@shikanoko_aki
目深に被った笠を傾けて、男は笑った。初めて見る面構えだったというのに、陸抗はそれが彼であるということを、ひと時、視線を交わらせただけで理解した。
「羊祜殿……」
返事をする代わりに、羊祜と呼ばれた男は再び口元を緩めた。否定をしないということは、やはり彼が羊祜なのだろう。初めて見る友の顔を前に、けれど、陸抗は同じように笑顔で応える気にはなれなかった。
「まさか、本当に来るは思わなかった」
「十日の後にお伺いすると、文を届けたはずですが」
文は確かに受け取った。その返事は出していない。出したとして、その文面が真実であるならば、それが届く頃、羊祜はその地を立った後だっただろうから。
そう考えている時点で、発言と裏腹に、陸抗は彼が現れるであろうことを予期していたということになる。何故なら、羊祜は自分に嘘を吐いたことなど決してないのだから。
「ここは孫呉の領地です。敵地に単身で乗り込むなど、正気の沙汰ではない」
「だから、お忍びで」
なんてことのないように、やはり、羊祜は微笑んだ。能天気にも思える彼の応対に、陸抗は少しだけ苛立ちを覚える。
敵軍の将でありながら、羊祜と陸抗は友であった。そこに偽りはなく、疑いもない。だからこそ、陸抗は初めて出会う目の前の男に敵将としてではなく、友として接しているのではあるが。
「どうして。そのような危険を犯す必要があるのだ。万が一にも、私が貴方の命を狙うとは思わないのですか」
「ええ。思いません」
キッパリと一瞬の迷いもなく、羊祜は答えた。
「だとしても。もしも、貴方の顔を知る者に見つかりでもしたら……」
仮にこの件が公になれば、陸抗とて素直に彼を返すわけにはゆかなくなる。羊祜は無事にこの地を逃れることは叶わないだろう。
陸抗の苛立ちの原因は明確だ。ただ純に彼の身を案じている。故に、深謀遠慮な羊祜が何ゆえ、このような無謀をしでかしているのか疑問でならないのだ。
「ふふ。私の心配をして下さるのですね。やはり、陸抗殿はお優しい。君のしたためた文面通りの方だ」
再度、羊祜は優しく微笑む。それに釣られたというわけではないが、強張っていた陸抗の表情もわずかに解けた。そこでようやく、陸抗は彼に問う。
「何のために、わざわざ此処へ」
その理由を確かめないことには、羊祜を無下に追い返すこともできない。彼のことだから、陸抗にも想定し得ない目論見があってのことかもしれなかった。
「もちろん理由は一つです。君にお会いするために」
「真面目に訊いているのです」
「はい。真面目に返答しています。嘘はない」
声を荒げた陸抗とは対照的に、羊祜は終始穏やかだった。彼はこんな状況で冗談を言う男ではない。そう知りつつも、陸抗はその言動を疑わずにはいられなかった。だって、そんなことをして何の得があると言うのか。
「君は優しすぎる」
羊祜の声がわずかに冷たい響きをしていた。その言葉を否定するように、陸抗は沈黙のまま、ゆっくりと首を横に振る。
「このまま、滅びを待つことを選ぶのですか」
「………」
孫呉にはもう滅亡の選択肢しか残されていない。羊祜は断言的な口調で、しかし、真摯に陸抗へ訴えかけた。
孫呉の将として陸抗は、その発言に激怒し否定するべきである。けれど、出来なかった。彼の言い分が正論である。自分とて、とうの昔に、その結論に辿り着いていたのだから。
「今ならまだ、降伏を選択することも可能です」
やはり、陸抗は首を横に振った。孫呉にはもう滅亡の選択肢しか残されていない。羊祜よりも強く、陸抗の方がそう確信していた。
「孫皓陛下がそれを望まないでしょう」
「それを説得するのが君の役目ではないのですか」
羊祜の弁に熱が籠る。他国の行く末をここまで真剣に案じてくれる羊祜こそ、優しすぎる。陸抗はそう思ったが、それを言葉にはしなかった。
「それが叶うのならば、とうに実行している」
主は陸抗の声になど耳を貸さないだろう。陸抗はそれを悟ったのは、もはや随分と過去のことだった気がする。
「あの人は王たる器ではない」
「そんなことは解っている」
「では、何故」
中華全土はおろか、孫呉の地さえ治めるほどの能力はない。恐らく、陸抗に限らず、孫呉の民の大半が主に対してそういう評価を下していただろう。けれど―――
「―――それが我らの信じる主だから」
切り捨てることなど出来なかった。否。そのような選択肢など、最初から無かったのだ。
名君でないからすげ替える。暗君であるから降伏する。そんな容易に割り切れるならば、積年の陸家が信じ、守り抜いた孫家への忠義とはなんだったのか。
「貴方は私を愚かと笑うだろう。だが、それが陸家の誇りであり。それが陸幼節だ」
共に滅びを選ぶことが真に忠義なのか。一切の迷いがなかったと言えば、嘘になる。だけど、最後に残った想いは一つだった。
孫家の現当主への恨みも憎しみも、悲嘆も絶望もない。そこにあるのは孫家への、孫呉への愛のみ。
「だから、説得は無意味だ。お引き取りを」
羊祜はそれを優しさと称したけれど、やはり陸抗は違うと思う。きっと、これは自分の甘さなのだろう。将としては失格だろうか。
「いいえ。解っていました。何もかも」
怒るでもなく失望するでもなく、羊祜はそれでも笑っていた。その微笑みには、少しの翳りもなくて。余りの美しさに、陸抗は思わず見惚れた。
「そういう君だからこそ、私は惹かれた」
「何を言って……」
一歩、羊祜が歩み寄って、そっと陸抗の手を取る。陸抗はそれを拒まなかった。拒む暇さえ、羊祜が与えてはくれなかったとも言える。
「好きです、幼節」
陸抗は面食らったかのように黙りこくった。あまりに突拍子もない告白が、平時は乱れることのない陸抗の冷静さを容易に崩す。
「多分、それは君が孫呉を想う気持ちと同じ」
せめて、動揺を面に出すまいと陸抗は表情を無にした。が、恐らく、それは徒労に終わっただろう。
「……いいえ。少し、違うかもしれない」
手の皮膚から伝わる体温の上昇に、羊祜は気付いていただろう。その指先が手のひらを撫ぜただけで、陸抗の心臓は大袈裟なくらいにドクンと跳ねた。
「だから、君を失わずに済む方法がわずかでも有ったならば。……と思ったのだけれど、やはりダメでしたか」
残念そうに笑う羊祜の微笑みは、先ほどまでの屈託のないものに比べれば、随分と悲しい顔に見えた。彼が自分を想い、その表情に陰を落としているのだと思えば、陸抗の胸はきゅうと詰まる。その感情がなんであるか知らぬほど、陸抗は鈍感でもなかった。
「私は―――」
「君が孫呉の滅びを受け入れたように、私も君の滅びを受け入れましょう」
何かを言いかけて、けれど、陸抗は何を伝えようとして唇を開いたのか、自分でも分かっていなかった。そして、その声は羊祜の決意に掻き消される。
「君の望む君の姿で見送ることが、私に与えられる最後の愛です」
自分とは比べ物にならないほどの潔さ。陸抗が悩み苦しみながら至った領域に、彼はいとも簡単に足を踏み入れていた。それが愛だと、疑うこともしないで。
「一度でも、君の顔を見ることが叶った。それだけで、本日ここに来た甲斐はあった」
名残惜しさを欠片も見せることなく、羊祜は陸抗の温もりを手放す。むしろ、名残を惜しんだのは自分の方だった。無意識に、指先が彼の手を追う。
「これであの世で再会しても、君を見つけられるから」
そう言い残して、羊祜は再び笠を目深に被り直す。そうして、くるりと陸抗に背を向けた。これが今生の別れである。言葉として告げられずとも、誰だって理解できた。
「待って下さい!羊祜殿―――!!」
咄嗟に呼び止めていた。既に感情は止めどなく溢れて、陸抗の胸の内に抑えることなど不可能になってしまっていた。
「それでは、私が貴方に何も返せていない」
羊祜は弾かれたように振り返って、少し驚いたように目を丸くして陸抗の顔を見た。彼の表情を変化させたのは、紛れもなく陸抗であった。自分の表情を崩した者が羊祜であったように。
「ふふ。その言葉だけで充分です」
また、羊祜は微笑む。その笑顔を知ったのは、つい今し方のことだったはずなのに。もう二度と、その顔を目にすることが叶わない未来を陸抗は悲嘆した。
「そう思って頂けるということは、君にも同じ想いがあるということだ。それだけで、私は報われている」
何故、こうもあっさりと割り切ってしまえるのだろうか。到底、心のある人間の言動とは思えない。なのに、羊祜は誰より表情豊かに感情を見せた。だから、陸抗はより戸惑うのだ。
どんなに毅然と振る舞おうとて、陸抗は冷徹になどなりきれはしない。想いを断ち切り無を装っても、所詮は偽りでしかない。本心は違う。
「だが、私は貴方を選ばなかった」
出来ることならば、孫呉と彼のどちらかを切り捨てることなどしたくはなかった。もし、わがままが叶うのならば、そのどちらも我が未来に残したい。
そう願いながらも、陸抗は孫呉に殉じることを選択した。今ここで、羊祜の手を取ることだってできたのに。どちらかしか、この手に掴むことは許されないから。
「それは違う」
そんな陸抗の複雑な胸中をも見透かしたように、羊祜は力強く否定の言葉を口にした。
「君の選択し歩んだ道には、確かに私が存在した」
羊祜が晋の将であり、陸抗が呉の将である限りは、共に歩む未来はない。しかし裏を返せば、羊祜が晋の将であり、陸抗が呉の将であったからこそ互いに出逢う現在があったのだ。
「その結果がどうであれ、私たちの道が交わったことが、既に意味のあることだ」
「叔子、殿……」
肩を並べ共に歩み、言葉を交わして微笑みあう。そんな未来でなければ、愛していたとは言えない。そう思い込んでいた陸抗へ、羊祜が教えてくれたのだ。それだけが愛ではないことを。
「だから、どうか苦しまないで」
優しすぎるのは貴方の方だ。と、陸抗はまた心の中でのみ呟いた。
悲嘆の内に彼と訣別することこそが、自分への罰だと思っていた。なのに、羊祜はその苦悩さえ消し去ってくれようとするのか。
「……ひとつだけ。ひとつだけ、貴方に伝えさせて欲しい」
「はい」
「選んだ未来と選ばなかった未来と。どちらが大事という優劣などない。どちらも比べようのないくらい、大切なのだ」
堅苦しい台詞しか吐けなかった。もっと甘い言葉で、同じ意味の想いを告げられたならば。そんな陸抗の後悔を他所に、羊祜は寸分違わずこちらの意図を汲む。
「……はい、私も。君を深く愛している」
真っ直ぐで混じり気のない、愛の言葉。まるで、彼の柔らかな髪の色のように真っ白だ。故に、怖い。触れるのが。
「だから、君の心の闇は私が全て払いたい」
自分のような人間が羊祜に触れてしまったら、白く美しい彼が穢れてしまうのではないか。そんな不安が陸抗を襲う。
しかし、陸抗の胸中を知ってか知らずか。羊祜は再びこちらへと腕を差し出すのだ。その手に、指に、触れて良いものだろうか。迷う心のまま、陸抗は唇を開く。
「私も―――」
すると、どうだろうか。陸抗の思惑などさて置いて、すらすらと台詞が口を突いて出た。あたかも、それが自分の心からの望みであるかのように。
「―――いつか、貴方と共に私も歩みたい」
切なる願いを言葉に託す。今の自分はどんな顔をしているのだろうか。表情の作り方さえ分からなくなった陸抗は、それを彼の反応で推測するしかなかった。
「ええ。いつか。必ず―――」
羊祜は笑っていた。屈託のない笑顔で。しかと握られた互いの手。そこに伝わるのは確かな温もりのみで、穢れも闇もない。
ああ。それとも、羊祜の白き光の方が強すぎるだけなのだろうか。陸抗の闇を払ってしまえるほど。そんな想像を巡らせながら、ひと時だけ、陸抗は瞳を閉じた。友と手を堅く繋いだまま―――
―――わずかな不安と共に、頑丈な鉄格子の門を開く。甲高く明るい声が耳を楽しませてくれる。沢山の子らが駆け回る中で、けれど、我が子を見つけるのは容易かった。
「ままっ―――!!」
母より先に、息子の方がこちらに気付き喜色めいた叫び声を上げた。その表情は、こちらの不安を掻き消すほど満面の笑みで。母はホッと安堵する。
「コウちゃん。初めての幼稚園どうだった?」
「んー?たのしかったあ!」
母の足元まで息子は駆け寄り、その膝をギュッと抱いた。
今日は幼稚園デビューの日。人見知りの息子が、幼稚園に馴染めるか不安だったのだが、どうやら問題はなかったらしい。
「こうちゃー!」
すると、少し遠くで、可愛らしい声が息子の名を呼んだ。ここの園児の一人らしいが、母の知らない子供だった。
髪も肌も色素が薄い。瞳の色も蒼に近くて、異国の血を感じさせる。その男の子は、こちらに手を振りニコリと笑った。
「……あら。もう、お友達ができたの?」
母は嬉しく思いつつも、少しだけ意外に感じた。息子が人見知りをせずに遊べる友達は、母の知る限りただ一人。お隣さんの幼馴染の男の子。偶然にも、息子と名前の読みが同じだった。
「うんん」
息子は母の問いかけを、ぶんぶんと大袈裟な首振りで否定した。
「お友達じゃあないの?」
しかし、その言葉も同じく否定する。まだ幼い子とは、意思の疎通が難しく、こうして会話が噛み合わないことは珍しいことではなかった。
「ずっと、ともだち」
「ずっと……?」
「うん!」
満面の笑みで我が子は答えた。対照的に、母は首を傾げる。ずっととは何時のことを指すのだろうか。あんな印象的な男の子、一度見れば忘れることなど無いはずなのに。けれど、やはりその子に見覚えはないのだった。
「ずっと、ずっと、いっしょなの」
幼子にしてはやけに真剣な眼差しで、息子は訴えかけるように言う。その真意を理解するのは、母には少々難しかった。
「そっか。良かったねえ。コウちゃん」
「……うん!」
息子の喜びに共感し、肯定する。今の母にできることはそれくらいだった。今はまだ、そのずっとの答えは彼の中にしか無い。
いつの間にか、あの異国風の男の子がすぐ傍に寄って来ていた。その手はギュッと、息子の手を堅く握り締めていた。まるで今日、この時の別れさえも惜しむように。
「またね」