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祝祭

全体公開 1 4534文字
2021-12-23 06:24:02

審神者が亡くなり解体が決まった本丸の最後の一日(兼歌)

Posted by @proedworda




 寂しいほどに青く、どこまでも高い空だった。
 暦の上では真夏だというのに、ちりちりと肌を焦がすような暑さは感じられない、束の間の過ごしやすい日だった。
 それでも今朝から、いや数日前から、本丸中を包む空気がどこか湿っていることに、誰もが皆気がついていた。

 審神者である人間が亡くなってから今日で五十日である。
 春の終わりに短い生を終えた老人は、己が亡き後にこの本丸を残していくことを悔やんでいた。彼の愛した本丸の解体を定めた書簡は、執務室の机の上に静かに置かれていた。弔いの儀式が一通り終わった後に発見されたそれは、審神者自身が生前作成したものであった。
 葬式が終わると、刀たちによる長い長い宴が続いた。
 昼も夜も明かりが煌々と灯され、ある者は別れが辛いと泣き、ある者は単騎で出陣し、またある者は酒を煽ることで虚勢を保っていた。主が不在の本丸は統率を失ったかに思われたが、皆集団での生活が染み付いていたためか、歪ながらも本丸はまだ機能していた。最低限の秩序の中で、僕らはすべてを終えるための準備をし始めたのだ。

 本丸に響き渡る喧騒のすぐ下には、ひっそりとした悲しみと終わりの気配が静かに息を潜めている。
 もうすぐ別れを告げる身体は気だるかった。
 最後なのだから、もっとこの身体を思う存分使えばいい。同田貫のように、誰の命でもなく、ただ戦うことを目的に単騎で出陣するのも悪くは無い。もう間もなく、刀身に血を浴びることもなくなるだろう。最後に出陣したのは一体いつだったか。やはり、戦うことは好きだった。
 どっと大気が揺れる。大広間から次郎太刀の声が響いた。頭を占めるもやを紛らわすために、あの莫迦騒ぎに混ざるのも悪くはない。
 それでもなお動きたくないのは、この気だるさを失うことさえ勿体ないと感じているからだろうか。
 指を広げた。僕の意図通りに動く指とももうお別れなのだ、と思うと、当たり前のように享受してきた動作も、まるでそれが千年に一度だけ起る奇跡であるかのように目に映る。
 爪の形、指の長さ、関節の動く範囲。皮膚の下の血管、筋肉、骨。ささくれ、あかぎれ、乾燥して引っ張られているような手のひら。顕現する際に指定したわけではないが、なるほどこれは自分の身体だと、まるで初めから備わっていたかのように思えたもの。
 一度手に入れたものを自ら手放すことは、不意に奪われるよりも、よほど堪える。
 つい昨日までこの指に絡まっていたのは、黒く艶やかな髪だった。
 汗でふやけた皮膚と、そこに張り付く己のものでは無い髪の毛。愛おしい重み。肉体のすべて。
 ――この記憶だけで僕は大丈夫。
 そう言い聞かせて庭に目をやる。庭では青々と若葉が陽の光を浴びて繁っていた。
 あと数時間。いくつか仮初の辞世の句は浮かんだが、それを書き留めるでもなく、頬を撫でていく風をつぶさに観察していた。
 気を紛らわすように、凭れた柱に頭を強く静かに押し付けてみる。鈍い痛みがゆっくりと広がったが、期待したほどの効果はなかった。心が身体にもたらす影響は大きいが、如何せん戦うための身体である。この程度の痛みなどなんてことはなかった。
 自然とため息が零れる。
 美しい庭。すっかり愛着を覚えた建物。あと少しで感じられなくなる五感。どれも大切だ。どれも愛おしく、どこを見てもその場所に記憶が焼き付いている。
 それでも未練がましく頭を占めるのは、昨晩関係を終わらせたばかりの恋仲の姿。瞼の裏に焼き付いて離れないのは、和泉守の空色の虹彩だった。

 §

 最後に過ごすべき者は僕ではないだろう。
 そう言って別れを切り出した時、果たして和泉守はどんな顔をしていただろうか。
 和泉守と別れる決意をしたのは、主を看取った時だった。
 はっきりとした理由なんてない。主が永い眠りについて、僕はお小夜がどこかへ行ってしまった時のことを思い出した。そしてごく自然と、和泉守との関係を終わらせよう、という考えが芽生えたのだ。見えない大きな力によって手が届かなくなるのなら、きちんと自分の意思でもって手放すほうが余程いい。そう思ったのかもしれない。
 和泉守と過ごした時間は決して長くはなかった。いつも一緒にいた訳ではなかったし、全てを知り尽くしているという訳でもなかった。
 だから、別れるべきなのだ。最後に過ごすべき者は、僕ではない。
 決して利口な刀を演じているわけではない。本当に、心からそう思ったのだ。それが最良の選択だった。そうだったのだ。


……よお」
 頭上から降ってきた声が耳に届いても、目を閉じたまま、僕はそよぐ風の音を聞いていた。
 和泉守がこちらへと向かってくることは分かっていた。
 それは足音で。空気の揺れで。あまりにも馴染んだ和泉守の気配が廊下の奥から近づいてくるのを、僕の皮膚や鼓膜はしっかりと捉えていた。
 しばらくの沈黙の後、和泉守は僕の隣に腰を下ろす。
 躊躇いがちな距離だった。それでも手を伸ばそうとすれば、届いてしまう距離だった。
 ――ばかだな。
 胸の内でもう一度、「きみはばかだ」と呟いて、ゆっくりと目を開ける。眩しい日差しの中に、見慣れた朱色の着物の端が見えた。
……いいのかい。こんなところにいて」
「あんたこそ」
「僕はいいんだよ」
……あっそ」
 その声に拗ねたような色を見つけて、僕の心臓はとくりと跳ねた。
 また背中の方で大きなどよめきが起こる。
 本丸のおよそ半分が集まり騒いでいる大広間から、和泉守は抜け出して来たのだろう。本当にここにいていいのか、と念を押すことはしなかった。
 胸の辺りを手でおさえなければ耐えられないほどの苦しさだった。心というものが形を持っているならば、それは今、形が変わるほどの力でそっとやわらかに押し潰されているにちがいない。
 ほんのりと漂う酒の香りが鼻腔を擽る。和泉守そのものの匂いを覆い隠してしまうから、宴会が好きではなくなったことを不意に思い出す。
 どこを見ても、何を感じても、思い出す景色には和泉守がいる。
 鮮やかな空や若葉が繁る翠の庭は、和泉守が来たことにより途端に背景と化した。
 自覚させられてしまう。どれほど僕が和泉守を恋しく思っているのか。
――最後にふさわしい天気だ」
 青い空だ。雲が高い。ただ、それだけしかわからない。
 そんなことは、本当はちっとも思っていなかった。空なんてつい先程、まるきり目に入らなくなったところなのだ。それでも言い聞かせるようにわざと口に出すと、天候への興味のなさがかえって際立ってしまったような気がした。
 目に庭を映しながらも、僕の意識はすべて隣の和泉守の方に向かう。
 常よりは少しだけ遠く、それでも腕の届くほどの近さにある熱の塊。ゆるやかに動く胸。肩に流れる癖のない髪の毛。よく汗をかく肘の内側。つい昨日まで、僕を腕を捉えていた大きな手。長い指が無意識に任せて落ち着きなく床板の溝をなぞる様。そのすべてが和泉守との時間を思い起こして、僕の身をちりちりと焦がした。
 このままでは、なんのために関係を終わらせたのか、分からなかった。
「晴れてんな」
「あまり気温もあがらなかったね」
「そうだな」
「ああ、ぴったりだ」
 表層を撫でるだけの会話が続く。
 こんなことを、話したいのではなかった。もっと話すべきことがあるはずだった。ここで過ごした時間は、こんな会話で、天気の話なんかで締めくくるべきものではないと感じている。それなのに、湧いて出てくるのはわざとらしくてありきたりな言葉だけだ。
 焦りばかりが堆積していく。
 こんな話がしたいのではない。では一体僕自身は何がしたいのか、と内に問いかけてみても、混沌としている靄の中からは答えは返ってこないのだ。
「残り、どんくらいだ?」
 残り、というのが何を意味するのかは自明だった。残り時間。僕たちがこうして人の形で過ごせる寿命。和泉守からは死角にある柱時計に目をやる。階段の下に据えられた大きな時計。その盤上にある針は白々しく、すっと長く伸びて、一三時〇五分を指していた。
 もうそんな時間なのか。こんなはずじゃない。こんな気持ちで、いいわけがない。
……二時間ない、くらいかな」
「なあ」
「さて、もう――
「おい」
 ついに耐えられなくなった。波が防波堤を越えたのだ。理性の錨は濁流にあっけなく押し流された。散り散りに破壊され、抑え込んでいたものが暴れ始める。僕は立ち上がってその場から逃げ出そうとした。
 しかし、それは僕だけではなかった。
……っ! 離せ!」
「いやだ!」
 頬を掴まれ、力ずくで振り向かせられる。視界いっぱいに広がる黒い髪の毛。逸らし続けていた空色の瞳。恋焦がれていたその色は、潤んだ膜に覆われて揺らいだ。
――なあ、やっぱりオレ、あんたを忘れたくねえよ……!」
 ああ、と僕は感嘆の息を洩らす。
 その声。僕の鼓膜を乱暴に叩き、激情で震えるその声が、僕はたまらなく好きだったのだ。
 ばかだ。僕は大ばか者だ。
 逃げようとするも、後ろにはもたれかかっていた柱があって、これ以上下がることはできなかった。そうして真正面から和泉守に射すくめられることになる。真っ直ぐに見つめられて、正気でいられる方が無理な話だった。
 失いたくない。隅々まで愛された身体も、気だるさも、散々乱された心も記憶も。和泉守が好きだと言った僕の髪の毛一本でさえも。
 最後の最後で、その全てが惜しくなった。何一つ失いたくないと思った。その全てを手放すことを、僕は恐れてしまった。
 もう一度、ばかだ、と心中で呟いて、僕は和泉守の肩口に顔を埋める。
 恐れを抱いて、どうして生きていけよう。その恐れすらなかったことになるこれからのこの世界に、どうして存在していけよう。
 これからあと二時間も経たぬうちに僕らは本霊へと還る。行き場のない僕らの感情は、執念は、思い出は、どこへ往くというのだろうか。


 僕は和泉守の腕の中で、ふと、あのあたたかな春の日を思い出していた。
 桜が降っていた。はじめて唇と唇を触れ合わせた日だった。御簾のような黒髪に絡んだ桜を一枚一枚指で摘んだあの日。ちいさなその花びらをこっそり持ち帰って、浮ついた歌と共に押し花にしたあの一日。
 願わくば、秘密と共にしまい込んだ数枚の花びらが朽ちるまで。僕がこの刀を愛したということは、せめてどうか事実のままで。
「ねえ、和泉守――
 あとすこしで消える身体を寄せあって、僕らはひとつだけ約束をした。この世でたった二振りしか知らない、ささやかで秘めやかな約束。一度だけ小指を絡め、そして今度こそ、僕らは身体を離した。
 終わりはもう間もなく。愛おしい黒髪を見送って、僕も僕を呼ぶ声の方へと歩いていった。最後にちらりと寄越された視線それだけで、僕は充分満ち足りたのだ。

――また呼び起こされるその時まで!」
 張り上げた声が空に響く。
 どこまでも青く、どこまでも高い空だった。



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