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Lost Diara/世界滅亡日記

全体公開 Lost Diara 13429文字
2022-02-06 21:10:07

ジノとリヴィウィエラの出会うまでの話。出会った。


 ウサギの掘った穴で、派手に転んだことがある。まだ今よりずっと小さかった頃、家族で行った動物公園でのことだ。自然保護区の中にあるその公園には小動物が放し飼いされているエリアがあって、自分としてはもっと大きな動物が見たかったのだが、妹にせがまれて仕方なくそこに向かったのだ。
 そのエリアの一角で、ウサギの巣穴に片足を踏み込んでしまい、盛大に転んだことがあった。他のことは朧げであまり覚えていないのに、その時の一瞬の浮遊感と、跳ね上がった心臓の鼓動だけは何故かよく覚えている。急にあるべき世界から切り離されてしまったような感覚。足元の穴が無限に広がって、底のない暗闇にどこまでも落ちていくような。
 ――そんな、発作的に呼び起こされた走馬灯のような記憶の淵から、一拍の後にジノはハッと意識を自らの元に取り戻した。夢から覚めたのに、目の前には何も見えない。そう思ったのもほんの束の間だった。青黒い闇に生唾を飲み込んだ次の瞬間、視界が開ける。眩しさに思わず目を細めたのも束の間。
……ッ、な……っ、ぁああ……ッ!?」
 空。
 吐き出した息が、絞り出すような悲鳴に変わった。空。空、空、空だ。360度、見渡す限りの空。どこまでいっても空がある。自分の周りに空しかない。否、違う。違う、わかってはいたのだが、周りに空があるのではない、空の中に自分がいる。下にも当然何もない。空しかない、支えるものがない――落ちている!!
「は、……っくそ……っ、マジかよ……っ!!」
 反射的に体を触る。だが何もない、当然だ。何しろジノは今朝起きたばかりで、ようやく身支度を整えて、これから出かけようとしたばかりだった。何の装備も身に付けていないに決まっている。そこまでは思い出せた。そこからの記憶が繋がらない。どうしてそんな状況から、急にこんなことになっているのか。考えている余裕は、ない。
――ッ!!!」
 歯を食い縛る。悲鳴を上げることすら出来ない、ただただ重力に体が引かれて、周囲を見る事も難しくなってきた。明らかに加速している。このまま落ちたらどうなるのかと想像しかけて、どっと汗が吹き出した。
「くそ……っ、くそ!!!」
 呼吸と同時に悪態が口をついて出た。意味がわからない。このまま落下して死ぬのだろうか。考えたくもないが、一度浮かんだ思考は一瞬にして脳内を塗り潰してしまった。何故? 左手をきつく握り締める。死にたくない。思わず手を伸ばした。或いは空気の抵抗で四肢が浮き上がっただけかもしれない。それでも、もしも周囲に誰かがいたなら、ジノが手を伸ばしたように見えただろう。何も理解出来ない、死ぬのは嫌だ、それ以外のことはもう考えられない。
 瞬間、強烈な重力が体にかかる。不意の衝撃から脳と精神とを守るように、意識がシャットダウンされるのを感じた。



……いっ、てえ……!」
 身動ぎした途端に感じた激痛に、ジノは思わず声を上げた。左腕の周辺、特に肩の付け根辺りが熱をもったようにズキズキと痛む。拍動性のその痛みは明らかに何らかの異常があることを示していた。横たわったまま痛みの原因を確認しようとして、ハッと目を見開く。
……生きてる」
 驚きの感情のまま、ばね仕掛けのように身を起こそうとしたが、反射的な動きは強い体の痛みに遮られた。再び倒れ込みしばらく呻いた後、ようやく仰向けになって一息つく。
「痛え……なんなんだ、一体……
 声に出してみたが、答えらしきものがあるとは思えなかった。周りには誰もいないのだろう、つい習慣として辺りの気配を探ってみたが、人間はおろか動くものは近辺に存在しないようだった。それならそれで安全だろうと、目を閉じたまま、今度は自分の体に意識を向ける。左の肩関節を酷く痛めているが、幸いにも骨や神経に深刻なダメージは受けていないようだった。時間さえかければ、自己修復で十分間に合う範囲の損傷だ。
……なんなんだよ、本当に……
 とはいえ、体のことはそれでよくとも、どうしてこんな状況になったのかがまるでわからなかった。そもそもこの状況、というのがどういう状態であるのか、現状認識すら出来ていない。混乱した頭はぐるぐると疑問符を浮かべるばかりで役に立ちそうもないが、ひとまず落ち着こうと深く息をつく。瞼の裏側に、赤い血の巡りがじわじわと滲む。
 ……不意に、日が陰ったような気がした。閉じた瞼の向こう側に感じる光度が弱くなる。赤い色が見えなくなった。太陽に雲でもかかったのだろうと、反射的に、考えるまでもなく解釈しようとして――違和感に、ハッと瞼を押し開く。
 ばちり、と視線が合った。ヒトだ。目の前に、女が立っていた。こちらを見ている。地面に転がっているジノを観察するように、腰を屈めて覗き込んでいる。
 じっと見つめてくる黄色い視線に縫い止められたように、ジノは僅かの間身動ぎすることも忘れていた。しかしその丸い目が突然伸び縮みする弦のように細められ、その瞬間に呼吸をすることを思い出して、弾かれたように身を起こす。ばね仕掛けの如く後退ったその場には、くるくると喉を鳴らして笑う女の声が響いた。
「異物か。一体どこから紛れ込んだ?」
 すっと背を伸ばした女が言う。それほど身長も高くはない、若い女だ。当然ながら、見知らぬ女だった。一瞬、声が不可思議に重なって聞こえたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。
 女はジノの言葉を待つでもなく、ふと空を見上げた。
「ああ、あの穴か。忌々しいこと。姉上も、さっさとウサギを始末してしまえばよいものを」
……だ、誰だ……?」
 独り言を続ける女に、ジノの口から思わず疑問が溢れる。言った後で、この場に最適な問いではないなと他人事のように思った。そんなことより確かめなければならないことは山ほどあるのだが、かと言ってその全てを問うにはあまりにも疑問点が多すぎる。
 ほとんど呟いただけだった小さな声は、しかし女の耳には届いたようだった。黄色い、どこか爬虫類を思わせるような目がジノを再び見る。無機質な視線だった。少なくとも先程のような、観察対象へ向けられる好奇心めいたものは全く感じられない。
「ニル・アルフ・トレア」
……え?」
「二度は名乗らぬ。それにしても、今か。ふ、はは、愉快愉快」
 そう言うと、女は唐突にジノに背を向けると瞬きの間に姿を消した。文字通り、一瞬目を閉じて次に開いた時には、その場にいたはずの女がどこにもいなくなっていたのだ。慌てて周囲を見回しても、人ひとり隠れられるほどの障害物は見える範囲に存在しない。周辺をサーチしてみたが、女が突然現れる前と同じく、辺りに動くものは何も見つからなかった。
「な、……なんだ……一体」
 いきなり現れて消えた女の衝撃に、ジノはしばらく呆然としていたが……やがて考えるのを諦めて、再び周りの光景をぐるりと見やった。今度は何かを探す為でなく、冷静に目に見える風景を把握しようと努める。肩の痛みは修復が進んでいるのか、いつの間にか感じなくなってきていた。痛覚が遮断されたようだ。
「ここは……変な地形だな。窪んでいる、のか?」
 かちり、と義眼が動いて足元の地形を探る。ジノが立っている場所は何もない地面の上だった。白っぽい土の組成は見ただけではわからないが、よくよく見てみると土の表面に細かな罅がたくさん入っている。足を一歩踏み出すとパキパキと軽い音がして、新たな罅が広がった。まるで薄氷の上にでも立っているかのように、地面が割れていくのだ。一瞬ぞっとしたが、しかしだからといって、氷のように砕けてしまうようではないらしい。踏み締める感触は、間違いなく固い土の地面だ。
 顔を上げる。見つめる先は遠くに行くにつれてなだらかな坂のようになっていて、その傾斜はある一定のところでふつりと途切れていた。ほぼ同じ高さの傾斜が、ジノが今立っている地点を中心にぐるりと周囲を取り囲んでいるように見える。周りが高いというよりは、この場所が一段低くなっている印象だ。
 足を踏み出す。幸い歩くことに支障はないようだった。地面を踏む先からパキパキと音がすることには違和感があったが、一先ず気にせずに歩き続ける。
 傾斜は最初こそほとんど平らに近い緩やかなものだったが、すぐに少しずつ急になっていった。やがて小さな山のように盛り上がったエッジ部分を片手をついて乗り越えると、その向こう側には再び平たい地面が続いていた。そこまで来てようやく、辺りの景色が晴れる。遠くに見える地平線を見つめてから、今歩いてきた場所を振り返った。
「なんか……なんだ? これ。……クレーター、みたいだな」
 ほう、と息をついて、ジノは目を細める。やっと全貌の見えた光景は、やはり理解不能なものだった。
 巨大な窪みが地面にある。ジノの知識の範囲内で言えば、クレーターと呼ぶのが一番近いように思われた。大きな隕石との衝突によって生まれる陥没跡は、資料写真でしか見たことはないが、近くで見ればきっとこんな感じではないだろうか。そこまで考えて、ふと思い出した。そういえば、空を落ちる夢を見たような気がする。あまりにも現実離れしたことが続いているので忘れていたが、そもそもこの奇妙な出来事の始まりはそれだったのだ。尤も、今の状況だとて全て夢である可能性はまだ残っているが。
「夢……だったのか? でも、もしかしたら本当に落ちたってことも……
 独りごちて、クレーターを再び見る。まさかとは思うが、この巨大な窪みは、自分が落ちた衝撃で出来たのでは――そう考えて、けれどもすぐにそんな筈はないと首を振った。いくら生身よりも丈夫な体だとは言っても、空から地面に激突してこれほどの衝撃があったとなれば、無事でいられるわけがない。ジノの体に残っている損傷らしい損傷と言えば、左肩の奇妙な痛みくらいだ。それに辺りには土埃も舞っていなければ瓦礫も散らばっていない。地面の様子も含めて、どこもかしこも静まり返っていた。この窪みが仮に何かの衝突によって出来たものだとしても、恐らくもっと前に起きた出来事だろう。
「空か……いや、まさかな」
 恐らくは夢だろうが、思い起こせる浮遊感は妙にリアルなものだった。過去に降下訓練を受けた時の記憶によるものかもしれない。改めて考えてみても、本当に落ちたのだとしたらクレーターを作るほどではないとしても間違いなく死んでいる。少なくともこんなにすぐに動けるような怪我では済まないだろう。
 自然と、視線は空へと向けられた。何もない空だった。ジノの知っているものよりも、随分と青みが薄い。雲が多い日なのだろうかと思ったが、はっきりとした雲らしきものは見当たらなかった。前方にある太陽と、ぼんやりと霞がかったような、仄白い空。と、その薄い色の空気の向こうに何かが見えて、ジノは反射的にそちらに視線を移す。霞の奥に影のように、何かが長く伸びている。
……? なんだ、あれ。…………?」
 目を細めて確認すると、それはまるで空を半分に区切る黒い糸のように見えた。地面から空へと向けて、縦に長く伸びた何かがある。目を擦ってみても、消えない。間違いなく何かが在るようだった。何であるのかは今いる場所からはわからない。世界的な高層ビル、或いは巨大な電波塔など、何らかの構造物である可能性が高い気がしたが……ぼんやりとした姿だけでは想像も難しい。それに、位置からすれば相当に巨大な構造物だ。
「軌道エレベータ……ううん、どうだろうな。こんな場所があるなんて聞いたことがない」
 ジノが住んでいた国にも軌道エレベータは存在しているが、どの国も例に漏れず『空港』を含めてその周辺地域は非常に発展している。当然ながら人口密度も高く、そうでなかったとしても今時これほどの広い土地を放置している国の話など聞いたことがない。かつては砂漠であった土地にだってビル群が立ち並んでいるというのに。
 もしくは、それすらも出来ないほど危険な地帯なのだろうか。人が住めないどころか草木も生えない程に汚染された土地があることを、隠している国があったとしてもおかしな話ではない。自分は何らかの任務でその場所に潜入でもしたのだろうか。何も状況がわからないのは、仮に捕まったとしても任務の詳細が漏れないように、記憶を封じられてでもいるのかもしれない。
……いや、映画の見過ぎだな、それは」
 つらつらと考えてみたが、どうにも信憑性がなさすぎて、つい自分で笑ってしまった。流行りの陰謀論じゃあるまいし、何にでも裏があると思うのは物事に期待をしすぎている。現実は結局いつも何でもないものだ。例えばそう、単純に、ただつまづいて穴に落ちただけだとか。
「とはいえ、このままここでじっとしていても仕方ないか。……行ってみよう」
 とにかく近辺には何もないのだ。白茶けた地面が延々と広がるばかりで、草木どころか人工物も見えない。あるとすれば大きなクレーターだけで、どうにも全体的に薄ぼんやりした景色にさすがにそろそろ嫌気が差してきた。損傷している左肩は修復中で、今は痛みも感じない。遠くに見える『糸』も霞がかってぼんやりとしてはいたが、少なくとも存在することだけは間違いないようだった。
 目印となりそうなものがそれしかないのなら、それに向かって行くしかないだろう。深く溜息をつくと、ジノはクレーターに背を向けて『糸』に向かって歩き始めた。



  ***

 軽い足音が断続的に響く。足先が地面を蹴る度にぱきりぱきりと罅割れの音がして、けれども破片がその裸の足を傷つけるようなことはない。其れは急いでいた。急ぐ理由があるので走っていたのだ。
 普段なら、出来る限りゆっくりと歩くようにしている。なるべく地面の傷を増やしたくなかったし、そうでなくとも今更もう、急ぐべき目的も理由もなかった。
 なのに突然そうではなくなった。だから急いで走っているのだ。踏み込む先から土の表面が割れていく。細かな傷の連なりが致命傷になることはわかっていたが、許してもらいたい。何しろこの状況を放置していたら、本当に取り返しのつかない傷を負ってしまうかもしれないから。
 走って、走って、辿り着いた先で其れはようやく足を止めた。止めさせられた、と言った方が正しいかもしれない。大地に穿たれた忌まわしい傷跡、大きく落ち窪んだ癒えることのないその縁に立ち、眼前の光景を見つめる。
……いない」
 其れの目の前には広大な大地が広がっており、見えるものはいくらでもあった。しかし少し前には間違いなくそこにあるのを確認していたはずのものが、今はどこにも見えなくなっていた。
 再び軽く地面を蹴る。ふわりと浮いた体は地に引かれる力に逆らい、なだらかな傾斜を超えて窪みの中心地に程近いところへ着地した。僅かに平たい地面が広がるその場所は、他の地点よりも明らかに罅割れが大きくなっている。ここに何かがいたのは間違いないはずだった。
 きょろきょろと辺りを見回す。消えてしまったのならそれでも構わないが、そうでないのなら一大事だ。やはり目を離すべきではなかったのかもしれない。其れは不愉快そうに眉を顰め、すん、と小さく鼻を鳴らす。嫌な臭いがする。良くないものが、どうやらここにいたようだ。
「まずいな。一旦戻るしかないか……
 消えてしまったのなら、それでも構わない。その方がきっといいのだろうが、もしもそうでなかったとしたら。
 其れはもう一度だけ周囲を窺い、小さく頭を振ると軽く地面を蹴った。ぱきり、と足の下で地面が罅割れる。
 瞬きの間に、その場には再び何もいなくなった。

 ***



 時間にして、約二時間程は経っただろうか。足元に向けていた視線を上げて、ジノは軽く息をついた。日の位置の変化を考える限り、体内時計は正常なはずだが、間違いなく正しいとは言い切れない状況だった。それくらいに、この場所には本当に何もない。何もわからない、ということだけが、今のジノに言い切れる間違いなく正しいことだった。
「一体……何なんだ、本当に」
 足の機能に問題はないから、歩くことには全く支障はなかった。故に、歩行速度も通常と変わらない筈であり、時間の感覚が正しいとするならば、これまでに歩いた距離も概ね把握出来ているはずだ。なのに、未だに周囲の景色は全く変わらない。薄ぼんやりした空に、白茶けて罅割れた平たい大地。顔を上げれば遠くには黒っぽくて縦に伸びた『糸』がある。出発した地点で見た景色と、ほとんど変わりがない光景が延々と続いていた。ともすれば、全く同じ場所をずっと歩き続けているのではないかと錯覚するほどだ。
 まるで昔話によくある、砂漠の中を彷徨う旅人のようだ。自分が置かれている状況が何もわからないまま、当てもなく歩きながらジノは自嘲した。果たしてこれは任務なのか訓練なのか、はたまた何らかの罰でこんな目に遭っているのだろうか。そんな大層なことをやらかした記憶はなかったが、記憶にないということが無実の証明にはならないのもわかっている。
「あぁー……何なんだ、くそ。目的だけでも教えてくれ。そうじゃないんなら家に帰らせてくれ……
 意味があるのかないのかもわからない行動をさせられるのは、理不尽な命令に従うこととどちらがマシなのだろう。考えてみたが、結局どちらも同じだという結論にすぐに辿り着いてしまった。本当にどうしてこんなことになっているのだろう。ただいつも通り、規定の時間に目を覚まして身支度をして、出動時間に間に合うように家を出ただけなのに。
 何もおかしなことはなかったはずだ。解析の必要があるような妙な夢も見なかったし、朝食はキーロの作ったいつもの栄養食メニューだった。現着の任務はなかったから装備も最低限で、本部に顔を出した後はお決まりの待機という名の事務作業に追われるはずだった。それがわかっていたので少々憂鬱ではあったが、こんな現実逃避を望むほどに嫌だったわけではない。今すぐ本部に戻れるのなら三日三晩寝ずに事務作業に勤しんだっていい。
 何もおかしなことはなかったはずなのだ。朝食を摂って部屋で着替えて、キーロにいつも通り家事と施錠を任せて家を出た。自室は二十五階にあるので地上階に出るまでにはエレベータが必要だ。だからエントランスから認証を通ってエレベータの中に乗ろうとして……ふと首を傾げる。そこから先の記憶が、ない。
「エレベータ……? いや、でも別に、何もないはずだよな。確か他にも誰か乗っていた気がするし」
 パキパキと音を立てて歩きながら、ジノはもう一度反対側に首を傾げた。周りに何があるか、誰がいるかを確認するのは半ば癖づいてしまっているから、特に人の存在に関しては察しているはずだ、と思う。はっきりと言い切れないのは自分の甘さ故のことだが、もしエレベータの中で何者かに襲われて拉致でもされたのであれば、さすがに覚えているだろう。記憶の抹消は技術として存在してはいるが完璧ではない。ジノの脳は生身であるし、狙った記憶だけをピンポイントに消すようなことはまだ出来ないはずだ。
 うーん、と声を出して唸る。完全に独り言だが、あまりにも周囲が無音であるので、独り言でも言っていなければおかしくなりそうだった。人の騒めきや電子音や機械の振動音に慣れた耳には、この無音状態は非常に神経に障る。わざと足を大きく踏み込んでパキパキと音を鳴らしてしまうのだが、完全に無意識の行動だった。
 朝起きて、エレベータに乗ろうとした。中には他の誰かがいたが、敵意や害意は感じなかった。電子錠の音と共に透明な扉が開いて、乗り込もうと足を踏み出して――そういえば、何もないその場所でどうしてか、急につまづいたような気がする。まるで見えない段差に足を取られたような、或いは……見えない深い穴の中に、足を踏み入れてしまったような。
 あ、とジノは思わず声を上げ、その場に立ち止まった。目を大きく見開く。浮遊感。思い出されたその感覚には覚えがあった。
……穴だ」
 ぽつりと呟く。瞬間、ぼんやりした記憶ははっきりとした体感としてジノの中に蘇った。間違いない、そうだ、穴に落ちたのだ。エレベータの中に入ったつもりだった。けれども実際には、ジノが足を踏み込んだのはどこにも見えない穴だった。穴には当然底などない。足の踏み場を失い、バランスを崩したジノはそのまま前方へ倒れ込む。倒れた先もまた、穴だ。辿り着く先のない体は、為す術なく穴の中へと落下する。
「いや。……いやいやいや、なんでだ?」
 そうまで考えて、尚もジノは頭を振った。記憶は嫌というほどはっきりしてきたが、そんな筈はない、と理性が否定する。なんでエレベータの中で穴に落ちなければならないのか。
 百歩譲ってエレベータの床が抜けたとでも言うのであれば、まだわからないこともない。何世代も前、まだエレベータが機械による吊り下げ式だったような頃には、そんな事故もあったらしいが……今時有り得ないだろう、と思う。とはいえ人のやることだ。完璧に間違いなく安全だとは言い切れないことも理解出来る。だからそこまではまあ、いいだろう。
 だが仮にそうだとしても、エレベータの床下に落ちるだけのことだ。機能上、或いは安全上も、床が抜けたからといってそこから更に下には落ちないようになっている。足首くらいは痛めるかもしれないがすぐに安全装置が働いてエレベータは止まるだろうし、管理者に報告されて今頃はとっくに救助されているだろう。少なくとも、ただ床下に落ちただけでこんな何もない荒野に辿り着いたりはしない、絶対に。
「あー……駄目だ、おかしくなりそうだ」
 がしがしと頭を掻く。記憶と現状の乖離が大きすぎて、理解が全く追いつかない。脳の回路がショートしてしまいそうだ。尤もジノの脳はほとんど生身のものなので、考えすぎたからといって壊れるようなことはないのだが。
「いっそ、頭でも打って夢でも見てるんだったら簡単な話なんだけどな……
 打ちどころが悪くて昏睡状態にでもなっているのかもしれない。そのせいで、こんな夢の中から出られなくなってしまっているのかもしれない。
 或いは本当に記憶を失って、ここに至るまでのことをまだ思い出せずにいるのだろうか。現実逃避だという自覚を半ば持ちつつも、ジノはひたすらに歩き続けた。遥か遠くにあるように見える『糸』だけが彼の目印だった。



 ***

「ああ、いた。見つけたぞ」
 うろうろと落ち着きのない様子で歩き回っていた其れは、背後からかけられた声にパッと顔を上げると慌てて振り返った。軽く目を見開いて眼前にいる相手を見つめる。背の高い、赤毛の女が其れを見てにこりと笑った。
「いたのか」
「いた。そう遠くに行ってはいなかったな」
「そうか……
 女の言葉に、其れは顔を曇らせて押し黙った。消えてしまっていたのなら全て問題なかったのに、やはりそう上手く事は運ばないものだ。女がゆっくりと歩み寄って、其れの肩にぽんと手を乗せる。足元で、パリパリと細かな罅が入る音がした。
「起きたことは仕方がない。幸い、まだ何にも接触してはいないようだ」
……本当に? でも、妙な感じがしていた。あれは……
「『無い』モノのことは気にするな。それより、どうする。一先ず追跡はしているが」
 先に立って歩き出した女の後について、其れは廊下の奥へ向かった。石造りの長い廊下には至るところに罅割れがあり、やはり歩く度に小さな傷が増えていく。薄い光の差す通路を抜け、奥まった部屋の前で女が立ち止まった。構わず、其れは女を置いて部屋の扉を押し開く。
「こっちだ。見えるか」
 扉の奥には、背の高い赤毛の女が立っていた。今しがた追い抜いてきた女と寸分違わぬ姿で、同じ声で其れを手招く。部屋の床には仄かに光る水が薄く張られており、その一部を指して女が言う。
「あれだろう? 丘からまだそう離れてはいない。……見た目はヒトと変わらんが、さて」
「どこに向かっている?」
「方角だけならば、このままいけばいずれ針山まで辿り着くかもしれんな」
……っ!」
 床を見つめながら言う女に、其れはひゅっと息を呑むと一瞬にして身を翻した。
「まあ、麓に着く前にはまだ村もいくつかあることだし――って、あ! こら、待て、リヴィウィエラ!」
 制止の声に構わずに部屋を飛び出す。足元で大きな音がするのも気にかけられなかった。長い廊下を駆け抜けて建物の外へと向かう。危険が迫っていると思うと居ても立っても居られなかった。やはりあの時、捨て置くべきだったかもしれない。
 開かれたままの門を抜け、外界へ飛び出す。支柱の間を擦り抜けた瞬間、其れの姿は塵も残さずかき消えていた。

  ***



 更に歩き続けて、どれくらいになっただろう。少し前から、ジノは違和感を覚えていた。最初は小さな疑問だったものが次第に胸の内で膨らみ始め、今に至っては明らかな気味の悪さとして胃の奥の方に凝っている。
……いや、やっぱり、変だな。いつもならもうそろそろ、補給が必要なはずなのに」
 コートの内側に入れてある、補給用の栄養剤を取り出す。必要になればいつでも使えるように常に持っているものだが、未だにエネルギーの残量は減っていないようだった。何であれば、今朝朝食を摂取した時からほとんど消費していないように思える。
「ここまで歩いてきているし、怪我も修復したのに。……どういうことだ?」
 立ち止まり、背後を振り返った。相変わらず薄い色の空は、それでも日の位置が変わったのか、はじめに見た時とは色味が違ってきている気がする。遠くには真っ直ぐな地平線があり、それ以外には何もない。ただし少しずつではあるが、樹木らしきものの姿がちらほら見えるようになってきた。樹木と呼んでいいのかどうかわからない、立ち枯れてへし折れた残骸でしか
なかったが。
 左手を目線の高さまで持ち上げ、手のひらをぐっと握り締める。まだ肩には若干の違和感があったが、問題なく修復は出来ているようだった。なのに、エネルギーは全く消費していない。ずっと歩いている割には、喉の渇きすら感じなかった。……明らかに、異常だ。
……やっぱり、夢かな。それならもういっそ、ここでもう一度眠ったら目を覚ましたりしないもんか」
 ぽつぽつと益のない独り言を零すのにもすっかり慣れてしまった。何しろ他に動くものすらないので、自分の声くらいしか聞こえるものがないのだ。これだけ広い空間があって、遮るものが何もないのに、風が全く吹かないのも薄ら寒さを助長させた。言ってしまえばこの場所には、生きているものの存在が一切感じられない。
「現実だとしたら……はは、いよいよヤバいところだな」
 新型の大量破壊兵器の実験場か、或いは完全隔離された汚染地域か。どちらにせよこの先に辿り着いたところで、まともに帰れるとは思えなくなってきた。再び歩き始めようとして、ジノは大きく溜め息をつく。体は何故か全く疲労を感じないが、心はどんどん重たくなっていく。
「ああー……もう、なんなんだ、本当に! なんで俺がこんな目に!」
 ぶんぶんと大きく頭を振り、気を紛らわせるために大きな声で叫ぶ。そうしてみても声が虚しく響くばかりで、何の解決にもならないことはわかっていた。どうにか気を取り直し、背筋を伸ばして遠くを見つめる。
 その時、何もないと思っていた荒野の向こうに、今いる場所とは僅かに形の異なる土地があることに気づいた。『糸』ばかりを見て歩いていたから気づかなかったのだろうか。もしくは、光の差す方角が変わったので見えるようになったのかもしれない。
「あれは……? 岩か、いや……もしかして、建物か!?」
 遠くにあってはっきりとは見えないが、輪郭線だけを見れば、それは何らかの建造物であるように思われた。ほんの小さなものだったが、それでも建物があるとすれば、人がいるのかもしれない。
 ぐっ、と奥歯を噛み締めて、ジノは垣間見えた影に向かって走り出した。体の違和感や、不可解すぎる状況のことは一先ず考えないようにして、何もない地面を駆け抜ける。
 木々の残骸はやがて徐々に数を増し始め、その外見も、枯死した幹の一部しかなかったようなものから、次第にはっきりと樹木であるとわかる形をしたものへと変わっていく。その全てが相変わらず白茶けた、罅割れの多く見られる質感であったのは奇妙極まりなかったが、少なくとも今のジノはそれに構ってはいられなかった。視界に入るものの数が増えていくにつれ、自分以外の何かの気配が濃厚になる。
 とにかく誰かに出会いたかった。そうすれば少なくとも、今の状況が現実であるかどうかがわかるだろう。次第に大きくなる影の輪郭を目指して走る。息が切れないのをいいことに、ほとんど呼吸を止めていた。考えることも止めて、ただ走る。走って、走って――やがて、ジノは立ち止まった。眼前に佇むそれを呆然と見上げる。
……家だ」
 正しくは、家であったもの、だろうか。小さく粗末な建物は、元々は石で出来ていたようだった。小屋と呼んだ方がいいような大きさで、ジノにとっては全く見慣れない外観だったが、恐らく家なのだろう。現代でも自然保護区域の周辺には、こういった古い時代の形式を残した建物が多くある。ということは、この辺りはそういった『敢えて残された』地域なのだろうか?
「人は……いないのか? ……住んでいそうにはないけど」
 屋根のない、四角い形の建物の壁はボロボロになっていた。周囲をぐるりと巡ってみると、完全に壁が崩れてしまっている場所もある。隙間から見える屋根も朽ちて穴が空いており、少なくとも人が住まなくなって随分経つようだった。
 ジノは更に辺りを見渡した。最も手前にあったこの家を起点として、周囲には他にも建物が点在していることがわかる。恐らくは、小規模の集落なのだろう。中には家財道具と思わしきものがそのまま残されているような家もあったが――脱力して、深く溜め息をつくとジノはその場に立ち尽くした。どこの家も、完全に廃屋と化している。屋根も壁もボロボロに崩れて、既に風化が始まっているような有り様だ。しかもそれら全てに、地面に見られるものと同じように、細かな罅が入っている。
「誰もいない、か…………っ、くそ、なんなんだよ……!」
 苛立ちを紛らわすように、思わず近くにあった壁に拳を打ち付ける。と、まるで繊細なガラス細工ででもあるかのように、厚みのあるはずの壁はその衝撃で大きく砕けて割れてしまった。ハッと息を呑むジノの目の前で、建物の他の部分でも、細かい罅割れが大きな亀裂となって広がっていく。慌てて後退ると、その僅かの後に大きな音を立てて壁が崩れるように砕け散った。氷のような、光の粒のような破片がパラパラと零れ落ち、白茶けた地面の上に降り積もる。
 声を出すことも出来なかった。ジノの目の前にあったはずの建物は、気がついた時には完全に消え失せ、ただの塵の集積に変わってしまっていた。一体何が起きたのだろう、確かにどこもかしこもボロボロで、今にも朽ちてしまいそうな建造物だったが、だからといってこんな崩れ方をするだろうか? やはりこれは現実ではなく、長い長い夢を見ているのだろうか?
 足元に積もった、先ほどまで確かに家だった破片を見つめる。汚れた埃のようにも、キラキラと光る雪のようにも見えるそれに、引き寄せられるようにその場に膝をついた。思考はもはや働いていない。ただその物質が一体何なのかを知りたくて、ゆっくりと手を伸ばす。
……――触るな!!」
 突如、右手に走った激痛にジノは声にならない悲鳴を上げた。反射的に手を引き、危険から遠ざかる為に強く地面を蹴って大きく後退る。その後を追うように声が聞こえた。声――そう、声だ。瞬間的に痛みを忘れる。声だ。声。自分でないものの声。別の何かの声……誰かが、そこにいる!
「動くな、止まれ!」
 声が言う。今度は、言葉を理解出来た。まるで自分が人語の通じぬ猛獣になった気分で、声の聞こえた方向に体を翻す。気づかないうちに、日はいくらか傾き始めていたようだった。直線的に差し込む光は今までよりも随分と眩しく感じられ、思わず目を細めるジノの、それでも真っ直ぐに見据えた視線の先。
「動くな。何にも触るな。……お前、どこから来た。お前は、何だ?」
 声が三度降る。ヒトだ。人が、そこに立っていた。その声ははじめこそ僅かに二重に被って聞こえたが、すぐにその響きは明瞭になった。ジノよりもずっと小柄な影。よく通る、高い音域の声。眩しく目を刺す光とよく似た色の瞳が、こちらを鋭く見据えてくる。
 子供だ。再び働かなくなってしまった思考回路の一端で、ジノは辛うじてそう判断した。


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