの自分でも分かる。
「それに、そういうものだと決まったわけではありません。中を確認するまで分かりませんよ」
いや絶対ラブレターだろ、という台詞は飲み込んだ。たとえそれが事実であったとしても、指摘したところで相手は否定を繰り返すだけだろう。こんなところで意味の無い問答を繰り広げてもどうしようもない。
朱を睨めつけたまま、碧は警戒心を露わにした様子でロッカーを開ける。中に閉じ込めていた封筒を素早く手に取り、鞄へとしまいこんだ。そうしてようやく靴を履き替え始めた弟を横目に、兄は壁に掛けられた大きな時計を見やる。大ぶりな針は、予鈴までもう時間が少ないことを示していた。思っていたより時間を食っていたらしい。
早く行きますよ、と少しの焦りを含んだ声とともに、肩を軽く叩かれる。あぁ、と振り向いて、兄弟二人は並んで教室へと足早に歩を進めた。
ラブレター。
その語が表すもの――それが示すものに込められた想いを考えて、胸がさざめく。理解できぬ何かが心を揺らし、爪を立て、傷を残す。
なんでだ、と雷刀は密かに首を傾げる。ただが弟がラブレターをもらっただけで、何故こんなにも心が揺らめくのだろう。他人事だというのに、何故こんなにも心がざわめくのだろう。早くも暑さで茹だりつつある頭では、当分理解出来そうにない。
何かを訴える心を胸の奥深くへ無理矢理追いやり、少年は地を蹴り廊下を駆ける。すぐ後ろから、廊下を走ってはいけません、と耳慣れた声が飛んできた。
鐘の音を模した電子音が教室棟に響き渡る。担任教師によるホームルームを終え、一日の授業行程は全て終了した。教師が教壇から降り、ドアを開け、教室から出て行く。瞬間、室内は様々な音で満たされた。
鞄に荷物を詰める者。席を立つ者。足早に教室を出る者。その場で友人と歓談する者。放課後に向け、生徒たちは思い思いに行動する。静寂に包まれた授業中から一転、教室は賑やかさに溢れていた。
愛用のペンケースを鞄に放り込み、雷刀は席を立つ。目指すはレイシスの席だ。同じクラスであるレイシスと烈風刀と教室内で合流し、そのまま日々の運営業務へと向かう。いつからか定かではないが、これが自分たちの日常となっていた。
一列挟んで向こう側、前の方にある彼女の席にはすぐ着く。おつかれー、と手を振ると、お疲れ様デス、と愛らしい声と可憐な笑みが返ってきた。普段ならば先にいるはずの弟の姿は無い。まだだろうか、と彼の席に目をやろうとすると、レイシス、と耳慣れた声が愛しい少女の名をなぞるのが後ろから聞こえた。朱と桃二人は声の方へと振り向く。二色の視線の先には、鞄を肩に掛けた碧の姿があった。
「すみません、少し用事ができてしまいました。二人で先に行ってください」
常通りの澄んだ声で彼は告げる。一時的にとはいえ、一人だけ仕事を抜けてしまうのが申し訳ないのだろう、その眉尻はほんのりと下がっていた。
「そうデスカ」
少年の言葉に、少女はぱちりと瞬き一つして応える。主席である烈風刀には、委員会の仕事や教師からの依頼が度々舞い込んでくる。きっと今日もその類なのだろう、と判断したのか、彼女は鞄を手に席から立ち上がった。
「じゃあ、先に行ってマスネ」
烈風刀も頑張ってくだサイ、と両の手を胸の前で握って、薔薇色の少女は笑みを浮かべる。可愛らしい応援は、彼女を愛する双子にはてきめんだ。しかし、桃に焦がれる碧は相変わらず申し訳なさそうな顔をするばかりだった。普段ならば、少し高揚した様子で、はい、とはっきりと応えるというのに、今日は曖昧に微笑むだけである。整った眉は、相変わらず八の字を描いたままだ。むしろ、先ほどより下がったようにも見える。
放課後。用事。そして、今朝の封筒。
なるほどな、と雷刀は内心頷く。やはり、今朝の手紙らしき封筒はラブレターで、弟はその送り主に呼び出されたのだ。おそらく、自身の口で愛の言葉を紡ぎ、聞いてもらうために――胸の内に秘めた愛に応えてもらうために。
どくり、と心臓が突如跳ねる。一度大きく動いた心臓はそのまま強く運動し、鼓動を速めていく。どくどくと力強く脈打つ音が、身体の内側から響いた。
ラブレター。呼び出し。告白。
烈風刀が、誰か知らない女の子にラブレターをもらった。
烈風刀が、誰か知らない女の子に会いに行く。
烈風刀が、誰か知らない女の子と話す。
烈風刀が、誰か知らない女の子に告白される。
烈風刀が、誰か知らない女の子と――
頭の中に警鐘が鳴り響く。脳はけたたましいそれを理解できず、ただフリーズするだけだ。元々回転率の良くない頭が、固まって全く動かない。視界が平坦になり、色が淡く消えゆく。焦点が定まらず、ぼやけてゆく。多大な混乱に陥った身体は、末端からどんどんと冷えていった。
いつぞやの焦燥がまた顔を出す。原因不明のそれは、固まった脳を動かそうとするように心を煽る。早くしろ、手遅れになるぞ、と。
何をすればいいのか、何が手遅れになるのか、全く分からない。けれども、そんな雷刀の戸惑いなどお構いなしに、焦りはどんどんと胸の内から溢れ出てくる。頭を、心を、何かが急かす。理由など分からない。ただただ、早くしろ、と叫ぶのだ。
では失礼します、と小さく礼をし、碧は教室のドアへと足を向ける。そのまま、彼は一歩踏み出した。
パシッ、と乾いた音が生徒の声が溢れる教室に落ちる。妙に大きく聞こえたそれは、誰も気に掛ける様子もなく喧騒に溶けて消えた。
気がつけば、烈風刀の腕を掴んでいた。それも、音が鳴るほど勢いよく、強く。
目の前の翡翠と、隣の紅水晶が丸く見開かれる。朱の突然の行動に驚いたのだろう、二人の口は目と同じように丸く開かれていた。
「……何ですか」
いきなり腕を掴まれ、弟は怪訝な様子で兄を見る。会話を終え足早に教室を出ようとしたところを、文字通りいきなり引き留められたのだ。訝るのも当然だ。先ほどまで垂れていた眉は、ぎゅっと寄せられていた。
「え、あ……、いや…………」
「痛いのですけれど。離してください」
動揺し口ごもる朱に、碧は冷たい声を浴びせる。事実、掴まれたジャケットには強い皺が寄っている。同年代よりもずっと力がある少年にがっしりと鷲掴まれているのだ。痛みを覚えるのは必然である。
あぁごめん、と雷刀は急いで手を離す。握ったその跡地には、はっきりと皺が残っていた。ジャケットの素材はしっかりした硬めのものだというのに、こうも皺ができるのは異常だ。それほど強い力で掴まれていたことがはっきりと分かる。
皺の寄った生地を見て、海色の目が険しげに細められる。一部分だけ皺ができたジャケットは、遠目からでもいささか目立つ。これだけ強い跡が残ってしまったのだから、帰ってから手入れをする手間もかかる。不可解な行動を含め、良い気分はしないだろう。すっと鋭い視線が朱を刺す。当然の反応に、兄は気まずげに身を縮こまらせることしかできなかった。
「何なのですか、いきなり」
「あ、いや……。ぇ、えっと……」
怒気の滲む言葉に、少年は曖昧な言葉を返す――曖昧な言葉しか返せなかった。なにせ、無意識の行動なのだ。何故このようなことをしたのか、何が自分を突き動かしたのか、欠片も分からない。説明しろ、と言われても、答えようがなかった。
「……行きますね。では、また後ほど」
再び軽く礼をし、烈風刀は今度こそドアへと足を向ける。そのまま机の間を縫って歩き、教室から出て行った。
その背を、雷刀はずっと見つめていた。弟が教室の外へ姿を消してもなお、紅玉は廊下に続く扉へと向けられていた。細められた真紅は、眩しそうにも、痛みを堪えているようにも見えた。
「雷刀?」
どうしたんデスカ、とレイシスは不安げに尋ねる。先ほどの突飛な行動といい、今の呆然と立ち尽くした様子といい、今日の彼は不可解に映ったのだろう。心優しい彼女が心配に思うのも仕方の無いことだ。
愛おしい少女の声に、少年はビクリと肩を震わせる。素早く振り返り、こちらを見上げる桃と相対する。眇められていた炎瑪瑙は、今は驚きで丸く見開かれていた。
「えっ? い、いや、何でもない。だいじょーぶ」
わたわたと手を動かし、雷刀は何でもない、と繰り返す。その様子は、誰が見ても何でもないなどとは到底思えないものだ。少女の眉が不安げにふにゃりと下がった。
「本当に大丈夫デスカ?」
「うん、大丈夫。早く行こーぜ」
心配そうに見上げるレイシスに、少年はニコリと笑って今一度大丈夫、と返す。このまま会話を続けても、優しい彼女は己のことを気遣い心を痛めるだけだろう。ならば、行動で示すしかない。少年は肩に掛けた鞄を担ぎ直し、ドアを指差した。
そうデスネ、と桃の少女はどこか腑に落ちない声で返す。やはり、先ほどの一連の行動が気に掛かるのだろうか。もっと元気な姿を見せなければ、と心の中で奮起する。そこにも、未だ何か暗いものがへばりついていた。
行こ行こ、と雷刀はステップを踏むように机と人を掻き分けて扉へ向かう。一拍遅れて、ハイ、という声とともに、レイシスもその背を追った。
ホームルームが終わったばかりでまだ人の多い廊下を、二人は連れ立って歩く。今日の仕事は何があったっけ。えっとデスネ。他愛もない会話を繰り広げながら、朱と桃は運営業務へと向かっていく。
少女と楽しく言葉を交わしながらも、少年の頭には未だに警鐘が鳴り響いていた。動悸は少しだけ収まったが、まだ耳のすぐ側で脈を打つ音が聞こえる気がする。口の中がカラカラに乾く。なんとなく呼吸が下手くそになった気がする。外は常通り振る舞おうと努力するが、身体の内部は依然異常をきたしていた。
全ては、この頭を支配する焦燥のせいだ。再び顔を出したこいつが、何かを訴える。何かは分からない。相変わらずとんと理解出来ない。けれども、そいつはずっと居座り、何かを訴え続けるのだ。思考を、心を掻き乱すのだ。
何なんだよこれ、と一人胸の内で毒づく。理不尽な仕打ちに抗うように、ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏には、腕を掴まれ目を見開く弟の姿がはっきりと焼き付いていた。
02.■心
ぼすん、とマットレスが盛大な音をたてる。ギシ、とスプリングの固い悲鳴が聞こえた。部屋に響いた音など気にも掛けず、雷刀はただただ布団に身を預ける。床に膝をつき、上半身だけベッドに倒れ伏す姿はどこか間の抜けたものだった。
烈風刀がラブレターをもらったあの日以後、その話はしないよう努めてきた。そんな事実など意識しないよう努めてきた。彼の性格上、弟もそれに関しては当日の朝のやりとり以降一切触れていない。日常に舞い込んだちょっとした非日常、すぐに消えてなくなる、忘れてしまうような出来事であった――あるはずだった。
だというのに、このポンコツな脳味噌は、あの碧を見る度に相も変わらず『告白』の二文字を突きつけてくるのだ。下駄箱で靴を履き替える彼を見る度、あの白い封筒が脳裏にちらつく。席を外す度、どこかに行ってしまうのではないかという不安に駆られる。食卓を囲む度、あの日の会話が、肯定した言葉が頭の中をぐるぐると回る。
明らかに異常であることは自身でも分かっている。けれども、それが何故なのか、何によるものなのか、皆目見当がつかないのだ。あるのは『告白』というワードのみ。これでどう推理しろというのだ。常に主席の座にあるほど聡明で自分よりもずっと頭の回転の速いあの弟でも、きっとこんな問題は解決できないだろう。そもそも、彼にだけは相談できないのだけれど。
何故、烈風刀が告白されただけでこんなにも心が引っ掻き回されるのか。
対象がレイシスならば簡単だ。答えは『レイシスが好きだから』だ。好きな女の子が誰かに告白されては、慌てるに決まっている。もし誰かと付き合ってしまったら、と不安で心が乱れるのも当然だ。あの薔薇色の少女に生まれた時から恋い焦がれている自分が取り乱さないわけがない。
歳は随分離れているが、ニアやノアだったらどうだろう。あの小さな兎たちが誰かに告白されたなら、祝うに決まっている。冗談でどこのどいつだ、なんて漫画の父親キャラクターのような真似をするかもしれない。けれども、根本は何よりも喜ばしいことなのだ。全力で祝い、小さな恋を応援する。そのことをいつまでも引きずるはずなどない。
歳が近い魂や冷音だったらどうだろう。彼らが恋愛事に強い興味があるとは思えないが、もし告白されたなんて聞いたらまず祝うだろう。好奇心旺盛な自分のことだ、興味津々で矢継ぎ早にあれこれ聞くかもしれない。後輩に訪れた春を茶化すぐらいはするかもしれないが、焦るなんてことはないはずだ。
では、今回の対象である弟の烈風刀はどうだ。家族が誰かと付き合う可能性が生まれたことに、何故こうも焦りを覚えるのか。他人相手ならば手放しで祝福することに、何故こんな情を抱くのか。女の子に告白された、という事実に嫉妬の情を持つならばまだ分かる。だが、焦燥に駆られるというのはあまりにも不自然ではないだろうか。弟に対して、恋愛事――レイシスに関することを除けば、という前提ではあるが――に対抗心など持ち合わせていない。兄弟に先を越された、という焦りを覚えるはずがないのだ。
では、何故。
横を向き、布団にぺたりと頬を預ける。柔らかな布地が与える温もりは心地良いが、それが謎の焦燥感を癒やしてくれることはない。暖かさを享受する頭は茹だるばかりで、思考を固めてくれない。理解できぬ感情に頭も心も曇っていくばかりだ。うぅ、と情けない声が喉奥から漏れた。
ぱちり、と瞬き一つ。そういえば、と今までの思考を遡る。状況はレイシスが相手だと仮定したそれに対してのものに似ている。恋をしている女の子に対してのそれと似ているどころか、まるきり同じだ。ならば。
――烈風刀が好きだから?
紅玉髄が大袈裟なほど瞠られる。がば、と反射的に勢いよく身を起こす。は、と空気が抜けるような音が口から漏れ出た。静かな部屋に落ちた音は、疑問に満ち満ちた響きをしていた。
いやいやそれはないだろ、と思い切り頭を横に振る。相手は大切な家族で、唯一無二の双子の弟で、男の烈風刀なのだ。そんな彼に恋愛感情を抱くことなんてあり得ない――否、あり得てはいけない。大体、そんな何人にもいっぺんに恋をするほど己は器用ではないのだ。想いは一途で、ただ一人の女の子一直線に向かっているはずなのだ。
悩みに悩んだ末、おかしな方向に思考が飛躍したのだ。悩みすぎて、脳が疲れて変な方向に舵を切ったのだ。きっとそうだ。そうに決まっている。そう無理矢理結論づけ、雷刀は再び布団に身を沈める。柔らかな生地が疲れ切った頭を優しく受け止めた。
風呂にも入った。もう寝てしまおう。緩慢な動きで起き上がり、少年はベッドに乗り上がる。先ほどまで上半身だけを預けて潰れた掛け布団を整えるように一度払い、そのまま中に潜り込む。携帯端末を充電ケーブルに繋ぎ、枕元に放り投げる。柔らかな綿が詰まった枕に頭を預け、力いっぱい瞼を下ろした。
突如現れた突飛な論が、何故か頭の隅にこびりついて離れなかった。
頭が重い。瞼が下がってくる。しかし、いつもならばこの手を引いて夢の世界へと誘っていく睡魔はいつまで経っても訪れない。代わりに、暗く重い何かが脳味噌を覆いつくす。正体不明のそれが、思考を、行動を妨げた。
結局、昨夜は眠れずじまいだった。あの迷走に迷走を重ねた思考の末に生まれた結論が、頭にこびりついて離れないのだ。自分で弾き出しておきながらも意味の分からないそれが、眠りの海に沈むことを邪魔する。胸の内を引っ掻き回し、細かな傷を作っては疼きを生み出す。さながら自傷行為だ。問題は、それは全て無意識に行われており、止める手段など持ち合わせていないということだ。己に抗う術など無い。
グラグラと視界が揺れる。普段ならば授業中は知らぬ間に寝てしまうというのに、今日はどれも最初から最後まで起きて過ごしていた――頭の中を蹂躙する何かのせいで、内容は一切入ってこなかったのだけれど。おかげで、相も変わらず睡眠は足りていない。人として必要な欲求が満たされない身体は、不調を訴えていた。それを対処することすら億劫に感じるほど、脳味噌は考えることを放棄していた。
「――いと、雷刀。……雷刀?」
耳慣れた声に、沈み込んでいた意識が浮上する。緩慢な動きで音の方へ目をやると、そこには桃色の髪を揺らしこちらを覗き込むレイシスの姿があった。形の良い眉は心配げに八の字を描いている。見つめるまあるく可愛らしい瞳は、心なしか潤んでいた。
「雷刀、もうお昼デスヨ。どうしたんデスカ?」
「ぅ、え? あ、なにが?」
「ずっとボーッとしてマシタヨ? 今も何回呼んでも返事してくれませんデシタシ」
大丈夫デスカ、と少女は今一度問う。心の底から少年を思い遣っている響きをしていた。常の雷刀であれば、愛しいレイシスに名前を呼ばれたならば何もかもを放り出してすぐさま返事をする。そんな彼が、何度呼んでも返事どころか反応すら示さなかったのだ。彼女が不審に思うのも無理はないだろう。
「んー……、ちょっと寝不足かも」
「貴方が寝不足……?」
取り繕うようにへらりと笑って返すと、驚きに満ちた声が返ってくる。少女のものではないそれの方へと視線を向けると、そこには訝しげに眉をひそめた烈風刀の姿があった。
己を見つめる涼やかな夜明け空色に、ドキリと心臓が跳ねる。睡眠不足で常以上に動きが鈍くなった頭が、一気に反応を示す。
烈風刀。
世界にただ一人の片割れの名前が、頭の中を侵食していく。ぐ、と息が詰まる感覚。一気に胸が重たくなったように思えた。
「授業中いつも寝ている貴方が? 寝不足?」
「デモ、今日一回も注意されてませんデシタヨネ?」
驚愕に何度も瞬きを繰り返す碧の少年に、桃の少女は頬に手を当て応える。焦点の定まらない柘榴石が、その様子を硝子玉のように映し出していた。瞳に映る情報は、持ち主の脳味噌にはろくに入らない。あるのは、『烈風刀』という唯一無二の弟を示す三文字と、依然しつこくつきまとう『告白』の二文字だけだ。
二人の声が遠くに聞こえる。まるで水中に沈んでしまったかのように鈍くくぐもったものとして伝わってくる。音として耳に入ってくるものの、会話の内容など分からなかった。睡眠が足りていない頭は、言葉の意味を理解する機能など忘れてしまったらしい。ただ、焦点が合わずぼやけた視界の中、目の前のうつくしい碧色だけはどうにか認識できていた――その碧しか、認識できなかった。
「そんなに辛いなら保健室に行った方がいいデスヨ?」
「……ぅ、え? あ、れ? なに?」
首を傾げるレイシスの声で、ようやく意識が浮上する。突然の意味のある音に、ビクリと肩が震える。完全に話を聞いていなかった。普段の自分であればこの愛しい少女の声を聞き逃すはずなどないのに、重い頭とさざめく心ではその美しい音を認識できなかった。
「ダカラ、辛いなら保健室で休んだ方がいいデス!」
「そ、かな」
そうデスヨ、とレイシスは胸の前で拳を握り締める。そんなことを言われるほど、自分は不調に見えるらしい。心配をかけてしまった罪悪感に、喉がきゅうと情けない音をたてた。
「……顔色も悪いですね。熱でもあるのではないのですか?」
未だ訝る烈風刀が、雷刀の額へと手を伸ばす。きっと、触れて熱を測ろうとしているのだろう。家では体温計を使うより先に、触れて確認することが多い。その癖が思わず学校でも出てしまったのだ。すべらかな白い手が、眼前に迫る。
ガタガタ、と騒々しい音がたった。突如耳に飛び込んできた大きな音に、脳がようやく機能を果たさんとまともに動き始める。音の発生源は己だった。気付けば、座ったまま椅子ごと後方へと下がっていた――手を伸ばし一歩だけ近づいた弟と、無理矢理距離を取っていた。
「……どうしたのですか?」
目の前の孔雀石がぱちりと瞬く。あまりの驚きにか、険しげに寄せられていた眉はすっかり解けていた。差し伸べられた手が所在なさげに宙を彷徨う。やがて、その細い身の横に下ろされた。
無意識の行動に、朱もまた驚愕していた。何故弟から無理に遠ざかるようなことをしたのか。これだけ意識してしまう彼を、何故こうも露骨に避けてしまったのか。動き始めた脳は反射的に行動し、持ち主の意志を聞かない。一体何なのだ、と己に説明を求めても、依然動きの鈍い頭が答える様子はない。
無意識とはいえ、心配してくれた彼を拒否するような態度を取ってしまったことを悔やむ。あぁ、いや、と言い訳めいた音が口からぽろぽろとこぼれ落ちる。事態を誤魔化す気の利いた言葉など、今の頭では欠片も捻り出せない。ただ意味の無い音を漏らすばかりだ。ぼろぼろと落ちる単音も徐々に減り、しまいには黙りこくってしまった。悪手でしかないのは分かってはいるが、今の自分にはそうすることしかできない。脳が言葉を作る機能を、声帯が言葉を発する機能を忘れてしまったかのような心地だ。
「やはり、保健室で休んできた方がいいですね」
「そうデス。お昼休みの間だけでも休んでくだサイ!」
寝不足という発言といい、先ほどの反応といい、今の己の姿はあまりにも異常に映ったのだろう。二人揃って強く言われては、反論する余地など無い。わかった、と力なく返し、少年は席を立つ。ちゃんと休んでくだサイネ、と釘を刺す声が背に飛んできた。ひらひらと手を振り、その言葉に応える。いつも通りの振る舞いであるはずだが、どこか鈍い動きをしていた。
足りない頭が痛む。心が何かを叫ぶ。それらを全部押し込めて、朱い少年は教室を出た。
昼休みで人気の多い廊下をのろのろと歩き、ようやく本館にある保健室に辿り着く。この部屋にやってくることなど、年に一回行われる身体測定の時ぐらいだ。馴染みの無い場所を訪れることに、少しの緊張感を覚える。すぅ、と呼吸一つ。覚悟を決めて、少年は自動ドアの前に立つ。硬質な扉が小さな音をたてて開いた。
開いたドアの先から、薬品の匂いが香る。慣れぬそれに、薄く顔をしかめた。昼食で出払っているのだろうか、広い部屋を見渡してみるが教員の姿は無い。代わりに、中央に置かれたテーブルには黒衣に身を包んだ少女が座っていた。
「あら」
先に声をあげたのは相手の方――クラスメイトの紅刃の妹であり、保健委員長の恋刃だった。鮮やかな紅の目がぱちりと瞬く。元気を体現するかのような雷刀が、病人が頼るべき場所である保健室を訪れたことに驚いているのだろう、華奢な手に握られたペンの動きが止まった。
「怪我?」
「いや、なんか調子悪くて、休んでこいって言われて……」
「そう。じゃあ、体温測ってこれ書いて」
気まずそうに話す少年を気にすることなく、少女は体温計と一枚のプリントを机上に出した。こうやって教員の代わりに来訪者の対処をするのが、保健委員としての仕事なのだろう。座って、と促され、朱は彼女の斜向かいにそっと腰を落ち着ける。目の前に、小型機器と紙、鉛筆が差し出された。
渡された体温計を脇に挟み、渡された紙に向かう。身体はだるいか。はい。昨晩は眠れたか。いいえ。食欲はあるか。いいえ。そんな具合に、藁半紙に書かれた項目に鉛筆で丸を付けていく。ちょうど全て記入し終えたところで、ピピピ、と小さな電子音が鳴った。脇から取り出した機械の液晶画面には、三十七・一度と表示されていた。
「少し熱があるわね」
そう言って、恋刃は回収したプリントに今しがた測った体温を記す。机上のコットンを手に取り、消毒用アルコールを含ませたそれで体温計の先の部分を拭きながら、少女は慣れた調子で言葉を続ける。
「一番手前のベッドが空いてるわ。そこで寝て。昼休みが終わる頃に皆起こすから」
恋を冠する少女の言う通り、一番手前のそれはカーテンで囲われておらず空いていることが分かる。わかった、と返し、少年はとぼとぼとそこへ向かう。空間を切り分けるカーテンに手をかけたところで、ふとした疑問が鈍った頭に浮かぶ。脳が行動の正誤を判断するより先に、口は動き出し言葉を紡いだ。
「なぁ」
「何」
「紅刃が誰かに告白されたらどう思う?」
ガシャン、と固い音が静かな保健室に響く。硬く白い床に手入れされていた体温計が落ち、表面を滑って独楽のようにくるくると回る。先ほどまでそれを握っていた小さな手は、わなわなと震えていた。俯いているため、少女の表情は見えない。しかし、そこに苛烈な色があるであろうことは、震える肩と細い身体から放たれる何かから十二分に察することができた。
あ、やばい。足りない脳味噌が今更警鐘を鳴らし始める。与太な発言を撤回するより先に、低い音が室内に響いた。
「お姉さまが? 誰かに? 告白? は?」
ぐるん、と恋刃の首が回り、立ち竦んだ雷刀を睨む。その目は大きく見開かれており、不自然なほど吊り上がった口角はひくひくと震えていた。予想通り――否、予想以上に凄まじい形相をした少女に、少年は思わず一歩後退る。キュ、と床から高い声があがった。
「……そんなの、嫌に決まってるでしょ」
低く重い声は、不安定に揺らいでいた。雷刀の言葉に思わずその場面を想像してしまったのだろう、恋刃は苦しげに目を眇める。健康的な色をした唇が、きゅっと強く結ばれた。
「……やっぱ、兄弟に恋人ができるのって嫌だよな」
「嫌よ。お姉さまが誰かと付き合うなんて、絶対に嫌」
呟くような少年の言葉に、少女は力強く答える。その胸に煮えたぎる感情がこれでもかとこもった声をしていた。しかし、音の響きはその重さと強さに反してどこか細かった。
ぎゅっと拳を握り締める紅の言葉に、朱は内心胸を撫で下ろす。兄弟に恋人ができるのは嫌だという考えは、己だけではないのだ。こんな思いを抱く人間が他にもいるのだ。その事実に、心にほんの少しだけ凪が訪れる。鈍く動く頭の中にある理性が、本当にそれでいいのか、と問いかけてくる。うるさいそれを振り払うように頭を横に振る。グラグラと視界が揺れた。
でも、と細い声が室内に落ちる。怒気に満ちたかんばせが俯く。小さな拳が、スカートの裾を強く握り締める。細い身がぎゅっと縮こまる。溢れ出しそうな何かを堪えるような姿だった。
「――それで、お姉さまが幸せになるなら、私は」
そこまで言って、少女は言葉を切る。つややかな唇は、ぎゅっと噛み締められていた。彼女の内に渦巻く感情がよく表れていた。
お姉さまには幸せになってほしいの。
結んだ唇を解き、少女は絞り出すように口にする。本心であるのは、声音から嫌というほど分かる。けれども、その響きから先ほどまで溢れ出ていた苛烈な感情は感じ取れなかった。
そっか、と少年は返す。声を漏らすといった方が正しい細さと小ささだった。昼休みの喧騒から隔絶された保健室だからこそやっと聞こえるような声量だ。普段の彼を知る者が聞けば、らしくないと驚くだろう。けれども、今の少年には呟くようなこれが出せる最大限の音だった。
姉に恋人ができてほしくない。それは間違いなく恋刃の本心だろう。だが同時に、幸せになってほしいと願うのも彼女の本心だ。それは、自分と違う。身勝手な自分は、弟の幸せよりも己の感情を取ってしまう――誰とも付き合ってほしくない。知らない誰か、否、他の誰かと付き合ってほしくなんかない。自身の感情を捻じ伏せ姉の幸せを何より願う少女とは正反対だ。その輝かしい姿に、思わず目を細める。眩しい光に照らされ、己の醜さが浮き彫りになっていく。兄弟の幸せを心から願えない、自分の醜さが。
家族の幸せを願う恋刃の考えが正常なのだ。感情に突き動かされる愚かな自分は全て異常で、間違っていて、おかしいのだ。家族の幸せを喜ぶことができないだなんて、なんと最低な兄なのだろう。愛する家族を祝福できないだなんて、なんと醜い人間なのだろう。我ながら反吐が出る。それでも、このどうしようもない脳味噌はいつか訪れるであろう弟の未来を拒んだ。
「……ていうか、それどういう意味? まさかお姉さまが告白されたのを見たっていうの?」
突如、俯いていた頭がゆらりと上がる。ぐりん、と首が回り、赤い瞳が立ち尽くした朱を睨めつける。気迫に満ちたその表情は、年頃の少女が浮かべると思えないほど恐ろしいものだ。しなやかな手には、いつの間にか細い注射器が握られている。空っぽのそれは、血に飢えているように見えた。
「ちげぇって! 興味本位! 興味本位だから! オレは何も見てねーし知らねー!」
「本当でしょうね」
いつの間にか立ち上がり距離を詰めてきた少女に、雷刀はぶんぶんと大きく手を振って否定する。殺気溢れる響きをした問いに、一生懸命首を縦に振った。また視界が、脳がぐらつく。けれど、今はそんなことを気にしてなんかいられない状況だ。あの注射器が己を狙っていることぐらい、動作が極端に落ち込んだ脳味噌でも分かる。
悪趣味な質問ね、と呟き、恋刃ははぁ、と溜め息一つ吐く。どうやら、懸命な弁明は聞き入れられたようだ。ほっと息を吐く。ごめん、と消沈した声で謝罪の言葉を口にすると、ふん、と鼻を鳴らされた。
「いいから早く寝て。昼休み、終わっちゃうわよ」
手早く注射器をしまった少女は、依然立ち尽くしたままの少年の背を押す。ベッドのすぐ脇まで追いやり、四方を囲むカーテンを手際よく閉める。それだけで、世界は隔絶されてしまった。
こうなったら眠るしかない。元より、それが目的でやってきたのだ。ちゃんと休んでくだサイネ、と焦がれる愛しい少女に言われたのだから、しっかりと休まねばならない。
内履きを脱ぎ、少年はベッドに乗り上がる。足下に綺麗に畳まれた毛布と掛け布団を引き上げ、その中に潜り込んだ。家のそれとは違う、少しだけ薬品臭の香る生地に違和感を覚える。それでも、今はここに入るしかなかった。
重い瞼を落とす。こうやって布団に包まれていれば、いつか睡魔は訪れるだろう。今は身体の力を抜き、少し硬いマットレスと萎んだ布団に身を預けるだけだ。くたびれた毛布を手繰り寄せ、首まですっぽりと埋まる。布地がもたらす温もりが、全身を覆っていく。
お姉さまには幸せになってほしいの。
少女の独白が、鈍る頭の中を駆け巡る。恋刃は、姉に恋人ができるのを『絶対に嫌だ』と断言した。それでも、姉に絶大な愛を向けるあの少女は、己の感情よりも愛する姉妹の幸福を優先し、心から願うのだ。なんと優しいのだろう。なんと美しいのだろう。なんと眩しいのだろう。身勝手な自分には、到底直視できない。
烈風刀が告白される。そんな過去を、未来を今一度空想する。やはり、何かに支配された心は荒波に揉まれるように乱れた。何か分からない、けれども強い思いが、胸の奥底から湧き出る。もうこのことに関しては止めようがなかった。
烈風刀が誰かに告白されるなんて嫌だ。烈風刀が誰かと付き合うなんて嫌だ。烈風刀に恋人ができるなんて嫌だ。烈風刀が誰かに奪われるなんて嫌だ。
――奪われる?
濁流のように溢れる己の思考、その一つの言葉にバッと目を開く。あまりにも勝手な考えだ。二人で一つなんて言われる双子ではあるが、もう高校生にもなった今、自分たちは独立した個人である。そもそも、最初から烈風刀は己だけのものではない。彼は人間であり物なんかではないのだ。所有などできるはずない。だのに『奪われる』なんて、ちゃんちゃらおかしい話だ。
けれども、その言葉がしっくりきた――しっくりきてしまった。なかなかはまらなかったパズルのピースがやっとはまったような、出そうで出なかった言葉がようやく思い出せたような、そんな解放感があった。
烈風刀を誰かに奪われたくない。烈風刀は自分だけのものであってほしい。烈風刀は自分だけに構ってほしい。烈風刀は自分だけを見てほしい。
汚らしい感情が、言葉となって湧いて出る。唯一無二の片割れを自分だけのものにしたい――独占したいと脳が喚き散らす。あまりにも身勝手な、あまりにも醜いわがままだ。けれども、自然に湧いて出たこれらは、今の己の思考を正しく説明するものだった。
そうか。この胸にわだかまる思いは、『独占欲』というのか。
ようやく胸を駆る焦燥の原因を突き止め、少年は大きく息を吐く。この数週間悩まされ続けた何かの正体が判明し、安堵に胸を撫で下ろす。頭を、心を苛んでいたものが氷解し、ようやく本当の平穏が訪れた。
でも、何故実の弟に独占欲など向けるのだ?
やっとの事で正体を突き止めたと思えば、今度は別の疑問が浮上してきた。
誰かを何者にも渡したくない、独占したいと思うのは、どう考えても異常である。他人相手ですらそうなのだ、家族が相手ならば尚更だ。ブラザーコンプレックスを拗らせているのだろうか。けれど、ついこの間までこんなものは影すら見せなかった。この焦心は、烈風刀が告白されたと知ったあの日から湧き出てきたものなのだ。今まで弟に過度な執着などしていなかった。なのに、何故。
烈風刀は大切な家族で、一緒に生まれてきた双子の弟で、この世でただ一人の片割れで。
そんな彼を奪われたくないなど、何故考えてしまうのだろう。何故、自分だけのものであってほしいなどと考えてしまうのだろう。何故、彼にこんな独占欲を向けてしまうのだろう。分からない。分からないのだ。氷解したはずの悩みが再び姿を現す。浮き上がってきたそれは、今までよりもずっと大きなもののように見えた。
布団を引っ掴み、勢いよく頭まで被る。もう何も考えたくない。もうこんなこと忘れてしまいたい。そう思っても、この脳味噌は不必要な思考にリソースを割いてしまう。考えてしまうのだ。『烈風刀を奪われたくない』と思う、その理由を。
無意味に働く思考を遮断するように、ぎゅっと無理矢理目を閉じる。今はただ、この温もりに身を預け微睡みを待つしかなかった。
結局、柔らかな布団という睡眠用具は眠りをもたらしてはくれなかった。目は新たに生まれた疑問によって冴えるばかりで、眠気など欠片もやってこなかったのだ。そのくせ、頭も瞼も重いままなのだからどうにもならない。
「辛いならもう一限休んでいったら?」
よほど酷い顔をしていたのだろう、予鈴を前に起こしに来た恋刃はカーテンの隙間から顔を覗かせて言う。その目からは激烈な色はすっかり失せ、元の鮮やかな赤へと戻っていた。くりくりとしたつややかな目は、どこか心配げに細められている。保健委員として体調が悪い人間が気に掛かってしまうのだろうか、と益体もないことを考えた。
「んにゃ、大丈夫」
へらりと曖昧に笑う。誤魔化さんとしていることは理解しているのだろうが、優しい彼女は、そう、とだけ呟いて手早くカーテンをまとめた。シャ、と素早い音とともに布地に阻まれていた世界が一繋ぎになる。薄暗闇が覆っていたベッドが、天井に埋め込まれたライトに照らされた。
他の生徒はもう出ていってしまったのだろう、ベッドを囲むカーテンは全て開けられていた。まだ教員は帰ってきていないようで、室内には恋刃と自分の二人しかいない。保健室は入ってきた時と同じように静まり返っていた。
ありがと、と赤髪の少女へと礼を言う。保健委員だもの、と委員の長はどこか誇らしげに言った。年相応の可愛らしい姿に薄く笑みを浮かべ、雷刀は扉へと歩み出した。
「あの」
背中に声が飛んでくる。振り返ると、少しだけ視線を逸らした恋刃の姿があった。何か言いたげに、真っ赤なまあるい瞳が宙を彷徨う。しばしして、その色が己の目をまっすぐに捉えた。
「……姉妹だから嫌なんじゃないわ。『お姉さま』だから嫌。『お姉さま』が誰かのものになってしまうのが嫌なの」
語る声は、瞳は、真剣そのものだった。表情はどこか気まずげだが、そこに宿る光は本物だった。きゅっと可憐な唇が少しだけ噛み締められるのが見えた。
己が横になっている間に深く考えてくれていたのだろうか。まっすぐな姿勢に、少年は目を細める。あんなふざけた『もしも』の話をこれだけ考えて、真剣に答えてくれるだなんて、彼女はどれだけ真摯で優しいのだろう。委員長として人に慕われるのも納得の姿だった。
「分かるぜ」
同意の一言だけ残し、少年は保健室を出る。自動ドアをくぐり抜け、静かな空間から一歩踏み出す。繋がった先の廊下は、未だ人の声が響いていた。本鈴も間近だからか、昼休みの喧騒も随分と小さくなっている。早く教室に向かわねば、と少年は足を動かす。相変わらず頭の中身がグラグラと揺れるが、どうしようもない。午前の授業全てと貴重な昼休みを費やしても一睡もできなかったのだ。おそらく、この調子では午後の授業も同じだろう。もう家に帰るまで何とか我慢するしかない。
寝不足と新たに現れた苦悩で鈍る頭と重い身体でのろのろと教室棟まで歩く。亀の歩みだったが、どうにか本鈴前に教室に辿り着くことができた。
「アッ、雷刀!」
開いた扉から教室に一歩足を踏み入れた瞬間、己の名を呼ぶ声が聞こえた。愛しい声に、自然と下がっていた顔を上げる。教室中央前方の席、カタンと音をたてて立ち上がるレイシスの姿があった。己の席へ戻ろうとする朱へと彼女は足早に歩み寄る。
「大丈夫デスカ? ちゃんと休めマシタカ?」
「おう! もうだいじょーぶ!」
「嘘を吐きなさい」
心配そうに眉尻を下げる少女に、空元気を振り絞りいつも通りの笑みを浮かべて返す。しかし、その声はすぐに切り裂かれた。揺れるツインテールの横に、鮮やかな碧が飛び込んでくる。いつの間にか、烈風刀も己の元まで寄ってきていた。
碧い少年は一歩前に出る。そのまま、再び兄の額へと手を伸ばした。つい数十分前には跳ね飛んだ身体は、今度は石のように固まり動けなくなる。節が浮かび始めた手が額に当てられる。正面から見つめる視線も、直立したままの身体も、何一つ動かせない。
されるがままでいると、目の前の藍玉が険しげに細められる。しばしして、白い手は離れていく。いささか冷たく感じたそれが、ぎゅっと強く握り締められた。
「やはり熱があるではありませんか」
はぁ、と薄い唇から溜め息が一つこぼれ落ちる。エ、と少女が驚きの声をあげた。どうやら、薔薇色の少女の方は自分の拙い演技でちゃんと誤魔化されていたようだ――それも全て、弟の手によって暴かれてしまったのだけれど。
「び、微熱だし……」
「ダメじゃないデスカ!」
二人から目を逸らし小さな声で反駁するも、可憐な声が全てを掻き消した。桜色に色付いた頬を膨らませ、桃の少女は朱い少年を見上げる。薔薇輝石の瞳には、怒りの色がありありと浮かんでいた。責める視線に、う、と声を漏らす。気まずげに顔を俯かせて断ち切るも、そのまっすぐな瞳から逃げることは叶わなかった。元より、自分たち兄弟はこの少女に敵いっこないのだ。
「もう一回保健室で休むカ、帰った方がいいデスヨ!」
「いや、でも、熱って言ってもほんのちょっとだし大丈夫――」
「そう言っていつも悪化させるでしょうが」
今一度反論するも、二人がかりで正論を浴びせられては為す術がない。特に、昔からずっと共にある烈風刀の言葉は紛れもない事実であり、一切言葉を返せないものだ。うぅ、と情けない声が喉奥から漏れ出る。淡い朝焼け色と抜ける昼空色の視線が、ずっとこちらを刺していた。
スタスタと歩き、烈風刀は窓際、雷刀の席へと向かう。机の横に掛けられていた鞄を引っ掴み、彼はまた二人の元に戻ってくる。紺色のスクールバッグを、その持ち主の目の前に差し出した。
「薬の場所は分かりますね? 何か胃に入れて、薬を飲んで大人しく寝ていてください」
担任には僕から説明しておきます、とまで断言されてしまっては、いよいよ帰る他無くなってしまった。諦めて、はい、と力なく返す。よろしい、と言うように、碧の少年は小さく頷いた。
差し出された鞄を手に取り、肩に掛ける。中身が詰まったままの弁当箱しか入っていないそれは、己の身体と正反対に軽かった。
「ちゃんと休んでくだサイネ」
桃色の唇から、気遣う言葉が紡がれる。熱があると聞いてしまったためか、少女の声にはかなりの心配の色が浮かんでいた。うん、と思いの外小さくなってしまった声で返す。それすらも不安を煽るのか、大きな瞳がうるうると揺れた。優しい彼女に負担なんかかけたくないのに、言うことを聞かない身体は愛しい人を憂慮させるばかりだ。あまりの不甲斐なさに、胸がじくじくと苛まれる。息が詰まる心地だ。
踵を返し、今しがた入ってきたばかりのドアへと歩み寄る。また明日な、と手を振って、雷刀は教室を出た。同時に本鈴が鳴る。電子の鐘の音が教室棟に響き渡る。昼休みの賑やかさはすっかりと鳴りを潜めていた。
遠くから聞こえる授業の声を背に、人気の無い廊下を歩み下駄箱まで辿り着く。普段の何倍もの時間を掛けて靴を履き替える。すぐ隣、学籍番号一つ違いの鉄扉が視界に入り、思わず胸が痛んだ。独占欲は些細なことでも刺激され、この胸を焼く。迷惑にも程というものがあるが、気付いたばかりのそれはどうにも解決できぬままだ。
パタリ、パタリ、と静かな空間に力ない靴音が響く。コンクリートの床を歩き、扉を抜けて昇降口へと出る。依然重い足取りで、少年は陽光照らす空の元へと踏み出した。瞬間、天から降り注ぐ熱に思わずうんざりとした表情を浮かべる。夏は本格的に活動を始めようとしているようだ。
ゲートをくぐり、通学路を歩いてゆく。一人でこの道を歩むのは久方ぶりだった。朝は烈風刀と共に登校し、夜は烈風刀とレイシスの二人と下校するのだ。一人きりで登下校することはほぼ無い。新鮮な行動は、荒れに荒れた心を少しだけ和らげてくれたように思えた。
烈風刀。
この世界で唯一の片割れが思い浮かぶ。つい先ほど、呆れの中に気遣いを滲ませた声で己を叱った姿が脳裏を掠める。レイシスに対してはもちろんだが、烈風刀に対しても心配をかけたのが申し訳なかった。周りからは兄に対して特別厳しいと取られることも多い彼だが、実際のところは人以上に優しいのだ。こうやって無理矢理にでも帰したのは、彼の優しさ――己を思い遣ってくれているからこそのものだ。
誤魔化されることなく、誰よりも先に不調を見破ってくれた。紛れもない事実に、ぐちゃぐちゃに乱れた心が声をあげる。歓喜の色が溢れんばかりに出ていた。
心に満ちていく感情に、少年は目を大きく見開き胸ぐらを掴む。何故歓喜が湧き起こるのだ。あまりにもおかしい。心配されたことに申し訳なさを覚えるのは当然である。だのに、何故喜びなど覚えるのだ。本来ならば、己の自己管理能力の低さを反省し落ち込むべきところである。なのに、何故こんな風に喜びが胸から溢れ出るのだ。
「わかんねぇよ……」
己のことが分からない。己の思考がさっぱり分からない。この心が欠片も分からない。一体どうしてしまったのだ。元々出来の良くない頭だが、あの一件以来自分のことが一切分からなくなってしまった。何故。どうして。数週間抱え込んだ疑問が頭の中を巡る。答えなど、誰も与えてくれない。
鈍く痛む頭に手を当て、木陰の中を少年は歩く。全て、暑さのせいにしてしまいたかった。
ぬるい闇の底から一気に引き上げられる感覚。重い瞼を上げると、そこは変わらず闇の中だった。頬に柔らかなものが当たる。それが枕と毛布だと認識し、やっと自分が眠っていたことを認識した。
そうだ、のろのろと一人帰ってきた後、薬を飲んでとりあえず布団に潜ったのだった。どうせ眠れないだろうと諦めていたが、風邪薬の副作用はなかなかだったようだ。慣れ親しんだ自宅にいるという安堵も加わっているのだろう、いつ眠りに落ちたのか覚えていないほどだ。
学校から帰ってきたのは昼を少し過ぎたころだったはずだ。それがもうこれだけ暗くなっているのだから、どうやら随分と眠っていたらしい。おかげで、あれだけ重かった頭は幾分かすっきりしていた。瞼は依然重いが、これは起き抜け故だろう。己は寝起きが良いとは到底言い難い。
温もりの中、微睡みが腕を引っ張る。一日分睡眠を取っていなかった身体は、まだまだ貪欲に眠りを欲しているようだ。今何時だろう、と枕元に放り投げた携帯端末のスリープを解除する。煌々と光る液晶画面には、日が暮れ夜に沈みゆく時間が表示されていた。カーテンを閉め切った部屋が闇に包まれているのも当然である。
もぞりと寝返りを打つ。綿がへたりつつある愛用の枕は、頬を柔らかに受け止めた。まだ眠気は残っているものの、ブルーライトを真っ向から浴びて少しだけ目が冴えてしまった。寝直すにはいくらか苦労しそうだ。
お姉さまだから嫌。
穏やかな覚醒とともに走り出した思考が、昼の言葉を思い起こさせる。まっすぐな少女の声が、視線が、脳裏をよぎる。
恋刃の言葉は、己の思考と同じものだった。自分だって、他の誰でもない、『嬬武器烈風刀』だから嫌なのだ。『嬬武器烈風刀』が誰かのものになってしまうのが嫌なのだ。けれども、その理由が分からない。
あの赤い少女は、姉に凄まじい執着を持っていることで有名だ。己もそうなのだろうか。無意識に弟に対して強い執着を抱えていたのだろうか。けれど、今の今まで――弟が告白されたと知るまで、こんな感情は一切湧いて出てこなかったのだ。何故突然。何故今更。疑問が浮かんでは消えていく。
昨晩の思考が甦る。弟への反応は、全て恋い焦がれる少女への反応と同じ――否、実際になってみれば、それ以上の反応を示した。ならば。
「……好き、なのかなぁ」
布団の海に、少年の呟きがぽつりと落ちる。あまりにも早計すぎる結論だ。恋心なんてものは、そう簡単にラベリングしていいものではない。決して勘違いなどしてはいけないものなのだ。実の家族、双子の弟相手ならば尚更である。
自分が恋しているのはレイシスただ一人なのだ。他の人に、兄弟である烈風刀に恋するなんてあり得ない。自分はレイシスだけを愛しているのだ。烈風刀に対しても愛は向けているが、それは家族愛であり兄弟愛だ。恋愛感情なんてものではない――ないはずなのだ。そうでなければおかしいことになる。同時に二人の人間を好きになるなんて、そんな不義理はあってはならない。
それに、今日の昼にこれは『独占欲』だと気付いたではないか。そうだ、独占欲だ。これは恋心なんてものではなくて、この世で唯一の弟を独占したいという心なのだ。そっちの方がやばくね、と脳の妙にはっきりとした部分が主張するが、聞かなかったことにする。
もぞ、と今一度寝返りを打つ。口元まで布団を手繰り寄せる。柔らかな熱が身体を癒やした。
家族。兄弟。双子。片割れ。
その言葉が妙に胸を刺す。さざめく心に、更に波を荒立てる。何故ただの事実でこんなにも胸が重くなるのだろうか。頭が鈍く痛むのだろうか。心がざわめき波立つのだろうか。到底理解できそうにない。
本当ならば、起き上がり薬を飲まなければならない頃合いだ。しかし、そんな気力はとうに尽きていた。眠気だってまだ残っている。あれだけ休め、寝ていろ、と言われたのだ。もっと眠っても文句は言われまい。そんな言い訳を重ね、雷刀は今一度瞼を下ろした。
布団の温もりが再び眠りに誘おうとする中、コンコンコン、と固い音が鼓膜を震わせる。何の音だろう、と眠りの海に足を浸した少年はぼんやりと考える。答えが出るより先に、ガチャ、と金属が擦れる音が飛び込んでくる。そこでようやく、自室の扉が開かれたのだと理解した。
「雷刀」
潜められた声で、誰かが己を呼ぶ。耳馴染んだそれに、今聞くことなどないはずのそれに、心臓が跳ねる。急いで起き上がると、そこにはペットボトルを片手にドアノブを握った烈風刀の姿があった。眠っていると思っていた相手が突然跳ね起きたからか、その海色の瞳は驚きに瞠られていた。ぱちりと薄闇の中碧が瞬く。
「起きていたのですね」
「あれ? 烈風刀? 仕事は?」
「レイシスに『今日は帰って雷刀の面倒見てあげてくだサイ』と言われたので」
薬は飲みましたか、と柔らかな声が問う。飲んだ、と短く返すと、そうですか、と安堵の滲んだ声が部屋に落ちた。開いたドアの前に立ち尽くしていた少年が、部屋に入ってくる。彼はヘッドボードに置かれたライトのスイッチを押した。暗闇に包まれた部屋に小さな明かりが灯る。そのままベッド脇に膝を付けて屈むと、兄の額へと手を伸ばした。
ひくりと肩が震える。昼のように反射的に退きそうになる。けれども、今度こそ己の意志でこの場に留まることを選択した。ぎゅっとシーツを握り締め、動きそうになった足に力を入れる。額に手を当てられるぐらいが何だ。いつも通りではないか。触れられるなんてよくあることではないか。意識する必要なんてない。何でもない、何でもない、と心の中で必死に唱える。けれども、心臓は鼓動を速めるばかりだ。
白い指が朱い髪を掻き分ける。露わになった額に、横向きにされた手がひたりと当てられる。触れたそれは、少しだけ冷たく感じた。
「まだ少し熱があるみたいですね。とりあえず、水分を取ってください」
そう言い、碧は傍らに置いたペットボトルを手に取る。キャップを捻って開け、外した状態で手渡される。ありがとう、と礼を言い、ボトルに口を付けた。ひんやりとした冷たさとほんのりとした甘さが口内を潤していく。優しいそれが心地良かった。ゴクゴクと音をたてて喉が上下する。気付けば、半分近く一気に飲んでしまっていた。思っていたよりも喉が渇いていたらしい。
「食欲はありますか?」
「ない……と思う」
中身の減ったペットボトルを受け取った烈風刀は、また問いを一つ重ねる。返せたのは曖昧な言葉だった。寝起きということもあってか、今のところ空腹感は無い。昼食を食い逃したというのに、腹が減る感覚も、何か食べたいという気持ちも特に湧き起こってこなかった。食いしん坊とよく言われる自分らしからぬものだ。たっぷり眠ったはずだが、まだ本調子とまではいかないらしい。
「でも、食べないと薬が飲めませんよ。スープを作ってあるので、それを飲んでください」
すぐ持ってきますからもう少しだけ起きていてくださいね、と弟は言う。子どもに言い聞かせるような、穏やかながらもはっきりとした声だ。うん、と頷くと、優しい笑みが返される。澄んだ水をたたえたような瞳がそっと細まり、柔らかな白い頬が緩やかに綻ぶ様を見て、心臓が大きく脈打つ。あまりにも異常な反応に、思わず胸を押さえる。触れられた時から速まるばかりの鼓動は、どんどんと大きくうるさくなっていった。
「烈風刀、ありがとな」
異常を訴える身体に動揺しながらも、雷刀は礼の言葉を口にする。あのレイシスに言われたとはいえ、わざわざ早く帰ってきて己の世話を焼いてくれているのだ。自己管理ができずに体調を崩した愚かな己を、である。どれだけ身体が、心が異常なまでに乱れていても、礼ぐらいはちゃんと言わねばならない。
「これぐらい、当たり前でしょう」
家族なのですから。
柔らかな声で言い、少年は扉を閉じる。パタン、と軽い音がどこか遠くに聞こえた。
家族。
そうだ、烈風刀は家族なのだ。この世で唯一の肉親で、血を分けた双子の兄弟で、大切な弟なのだ。
だから、こんなにも独占欲が溢れ出るなんて――恋愛感情を抱くなんて、あり得ない。
「ありえねぇんだよ……」
呟いた声は苦渋に満ちていた。ぼすりと膝の上で皺を描く掛け布団に頭から沈み込む。もう何も考えたくなかった。けれども、はっきりと目覚めてしまった頭は、今しがた耳にした弟の言葉を何度も繰り返し再生した。家族。家族。家族。その三音節を脳味噌に刻みつけんとするようだ。
原因不明の靄が、焦燥が、不安がようやく解決したと思ったのに、この胸は新たな謎に苛まれる。しかも、どうしようもないほど難解なものに。だって、家族にこんなにも独占欲を向ける理由なんて、全く分からない。今までこんなことは一度もなかったのだ。理解できるはずなどなかった――理解などしたくなかった。
独占したい。奪われたくない。自分だけのものであってほしい。自分だけを見てほしい。
身勝手な願いを本能が喚き立てる。理性が捻じ伏せようとも、暴れるそれは声を大きくするばかりで効果が無い。足りない脳をガンガンと揺らし、靄がかる心を痛めつけるばかりだ。『独占欲』という名をつけたはずの感情が耳元で囁く。いい加減受け入れろ、と。
受け入れられるはずがない。だって、烈風刀は家族なのだ。弟なのだ。男なのだ。己はレイシスが好きなのだ。レイシスだけが好きなのだ。だから、だから。
ふっと身体の力を抜き、後ろに倒れ込む。ぼすん、とマットレスが鈍い音をたてた。柔らかなそれが衝撃を吸収してくれたため、痛みは欠片も無い。けれども、依然本能が騒ぎ立てる脳味噌は鈍痛を訴えた。
違う、違う、と理性が喚く。それ以上の声量で本能が叫ぶ。違わない、その通りだ、間違いないのだ、変えられない事実なのだ、と。
重い腕を持ち上げ、目を覆い隠すように乗せる。うそだろ、と口の中で呟く。舌に乗った音は、酷く苦いものだった。
ようやく気付いた。気付かされた。理解してしまった。理解なんてしたくなかった。
これは独占欲だ――そして、恋心だ。
己は――嬬武器雷刀は、嬬武器烈風刀に恋している。
03.■煩
ガタガタ、と机の脚と床が擦れて音をたてる。カタン、と天板と天板が軽くぶつかって合わさる。三つのそれがくっつきあったところで、雷刀は椅子に座った。合わさった机の隣と向かいに、レイシスと烈風刀も席に着く。三人の目の前には、彼らを象徴する色の包みが置かれていた。
少年は楽しげな手つきで包みを解いていく。程なくして現れたのは、長方形の弁当箱だった。深い赤色のそれは使い込まれており、表面には細かな傷がいくつもついている。一緒に包まれている箸箱も、蓋に描かれた絵柄が消えきっていた。
「いただきマス!」
「いただきまーす!」
「いただきます」
弁当箱を前に、三人は手を合わせる。元気に挨拶を口にし、箸を手に取った。
二段になった弁当箱を一段ずつに分け、朱は蓋を開ける。深い箱いっぱいに詰め込まれた白米と、色とりどりのおかずが姿を現した。好物がたくさん詰まったそれに、柔らかな頬が緩んだ。
まずは卵焼きに箸を伸ばす。美しい黄色に食欲をそそる焦げ目が乗ったそれを口の中に放り込む。瞬間、優しい甘みが口内に広がった。今週の料理当番は烈風刀だ。彼の作る卵焼きは甘い。卵の風味と砂糖の優しい甘さが美しく合わさったそれは、己の大好物だ。
「んめー!」
「毎度毎度大袈裟ですね」
歓喜の声をあげる雷刀に、烈風刀は呆れたような顔で言う。表情と口調に反して、その頬は薄い桃が浮かんでいた。青い箸が動き、彼もまた卵焼きを口にする。よく噛み、飲み下し、コクリと小さく頷く様は、今日の弁当の出来をよく表していた。
「烈風刀のお料理、美味しいデスモンネ。羨ましいデス」
心底嬉しそうな朱の姿に、レイシスはニコニコと楽しげな笑みを浮かべる。彼女の前に置かれた薄桃色の弁当箱の中には、色鮮やかな野菜や見目良く美しいおかずが詰め込まれている。こんなものを作ることができるぐらい彼女も料理上手だが、それでも碧い彼には敵わないと思っているらしい。事実、弟の料理スキルの高さは仲間内では有名だ。
「では、明日はレイシスの分も作ってきましょうか?」
「はわっ、いいんデスカ?」
「もちろん。二人分作るのも三人分作るのも変わりませんから」
「はわ…………。ジャア、お願いしマス!」
少しの逡巡の末、薔薇色の少女はぱぁと顔を輝かせる。明日の美味しい弁当に思いを馳せているのだろう、楽しみデス、と烈風刀に向けて満開の笑みを咲かせた。輝かしい笑顔を見せる少女に、碧の少年は口元を綻ばせた。
二人の様子に、朱の少年はそっと目を細める。今しがた食物が落ちていった胃の腑に、入った質量以上の重みを感じた。
これは『独占欲』だと思っていたものに改めて『恋心』という名を付けて以来、この心はほんの少しだけ落ち着いていた。今までは一体何なのか全く分からない感情に振り回されていたが、名前が付いて正体が分かってしまえば対処は多少できる。『恋心』自体は知っている――今だってただ一人の女の子に向けている、既に持っているものなのだ。今までこの胸に抱く好意を抑えたことはなかったが、手綱を握るぐらいは何とかできた。
けれども、この感情はふとした時に暴れ出すのだ。
例えば、朝起きたばかりで寝癖のついた頭を見た時。キッチンで軽やかに料理をする後ろ姿を見た時。ペンを握り真剣に授業を受ける横顔を見た時。ベランダで育てている野菜に水をやる手を見た時。風呂上がりにリラックスした様子で水を飲み下す喉を見た時。おやすみなさい、と律儀に言う眠たげな顔を見た時。
日常の些細な一面を見るだけで、心臓が跳ねる。脈が速くなる。息が詰まる。どれもこれも飽くほど見てきた、今まで何とも思っていなかった姿だというのに、『恋心』とやらを自覚した日からこんなに些細なことでこの胸は波立つのだ。
ずっと前から恋しているレイシスに対しても、同じ事は多々あった。二人きりで話していると、鼓動が徐々に速くなっていく。何かの拍子に白く小さいたおやかな手に触れられたなら、心臓が大きく跳ねる。あの花咲くような可愛らしい笑顔を向けられれば、ぎゅっと息が詰まる心地がする。全て経験済みだ。
けれども、烈風刀に対してのそれは、彼女に対するそれの何倍もの威力を発揮していた。括られたように心臓が強く痛むなんてこと、仕方を忘れたように呼吸が変になるなんてこと、測らなくても明らかにおかしいと分かるくらい脈が速くなるなんてこと、どれも経験したことがない。どれも過剰で、どれも異常だ。
今だってそうだ。レイシスと烈風刀が楽しげに話しているだけで、胃に何か重いものが落ちてくる。思考に何か黒い靄がかかる。これはきっと『嫉妬』だ。桃の少女に想いを寄せている間も、何度も経験したものだ――特に、弟相手に。
今、自分はどちらに嫉妬しているのだろう。レイシスに自分の料理を食べてもらえる烈風刀にか、それとも烈風刀に好意を向けられているレイシスにか。恋に揺れる心は正確な判断がつけられず、頭と心を黒く霧がからせていくばかりだった。
思考を支配せんとする暗雲を振り払うように、白身魚の揚げ焼きを一つ引っ掴んで口に放り込む。そのまま、米もかっこんだ。香ばしさと程よい塩気を、ほんのりと甘い白米が受け止める。口内から溢れ出んばかりの旨さに、自然と頬が緩む。やはり、烈風刀の作る料理は美味しい。見目から味付けまで何もかもが完璧だ。その美味しさを今唯一享受できる幸せに、重くなった心が幾分か和らいだ気がした。
三人で談笑しながら、穏やかな昼食の時間が流れていく。湧いて出た嫉妬心は、無理矢理心の隅に追いやって隠しこんでしまう。いつまでも答えの出ないそれに構うより、今の幸せを味わう方が大切だ。
「ごちそーさまでした!」
空になった弁当箱を前に、雷刀はパン、と音をたてて手を合わせる。元気な声が賑やかな教室内に響いた。
「お粗末様でした。ちゃんとよく噛んで食べましたか?」
「ちゃーんと噛んでるし味わってるよ。烈風刀の弁当うめーもん」
弟の問いに答えつつ、兄は食べ終わった弁当箱を組み直していく。蓋を閉めて重ねたそれと箸箱を赤いバンダナで包み、机の端に置いた。
満腹感と這い寄る眠気に机に突っ伏していると、隣と向かい側からもごちそうさまでした、と合唱が響く。カチャカチャと弁当箱を片付ける音が鼓膜を震わせた。
「こら、眠るなら自分の席にしなさい。迷惑でしょう」
「ちょっとだけだって」
兄弟の問答に、少女はふふ、と笑声を漏らす。この教室の昼休憩時間によく見られる風景だった。日常の一部であるそれは、幸福に満ちていた。少なくとも、少年にとって三人で過ごすこの穏やかな時間は日々の癒やしの一つであった。
「嬬武器く――あ、烈風刀君」
だらだらとだべる中に、少し細い声が飛び込んでくる。少女らしいそれは、兄弟の名字を口にしたところで、改めて弟の名を呼んだ。
心臓がばくりと大きく脈打つ。呼ばれていないというのに、思わず起き上がって声の方へと急いで目をやる。そこにいたのは、書類を胸に抱えた女子生徒だった。普段会話することのない、特に親しいわけでもないクラスメイトだ。そんな人間が、何故弟の名を呼んだのだろうか。気安く弟を名前で呼んだのだろうか。
「はい、どうしましたか?」
「委員会のことでちょっと相談があって……」
これなんだけど、と名字しか知らぬ少女は、烈風刀の前に書類を広げペンで文章をなぞる。しばしの思案の後、あぁ、と碧は声をあげる。これはこの間決まりまして、と少し不安げな顔をした少女を見上げて会話を続けた。
主席であり、クラス委員にも属している烈風刀の元に問いに来る生徒は少なくない。今日はそれが起こった日なのだろう。予測できない事態が。
頭がけたたましく警鐘を鳴らす。口の中が乾く。脈が変な調子で跳ねる。石でも詰め込まれたように胸が重くなる。こめかみを汗が伝う感覚。教室の喧騒が遠くに聞こえる。そのくせ、見知らぬ少女と弟の声だけはしっかりと耳に届いていた。
「……ごめん、ちょっとトイレ」
弁当箱を鞄に片付ける少女の返事を聞くより先に、少年は席を立った。今にも駆け出しそうなほど早い足取りで人気の多い教室と廊下を縫い歩き、教室棟の端にあるトイレへと飛び込んだ。
幸いと言うべきか、狭い空間には誰もいなかった。急いで個室に入り、乱暴に扉と鍵を閉める。そのまま、蓋を閉じた洋式便器の上にずるずると座り込んだ。
両の手で顔を覆う。手と手の隙間から、酷く重い溜め息が吐き出された。節の目立った手で隠された顔は幾分か色を失っており、スカーレットの瞳はぎゅうと力強く閉じられていた。
烈風刀君。
女子生徒の声が今一度脳内に響く。レイシス以外の、自分以外の誰かが、弟の名前を呼んだ。それも、同年代の女子が。
クラスに嬬武器姓は二人いるのだ。事実、どちらか区別するため、自分たち兄弟はクラスメイトから名前で呼ばれることがほとんどである。今日のあの女子だって、どちらを呼んでいるか明確に示すために『烈風刀君』と名前で呼んだのだ。合理性上、仕方の無いことなのだ。そんなことは分かっている。頭ではしっかり理解している。
けれども、それが嫌だと――レイシス以外の女性が弟の名を呼ぶことを嫌だと思ってしまった。親しくもないくせに気安く名前で呼ぶなと口にしそうになってしまった。些細なことで喋りかけないでくれと叫びたくなってしまった。
「うっそだろ……」
消え入りそうな声で呟く。あまりにも重々しいその音は、狭い空間の床に落ちて砕ける。破片は床に転がり、すぐに消えた。
明確な嫉妬だった。これ以上にない独占欲だった。今湧いて出てきた苛烈なこの感情は、嫉妬心と独占欲以外の何物でもない。誰かが弟を名前で呼ぶ。たったそれだけの行為で、莫大な嫉妬心が生まれ、脳と心を一瞬で支配した。トイレに駆け込んで、この酷いことになっているであろう顔をあの可憐な少女から隠さねばならないほど。
こんなこと――弟が他人に名前で呼ばれるようなことは、今まで数え切れないほどあったではないか。なのに、『独占欲』とやらを、『恋心』とやらを自覚した途端これである。ふざけているとしか思えない。だって、たかが名前を呼ばれた姿を見ただけでこんなことになるなんて。
何より衝撃的だったのは、これは烈風刀への『恋心』故のものだったことだ。レイシスにも『恋心』を向けているが、こんなにも強い感情を抱いたことはない。他の男子、特に弟に嫉妬することはあれど、こんなに苛烈なものではなかった。彼女と接する時に生まれる嫉妬心はほんの少しだけ、胸の内に燻る程度だった。
だが、今は何だ。彼に対するこの想いの強さは何だ。燃え盛るほど激烈なこの想いは何だ。何で、彼にはこんなにも重い感情を向けてしまうのだ。
頭を抱え、下を向く。壊れたように警鐘を鳴らし続ける頭が痛い。嫉妬心を轟々と燃やし独占欲を叫ぶ心が痛い。驚愕と絶望に浸った視界が暗くなっていく。呼吸が下手になり、喉が詰まる。苦しくて仕方が無い。
どうすんだよこれ、と音にならぬ声で呟く。今まではどうにか押さえ込んで隠してきた。たまに暴れるが、ある程度コントロールの効くこれは飼い慣らせると、飼い殺せると思っていた。蓋して塞いで押し込めてどうにかできるものだと思っていた。
けれども、実際はあまりにも浅はかな考えだった。ほんの少しのきっかけで様々な感情を喚き散らす頭は、心は、制御なんてできない。こんな些細なことで溢れ出すこの醜い感情を、一体どう操れというのだ。まだ数年しか生きていない自分には、到底無理だ。
こんなもの、隠しきることなんてできない。いつか、今日のような些事で感情は溢れ出し、彼にぶつけてしまうに決まっている。元より人よりも感情のコントロールが下手くそな自分の未来など、手に取るように分かった。
もう、言ってしまうしかないのだろうか。多少制御ができている内に、自分の意志でしっかりと告げる方がいいのではないか。今日のように感情が暴走してしまい、止めることができないほど溢れ出るそれを力いっぱいぶつけてしまうよりずっとマシだ。
でも、と心の臆病な部分が懸命に声をあげる。こんな想いを伝えて、迷惑ではないだろうか。否、実の兄弟から恋愛感情を向けられるなんて、迷惑に決まっている。好きな人に迷惑をかけるだなんて、避けるべきことだ――いや、そんなの建前だ。今の『兄弟』という関係性が壊れてしまうのを恐れているだけだ。今の居心地良い距離感を、生まれた時から築き上げてきた関係を、絶対に変わらぬ信頼を、己の手で壊してしまうのが怖いのだ。『家族』だと澄んだ目で言ってくれた、あの優しい弟を裏切るのが恐ろしいのだ。
理性は冷静に告げる。やめておけ、と。自ら今の関係を壊すようなことはするな、と。
本能は声高に叫ぶ。言ってしまえ、と。この想いはもうぶつける他解決方法がないのだ、と。
「どうすりゃいいんだよ……」
溜め息を吐き出すように声を漏らす。答えなどないそれは、磨かれた床に落ちて消えた。
ほのかに色付いた街灯の明かりが、灰色のアスファルトを照らす。等間隔に並んだ光の円の中に、三つの影が伸びる。同じ数の靴音が重なり、夜の住宅街に優しく響いた。
「今日もお疲れ様デシタ!」
いつもの角で足を止め、レイシスはくるりと身を翻し隣を歩いていた二人を見る。光に照らされつややかに光る鴇色の瞳が弧を描く。桜色の唇が大きく開き、ハキハキと言葉を紡いだ。
「おつかれさまー」
「明日もよろしくお願いします」
少女の言葉に、朱はいつものようにひらひらと手を振る。碧もふわりと口元を綻ばせ、人好きする笑みを浮かべる少女に言葉を投げかけた。普段と変わらぬ二人の様子に、桃も元気に声をあげる。
「ハイ! ジャア、また明日!」
肩に掛けた学生鞄の持ち手をきゅっと握り、薔薇色の少女は笑顔で別れの言葉を告げる。空いた手を大きく振ると、華麗にターンし背を向け夜道を歩いていった。
兄弟二人は華奢な背に手を振る。やがてその姿が角に消えて見えなくなったところで、言葉を交わすことなく同時に足を踏み出した。
二人きりで夜道を歩く。日常的なことだというのに、今は胸に石でも詰まっているような心地だった。息が苦しいのを誤魔化すように、雷刀はネクタイを軽く緩める。通気性は良くなったはずなのに、心のつかえは取れそうになかった。
原因は分かっている。間違いなく昼の一件――嫉妬心と独占欲が醜くやかましく主張したあの事件だ。勢いよく感情が溢れ、危うくコントロールを失いかけたあれは、自身にとって非常に大きな出来事だった。しかし、烈風刀にとってはただの日常の一幕である。こうやって二人でいても、話題にすら上らないような些事だ。その認識の差がまた苦しい。こんな些末なことでうじうじと悩み燻っている自分の愚かさが明らかになる様に、自嘲と痛苦を覚えた。
そうだ、と静かに隣を歩いていた弟がいきなり口を開く。突然の声に、思わずびくりと肩が震えた。声の主はそんな己の様子に気付いていないのか、はたまた気にしていないのか、そのまま会話を続けた。
「晩ご飯、何か食べたいものはありますか?」
「……え? オレが決めていいの?」
食事のメニューは、毎週の食事当番に決定権がある。特に、計画性の高い彼は栄養バランスから冷蔵庫の在庫処理までしっかりと練られた堅実な献立を作り上げてくれるのだ。このようにわざわざ己に内容を伺ってくるのは珍しい。
「最近内容がマンネリ気味になってきていますから……。たまには、貴方の意見も聞きたくて」
そう言って少年は頬を掻く。人工灯に照らされた顔には、苦い笑みが浮かんでいた。彼のレパートリーは豊富で飽きや不満など感じたことはない。それでも、本人にとっては満足いかず、まだまだ高みを目指そうとしているようだ。勤勉で何事にも妥協しない彼らしいと言うべきだろう。
んー、と小さく唸り、宙空を見上げる。わざわざ材料を買い足すよりも、今あるもので作ることができるものがいいだろう。この間二人で行った買い出しの内容と、冷蔵庫の中身を思い出す。
「こないだのトマト、まだたくさんあったよな?」
「はい。あと四つほどありますね」
烈風刀が丹精込めて献身的に世話をした甲斐あって、先日実り収穫したトマトはどれも丸々とした大きなものだった。両手いっぱいに採れたそれは、レイシスに譲ったり毎日の料理で消費したりしているが、まだいくらか残っている。
無計画に育ててしまったことを後悔しているのだろう、答える表情はどこかバツの悪いものだった。一つも枯らすことなく全部元気に育ったのだからいいではないか。それに、たくさん食べられる方が嬉しいのだ。そんなに気にしなくてもいいのに、と心の内で呟く。彼に伝えたところで、その陰った心は晴れないだろうけれど。
トマトに合う具材は何だろう、と記憶している冷蔵庫の中身を再検索する。先日の買い物で買い込んだ鶏肉がいくらか残っていたはずだ。それが一番調理しやすくていいだろうか。
「じゃあ、鶏肉とトマト煮たやつ」
「そんな簡単なものでいいのですか?」
朱が人差し指をピンと立てて答えると、碧は意外そうにぱちぱちと瞬きをした。助かりますけれど、と付け加える声はどこか呆けたものだ。
「いーの。烈風刀の料理は全部美味いから何だって食べたいしな」
どうせ使うならば、消費期限の近いものを優先して使うべきだ。トマトと鶏肉ならばすぐに煮えるから、帰ってから作っても程なく夕食にできるだろう。何より、最後の言葉が本心だ。多大なる努力の末に高いスキルを得た弟の料理は、どんなものでも特別美味しい。それに彼が愛情込めて作った野菜が合わさるのならば尚更だ。
言葉とともにニッと笑いかけると、燐灰石の瞳が大きく瞠られる。ぱちりと瞬き一つ。青白い光に照らされた頬がふわりと色付くのが見えた。
「褒めても何も出ませんよ」
ふ、と息を吐き、少年は応える。丸く見開かれていた目がゆっくりと細まる。口元は綻び、口角が緩く持ち上がっていた。少しばかりぶっきらぼうな言葉に反して、浮かべる表情は柔らかで嬉しそうなものだった。
ばくん、と心臓が大きく音をたてる。臓器はポンプとしての役割を確かに果たしているはずなのに、止まってしまったかのように思えた。力いっぱい締め付けられているかのように胸が苦しくなる。血液が脈を打つ音がいやに大きく聞こえる。喉がきゅうと音をたてて狭まった。
その蕾が綻ぶような控えめな笑みが愛おしい。ストレートな褒め言葉を受け止めきれない姿が愛らしい。素直になりきれない様子が可愛らしくてたまらない。彼に対する愛が、脳を、胸を、身体中を巡っていく。その美しいかんばせから目が離せない。
好きだ。
烈風刀が好きでたまらない。愛おしくてたまらない。誰にも奪われたくなくてたまらない。自分だけのものであってほしくてたまらない。それが、誤魔化すことなどできない本心なのだ。はにかむ様を目の前に、そのことをまざまざと思い知らされる。
心の底から溢れ出る『好き』という言葉が、喉まで迫り上がってくる。口を突いて出そうになるそれを、必死に押し込めどうにか飲み込む。ぐ、と胃の腑が重くなったように思えた。
顎に指を当てて思案する弟の横顔から、バッと視線を逸らす。あまりにも不自然な動きだが、気付かれないで済んだだろうか。一抹の不安が胸をよぎる。それも全て、頭の中を埋める二文字が消し去ってしまった。
ダメだ、と蹲り頭を抱えたくなるのを必死に堪える。もう駄目だ。こんなもの、もう抱えきれるわけがない。こんな衝動、いつまでも止められるわけがない。こんな感情、いつ飛び出してしまうか分からない。こんな短い言葉、いつ吐き出してしまうか分からない。
いつか勝手に飛び出してしまうぐらいなら、己の意志ではっきりと伝える方がずっと良いに決まっている。この意志で、この口で、全身に抱え込んだこの想いを告げるべきなのだ。きっと、きっとそうなのだ。
ぐ、と一人唇を噛み締める。肺が機能していないのではないかと疑うほど息が苦しくなる。燃え盛る炭でも詰められたかのように胸が重く熱くなる。それも全部、この『恋心』とやらが原因なのはとっくに分かっていた。もう一生逃れられない、こいつのせいだと。
「雷刀?」
「ぅえっ? へ? 何?」
澄んだ声が己の名を呼ぶ。ぐるぐると重く渦巻く思考の中に突如飛び込んできたそれに、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。変に裏返ったそれに驚いたのか、己を呼んだ烈風刀は半歩横に後退った。丸くなった綺麗な碧色が訝しげに細められる。
「何ですか、変な声を出して」
「いっ、いや、何でもない。腹減ったなーって考えてただけ」
何でもないと言うようにひらひらと大きく手を振る。不自然な挙動と軽薄な口ぶりに、納得がいかないように眉がひそめられた。深く追求する気は無いのだろう、そうですか、と一言だけ返ってきた。
「で? どした?」
「他に食べたいものはありませんか? 無ければサラダを作るつもりなのですが」
「ん、それでいいよ。烈風刀の野菜美味いし、楽しみ」
問うてくる弟に、兄は笑って返す。心からの言葉だ。彼が丹精込めて作った野菜は、その愛と手間暇が掛かっているだけあって味が濃厚で、何も付けずに食べても十分に美味しい。彼の手際の良い調理を通せば、その味は更に飛躍する。愛情込められた新鮮なレタスに、カリカリに焼いたベーコンと彼愛用の塩を軽く振りかけたサラダは、シンプルながらも舌を唸らせる一品だ。またあの味が楽しめるだろうか、と考え、重くなっていた胸が少しだけ晴れた。
そうですか、と碧は少し強い口調で応える。そこに照れがあるのは、薄く色付いた頬と少しだけ尖った唇を見れば明らかだ。その様が愛らしい。その横顔が愛おしい。また溢れ出そうになる感情を、理性が懸命に抑え込んだ。
言おう。想いを告げよう。この胸に抱えた恋心を、全てさらけ出してしまおう。
一人決心し、雷刀は視線を足下に向ける。街灯に薄く照らされたアスファルトと使い込まれた靴が深緋の瞳に映った。
目の前に立ち塞がる木目を見つめ、雷刀は唇を軽く噛む。首に掛けたタオルを握る手に、無意識に力が込められた。
告白しようと決心して一日が経った。二人きりの夜が訪れた今この時までに、感情の整理も覚悟も済ませた。あとは、この口であの二文字を愛しい人に告げるだけだ。
だというのに、意気地の無い己は扉の前でいつまでも立ち尽くしている。このドアをノックし開くだけで目的の人に会えるというのに、その普段なら簡単にこなせる動作がどうしてもできないでいた。木目調のそれを叩こうと拳を握り締め軽く掲げたまま、随分と時間が経ってしまったように思えた。濡れた髪から流れる雫が頬を伝う。水気のある白いタオルが首まで流れたそれを吸い取った。
すぅ、と深呼吸一つ。動けず苦々しく細めていた目をぎゅっと閉じ、思い切り開く。ごくりと唾を飲み込み、強く意識し掲げた手を動かす。骨の浮く硬い拳が、あまり厚くない扉を叩く。コン、と軽い音が痛いぐらい静かな廊下に落ちた。
勇気を振り絞り、ノックをもう一つ加える。一拍置いて、どうぞ、とくぐもった声が板の向こう側から響いた。縋るようにタオルを握り、少年はドアノブに手を掛ける。普段の倍ほどゆっくり回し、銀色のそれを押した。きぃ、と蝶番が高い声をあげる。薄暗い廊下に光が一筋差した。
扉を開いた先、広がった部屋の中には、椅子を回し半身をこちらに向けた烈風刀がいた。長年使われてきた学習机の上には、ノートと教科書、電子辞書が広げられている。きっと、予習の最中だったのだろう。勤勉な彼は予習復習を欠かさない。主席の座を守り続ける彼の努力がよく表れた姿だ。
「どうしました?」
「烈風刀、あ、の……」
えっと、その、と意味の無い言葉ばかりが口からこぼれ落ちる。きっぱりと『好き』と言いたいというのに、喉は無駄な発声を行うばかりだ。告白すると決意を固めたはずなのに、口にすべき二音節だけがどうしても出てこない。無為な音を吐き出す喉が細くなる感覚。放つ音はどんどんと小さくなっていき、しまいには呟くようなものとなってしまった。
「あ、お風呂空きました?」
「そう、だけど、そうじゃなくて」
首に掛かったタオルから察したのだろう、そう言って立ち上がる弟を声で制す。喉から絞り出されたのは、静かな夜によく響く大きな音だった。いきなりのことに面食らったのか、碧い瞳が一度瞬く。自身でも予想外の声量に動揺し、あ、う、とまた意味の無い音が口からぽろぽろと落ちる。あまりにも挙動不審な己の様子にか、目の前の小ぶりな頭が傾いだ。
「どうしたのですか、一体」
「えっと、烈風刀、あの、さ」
下へ下へと向かっていた視線を一気に上げ、目の前のトルマリンをまっすぐに射抜く。人工灯に照らされたそれは、透き通った美しい色をしていた。口の中から水分が消え渇ききっていく感覚。ぐぅ、と息が詰まる感覚。胃がじくじくと痛む感覚。胸が燃え盛るように熱くなる感覚。反して、無様に怯える心臓が端から凍りついていく感覚。身体の内を駆け巡る衝動を必死に律し、雷刀は小さく息を吸う。烈風刀、と弟の名を呼ぶ声は、愚かしいほど震えていた。
「烈風刀。オレさ、烈風刀のことが好き」
震える声で、この胸の内の感情を紡ぎ出す。抱え込んだ愛を言葉にする。気付いてしまった恋心を音という形にする。静かな部屋に、己の発した拙い告白が響いた。
言った。言ってしまった。もう取り返しの付かないところまで来てしまった。吐いてしまった言葉を取り消すことなどできない。心臓が痛いほど鼓動する。喉がひりつきを覚えるほどカラカラに乾く。それでも、開いた朱い目は震えながらも一対の碧を真正面から見据えた。
見つめた先の苔瑪瑙が大きく瞬く。いくらかの空白の後、丸く大きなそれはスッと細められる。髪と同じ色をした形の良い眉が、かすかにひそめられた。
「何ですか、唐突に」
「……ごめん」
「謝るようなことではないでしょう」
反射的に謝罪の言葉を口にすると、鋭い声が飛んでくる。妙に不審な挙動に、あまりに唐突な言葉に、消沈しきった謝罪。この数分間の己の姿はどれも彼には異常に映ったのだろう、はぁ、と溜め息が一つ落ちる。そんな些細な音にすら、びくりと身体を震わせてしまう。彼の一挙手一投足が怖くてたまらなかった。これから何が起こるのか――どんな言葉が返ってくるのか、恐ろしくてたまらない。原因は全て自分にあるというのに。
「…………まぁ、僕も貴方のことは好きですよ」
薄く色付いた唇から放たれた言葉は、まるで独り言のようだった。ともすれば消えてしまいそうな小さなそれは、確かに己の耳に届いた。
求めていた二音節に、心の臓が一際大きく跳ねる。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が苦しい。脳の奥が電流でも流されたかのように痺れた。
好き。
その一言が己に向けられて発せられたことを、脳が処理しきれない。心が受け入れきれない。頭の思考する部分がフリーズする。どれだけ脳が受容せずとも、『好き』という言葉が想いを寄せる人の口から放たれたのは、紛れもない事実だ。緊張で冷え切った心に火が灯る。喜びを象徴するその熱が、身体全体を駆け巡っていった。
「ほん、と?」
「えぇ。家族のことをそう簡単に嫌うわけないでしょう」
そう言って、目の前の碧は眉尻を軽く下げ薄い笑みを浮かべる。呆れを含んでいるような、照れを滲ませるような、愛しさを孕んだような、少し複雑な色をしたものだ。そこには確かな親愛の情が宿っていた。
家族。
その三音節に、熱が溢れ出す心が一瞬で凍る。力いっぱい殴られたかのように脳味噌が揺れる。括られたように喉がきゅうと締まる。鉛でも詰められたかのように胃が重くなる。サァと血の気が引いていく感覚が己でも分かった。
「ち、が」
言葉に込めた意味を仔細に伝えたいのに、言葉を作るために必要不可欠な舌はもつれて音を形取ることができない。ぱくぱくと開閉を繰り返す口から漏れるのは、声帯が無駄に震えた結果の濁った音ばかりだ。
「ちが、くて……、そういうのじゃ、なくて」
どうにか作り出した否定を意味する言葉に、目の前に立つ弟はことりと首を傾げる。不審さもここまで来れば心配を生むのだろうか、ゆらゆらと揺れるガーネットを見つめるサファイアには、懐疑と憂慮が浮かんでいた。その優しさは『家族』を思い遣る故のそれであることが分かるだけに、今は苦しくて仕方が無かった。
「そうじゃなくて、さ……、あの、オレ」
痛みを訴える胸元を掴む。握った拳に、無意識に力がこもる。柔らかな布地に強く皺が刻まれた。地に吸い込まれそうになっていく視線を懸命に上げる。その顔を、その目を見て告げたかった。逃げないと、正面から向かい合うと決めたのだ。己の心の弱さによって目を逸らすなんてことはしてはいけないのだ。
「オレは、恋愛って意味で――愛してるって意味で、烈風刀のことが好き」
好きなんだ、と絞り出した声はみっともないほど震えていた。
言葉にして、この心を再確認する。そうだ、己は烈風刀が好きなのだ。愛しているのだ。これは、もう一生消えることのない醜い恋心だ。
振り絞るようなそれといつになく真剣な表情でその真意を察したのだろう、丸い瞳が瞠られる。宝石のようにつやめくそれは、驚愕にゆらゆらと揺らめいていた。呆気に取られたように、小さな口がぽかんと開く。彩る唇は、かすかに色を失っていた。
「……冗談も大概に――」
「冗談で言うことじゃないだろ?」
冷たさを孕んだ声を、依然震える情けない声が切り裂く。いくらお調子者の自分でもこんな質の悪い冗談は言わないことなど、彼も分かっているだろう。承知の上で『冗談』と切り捨てたのだ。当たり前だ、実の兄から恋愛感情を向けられるだなんて、事実であるより悪質な冗談だと言われる方が納得できるに決まっている。
「だって、貴方はレイシスが好きなのでしょう……?」
問う声は動揺に震えていた。雷刀は今までずっと『レイシスが好きだ』と公言していたのだ。その熱烈な好意がいきなり自分に向けられるだなんて思ってもみなかっただろう。そう、思うことなどあり得ない。相手は同性で、血を分けた双子の兄弟なのだ。そんな人物から愛の告白をされるだなんて、想定している方が稀だ。
ぐ、と息が詰まる。弟の言う通りだ。己はレイシスが好きだ。けれど、彼女に対するそれとは比較にならないほどの強い情動が、今彼に向けられているのだ。それは『恋心』だと正体を知ってしまった今、己が好きなのは間違いなく烈風刀なのだ。レイシスを嫌いになったわけではない。彼女への愛が無くなったわけではない。ただ、彼女に対する愛を、彼に対する愛が上回ったのだ――上回ってしまったのだ。
「でも、好きなんだ。訳分かんなくなるぐらい、眠れなくなるぐらい、熱出すぐらい、烈風刀のことが好きで……大好き、なんだ」
狭まる喉から必死に声を絞り出す。目頭が熱い。鼻の奥が痛む。涙がすぐそこまで迫り上がってきていることが自分でも分かる。溢れ出そうになる雫を、唇を噛み締めてどうにか耐える。泣きたくない。泣いてはいけない。これ以上、好きな人の前で無様な姿を晒したくなかった。
夜の静寂が二人を包み込む。LEDライトに照らされた部屋は明るい。しかし、空間を満たす空気は暗く重いものだった。
「……すみません、考える時間をください」
長い長い沈黙の末、烈風刀は顔を伏せて言う。酷く沈んだ、動揺に満ちた痛々しい声だった。当たり前だ、家族から愛の告白をされて平常心でいられるほど、自分たち兄弟は成熟していない。一言でも応えられるだけで上々だろう。
わかった、と絞られ音を発しづらくなった喉でどうにか返す。無意識に、ごめん、という言葉までこぼれ落ちた。返答はない。ただ二人、口を閉ざして立ち尽くすのみだ。
くるりと踵を返し、雷刀はドアへと歩みを進める。入ってきた時よりもマシな動きでノブを回し、扉を開ける。おやすみ、と一言だけ残し、少年は重苦しい空気に包まれた部屋から脱出した。
廊下を足早に歩き、急いで己の部屋に向かう。乱暴にノブを回してドアを開け、大きな音をたてて閉める。そのまま、扉に背を預けずるずるとへたり込んだ。もう、立つことすらままならなかった。
言った。とうとう言ってしまった。この胸を焦がす感情を彼に伝えてしまった。『恋心』なんて醜くて汚らしいものを、彼の前でさらけ出してしまった。
胸が苦しくてたまらない。頭が痛くてたまらない。心が痛くてたまらない。ようやく抱え込んだ感情を解放したというのに、気分は地の底へと落ちてゆくばかりだ。答えが絶望的なこともある。己のエゴで彼を困らせてしまっていると言うこともある。何より、長年築いてきた彼との関係が壊れてしまったのが、この小さな心を苦しめていた。
壊してしまった。生まれてきた時から築き上げてきた『家族』という関係を、『兄弟』という唯一無二の関係を、この手で壊してしまったのだ。もう二度と修復できないと分かっていて、自ら壊しにいったのだ。
立てた膝に額を当てる。目頭が熱い。鼻の奥が痛い。じわ、と涙腺から水が迫り上がってくる。先ほどまでは唇を噛み必死に耐えてきたが、もう限界だった。我慢を諦めた瞬間、ぶわりと涙が一気に湧き出る。溢れたそれが肌を伝い、透明な線を描いていく。ぽたぽたと垂れた雫が、服に水玉模様を散らした。
覚悟はしていた。決心も固めていた。だが実際はどうだ。こうやって無様に泣いているではないか。何が覚悟だ。何が決心だ。結局のところ、どれも中途半端な甘っちょろいものではないか。嫌悪感が奥底から湧いてくる。苦いそれが、雫に変換されて目からこぼれ落ちた。
ぅ、と食い縛った歯の隙間から嗚咽が漏れる。ぼたぼたと落ちる雫が服を濡らす。電気も点けない暗い部屋の中、少年は熱い涙をこぼし続けた。
04.■
天から降り注ぐ陽の光が肌を焼く。燦々としたそれは無邪気にアスファルトを強く照らし、熱気を作り出す。夏はすぐそこまで迫っているようだ。
「あちぃ……」
「まだ涼しい方でしょう」
ネクタイを緩め気怠げに呟く雷刀に、烈風刀は常通りの澄んだ声で返す。その首筋には、薄く汗が浮かんでいた。多少なりとも暑さにやられているのにこうも涼やかに返すのだから、弟は変なところで我慢強く負けず嫌いだ。痩せ我慢なんてしなくてもいいのに、という言葉は心の中にしまっておく。
隣を歩く碧の横顔をそっと見やる。毎日野菜の栽培で陽に照らされているはずなのに、その肌は変わらず美しい白を保っていた。血を分けた兄弟だというのに、日に焼けやすい己とは体質が違うらしい。不思議なものだ。
考えた『兄弟』という単語に、心臓が痛みを覚える。自業自得だと分かっているのに、足りない脳味噌は一丁前に嘆くのだ。
烈風刀に告白してから三日が経った。答えはまだ返ってきていない。何事にも真摯に向き合ってくれる彼のことだ、きっと真剣に悩み考えてくれるだろう。そう思い、急がなくていい、ゆっくり考えてくれ、と伝えている。その際に、申し訳ありません、と謝った彼の表情は以前暗く、声は重苦しいものだった。そんな顔をさせたくないのに、と胸が痛む。その表情を生んだのは間違いなくお前なのだ、と痛苦に苛まれる心が囁いた。
あの日、『家族』という関係は壊れてしまったはずなのに、それでも弟は家庭内外ともに『兄』として扱ってくれている。変わらず『家族』であるように振る舞ってくれていた。彼がそうしているのだ、己もそうするしかあるまい。だから、あんなことがあった今も、以前と変わらぬ形で会話ができている。彼の配慮は救いだった。
それでも、それはあくまで今まで自然に積み上げてきたものではなく、烈風刀の努力によって作られているものであるということは嫌というほど理解していた。例えば、視線が合った時。今まで何の反応も示さなかった彼は、目と目が合う度わずかに固まるようになってしまった。例えば、会話する時。言葉が途切れた時、彼はどこか申し訳なさそうな、悲しそうな顔をするようになってしまった。例えば、通学中の今。隣を歩く彼との距離は一歩分だったのに、いつの間にか二歩分になってしまっていた。小さなことから、少しずつ変化している。それも、悪い方向へ。
己が壊してしまったのはどうやっても修復できないかけがえのないものだったのだと、嫌というほど痛感させられる。自分で破壊したものにそんな未練がましく縋っていてはいけない。分かっているというのに、ぐるぐると後悔が頭の中を巡る。そんな悔恨、未だ持っていたところでどうしようもないというのに。
何もかもを照らす太陽から逃れるように、朱は目線を下に落とす。日が経ち色が薄くなったアスファルトと、使い古された己の靴が目に入る。胸元に手をやり、シャツを引っ張ってぱたぱたと扇ぐ。感じる暑さも苦しさもろくに紛れなかった。
どんなことを考えていようと、通い慣れた足は止まらず学園を目指す。気付けば、ゲートを通り過ぎ下駄箱に辿り着いていた。靴を履き替えようと、学籍番号が書かれたロッカーに手をかける。少し力を入れると、金属が擦れる音とともに細かな傷が付いた扉が開いた。
昨日乱暴に中に放り込んだ内履きを取ろうとしたところで、その上に何かが置かれていることに気付く。何だろう、と首を傾げつつ、平たく薄いそれに手を伸ばす。目の前に現れたのは、封筒だった。純白の紙には、宛名も差出人も書かれていない。何だこれ、と思わず言葉を漏らす。程なくして、似たものを最近見たのだと気付く。同時に、それの名称も頭に思い浮かんだ。
「――えっ!? ラブレター!?」
手にしたそれが何であるか認識し、雷刀は思わず大きな声をあげた。隣で靴を履き替えていた烈風刀の肩がびくりと震える。足下に向いていたターコイズがばっと上がり、朱を見る。叫びに近い声をあげた当人は、八重歯の覗く口をぽかりと開き呆然と白い封筒を見つめていた。
ラブレター。短くない学生生活を送っているが、こんなものをもらったのは初めてだ。バレンタインデーには所謂義理チョコしかもらえないような自分にこんなものが舞い込むだなんて。思春期の男子らしく妄想したことはあれど、実際に降って湧いてくるなど思ってもみなかった。
「何ですか、朝っぱらからそんな大声を出して」
「見てこれ! ラブレター! すげー!」
眉を寄せる弟に、表彰状のように持った封筒を見せる。兄の言葉と見せられたものに、水宝玉の瞳がぱちりと瞬いた。
突如舞い込んだ青春一大恋愛イベントに、興奮で紅潮した頬が緩む。もちろん、好きな人はいる――それも今、すぐ隣に――が、『ラブレター』なんて青春を象徴するようなものを手に入れては、否応なしにテンションが上がってしまう。憧れていたイベントとの遭遇は、年頃の少年の心を沸き立たせるには十分だった。
「大声で言うことではないでしょう」
「いや、びっくりしちゃってつい」
あはは、と笑うと、目の前、白い眉間に刻まれた皺が更に深くなる。人を思い遣る心に溢れた彼のことだ、大声で騒ぎ立てるなどというひっそりと想いを伝えようとした差出人の心を踏みにじるような行為に良い感情を抱いていないのだろう。思い返せば、彼がラブレターをもらった時の反応も差出人を慮った静かなものだった。思慮深い彼らしい。
「あ、もちろん断るから」
好きな人いるしな、と笑い、手に持った封筒をひらひらと振る。己には好きな人が――それも今目の前に、告白して返事を待っている人がいるのだ。たとえ相手がどんなに可愛らしく魅力的な人間でも、断ることは確定事項である。
明るく軽い調子の言葉に、烈風刀は唇を引き結ぶ。苦しげに眇められた目には、罪悪感が見て取れた。もしや、返事の催促に聞こえてしまったのだろうか。そんな意図は一切無いというのに、この軽い口はいつも言葉選びを間違えてしまう。どうしよう、と焦るも、次の瞬間には目の前の花浅葱からはその色が消えていた。燃ゆる朱に映るのは、いつも通りの涼やかな碧だ。
「ほら、早く行きますよ」
そう言って、何事もなかったかのように碧は廊下へと足を向ける。へ、と気の抜けた音が口から漏れ出た。一拍置いて、慌てて封筒を鞄に突っ込み、朱は靴を履き替える。投げ入れるようにスニーカーをロッカーにしまい、踵を踏んだ内履きで急いで弟の背を追う。普段ならば姿勢良く少し早い調子で歩く彼だが、今日はどこか足取りが遅い。少し駆けただけですぐに追いついてしまった。走ってはいけませんよ、と叱る声もない。ますますおかしい。
「烈風刀?」
「何ですか」
不可解な様子に、おそるおそる名前を呼んでみる。すぐに、初夏の熱を感じさせない涼しげな声が返ってきた。その視線はこちらには向けられていない。正面をまっすぐに見据えていた。拭いきれぬ違和感を抱えながらも、何でもない、と返す。これ以上深く尋ねようにも、きっかけとなるものは一つもなかった。
人がまばらな廊下を、言葉を交わすことなく二人で歩く。教室は階段を上って少し歩いたところだ。そんな短い空白だというのに、今はそれが妙に長く思えた。
お話ししたいことがあります。放課後、教室棟の非常口に来てください。待ってます。
白い封筒の中、二つ折りになった便箋には丸っこい文字でそう書かれていた。明らかに女子の字だ。ボールペンで書かれた文字はしっかりとしたもので、差出人の覚悟が見て取れた。
控えめな花柄で彩られた便箋に、女性らしい柔らかで丸い文字。極めつけに、定番の呼び出し文句。どれも、いたずらなどではない、本物のラブレターなのだと主張していた。
どうすっかな、と封筒をノートの下に押しやり、窓の外を見る。どうするもこうするもない。選択肢はただ一つ、『好きな人がいるから』と断りの言葉を告げるだけだ。烈風刀に想いを寄せ告白した今、他の女性と交際するなんて選択肢は存在すらしない。
硝子越しの白雲浮かぶ青空から視線を外し、斜め前を見やる。勤勉な碧は熱心に黒板を見つめていた。時折頭が下がり、握られたペンが動く。主席らしい、模範的な授業態度だ。
烈風刀はどう思ったのだろうか。喜びのあまりつい彼に見せびらかしてしまったが、告白してきた相手が、今まさに答えを返しあぐねている相手がラブレターなんてものをもらって、彼はどう思ったのだろうか。『断る』とはっきり宣言したものの、やはり不快に思っただろうか。悪印象を植え付けただろうか。
今になって後悔が雪崩こんで襲ってくる。告白したくせにラブレターをもらって喜ぶなど、不誠実にも程がある。何故こうも考えなしに行動してしまうのだ。直情的な自分に嫌気が差す。もう直しようがない部分なのだから、どうしようもない。
とりあえず、放課後レイシスに遅れる旨を伝えなくては。幸い、今はアップデート頻度も高くなく、仕事も落ち着いている状態だ。十数分ぐらい抜けても迷惑はさほどかからないだろう。
「嬬武器雷刀君」
冷え切った声に、思わず背筋がピンと伸びる。錆びきったブリキ人形のような動きで、声の方へと顔を向ける。そこには、教卓の前でチョーク片手にこちらを見つめるトライプルの姿があった。深緑の目は弧を描き、口元はにっこりと口角を上げている。しかし、そこには笑顔から連想されるには程遠い感情が宿っていた。
「問五、解いてくれるかしら。今説明した公式を使えばすぐに解けるはずよ」
教師の言葉に、サァと血の気が引いていく。まずい、一切授業を聞いていなかった。説明したという公式はもちろん、問五が何ページにあるかすら分からない。慌てて教科書をめくるが、そもそも今やっている単元がどこかすら不明なのだ。成す術が無い。
「六十五ページ開いて。ちゃんと授業を聞くこと」
鋭い声に、はい、と沈んだ声で返す。教師は黒板に振り返り、白で書かれた公式に赤のアンダーラインを引く。英数字で構成されたそれをどうにか読み解こうと努力する。しかし、数学という教科に強い苦手意識を持つ脳味噌は、それをなかなか受け入れてくれなかった。やばい、どうしよう、と焦りばかりが募っていく。
目をぐるぐると回す少年の姿を見て諦めたらしい。じゃあ代わりに日直の人、と数学教師は別の生徒を指名した。助かった、と安堵が胸を満たす。今は逃れられたが、授業態度が決して良いとは言えない己は再び指名される可能性がある。ちゃんと聞かねば、と教科書と黒板を朱い視線が往復した。内容は一切理解できないが。
こういう時烈風刀に聞けたらな、とショートしかけの頭が考える。あまりにも悲惨な己の成績を案じてか、弟は時折勉強を教えてくれた。悲しいことにその努力は実っていないが、勉学を厭う自分でも一時的に理解ができる程度には彼の教え方は優れたものだった。
己の思考に思わず眉を寄せる。何を考えているのだ。弟を頼るなど、関係が壊れた今では叶わないだろう。あれは、どうしようもない『兄』だから世話を焼いてくれたのだ。『兄弟』という関係が壊れた今、また仲良くお勉強会なんてことは無理に決まっている。過ぎ去った日々が胸を焼く。もう戻れない日常だ。もう取り返しようがない日常だ。
教師の声を遠くに、少年はノートへと視線を落とす。真っ白なそこに、インプットしたての公式を映した。数式一つだけが、白い紙の海にぽつんと取り残された。
着席、という日直の言葉を聞き届け、担任教師が教室を出て行く。ドアが閉まり教師の姿が無くなると、教室には音が自然と湧いて溢れた。鞄に物が入れられていく音。床と椅子が擦れる音。床を叩く早い足音。人と人とが話す声。様々な音色が、放課後を迎えた教室に響いた。
愛用のペンケースを鞄に放り込み、雷刀は席を立つ。向かうはレイシスの席だ。今回の呼び出しで少しばかり運営業務から抜け出してしまうことを伝えておかねばならない。大股で彼女の元へと歩みを進めた。
一列挟んで向こう側にある少女の席には、既に人影があった。烈風刀だ。いつの間にか三人揃って行くことが通例となっているため、待っていてくれたのだろう。一時的にでも抜け出してしまう申し訳なさが胸を刺す。けれども、あの手紙を――『告白』なんてものを決意し果たそうとしている名も知らぬ人を放っておけるほど、己は冷酷ではない。勇気を出して向き合おうとしてくれているのだ、自分も真剣に向き合わなければならない。それがせめてもの礼儀だ。
「アッ、雷刀。お疲れ様デス」
「おつかれー」
雷刀の姿を確認し、レイシスはにこやかな笑みとともに言葉を投げかける。ひらひらと手を振りながら返すと、彼女は机の上に置いた学生鞄を手に取った。椅子から立ち上がり、ナイロン製のそれを肩に掛ける。くるりと視線を移し、二人を見てまた華やかな笑みを浮かべた。
「それジャ、行きマショウカ」
「あー、ごめん。ちょっと用事ができちゃってさ。悪いけど先に行っててくれねぇ?」
ドアに向かって一歩踏み出そうとした少女に、少年は少し気まずげな調子で言葉を紡ぐ。くりんとした可憐な桃の目が瞬いた。整った丸い頭が傾ぐ。癖のあるツインテールが揺れた。
「アレ? 今日、補習の日デシタッケ?」
「いやちげーって。ちょっとした用事だから、すぐに戻れると思う」
ごめんな、と再び謝罪の言葉を口にする。眉尻が下がっていくのが自分でも分かる。『告白される』という一大事実を隠し通さなければいけないどことない後ろめたさと、今からそれを断らねばならないという心苦しさがそうさせるのだろう。あの時の烈風刀も同じ気持ちだったのだろうか、と意味の無いことを考える。答えを聞く術などとうに失っていた。
ちらりと弟の方へと視線をやる。姿勢良く立つ彼の目は、こちらへと向けられていた。愛しい女の子を前にしているというのに、整った顔は心なしかいつもよりも表情が硬い。水底色の透った瞳は、今はどこか曇り揺れているように見えた。碧と朱が一瞬かち合う。繋がった先は、碧によってすぐさま切られた。
彼は今朝のラブレターのことを知っている。ならば、自分が今から女子と会い、相手の一世一代の告白を断り振ることを理解しているに決まっている。やはり、女性を振るのを快く思っていないのだろうか。けれども、自分は彼に『好き』と告白しているのだ。断る以外の選択肢など存在しないことは明白である。むしろ、ここで断らない方が双方に対して不誠実だ。彼はこちらの方を嫌いそうなものであるが。
まさか、疑われているのだろうか。『断る』と宣言したものの、今朝の考え無しな喜びようをばっちり見られたのだ。あり得る。反射的に弁解したくなるが、ここは教室内、しかもレイシスの前である。その話題を口にするのは不可能である。違う、違うのだ、と心の中で叫ぶ。求める相手に届くことはない。
「じゃ、先行くなー。また後で」
心の内はひた隠し、いつも通りのへらりと笑って手を振る。差出人には悪いが、さっさと済ませてしまいたい。早く呼び出された場所へ行こうと、ドアへと足を向け駆け出した。
パシ、と乾いた音が響く。軽いそれは、喧騒に包まれた教室内でもいやに大きく聞こえた。
左腕に違和感を覚える。何かに掴まれている感覚だ。朱い瞳が、自身の腕へと向けられる。そこにあったのは、ジャケットに包まれた己の腕を掴む白い手だった。驚きで瞠られた朱が、その先を追っていく。白い五本の指、薄らと筋が浮かぶ手の甲、クリーム色のジャケットに包まれた腕、年相応の肩。そして、揺らめきながらもこちらを一心に見つめる翠玉。焦燥と不安と切実な色がぐちゃぐちゃに混ざった、透明度を失った宝石がそこにあった。
烈風刀に腕を掴まれている。腕から伝わるかすかな痛覚で、脳味噌がようやく現実を認識する。授業中たっぷり眠りすっきりしているはずのそれが乱れ揺れ、一気に混乱に陥った。
何故、彼が己の腕を掴んでいるのか。何故、今まで何の反応も示さなかった彼がいきなりこんなことをしたのか。何故、そんな何かに縋り付くような目をしているのか。何故、そんな目で己を見つめるのか。何もかもが分からない。日頃怜悧で冷静であろうとする彼の突拍子もない行動など、血の繋がった兄弟である自分にすら理解できなかった。
「れ、ふと……?」
混乱と動揺に震える声で弟の名を呼ぶ。兄の声に、呆然とした碧い瞳に光が戻る。音を認識したとともに、目の前の肩が大きく跳ねた。
腕を掴んでいた白い手が、弾かれたかのようにバッと素早く離される。大袈裟なほどのそぶりで離れたそれが宙をゆらゆらと彷徨う。やがて、力なく身体の横に下ろされた。
「あ……い、え、あの……」
疑問を含んだ声に返されるのは、歯切れの悪い言葉だ。あの、その、と繰り返される声は、普段のよく通るものではない。震えたか細いものだった。いつも人の目を見て話すというのに、その双眸は教室内をうろうろと泳ぎ、目の前の兄には向けられない。明らかに動揺したものだ。
彼がここまで言い淀むなど珍しい。先ほどの行動といい、目を合わせてくれない今といい、珍しいことだらけだ。一体、彼に何があったのだろう。何が彼をこうまでさせているのだろう。
「……すみません、何でもありません」
結局吐き出されたのは、謝罪の言葉だった。視線は床に吸い込まれ、重なることのないまま言葉だけが向けられる。律儀で礼儀正しい彼からは考えられない、あまりにも異様な姿だった。
沈黙が二人の間に満ちる。教室内は酷く賑やかだというのに、自分たちの周りからは音が失われたような錯覚に陥った。
「……じゃ、すぐ戻るから!」
沈んだ空気を破ったのは雷刀だった。胸に渦巻く驚愕と懐疑をどうにか押し殺し、普段と変わらぬように努めて明るい声を出す。わざとらしいぐらい大きく手を振って、桃と碧に別れを告げる。そのまま、二人の顔を見ぬよう意識的に背を向け、教室を飛び出した。
次第に心臓が強く脈を打つ。『告白』というイベントを前にした高揚ではない。先ほどの一件が引き金だ。
今から兄が告白されると知っていた烈風刀が、立ち去ろうとする己の腕を掴んだ――引き留めた。それは、あの日の自分と同じ行動だった。まだ『独占欲』も『恋心』も分からなかった、けれども弟が誰かのものになる可能性を本能で拒否したあの日の自分と。
重ねていいのだろうか。同じだと思ってもいいのだろうか。
彼もまた、兄が告白されるのが嫌だと――他人のものになるかもしれないのが嫌だと思ったのだと、考えてしまってもいいのだろうか。
歩調がどんどんと早くなる。心拍数は上がる一方だ。頬に紅が広がっていくのが分かる。都合のいい仮説を前に、心は酷く浮ついた。
ふるふると大きく頭を振る。違う、こんなのはきっと勘違いだ。だって、烈風刀はレイシスが好きなのだ。きっと、あれは何か別の理由があってのことなのだ。だから、こんなのはただの妄想で、あり得ないことなのだ。そうだ、そうに決まっている。
勝手に膨らんでいく心を力尽くで萎ませる。余計な期待は自分を苦しめるだけだ。そんな簡単なことぐらいはっきりと分かっている。
兎にも角にも、呼び出された場所へと行かねばならない。無為に待たせて変に期待をさせるのも酷だ。早くせねば。
足に力を入れ、地を蹴る。廊下にひしめく人の間を縫って走る。いつもなら背に聞こえるはずの叱責の声は、今日は無かった。
「ごめん。好きな人いるから」
胸元をぎゅっと押さえ顔を伏せた少女に、雷刀は努めて冷静な声で告げる。はっきりとしたものだった。そう言わねばならないと強く意識してのものだ。相手は誠実に向き合ってくれているのだから、こちらも誠実に返すのが筋というものである。
少年の短い言葉に、少女は強張らせていた身体の力を抜く。ゆっくりと上がった顔には、曖昧な笑みが浮かんでいた。目は苦しげに細まり眉尻は頼りなく下がりながらも、どこか憑き物が落ちたようなすっきりとした表情にも見えた。
「……そう、ですよね。レイシスさんがいますもんね」
呟くように言って、少女は軽く顔を伏せる。どこか潤んだ黒い瞳にはうっすらと悲哀が浮かびながらも、暖かな色を滲ませていた。今しがた自身を振った人間を目の前にしているのが信じられないほど、穏やかで落ち着いた目だ。自分と同じ『恋心』という激情を抱えているとは到底思えない姿である。
ありがとうございました、と丁寧に一礼し、少女は教室棟内へと戻っていった。だんだんと足音が遠ざかっていく。小さなそれが聞こえなくなるまで、少年はその場に立ち尽くしていた。
用事は終わった。早くレイシスたちの元に戻らねばならない。だのに、足はコンクリートに縫い付けられたかのように固まって動かなかった。
先ほどの少女の言葉に、胸がつきりと痛む。そうだ、己はレイシスが好きなのだ。けれども、同時に烈風刀のことも焦がれるほど好きなのだ。この心は、二つの恋を抱えている。うっかり口にすれば他者から非難されるであろう、おかしな状態だ。
レイシスが好き。
烈風刀が好き。
どちらが正しい心のなのだろう。どちらが本当の心のなのだろう。
どちらも正しいはずだ。どちらも本当なのだ。本当だと信じて生きてきた――本当だと確信して、烈風刀に告白したのだ。あの言葉に、嘘偽りは無い。
烈風刀はどうなのだろう、と詮無いことを考える。答えはまだ保留中だ。あの場で反射的に断らず、こうやって時間を掛けてくれているのは、真摯に向き合ってくれている証拠だ。優しい彼のことだ、きっとよく考えてくれているのだろう――きっと、愚かな己を傷つけないように断る言葉を模索してくれているのだろう。だって、烈風刀はレイシスが好きなのだから。そこに己が入る余地はない。
この恋は最初から叶わないと知っていた。けれども言ってしまった。『兄弟』という関係を壊してまで言ってしまった。言わねばならぬほど、この恋心は制御しきれぬほど暴れ、ほんの少しの刺激で溢れ出そうなぐらい膨らみ心を染め上げていったのだ。
好きです、と震える声をどうにか振り絞って告げてきたあの少女――名前すら聞いたことのなかった別クラスの少女のことを思い返す。彼女もそうだったのだろうか。己がレイシスのことを好いているのは、高等部の人間は全員知っていると言っても過言ではない。先の言葉から、彼女がそれを知っていたのも確かである。それでも彼女は告白してきたのだ――ほぼ確実に失恋すると分かっていて、胸に秘めた想いを告げてくれたのだ。
彼女も、恋心に翻弄されたのだろうか。心の底から湧き出る想いに耐えきれず、告白してくれたのだろうか。それを無下にしたのだと思うと、心が身勝手な痛みを覚える。けれども、どうしようもないのだ。どうしようもない己は、一人の少女と一人の少年に恋してやまないのだ。そこに他人が入り込む余地など、生憎残されていなかった。
「……戻ろ」
行動を口に出したところで、ようやく身体が動き出す。右足を前に出し、左足を前に出す。そうやって、一歩一歩ゆっくりと歩いていく。今いる非常口から二人が働く本館まではなかなかに距離がある。できるだけ早く戻らなければならないのだから、もっとせかせか歩くべきだと分かっている。普段ならば、地を蹴り駆けていく場面だ。けれども、足は枷でも括り付けられたかのように重く、動かすのが難しかった。
まだ答えず希望を見せてくれと願う心と、どうせ断るならば早く言ってくれと叫ぶ心がせめぎあう。どちらにせよ、己を待っているのは失恋という名の絶望だ。『告白する』という選択肢を選んでしまったのだから、決定づけられたそれにはいつか向き合わなければならない。その『いつか』は刻々と迫っているのだ。早く腹を括らねばならない。好きな人に選ばれない、という事実を受け入れる覚悟をしなければ。
ぱた、ぱた、と重い足音が人気の無い廊下に響く。窓から降り注ぐ陽光がやけに眩しく思えた。
キーボードが軽やかに操られる音。マウスを指が軽く叩く音。多量の機械が働く駆動音。三人が集う部屋は普段通りの音が包んでいた。
モニタに映る画像と文字列を確認しつつ、雷刀はキーボードを叩く。胼胝の浮かぶ指が表面を駆け、カタカタと軽やかな音が続く。電子の文字が画面に打ち込まれ、文章として形を成した。
今見ているのは、翌週のアップデート情報だ。手元の情報ファイルと見合わせつつ、ミスがないか確認していく。楽曲名と作曲者名は合致しているか、ジャケットに記載されたタイトルに誤字は無いか、筐体上に表示される情報と公式サイトに掲載される情報に差異は無いか。そんな細かな部分を入念に調べていく。ミスを漏らさぬため、終わり次第烈風刀にも確認してもらうが、誤字や表記の相違といった簡単に修正ができるものは自分が潰しておきたい。他の作業に追われる彼、ひいてはアップデート作業を統括するレイシスへの負担は減らさねばならないのだ。
じぃ、と複数データを見比べていく。時折指差しては確認し、正確性を高めようと努力する。特に横文字はスペルミスが無いよう一文字ずつしっかりと見定めていった。
ようやく全てのファイルを確認し終わる。長々と時間を掛けてしまったが、正確性を取るならば仕方の無いことだ。悲しいかな、己の作業速度と正確性は反比例することなど自覚していた。
手早く共有フォルダ内のデータをまとめる。作業が終わったことを伝えようと椅子の背もたれに腕を乗せ、横を向く。烈風刀、とデータを渡すべき弟の名を呼ぼうと、少年は口を開いた。
瞬間、ビー、と甲高い音が部屋の空気を切り裂く。ビー、ビー、と幾度も繰り返される耳障りな音に、思わず顔をしかめる。つんざくようなそれが、幾重にも重なる。日常の静寂は異音に塗り潰され、非日常を訴えた。
音の発信源に視線をやる。ポケットの中に入れっぱなしにしていた、いつぞや支給されたレーダーだ。急いで取り出したその小型モニタには、赤い点がいくつも表示されていた。その色が示す事態を理解し、少年は急いで椅子から立ち上がった。
「バグ……それモ、また新型デスカ」
ぽつりとレイシスが言葉を漏らす。手元のレーダーを見つめる桃の瞳は、辛苦を耐えるように眇められていた。
ここは電子の世界、バグの発生はつきものだ。しかし、最近では見たこともないバグの出現が増えていた。ただの見慣れぬバグならまだいい。だが、ここ数ヶ月湧いて出るそれは、潜伏し数を増やしたり、時に攻撃を仕掛けてくる、明らかに何らかの意志を持った異常なものだ。
生徒に何かあっては大問題だ。被害が出ぬよう早急にバグを排除するのも、近頃の運営業務に組み込まれていた。特に、電子の剣を支給されてからはバグ退治はもっぱら兄弟二人の仕事だ。
「んじゃ、ちょっと行ってくる」
そう言って、ジャケットを脱ぎ捨て足早に壁際に駆け寄る。フックに掛けられたコート――技術部謹製、強度が高くバグの攻撃も弾いてくれる優れものだ――を引っ掴み、手早く腕を通した。すぐ隣に影。ちらりと見やると、そこには同じく駆けてきた烈風刀の姿があった。二人でコートを羽織り、黒い手袋を嵌める。制服のポケットから銀の筒――電子の剣、その柄を取り出す。くるんと手の内で回し、しっかりと握り締めた。
「万一に備えてレイシスは待機していてください」
「分かりマシタ」
烈風刀の言葉に、レイシスはこくりと頷く。世界の根幹であるネメシス=コアに一番近いのは彼女だ。有事の際、誰よりも対応に迫られる彼女はここで待機し、いざという時は判断をしてもらわねばならない。何より、そんな重要な立ち位置にいる彼女がバグで何らかの被害に遭っては世界の一大事だ。少年の言葉はもっともなものである。
いってラッシャイ、と少女は自動ドアへと駆けゆく朱と碧を見つめる。ラズベリルの瞳は依然細まったままだ。大丈夫だ、心配するな、と示すように、へらりと笑みひらひらと手を振る。きゅ、と桜色の唇が引き結ばれたのが見えた。
苦しげな目に後ろ髪を引かれる思いはあれど、今はバグを始末するのが最優先事項だ。憂いを抱く彼女を安心させるためならば尚更である。自動的に開いたドアをくぐり、兄弟は廊下を駆けていった。
手にしたレーダーは、特別教室棟裏手、旧校舎近くを示していた。何故か新型問わずバグはここに出没することが多い。今日もそうのようだ。
部活動の時間である放課後の今、特別教室棟で活動する生徒は少なくない。被害が出る前に、早く対処しなくては。タッと地を蹴る音が二人分響く。クリーム色のコートがはためいた。
階段を一段飛ばしで駆け下り、大股で廊下を駆けていく。非常口から飛び出し、校舎裏のコンクリートを踏みしめレーダーが示す場所を目指す。元々身体能力が並より高い兄弟の脚力をもってすればすぐだった。
遠くに影。黒に近い紫の身体の中央に濁った赤の丸が描かれた、目にも似た形のそれは、何度も見てきた新型バグそのものだった。ポケットから柄を取り出し、薙ぐように大きく横に振る。瞬間、先端から赤い光が伸び、刃となって現れた。
光剣をしっかりと握り締め、ダッと音をたてて地を踏みしめ飛び上がる。そのまま、バグ目掛けて剣を振り下ろした。光の刃を正面から受けたそれは、まるで紙切れのように容易く縦に裂ける。聞き取れぬほど甲高い音をあげ、敵は塵となって消えた。
まず一匹。くるりと振り返り、辺りを見回す。レーダーに示された点は一つなんかではない、もっと多量だ。しかも、たった今横目で見たそれは先ほどより数を増していた。潜伏していたのか、はたまた増殖しているのか。どちらでもいい。全て切り捨てるまでだ。
ザ、と空気を切る音。追いついた烈風刀が剣を振るっているのだ。闇に近い紫が粒子となって消える様が視界の端に映った。
正面を向く。朱い瞳の中に紫がいくつも浮かんだ。数を増やしたバグは群れを成し、こちらを囲うように迫り来ていた。じりじりと寄る様は、集団で狩りをする獣のようだ。やはり、こいつらには知能がある。普通のバグならばこんな連携を取った行動をすることはない。
「そっちよろしく」
「そちらは任せました」
背中合わせ、言い放った言葉は綺麗に重なった。どうやら考えていることは同じだったようだ。ふ、と息を吐くように笑みをこぼす。あぁ。えぇ。また声が重なる。
剣を持つ手に力を込める。一歩踏み出した足に力を入れ、少年は群れの中目掛けて飛び出した。
飛び込み、一閃。横薙ぎに振り回した刃を受けたバグが散って消えていく。そのまま、振り向くようにまた横に斬る。子ども一人分ほどの背丈のあるそれが、身体のど真ん中を切り裂かれて散る。耳障りな鳴き声が校舎裏に響き渡った。
斬って、斬って、斬って。飛び回り飛びかかってくるバグ目掛けて刃を振るっていく。醜い高い音を喚き立て攻撃を仕掛けてくる彼らは、光の刃によってすぐさま塵となって消えてく。数で押そうとしている部分もあるのだろうが、どれも懐に入る前に切り捨てられていった。どれだけ仲間が殺されようとも飛び込んでくるのは、自ら命を絶とうとしているようにすら見える。哀れを通り越して不気味さすら感じた。
レーダーから点がどんどんと消えていく。一時は倍まで膨れ上がっていたそれは、今では両の手足で数えられる程度の量となっていた。視界から気味の悪い紫は失せ、元の校舎裏の様相を取り戻しつつある。
ザン、と一薙ぎ。不快な音をたててバグが散っていった。素早く辺りを見回すも、もう視界にあの紫は映らない。どうやら、自分の手の届く範囲のバグは退治し終えたらしい。ふぅ、と息を吐く。まだ警戒は完全には解けないが、ひとまずは安心のようだ。
「終わりましたか」
「おう」
辺りを見回してから、声のした方へと身体を向ける。己と対の青い剣を持った烈風刀の姿があった。振り向いた視界には紫の影は無い。彼の方も退治し終えたようだ。二人でレーダーを見る。液晶画面には赤い点はもう無く、通常の色合いを取り戻していた。バグ討伐は終わったようだ。
ちらりと弟を見やる。ざっと眺めた限りでは、傷を負っている様子は無いようだ。ほっと密かに息を吐く。彼を見くびっているわけではないが、さすがにこの量を相手取ったとなると怪我の一つしていてもおかしくはない。二人とも戦闘経験はまだ浅いのだから尚更だ。
「怪我はありませんか」
「だいじょーぶ」
心配げな声に、普段通りの元気な声で返す。オニイチャン見くびんなよー、と笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振った。自然と口角が上がっていくのが分かる。彼が心配してくれている。好きな人が己を思い気遣ってくれている。嬉しいに決まっていた。
そうですか、と安堵の色が滲む音が薄い唇から漏れ出たのが見えた。
「何かあったら、レイシスが心配しますから」
放たれた言葉が胸を刺す。一瞬、呼吸が止まる心地がした。表情筋が強張りそうになるのを必死に堪える。だいじょーぶだってば、とどうにか笑みを貼り付けて応えた。
レイシス。愛しい女の子。彼が愛する女の子。
烈風刀が彼女のことを慮るのは当然だ。彼にとってレイシスは何よりも優先すべき大切な人で、大好きな人なのだ。愛する少女が余計な憂いを抱かないか心を配るのは、当たり前のことだ。
だのに、その名前が彼の口から出てくることがこんなにも辛い。自分だって彼女を大切に思い、愛しているのに、弟が彼女を想う言葉が紡ぐと、こんなにも苦しくなる。やめてくれ、と胸の奥底で何かが叫んだ。
ぐ、と息を飲み込む。口が、喉が渇きを訴える。分かっている。分かっているのだ。この『恋心』とやらが実ることなどないと、嫌というほど分かっているのだ。けれども、実際はどうだ。こうやって無駄に苦悩しているではないか。しかも、勝手に喜んで、勝手に落ち込むなんて馬鹿みたいなことをやっている。滑稽にも程があるというものだ。
下唇を噛む。そうでもしなければ、この浅慮な口は子どものそれよりずっと酷い身勝手にも程があるわがままを発してしまいそうだった。オレだけ見てくれ、と。
「戻りましょう」
澄んだ声にはっと顔を上げる。目の前には、どこか不安げな顔をした弟の姿があった。どうやら、貼り付けた笑顔はすぐに剥がれ落ちてしまったらしい。口角を上げ、ニッと笑顔を新しく作り出す。彼に通用するかは分からないのだけれど。
「そだな」
どうにか言葉を返す。発した声は惨めに掠れていた。刃を失った銀筒をポケットにしまい、朱は碧より一歩先に出る。そのまま足早に校舎裏を歩いた。
依然心が荒く波立つ。気を紛らわすように、手にしたレーダーを手の中で回した。正常な風景を映し出す小型機械が、音も無く黒い手袋の上を滑る。異常が消え去り日常が戻ってきたというのに、頭には黒い靄がはびこるばかりだ。八つ当たりをするように、レーダーを握り締める。強固なそれは、少年の強い握力を受けても物言わぬままだ。
「心配しなくても全部消えていますよ。さっき見たでしょう」
「わーってるって」
「……貴方はちゃんと、いえ、誰よりも仕事しています。先ほどだってそうです」
だからもっと自信を持ってください。
柔らかな声が背に刺さる。その優しさが、温かさが、刃となって突き刺さる。見えない血液が流れ出ていく感覚がした。
先ほどの無理をした笑顔を、彼は落ち込みを隠そうとしたものと受け取ったらしい。だからこそ、優しい言葉を掛けてくれたのだろう。
たしかに、己は運営業務ではろくに活躍できていない。書類仕事はさっぱりで、作業の正確性も欠ける。最近では改善してきたものの、デスクワークでは足を引っ張るばかりだ。バグ退治という身体能力が要求される業務が加わるまで、己の無力さに密かなコンプレックスを抱いていた。
そんなことなど、生まれた時から兄弟をやっている弟にはお見通しらしい。時折、少しだけ不器用な励ましの言葉を掛けてくれた。今も、心優しい彼は気遣ってくれているのだ。
烈風刀の推測は半分は正解で、半分は不正解だ。気落ちしているけれど、仕事についてではない。己の無能さを嘆いてはいるが、身勝手な感情が全てだ。
優秀な弟は、自分たちの役割について――この世界を守り、レイシスを守り、ゲームを守ることをいつも真摯に考え取り組んでいる。なのに、己は何だ。『恋心』なんかに振り回されて、一時的とはいえ果たすべき役割を忘れてしまっていたではないか。なんと愚かなのか。なんと浅はかなのか。なんと最低なのか。
「……あんがとな」
どうにか声を絞り出す。わざわざ励ましてくれたのだ、礼を言うのが最低限の礼儀だ。レーダーをポケットにしまい、いつもやるようにひらひらと後ろに向けて手を振る。常と同じ姿を見せれば、彼も安堵するだろう。騙されてくれるだろう。騙されてくれ、と祈るように考える。こんな醜い己など、察してほしくなかった。好きな人相手なら尚更だ。
パタパタとコンクリートの上を足音が二つ。非常口前に置かれたマットで靴の土を入念に落とし、校舎に入り廊下を歩いていく。弟の言いつけ通り、走らずに階段を上り渡り廊下を通って本館へと向かう。
目的の場所へと辿り着く直前に、ふ、と息を吐き出す。きっと今、己は酷い顔をしているだろう。それをレイシスに見せるわけにはいかない。新型バグの登場に、彼女はいつも胸を痛めているのだ。そんな心優しい少女の前で、辛気くさい顔をするわけにはいかない。いつまでも己のことばかり悩んでいては駄目なのだ。短く息を吐いて、吸う。ぎゅっと目を閉じ、ぱっと開く。口角に力を入れ、雷刀は自動ドアの前に立つ。シュンと空気が抜けるような音がして、扉が開いた。
「ただいまー!」
「ただいま戻りました」
元気な声と落ち着いた声が重なって部屋に飛び込む。複数枚並ぶモニタの向こう側、覗く丸く可愛らしい頭が弾かれたように上がったのが見えた。カタ、とキャスター付きの椅子が動く音。モニタの前に座っていたレイシスが立ち上がったのが広がる視界に映った。桜が舞うように柔らかなツインテールが揺れる。
「二人とも、おかえりなサイ」
駆け寄り迎える声と表情は、部屋を出た時よりもずっと明るくなっていた。彼女もバグを探知するレーダーを持っている。奴らが殲滅されていく様子をリアルタイムで見ていたはずだ。頭を悩ませる新型バグが消えたことと、兄弟二人が怪我をした様子もなく帰ってきたことを喜んでいるのだろう。少女は胸に手を添え、ほっと息を吐く。桃色の瞳に安堵の光が宿った。
「いつも迅速な対応、ありがとうございマス」
ふわりと笑みを浮かべ、レイシスは二人の目を見て礼を述べる。すぐに出撃した甲斐あってバグ討伐にはさほど時間が掛からなかったようだ。よかった、と内心胸を撫で下ろす。これで時間が掛かっていては、彼女に不安の種を植え付けるだけだ。それに、短時間での任務遂行は自分たちの実力が上がったように思えて嬉しい部分がある。
「これぐらい、どうということはありませんよ」
少女の言葉に、烈風刀は言葉を紡ぐ。せっかく褒めてもらったのだから、もっと喜んでもいいだろうに。そう思うも、ここで口を出すのは無粋だろう。女の子の前ではちょっとぐらい良い格好をしたいお年頃なのだ。好きな子相手ならば尚更である。
「そーそー。オレたちならこれぐらいラクショー!」
弟の言葉に賛同する。あの数を一人で相手取るのはさすがに無理だ。しかし、二人揃えばどんなに多くの敵でも斬り伏せ殲滅できた。兄弟で協力すれば無敵なのだ。そんな気すら湧いてくる。それほど、片割れのことを信頼していた。
な、と弾んだ声で呼びかけ、碧を見やる。勢いよく腕を上げ、すぐ隣の片割れへと手を伸ばし、肩を組もうとした。
コートに包まれた肩に指が届く直前、はっと我に返る。やめろ、と理性ががなりたてた。
そうだ、接触すべきではない。前のように『兄』になら彼は触れることを許してくれるだろう。けれども、今の己は烈風刀にとって『告白してきた相手』なのだ――それも、断ることを大前提にした。
そんな人間に以前と変わらぬまま過度なスキンシップをされては、良い気分になるわけがない。むしろ、下心を持ってのものではないかと疑い不快に思うだろう。昨日は彼から腕を掴み触れてきたが、あれはおそらく反射的なものだ。自分のように、意志を持って触れようとしたわけではない。今までのような接触は避けるべきなのだ。現に、ここ数日の彼は己から距離を取り続けているのだから。
碧と朱がかち合う。瞬間、目の前の身体がビクンと大きく跳ねた。蒼玉の中には、確かな怯えの色が浮かんでいた。薄い唇がきゅっと引き結ばれる。ザリ、と靴と床が擦れて音をたてた。
やはり駄目だ。触れてはいけないのだ。彼に不快な思いをさせたくない。彼を怯えさせたくない。彼にこれ以上苦痛を与えたくない。駄目だ、駄目だ、と理性が頭の中で喚き叫ぶ。普段ろくに活動させてもらえないそれは、ここぞとばかりに大声をあげた。
見えない何かに弾かれたように、バッと勢いよく腕を引く。中途半端に上げられたそれはしばし宙を彷徨い、何かに触れることなく下ろされた。ごめん、と出そうになった言葉を必死に喉の奥に押し込める。ここで謝るのはあまりにも不自然だ。目の前には事情を全く知らない――こんなこと、純粋な彼女に絶対知られてはいけない――レイシスがいるのだ。怪しい行動はしたくなかった――今の一連の動きは十二分に怪しいことは理解しているが。
「どうしたんデスカ?」
「ぁ、あ、いや。何でもない」
やはり異常に映ったのだろう、きょとりとした顔で桃は朱を見上げる。雷刀はぶんぶんと首を大きく横に振って答えた。これも異常に映るだろうか。けれども、これぐらいしか返す言葉が思い浮かばなかった。烈風刀ならばもっと気の利いた返しをできるだろうな、などと意味の無いことを考える。彼に頼ることなどできないのは百も承知だ。
「今日はコンテストの打ち合わせをするのでしたっけ」
穏やかな声で碧は桃に問う。そういえば、そんなことを今日の作業開始前に言っていただろうか。それを引き出すことにより、己の異常な姿から意識を逸らしてくれたのだろう。弟の助け船に、心の内で感謝する。やはり、彼ならばいつだってスマートな対応ができるのだ。毎度余計なことを言って悪手を打つ己とは大違いである。
「ハイ! 先方にまたコンテストを開催してみマセンカ、と提案したんデス。そしたら快く許可をいただけたんデスヨ!」
パン、と手を打ち、レイシスは元気な笑みを浮かべる。これデス、と少女はパタパタと可愛らしい足音をたて、自分のデスクへと駆けていく。そこに懐疑の様子はもう無かった。弟の思惑は上手くいったようだ。
彼女の背を二人で追いかける。大股で歩き、一歩先を行く烈風刀の隣に並ぶ。しばしの思案の末、半歩分間を詰めた。
「さんきゅ。助かった」
桃の少女には決して聞こえないよう、小声で礼を言う。彼に多大に助けられたのは事実なのだから、礼の一つくらい言わねばならないだろう。彼女に聞こえぬような声量で告げるには、少し近づかねばならないのだ。これぐらいならば許されるはずだ。だって、礼儀なのだから。言い訳めいた言葉が依然騒ぎ立てる理性を抑えつける。
ひくりとすぐ隣の肩が揺れる。川底色の瞳と夕空色の瞳がぶつかる。飴玉のように丸く美しい目は、わずかに瞠られていた。そこにあったのは、色濃い動揺だった。
別に、と一言こぼし、碧の少年は歩く速度を速める。スタスタと姿勢良く歩く彼は、あっという間にレイシスが待つデスクへと辿り着いてしまった。モニタを指差す少女に、左隣に立つ少年が頷くのが見えた。
こんなわずかにでも近づくことすら駄目なのか。許されないのか。
当たり前の事実に胸が痛む。何を言っているのだ、今まで通りに過ごせるはずがないと分かっていたではないか。今まで通りの距離でいられるわけがないと分かっていたではないか。全てをぶち壊したのは己だというのに、何を一丁前に傷ついているのだ。全て己が悪いというのに。
ギリ、と奥歯が嫌な音をたてる。駄目だ。落ち込んでは駄目だ。そんな権利、己に与えられていないのだ。ちゃんと今まで通り――否、今までのような距離感で近づかないように努力しなければいけない。これは責務だ。こちらに真摯に向き合ってくれている彼に、これ以上負担なぞかけてはいけないのだ。
ぎゅっと目を閉じ、ぱっと開く。ちゃんと気を付けよう。気を付けなければ。気を付けねばならないのだ。心の中で唱え、雷刀は重くなった足を動かす。小走りでデスクに向かい、マウスを操る少女の右隣に立つ。いつも通りの位置だというのに、何故か酷い違和感を覚えた。
「そろそろお茶にしまショウ!」
機械の低い唸り声で満ちた部屋に、パン、と手を叩く音ととびきり明るい声が響き渡る。突然の音に、兄弟はモニタから顔を上げた。椅子をくるりと回し、雷刀は後ろ側に位置するデスクへと目をやる。そこには、ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべたレイシスの姿があった。
モニタの端に表示された時計を見やる。デジタルの数字は、本日の作業を始めてから一時間半ほど経過したことを告げていた。休憩を挟むにはちょうどいい頃合いだ。
「そうしましょうか」
「りょーかい!」
同意の声を返し、朱と碧の兄弟は席を立つ。雷刀は広いデスク、その端の物が置かれていない位置に予備の椅子を人数分集める。烈風刀は部屋の隅、備品が収納されている棚の下部から水のペットボトルを取り出していた。レイシスは茶葉や食器を準備をしにいったのだろう、カチャカチャとカップが用意される音と楽しげな鼻歌が後ろから聞こえてきた。
自分の席に戻り、少年は鞄の中に手を突っ込む。中身がろくに入っていない平べったい学生鞄から取り出されたのは、シンプルにラッピングされたマフィンだった。ふわりと甘い香りがかすかに漂う。心を満たすようなそれに、思わず笑みがこぼれた。
本日の午後に家庭科の調理実習が行われた。教師の趣味なのか、はたまた八つ時に行われた授業だからか、実習内容はマフィン作りだった。授業も終わり教室に戻る頃、柔らかな香りただようそれを手にしたレイシスは、業務の途中にお茶休憩しマショウ、と楽しげに提案してきたのだった。もちろん、兄弟二人が断るわけなどない。
そうして今、三人でのお茶会が開かれようとしていた。
セッティングした机にマフィンが入った袋を置く。紙型の中に膨らむそれは手のひらサイズの小ぶりなもので、休憩に食するにはぴったりだ。二個という量も、夕飯に差し支えることもないちょうどいい案配である。
己の役目を終え、少年は右端の席に座る。暇を持て余し、室内を見渡す。レイシスのデスクの傍らには、己のそれと同じラッピングがされたマフィンが置かれていた。ちょうどモニタの下、作業中視界に収まる位置だ。これを食べることを今日のモチベーションとしていたのだろうか。よほど楽しみにしていたらしい。
キャスター付きの椅子のまま滑り、彼女の机の上からマフィンを回収する。そのまま戻り、机の上に袋を並べた。
ピー、と高い音が響く。電気ケトルの湯が沸いた音だ。後ろにパタパタと足音。かすかな物音の後に、湯がカップに注がれる音が聞こえた。持って行くのを手伝った方がいいだろうか。いや、しかしあちらには烈風刀がいるではないか。マグカップ三つ運ぶのに三人全員が行くのは大袈裟だ。このまま二人に任せた方がいいだろう。
それに、と考える。烈風刀はレイシスと二人でいたいだろう。三人で行動することが多い自分たちだ、レイシスと二人きりになることはあまり多くない。きっと、今彼は愛する女の子と二人の時間を楽しんでいるはずだ。邪魔をしてはいけない。
ふっと朱い少年は目を伏せる。それに、彼は今己と近づくことを警戒している――否、怖がっている。己も己で、適切な接し方をまだ見つけられないでいる。そんな状態で精神的にも物理的にも距離を詰めるのはよくないだろう。ギクシャクとした姿をレイシスに見せるのも、避けるべき事項である。仲間思いで心優しい彼女が心配するような姿は見せたくなかった。
開いた足から覗く座面に手をつき、ぶらぶらと足を揺らす。待っていなければいけない。邪魔をしてはいけない。これ以上、弟に気を遣わせてはいけない。『告白』なんてもの以上に負担をかけてはいけないのだ。
「おまたせしマシタ!」
コトリ、と硬質な音。視線を上げると、そこにはテーブルにマグカップを置くレイシスの姿があった。白色のマグにはシリコン製の蓋が被されており、端からはタグの付いた紐が垂れていた。
「ア、もうちょっと待ってくだサイネ。少し蒸らした方が美味しいデスカラ」
ピンと人差し指を立てて少女は言う。オレだってそれぐらい知ってるし、と少し得意げな響きで軽口を返す。その知識は弟譲りなのだということは隠しておこう。少女も軽口のつもりだったのか、ふふ、と可愛らしい笑声を漏らす。自身の席の前にも全員お揃いの白いマグを置いた。
コト、と小さな音。発生源を横目で見やる。己のちょうど対面の席にカップを置く烈風刀の姿が見えた。その手には、同じくラッピングされたマフィンの袋があった。彼も自身の分を持ってきたようだ。
机の端、短辺の部分に設置された椅子にレイシスが座る。ちょうど昼食を摂る時と同じ形だ。紅茶、そろそろいいデスヨ、と少女は二人を見回して言う。言われた通り、シリコンの蓋を外し中に入ったティーバッグを取り出す。ふわりと心安らぐ香りが空間に広がった。湯で濡れたそれを彼女が持ってきた小皿に置く。淹れ立ての紅茶に冷めてしっとりしたマフィンがテーブルに並ぶ。これでお茶会の準備は完璧だ。
「デハ、いただきマス!」
手を合わせ、少女は元気に食事の挨拶をする。彼女に続き、兄弟二人も手を合わせ、いただきます、と挨拶を口にする。三つの手が、テーブル中央に置かれた各々の袋へと伸ばされた。
ねじったラッピングタイを解き、雷刀はビニール袋を接着部分から割いて広げていく。シート状になったそれの上にマフィンを広げ、机に置いた。
広げた袋の中身、その一個に手を伸ばす。切れ目から紙型を少し剥ぎ、露わになった茶色の生地に大きな口でかぶりついた。鼻腔をバターの香ばしい香りが抜けていく。舌の上に、砂糖の甘さが広がっていった。授業中試食した通り、美味と断言できる出来栄えだ。当たり前だ、自分の班のリーダーは烈風刀なのだ。菓子作りにも精通している彼の的確な指導のもと制作されたのだから、美味しいに決まっている。
「んめー!」
「美味しいデス!」
幸せ色の声が二つあがる。美味しい、と続けて烈風刀が呟く。その口元は柔らかに解けていた。
レイシスも雷刀も甘味が好物である。それが自分で苦労して作った手製のものともなれば、美味しさもひとしおだ。桃と朱は喜びを満面に表すように笑みを浮かべた。
虹のように弧を描く目と口でマフィンを頬張る少女を眺める。もごもごと丸くなった頬が動く姿は愛らしい。彼女は本当に美味しそうにものを食べる。見ている方が幸せになるぐらいだ。
愛らしい姿に微笑みを浮かべながら、少年は紅茶を口にする。かぐわしい香りが鼻を抜け、少しの渋みが口内に残る甘さを流してリセットしていく。ティーバッグで淹れた簡素なものだが、レイシスのこだわりによって十二分に香りと風味を感じさせる一品となっていた。ほぅ、と一息こぼす。幸せに満ちた響きをしていた。
「レイシスのものは……チョコチップを入れたのですか?」
「そうなんデス! チョコチップとオレンジピールを入れたんデスヨ」
椿ちゃんが持ってきてくれたんデス、と少女はニコニコと笑う。今回の調理実習は、自由にアレンジしていいと事前に告知されていた。女子たちがきゃっきゃと楽しげに話している姿を授業前から見たものだ。
彼女が口にしたクラスメイトの名に、兄弟二人は一瞬動きを止めた。焼成中、隣の班だった福龍と交わした会話を思い出す。あいつ、みかんをそのまま持って行こうとしたんだ、とうんざりした顔で話す彼の姿は悲哀と疲労に満ちていた。椿の料理スキルはあまり高くないと聞いていたが、さすがにみかんをそのまま入れようとするとは。料理は人並み程度の雷刀でも驚いたものである。
黙ってような。そうですね。兄弟二人で目配せし、頷く。そうなのですか、と碧は穏やかに話を切り上げた。
「アッ、二人とも食べてみマスカ? 交換こしマショウ!」
「食べる!」
「いいのですか?」
「ハイ。ワタシも二人が作ったの食べてみたいデス!」
デモ、ワタシのは一個しか残ってないから半分こになりマスネ、とレイシスはしょんぼりと顔を曇らせる。半分でもじゅーぶん、と雷刀は声をあげる。愛しい少女手製のものであるならば、量が半分だろうが一欠片だろうが気にしない。何だって食べたかった。
「本当に半分でもいいんデスカ?」
「もちろん」
「具が入ってるの食べてみたかったんだよなー」
兄弟の言葉に、そうデスカ、と少女は表情を和らげる。白く細い指がマフィンから紙型を外す。裸になったそれを、桃は縦半分に割る。断面からオレンジピールの透き通った橙とチョコチップの丸い黒が顔を覗かせた。そのまま、広げたティッシュの上にマフィンを置く。ほろほろと崩れた生地が白の上に転がった。
「ハイ、ドウゾ」
少し申し訳なさそうに眉を八の字に下げながら、少女は菓子を差し出した。ありがと。ありがとうございます。自然と弾んだ声が二つ返される。喜びに満ちた音色に、牡丹色の睫に縁取られた目が優しく細まった。
「はい、レイシス」
「どうぞ。僕と雷刀のものは全く一緒ですが大丈夫ですか?」
声とともに、少女の前にマフィンが二つ置かれる。アレンジされていないプレーンのそれは、素朴な甘い香りをまとっていた。ぱぁ、と桃は顔を輝かせる。甘いものが好きな彼女にとっては嬉しい光景だろう。
「ハイ! ア、でもワタシだけ二つも食べていいんデスカ……?」
「もちろんですよ」
「食べて食べて!」
困ったように首を傾げる少女に、少年たちは肯定の語を返す。自分で食べるよりも、愛しい彼女に食べてもらう方が万倍嬉しく喜ばしいのだ。幸せをこれでもかと詰め込んだ笑顔でもぐもぐと頬張る可愛らしい姿が眺められるのならば尚更である。
ありがとうございマス、とレイシスは元気に声をあげた。いただきマス、ともう一度声が重なる。三人は目の前に置かれた友人謹製のマフィンにかぶりついた。
「うっわ、めっちゃうめぇ!」
「オレンジピールの苦みとチョコの甘さがマッチしていますね。美味しいです」
烈風刀の言う通り、生地とチョコレートの程よい甘みが広がる中に、オレンジピールの食感と風味、ほんのりとした苦みが広がる。ともすれば過剰に思える二つの甘みを淡い苦みがまとめていた。砂糖とバター、オレンジの香りが鼻に抜けていくのも心地良い。一つの作品として完成されていた。彼女も高い料理スキルを持っているだけあってか、素晴らしい出来だった。美味しいものを食べられた嬉しさと、愛する少女手製の菓子を食べられる歓喜が胸に広がっていく。自然と目元と口元が弧を描いた。
マフィンを食べて、紅茶を飲んで、またマフィンを食べて、弾む言葉を交わして。穏やかに時は過ぎていく。最近はアップデート作業やバグ退治でゆっくりする時間が減っていた。久方ぶりのお茶会は、三人の心に癒やしをもたらした。
「ア、雷刀。口の周り汚れてマスヨ」
マフィンを一個平らげた少女は、こちらを見て自身の口元を指差す。ぇ、とこぼし、口の端に親指を滑らせる。ざらりとした感触が伝わってきた。離して表面を見てみると、茶色い粉が指先に付いていた。もったいね、と付いたそれを舌で舐め取る。行儀が悪いですよ、と言う声が対面から飛んできた。
「反対側に大きいのついてマスヨ」
クスクスと楽しげに笑みを漏らしながら、レイシスは腕を伸ばす。細く白い美しい指が迫る。人差し指が、赤い口の端に触れようとした。
「レイシス」
鋭い声が少女の名を紡ぐ。冬の海を思わせる凍てついた冷たい、それでいて焦燥が滲み出た響きだ。そんな音で皆に愛される可愛らしい少女の名を呼ぶ者などいないはずだ。しかし、それは確かに発せられた音だった。それも、己の向かい側という絶対にあり得ない位置から。
朱と桃の頭がそろりと動く。二人の視線の先には、ぽかんと口を開けた烈風刀の姿があった。日に焼けていないかんばせは色を失い、どこかけぶった藍晶はぱちぱちと幾度も瞬いている。彼らしくもなく間の抜けたように大きく開いた口は、何かを堪えるようにわなわなと震えていた。
「烈風刀……?」
ことりと首を傾げ、レイシスは少年の名を呼ぶ。彼女が烈風刀にこんなに冷たい声で呼ばれたことなどないはずだ。極限まで煮詰めた砂糖もびっくりなほど、この碧い少年は桃の少女に甘いのだ。こんなに冷たい声で呼ぶなどないはずである。こんな刺すような、凍えさせるような恐ろしい響きで呼ばれたことに驚いているのだろう、一対の撫子は可愛らしく瞬いていた。
「え、あ、いえ、え、っと……」
あれだけ強い響きを発しておきながらも、彼が続けて紡いだのは弱々しい意味を成さない音だった。あの、その、としどろもどろに口が動く。その唇も薄く色を失っていた。蛍石の瞳はひっきりなしに宙をうろうろと彷徨い定まらない。人の目を見て話す理知的な彼らしくもない行動だ。
「ゆ、指で取っては、貴女の手が汚れてしまうではありませんか」
しばしして、烈風刀はようやく意味のある言葉を発した。その声は、どこか硬くぎこちないものだ。無理に言い訳をしているような、必死に何かを押し隠そうとしているような、そんな音だ。
「それに、貴女の口元も汚れていますよ。これで拭いてください」
そう言って、少年はウェットティッシュを差し出した。きっと、食べた後手を拭くためにあらかじめ用意していたのだろう。彼はいつだって用意周到だ。
はわっ、と桃は声を漏らす。指摘されるまで気付かなかったようだ。ありがとうございマス、と礼を告げ、少女は目の前に差し出されたそれを一枚抜き取った。傷一つ無い白い手が紙を広げ、丁寧に口元を拭う。可愛らしい唇の周りから、明るい茶色の欠片が姿を消した。濡れたそれで拭かれた唇は、一層つやめいて見えた。
貴方も、と声とともに視界に影。己にもウェットティッシュが差し出された。さんきゅ、と言うと同時に一枚抜き取る。そのまま乱暴に口元を拭いた。これで大丈夫だろう。
しかし、と雷刀は弟を見やる。碧い彼の目はどこか苦しげに眇められていた。丁寧に食べたからだろう、自分たちとは違って綺麗なその口元は、一線に結ばれていた。
先ほどの反応は驚愕に値するものだった。今でも信じられないほどだ。だって、あの弟はいつだって柔らかで優しい声で愛しい少女の名を呼ぶのだ。盲目的なまでに彼女を愛している彼が、あんな攻撃的な音色でその名を紡ぐなど今まで一度もなかった。好きな人をあんなに冷たい声で呼ぶことなどなかった。信じられるはずがない。
一体何故、あんな声で彼女を呼んだのか。密かに首を捻る。よっぽどのことがあったに違いない。それは一体何なのだ。思考をぐるぐると巡らせる。何かきっかけは。
あ、と漏らしそうになった声を何とか飲み込む。あの時、レイシスは己に触れようとしていた――好きな女の子が、男、それも恋敵に触れようとしていた。それも、口元なんて敏感で特別な場所に、だ。
なるほどなるほど、と一人頷く。あんな声を発してしまうのも納得だ。ただただ冷たさを感じたが、あの中には焦心がはっきりと浮かんでいた――そして、おそらく嫉妬心も。
嫉妬、と考えて、チクリと胸に針が刺さったような痛みが走る。己がレイシスに触れられることに、彼は嫉妬したのだ。好きな女の子に触れられる幸福を、彼はあんな声を放つほど渇望したのだ。それはそうだ、少し前の自分だったら同じことを強く思っただろう。だって、レイシスが好きなのだから――烈風刀はレイシスが好きで、愛していて、彼女しか見ていないのだから。
釘でも打たれているように心の臓がズキズキと痛む。胃の腑が重い。先ほど食べたマフィン以上の質量が胃に押し込められているような感覚がした。頭の中に暗い靄が立ちこめていく。
思考に暗い影を作っていくそれを振り払うように、雷刀はマグの中身を一口飲む。丁寧に淹れられた美味しい紅茶のはずなのに、妙に渋く感じた。
仰向けになったまま、薄い液晶画面をなぞる。ガラスフィルムで保護された表面を指が滑る度、明るい画面に様々な情報が流れていく。洪水のようなそれは、朱い瞳にぼんやり映るだけで意味を成さずに画面外に消えていった。
はぁ、と溜め息一つこぼし、ベッドの端にスリープ状態にした端末を放り投げる。ぽすん、と柔らかなマットレスが精密機械を優しく受け止めた。
どうにも暇だ。読み進めていた漫画も読み終わってしまった。やっているゲームもスタミナ回復待ちで何もできない状態である。ネットサーフィンでもしようか、と色んなサイトを見て回ったが、どこも興味を引くような情報は載っていなかった。時間を潰す手立ては尽きてしまった。
少し早いがもう寝てしまおうか。端末の充電も残りわずかだからちょうどいいかもしれない。ヘッドボードのコンセントに充電器を刺し、ケーブルを携帯端末に繋ぐ。上部にあるランプが充電を開始したことを告げた。
コンコンコン。硬質な音が三つ、早くも眠気が襲ってきた頭に飛び込んでくる。ノックの音だ。二人暮らしのこの住居で、こんな時間に己の部屋を訪ねてくる者は一人しかいない。
開いてるー、と扉の向こうに聞こえる声量で返事をする。数拍置いて、ノブが回される軽い音が部屋に落ちた。木目で彩られた扉が開く。隙間から、ふわふわと揺れる朝空色が顔を覗かせた。
「雷刀、少し時間いいですか?」
「いいぜー。ちょうど暇だし」
少し不安げに揺れる声に、できるだけ軽い音で応える。喉が上下し、小さく息を呑んだのが扉の隙間から見えた。
ドアがしっかりと開かれ、烈風刀が部屋に入ってくる。風呂上がりなのだろう、その肌は少し赤みを帯びていた。目と同じ色をした髪は、乾かしたてなのか普段よりも柔らかく見える。どこか艶めかしい姿にこくりと息を呑む。風呂上がりの姿なんて少し前までは何とも思わなかったのに、恋心とやらを自覚してからは妙に意識してしまう。舞い出た邪念を振り払うように、ぶんぶんと頭を横に振った。
「どうしました?」
「あ、いや、なんでもない。烈風刀こそどしたんだ?」
きょとりとした彼に、手を振って誤魔化す。へらりと笑みを浮かべ尋ねると、目の前の顔が強張った。整った眉がかすかに寄せられ、藍方石の瞳がどこか苦しげに細められる。血色の良い唇が、真一文字に引き結ばれた。
「…………話があります」
告げる声は固い。それでいて、気迫に満ちていた。真剣であることがありありと分かる響きをしていた。
その音に、雷刀は悟る。とうとう時が来たのだと――この恋が散る時が来たのだと。
そーなんだ、と努めて明るい声を出す。口角を無理矢理上げ、いつも通り、自分らしい表情を作る。聡い彼にはすぐに気付かれるだろうが、重苦しい顔をするよりずっとマシだ。消沈した顔など、被害者のような顔などしてはいけない。
「まぁ、とりあえず座れよ」
寝転がっていたベッドから起き上がり、縁に座る。その隣をぽんぽんと叩いた。部屋に椅子は勉強机に備え付けられた一脚しかない。二人で話す時は片方、もしくは両者ともベッドに腰掛けるのが常だった。
失礼します、と依然強張った声が鼓膜を揺らす。少し掠れた、小さくどこか不安定なものだ。
示した場所から拳一つ分離れた場所に彼は腰を下ろす。その距離に、今の己たちの関係を痛感する。以前ならば、彼はすぐ隣に座ってくれた。なのに、今は違う。たった拳一つの小さな違いだというのに、その距離が異様に遠くに感じられた。
ベッドに腰掛け、二人は向かい合う。普段ならばすぐに話を切り出す碧は、今は唇を引き結んだまま軽く顔を伏せていた。言葉を発する様子はない。常は軽妙に話す朱も、今は口を噤む。神妙な彼の表情を見ていると、無理に言葉を促すのは憚られた。沈黙が二人きりの部屋を満たす。
早く言ってくれ。早く断ってくれ。早く、この恋を殺してくれ。
頭の中で誰かが叫ぶ。己だ。恋とやらを諦めた己が、みっともなく叫ぶ。答えは最初から決まっているのだ。早く、早く、と。
ぎゅうと心臓が引き絞られるような感覚。口が渇く。喉が締まる心地。胸の内にどろりとした何かが満ちていく。醜い色をしたそれは、少年の心を食い散らかしていく。
「……貴方に告白された時、どうすればいいか分からなくなりました。まさか、好意を向けられているとは思わなくて」
心臓に痛み。烈風刀の言うことはこの上なく真っ当だ。血の繋がった兄弟に恋慕の情を向けられるだなんて、考えろという方が無茶な話だ。こんな感情を抱く自分が異常で、こんな感情を伝えた自分が異常なのだ。彼に非など一切無い。
「どう返せばいいか、分からなくなったのです。どうやって答えるべきか……、断るべきか」
僕はレイシスが好きだから。
呟くような言葉が、胸に刺さる。そうだ、烈風刀は、愛している人が、好きな女の子がいるのだ。そんなことは嫌ほど知っている。だって、すぐ隣でその姿をずっと見てきたのだから。
レイシス以外を選ぶはずなどないでしょう。
あの日――弟が告白をされたと知った日、彼が強く言い切った言葉が思い起こされる。彼はレイシスしか見ていないのだ。レイシス以外を選択する気など欠片も無いのだ。知っている。分かっている。理解している。それでも、この不出来な脳味噌は殴られたかのような衝撃を受けた。
痛苦が、悲哀が、胸を満たしていく。振られるのだ。この恋は実らず終わるのだ。最初から決定づけられていた運命に、小さな心が悲鳴をあげた。
同時に、一抹の安堵が哀に濡れた頭の隅に生まれる。やっと、やっとこの身を、この心を振り回し続けていた『恋心』とやらから解放されるのだ。もう悩まなくていいのだ。もう苦しまなくていいのだ。そんな汚らしい考えが、かすかに、けれどもはっきりと芽生えた。
「――でも、貴方がラブレターをもらった時」
細い声が部屋に落ちる。ともすれば消えてしまいそうな声が、鼓膜を確かに震わす。自然と下がっていた顔を少しだけ上げる。視界に映った碧は、痛ましげに眇められていた。まあるく美しい、愛しい人を表す色が揺れている。あまりに複雑で読み取れないほどの感情が、飴玉のように綺麗な瞳の中に浮かんでいた。
「物凄く、嫌だと思ってしまったのです。貴方に、知らない女性が貴方に恋愛感情を向けるのが嫌だ、と」
訥々と少年は語る。痛みを堪えているような、絞り出すような、そんな細く苦しげな声だ。無理すんな、と言いそうになるのをぐっと堪える。彼は、真剣に向き合って、真剣に話してくれているのだ。それを邪魔するなど、誰であっても許されない。
「あの時も……、身体が勝手に動いてしまって。何故だか、行かないでほしいだなんて思ってしまって」
どうしてなのでしょうね。嘲りを含んだ響きが、二人の間に落ちる。人に問うような言葉は、他でもない彼自身へと向けられたものだった。
彼が言っているのは、己がラブレターをもらい、その差出人の元に行こうとしたあの日のことだろう。あの時、弟は去ろうとした己の腕を掴んだ。反応からそうだろうとは思っていたが、本当に反射的なものだったらしい。聡明で理性的な彼ですら、自分を突き動かした何かを未だ理解できずにいるようだ。
「昨日、いつもにように抱きついてこない貴方に寂しさを覚えてしまったのです。こんなこと、今までなかったのに」
絞り出すような声とともに、少年は片手で顔を覆った。半分だけ見える瞳は依然痛ましく細められており、整った眉は強く寄せられている。言葉をこぼす口はわなわなと震えていた。己を無理に制御しているような、内に眠る激情を吐き出すような、そんな顔だ。見ている者すら辛くなる姿に、思わず手を伸ばす。やめろ、と脳味噌を揺らすような大きさで理性が叫んだ。マットレスから離れた手がひくりと震え、また元の位置に戻る。やり場のない感情をぶつけるように、シーツを力強く握る。柔らかな布に強い皺が走った。
「今日、レイシスが貴方に触れようとした時、嫌だと思ってしまったのです。触れてほしくない、と強く思ってしまったのです。他の誰かが、貴方に触れてほしくない、と」
声帯を無理矢理震わせるような声で彼は言う。揺れる音には、動揺がありありと浮かんでいた。
彼の口から発せられた言葉に、朱は思わず目を見開いた。驚愕のあまり薄く開いた口から、音にならない声が漏れ出る。頭を力いっぱい殴られたかのように、脳味噌が揺れる感覚がした。
あの時、彼は己に嫉妬したのだと思っていた。だって、烈風刀はレイシスに恋しているのだ。恋い焦がれ愛している人に対してそんなことを思うはずがない――嫉妬を抱くはずなどない。恋敵である己に対してならまだしも、彼女に対してそんな感情を覚えるはずがない。ないはずなのだ。なのに、どうして。
「――誰のものにもなってほしくない」
呟くような声が部屋に落ちる。響く音は可哀想なほど震えていた。
「貴方が、誰かと付き合うだなんて、嫌だ」
掠れる声で彼は言い切る。ギリ、と歯を噛み締める音が引き結ばれた口から漏れ出た。
たった今聞いた言葉が頭の中でぐるぐると回る。己が他人のものになるのが嫌だ。誰かと付き合うのが嫌だ。それは知っている想いだ。ずっと己の胸の内に燻っている独占欲――そして、恋心が喚き立てたものと全く同じものだ。
えっと、と雷刀は口を開く。久方ぶりに発した音は、みっともないほど震えていた。ひくりと喉が動く。ひゅ、とか細く息を呑む。音にならない声ばかりが漏れる中、どうにか声帯を震わせ言葉を形作っていく。
「お、オレも同じで。だから、烈風刀がラブレターもらった時引き止めちゃって」
まだ『独占欲』も『恋心』も理解していなかった頃だ。けれども、無意識にそれが芽生えていた心が、焦燥という形で己を突き動かした。強く腕を掴み、彼を知らない女の子の元へ行かせないようにしようとした――告白されるなんてことを、誰かのものになってしまう可能性を潰そうとした。知らない内に彼に恋した心は、この身体を突き動かしたのだった。
「だから……オレたち、いっしょ?」
問いとともに朱は首を傾げる。顔を覆い俯いた弟を見つめる瞳は、ふるふると揺れていた。
彼も一緒だなんて、本当なのだろうか。己の耳は正しく言葉を受け取っているのだろうか。己の頭は正しく言葉を理解しているのだろうか。これは全て、己にとって都合の良い幻覚か何かではないのだろうか。その方が納得できる。だって、彼は己の家族で、弟で、好きな女の子がいるのに。己に独占欲を、恋心を抱くなんてこと、あるはずないのに。
「分からないのです」
こぼした声は揺れていた。今にも泣き出しそうな音が、床に落ちて消える。ぐ、と白い喉が苦しげな音をたてたのが聞こえた。
「僕が好きなのはレイシスのはずなのに。何で、どうして貴方が、こんなにも」
彼は言葉を切る。続けられないのだ。きっと、彼もまた己の中に渦巻く激情に振り回されているのだ。胸の内に秘めた苛烈な何かが叫んでいるのだ。おそらく、自分と同じ何かが。
「オレもレイシスが好きだよ。でも、烈風刀のことが同じぐらい好き。烈風刀が誰のものにもなってほしくないくらい好き。オレだけの烈風刀でいてほしいぐらい、好き」
震える声で、掠れる声で、ゆっくりゆっくり言葉を紡いでいく。顔を伏せ地を見つめる愛しい弟に、優しく言葉を降らせていく。
真実だった。己はレイシスが好きだ。それは間違いない。けれども、烈風刀が好きなのだ。誰にも渡したくない。自分だけのものであってほしい。自分だけを見てほしい。そんな醜い感情を抱くほど、烈風刀が好きでたまらないのだ。心が必死に叫ぶほど、烈風刀のことが好きでたまらないのだ。
「レイシスが好き。オレのことも好き。それじゃダメ?」
「……だって、そんな不義理、許されるわけがないでしょう」
僕はレイシスだけが好きなはずなのに。
自身に言い聞かせるように彼は言う。紡ぎ出された音は戸惑い揺れていた。
彼もまた、自分と同じ問題を抱えているのだ。好きな女の子がいるのに、また別の誰かを好きになる。生まれてからずっとまっすぐ一人だけに向けていた感情が、他の誰かに向かってしまう。そんな心の揺れ動きを、そう簡単に受け入れられるはずなどないのだ。人よりもずっと単純な己ですらそうだったのだから。
そっか、と雷刀は息を吐くように漏らす。肺から絞り出したようなそれが、沈痛な空気の中に溶けて消えた。
拳を解き、握り締めていたシーツから手を離す。緩慢な動きで腕を上げ、自身の膝を見つめる碧へと伸ばしていく。少しの逡巡の末、今度こそその頭に触れた。ビクン、と縮こまるように丸められた身体が大きく跳ねる。しかし、彼は、確かな怯えを見せた彼は、今までのように距離を取らなかった――逃げずに、己と向き合ってくれた。
丸い頭の形に沿うように、ゆっくりと手のひらを動かす。乾かしたての柔らかな髪の感触が心地良い。近づくことを、触れることを許してくれた喜びが、心の奥底から湧き上がる。身勝手な感情を抑えつけ、少年は手を動かした。
「烈風刀はレイシスが好き。そうだよな」
あやすように撫でながら、兄は優しく問う。触れた先の弟は、コクリと小さく頷いた。そっか、と少年はまた声を漏らす。自分でも驚くほど穏やかなものだった。事実、あれほど苛烈に嘆き叫んでいた心はほんの少しだけ凪いでいた。彼が、大好きな人が、己に対して独占欲を向けてくれた。それだけで心が満たされる思いだった。
「そこにちょっとだけ、オニイチャンも入れて? 百分の、千分の一だけ、ほんのちょっとだけでいいから、オレのこと、忘れないでいて?」
祈るように、縋るように、赤い口がゆっくりと言葉を紡いでいく。カーネリアンの瞳は、優しく細められていた。安穏な色を宿したそれは、ただ一人、愛しい人だけを見つめていた。
「忘れるわけないでしょう」
喉から必死に絞り出すような音が、引き結ばれた口から漏れ出るのが聞こえた。鼓膜を震わせるそれは、酷く痛そうな、酷く苦しそうな、酷くはっきりとしたものだ。こんなにも震えているというのに、普段彼が発するような芯の通ったまっすぐな響きをしていた。
「忘れられるはずなんてないでしょう。こんな、こんなもの、ずっと」
ぐ、と息を呑む音が聞こえる。堪えるように、白い喉が動くのが見えた。
「――好きなんです」
息を吐くような声が、静かな部屋の中ですらすぐに消えてしまいそうな声が、痛みにまみれた声が、涙に濡れた声が、二人の間に落ちる。
「貴方のことが好きで、好きで、誰にも取られたくないんです。他の人にも、レイシスにも、誰にも渡したくない」
貴方だけが欲しい。
呟く掠れた音は、祈りのような、懇願のような響きだった。確かな欲望が――独占欲が表れた響きだ。恋を謳った響きだ。愛に潰されそうな響きだ。間違いなく本心だと分かる、まっすぐな響きだ。
ず、と鼻を啜る音が狭い部屋に落ちる。半分だけ見えるかんばせ、その強く眇められた目の端から雫がこぼれ落ち、頬を伝っているのが見えた。ぅ、と喉が上下し、苦しげな音を鳴らす。込み上げてくる何かを必死に押し殺そうとしているのが分かる音だ。
涙を流す弟の頭を、兄はゆっくりと撫でる。落ち着かせようと、安心させようと、少年はつやめく髪を撫ぜる。幾度も上下する手つきは、慈愛に満ちていた。
「オレも一緒」
優しい声が碧い頭に降り注ぐ。朱は穏やかな、けれどもどこか震えた声で言葉を紡ぐ。その音もまた、涙で濡れていた。
「烈風刀が好きで、誰にも取られたくない。他のやつになんてやらない。オレだけの烈風刀でいてほしい」
おそろいだな、オレたち。ふざけたように言うはずが、声帯が震え発した言葉は濡れていた。目頭が熱い。鼻の奥が痛い。頬を何かが伝っていく。己もまた泣いているのだと、どこか他人事のように理解した。
「レイシスが好きでもいいよ。ただ、今、ちょっとの間だけはオニイチャンの烈風刀になってくれない? ダメ?」
「……そんなの、貴方に対して失礼ではありませんか」
「いいよ。……オレだって、レイシスが好きな気持ち、捨てらんねーもん」
烈風刀のことが好きだ。愛している。誰のものにもなってほしくない、自分だけのものであってほしい。それは本心である。けれども、レイシスのことが好きなのもまた事実だ。彼女に『愛』を抱いているのは間違いない。一生消すことのできない事実だ。一生消すことのできない気持ちだ。己は、己たち兄弟は一生あの少女のことを想うのだ。それだけは、何故かはっきりと分かった。
朱の言葉に、碧は目を見開く。丸くなったその端から、また涙が頬を伝う。え、と震える口から音が漏れるのが聞こえた。
「オレのこと好きでいる間だけでいいから、傍にいさせて。レイシスの方が好きで、大好きで、オレなんかいらないってなるまで、一緒にいさせて」
頭を撫でる手を離す。拳を握り、ゆっくりと解く。そろそろと腕を伸ばし、座面についた烈風刀の手に己のそれを重ねた。触れた肌は冷え切っていた。緊張によるものだろうか、と些末なことを考える。自分も同じような温度をしているのだろうということは確かめずとも分かった。
「そんなの、許されるのですか」
「そう言ってるじゃん」
「だって、僕も貴方もレイシスが好きで」
「好きだよ。でも、烈風刀のことも同じぐらい……いや、それ以上に好き」
「だってそんなの、二人も好きな人がいるなんて、そんなのおかしいじゃないですか」
「しょーがないじゃん、好きなもんは好きなんだからなんだから。好きって気持ち、そう簡単に消せねーだろ?」
「でも、でも――」
「いいんだよ」
揺れ動き震える声が、何度も問いを重ねる。信じられない、というような響きだ。それを全て肯定していく。彼の抱き苦しんでいる感情を、全て肯定していく。
だからさ、と雷刀は言葉を続ける。常のように明るく振る舞おうとしたはずが、喉が発した言葉は依然濡れたものだった。
「オレのこと嫌いになるまで、一緒にいて。好きでいさせて」
おねがい、と懇願の言葉を口にする。そのまま、ふわりと朱は笑う。弧を描き細まった目から、また雫が一つこぼれ落ちた。シーツに暗い点が生まれる。
「――嫌いになんて」
しばしの沈黙。重苦しいそれを破ったのは烈風刀だった。必死に嗚咽を殺す口から、言葉が漏れる。吐き出すような、絞り出すような、こぼれ落ちたような、途切れ途切れの掠れた音だった。
「嫌いになんて、なるわけないでしょう」
好きなんですよ。
堪えきれなかった嗚咽混じりに彼は言う。涙で濡れた声は、確かに朱に――碧が愛する人に届いた。夕焼け空色の瞳から、また雫がぽろりとこぼれ落ちる。健康的な肌の上に透明な道がいくつも作られた。
「……これ、ソーシソーアイってやつ?」
「……恐らくは」
交わす言葉は、互いに疑問符が浮かんでいた。けれども、確かな事実である。己は、嬬武器雷刀は嬬武器烈風刀のことが好きで、嬬武器烈風刀は嬬武器雷刀のことが好きなのだ。今さっき語り合った気持ちは、当分消えることのない強固なものである。溢れ出る感情が湧き起こす涙がその証拠だった。
「……じゃあ」
「……不束者ですが、よろしくお願いします」
確かめようとしたところで、言葉が切れる。胸いっぱいに満ちる感情が、喉を、言葉をつかえさせる。察しの良い彼は兄の言いたいことを理解したのだろう、呟くような音とともに、小さく頭を下げた。
たっぷり十数秒。ようやく弟の発した言葉の意味を理解して、兄の頬にぶわりと赤が広がっていく。喜びに満ちた色だった。幸せに満ちた色だった。熱い雫がまた肌を滑っていく。悲しみや苦しみではない、確かな歓喜の証だった。
バッと手を広げ、雷刀は目の前の身体に抱きつく。うわ、と小さな悲鳴とともに、二人揃ってベッドに倒れ込んだ。ギシリ、と男子高校生二人の体重を一身に受け止めたスプリングが抗議の悲鳴をあげた。
「ちょ、っと、雷刀」
「好き!」
烈風刀好き。大好き。愛してる。
胸から溢れ出てくる感情を、そのまま言葉として形作っていく。拙い愛の告白を何度も何度も繰り返す。抱える愛情を表すように、腕の中に捕らえた身体をぎゅうと強く抱き締めた。
あぁもう、と呆れた声が耳元で聞こえた。少しだけ濡れたままのそれは、どこか温かなものだ。くすりと小さな笑声が耳のすぐ隣で聞こえた。
「僕も、……、好き、ですよ」
愛しています、と烈風刀は続けた。その音は、酷く穏やかで、酷く幸せそうな、愛しさに満ち溢れたものだった。先ほどまでの痛ましさは消えていた。あるのは、幸いだけだ。
腕に込めた力を抜く。そのままマットレスに肘をつき、軽く身を起こす。目の前、濡れた藍晶石を見つめる。己の身体によって影が落ちた顔は、赤く色付いていた。涙を流し、頬を染めるその姿はどこか幼く可愛らしいものだ。
「んじゃ、これからよろしく」
「えぇ、よろしくお願いします」
言葉を交わし、二人は笑う。涙で濡れた顔は、お世辞にも綺麗とは言い難い。けれども、互いに浮かべた笑みは、確かな恋の心が、愛の感情が宿った美しいものだった。
静かな夜に、二つの幸せな笑い声が響いた。
05.●
くぁ、と大きく欠伸をし、雷刀はエプロンを被る。長い腰紐を後ろ手で結ぶ。縦結びになった青いそれが、引き締まった腰を彩った。
重い目元を擦る。眠気ではない、腫れていて重いのだ。普段ならば顔を洗えば開くはずの目は、腫れぼったくて開きにくい。ぱっちりした炎色は、普段よりもほんの少しだけ細まっていた。
あの後――互いに想いを伝え合い、心が結ばれた後、二人でそれはもう盛大に泣いた。幼い子どもか、と呆れるほど泣いた。想いが通じ合って嬉しいはずなのに、これ以上なく幸せなはずなのに、涙腺が壊れてしまったかのように二人でボロボロと涙を流し続けたのだった。何で泣くんだよ。貴方こそ。軽口を叩き合うも、依然湧いて出る雫が肌を伝い落ち、布地にシミを作っていく。ようやく涙が引っ込んだ頃には、二人の下敷きになったシーツはびしょびしょに濡れていた。
身体中の水分が無くなったのではと錯覚するほど泣いたのだ、翌日目が腫れぼったくなるのも必然である。顔中を濡らしたそれを拭うためにタオルで目元を何度も擦ったのも原因の一つだろう。今朝鏡に映った己の顔は、前日めいっぱい泣いたことがよく分かる酷いものだった。
冷やしたらマシになるかな、と考えつつ、少年は冷蔵庫を開ける。今日の朝食はハムエッグと作り置きのほうれん草のおひたし、白米に味噌汁でいいだろう。忙しい朝は互いに簡素な料理を作ることがほとんどだ。タンパク質も野菜もきちんと摂るのだから、栄養バランスも悪くはないはずだ。弁当は冷凍食品と作り置きのおかずを詰め込むことにしよう。盛大に泣いた疲れが残っているのか、弁当の中身まできちんと作る気力はあまり湧いてこない。
卵二個とハム、油揚げとネギを取り出し、少年は調理台へと戻る。材料を台に置き、棚からフライパンと小ぶりな鍋を取り出した。鍋に汁物椀二杯分の水を入れ、コンロに置く。顆粒出汁を目分量で溶かし入れ、火に掛けた。
まな板と包丁を取り出し、ネギを小口切りにする。脇に寄せ、今度は薄い油揚げを小さな短冊形に切る。細かくなったそれらを、まだ沸いていない鍋の中に放り込んだ。蓋をし、火を少し弱くする。どちらも火が通りやすい食材だ、他を調理している間に煮えるだろう。食べる直前に味噌を溶かせば味噌汁は完成だ。
フライパンを火に掛ける。温まる前に少量のサラダ油を流し入れ、表面に広げた。パックの中で重なったハムを二枚剥がして取り出し、フライパンの上に距離を置いて並べる。ジュウ、とピンク色の円が心地良い鳴き声をあげた。
ハムの表面がぽこぽこと膨れた頃合いを見計らい、それに重なるように卵を二つ割り入れる。狭いフライパンの中で広がった白身がくっついて、まるで双子のようになる。盛り付ける時にフライ返しで切ればいいだろう。己は見目にはさほどこだわらないタイプだ。几帳面な弟も、これぐらいなら文句を言うことはないだろう。朝は美しさよりも手軽さが勝つのだ。
カチャリ、と小さな音が調理音の中に飛び込んでくる。フライパンの火を弱め、ドアの方へ視線をやる。木目調の扉の隙間から、丁寧に整えられた碧が覗いた。焦がれる色に、ふっと口元が緩むのが分かった。
「おはよ」
「おはようございます」
キッチンとリビング、隔たった場所に立つ二人は朝の挨拶を交わす。丁寧な言葉を紡ぎ出す口の端はほんのりと上がり、つややかな目は愛おしげに細められていた。普段は白い肌、その目周りはほのかに赤みを帯びている。烈風刀もまた、昨晩の大泣きで目を腫らしているのだ。
愛しい人の柔らかな笑みにつられ、朱い睫に彩られた目がゆっくりと弧を描く。リビングの窓から差し込む朝日に照らされた控えめな笑顔は、美しくも可愛らしかった。好きな人に朝一番に会い、言葉を交わす幸せを噛み締める。今まで当たり前だったそれは、想いが通じ合った今は幸福の一つに生まれ変わった。
「朝飯、もうちょいでできるから待っててなー」
手にしたフライ返しを振りながら、少年はフライパンに少量の水を流し込む。ジュワァ、と音をたてるそれにすぐさま蓋をした。このまま少し蒸らせばハムエッグのできあがりだ。黄身が割られ、とろりと流れ出たそれが白身とハムを彩る姿が脳裏に描かれる。くぅ、と腹の虫が小さな鳴き声をあげた。
「手伝いますよ」
そう言って、碧は腕まくりをしキッチンに入ってくる。申し出は嬉しいものの、もうほとんどの料理ができあがっている状態だ。残っているのは盛り付けぐらいである。
「じゃあ、ご飯よそっといて。弁当の分も」
「分かりました」
兄の言葉に、弟は壁に吊されたしゃもじを取る。軽く水で濡らしたそれを手に、炊飯器へと向かっていった。その後ろを通り抜け、冷蔵庫からおひたしが入った保存容器と味噌を取り出す。しゃもじのすぐ隣に並んでいたお玉を手に取り、味噌入れから中身を適当にすくい取る。鍋の蓋を開け、煮える鍋の中にお玉を突っ込んだ。適当に掻き回し、味噌を溶かしていく。溶けきったところを見計らって少量すくい取り、一口飲む。味噌と出汁の風味が口の中いっぱいに広がった。これでいいだろう。ようやく感覚が掴めてきたのか、最近は一発で味を決めることができている。上達の証拠だ、と少年は密かに笑みをこぼした。
コンロの火を二つとも消し、今度はフライパンへと向かう。蓋を開けると、ほのかな湯気とともにハムエッグが顔を出した。ハムは縁がカリカリになり、肉特有の香ばしくもどこか甘い香りを放っている。しっかりと火の通った白身の表面はつるりと輝き、半熟にできあがったであろう黄身は心なしかふるふると揺れつやめいていた。完璧な案配である。一繋ぎになったそれの間にフライ返しを立て、切り離す。ハムエッグ二人前の完成だ。
きっと烈風刀が用意してくれたのだろう、いつの間にか調理台の上に置かれていた皿にハムエッグを移す。磁器の透き通る白に、ピンクと黄色がよく映えた。すぐ隣から、持っていきますね、という声とともに腕が伸ばされる。主菜が載った皿を白い手が掴み、食卓へと運ぶ。キビキビと動く弟の姿は、朝起きてからわずかしか経っていないとは到底思えないものだった。寝起きが良いとはとても言えない己とは正反対である。
棚から小鉢を取り出し、ほうれん草のおひたしを盛り付ける。手早く終わったそれに続けて、汁物椀に味噌汁をよそう。できたての汁物が、ほかほかと温かな湯気をあげた。よく火が通り透き通ったネギと膨らんだ油揚げが柔らかな茶色の汁の中を泳ぐ様は、どこか心落ち着くものだ。同時に、腹の虫を容赦なく刺激する様でもあった。
「できたぞー」
「ありがとうございます」
はい、とお椀と小鉢を弟の前に並べる。遅れて己の分を並べ、エプロンを外して背もたれに掛けてから席に座る。二人の目の前に今日の朝食が並んだ。簡素ながらも満足のいく出来映えだ。
パン、と手を合わせる。いただきます、と声が二つ重なり、朝の清澄な空気の中に響いた。
箸を手に取り、雷刀はまず味噌汁に手を付ける。少し冷まして一口。穏やかで温かな味がが口の中に広がる。箸で具を寄せて食べる。火が通ったネギの甘みと、出汁をよく吸った油揚げの旨みが舌を楽しませた。
次はハムエッグ。ハムの上に乗った白身を切り分け、口に運ぶ。ハムの塩気が移った白身はそれだけで米が進む。ご飯茶碗に手をかけ、湯気立ち上る白米を一口。炊きたての米の甘みと、ほのかな塩気を感じさせる白身が合わさり、口の中でほどけた。思わず頬が緩む。我ながら良い出来である。
ふわふわと白い湯気舞う味噌汁に再び口を付ける。風味豊かなそれを飲み込もうとしたところで、そういえば、と向かい側から声が聞こえた。
「今日提出の課題、済ませましたか?」
飛び込んできた言葉に、椀を傾ける手がピタリと止まる。喉が変な音をたてる。その拍子に、口の中に入っていた液体が食道ではなく気管へと入り込んでいくのが分かった。どうにか口内に残った味噌汁を飲み込み、ゴホゴホと咳き込む。物が入ることを想定していないそこが鈍い痛みを訴えた。
「ちょっと、大丈夫ですか」
「だい、じょ、ぶ……」
目を丸くする烈風刀に、雷刀は咳き込みながらも応える。気管から異物を取り去ろうと、身体は何度も咳を出した。少し落ち着いたところで、そっと対面を見やる。こちらを見つめる瞳には、心配の色と懐疑の色が半々に浮かんでいた。
「あー……えーっと……」
淀んだ言葉が漏れる。先ほどまで目の前の弟を見つめていた朱い瞳は逃げるように逸らされ、宙を泳いだ。ゆらゆらと定まらないそれが何度も瞬きを繰り返す。口角が気まずげにひくついた。
課題なんてあっただろうか。今日提出の課題と言われても、心当たりなど全く無い。きっと、居眠りをして聞き逃していたのだろう。そもそも、覚えていたとていつだって睡眠学習に失敗する頭では問題が解けるはずがないのだ。教科書も参考書も問題集も全て学校に置いてきているのだから、今からやる手立ても無い。学校で答えを写す作業をしようものなら、弟の凍てつく視線が己の身を刺し貫くだろう。詰みである。
「……提出しないより、遅れて提出する方がマシです。教えますから、今日の夜やりましょう」
ね、と尋ねるような声は、有無を言わせぬものだ。はい、と萎んだ声で返す。早速今晩の予定が決定づけられてしまった。
しかし、と朱は米を口にしながら考える。兄弟で勉強会などいつぶりだろうか。己が告白して関係が崩れてからの期間は、家で話すことはあれどどれもどこかぎこちないものだった。それが今、以前のように自然に談笑している。ましてや、一緒に並んで座り、丁寧に勉強を手ほどきしてくれることを彼自ら申し出てくれた。元に戻った距離に、再び手に入れた距離に、自然と口角が上がる。ふふ、と唇から息のような笑いが漏れ出た。
「何をニヤニヤしているのですか」
どうやらよっぽど顔に出ていたらしい、対面という顔が真正面から見える位置にいる烈風刀は、冷たい声で言う。説教に近い言葉を投げかけたというのに、相手がニヤニヤと笑っていては良い思いはしないだろう。腫れぼったい瞼が少し下がり、碧い目が眇められた。
「いやさ、烈風刀と二人でいられんの嬉しいなーって」
「……勉強をするのですよ。何をふざけたことを言っているのですか」
笑みを浮かべながら箸をくるりと宙で回す雷刀に、烈風刀は尖った言葉を返す。普段通りの厳しい彼だ。けれども、その頬には紅がふわりと散っていた。ふい、と視線が逸らされる。隠すように、彼は鰹節が添えられたおひたしに箸を伸ばした。
普段通りになっただけで、これだけ恥じらう姿が可愛らしい。その紅に染まる柔らかな頬が愛らしい。胸に溢れる愛おしさに、朱い少年は再び笑みをこぼす。頬が緩みきった、幸福に満ちた顔をしていた。また米を口に運ぶ。緩みきった口で食物を食べるのは意外と難しいことを今日初めて知った。
登校時間が刻々と迫る中、二人は箸を動かす。しばしして、ごちそうさまでした、とまた声が二つ重なった。目の前に並ぶ皿には米粒一つすら残っていない。今日の料理の出来を静かに物語っていた。
机から食器を回収し、手早く洗う。水切りかごの中に放り込んだそれは、帰ってくる頃には乾いているだろう。食べている間に冷ましていた弁当を組み立て、箸箱とセットで包んで片付けたばかりの食卓に置いた。
歯を磨き、ついでに腫れた目を少しでもマシにしようと顔を洗う。鏡に映った目元は、依然赤みを帯びて腫れぼったい。今日はこのまま過ごすしかないようだ。レイシスに心配されなきゃいいんだけど、と胸の内で呟く。泣ける映画を見た、と言えば彼女は誤魔化されてくれるだろうか。周りが不安になるくらい、あの子は人を疑うということを知らないのだ。
足早に自室に戻り、朱はジャケットと薄っぺらい学生鞄を手に取る。クリーム色の上着に袖を通しながら、少年は狭い廊下をぱたぱたと走った。
玄関には既に鍵と二人分の弁当を手にした弟の姿があった。はい、と差し出された弁当の包みを受け取る。忘れ物はありませんか、との声に、おう、と短く返す。教科書の類は全て学校に置いているのだから、忘れ物などするはずがない。そんなことを言っては絶対に怒られるから、黙っているのだけれど。
玄関のドアを開ける。ガチャ、と重い音に続いて、いってきます、と元気な声が二つ狭い空間に響いた。
鍵を掛けたことを確認し、コンクリートでできた狭い廊下を二人で歩む。昨日まで二歩分空いていた距離は、一歩分に縮まっていた――以前と同じ距離に戻っていた。日常の帰還を実感し、少年はそっと目を細める。喜びに満ちた眼差しをしていた。
そんな中、好奇心が顔を覗かせる。楽しいこと第一の単純な脳味噌が、湧いて出るそれに敵うはずなどない。いたずらげなそいつに背を押されるがままに、半歩横にずれた。
腕と腕とが触れ合いそうな距離まで身体が近づく。ひくり、と横に並ぶ肩が強張ったのが見えた。けれども、離れる様子はない。半歩分、触れそうな距離のまま二人で歩く。昨日までは考えられなかった近さだ。それを許してもらえている。戻ってきた――否、更に進んだ距離に、歓喜が胸に満ちる。へへ、と幸色した笑声が漏れ出た。
烈風刀、と愛する人の名前を紡ぐ。口から発せられた響きは、自分でも驚くほど甘いものだった。何ですか、と声とともに隣を歩く彼が視線をこちらに向ける。揺れた髪の隙間から見えた耳は、ほんのりと紅で彩られていた。
「好き」
ホットチョコレートのようにとろけた声で、この胸の内に溢れる感情を形作る。目の前の碧が、音を咀嚼するようにぱちぱちと瞬く。瞬間、日に焼けていない白いかんばせにぶわっと赤が広がった。ビクン、とジャケットに包まれた肩が大きく跳ねる。
「あ、朝っぱらから、何を言っているのですか」
「いいじゃん、いつ言ったって。好きなんだし」
なぁ、と小首を傾げて呼びかけてみる。返事の代わりに、ふぃと視線が反対側へと逸らされた。その様子がまた可愛らしくて、なー、と甘えるような声で再度呼びかける。軽く屈んで、少し伏せられた顔を覗き込もうとする。ぺしん、と触れ合いそうなほど近かった手を叩かれた。痛みなんて感じないほど軽いそれは、じゃれるようで愛らしい。えへへ、と緩みきった口から楽しげな声が漏れ出た。
関係は壊れた。壊してしまった。この手で崩しきったそれは、言葉を交わし合うことで再構築された。今までの『兄弟』ではない、また別の、互いに愛しさを向け合う関係が二人の間に築かれたのだ。
それがいつまで続くか分からない。すぐに壊れるかもしれない。大人になるまで続くかもしれない。未来のことなど誰にも分からない。けれども、今この瞬間、二人の間には強固なものがあるのは確かな事実だ。
スタスタと歩き、エントランスへ出る。自動ドアを抜けると、一気に蒸すような熱気が身体を包んだ。今日も天気が良い。良すぎるおかげで暑くて困るぐらいである。
「あっつ……」
「夏が近いですから」
うんざりとした声に涼やかな声が返される。少しの苦笑を孕んだ音をしていた。こんな気温の中放り出されたというのに、文句の一つも言わないのだからこの弟はどこまでいっても優秀だ。
陽光に抗うように細めた目で、頭上に広がる空を見上げる。太陽燦々と輝く空は、抜けるように青かった。