@shikanoko_aki
「今夜、うちに流星群を見に来ませんか」
張華から誘いを受けたのは、出社直後の午前九時頃だった。ちなみに現在時刻は、日付が変わって午前零時過ぎ。
「もうそろそろですね」
張華家のベランダ。確かに、駅から少し離れたこの一軒家の周辺は遮蔽物が少なくて、夜空がよく見えた。小岩の自宅だとお店のネオンが多くて、明るすぎる。
「ちゃんと見るのって、何年振りかなあ」
小さい頃、兄と頑張って夜更かしして流星群を見た記憶がある。でも、文虎は本当に小さかったし、とにかく眠くて、あまり記憶に残ってはいなかった。
「願い事はちゃんと決めて来ましたか?」
「そういうの信じてないんですよねえ。ボク」
流星群の観測可能な時刻は、おおよそ午前一時頃から。先ほど、今夜見える流星群はうんたら流星群であると張華からレクチャーを受けたのだが、馴染みのない名前すぎて文虎は一瞬で忘れてしまった。
「まあまあ。願うだけならば、タダですから」
そういえば昔も、願い事がどうとかという話をした気がする。一生懸命、兄は流れ星に願いをこめていたけれど、自分はどうだったっけ。やはり、文虎は思い出せなかった。
「……今日、なんでボクを誘ったんです?」
コーヒーをマグカップから啜りながら、文虎は努めて何気ない調子で訊ねた。淹れたては舌を火傷しそうなくらい熱かったコーヒーが、今は温い。吐く息が白くなるくらいの気温なのだから、当然と言えば当然だった。
「君と見たかったから。流星群」
「また、嘘か本当か分からないことを言うんだから」
「ふふ」
星空をより鮮明に見るため、部屋の明かりも消してある。彼のキザなセリフのせいで、少しくらい文虎の顔が赤くなろうが、暗ければバレはしないだろう。
「あ。流れ始めましたね」
「え、どこです?」
ベランダに持ち込んだアウトドア用の椅子をカタンと揺らし、文虎は弾かれたように立ち上がる。けれど、まだ流れ星は見つけられなかった。
「ほら、あっち。南のほう……」
ベランダの手すりにもたれかかった張華が、南の空を指差す。隣に並んで、文虎もその方角に目を凝らした。
いつも文虎が保っている距離感より、張華との間隔はわずかに近かった。多分、暗くて間合いがよく測れなかったのだと思う。しかし、文虎はもう星を見るのに夢中で、そんなことに気付きもしなかった。
「………わっ」
無意識に感嘆が溢れていた。空から降るように落ちてくる、あまたの流れ星。星に何の興味もない文虎ですら、その光景には感動のようなものを覚えた。
流星群を見るのに夢中な文虎は隣の男のことなど、すっかり意識の外にあった。ずっと黙っていたから、願い事でも唱えていたのだろうか。
「綺麗ですね」
十数分ほど、二人して沈黙のまま夜空を見上げていただろうか。先に口を開いたのは、文虎の方だった。語彙力に乏しい感想。だけど、それしか言えなくなるくらい本当に綺麗だったのだ。
ようやく視線を空より外して、文虎は隣の男へと意識を向ける。
「ええ、綺麗です」
張華もまるきり同じ感想を述べる。ただし、彼の瞳は星など映してはいなかった。真っ直ぐに文虎のことを見つめていたのだ。
いつから、そうしていたのかは不明である。が、張華は明らかに文虎が流れ星に夢中な最中も、その横顔を眺めていたのだろう。その光景を想像するや、文虎の鼓動は早くなった。
「ボクじゃなくて、星を見て下さいよ」
「ちゃんと、見ていましたよ。最初は」
文虎が皮肉を言えるようになるまでに、一体いくつの星が流れて消えただろうか。最初はとわざわざ付け足すということは、やはり随分と長らく文虎を見ていたことは、紛れもない事実だったのだろう。
まるで、ありきたりな恋愛小説や少女マンガのワンシーンだ。そう思いながらも、文虎は目を逸らすことができなかった。これでは、自分が恋でもしているかのようではないか。その可能性を否定したいが、否定する要素を即座に探すことができなかった。
「……いつだったか、約束したような気がするんですよね」
「何がですか」
「君と一緒に、流星群を見に行く約束です」
文虎はきょとんとして、目をぱちくりさせた。そして、頭がおかしい人を見るような目で張華を睨む。
「そんな約束、ボクはした覚えがありませんけど」
張華の述べたようなやり取りをした記憶は、これっぽっちもない。忘れたとかではなく、していないのだ。そんな約束を。
「では、前世の記憶かもしれませんね」
「そういうのも信じてないんですけど。ボク」
あたかも真実であるように、張華はにこにこと空想の話をした。前世なんてもの、あるかどうかも定かではないのに。
「いいじゃないですか。僕は信じたい」
まだ流星群は終わっていない。ピークの瞬間に比べれば見える数は落ち着いてしまったが、まだポツポツと流れてゆく星があるのに。もはや、張華も文虎も夜空を見上げてはいなかった。
「前世も君と一緒だったならば、僕は嬉しいです」
どうして、素面でこんな恥ずかしいセリフが吐けるのだろうか。最悪にも、眩しいくらいの優しい微笑みをして。文虎には無理だ。それを平然と受け止めることさえ。
「………」
どんどん皮肉が言えなくなっている自分に困惑しながら、文虎はそれを雰囲気のせいにする。こんなロマンチックな雰囲気で告白でもしようものならば、きっと成功確率は格段に跳ね上がるに違いない。
「手、冷たくなっちゃいましたね」
張華が文虎の手を包むように握った。同じように寒空の下で星を眺めていたはずなのに、どうしてだか、張華の手の方が温かかった。それがまた、理由もなく、文虎の気分をおかしくさせた。
「……寒くなってきましたね。中へ入りましょうか」
それには返事をせず、文虎は俯く。だけど、優しく握るその手を振り解くことはしなかった。
ベランダだから退散して、部屋の中へと戻る。明かりは消していたが、暖房はつけっぱなしだったおかげで室内は暖かだった。
「そういえば、あなたは何を願ったんですか」
この変な空気を変えたくて、文虎は興味もないくせに張華に問う。ちなみに自分の願いは何も思いつかなかったので、無病息災、家内安全を願っておいた。
「ふふふ。100歳まで生きられますように、です」
「わざわざ願わなくても、叶いそうな願いですね」
ようやくいつもの調子が戻ったことにホッとしつつ、図太くいつまでも長生きしそうな男の手を、文虎は名残惜しげに振り解いた。
「だったら、いいんですけどね」
「ボクが保証しますよ。あなたはそう簡単には死にません」
室内は未だ電気が点けられておらず、月明かりが差し込むのみ。相手の表情ははっきりと見えず、けれど、想像には難くなかった。それくらい、すでに文虎は張華のことをよく知る。
「じゃあ、君も一緒に100歳まで長生きしてく下さい」
「遠慮しておきます。ボクはほどほどに、いい年齢で死にたいんですよね。老後は何かと不安ですし」
文虎はすらすらと自身の人生設計を語って、張華の誘いをさらりと断る。太く短くというわけではないが、過剰に長生きを願う気持ちなど文虎にはなかった。そんなに生き永らえたい、理由もなかったから。
「ダメです」
なのに、張華がそれを許さなかった。ただの冗談めいた未来の話。そのはずなのに、彼の口調はやけに頑なで、深刻な気配を漂わせる。
「なんで―――」
「僕が淋しいから」
理由を問えば、すんなりと、それでいて、甘えるような声で張華は答えるのだった。瞬間、文虎は部屋が暗いことに感謝した。その素直でストレートなセリフは、あまりにもズルい。
「……やっぱり、100歳までは嫌です」
少なからずの沈黙を、張華はどう捉えただろうか。何も言わず黙っているのは、十中八九、文虎がその言葉になんと返答するかを期待していたから。
「では、何歳まで生きてくれますか」
不貞腐れ声でようやく返事をした文虎へ、畳みかけるように張華はさらなる質問を投げかける。そろそろ、文虎の目も暗闇に慣れてきたところ。ということは、張華も同様であるはずだ。
「……90歳まで」
よくもそこまで、不本意げな物言いができるものだ。自分でそう、ツッコミたくなるような口調で、文虎は張華の提示した歳より10歳若い年齢を述べた。
それを聞いた張華は、すぐにクスリと笑うような気配を伺わせた。どうして、文虎がそのように返答したのかをすぐに理解したのだろう。その聡さが腹立たしかった。
「じゃあ、長生きしましょうね。一緒に」
一旦は離れたはずの張華の腕が、再び舞い戻って来る。けれど、その手は文虎の手を取らず、そっと腰に添えられた。引き寄せられるままに、文虎は一歩、彼に寄り添う。
つい最近、知ったばかりであるが。張華は文虎より、10つ歳上なのだそうな。文虎が90と返答したのは、つまり、そういうことである。
「ねえ。文虎君……」
やけにロマンチックで甘ったるい雰囲気。その空気感の中で囁かれた己の名前は、まるで初めて耳にするような響きで、文虎の鼓動を早める。
もしもこの瞬間、流星群を眺めていたとしたならば、文虎は恐らく違う願い事を脳裏に思い浮かべていただろう。そう思わずにはいられないほど、人を酔わせるには充分たる色気を、この張華という男は放っていた。
「……って、どこ触ってるんですか!?」
しかし、その良いムードは即時瓦解した。壊したのは他でもない、張華自身である。
「ははは。流れでイケるかと思ったのですが。駄目でしたか」
「当然です。まったく、油断も隙もない」
文虎の腰に回された腕がスルリと滑り落ちるように、自然な所作でその尻を撫でていった。その行為に邪念を察知した文虎は、反射的に張華の手の甲を指で強めに抓った。
「なかなか、手強いですねえ。もうそろそろ、素直になってくれませんか?」
尻を触られた程度のことで、文虎は怒りはしない。それどころか、内心ホッとしていた。張華が欲望を曝け出してくれたことによって、酔わされかけていた文虎は正気に戻れたのだから。
「何を期待していらっしゃるのか分かりませんが、お生憎様です。ボクは元からこういう性格なもので」
チクチクとトゲの刺さる辛辣な口調で、張華の要望を文虎は全力で拒絶した。素直になんて、容易にはなれるわけがなかった。自分の気持ちだって、まだ決め兼ねているのに。
「ふふ。そうですね。君は昔からそういう人だ」
「……昔って。いつの話をしていらっしゃるんですか」
文虎と張華の付き合いは、それほど長くはない。文虎が今の職場に転任して、10年そこそこ。張華と出会ったのは、それよりさらに後のことである。
「前世の話です」
「また、そんな有りもしない作り話をする……」
時折、彼の口からは息を吸うみたく自然につらつらと、作り話が繰り出されることがあった。さも事実のように語られるものだから、文虎でさえ騙されそうになるほど。
だがしかし、前世などという仰々しいワードを出されたら、さすがに信じるわけもなく。
「あの頃、僕はただの羊飼いだった。そして、君はいつも美味しいパンを焼いてくれました。羊の乳をたっぷり使って」
「もう、嘘は結構ですって」
語り始めると長くなりそうな気配を察知した文虎は、張華の口を強引に、自らの手で塞いだ。その裏で張華が微笑ましげに笑う感触が、手のひらを通して伝わってきた。
「ふふ。でも、素敵じゃないですか。前世からの運命って」
「勝手に少女漫画みたいな設定をボクに付与しないでいただけますか?」
口封じはすぐに解かれ、逆に手首をしっかりと捕まえられてしまう。あたかも、言い寄られている真っ最中のヒロインみたいに。
けれど、文虎はヒロインなんてガラではないのだ。いつだって、自分は物語の中では脇役に徹する側。そう思って生きてきた。だから、そういうストレートな言葉には滅法弱い。
「本当に可愛らしい」
「ボクを揶揄うのって、そんなに楽しいですかね?」
照れ隠しのセリフは、次第に力を失ってゆく。冷静に考えれば、自分に可愛いと評せる点などないと分かる。なのに、彼が言うとダメなのだ。嘘と分かる嘘さえも、時折、真実に聞こえてしまうように。それが本当のことのように思えてしまう。
「君って僕のこと、それなりに好きですよね」
「……今の会話の流れからどうして、そう思えるんですかね。頭、大丈夫ですか」
好きなのかもしれない。張華のことが。その結論が錯覚であると結論付けられる言い訳を探すより、肯定するための要素を探している時点で、文虎はきっと恋をしている。
「だって、君は―――」
これ以上、甘ったるい言葉の数々を浴びせられては、文虎の皮肉が先に枯渇してしまう。それでは困る。そうなったら、彼の望みに応じてしまうことになるから。
「―――もう、黙って」
手で塞いだくらいでは、張華のよく回る口は止められない。しかし、文虎はもっと有効な、彼を黙らせる手段を知っていた。ただし、それは諸刃の剣だった。色々な意味で。
「………」
「…………」
珍しいものでも見たかのように丸々と見開かれた瞳が、文虎の顔を凝視した。その目に映る表情が、それほど奇怪だったのだろうか。文虎には暖房の熱で暖まった、己の頬の熱しか分からなかった。
しかしながら、張華を黙らせるという目的は完璧に果たせた。彼はすっかり言葉を失い、ぽかんと間抜けに唇を半端に開くばかり。
「………ふふ」
「笑うのも禁止です…!」
その代償は、耐え難いほどの羞恥。暗がりでも悟られる程度には、文虎は居た堪れなさげな表情をしていただろう。
ほんの少し、触れた唇。さっき飲んだ、コーヒーの味がした。あやふやな100年先も、デタラメな前世も、どうだってよくなる苦み。そんな夢物語を語らなくとも、この現実が文虎の全てで満足だった。流星群には願わなくていい。それでも多分、きっと、絶対、この願いは叶う気がするから。