@shikanoko_aki
ぼんやりとした意識の中、耳に届くのは賑やかしい笑い声。その音がテレビから流れるバラエティ番組の音声だと理解するまでに、文虎は2分ほど要した。
まだ眠っていたい怠惰な気持ちを振り払って、文虎は瞼を開く。現在時刻が知りたくて、真っ先に目を向けたのはテレビの上の壁掛け時計。
「……嘘でしょ。もう、7時過ぎ!?」
時刻は午後7時半を越えたところ。コタツの暖かさに負け、文虎がうたた寝を始めたのは、おおよそ4時前だった記憶がある。つまり、自分は3時間以上も昼寝をしてしまったということになる。
「やば。晩ごはんの用意しないと」
ほんの仮眠のつもりだった文虎は焦った。幾ら正月休みとは言え、怠惰に過ごす予定ではなかったのに。
年が開けて今日で3日目。父と兄との3人、実家で過ごすは年末年始もはや恒例行事だった。そして、家事一切を担うのが文虎であるのも、もはや恒例なのだ。
「……ったく。父さんも兄さんもまだ寝てるし」
幸い、寝こけていたのは文虎一人ではなく。家族揃って、テレビも付けっぱなしで爆睡していたようである。それにもし、仮に二人が先に起きていたとしたら、まず間違いなく「腹が減った」と文虎は叩き起こされていたことだろう。
「はあ。今日はベランダと玄関の掃除をする予定だったのに。最悪……」
例年、大掃除は年末に済ませているのであるが、今年は思いの外、仕事が多忙で。おまけに年末の天候が悪かったのも相まって、外回りの掃除が終わっていなかった。それらを今日中に片付ける算段にしていた文虎は、自分の怠惰のせいで予定が崩れてしまったことを大袈裟に悔やんだ。
「変な夢も見ちゃうし。新年早々、ツイてないなあ」
心地良くうたた寝したはずなのに、文虎の気分は優れなかった。理由は単純で、芳しくない夢を見てしまったからだ。今朝は夢を見なかったから、これが文虎の初夢となる。
せっかくならば、初夢はいい夢を見たかった。と言っても、実際に文虎が見た夢は別に悪夢というわけではなかったのだけれど。ただ、望まぬ人物の登場があっただけで。
「なんか、やる気なくなっちゃったなあ」
珍しく寝過ぎてしまったのは、もしかしたら疲労のせいなのかもしれない。夕食の準備をしなくてはと分かっていても、身体がコタツから動かない。
そもそも、おせちが未だ大量に残っていた。できれば、それを食べて欲しいのではあるが、3日目は大抵、二人とも飽きたと文句を言う。だから、1月3日はカレーと決まっていた。
「………」
否。文虎は嘘を吐いた。誰が聞いていたわけでもない自分のぼやきに対して、文虎は自戒する。たった今、確かに自分は言い訳のためにそのセリフを吐いたことを。
コタツ連環から脱け出せない理由は、家事をやりたくないからではなかった。前提として、文虎は好きで家族の世話を焼いているのであって、そこに苦はない。しなくてもいい夕食の思案をするのも、文虎がそうしたいと思うからに他ならない。
「う、う〜ん……?」
「あ、兄さん。起こしちゃった?」
と、文虎がぐずぐず動けないでいる間に、隣で両手を大の字に広げて眠っていた兄が唸り声を上げ始める。
「……今、何時だ?」
「もう7時だよ」
さすがは兄弟。目覚めて最初に思うことは、兄も弟も同じである。そして、その次に続くセリフも文虎には大方予想がついた。
「文虎、腹減った」
「はいはい。すぐに準備しますよ」
その一言は、文虎を台所に立たせるための良い口実となる。これでいい。いつも通りの文家の正月。文虎は一瞬、脳裏をよぎった赤の他人の存在をかき消した。
「……ねえ、兄さん」
「んー?なんだよ」
狭い家なもので、台所からでもコタツに入りっぱなしな兄と普通に会話ができた。チャンネルをくるくると目まぐるしく変える音と共に、兄の生返事がある。
「正月にボクがいなかったら、兄さんは寂しい?」
「べつに〜」
至極、何気ない調子で投げかけた質問にはあまりに予想通りな回答が返ってきて。文虎は苦笑気味に溜息を吐きつつ、冷蔵庫の扉を開いた。カレーに必要な食材は、大方揃っていた。
「だって、会おうと思えばいつでも会えるだろ。正月じゃなくても」
「そりゃあ、そうだけど。ほら、やっぱ特別な日だから……」
特に強制させられているわけでもないが、文虎は正月に家族と過ごす。兄だって、何も言わなくとも勝手に実家へ帰って来る。
「特別って言われてもなあ。もう、3人で過ごす正月なんて100ぺん目くらいじゃん」
「んなわけないでしょ」
文虎が産まれてから毎年一緒に過ごしていたとしても、今年でまだ36回目である。そうだっけ。なんて冗談っぽくニヤニヤ笑う兄の声を聞いていたら、似たような笑い方をする彼の顔をまた思い出してしまった。
「なに。他に一緒にいたいヤツでもいんのかー?」
鋭い兄の一言に、文虎は思わず苦い顔をした。顔が見えない位置に居たから良かったものの、その変化を目の当たりにされていたら、文虎の誤魔化しは兄に通じなかっただろう。
「そういう訳じゃないんですけどね」
普段は鈍感なくせして、兄はやけに勘がいい時があって焦る。
「ただ、友人と正月を過ごす夢を見たから。どうしてるかなって、気になって……」
「ああ。張華か。あいつ家族いねえって言ってたもんな」
「……なんで、最初にその名前が出てくるんですかね」
鋭いどころの話ではない。兄は断定的な口調で、まさに自分の思い浮かべていたその人の名を出した。これには文虎も、不満たっぷりの声をあげざるを得ない。
一応、兄と彼には面識があった。その時のあれこれを、文虎は思い出したくもなかったが。その件については置いといて、張華と兄の接点はそれだけである。なのに、いきなりその名が挙げられてしまうのは、文虎的には不本意この上なかった。
「だって、お前のダチなんてアイツしか知らねえもん…オレ」
「それじゃあ、まるでボクに友人がいないみたいじゃない」
確かに、文虎の交友関係は狭い。大人になってからは友人と呼べる人間も減ったが、さすがにもう少しはいる。片手の指くらいは。
「お前、昔から友達とか家に連れて来ねえじゃん。いても分かんねーよ」
「別に友人なんて、いちいち家族に紹介するものでもないでしょ」
「アイツは紹介してくれたじゃん」
「してません。勝手にあの人がしゃしゃり出て来ただけです」
即答で文虎が否定すれば、また、兄のゲラゲラと笑う声がする。その笑い方がなんとなく癪に触った文虎は、台所から顔を出して文句を言う。
「何がおかしいんですか」
「いや。仲が良いんだなと思って」
「どこからそういう感想が出てくるのか、ボクには理解できないんだけど」
勝手に仲良し認定された文虎は、不本意さを露わに唇を一文字に引き結ぶ。
「お前、オレと親父以外にそういう雑な扱いしねーじゃん」
「そんなこと……」
ないと言いかけて、文虎は口をつぐんだ。やはり、兄は誰より自分のことを理解している。仰る通り。文虎は気心の知れた人以外は、あまり邪険に扱わない。というより、一定の壁を作って接することが多かった。
「で、行くの?アイツのとこ」
「行くわけないでしょ。こんな時間に。カレーだって作らなきゃいけないし……」
文虎が台所に立って、もう4、5分が経過しているが、兄との会話にかまけていたせいで、夕食の準備は遅々として進んでいなかった。
「別にいいぜ。んなの。カレーならいつでも食える」
作りもしないやつがよく言う。なんて文句を頭に思い浮かべはするが、文虎は決して口にすることはなかった。長い兄弟付き合いの中で、兄貴文句を言っても無駄であることを、文虎は痛いほど学んでいたから。
「たまには、ピザもいいな」
そう言えば、今朝、新聞の折り込み広告にデリバリーピザのチラシがあった。恐らく兄は、コタツの横に置きっぱなしだったそれを見ながらそのセリフを吐いているに違いない。
「………ほんとにいいの?」
何度も言うが、別に夕食の準備をするのが嫌なわけではないのだ。家族の世話を焼くのは、自分が好きでやっていることで。まあ、それはそれとして文句はあるが。
「たまには文虎もゆっくりしろって。正月くらいさ」
毎日ぐうたらしている兄の発言だと思うと、お前が言うなとツッコミたくもなるが。そう言われると、文虎の心も揺らいでくる。具体的にどう揺らぐかと言うと、こんなくそ寒い1月の夜更けに、外出を目論む方向に。
「結局、おせちはもう食べないってことでいいんですよね。余らせてもしょうがないし、お裾分けにでも行きますか」
なんとも、言い訳がましいものである。と、文虎はそんな穿った見方をしないであろう兄の代わりに自嘲した。見た目だけは豪華な3段重箱に入りっぱなしのおせち。大きめの買い物用トートバッグにそのまま突っこめば、持ち運べるだろう。
ちなみにこの重箱は「3段の方がカッコいいから」という理由で、父と兄が買ったものだった。おかげさまで、文虎は余るほど大量のおせちを毎年作らされるハメになったのである。
「おう!文虎のおせちは美味いからな。喜ぶぞ」
「そう思うなら、3日目も食べて欲しいんですけどねえ」
「3日はさすがに飽きるだろ」
そりゃあ、そうだ。文虎だって飽きる。しかし、捨てるのは勿体無いから、毎年3日目も一人、残り物を食べるのだった。
重箱を2段にしていいかという提案ならば、勿論した。8年ほど前に。しかし、正月は派手な方がいいという謎の理由で却下され、今年も例年通りの有り様。
「……じゃあ、ボク出かけるけど。遅くなるかも」
「おう。別に連絡しなくてもいいぞ。多分、寝てるし」
「もう。寝てばっかいると牛になりますからね」
その兄の隣で、父は未だ目覚めずぐーすかいびきをかいているのであるが。兄同様、空腹になればじき目覚めるだろう。起きた時、文虎が居ないと文句を言うだろうか。想像してみたけれど、普通に機嫌良くピザを頬張ってる姿しか思い浮かばなかったのでヨシ。
「じゃあ、行ってきます」
「おー」
テレビを見ながら発せられた、気のない生返事。兄の間の抜けた声を聞きながら、文虎は玄関へと向かう。ドアを開ける前からすでに寒くて、出かける気が失せてくる。
そもそも、自分は何故こんなことをしているのだろうか。寒さが一瞬、文虎を冷静にさせてくれた。だけど、ここで「やっぱり行かない」なんて前言撤回したら、兄に何を言われるか分かったものではない。ので、文虎は諦念して玄関のドアを開けた。
「さむっ……」
夜更けは輪をかけて寒い。さて、ここから駅に向かうだけでも8時になってしまう。そこから、立川まで1時間ほど。つまり、着く頃には9時を過ぎてしまっている。
ああ。本当に何をやっているのだろうか。左腕に抱えた重箱入りトートバッグの重さが、文虎を憂鬱な気持ちにさせた。
「……あ。文虎!」
コタツに肩まで潜ってテレビを見ていたはずの文鴦は、ふと思い立って、弾かれたように飛び出し玄関へと向かう。そのドアを開けるも、もはや見える範囲に弟の姿はなかった。
「天気予報で雨が降るって言ってたけど、傘持って行ってねえよな。アイツ」
ただでさえ寒いのに、帰り道で雨に降られては可哀想だ。今から傘を持って追いかけていけば、まだ追いつくかもしれない。
「……ま、いっか」
と、一瞬考えた文鴦であったがすぐに諦めた。なにせ、外が寒すぎる。コタツから出て、こんな極寒にわざわざ出向くなんて馬鹿のすることだ。弟だって、雨が降れば自分でなんとかするだろう。子供じゃあるまいし。
ということで、文鴦はすぐさまドアをパタンと閉めて、あったかいコタツに引き返すのだった。何ピザを食べるかを考えながら。
どうして、家の前まで来て尻込みをするのか。自分らしくないじれったさに、文虎は少し戸惑う。
約束もせずに来てしまったから、不在かもしれない。道中、電車の中でその可能性に気付いた。もし、留守にしていたら引き返そう。そう考えてていたけれど、残念ながら家の明かりは灯っていた。
「ああ、もう!迷うな……」
文虎は自分を叱咤して、インターホンのボタンを押す。数秒間があって、応答した気配があった。なのに、何も聞こえてこない。もしかして、通話機能が壊れているのだろうか。
「……あの。夜分遅くにすみません。今、大丈夫ですか?」
インターホンに向かって、文虎は話しかける。こちらからは張華の姿は確認できないが、向こうからは見えているはずである。けれど、やはり、返事はなかった。
「いや。別に大した用はないんですけど……聞こえてます?」
そう、文虎が問いかけた瞬間のことである。ガタリと大きめの物音がした。微かに、呻めき声のようなものも聞こえた気がする。ということは、音声は通っているということ。
ドタドタと忙しない足音が、だんだんとこちらへ近づいてくるのが分かる。張華の足音に間違いはないのだろうが、それにしてはやけに落ち着きがなくて彼らしくない。
「どうしたんですか?こんな時間に」
「ええと……」
玄関のドアが開いて、家主が顔を出す。様子がおかしいように思えたが、現れた張華の表情はいつも通りで。余裕のある、にこやかな微笑みだった。
「いや、ね。おせち作りすぎちゃって。兄さんたちがもう食べないって言うからさ。勿体無いでしょ?」
少し吃ってしまったが、事前に用意していた言い訳のセリフを文虎はすらすらと述べることができた。
「だから、あなたに押し付けようかと思いましてね。男の一人暮らしで、おせちなんかわざわざ食べないでしょう?」
これ見よがしに、トートバッグの口を開いて中身を見せる。後付けの設定を、さも訪ねて来た理由であると信じ込ませるために。
「……嬉しいです。お正月から、君の手料理が食べられるなんて夢のようですね」
「相変わらず、大袈裟ですね……」
「ほら、寒いでしょう。どうぞ、上がって下さい」
新年早々の甘ったるいセリフに多少げんなりしつつも、促されるままに、文虎は張華家に上がりこむ。一人暮らしにしては、広すぎるくらいの一軒家。なのに、きちんと片付けられていて、掃除も行き届いている。彼の性格がよく現れていた。
「お茶を淹れますね。すぐ、食べるでしょ」
張華の言葉に、文虎はダイニングから軽く頷く。お茶を淹れて貰っている間に、文虎はテーブルへ重箱を広げてしまう。空腹ではあったが、あまり食欲はそそられなかった。なにせ、文虎とてこれを食べるのは3日目なのだから。
「……張華?」
手持ち無沙汰のまま待たされていた文虎は、とうとう痺れを切らして家主を呼ぶ。お茶を淹れているだけなのに、やけに遅い。張華はかれこれ、10分くらい台所に立っている気がする。
「お待たせしました〜」
「……なんです、それ」
文虎の呼びかけに応じたのかは不明であるが、ようやく張華はダイニングに戻る。その手には、明らかお茶ではない何かが。
「カレーです」
「見れば分かります」
張華は温かいお茶の入ったマグカップ二つと一緒に、カレーの盛り付けられたお皿を一つ、おぼんに乗せて持ってきたのだ。カレーのいい匂いに釣られて、文虎の腹がくうと鳴る。
「だって、君はもうおせち食べ飽きたでしょう?だから、カレー」
作りたてらしいカレーは、恐らく今日の夕食に作られたものだろう。それもそのはず。もう午後10時前だ。大抵の家庭は夕食の準備を終えているだろうし、食べ終わっていてもおかしくはない。
「カレーがあるなら、あなたもカレーを食べればいいじゃないですか」
「いいえ。僕はこっちが食べたいので、カレーは明日食べます」
カレーの皿を文虎の前に置いて、張華はその隣に腰を下ろす。何故、わざわざ対面ではなく隣に座るのか。言いかけた文句を、文虎は飲みこむ。そんなことより、空腹を満たしたかったから。
「………美味しい」
軽く手を合わせてから、与えられた皿へ文虎はすぐさまスプーンを入れる。一口掬って頬張ってから、素直な感想を述べた。
「ありがとうございます。それにしては仏頂面なのが、少し気になりますが」
料理ができるとは知っていたが、彼の料理を口にしたのはこれが初めてだった。張華の作ったカレーはスパイスが効いていて、本格的な味がした。端的に言えば、文虎の想定よりも美味しかったのである。
「おせちも美味しいです。君は料理が上手いですね」
「嫌味ですか」
「あはは。どうして、そうなるんですかねえ」
このカレーを食べさせられた後では、そう捉えてしまってもおかしくはない。文虎の作ったおせちなんて、ごくごく一般的な味付けのものだ。なんなら、半分くらいはスーパーで買ったやつだし。
「君と食べているから、余計に美味しく感じるのかもしれませんが」
「また、そういうことを言う」
張華のこの砂を吐きそうなセリフにも、文虎はだんだん慣れてきた。軽く一言ツッコミを入れただけで、あとは相手にせず。カレーを頬張るのに没頭した。
食器と持って来た重箱を洗い終えて、文虎が一息ついた頃には、時刻はもう11時を回っていた。自分がやるという張華を無理矢理座らせて、後片付けは文虎が全てやった。人の家にいきなり押しかけておいて、洗い物までさせてしまっては、文虎の居心地が悪い。
想像以上に張華はたっぷり食べてくれて、重箱の中身はほぼほぼ片付いた。残りは、ラップをかけて冷蔵庫へ。
「……ほんと。こういうところ、なんだよなあ」
その時、見てしまったのだ。同じようにラップをして、小皿に保存されている黒豆、なます、伊達巻。明らかに、おせちの残りである。
文虎はそれらを見なかったことにした。張華があたかも、今日初めておせちを食べたような芝居をしたのだから、そういうことにしておいてあげればいい。もしかしたら張華だって、文虎が玄関で述べた言葉が真実ではないと知っていながら、そういうことにしておいてくれているのかもしれないから。
「洗い物、終わりましたよ。乾燥機にかけておきました」
「ありがとうございます。君も座ったらどうですか?」
張華はリビングでくつろぎながら、正月の特番を見ていた。少し考えてから、文虎はその隣に座る。そこそこの距離感を保って。
「というか、そろそろ帰らないと終電なくなっちゃう」
テレビの方をぼんやり眺めながら、文虎は呟く。その言葉とは裏腹に、帰る素振りは見せずに。帰るつもりがあったならば、そもそも腰を落ち着けはしなかっただろう。
「今晩は雨みたいですよ。多分、そろそろ降り始める」
同じく、張華もテレビに視線を向けたままで言う。それに文虎は「へえ」と生返事をした。
「……ですから、泊まっていったらどうですか。濡れてしまうと、いけないから」
雨が降ることが、果たして文虎が彼の家に泊まって行くことの理由になるだろうか。雨が降ったとしても、傘があれば問題はない。しかし、あいにく文虎は傘を持って来てはいなかった。
「……そう、ですね」
ならば、張華の傘を借りればいいだけのこと。なのに、張華はそう提案してはこない。ならば、この家には傘が一本もないのかもしれない。
「濡れるのは、嫌ですからね」
だったら、泊まるのも止むなしである。ただでさえ寒いのに、濡れながら帰るくらいなら、文虎は1泊を選ぶ。
「ふふっ」
「……何がおかしいんですか」
張華が癪に触る笑い方をしたから、文虎はテレビから視線を外し、隣の男のにやけ顔を睨んだ。緩んだ口元を、張華は手のひらで覆い隠したが今更遅い。
「そういえば、ドアのところ。床が少し濡れていましたけど」
「ああ。さっき、少し花瓶を落としましてね。割ってはいないんですが、水を溢してしまって」
「ふうん……」
今はしまわれているが、花瓶があったらしき棚の上には、ちょうどインターホンの画面があった。何故、そそっかしくもないであろう張華が、花瓶を落としてしまったのか。その理由をなんとなく想像して、文虎は彼とは相対的に不機嫌顔を作る。
「……今度、君の作るカレーも食べてみたいですね」
あなたが作ったものに比べたら、大した味じゃないですよ。そう憎まれ口を叩いてやるつもりだったのに、文虎は上手く言葉が出なくて。また、テレビに視線を戻した。
毎年恒例のバラエティはつまらなかった。きっと、張華も真面目に観ているわけではないはずだ。
「いつでも食べられるでしょう。そんなの」
尖らせ気味の唇で、文虎は呟いた。笑い声こそ漏れ聞こえなかったが、隣の男は十中八九、またにやけた腹の立つ顔をしているのだろう。それを確かめるのが不愉快だったから、文虎はやけに集中してテレビを観ているフリをしたのだ。