@shikanoko_aki
目覚めて最初に視界を占領したものは、見慣れた男の微笑みだった。すぐには状況を飲み込めなくて、文虎はぼんやりとした意識の中でふと、額の違和感に気付く。手を伸ばせば、指先に湿った感触。しばらく経ってから、それが水に浸した布きれだと理解した。
「あれ…ボク……なんで、眠って……」
ようやく、文虎は自分が床に伏せっていることに疑問を抱いた。だって、まだ外は明るい。普通ならば、あくせく労働に勤しんでいる時間のはずだった。
「まだ、横になっていた方がいい。覚えていますか。執務の最中に倒れたことを」
「そう言われれば……」
張華が現状を言葉で示してくれたことで、文虎はその時の記憶を鮮明に呼び起こすことがでた。情けの無いことに、仕事中、恐らく過労で倒れてしまったことを。
「根を詰めて働き過ぎです。身体を壊しては元も子もありませんよ」
起き上がろうとした文虎を張華の手が制する。少し辺りを見渡せば、すぐに状況把握できた。彼が自分を看病してくれていたのだろうと。
「それをあなたが言いますか。宰相殿に比べたらボクなんて……」
「それは比較対象が悪いですね。僕と君とでは、この仕事に対する経験も適性も格段に違う」
病人に対しても容赦なく、張華は厳しいセリフを突きつけた。しかし、それはぐうの音もでないほどの正論で。文虎は自嘲気味に渇いた笑いをするしかなかった。
「仰る通り。ボクはずっと兄上にくっ付いて、戦場を駆け回っていたんですから。文官様みたいなお仕事なんて、てんで不向きだ」
まだ完全に戦の火種が消えたわけではなかったが、今必要とされる人材は、国を豊かに繁栄させてゆくための政治家である。文虎は賈南風打倒の貢献者の一人として、それなりの地位を与えられはした。のであるが、内政で成果を挙げられるほどの能力はなかった。
「かと言って、他に働き口があるわけでもナシ。だったら、人一倍努力するしかないでしょう」
「意外ですね。君がそこまで勤勉な性格でしたとは」
「ただ負けず嫌いなだけですよ。自分より有能な年若い人達から、馬鹿にされるのは腹が立つので」
実際に文虎はそういう場面に多々、直面していた。言われっぱなしでは引き下がれない性分の文虎は、そんな人達を見返してやりたくて、不慣れな仕事を少しでも人並みにこなすべく努力した。その結果が、この有様である。
「……はあ。自分が情け無いです。兄にはついてゆかず、望んで此処に残ったのに。ボクには何も為せない」
「そんなことはありませんよ」
「兄上や父上は、ボクのことを頭が良いと褒めてくれたけれど。まあ、本物の秀才には及ばないですよね。現実を突きつけられました」
張華を含め、国を動かすような立場の人間には到底、文虎など及びはしない。分かっていたけれど、やはり悔しかった。兄という指針を無くした今、文虎は自分の必要性について悩むことが増えた。
「……実は、君には別の仕事をお願いしたいと思っています」
文虎の額からぬるくなった布きれを取り上げながら張華はゆったりと告げた。桶の水にそれを浸し、絞る水音を聞きながら文虎は覚悟をする。
「はいはい。もう、ボクはお役御免というわけですか」
要するに、自分はクビということだろう。そりゃあ、そうだ。文虎など所詮は、兄のオマケでしかない。そんな人物に情けで良い役職を与えておく利点はない。この男ならば当然そのように考えるだろうし、文虎とて、そう思う。
「そうではありません」
けれど、茶化し気味に文虎の吐いたセリフを張華は力強く否定する。それから、また柔らかく微笑んで言葉を続けた。
「どうしても、君にお願いしたい重要な任務があるのですよ。……引き受けて、いただけませんか?」
「まずは内容を聞いてみないことには、返答しかねますねえ」
嫌味っぽく返したものの、文虎の本音は決まっていた。それがどれほどキツい内容であったとしても、きっと引き受けただろう。秀でた才能もない自分に、仕事を与えてくれるだけでも有り難いことなのだから。
「本当は決定事項になってから、お話ししようと思っていたのですが。近い内に、学舎を建てようかと計画しているんです」
「学舎……?」
「いえ、この表現だと誤解を生んでしまいますね。分かり易く言えば、孤児たちを育成する施設というところです」
学舎という単語で文虎が最初に想像したものは、良家の子息を集めた立派な学校のようなもの。しかし、張華の訂正が入ったことにより、そのイメージにはすぐさま修正が加えられた。
「また、どうして。急にそんな慈善事業みたいなことを?」
あなたらしくもない。という一言を最後に付け加えようとして、文虎はそれを呑み込んだ。張華は決して悪人ではなかったものの、善人と呼ぶには些か打算的すぎた。意味もなく、人助けに励む性格ではない。
「ふふ。僕がそんな人間に見えますか」
「……見えませんね」
彼は何よりも利を優先する。しかし、それは自分のためではなく、国のための選択。そういう意味では、欲深い人間でも断じてなかった。
「戦禍による孤児は未だ後を絶たない。その中で、自らの力で食べてゆけるまで、生きていられる者も数はほんのひと握りでしょう」
喋りながら、張華は先ほど絞った布きれを再び文虎の額の上に戻した。新たな水を吸ったそれは、ひんやりとしていて心地が良かった。
「文虎君は国を育てるのに最も必要なものが何だか分かりますか?」
「そうだなあ。やっぱり、お金ですかね?……いや」
当たり障りのない回答をした後で、文虎は別の答えに辿り着く。横になったまま首だけを傾けて、文虎はその男の目をじっと見つめた。
「……あなたのような人材」
「その通り。人です」
望む答えを得た張華はニコリと笑って、枕に預けられた頭をやんわりと撫ぜた。まるで子供をあやすようなその手つきに、文虎は少し戸惑う。
「国を良くしてゆくために、人は幾らでも必要だ。けれど、能力のある人材を充分に確保するのはとれも困難なことです」
「だから孤児を育てる、ですか。随分と回りくどい方法を取るものですね。優秀な人間が欲しいなら、家柄の良い子息を当たれば……」
読み書きすらろくにできないであろう子供たちに期待をするのは、確率から考えればあまり建設的とは言えなかった。
「それでは、足りないのです。元より恵まれた環境に生まれ、必要な教育を受け、尚且つ優秀な者がこの世にどれだけいると思いますか?」
だのに、張華は自分の意見を曲げようとはしなかった。彼の頭の中には、文虎程度では想像もつかない明確な未来設計図が出来ているかのように思えた。
「その僅かな人材が育つのを待っている方が、よっぽど非建設的だと僕は思います」
そんな猶予はない。そう言いたげなほど、彼の口調はキッパリと断言的だった。その割には、張華の表情に焦りのようなものは感じられず。憎らしいほど、いつも通りの余裕ぶりだった。
「……そんなに沢山の人間を集めて、一体、あなたは何をしようというんです?」
まるで、世界征服でも企んでいるかのようだ。というのは、もちろん冗談だが。張華に至っては、それが冗談では済まない可能性もあるから油断できない。
「僕の描く未来はいつも一つです。ただ、今より良き国を創ること。安易に乱れ壊れてしまうことのない、もっと盤石な国を」
そんな疑惑を胸に抱いた文虎をよそに、張華は至極、真っ当な志を述べた。それは途方もない夢であった。けれど、彼が大層な発言をするのはいつものことだったから、文虎はさほど驚かなかった。
「君のお兄さんに言われました。そんなもの、百年、千年の時が必要な代物だと」
それは兄の言い分にしては至極、真っ当であると文虎は感心する。一朝一夕で国など作れるものではない。そんな兄や文虎にすら理解できることを、張華に判らぬはずもなかろう。
「僕はそれにこう答えた。二千年後に叶えば、僕の勝ちだと」
多分、その時の兄にも彼は同じような表情を見せたのだろう。張華は自信に満ちた微笑みのまま、もう一度、文虎の頭をさらりと撫でる。
「けれど、本当に二千年後に叶う保証などどこにもない。もっと、途方もない年月が必要かもしれない」
その後で、張華は珍しく弱気なセリフを付けて足した。限りなく不可能に近い理想を語っていることくらい当然、彼とて理解しているのだ。
「なのに、僕たちの寿命はほんの僅かなのです。残念だけれど」
そうだ。張華がどれだけ有能であったとして、人間である以上、いつか終わりが来る。彼の望む未来は、その限りある時間の中で実現するのは不可能なのだ。
「だから、自分が生きている内に少しでも可能性を上げておきたいんですよね。勝ちに繋がる可能性を」
そもそも、生きている間に叶う夢ではない。そういう前提で、張華は準備を整えている。二千年先。そんな途方も無い先の未来を、本気でその目に捉えている。
「そのために、今できることは少しでも多くの人を育てることだと思いました」
ああ、本当に敵わない。文虎は熱っぽい頭で諦念した。この程度のことで自分が倒れている間にも、彼はもっと遥か先を見据えて動いていたのだから。
比べる相手が悪い。まさにその通りだ。文虎と張華とでは雲泥の差。月とスッポン。彼と対等に渡り合おうなんて、いつまでも追いつくことのない、兄の背中を追いかけているのと同じ。
「……それに、行き場のない子の方が御すに易い。それしか生きてゆく道がないのだから」
表情は変えず、張華は微笑みのままで言う。いたいけな子供たちを、あたかも盤上の駒であるかのような物言いで。
「全ては国のためです。そこに憐れみや慈悲の感情はありません。……幻滅しましたか?」
「いいえ、全く。あなたがそういう人であることを、ボクはすでに存じ上げていますから」
彼は常に国のことを最優先に考える男だ。共に働くようになって、文虎は不本意ながらも、以前よりずっと張華という人物を理解していた。
「それに……」
ある意味で、それは行き場のない子を便利に利用する冷徹な行為とも取れる。だとしても、張華が決断を鈍らせることはない。仮に何かしらの犠牲を払うことになったとしても、彼はそれが正しいと言ってのけるはず。
やはり、彼は善人ではない。そこに善意は無く、ただし、悪意も無いだけ。中庸という言葉が、これほど似合う男もいるまい。けれども、悪人と呼ぶにはきっと優しすぎる。
「いいんじゃないですが。たとえ、それが偽善であっても。現実に、それでその子たちは生きてゆく術を得られるのだから」
張華は目の前の命を救うことに尽力するほど、善人ではない。その代わり、ずっと先の、未来の人々のために何かを起こせる男だった。より多くの人間を救うために。
「誰も救えない優しさよりも、それで助かる命があるなら。打算の何が悪いんですか」
「……ふふ。やはり、君に政治は似合いませんね」
「どういう意味ですか。それ」
文虎は自分の意見を述べただけのつもりだったが、まるで張華を擁護したみたいになったことに気付き、少し照れ臭くなる。そんなタイミングで、彼がふっと笑うものだから、途端に文虎は居心地の悪さを覚えた。心の内を全て見透かされたような気がして。
「どうです?引き受けて下さいますか」
「どうせ、無理矢理にでも押し付けるんでしょう」
文虎の皮肉は、のほほんとした微笑みでスルーされた。だけど、特に不満はない。その皮肉は了承の意であり、そして、そうであることを張華は恐らく理解していた。
「本当は僕が自ら教育したいところですが、生憎、今抱えている仕事で手一杯なもので」
これ以上働いたら、幾ら張華でも文虎のように倒れかねない。何もかも一人で成し遂げられたとしたら、それこそ彼はバケモノだ。
「君が育てて下さい。この国の未来を担う子らを」
「そんな大層なこと、ボクに出来ますかねえ」
自分が人間であることの証明のように、張華はその任を文虎へ託した。それは今、自分の抱えている仕事に比べれば、随分と簡単なものにように感じる。なのに、彼が大袈裟な言い方をするものだから、文虎はわずかに物怖じしてしまう。
「出来ます。必ず。君は僕と同じで、群れを統べることは難しくとも、束ねることはきっと得意なはずだ」
「そうかなあ」
「はい。あのお兄さんの手綱だって、ちゃんと君は握っていたでしょう」
「完全にボクが引っ張られる側だったと思うんですけどねえ……」
けれども、そんな些末な不安なんてすぐに吹っ飛んでしまうくらい、力強い口調で張華は断言するのだ。そのせいで、無根拠な自信が文虎にも生まれる。
「で、その計画はいつから?」
「今、頭の堅い老人たちを説得しているところです」
「それはまた、時間が掛かりそうだ」
張華がどれだけ国のために苦心しようと、全ての人がそれに共感してくれるわけではないということだ。だからこそ、途方もない夢であり、実現は困難なのだ。
「いいえ。なるべく、早く。年が明ける頃には、と思っています」
当然のように、張華はその障害を歯牙にも掛けない。その程度のこと、障害とも思っていないような素振りで、迅速な決行を彼は断言する。
「よくもまあ、頑張りますね。あなたも」
「はい。僕も負けるのは嫌いですから。なんとしてでも勝ちたいのです。この賭けに」
これくらいで足踏みをするような計画であれば、二千年後など夢のまた夢ということだろうか。それにしたって、その柔和な印象にそぐわず、どうしようもなく努力家である。そんな内に秘めた熱さを、ちっとも面に出さないくせして。
「ボクも少しだけ、見てみたくなりましたよ。あなたの創る国を」
自分でも単純だと思うけれど、文虎はそういうのに弱いのだ。強く眩しい、光みたいなものに。つまるところ、要するに、文虎は彼のことを結構気に入っているということである。
もちろん例え二千年経とうとも、そんなこと、本人に伝える気は一切ないけれど。
「まあ、二千年先に叶ったとしても、ボクたちにはそれを知る術はないんですけどね」
「だから、人を育てるのです。彼らがきっと見届けてくれる。僕たちの代わりに」
そこに文虎はわずかな兄の面影を見た。なんて言い方をすると、まるで兄が故人もように聞こえて怒られそうだが。そういうことを述べたいのではなくて。
性格も何もかも、正反対とさえ思える張華と文虎の兄。だけど、その大胆さだとか、途方も無さだとか、似ている一面があるように思うのだ。それが文虎の願望による幻想でなければ。
「僕も今からとても楽しみです。君の教え子がどう育つのか。未来を担う僕たちの子らが」
「………変な言い方しないでくれますか?」
こういう、ちょっと格好良いことを言ったかと思えば、途端に台無しにしてくるところとかも。離れて久しい兄を思い出して、文虎は少し懐かしさを覚えた。
「ふふ。では、良き国の未来のために。まずは君が身体を治さないとですね」
「少し熱っぽいだけです。明日にはピンピンしていますよ、きっと」
ただでさえ足を引っ張ってしまっているのだから、早く復帰して張華の志に貢献したい。文虎の急く想いに気付いているのか、張華はそれを制するように布団を目深に被せた。
「無理はいけませんよ。君もまた、国のために必要な、大事な人なのですから」
子供をあやすような手つきで寝かしつけられて、文虎は不満げに唇を尖らせて見せる。すると、張華がクスリと笑った。
視界が俄かに影って、彼との距離感が狂う。頭を傾けると額の布きれが落ちてしまうから、文虎がそれを避けることはきっと不可能だっただろう。
「……訂正します。国にとっても、僕にとってもです」
瞬間的に熱が上がった気がした。恐らくは、ただの錯覚だろうが。目眩を覚えた文虎は、彼の促す通りに、そのまま大人しく瞼を閉じた。
夢で見た。二千年後の自分の姿を。そんな途方もない年月の先に、生き長らえているはずもないのに。国は泰く穏やかで、その隣に彼がいた。文虎を見て、張華は笑って得意げに言う。
「―――僕の勝ちです」