無印P5 津田会心させるもコープ10未満のED後
岩井とぺごくんの間には若干の距離があります。
年間連載になってますが、お誕生日おめでとうございます。
去年の https://privatter.net/p/6910637
@Yuko_Blue
一番最初は、アイスコーヒーだった。
真夏の夜。日が暮れても高い気温の中を、岩井と一緒に歩いていた日に。
まだ、高校生だった頃。あの頃も、稀にどこかへ出かけることがあった。それは公園だったりプラネタリウムだったり、基本的には薫を理由にした外出で、「見かけによらず家族思い……なのか?」と、やや疑問に思いながらも一緒に街を歩くのは楽しかった。一ヶ月に一度もない。年に数回だけ。ひたすら健全に、ただ空気を共有するだけの、デートとも言えないもの。考えることがたくさんあって、一日一日がとても忙しくて少し楽しくて、一人でぼうっとする暇もなかった時期に訪れる、隙間のような時間。何か特別なことをするでもなく単に共にある空間は、どこか心地よかった。
当時は、全然わかっていなかった。それがどういう理由なのか。
岩井からしてみれば、暁は相当な子供だ。息子とほとんど変わりがない。「駒だ」なんて言いながら、本当に危ないことには踏み込ませない。あの頃は、それがどうにももどかしかった。
(……今も、もどかしくはある、かな)
付かず離れず岩井の隣を歩きながら、暁は思う。
もどかしい。どこまで近付いてもいいのか、わからない。
今はもう、あの時のように何も考えず、隣を歩くことなんてできない。空気は心地よくても、心の方が落ち着かない。
大学生になって、ミリタリーショップのバイトに返り咲いたのは三ヶ月ほど前だ。嫌がらせのように履歴書を持参して「バイト希望です」と突きつけた時の、岩井の面白そうな顔が忘れられない。
片眉を上げて、いつものロリポップを噛むようにして、呆れた口調で「お前、面接予約すんのが先だろうがよ」と言って、笑った。「どうせ暇だろ」と反論したら少し睨まれて、額を軽くデコピンされた。少し痛くて、でもそれがとても嬉しかった。
実家にいた間中、考える時間はたくさんあった。だから考えていた。いろいろなことを。
すべての「悪いこと」が凝縮したような高校時代にも、「いいこと」は星のように散りばめられていた。やりたいこと。やるべきこと。それらを使って一つ一つ繋げて星座を作り上げた最後に残っていた欠片が、岩井だ。
岩井には、終わりがなかった。
心は確かに傾いてはいたけれど、それだけだ。知人と言うには軽すぎるが、友人と称するのも納まりが悪く、他に言い表しようのない関係性。何も言わずに東京を離れても、チャットの一つも来なかったし、送らなかった。ただ一時、協力者であった大人。会わなければ、いずれは水のように希釈されていくだけの。
本来ならば、そうあるはずだった。なのに岩井はずっと暁の中に残り続けた。
終わりがない。区切りがない。ずっとずっと考えてしまう。胸の内から消えることがない。それでやっと気が付いた。
終わらせたくなかったのは、自分の方だった。「さようなら」を言いたくなくて、先延ばしにした。この先ずっと、終わらせたくなかった。
その判断が良かったのか悪かったのか、今の暁にはわからない。熱帯夜を共に歩く年上の男は何も言わず、暁もまた何も言えない。
レイトショーの白黒映画を観た、帰り道。場所は四軒茶屋に程近い、静かな路上。
もうどこかへ行くのに薫を理由にはしていない。出てくるときも「どっか寄ってくか」というなんの色気もない誘いに、「うん」と頷くだけ。回数も多くはない。三ヶ月間で二回ほど。当たり前だ。それほど頻繁には会っていない。履歴書を突き付けたものの、バイトに行くのは週一程度、手伝いが必要な時にだけ呼び出される勤務形態なのだ。その辺は、どうしてか昔と変わりがない。
意外なことに、岩井は映画が好きなようだった。出かけた先は二回とも映画館だ。四軒茶屋の映画館よりも輪をかけて古い、寂れると言うよりも時々起き出す寝たきり老人のような風体の。館内の案内をよくよく見れば、古い映画ばかりをレイトショーでだけ上映していると書いてあった。どこかの映画道楽が経営しているようだ。
「……あちぃな」
歩きながら、岩井が言う。熱帯夜だ。湿った空気が昼間の熱を解放しないまま、纏わりついてくるように暑い。今年も猛暑は変わりない。
「夏だからな」
応えて、ふと考えた。
四軒茶屋に近い。歩いて行ける。夜だ。そろそろ閉店時間に近い。
ぎりぎり、岩井を呼べる。
店主の惣治郎がいたとしても問題はない。彼は暁が誰を連れてきたとしても、文句は言うかもしれないが入店禁止にしたりはしない。そのくらいの信頼は勝ち得ている。
「冷たいものでも、飲みに行くか?」
「あァ? どこに」
「うちの店」
「……そういやお前んとこ、喫茶店だったっけか。一瞬酒かと思っちまっただろうが」
「俺はまだ未成年だ。一応」
「未成年に見えねえんだよな、お前はよ」
暁を見て岩井は少し笑った。そして「まぁ悪かねえな、夜のサテンも」と言った。
ルブランへは歩いて十分ほど。閉店五分前だった。惣治郎は奥の厨房にいて、「新規客連れてきた」と言った暁を一瞥し、後ろに立つ男を上から下まで眺めて「へえ?」と言っただけで、渡りに船とばかりに後片付けを暁に全部委ね早々に店を出て行った。どうやら双葉と約束があったらしい。暁としては助かった。
「ご注文は?」
「そうだな……まぁアイスコーヒーでいい」
「わかった」
「……お前が作んのか」
「そうだけど、それがなにか?」
テキパキとコーヒーを淹れる準備を始めた暁に、意外そうな声がかかる。「すぐ出てくるもんだと思ってた」と続けられ、つまり岩井は業務用のパック飲料からグラスに注ぐだけのコーヒーを想像していたらしい。確かに、普通の喫茶店ならあり得る。
「うちはコーヒーに関してはうるさい店だから。特に店主が」
「さっきのおっさんか」
「そう。最近やっとあんまり文句言われなくなってきた」
アイスコーヒー用の豆を挽く。濃い香りがミルから立ち昇ってくる。
ルブランのアイスコーヒーはハンドドリップしたコーヒーを氷で急冷するやり方だ。一杯ずつ作るからそれなりに時間がかかるが、美味しい。いつものようにドリップする間も、カウンターに座った岩井がじっと手元を見つめてくるから、少し背筋の辺りがそわそわした。細口ケトルから落とす湯がぶれてしまいそうになって、やや焦る。大して珍しくも面白味のない動作なのに、どうしてそんなに見てくるのだろうか。別に岩井は特段コーヒー好きでもなかったはずだ。
(……やりにくい)
原因が自分にあるだけに、口に出しては言えないが。しみじみ「手慣れてんな」とかも言わないでほしい。得意になってしまいそうだ。コーヒーサーバに氷を放り込みながら、できるだけ「いつも通り」にするのが苦労した。普段、仲間相手になら造作もないことなのに。
「お待たせしました」
なんとか澄ました顔を作って、グラスを差し出す。綺麗な琥珀色だ。上手くできてる、気がする。恐らくは。暁の腕前はともかくとして、豆だけは良い。豆が良ければそれなりの味にはなる。
「……旨いな」
一口飲んだ岩井の感想は、一言だった。一言で十分だ。内心ホッとして、暁も自分用に注いだグラスを傾けた。透明感のある口当たりに、深煎りの苦みがあり、後味にほんの少しだけ甘みがいる。なかなか上出来だ。
二人でコーヒーを飲む店内は、静かだった。
岩井は決して無口ではないが、喋らない時は全然喋らない。この日のように、どこかへ出かけた時などは特にそうだ。映画の感想を聞くでもなく、薫の話をするでもなく。ただ黙って、そこにいる。
(……岩井のシャドウにでも、会えればいいのにな。そうしたら欲望だけでもわかるのに)
いもしないものへ思いを馳せるのは不毛だ。以前から、岩井は救いを求めてはいたが、歪んではいなかった。もしかしたらあの渋谷の地下になら探せばいたかもしれないが、あれはもうない。確認のしようもない。
過去がどうでも、今がどうでも、岩井は岩井でしかなくて、だから。
恋をした。
「……いい店だな」
「気に入った?」
「まぁな。古いサテンなんざ、どんどん潰れちまうし、今じゃあ探さねえとなかなかねえだろ。それに、コーヒーも旨いし」
「なら、よかった」
言いつつ、暁は岩井をじっと見つめた。
何も気負っていない。本当にこの店が気に入ったように見える。グラスに直接口を付けているせいで、アイスコーヒーがウィスキーか何かに見えてきそうではあるが、居心地は良さそうだ。
「……うちは、カレーも旨い」
「ふぅん? なんかこだわりでもあんのか」
「うん。今日は、売り切れちゃってるけど」
さっき冷蔵庫の中を見た限りでは、残り物はなかった。でもそれでいい。逆にそれでよかったかもしれない。
「コーヒーに合うカレーだから。よかったら今度、食べに来るといい」
喉が干上がりそうになる。手元のグラスの中で、氷がカラリと音を立てる。手が、少し震えているからだ。度胸はあるはずなのに、言葉を口にした瞬間おかしいくらいに怖気づいている。
こんなこと、岩井相手にしかならない。
「またお前が作んのか?」
「夜だったら、そう」
「んじゃ、また夜に来るわ」
「……いつにする? カレー、残しておく」
「そうだなァ……なら次の日曜にすっか」
いたって気軽に、次の約束が成された。「わかった」と応えながら、肩の力が抜けるほどホッとしたのを、覚えている。
岩井にとっては他愛のない約束の一つかもしれない。でもその約束が、毎週、生きている。今も、生きている。
続いている。終わらない。
また来週。
距離の縮め方をひたすらに考える暁の横で、白黒の毛玉が「もうさっさと告っちまえよ」と呆れたように言いながら、大きな欠伸をして伸びた。