ジノとリヴィウィエラが出会ってからの話。続きます。
@harunoyoiyami
夢を見た。もう今ではあまり覚えていない、子供の頃の夢だ。
就学年齢になる頃にはもう、ほとんど常にベッドに臥せっているような生活だったから、外を遊び回った記憶はそれよりも前のものしかない。小さな自分と、更に小さな妹。両親と、叔母夫婦と、従妹が一人。どこかに出かける時は何故かいつもこの組み合わせで、当時は疑問に思ったことはなかったが……今考えてみれば初めからどちらの夫婦も、もし自分たちに何かあった時のことを想定していたのではないかと思う。誰かがいなくなっても、残った皆で支え合うことが出来るように。その想定は杞憂で終わらなかったから、先見の明があったと言うべきだろうか。
夢の中で、自分は一人ぼっちで病院のベッドに横になっていた。体中に管が繋がっていて、身動きひとつ自由にはならない。当然家には帰れないし、家族と会うこともなかなか出来なかった。毎日毎日、孤独ばかりが募る。何かを望むことすら出来ない中で、それでも、死ぬのだけは嫌だと思っていた。
どこにも行けずにいるその姿が、小さな子供の外見から徐々に大人へと成長していく。やがて、今の自分と全く同じ姿へと変わった。自由に動ける体を手に入れたはずなのに、それでも結局はどこにも行けない。管に繋がれ、誰にも会えずに、ただ真っ白なベッドの上で朽ちていくしかない自分がそこにいる。こちらを恨みがましく見つめている。
けれども、そうだとしても、絶対に……死にたくはないのだと。
――さして柔らかくもない寝台の上に仰向けに横たわって、ジノはぱちりと目を開いた。一瞬どちらが夢だったかわからなくなって、どちらにせよ結局は、自分の望む現実ではないことに深く溜め息をつく。精神的な疲労感は手足を重くさせたが、不思議なことに未だにエネルギーを補給する必要はないようだった。空腹感どころか、喉の渇きすら感じない。
「……これも、別の世界とやらに来たせいだってことなのかね」
はは、と乾いた笑いが漏れるも、誰もいない空間では虚しく響くばかりだった。部屋は先程までと変わらず明るいのだが、さほど眩しくは感じない。光源がどこにあるのかわからない、不思議な部屋だ。
出入り口は閉じられてしまったから、外には出られそうもない。むしろ有り難いと思えた。もし一人で自由に動けるようだったなら、耐えられずに外に飛び出してしまっていたかもしれない。
再び目を閉じてみても、もう一度眠れそうにはなかった。軽く反動をつけて、寝台の上に身を起こす。どうしたものか、と考えてみたが、答えは見つからなかった。どうにもならない、と頭の中で妙に冷静な声が聞こえる。
別の世界、とはそもそもなんだろうか。それはどこにあって、どうやって存在しているのだろう。物理学の発展によって我々の認識出来る以上の時空が存在することは証明されつつあるらしいが、難解なことは門外漢にはさっぱりわからないし、そもそもそういう話でもないような気がする。今ジノが体感しているのはもっと荒唐無稽で、嘘のような――そう、言うなればフィクションの領域でしか起きないような出来事だ。
エレベータに乗ったと思ったら、気がついたら空から落ちていた。辿り着いたのは巨大なクレーターの中心で、他には何も存在しない。減らないエネルギーに、ガラスのように砕ける建物。三つの月と、殺してしまったのに生きていた子供。全部創作物の中にのみ存在しているべきで、それが現実を侵食してくるなんてことを、誰が信じるというのだろう。
「……マジで、夢なら今すぐ目覚めさせてくれ」
脱力して、寝台に再び横たわる。顔にかかる髪を手で払って強く目を閉じ、ふと思う。それとももしかしたら、つい先程の夢の方が、或いは本物なのではないだろうか。『現実』の自分は今もあの時のままで、叶わない願望を持て余して、自由に動ける体を手に入れた夢を見ているだけなのでは……?
「――ッ!」
ぞわり、背筋に悪寒が走って、跳ねるようにジノは体を起こした。立ち上がり、咄嗟に寝台から距離を取る。嫌だ。そんな『現実』を想像するくらいなら、わけのわからない世界に来てしまったことを受け入れる方がいくらもマシだ。幸い一人きりで放り出されていた状況からは抜け出せたし、こうして気を休める場所もある。少なくとも、何もわからずに彷徨っている時よりはずっと良くなったと考えていいだろう。
何より生きているのだから、ジノにとってはそれが一番大切なことだった。正直なところ、まだ全てを受け入れられるとは到底言えない。だが、死んでしまうよりはずっとマシだ。生きてさえいれば、どうにかなるはずだと自分に言い聞かせる。
「……とりあえず、明日、だな」
明るかった時間があり、夜があるということは、そのうち朝が来るということだろう。そう当たりをつけて、ジノは壁に背を預けると床の上に座り込んだ。どうも今は、再び寝台で寝る気にはならない。嫌な記憶ばかりが蘇り、遮るように頭を振る。余計なことを思い出すより、考えなければならないことは山程あるはずだ。
夜が明けたなら、あの二人とまた会うことになるだろう。そうしたら今度こそ、いろいろと尋ねたいことがあった。ここが本当に自分の知らない世界なのか、本当に帰れないのかどうか確かめなければならない。二人が知らないだけで、何か方法があるかもしれないのだから。手を拱いている暇はない。
緩く目を閉じて、抱えた膝頭に頭を預ける。目を閉じて人工心臓の駆動音を数えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。今度は、夢は見なかった。
***
「気がついたか、君。随分長く寝ていたから、どこか悪いのかと心配していた」
次にジノが目を覚ました時、すぐに頭の上から声が降ってきた。どうやら横になっているようで、頭を動かさずとも、少年がこちらを覗き込んでいる顔が見える。
「……リヴィウィエラ、だったか」
「ああ、覚えているんだな。意識に問題はないみたいだ。よかった」
安心した、と言いつつ、リヴィウィエラは特に表情も変えずに姿勢を正して一歩離れた。知らないうちに、小さな椅子のようなものが寝台の脇に置かれていて、彼はそこに腰を下ろす。はて、と疑問符を浮かべつつ、ジノものろのろと体を起こした。部屋の窓が開けられていて、眩しい……とはとても言えないが、夜に比べればずっと明るい光が差し込んできている。
「ああ……もう、朝なのか」
「いや、今はもう日が隠れる頃だ。もうすぐ夜になる」
「……――えっ!?」
リヴィウィエラの言葉に、ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。驚きのまま勢いよく体を起こすと、反動でぐらりと頭が揺れる。
「う……っ」
「無理をしない方がいい。丸一日以上寝ていたのだから」
「ま、丸一日!? そんな、まさか……」
「本当だ。最初の夜に、ここで話した後に眠ってしまっただろう? 夜が明けてから、一度様子を見に来たんだ。その時にはまだ眠っていたから、起こさずにおいたんだが……ずっと待っても目を覚まさなかった」
「は、……ええ……嘘だろ……」
「わたしは君がどういう生き物なのか知らないから、そういうものなのかと思っていたんだが……その反応を見ると違ったみたいだな」
「そ、そうだな……。普段は、そんなこと絶対ないんだけど」
無意識に、開かれている窓の外に視線を向ける。赤みがかった金色の日の光は、どうやら朝日ではなく夕日であるらしい。ゆっくりと手を動かしてみたが、さほど機能に問題はないようだった。改めて、椅子に座っているリヴィウィエラに向き直る。
「そういえば、ベッドで寝た記憶はないんだけど……運んでくれたのか?」
「ああ、何故か床で寝ていたな。窮屈そうだったし、起きなかったから運ばせてもらった。人間用にと思って用意したんだが、寝心地がよくなかったか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。そっか、手間をかけさせたかな」
「大したことじゃない、大丈夫だ。……ああ、そうだ、忘れていた。これを」
ふと体を屈め、リヴィウィエラは側に置いてあった器を取り上げた。彼の両手でちょうど持てる大きさの、丸い器だ。ついと差し出されたそれをジノが反射的に受け取ると、中には液体が入っていた。無色透明で、特に何の匂いもしない。
「……水?」
「喉が渇いているんじゃないかと思って。一応、一番綺麗なものを汲んできたんだが……君に合うかわからないから、飲むかどうかは任せる」
「あー……そうか。体に合わないとか、そういう可能性もあるのかな」
任せると言われても、こういう状況で飲まないという選択肢はないように思えるが……飲まなかったとしても、恐らくリヴィウィエラは気にしないのではないだろうか。出会ったばかりで為人など全く知らないのに、どうしてかそう思えた。
改めて、ジノは器に顔を近づける。やはり匂いもなく、透き通った水には目に見えるような不純物もない。とはいえ完全に溶けていたらわからないし、水自体の成分が自分の知っているものとは全く異なる可能性もあるが、もし異変を感じるようなら飲み込まずにおけばいいだろう。
じっと見つめられながら、水を一口含む。しばらく飲み込まずに待ってみたが、舌にも口腔粘膜にも特に何の異常もないようだった。刺激もなく、味らしい味もない、本当にただの水だ。よく冷えていて、鼻の奥で微かに青い植物のような風味を感じる。
「大丈夫そうか?」
リヴィウィエラが尋ねるのに、頷くことで返す。思い切って飲み込んで、小さく息をついた。
「……うん、問題ないみたいだ。冷たくて美味しい」
「そうか。それなら、よかった」
どうやら大事な確認事項であったらしい。大きく頷くリヴィウィエラを見ながら、ジノは続けて水を飲む。喉は渇いていないと思っていたのだが、実際に一口でも飲んでみると、まるで染み渡るように活力が漲るのを感じるから不思議だった。煽るように器を傾け、一気に飲み干して再び息を吐き出す。
「はあ……なんか、生き返った気分だ」
大袈裟なようだが、本心でもあった。喉を潤したことで、精神的にも落ち着きを取り戻したような気がする。ジノの様子を見て、リヴィウィエラも僅かに表情を緩ませた。
「この水で問題ないなら、また汲んでこよう。飲めるものがあってよかった」
「……なんだか、悪いな。いろいろ手間をかけさせて」
口振りからして、どうやらこの水はどこかからわざわざ持ってきたものであるようだ。少なくとも、蛇口を捻れば水道から出てくるようなものではないことは間違いないだろう。眉を下げてジノが詫びると、器を受け取りながらリヴィウィエラは不思議そうに首を傾けた。
「手間だとは思っていない。君はここのことを何も知らないのだから、知っているわたしが動くのは当然のことだ」
「うーん……まあ、そうかもしれないけど」
「それとも君は、何もわからない人間を拾っても手助けをしたりはしないのか? そういう慣習があるのだったら、そちらに合わせるのも出来なくはないが……」
「えっ!? あ、いや、そういうことじゃないんだ。……でも、そうか。そう言われると、当然なのかもな……」
難しい顔をするリヴィウィエラの反応を見て、慌てて否定の声を上げる。改めて言われてみると、確かに自分はこの世界の右も左も分からないのだから、助けてもらうことは何もおかしなことではないのだろう。何しろ自分が未だにどこにいるのかもわからず、もちろんどこに行けば水が手に入るのかなんてわかるはずもない。どうしてか補給が必要ない状態になっているから助かっているが、そうでなければいずれ飢え渇いて死んでしまっていただろう。
「迷惑だったら言ってくれ。なるべく関わらないようにさせてもらう」
「いや、全然、迷惑なんてことはないんだ。ただその、俺のことばかりに手を煩わせるのは悪いなと思って」
いろいろと忙しいだろうに、突然現れたものの世話をさせてしまって申し訳ないと思う。迷惑に思われているのは自分の方だろう。だがジノの予想に反して、リヴィウィエラはふと悲しそうに目線を伏せた。表情の変化は一瞬だったが、酷く落ち込んだようなその様子がやけに気にかかる。何か、悪いことを言っただろうか。
「悪いと思う必要はない。君のような存在を管理するのもわたしたちの役目だし、どのみち他にはもう、特にやるべきこともないから」
「……そう、なのか?」
「そうだ。だから……君には悪いが、関わりを持たないとしても、完全に自由にしてもらうというわけにはいかない。その代わり、出来る限りの身の安全は保障する。それで納得してもらえないだろうか」
「……なるほど」
管理、という言葉から察するに、告げられた内容はある程度当然のことのように思われた。何しろ初対面で殺されかかったのだから、ジノはリヴィウィエラにとってそれほどの危険物である可能性があったわけだ。幸いそうではないと認識されたようだが、だからと言って野放しに出来るというわけでもないのだろう。別の世界から落ちてきたものだという前提で考えれば――それ自体があまりにも荒唐無稽な状況であるということを除けば――理解出来ないことではない。
「ちなみに、どの程度なら自由に出来るんだ? この部屋の中くらいか?」
「いや、行動は好きにしてくれて構わない。この部屋は君以外には使わないから、ここでずっと過ごしていても問題ないが」
「好きなところに行ってもいいのか?」
「行ってほしくないところには、そもそも行けないようになっているからな。必要になれば、君がどこにいるのかはすぐに見つけることが出来るし」
「まあ、それはそうか」
セキュリティ上、部外者を立ち入らせたくないところも当然あるだろう。こちらとしてもうっかり侵入してしまいたくはないから、その方が有り難い。了承を示すと、リヴィウィエラが一つ頷いて、続ける。
「それから……あまり勧めないが、『上』に行くことも出来る。その場合は君だけでは行けないから、わたしが同行することになるが」
「ああ、それで構わないよ。一人でいるより話し相手がいた方がよさそうだ。……ところで、聞いていいか?」
「なんだ?」
寝起きの衝撃が強すぎて忘れていたが、朝になったら聞きたいことがたくさんあったのだ。ジノはふと窓の外を見る。少しずつ暗くなり始めている空は、本当に夜の到来を告げていた。信じられないことだが、寝過ごしてしまったことは仕方がない。いちいち悔やんでいるよりも、これから先のことを考えるべきだろう。幸いリヴィウィエラは時間があると言う。こうなったら思いきり迷惑をかけるつもりで、長い話に付き合ってもらおう。
「根本的な質問で、悪いとは思うんだが……ここは結局、どこなんだ?」
***
「あまり手入れが出来ていないから、荒れていてすまない。こっちが中央だ」
先を行くリヴィウィエラの少し後ろをついて歩きながら、ジノは首を巡らせて周囲を観察した。長い廊下は馴染みのない建築様式で、どこも同じ材質の石を組み合わせて作られている。歩く度にパリパリと音がするのにも、少しずつ慣れてきていた。
夜が明けてからリヴィウィエラがジノを連れ出したのは、部屋の外にある空間だった。建物の一部である廊下は大きく長く、彼の言う『中央』に向かって伸びているらしい。面白いことに廊下には屋根はあっても壁がなく、腰の高さほどの柵がその代わりを成していた。
「崩れたりはしないだろうが、あまり端には寄らない方がいい。君は落ちたら死んでしまうだろうから」
「……ああ、そうだな……気をつけるよ」
事も無げに言うリヴィウィエラに、ジノはひくりと唇の端を震わせて頷いた。足取りが重くなるのも無理からぬことだ。独特の浮遊感を思い出さないように努めながら、長い通路を歩く。
建物が宙に浮いていることにジノが気づいたのは、部屋を出てしばらく経ってからのことだった。壁のない廊下の向こうには、宙に浮かぶ別の廊下が見える。リヴィウィエラの話では『中央』から放射状にいくつも廊下が伸びており、廊下に繋がるように少数の部屋が接続されているらしい。そしてそれらの全てが、他に支えるものもなく中空に浮いているというのだ。
「道理で、見晴らしがよかったわけだ……」
なるべく外は見ないように、ジノは遠い目で廊下の先を見る。窓から空がよく見えるのは当然のことだった。何しろ、遮るものが何もないのだから。
「もう少し、見るものが多ければよかったんだがな。昔はこの辺りにも、もっといろいろとあったのに」
「そうなのか。……確かに少し、寂しい景色ではあるな」
リヴィウィエラの言葉に、改めて周りを見回してみる。空はよく見えるが、逆に言えば空しか見るものがないとも言えた。真下にある地面は酷くゴツゴツとした岩山で、奇妙に尖った岩が連なるそこはまるで大きな棘が敷き詰められているようだ。そうして山なりに少しずつ高さを増していく岩が、『中央』付近に向かうにつれて本当に針のように細くなっていく。目の前に聳えるものを見上げて、ジノは再度大きく息をついた。
「それにしても……本当に、すごい大きさだなあ」
「そうだろう。何しろ、頂上が見えない程だからな」
このことに関して語る時、リヴィウィエラは他のことよりもずっと明るい声音で話す。それがなんだか微笑ましく思えて、ジノも小さく笑みを浮かべた。
長く伸びた廊下の先には、彼らが『中央』と呼ぶ建物がある。そしてその建物は、巨大な岩山の一部にへばりつくように存在していた。
それは、今その場にいるジノの目には巨大な岩にしか見えなかった。全周がどれほどあるのかもわからない大きさで、説明されなければ聳え立つ断崖にでも見えたかもしれない。だがリヴィウィエラが言うには、それは天を貫くほどに高く聳える山なのだという。そしてこの山こそが、かつてジノがこの地に落ちた時に最初に目印とした、あの正体不明の『糸』であるというのだから驚きだ。
「まさかあの細い糸が、こんなにでかい山だったとは……」
「わたしとしては、君がここを糸だと思った方が不思議だ。どこからどう見ても山だろう」
「でも、ずっと遠くから見たら細い糸に見えるだろ? しかもあんなに長いのに、まさか山だとは思わないよ」
「……そういうものかな。確かにあの丘は、ここからはかなり離れているが」
振り返ったリヴィウィエラが立ち止まり、小さく眉を顰めて廊下の外の一点を見据えた。同じ方向に視線を向けるが、ジノの目には何も見えない。ゴツゴツと荒れた岩が立ち並ぶその向こうには、広大な大地が広がっていた。地平線が見えるということは、この世界は一応球体であるのだろうか。或いはジノの知る世界とは全く違う、平面の大地を持っている可能性も否めないが。
「俺が落ちたのは、どの辺りなんだ?」
ふと思い立って問いかけると、リヴィウィエラの指がスッと真っ直ぐに大地の一点を差した。現在地の高さがありすぎて、地上の地面の起伏はどうにもわかりにくいが、話によるとクレーターと化していた場所は元々は小高い丘だったらしい。
「……ああ、なんとなく……見えるような、見えないような」
「もっと上空からの方が、はっきり見える。ここからだと、少し角度が悪いな」
「まあ、そうだよな。この山があれだけ細く見えたんだし」
納得して頷くと、隣からの視線がじっとジノを見つめてくる。他に何か質問はあるかと、目で訴えられているのはわかっていた。あまりに真っ直ぐに見てくるので、つい狼狽えてしまうほどだ。
昨夜、ここはどこなのかと尋ねたジノに対して、リヴィウィエラが返したのは「朝になったら」という一言だけだった。そうしてその言葉通り、一晩放置されたかと思えば夜が明けてすぐにこうして連れ出されたわけである。最初は意味がわからなかったが、目についたものを片っ端から説明していくリヴィウィエラの姿を見ていて、すぐにジノも意図を察した。要するに、直接周囲のものを見せながらこの世界のことを教えてくれるつもりであるらしい。
ここはどこか、この世界は何なのかと問うたところで、そもそも何が存在しているのかすらも満足に知らないのだから、リヴィウィエラのやり方は理にかなっているのだろう。効率は悪いかもしれないが、目の前の現実を理解するのには適した方法であるように思えた。
「……本当に、俺の全然知らない世界があるんだな」
本心を言えば、まだどこかで、騙されているのではないかと思う気持ちがあった。壮大な作り物の中に押し込められているだけなのか、或いは全てが想像の産物でしかなく、ただ幻覚を見ているだけなのかもしれないと。だがリヴィウィエラがこの世界のひとつずつをいちいち説明する度に、それらは奇妙な存在感を持ってジノの中に現実として織り込まれていくのだった。疑う余地は、最早ないように思われた。残っているのはただ、自分がそれを認めたくないという気持ちだけだ。
「……参ったなあ」
思わず呟く。完全に忘れていたが、そういえば自分がこんなことになってしまって、元の世界では一体どういう扱いになっているのだろう。無意識に、上着の内側を片手で探る。全くの別世界に落ちたのに、身につけているものがそのままなのは幸いだった。裏地に縫い付けてある内ポケットの中を指先で触って――背筋を凍らせる。
「……え? ……あれ……?」
「? どうした?」
隣で見ていたリヴィウィエラが首を傾げた。だが、慌ててばたばたと上着のあちこちを叩いているジノの耳には入らない。焦りの為に、冷や汗が額を伝って落ちる。
無い。絶対に失くしてはいけないものが、常に所持しているはずのものが、いつの間にかどこにも無くなってしまっていた。自分の状況が異常で、そればかり気にしていたから忘れていたが――もし帰れるとしてもあれが無ければ、どういうことになるかわかったものではない。
「……もしかして、何か、失くしたのか」
ぽつりと呟かれた言葉に、ジノはハッとしてリヴィウィエラを勢いよく振り返った。驚いたのか微かに揺れた両肩を、がしりと掴む。
「リ、リンクスは!? 俺の、リンクス! 見なかったか!?」
「り……? ……すまない、わからない。どういうものだ?」
「身分証だよ! これくらいの小さい、カード型の……あれがないと、死んでるのと同じだ! マジかよ……!」
指で長方形を作って大きさを示す。ちょうど手のひらに乗る程度の大きさのそれは、リンクスと呼ばれる個人用の識別票だった。全国民に対して出生と同時に発行されるもので、身分証としてだけでなく様々な機能が搭載されており、それがなければ社会生活が営めないと言われるほどだ。
「……すまない、わたしは見覚えがない。君をここまで運んだのはレゼだから、確認してみようか」
「そ、そうだな。もしかしたら、拾ってくれてるかもしれないよな……」
「ああ。だから、元気を出してくれ」
行こう、と促され、急ぎ足で廊下を進むリヴィウィエラの背中を追う。もう一度胸元を押さえてみたが、やはりそこには何もない。本当に失くしてしまったら、面倒では済まないほどに厄介なことになる。最悪の事態を考えて、ジノは深く深く溜め息をついた。
***
「ううん……済まないな。残念だが、そういったものはまるで見覚えがない」
困ったように眉を下げて、レゼはそう言った。出来れば聞きたくなかった返答に、ジノががくりと肩を落とす。慰めるようにリヴィウィエラの手がジノの背中に触れた。そうしながらもう一度、改めてレゼに問う声が聞こえる。
「大事なもののようなんだ、レゼ。本当に心当たりはないのか?」
「ああ、流石に外のモノであれば、見ればわかるとも。心苦しいことだが……ない、としか言えんな」
「そうなると……『上』で落とした、か?」
「かもしれん。だが、だとすると厄介だぞ。拾いに行くなら早くすることだ。あの辺りはとみに侵食が速い」
「そうだな」
項垂れるジノを横目に、二人は何やら話し込んでいる。やがて結論が出たのかリヴィウィエラがジノに向き直り、励ますように片手を差し出した。
「……リヴィウィエラ?」
「大丈夫だ。落としたなら探して拾えばいい」
「それは、そうだけど……見つかるか?」
「君が通った場所は大体把握しているからな。一応、レゼにも探してもらう。一先ず、わたしたちは『上』に行こう。どちらにせよ、早くしなければならないし」
「……? ああ、わかった」
言葉の端々に要領を得ないながらも、ジノは頷いて促されるままにリヴィウィエラの手を握り返した。――瞬間、ぶわりと嫌な浮遊感が身を包み、背筋がぞわりと戦慄く。
「え、」
「少し、気分が悪くなるかもしれないが、我慢してくれ」
「は、え?」
手を繋いだまま、目の前にいるリヴィウィエラが片足で軽く地面を蹴る。蹴った、と思った直後、視界が急激に反転した。ぷつりと意識が途切れる瞬間、ひらひらと片手を振るレゼの姿が見えた。
――気を失っていたのはほんの数秒のことだったらしい。次に目を開いた時、ジノは見覚えのある地面の上に立っていた。ぐらりと強い目眩を感じ、ふらついた体を支えるように反対側に腕を引かれる。見れば、手を繋いだままのリヴィウィエラがそこに立っていた。大きな目が、気遣わしげにジノを見つめる。
「平気か。急ぎだから最短距離で来てしまった。体調が悪くなるようだったら言ってくれ」
「……うう、大丈夫だ、何とか。……っていうか、ここは」
くらくらする頭を落ち着かせるように、額を空いた片手で押さえる。どうにか周りを見渡すと、そこはジノがこの世界で最初に見た、あのクレーターのある場所だった。エッジ付近から穴の中を見下ろす位置に立っている。一体どうやって、いつの間にこんな場所に来たのだろう?
「……俺、そんなに長く気を失ってたか?」
「いや、ほんの少しの間だと思うが」
「本当に? ……どうやって、ほんの少しの間でここに来たんだ?」
「門を通るのが正規の方法だが、急がなければいけないからな。直接飛んできた」
「と、飛んで……? あ、いや、いい。もう説明してくれなくて大丈夫だ」
理解出来ない領域の話を詳しく解説されても、更に混乱するだけだということは既に身に染みていた。細かいことは置いておいて、とにかく今この場所に戻ってきたことは間違いないようだ。
この場所から始まったのだから、落とし物をしたとしたらここから探すのが妥当だろう。穴の縁から中心を見つめ、リヴィウィエラを振り返る。
「降りてみても大丈夫かな」
「ああ、問題ないと思う。でもあまりあちこち触らない方がいい」
「わかった」
理由はわからないが、触るなと言われれば触らないでいる方が賢明だろう。傾斜で転ばないように気をつけながら、ジノは危なげない足取りで滑るように穴の中に降りた。後を追うように、リヴィウィエラがひらりとすぐ近くに飛び降りる。
「……身軽なんだな」
「そうか? 君よりは軽いのは間違いないだろうが」
「そういうものかな……まぁ、いいか。確か、この辺りで目が覚めたんだったと思うんだけど」
だんだんと細かいことを考えない癖がついてきたように思う。足元の地面がパリパリと音を立てるのを聞きながら、穴の中心に向かって歩く。
「……ここにはないか」
細かく見て回るまでもなく、そこに探し物が落ちている気配はなかった。何しろ地面以外には何もない場所なのだ。小さな石などは転がってはいるが、物陰になるほどの大きさのものはないので、どこかに隠れて見えないということもないだろう。
「小さなものなのか?」
「うん、俺の手に乗るくらいの大きさだよ。ただ色は黒いから、その辺りに落ちてたらすぐわかりそうなんだけどな」
付近を見回しているリヴィウィエラが問うのに、ジノは再び指でカードの形を示してみせた。周辺の地面は一面が白っぽい色をしているから、紛れて見逃すようなことはなさそうなのだが。
「歩いている途中で落としたのかもしれないな……」
「なら、進んでみよう。ここには見当たらないようだ」
そう言うと、リヴィウィエラは降りた時と同じように身軽な動きで傾斜を登っていった。急いでジノも後を追い、クレーターの縁まで上がってから、ふと思う。
「なあ、リヴィウィエラ。もしかして、誰かに拾われたってことはないかな」
振り返ったリヴィウィエラは、訝しげにジノを見上げた。
「まさか。この辺りにはもう誰も生きていないし、近づく者もないはずだ」
「そうなのか? でも……」
記憶を探る。確かにここで、誰かに会った気がするのだが。自分自身も混乱の渦中であったからはっきりと覚えているとは言えないが、人と会ったことは間違いないと思う。
「……いや、まあ、そうか。わからないけど、そういうことなら先に進もう。日が暮れる前に見つかればいいんだけど」
「ああ、急いだ方がいい。早くしないとわからなくなるかもしれない」
妙なことに、思い出そうとするとどんどん記憶が朧げになっていくような気がして、仕方なくジノは考えることを諦めた。もし拾われてしまっていたならどうしようもないが、リヴィウィエラがそう言うのであれば、やはりどこかで落とした可能性の方が高いのだろう。
顔を上げると、あの日に見た『糸』は今も変わらず空の真ん中に存在していた。長大な山なのだと理解はしたが、大きすぎてスケール感が掴めない。一先ず『糸』を目的に歩いたことを思い出しながら、辺りを探しつつ進んでいく。
「ところで、聞いてもいいか? どうして、探すのを急いだ方がいいんだ?」
歩きながら、ずっと気になっていたことをリヴィウィエラに問いかけた。もちろん探し物をするなら早いに越したことはないだろうし、自分としてもすぐに見つけ出したいのは山々だが、どうもそういった単純な理由だけではないような気がしたのだ。少し先を歩いていたリヴィウィエラが視線だけを向けてくる。
「大事なものなんだろう?」
「え? ああ、そうだけど……」
「この辺りは侵食が早いんだ。弱いものならすぐに朽ちてしまう。だから落としたものが大事なら、早く見つけなければ」
「う、うーん……?」
説明をされたはずなのに、どうにも要領を得ない。もう何度も同じ状況になっているせいか、ジノが戸惑ったのがリヴィウィエラにもすぐにわかったようだった。こちらはこちらで、困ったように目線を下げている。
「……すまない、なんと言ったらいいのか……」
「あ、いや、いいんだ。説明が難しいこともあるだろうし。俺の理解力がないのが悪いんだ」
「そんなことはない。外から来たのだからわからないことがあるのは当然だ。……そうだな」
しばらく考える素振りを見せて、リヴィウィエラは立ち止まると足元にあった石をひとつ拾い上げた。少し大きめのその石を、ジノの目の前に掲げてみせる。
「……石? これが、どうかしたのか?」
特に、変わったものには見えない。反射的に触ろうとした手は、すぐに遮られてしまった。
「触らない方がいい。……これは元々ただの石だったが、今は侵食されてもうただの石ではなくなってしまった。表面に、罅がたくさん入っているのが見えるだろう」
「罅……」
確かによく見ると、石の表面にはいくつも細かい罅が入っている。ふと気づいて、ジノは足元を見た。それはずっと歩いてきた地面にあるものと、同じもののように見えた。
「侵食が進むと、何もかもこうなってしまう。小さな、弱いものほどすぐに駄目になる。そうなるともう、全く保たない。本来は硬いはずの石も、壊そうと思うだけで簡単に壊れる」
そう言って、リヴィウィエラは石を手で強く握り締めた。途端に、小さな石が手のひらの中でぱきん、と音を立てて砕ける。まるでガラス片のように……いや、それよりももっと脆く儚い様子で、石だったものはあっという間に細かな粒子となって辺りに散ってしまった。手のひらを払いながら、地面を見つめてリヴィウィエラが続ける。
「この辺りは、もうほとんどこんな感じだ。さすがに大地は今すぐ崩れるほどではないが、表面にあるものは恐らく何日も保たない。君が落としたものも、長く置いておけば同じようになる」
「……なるほど。だから、早く見つけないといけないわけだ」
正直なところ、全く理解不能な現象であることには変わりがなかった。だが目の前で実際に見せられたものは、小難しい解説や解釈などより何倍も影響力があるものだ。それに原理が理解が出来なかったとしても、そういった現象があると納得するのは何も難しいことではない。自然界に起きることというのは概ねそんなものだろう、と自分に言い聞かせる。
「でも、そうか。石よりは頑丈だろうから、無事だといいんだけどな」
「外から来た物だから、その辺りはわからないが……君の物だったら大丈夫かもしれないな」
再び会話を交わしながら、歩みを再開した。初日に歩いた道程を辿っているはずだが、同じ道を歩いていると断言することは難しい。何しろどこを見ても変わりのない風景だから、見覚えはないが見たことがないとも言い切れなかった。
リヴィウィエラが先に立って歩いていくので、ジノは周囲を探しながら小さな背中についていく。歩みが速いわけではないから、話をする余裕は十分にあった。
「この辺りには、本当に誰も住んでないんだな」
「ああ。もうずっと前に、誰もいなくなってしまった」
「……もしかして、あのクレーターが原因か?」
「くれーたー?」
知らない言葉だったのか、歩きながらリヴィウィエラが振り返る。なるほど、と内心で納得しながらジノも後方に視線を投げた。
「最初に行った、あの穴だよ。ああいうものをそう呼ぶんだ」
「そうなのか。……そうだな、直接の原因はまた別だが、全く関係ないとは言えない。グトラトルのせいだというのは間違いじゃないな」
「グトラトル?」
「あの穴のことだ」
そうか、と頷いてまた歩き始める。探し物はなかなか見つからないが、しばらく話しているうちになんとなくわかってきたこともあった。
違う世界に来てしまったと言う割には、どうしてか言葉が通じるのがずっと不思議でならなかったのだが――どうやら自分の話す言葉も、聞く言葉も、何らかの未知の原理によって勝手に翻訳されているらしい。初めは翻訳機が未知の言語すらも翻訳するのだろうか、と思っていたが、ジノの持つ翻訳機は落とした端末に付属のものだから、今こうして言葉が通じている理由にはならなかった。
或いは奇跡以下の確率だろうが、全く異なる世界で同じ言語を使っているという可能性も、絶対にないとは言い切れない。言い切れないが、やはり有り得ないだろうと思う。そう無邪気に信じ込めるほどには、ジノは世の中というものに期待を持っていない。
だから結局、理屈は全くわからないが、どうしてか会話が出来ているとしか言えなかった。それでも会話の中で言葉が翻訳されている、と感じる瞬間はところどころにあって、恐らくは未知の力でも翻訳しきれない概念が互いの世界に存在しているのだろう。気づいた時から、ジノは深く考えるのを止めていた。思考を停止する癖がついてしまいそうだが、わからないものはわからない。
「……あ」
引き続き辺りを探索していると、不意にリヴィウィエラが小さく声を上げて足を止めた。背後を振り返った視線がジノの背中の向こうを見る。何が、と思いジノも体を反転させようとした瞬間、ポンと軽く肩を叩かれた。
「やあ、二人とも。どうだ、進捗は」
「レゼ」
視線を向けるよりも早く、明るい調子の声がかけられる。一体いつから近くに来ていたのか、ジノの後ろに立っていたレゼはこちらを見てにこりと笑った。
「い、いつの間にここに……」
「たった今だ。探し物は見つかったか?」
「まだ見つかっていない。どこにある?」
「えっ?」
当たり前のようにレゼに尋ねたリヴィウィエラに、驚いて声を上げる。ジノのその反応が不思議だったのか、大きな目が一瞬考え込むように中空を見上げ――ああ、と静かに頷いた。
「来る前に言っただろう、レゼにも探してもらうと。ここに来たということは、見つかったということだから」
「えっ!? そ、そうなのか?」
二人の間で視線を行ったり来たりさせていると、様子を見ていたらしいレゼが笑みを深めた。すっと背筋を伸ばし、これから歩いていこうとしていた先に顔を向ける。
「ああ、ある程度予想はしていたが、やはり道中で紛失していたようだな。この先をもう少し行くと、スキストという村があるのだが」
「君がわたしと会った場所だ」
リヴィウィエラがジノを見上げる。その言葉に、歩き続けて集落のような場所に辿り着いたことを思い出す。そこでリヴィウィエラと出会って、彼を殺しかけ、レゼに昏倒させられたのだ。ではもしかしたら、あの時のどさくさで落としたのだろうか。
「村の中にあるのか?」
「いや、それよりもう少し手前だ。集落に入るより以前に、服から何か取り出したりしなかったか?」
急に問いかけられ、ジノは慌てて記憶を辿った。ずっと歩いていた間は何を考えていたのかあまり覚えていない。ずっと焦っていたし、混乱していたことは確かだが。
何気なく、過去の自分の動作をトレースするように上着の内側を探る。すると指先に栄養剤の容器の固い感触が触れて、思わず「あっ」と声を上げた。
「そうだ、確か途中で、バイアルを取り出したんだ。補給が必要にならないのが不思議で……、っでも、あの時に落としたのか?」
確かに同じ内ポケットに入れていたから、可能性は高いかもしれない。しかしいくら混乱して視野狭窄になっていたからといって、リンクスを落として気づかないものだろうか。あまりにも気が抜けすぎている。
「何、そういうこともあるだろう。まあ、どちらにせよ見つかったのだから何よりだ。あまり長居して楽しい場所でもなし、さっさと拾って帰るとしよう」
呵呵と笑って、レゼが先導するように歩き出す。その歩みは真っ直ぐで迷いのないものだった。本当に、どこにあるのかしっかりと把握しているらしい。
「どうやって見つけたんだ、すごいな」
「レゼはあちこちに目があるからな。探し物をするのは得意だ。君のことも、レゼに見つけてもらったのだから」
「そうなのか? それって、俺がここに落ちてきた時のことか?」
「……まあ、そうかもしれない」
リヴィウィエラの返答は少し曖昧だったが、あまり気にせずにジノは先を急いだ。何しろレゼは歩くのが速いので、のんびりしているとどんどん先に行ってしまうのだ。体の小さいリヴィウィエラは大丈夫だろうか、と様子を窺うも、身軽なおかげか特に遅れる様子は見られなかった。
急ぎ足のまま歩き続けていると、次第に周囲には樹木の残骸らしきものが見えるようになってきた。見覚えのある光景だ。前方には、薄い靄の向こうに小さな建物の影が見える。そろそろ集落か、と考えたところで、前を歩いていたレゼが立ち止まった。その足元を見て、ジノはパッと目を見開く。
「あった!」
白茶けて罅の入った地面の上に、見覚えのある黒いカード状の端末が落ちていた。急いで駆け寄り、端末を拾い上げる。状態を確認しようとして――ジノは思わず肩を震わせた。
「……なんだ、これ……」
薄いカード型の機械であるので、その外装には保護の為に合成金属のカバーがついているのだが、その表面にはまるで滲むように細かい罅が入っている。慌ててカバーを外して中身を確認したが、内側に収められている機械部分も、縁の辺りが奇妙に罅割れていた。触っただけで割れるようなことはないようだが、明らかに異常だ。生まれてから死ぬまで使う物だから、劣化に強い素材で作られているのに、たった数日でこんな風になってしまうなんて。
「やはり、侵食されているな。だが、まだ初期段階だ。しばらく持っていれば元に戻るかもしれん」
ジノの手元を覗き込んで、難しそうにレゼが眉を顰める。
「元に……戻る、のか?」
「それは、元々お前が外から持ち込んだものだからな。ここに落ちていたからそうなってしまったが、お前が手にしていればお前のものだ。上手くすれば罅が消える可能性もあるが、断言は出来ない。だが少なくとも、それ以上の侵食はされないだろうよ」
「そうか……まあ、とにかく見つかってよかったよ」
幸い、機械自体は壊れてしまったわけではないらしい。ピッと音を立てて起動した端末を、リヴィウィエラが興味深げに見つめてくる。
「妙なものだな。何に使えるんだ?」
「何にでも使えるよ。というか、これがないと何も出来ないんだ。買い物をするのにも連絡を取るのにも使うし、病院に行ったり役所で手続きをするのにも必要だし」
「……よくわからないが、大事なものなんだな。見つかって何よりだ」
「ああ、ありがとう、二人とも。探してくれて助かった」
ようやく安堵の息をついて、ジノは今度こそしっかりと上着のポケットに端末を仕舞った。レゼがにこりと笑みを浮かべて、ぽんと肩を叩かれる。
「何、気にするな。気掛かりが無くなったのなら何よりだ。それにこの辺りには、一度様子を見に来なければならないと思っていたからな。ちょうど都合が良かったとも言える」
「様子を?」
首を傾げるジノを横目に、レゼは何やら感慨深げに周囲の光景を眺め回した。金色の目が遠くに見える集落の影を見て、無言のままスッと細められる。ややあって、彼女は再び口を開いた。ゆっくりと、集落に向かって歩を進める。
「先程も言ったが、この先にはスキストという名の村がある」
「……建物の集まっている場所があったけど、あそこのこと、だよな」
「そうだ。今ではもう、住んでいる者は誰もいない。だから正確には、村があったと言うべきなのだろうな」
ジノは背後を振り返った。リヴィウィエラも、少し離れた場所からじっと村の跡を見つめている。何か、思い入れのある場所なのだろうか。だがそれを察しようとするには、あまりにも集落跡には何もなかった。生活の痕跡はそのまま残されているのに、人が生きていたという空気感が、ここにはまるで残っていない。
そういえば、と村の中に目を向ける。ここにあった建物を一つ、壊してしまったことを思い出した。あの時は自分のことで精一杯で、何もわからないことに対する怒りをぶつけてしまったのだったが……改めて考えてみると、申し訳ないことをしたと思う。廃墟と化した村でも、大切に思う者もいるに決まっている。
そう思うと同時に、じわじわと現実が実感として身の内に滲み始めていた。ここは本当に、自分が生きていた場所とは全く違う世界なのだ。自分はこの村のことを何も知らない。ここにはジノが知るものは何もないし、逆に言えば、ジノのことを知るものも何もない。自分は確かに存在しているのに、この世界の過去からは一切断絶されている。
奇妙な感慨だった。孤独に似た寂しさを覚える一方で、不思議と安堵にも似た気持ちが胸の内に沸き起こる。
「ああ、そうだ」
不意に、朽ち果てた建物の側に立っていたレゼが声を上げた。先程までとはまた少し変わって、楽しげな色の浮かぶ目でジノを見つめてくる。
「ところで、お前の名前はなんというんだ? そろそろ聞かせてもらえるか」
「……え?」
「名前だ、名前。いつまでも外のモノと呼ぶわけにはいかんだろう。名乗りたくないというなら強要はしないが」
「……――えっ、あれ!? まだ、名前を言ってなかったか!?」
突然の話題に、動揺して思わず声が大きくなってしまった。言われてみれば、確かに二人からは名前を聞いたけれども、自分が名乗った覚えはない。あまりにも普通に会話をしていたから、すっかり失念していた。世話になっているというのに、まさか、まだ名前すら伝えていなかったとは。話を聞いていたのか、少し離れた場所にいたリヴィウィエラも寄ってきて、じっとジノを見上げてくる。
「悪い、完全に、言ったつもりになってた。ええと、俺は」
慌てて名乗りを上げようとして、ふと口籠もる。『ジノ』というのは本名ではない。【S型】になった時につけられた識別名だ。今となってはそう名乗ることの方が遥かに多くなったし、そう呼ばれることにも違和感は最早ないのだが……何故か急に、その名前を口にすることが躊躇われた。理由はわからない。だが、思ってしまったのだ。別にいいんじゃないか、と。
別に、いいんじゃないだろうか。ここはもう、自分が生きていたあの世界ではない。この世界に自分の過去はないのだから、名乗るくらいは、許されるのではないだろうか。忘れてしまうつもりは毛頭ないし、帰ることを諦めたわけでもない。ただ、少しくらいはいいのではないか。呼ばれるべき名前ではなく、呼んでほしい名前を名乗っても――彼らは何も、知らないのだから。
「……久遠谷だ」
「クオヤ?」
「そう、久遠谷……久遠谷、亨。俺の、名前だ」
内心の動揺を悟られないように、努めて表情を変えないようにしながら、ジノはそう名乗った。名乗りを受けて、レゼは一瞬考え込むような素振りを見せたが、すぐにいつものようににこりと笑う。
「ふむ、そうか。わかった、ではクオヤと呼べばよいのだな」
「ああ。……そう呼んでくれると、嬉しい」
「なら、そうしよう。……さて、用事も済んだことだし、そろそろ私はあちらに戻る。二人とも、あまり長居はしないようにな」
名前を聞いて満足したのか、レゼは楽しげに笑うとひらりと片手を振った。その瞬間、確かにそこにいた筈の姿が一瞬にしてかき消える。驚いたジノが声を上げる間もなかった。辺りを見回しても、そこにはもう誰もいない。
「……消えた」
「『下』に戻ったんだろう。レゼの言った通り、この辺りは長くいるとよくないからな」
同じようにレゼのいた空間を見つめて、リヴィウィエラが何でもないことのように言う。
「急に出てきたり、急に消えたり……どうやってるんだ?」
「レゼのやり方は、わたしとは違うから詳しいことはわからないな」
「……リヴィウィエラも、ああいうことが出来るのか?」
「ああ、もちろん。やり方は違うが」
「そっか……」
本当に、完全なるフィクションの世界である。しかしその渦中に自分が紛れ込んでしまったのも事実であるので、諦めに近い感情を抱いてジノは乾いた笑いを浮かべた。と、下から覗き込むようにしてリヴィウィエラがじっと見つめてくるのに気づいた。真っ直ぐな視線に思わず一歩後退る。
「な、なんだ?」
「名前が、ふたつあるのか?」
「えっ!?」
「クオヤ? トール? どっちが君の名前だ?」
名前が二つ、と言われた瞬間、思いきり心臓が跳ねた。だが、その動揺は思い過ごしであったらしい。リヴィウィエラの言いたいことを理解して、激しくなる鼓動を悟られないように細く息を吐き出す。
「あ、そう、そういうことか。えっと、久遠谷っていうのは苗字だから……俺の名前っていう意味だと、亨の方だな」
「ああ、家の名前なのか。……そうか、なら、わたしは君のことをトールと呼ぼう。構わないか?」
「……うん、もちろん。……ありがとう」
「? 礼を言われることは何もしてないが」
思わず口をついて出た感謝の言葉に、当然ながらリヴィウィエラは不思議そうに首を傾げた。理由はわからなくてもいい、とジノは胸の内で思う。何も知らないでいてくれる方がよかった。何も知らないまま、ずっとそう呼んでくれると嬉しい。少なくとも自分が、この世界にいる間は。
「まあ、いいか。それより、もう用事は済んだからわたしたちも戻ろう。レゼも待っているだろうし、まだまだ君に、話さなければならないことはたくさんある」
「そうだな、落とし物は見つかったし。……で、帰るのはどうやって帰るんだ?」
「来た時と同じだ。少しだけ我慢してくれ」
「あ、やっぱり……」
予想はしていたが、案の定同じ方法で帰ることになるらしい。脳を攪拌されるような目眩に襲われたことを思い出して、ジノはげんなりと表情を曇らせた。そうしながらも目の前に手を差し出されたので、大人しく小さな手を握り返す。
「大丈夫だ、そのうち慣れる。行くぞ、トール」
「……ああ、頼むよ」
繋いだ手に、きゅっと力が込められた。リヴィウィエラが軽くステップを踏むように、片足で軽く地面を蹴る。
――その時、ジノの義眼が不意に、視界の端で何かが動いたのを捉えた。自然とそちら側に義眼が動き、きりりと音を立ててピントを合わせようとする。時間にしてほんの一瞬のことだった。何かを思う間もなく、はっきりと目視する間もないまま、リヴィウィエラに手を引かれる。
視界が反転した。最後に見えたものが何だったかわからないまま、ジノの姿はリヴィウィエラと共にその場からかき消えた。