@_rookwebonly

!Attention!
・気づけば捏造の総合百貨店になっていたもの
・あらゆる地雷を踏み抜いているかもしれない
・特に魔法やキャラ設定に捏造多々
・ぬるーく痛めつける描写あり
・なんちゃって怪異が登場(not ホラー)
・なんちゃってループ説
・レオルクが未満気味
以上、嫌な予感がする場合や読んでいる途中で地雷に気付いた場合は、流れ星のような速さでお逃げ下さい。
目障りに降り注ぐ眩しい陽射し。暖かくて居心地のいいここは、温室だろうか。ぼんやりとピントが合わない視界の端で、金色の稲穂がサラサラと揺れた。
「 」
どこからか声が聞こえたような気がして、しかし聴覚の優れた自分に何故か聞き取れないその言葉。
この光景を知っている。いつかどこかで見たはずだ。あれは本当に、稲穂だったろうか。稲穂でないのなら、何だと言うんだ。
✳︎✳︎✳︎
「——ナさん、…レオナさーん?」
バチッと瞼を開ける。ドッドッ、と不快に鳴る心臓。見慣れた植物園の一角に脚を投げ出した自身のサンダルが真っ先に目に入る。そこで一つ深呼吸をして、掌を握って開いて、これが夢ではない現実なのだと人心地つける。
あぁ、そうだ。今日も今日とて授業をサボり、うたた寝に洒落込んでいたのだ。それなのに、これまたいつも通り探しに来た後輩の声に起こされてしまったらしい。
「あー、いたいた、レオナさん。」
曲がり角から顔を出したラギーが歩み寄って来る。
「チッ、せっかくいい夢見始めたとこで大声出しやがって。何の用だ、ラギー。」
「何の用って…、トレイン先生が早くレポート出せってカンカンなんスよ。全く、俺が怒られるんスからね。どうせアンタ、それくらいすぐ出来るんだからお願いしますよ?」
「フン、時間の無駄だぜ。」
呆れ顔で投げつけられる文句は右から左へと聞き流し、前髪をくしゃりと掻き乱す。
「てゆーかぁ、"いい夢"って何スか?王子サマでもいやらしーい夢とか見るんスか?」
シシシ、と特徴的な声で下卑た笑みを浮かべるラギーに、レオナはニヤリと口の片端を上げる。
「ハッ、どうだかなァ。てめぇみたいなガキにゃ百年早ぇとびきり"いい"夢だったぜ?」
「えー!余計に気になるじゃないッスか!」
適当に煙に巻きながら、一つ欠伸をして立ち上がる。実際のところはラギーが期待するような中身じゃない。ただ、何故か"いい夢"という言葉が勝手に滑り出たのだ。
あの夢を、もう何度も繰り返し見ている。いつからかも、何回見たかも忘れるほど。稲穂の金と聞き取れない誰かの声、決まってその直後にハッと目が覚めるのだ。だから本当は、さっき目が覚めたのもラギーのせいではないのだろう。起きた後はいつも、胸の奥がざわざわと疼いて、掌にじとりと汗が滲む。謂れのないこれは何だろうか。不安のような、焦燥のような感覚。まるで、大事な何かを見落としているかのような——。
「…サイエンス部?」
出口の方へ向かうと、すれ違いざまに植物園へ入って来る白衣を着た生徒たちが目に留まった。
「あー、今日植物園使うんスかね。」
「チッ、厄介な野郎に見つかる前にさっさと行くぞ、ラギー。」
渋面を作って言うと、ラギーは分かりやすく疑問符を浮かべた。
「はぁ?何スか、厄介な野郎って。」
「何言ってやがる。そんなモン、あいつのことに——…」
言いかけて、はたと唇が停止した。
"あいつ"って、誰だ。今、何を言おうとしたのだろう。
「…って、レオナさん!俺らももう部活始まりますよ!急がねぇと!」
一瞬呆然としたところをラギーに半ば引っ張られるようにして、レオナは運動場へと向かった。
✳︎✳︎✳︎
三日後、三年A組。レオナのクラスだ。頬杖をついて見慣れた教室の風景を眺めながら、レオナは右から左へと視線を動かす。休み時間、馬鹿話に花を咲かせる同級生に、次の授業の課題を焦って写す同級生、何一つ普段と変わらない。
にも関わらず。何かが足りない気がして、その何かをずっと探しているのだ。たが一向に見つからないうえ、そんな何かなど初めからなかったような気もしてしまう。
「チッ…」
どうしようもないフラストレーションに舌打ちをして、いっそ寝てしまおうかと目を瞑った途端。
「レオナ。」
コツコツと鳴るヒールの音と凛とした呼び声に渋々瞼を開け、視線だけをそちらに向ければ、自席の横に立つヴィルのアメジストと目が合った。
「この間の話、当然引き受けてくれるわよね?」
「ハァ…、んな面倒な話、受ける訳ねぇだろうが。既に断ったはずだぜ。」
数日前、映画研究会で次に撮る作品に演者として出て欲しいと依頼されていたのだ。当然、間髪入れずノーと返しているが、ヴィルはそれで引き下がるつもりはなかったらしい。
「メインの役じゃないわ。旅に出る主人公に剣を授ける王子役。」
「メインじゃねぇってんなら、誰でもいいだろうが。」
「ふざけてるの?どんなに細かい場面だろうと手を抜くなんてあり得ないわ。そもそも、短くてもストーリーのキーになる重要なシーンだし。」
ストイックな性格のヴィルとは元より水と油である。皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。
「流石は天下の名俳優サマだなァ。だが俺には関係ねぇ。王子役ならてめぇんとこの副寮長にでもやらせりゃいいだろうが。クサい台詞もお誂え向きなんじゃねぇか?」
「冗談はそのだらしない態度だけにして。今回の王子役はエキゾチックなイメージの設定だし、それ以前にうちの副寮長は王子ってタイプじゃないでしょう。」
ヴィルの言葉に、つい口を噤む。何かが噛み合わない。この違和感は何だろうか。そもそも、ポムフィオーレの副寮長は…。
「シェーンハイト寮長、こんな所にいたのかい?」
「あら、噂をすれば。」
やって来たのは濡羽色のウェーブがかった髪をしたポムフィオーレ寮生だった。
「…誰だ、てめぇは。」
「なっ…!?」
訝しげに眉根を寄せて睨め上げると、その男は唇をわなわなと震わせる。
「キングスカラー貴様、伝統あるポムフィオーレの副寮長たる僕に、"誰だ"とは…!なんて失礼な男なんだ。決闘だ!手袋を拾いたまえ!」
「ちょっと、やめなさい!たわいないことで他寮生に喧嘩を売らないで。」
「たわいない…!?」
ヴィルが一喝すると、すごすごと自ら床に叩きつけた手袋を拾い上げている。ポムフィオーレの副寮長はこんな面白…いやおかしな奴だったろうか。もっとも元々おかしかった気はするが、何かベクトルが違う気がする。
「…おいヴィル、こいつが今の副寮長か?」
「今の…って、前から…、少なくともアタシが寮長になってからは、ずっと彼が副寮長よ。アンタどうかしたの?」
違和感のままに尋ねれば、今度はヴィルの方が怪訝な顔をして答えた。
「ともかく…悪かったわねレオナ。また出直すことにするわ。さっきの話、引き続き考えておいて。アンタの望みってよく分からないけど、謝礼もするつもりよ。」
ハイヒールを翻して去っていくヴィルの後を、現副寮長を名乗る男が付いて行く。「いい加減にしないと副寮長の首を挿げ替えるわよ」と言うヴィルに慌てふためく後ろ姿。その"見慣れない"組合せに異様なほど心が騒ついていた。
✳︎✳︎✳︎
自分はおかしくなったのだろうか、と一度は思った。だが、ある理由からレオナは自身の外に原因を見出していた。
気付いたのは数週間前だったろうか。レオナの優れた魔力感知の第六感は、この学園全体にかけられたと思しき強大な魔法の僅かな残滓を感じ取っていたのだ。その残滓すらも巧妙に隠すほどの遣り手。その時はマレウスの馬鹿がおイタでもしたのだろうかくらいに思って、見て見ぬフリをした。
だがしかし。その頃から見始めた不思議な夢。そして日常に存在する自身と周囲との間の齟齬。それらの違和感が日に日に大きくなっていくに連れ、あの残滓との因果関係を疑わずにはいられなくなった。
何か、絶対に忘れてはいけないものがあったはず。それを思い出せないことへの苛立ちだけが募る一方で。この状況が何者かによって恣意的に創り出されたものだとしたら、尚のこと気に喰わない。
そう思いながらも、自分が何を忘れているのかも分からずに糸口が掴めない日々が続いたある日のこと、その瞬間は唐突に訪れた。
「今日の実習は単位に関わるっぽいんで、ぜーったいに出席しないとダメッスからね!」
誰から聞きつけたのかラギーにこれでもかと念を押されて、本意ではなかったが仕方なく魔法薬学の実習に参加した時のこと。植物園の奥の方にある花壇の前に集められ、聞く気のないクルーウェルの説明に大口を開けて欠伸をする。普段サボる時はわざわざ奥まで行かないので、あまり足を踏み入れないエリアだ。その時ふと、植物園の一番隅にひっそりと備わった花壇へと目を向けたのは偶然だった。ハッとして翠眼を見開いたのは、見覚えのある花を捉えたからだ。
「あの花……。」
青く可憐な、何の変哲もない野花だ。それほど貴重な材料でもないから、あんな端に植わっている。
名前は知っていた。それなら何に引っ掛かっているのか。例の夢から醒めた時のように、心臓がドクリドクリと騒ぎ出し、背筋を汗が伝った。
思い出せ。一体どこで見た。つい最近のことだ。あの花を、誰が持っていたんだ——。
"永遠を誓うよ。"
フラッシュバックと共に、バチバチッとショートしてフィラメントを焼き切る電流のような衝撃が脳内に焦げ付いた。
ひゅ、と息を呑む。見開かれた眼が泳ぎ、口の中が急速に乾いていった。
「ルーク……?」
何故、忘れていたのだろう。
同じ三年A組、サイエンス部所属でポムフィオーレ副寮長。いつもレオナを最高の獲物だとか何とか猟奇的な発言をしながら追いかけ回す、ストーカーのような変人狩人。気障ったらしい賛辞を好み、いつも心から楽しそうに笑顔を振り撒く厄介で自由奔放な男。
そんな男が。微笑っていた。そうだあの時、微笑っていたのだ。微笑っていたのに、まるで泣きそうな顔に見えた。きゅっと哀しげに柳眉を寄せて、ふっと淋しげに眼を細めて。
あの青く可憐な野花の束を、真っ直ぐにレオナヘと放りながら。
獣人は視覚や聴覚などの感覚に優れた種族だ。いわゆる野生の勘もそうだが、それは魔力感知においても同じらしい。獣人の中でも高い魔力を持つレオナの魔法に対する知覚力は特に、学園の中でも群を抜いていた。
「ルーク、お前…いつにも増して気色の悪い気配がするぜ。」
「やぁ、獅子の君。そうかな?特に普段と変わったところはないと思うけれど、君はとても鼻が利くようだ。ところで、君の方は毛艶や肌の美しさを見るに、昨夜はぐっすり眠れたようだね。およそ八時間といったところかな。トレビアン!何よりさ。」
「薄気味悪ぃこと言うんじゃねぇ…!」
それは数週間ほど前。廊下で彼とすれ違った時、気配に微かな異物感があった。普段の彼からは発されたことのない、ざらついた魔力のオーラ。直感がそれを良からぬものだと告げている。そうでもなければ基本関わり合いたくない相手に自分から声をかけるなどあり得なかった。
「ふふ、心配してくれたのだね、メルシー!君の優しさに敬意を表して、ぜひ詩を贈らせておくれ!」
「うるせぇ。誰がてめぇの心配するか、変人野郎。面倒ごとに巻き込まれでもしたら敵わねぇからに決まってんだろ。」
そう断言すれば、ルークは切れ長の眼をきゅっと三日月型に細めた。こちらの内心を見透かしたような笑顔に僅かばかりドキリとして腹立たしい。まぁ確かに巻き込まれたくないならいっそ我関せずでいればいいのに、とも思うのだが。自分の縄張りに生じた異変を放って置けないのは習性だ。
「うーん、昨日霊験あらたかな場所へ赴いたから、きっとその残り香ではないかな。」
「霊験あらたかな場所?胡散臭ぇな。」
「学園長のお遣いさ。兎にも角にも、心配には及ばないよ。」
だから心配はしてねぇ、と内心で毒づきながらそれ以上は首を突っ込まなかった。魔力の気配以外で特にルークに変わった様子もなかった。もしあの時に腕を掴んで引き留めていたら、何かが変わっていたのだろうか。
事が起きたのは、その夜のこと。日付が変わるくらいの時間帯で、当然各寮の消灯時間はとっくに過ぎていた。しかし、反してレオナは寮から鏡舎へと向かったのだ。まるで宗教的な祭壇のようにも見える七つの鏡に囲まれた空間は、人けのない夜の静寂の中で不気味に映った。
昼間に一瞬感じた異様な気配。あれからずっと、妙な胸騒ぎに支配されていた。放っておくなと本能が非常ベルを鳴らす。このままでは落ち落ち眠れもしない。それならいっそ正体を突き止めてしまおうと、不本意にもポムフィオーレ寮へ向かうことを決めたのだ。そうして鏡舎に辿り着いたレオナだったが、ポムフィオーレ寮へと通じる鏡に歩み寄ろうとした足をふと止めた。
「………?」
ただの野生の勘。そうでないなら何だと言うのか。レオナは吸い寄せられるようにして校舎の中へと進んだ。どこかひんやりとした空気に寮服姿の肩を抱かれる。暗い廊下には誰一人いない。それなのに、一歩一歩近づくに連れて濃くなる気配。それに合わせて鼓動の音が脳に響くほど大きくなっていく。
ドクン、と衝撃が胸の内を叩いた。
辿り着いたのは、この学園で最も神聖にして荘厳な場所——鏡の間。その中心に佇む後ろ姿が、スローモーションのようにゆったりと、あるいは息を呑むほど優雅に振り返る。目に鮮やかな菖蒲色のアカデミックドレスがその人影の動きに合わせてふわりと揺れた。近寄りかけたレオナは途端にギクリとして足を止める。振り向きざま緑の眼光をギラリと放った横顔が、一瞬別人のように見えたからだ。
「ボンソワール、獅子の君。素敵な夜だね。」
「ルーク…!」
しかし、完全にこちらへと身体の向きを変えたルークは、いつも通りのさっぱりとした笑顔で、レオナはこっそり安堵の息をついた。帽子の陰が、そう見せただけだろうか。
「てめぇ、こんな所で何してやがんだ。」
一定の警戒を怠らない顰めっ面で睨みつけながら問う。
「さてね。君こそ、何をしに来たんだい?」
はぐらかそうとする男に、レオナの面差しが険しさを増したが、ルークは依然として穏やかな微笑を浮かべていた。
「もう未明だよ、寮へお帰り。」
「てめぇもな。…チッ、聞きてぇことがある、来い。」
レオナが腕を取ろうと手を伸ばして歩み寄りかけたその時。
『触るな、小童。』
ルークの声でも、ましてやレオナの声でもない重低音に、ピタリと動きを止める。
その瞬間、廊下で感じた気味の悪い気配が、昼間よりもずっと禍々しく強大になり、最早ルーク自身の魔力を飲み込まんばかりに急激に膨れ上がった。
ルークの背後に、たちまち立ち昇った黒いオーラのようなものが蠢いている。声の主はそれだった。彼を包む黒々とした靄の中に、ギョロリと光る双眼と卑しく嗤う大きな口だけが浮かび上がって見える。少なくとも、それはレオナにとって生物と呼べるものではなかった。
「説得するつもりだったのだけれど。」
笑みを消した無表情のルークが、その黒靄に向かって言った。
『ククク、悠長に待ってなどいられるか。』
ぬめった感触に肌を撫でられた時のような気色悪さが背筋を這い上がり、じとりとした汗が掌で湿った。見た目にはオーバーブロットした時の瘴気に似ているが、明らかに異質でより厄介な代物だと感覚で理解する。
「…おいルーク、こりゃ何の冗談だ。」
「………獅子の君…っ…」
刹那、ルークは傷ついたように眉尻を下げた。形の良い唇が何かを言いたげに開き、そして何も言わずに閉じられる。
「ルーク……!」
その表情に、訳もなく心臓を鷲掴まれるような心地がした。
『…クッ、ククッ、クハハッ!こいつは傑作だ!』
応酬を見ていた黒い影がゲラゲラと笑声を浴びせる。
『いいだろう、興が乗ってきた。獅子の小童よ、どのみち忘れる記憶ならば、これから起こることを話してやろう。』
「エピクリシス…!その必要はないさ、もう行こう。」
『フン、お前は黙っておれ。』
黒靄の一端が人の腕のような形を模し、回り込んだその手がルークの顎先を乱暴に掴む。まるで自分のものだとでも誇示するかのように。
「てめぇは何モンだ。いきなり割り込んでご挨拶もなしとは、随分と躾がなってねぇなァ。」
『ふむ、一理あろうな。教えてやろう。』
むしろ敵意を愉しむような声に、レオナは奥歯を強く噛み締める。
『吾は、時には神、時には死、時にはケガレ、時には生命と呼ばれるもの。お前たちの言葉では、エピクリシスとも呼ばれている。』
「エピクリシス…"大洪水"か。」
『クク…暗愚ではないようだな。吾は時の運命により地上に終焉をもたらすべく生まれる。吾の中に存在するのは全ての悪、全ての負だ。時が満ちれば吾の中に肥え満ちた災厄が地上を葬るだろう。』
だが、とエピクリシスは寒気がするほど底意地の悪い笑みを深めた。
『喜べ、吾に芽生えた自我は人の子への憐れみを持っている。ゆえに、取引したのだ。』
"取引"という言葉に、レオナはゾクリと悪い予感を覚えた。とてつもなく、嫌な予感だった。
『この小童が贄となるのであれば、吾は地上に災厄を撒き散らすことなく、時空の裂け目へ身を引いてやる、とな。』
レオナの夏草色の瞳が驚愕に揺れた。
ルークは虚ろな顔で、美しく磨かれた床のタイルへと視線を伏せていた。
「おいルーク…ざけんなっ…!」
沸々と煮えたぎるような感情を腹にグルルと唸って威嚇しても、ルークはレオナの方を見ようとしない。
『案ずるな、獅子の子よ。お前たちが"苦しむことのないよう"手を打ってやると、この小童と約束しておる。約束を守るのは吾の美学であるぞ。さすれば、始めるとしよう。』
その言葉を合図に、ルークが左手にマジカルペンを握った。レオナも咄嗟に自身のマジカルペンを掴み、瞬時に杖へと変形させたそれを構える。
《ぼうっとするな。いくら吾の力を使うとも、お前の身を媒介して術を放つのだ。しっかり構えぬとしっぺ返しを喰らうぞ。》
宿主の頭の中だけに直接流れ込む言葉は、レオナには聞こえていなかった。それを皮切りにルークがふと口元を緩めた瞬間、ゴウッと膨れ上がる魔力が風を巻き起こし、寮服のペタルスリーブと金糸の髪がはためく。レオナが生まれてこの方、経験したことのない魔力の圧だった。
「あぁ、どうして…、君なんだろうな。」
「ルークてめぇ…、何しやがる気だ…!」
ブルネットの髪を風圧になぶられながら、底の読めないエメラルドの瞳を射抜くように睨むレオナに、ルークは陰のある微笑を向けた。その退廃的な美しさに息が詰まりそうになる。
「うーん、プロポーズ…、みたいなものかな。」
悠然と微笑ってそう言った彼の魔法石が、青く眩ゆい光を帯びた。
「永遠を誓うよ。」
ペン先が小さな円を描き、そこから生まれたのは掌ほどの矮小な花束。鮮やかな青の五枚の花弁に、花芯が檸檬色をした可憐な花だ。
あの花はたしか——。
ハッと息を呑んだレオナの瞳孔が開く。
『小童…貴様…、まぁ良いわ。意味など成さぬ…!』
右手に取ったそのブーケを、彼はレオナに向かって真っ直ぐに放り投げた。そしてほんの一瞬、切なげに。あまりに切なげに微笑うから、その優美さに目を奪われて胸が痛い。束の間忘れていた息を慌てて吸い込み、彼の名を叫んだ。
「…——ルーク!!」
その光景は、まるでコマ送りのように。
空中を舞う花。再び、否、今度は閃光のように鋭い黒と白の光を帯びるルークのマジカルペン。ブーケを放った後の、まるで救いを求めるかのように伸びた右手。ブーケへではなく、その右手へと伸ばして届かないレオナの手。胸にトンとぶつかった小さなブーケ。向けられる切なげな微笑。そして、真っ白に弾け飛ぶ世界。

「………っ…?」
ぱちりと目を開けたレオナは、辺りを見渡して眉を顰めた。こんな夜更け、鏡の間のひんやりと冷たい床の上に寮服姿で横たわっていた我が身に疑問符が浮かぶ。
「俺は何故こんな場所で寝てんだ…?」
近くに落ちていたのはレオナのマジカルペンただ一つ。この場に来るまでの記憶は朧げだった。
そうしてこの日、世界から、そしてそこに息づく人々の中から、当然レオナの中からも、ルーク・ハントという男の存在だけが跡形もなく消え失せたのだ。
✳︎✳︎✳︎
忘却魔法…いや、辻褄が合うよう補填されていることを踏まえれば、洗脳魔法の類か。更に人の認識だけではなく、物理的な部分にまで作用しているから、より高度な術式。そもそも、エピクリシスと名乗ったものは存在自体が人智を超えているのだ。それが使う能力は魔法士の使う魔法と一線を画していてもおかしくはない。
「チッ…そこを考えても無駄だな。」
レオナは苛立ちのままに舌打ちを一つして、拡げていた魔術書や歴史書を自律式の実践魔法で書架に戻し、放課後の穏やかな空気が流れる図書室を後にした。
「………。」
書棚の影から息を潜めてその姿を目で追っていた者の存在に、その時レオナは気づかなかった。
二日前のこと。理由は不明だが、魔法薬学実習中にレオナは失ったはずの記憶を取り戻した。恐らく今この世界で唯一レオナだけが、ルークの存在を知っている。周囲に言ったところで容易に信じられる話ではないし、安易に言ってよいものでもない。よってレオナは独力でその解決法を探すため、日夜図書室で調べ物を続けているという訳だ。
「あーくそっ…あの変人ハンター野郎、ろくでもねぇことに巻き込まれやがって…っ!」
この二日ほどで分かったこと。まず、"エピクリシス"について。その単語が古代の言語で大洪水を意味することを、古代呪文語に精通するレオナは元々知っていた。しかし、その存在や詳細が載っている文献は一言で言って皆無だった。正確に言えば、神話レベルの話でしか登場しないのだ。大洪水は世界中のあらゆる神話でモチーフにされているが、そこでは大抵、神から悪しき人類への裁きのような形で描かれている。ニュアンスとしてはあの怪異が語ったことと合っているが、あまりにも現実味がない。それから、ルークが魔法で作った花束について。あの花が、ミオゾティスという花であることは投げられた時から分かっていた。いわゆる魔法植物でもなく、川べりなどに群生するごくありふれた野花である。だが、あれはただの花束だったのだろうか。それとも何か別の魔法か、もしくは暗号か。そう思ってミオゾティスを材料にする魔法薬などを中心に調べを進めたが、関係ありそうなものは見当たらなかった。
そもそも、何故この俺があんな男のためにダルい調べ物などしなければいけないのか、とレオナは思った。腹が立って仕方がない。それでも、調べずにいられないのは。
「あの野郎…皮肉のつもりかよ。」
レオナは中庭へと足を運びながら、吐き捨てるように呟いた。ふと視線を向けた井戸の側に、例の青い花が幾らか咲き綻んでいる。それを何本かブチリと手折って、近くのベンチへと腰を下ろした。
この青い花の学名はミオゾティス。別名はフォゲットミーノット。つまり、勿忘草である。自らの全てを忘れさせる魔法をかけながら、ルークは直前にそのブーケをレオナへと投げた。
一体、どんな思いで。
ギリ、と奥歯を食い縛る。一度は忘れていたくせに、思い出したあの時の微笑が瞼の裏に灼きついて離れない。
ルークはただの同級生だ。ただの、と言うより、どちらかと言えば天敵寄りの。いなくなって幸いと喜んでもいいくらいなのに、焦燥だけが募ってちっとも落ち着かない。何故、こんなに苛々するのか。自分でも分からなかった。以前にもどこかで似たような苛立ちを覚えたような気がするが、どこだったか。あぁそうだ、あれはたしか随分前の召喚術の授業中——。
「あら、レオナ。花なんて握りしめて随分おセンチみたいね?」
人の悪い笑みを浮かべて歩み寄ってきたのはヴィルだった。
「ハッ、用もねぇのにダル絡みとはいい趣味してやがる。」
「用ならあるわよ。この間の件……って、あらその花、勿忘草じゃない。この辺りにも結構咲いているわよね。」
「だったら何だよ。」
ヴィルは断りなく隣へと腰掛けると、レオナの手の中から一輪の花を攫い、顔の傍へと寄せて眺めた。絵になる、というやつだ。きっとあの男がいたら、ボーテだ何だと喧しく囀ったことだろう。しかし、そんな彼の存在をここにいるヴィルは覚えていない。
「別に、懐かしいと思っただけ。子供の頃よくダッ…父が読んでくれたお伽話に出てきたの。勿忘草にまつわる悲恋の実話を、子ども向けのハッピーエンドに改変したロマンチックな物語。輝石の国ではエレメンタリーの学芸会でその劇を披露する所も多いのよ。フッ、レオナ、アンタその騎士役なら引き受けるのかしら?」
「騎士だろうが王子だろうが、お上品な役は俺には合わねぇな。この花が好きだってんなら、てめぇにくれてやるよ。」
「ハァ、アンタ使う目的もないのに毟り取ったのね、ダメ男。」
嗜めもどこ吹く風。あばよ、と残りの花を押し付けて立ち上がろうかと思ったその時、思いがけないヴィルの言葉にレオナはピタリと動きを止めた。
「フフ、まぁこんな可憐な花に呪いなんてあるはずないんでしょうけど。」
澄まし顔のヴィルに、レオナはじとりと視線を送る。
「呪い…?」
「言ったでしょ、お伽話よ。騎士が愛する人と再会するためにまじないをかけたのが勿忘草。でも、古い呪術書で、"勿忘草は記憶に関する魔法が宿っている"なんて本当に書かれているものもあったわ。眉唾だから、現代では魔法植物としての分類はされてないし、知っているのは呪術の専門家か、お伽話の劇を信じる輝石の国の子どもたちくらいのものかしら?」
流石はポムフィオーレの寮長といったところか。魔法薬学や呪術に関する知識で彼の右に出る者はない。そしてルークもまた、その次席であり重度の演劇オタク。
「…なぁヴィル。俺がお前の話を引き受けたら、謝礼はすると言ってたなァ?」
「ええ、可能な範囲なら。」
急に翻ったレオナの態度に、ヴィルは面食らったようにパチパチと大きな眼を瞬いている。
「ククッ、いいぜ。気が変わった。お前のままごとに付き合ってやるよ。その代わり、お前も俺に協力しろ。メルヘンを現実にするってのは十八番なんだろ、俳優サマ。」
ニヤリと笑って席を立ったレオナに、少々怪訝な顔をしながら立ち上がったヴィルは言った。
「何言ってるかよく分からないけど、とりあえず話を聞くわ。」
✳︎✳︎✳︎
勿忘草には、魔法士の知覚を以て感知できないほどの、微弱な魔力が宿っている。そして、魔法士がその花に"忘れるな"と強く念じると、その想いが気まぐれに呪いとなることがあるという。これらは無論、言い伝えレベルの話である。そもそも実証自体が困難だ。
「…で、こんな話を聞いて、呪いをかけたい相手でもいるわけ?」
この曜日のこの時間、三年A組は空き教室である。他の生徒の姿はなく、都合がいい。中庭から移動した二人は机を挟んで向かいに座っていた。
「いや?どちらかと言えばかけられた側だからな。まぁ呪いはともかく、ぶん殴りてぇ奴がいるってところだ。」
「………?」
とどのつまり、ルークはレオナに呪いをかけたのだろう。あの時、勿忘草自体をルークが創り上げたから、元来花に宿る魔力だとかは関係なくただルーク自身の魔法による呪いなのだろうが、魔法は想像力でできているものだ。だからルークがこの逸話を知っていて魔法を使ったと考えれば、十中八九そういう呪いがかかっている。つまり、花言葉よろしく"私を忘れないで"と呪われた訳だ。ゆえにレオナはたった一人、その記憶を呼び覚ますことができたのであろう。
ほんの一瞬の出来事だから、ルーク本人も思いがけないほど衝動的なものだったのかもしれない。だとしても。
「…厄介な呪いだぜ。」
レオナは不思議そうな顔をするヴィルを他所に、自嘲するように薄く笑った。そんなレオナを物言いたげな顔で数秒見つめた後、ヴィルは美しくルージュが引かれた唇を開いた。
「ねぇ、レオナ。アンタ…、結構参ってるんじゃないの?」
ピクリ、とレオナの耳がはためく。
「あ?何にだよ。」
「アタシが知る訳ないでしょ。ただ、少し前から様子が変。」
「そうかよ、おかしくてそりゃ失礼したな。」
「そういうことは言ってない。"取引"したんだし、協力を求めるなら隠し事はナシよ。」
ピシャリと言い放つヴィルの主張はもっともだ。レオナは束の間、逡巡する。
自分のように、何かルークに関する切っ掛けがあればヴィルも彼を思い出せるかもしれない。そしてその手段をレオナは知っていた。だが、それはリスクを伴うことなのだ。
まず第一に、ヴィルの精神面に支障をきたす虞。エピクリシスのかけた術がどんな類のものか分からないからである。ルークの呪いのおかげなのか、中途半端に記憶を封じられはしたものの、レオナには"すり替えられた"記憶がなかった。しかし、ヴィルを含め他の者は、別人のポムフィオーレ副寮長然りそれを構築されている。洗脳や幻覚のように上べだけ取り繕われた状態ならば元の記憶を取り戻すことで正気になるかもしれないが、本物の記憶が根源から抹消されているような場合は厄介である。後者の場合、レオナの与えた切っ掛けから思い出すことができないばかりか、最悪、今信じている虚構の記憶と異なる情報に何が正解か分からなくなってパニックを起こす可能性もあるだろう。
そして第二に、レオナの周囲全員が味方であるとは限らないという虞。エピクリシスの正体が分からない以上、今の状況が誰かの差し金である可能性をレオナは警戒していた。しかしこの点について、ヴィルに限っては信頼できるので問題ない。ルークとヴィルの関係性について、レオナは真っ当に知っていた。
そうなると、やはり一つ目のリスクがネックである。
「…ヴィル、もしお前が今信じている世界の一部が嘘だったとして、それを信じられるか?いや信じねぇならそれでもいいんだが、お前は迷わずに立っていられるか?」
ものは試しと尋ねたレオナに、ヴィルは呆れ顔をする。
「何それ、何かの心理テスト?」
「ハッ、残念なことに大真面目だ。」
「………。」
ヴィルの目には、皮肉っぽく笑ったレオナが嘘を言っているようには映らなかった。
「俺にはお前と"違う"記憶がある。"記憶映しの魔法"でそれを見るかどうか、お前の意思に委ねる。」
記憶映しの魔法。自身の記憶の一部を他者に見せることができるそれは、並大抵の魔法士にはできない高度な魔法だ。それなりに手間も時間もかかる。それを、面倒ごとが大嫌いな男がやろうと言うのだ。
あまり穏やかな話ではないらしい、ということに勘づき始めたのか、アメジストの眼差しは僅かに険しくなった。だがその緊張感の中、ヴィルは落ち着いた声音ですんなりと応諾したのである。
「……いいわよ、見てあげる。アタシは、周りじゃなくて"アタシ"を信じるの。だから平気。覚えてないけど、前に誰かからそう教えられた気がするから。」
「………!」
ヴィルはふと口元を緩めた。その誰かは、もしかして。そう思ったが、レオナには分からない。だが、ヴィルが確固たる意思で選択した決断は迷いなく利用させてもらう。仮にリスクを背負おうとも目的のためには手段を選べない。使える駒は何でも使う。
記憶映しの魔法を実践するため、二人はポムフィオーレ寮の地下実験室へと向かった。専用の魔法薬を手早く調合し、水を張った鍋に垂らす。そしてレオナは持っていた勿忘草の花に記憶の片鱗を封じ込め、それをそっと水面へ放した。間もなく映し出されたのは、ヴィルが瞠目するレオナの記憶。あの日鏡の間であったこと、その全容だった。
「ふ、……ぅ…ぁっ…」
薄暗い空間。全てが灰色の室内。豪奢な宮殿が廃墟になったような場所だった。広い空間の中央奥にあるのは朽ち果てた玉座のような椅子。その椅子に座るのではなく、ルークはそのすぐ足元に腰を付いて座面へとしなだれかかるように身を凭せていた。お気に入りの羽根つき帽子は流石にお役御免で、傍らからポツンと虚しく主人を見守ることしかできない。
左腕が焼けるように熱く、じくじくとした痛みを持っている。手袋を外して見てみれば、左手から腕にかけては刺青のような黒い紋様が顕れていた。それが爛れた火傷のように痛む原因らしい。
『ククク、苦しいか小童。』
ルークの影に潜んで、エピクリシスはニヤニヤと底意地悪く嗤った。
闇の鏡をくぐって辿り着いたここは、本来の世界ではない異空間。エピクリシスはこの場所を、時空の裂け目と呼んだ。
「…っ…平気さ。この紋様は、クレマチスの花と蔦…かな?蔓に絡め取られていくようで…美しいね、トレビアンだ。」
『さようか、気丈な奴だな。よいぞ、虐め甲斐がある…!』
ジュウッと一際紋様が刺すような熱を発し、身体の中で何かがのたうち回るような痛みに襲われる。
「あ゛っ…!ぐ、ぅ……はぁ、はっ…」
浅い呼吸を繰り返し、寮服の布を握りしめて痛みに耐えた。身体が溶けそうに熱い。
段々と自身の内側にいるこの怪異に蝕まれているのだと、それだけは嫌と言うほどはっきり分かる。憑いてすぐの時は何ともなかったが、徐々に融合が進んでいるのだ。このまま進んでどうなるのか分からないが、エピクリシスはそれを不可逆だと言った。つまり、もう戻れない。その悍ましさにも、心が折れることはなかった。
『…ルーク、と言ったか。お前、あの男が好きなんだろう?』
「……あの、男?」
嗤う瞳を横目に、荒い呼吸の合間に問い返す。
『とぼけずともよい。あの獅子の小童のことよ。鏡の間でのお前の顔、見ればすぐに分かったぞ。ククク、何とも滑稽で愉快であったな。』
瞳を閉じる度に、珍しく懸命な顔で手を伸ばしてくれた男の別れ際の姿が思い浮かぶ。柄にもなく必死な声で名前を呼んでくれた。充分だ。
ルークはこめかみに脂汗を浮かべつつ、余裕を見せつけるように唇に弧を描いた。
「ふ、ふふ…ノン、違うよ。君の空目さ。」
『クハハッ、強い否定こそ図星にしか見えんがな、まだ強がるか。もしや片恋か?哀れな奴よ。』
「う゛っ…ぁ…」
またも痣のような紋様が灼けつき、ルークの手袋の上にはパタパタと汗が落ちる。紋様の侵食は左腕を起点にじわりじわりと拡がっていた。
『しかしお前は今や吾の掌中。後悔は既に遅しだ。クククッ、融合が終わるまでそうしてゆっくりと、自身が損なわれる恐怖を骨の髄まで味わうが良い。』
苦悶を忍び絶望的な嘲笑を浴びながら、ルークは黒い影に浮かぶ歪んだ二つの三日月目をじっと見つめた。
「……後悔は、しないさ。」
灰を被った座面にこてりと頭を乗せ、ルークはそっと長い睫毛に縁取られた瞼を閉じる。そして自身を食い荒らそうとしている目の前の怪異に初めて遭遇した時のことを、脳裏に呼び起こした。
✳︎✳︎✳︎
「あぁ、ハントくん。丁度いいところに。」
「やぁボンジュール、ムシュー。私に何か御用かい?」
外廊下で後ろからかけられた声に振り向けば、立っていたのは予想通り学園長だった。いつも通り黒の外套に黒のシルクハット、そして顔の半分を覆い隠す仮面。それらに身を包んだスレンダーな長身が、鍵を模した気に入りのステッキでコツリと地面を鳴らす。
「実は少々困っていまして。裏手森の祭壇のことは知っていますね?ナイトレイブンカレッジ創設者の霊祀です。一年に一度!今日この日に!どーうしても!御供えをするのが百年続く伝統なんですが、私今日は行事に会議にてんてこまいで身体が空かないんですよ。こういうことは魔法で簡単に済ますとバチ当たりですしねぇ。」
至極残念そうな声を出すのを、演技だろうなと思いながらルークはにこにこと笑顔で聞く。
「断じて祭壇が遠いうえに石階段を登るのが面倒くさいだとか、あんな場所に祠を作った先人の気が知れないだとかそんなことは思っていません。」
その部分だけやけに早口になる学園長に肩を竦め、見かねたルークが水を向ける。
「それでムシュー、私はお遣いをすれば?」
「さっすが話が早いですね!ハントくん、私の代わりにこれを御供えしてきてください。あなた狩りで獣道にも慣れているでしょう。森の奥の祭壇くらい、軽々行ってくれますよねぇ?」
「ウィ、お安い御用さ!」
長い付け爪に飾られた手から祭壇に備える香を受け取り、二つ返事で了承した。こんな風に学園長が生徒に雑用を押し付…いやお願いするのは日常茶飯事のことである。
「お礼に今度実習用に発注する貴重な薬品の一部を特別にサイエンス部に譲りましょう。私、優しいので。」
実はクルーウェルからサイエンス部の薬品在庫を今度補充するつもりだと前もって聞いていたが、知らぬふりをして礼を言う。
「メルシー、それは助かるよ!では、日が暮れない内に行ってこようかな。」
失礼するよ、と背を向けて歩き出すルークの後ろ姿を見送りながら、学園長は仮面の下ににんまりと笑みを浮かべていた。
「…えぇ、くれぐれもお気をつけて。」
✳︎✳︎✳︎
そうして学園裏手の森に向かったルークは、急斜面に沿った百段ほどもある石階段を越えて祭壇へと香を供えた。森の木々に囲まれた由緒ある祠。若干苔むした祀りの石碑はまるで時代に取り残されたように少々異質な雰囲気を醸している。とはいえ取り立てて変わった様子もなく戻ろうかと踵を返した、その時。
『…ほう、これはいい贄を寄越したな。』
どこからともなく、声が聞こえた。
『小童よ。お前は光り輝く魔法を扱う者だな。精神のカタチも悪くない。まさに求めていた器だ…!』
ぞぞぞ、とそこかしこで何かが蠢くような肌感覚。生理的な気持ち悪さでぞくりと身の毛がよだった。
「………パルドン、ムシュー。失礼だけれど、どちらに?」
辺りを見渡しても誰もいない。大抵どんなものの気配も鋭く察知できるルークにとって、居場所が分からないのは極めて珍しいことだった。それも、隠れるのが巧妙だからではない。声と共に現れたその気配は強すぎて、むしろ全方位に在るかのように感じられたのだった。努めて冷静な態度で、ピンと警戒の糸を張る。
『クククッ、いいだろう、人の真似事だが挨拶でもしようか。』
地を這うような声と共に、祠の前に前触れなく現れたのは黒々とした霧とも靄ともつかない丸い塊。決して大きくはないが、背筋が粟立つようなねっとりと薄気味悪い魔力をまとっていた。狩人の性とでも言うのか、ルークは帽子の陰から鋭い翠眼を向けて牽制する。とても生物とは言えない姿をしたその影は、そこで自ら名乗ったのだった。
『吾は時には聖、時には死、時にはケガレ、時には生命と呼ばれるもの。神聖にして不浄。死にして生命。門にして鍵。そうだな、人の子の言葉では…、"全てを均す者 "と呼ばれるに相応しい。』
かくしてルークはその怪異と対峙した。それは偶然だったのか、必然だったのか。
それでも、出逢ってしまったのだ。
「"エピクリシス"…というんだね、君は。あぁ、ご挨拶が遅れたけれど、私の名はルーク・ハント。美を称え美を助くことを生きがいにしている愛の狩人さ。」
『…ほう、吾の姿に恐れ慄かぬとは変わり者よ。貶め甲斐があるな。まして気に入ったぞ。』
まるで図鑑に載るブラックホールのような様相のそれは生物には見えなかったが、明らかな自我を持っていた。ゾクゾクするような好奇心を掻き立てられる一方、本能がどこか遠くで逃げろと警鐘を鳴らし始める。
「トレビアン、君のようにミステリアスな未知と遭遇するのは初めてだ。胸が高鳴るよ。」
さり気なく制服の胸ポケットに挿したマジカルペンに触れつつ、物腰に反して剣呑な眼差しで刺しながら言えば、エピクリシスと名乗った怪異は嘲るように応じた。
『クク…、"未知"か。』
クツクツと冷笑する影の中に、突然ギョロリと見開いた双眸と大きく吊り上がった口が現れる。
『そうであろうな…!そうであろうとも、罪を忘れた傲慢な人類よ!ならば教えてやろう。』
蔑みを湛えた眼が、値踏みするようにじろじろとルークの頭からつま先までを舐め回していた。
『小童、この世界が何故平然と回っているか分かるか。』
「この世界が美しい愛に満ちているから、かな?」
唐突な質問にも口元だけの薄笑いで間髪入れずに返しながら、背中には意思と関係なく冷や汗が伝っていく。あぁ、これはまずいかもしれないな、とルークはどこか冷静な頭で思った。
『フン、いかにも人間らしい傲慢な答えだな。真実は、あらゆるものが絶妙な均衡を保っておるからだ。富貴と貧困、戦争と平和、本能と理性。それら多様なる均衡が崩れると、世界は歪む。そこに吾は生まれ出ずるのだ。全てを等しく0に戻し、歪みを矯正するために。それが何を意味するかお前に分かるか?』
そこでエピクリシスはさも愉快とばかりに大きな眼を歪めて嗤った。
『吾の中に溜まっているのは、この世の全ての災厄だ。吾は時が経てばそれをすべからく解き放ち、この世界に終焉を告げる。すなわち、モンスターは暴れ、病は席巻し、地上は廃墟となり、多くの人間が死に絶えるのだ。仕方あるまい、それが吾の生まれ持った役目だからな。』
「……………!」
ざぁっと一陣の風が木立をざわめかせ、帽子の羽根と金糸の髪を揺らした。見開かれたエメラルドの眼光もまた、不意の驚きに揺らぐ。
俄かにはとても信じがたい話だった。何の根拠も確証もない。しかし妄言だと突き放すには、目の前の怪異はあまりにも禍々しい気配を放ち過ぎていた。ルークの直感がそれを野放しにしてはならないと叫んでいる。きゅっと体の横で拳を握った。
一度深呼吸をして平静を保ち、深い闇をじっと見つめ返す。
「それは…、あまりいい話だとは思えないけれど、本当かい?仮に真実として…、私に明かすことには何か理由があるのだろう?」
『ほう、愚鈍ではないようだが…、残念ながら嘘はつかない。吾は人とは違うからな。』
エピクリシスはそんなルークの様子を見てニヤニヤと卑しく笑っていた。
『クククッ…だが、いい話ではない、それには同意しよう。吾もただ宿命を果たして潰えるだけというのは至極つまらぬのだ。しからば小童、吾の気まぐれでお前に選ばせてやることにした。』
それは、絶望と絶望の苛烈な二択。
『お前が吾の宿主となるならば、お前と共に異空間に消えこの世に災いを齎さぬと約束する。解除できない時限爆弾のようなものゆえな、お前に憑いて異空間に移る以外に救世の方法はない。しかし、お前が受け容れられぬと言うのなら、吾はここで時が来るのを待ち使命通りこの世に破滅を授けよう。要するに、お前が生贄となって吾と心中しこの世界を救うか、この世が混沌で満ちるのを愚かな仲間と共に茫然と眺めるかだ。まぁ後者を選んだところでお前が生き残る保証はないがな。好きにしてよいぞ、ルークとやら。』
ぐっと奥歯を噛んで俯く。どうしたってこの怪異に勝てはしないと分かる。自我はあっても無機物だ。自分の影を殴っても魔法で攻撃しても効き目がないのと同じように、祓う手段はないように思えた。身体の芯から凍えるような怖気がするこの凶禍が世に放たれたら…、なんて想像だけでゾッとする。大切な人々が悲鳴をあげて逃げ惑う姿が、ルークの脳内には容易に浮かんだ。太陽が沈むのを誰も止められないように、自然災害のようなそれを阻止することなどできない。本人が言うようにこの怪異が自らの意思で異空間へ消えでもしない限りは。
——自分一人の選択で、全てを救えるのだとしたら。他に方法がないのなら。答えは自明だった。
「……いいよ、エピクリシス。君と共にゆこう。」
しばらくの間、茫然と立ち尽くしていたルークが静かに口にした答えに、エピクリシスは恍惚として笑った。
『ククッ、それでよいのだな。』
最後通告のような言葉。
ルークの脳裏に唐突に浮かんだのは、白衣の後ろ姿だった。いつかの召喚術の実習中、靡いた彼の白衣、チラリと見えたしなやかな尻尾。
あぁ、彼が知ったら。もしかしたら叱ってくれるのかな。すまないね。それでも、私は。
「ウィ、おいで…!」
淡く微笑んで両腕を広げると、漆黒の瘴気のような塊は素早くずるりと体内へ入り込んだ。ルークは一瞬だけゾクリと身震いし、しかし入ってしまえば普段通り変哲のない自分の身体に面食らう。
すると、ルーク自身の影の中に一つのギョロ目が開き、ニッと歪んだ。
『お前を気に入った。一日の猶予をやろう。出立は明くる夜。それまでは気配を消してやる。』
「…ふふ、優しいね。」
『優しさだと思うのか?吾は人間が掌の上でどう踊るかを見たいのだ。お前の絶望した顔を見るのが楽しみでならない。』
「君の期待に応えられるかは分からないけれど…、私は何故だか君のことが嫌いではないよ。」
『フン…』
たおやかな微笑を浮かべたルークに、エピクリシスは不満げに鼻を鳴らし、ふっと気配を消した。
✳︎✳︎✳︎
せっかくもらった一日の猶予だったが、ルークは普段通りの学園生活を送ることに決めていた。誰かに怪異との遭遇について話すことはできない。異空間に行くことを止められてしまっては、元も子もなくなるからだ。
「ルーク、お前…いつにも増して気色の悪い気配がするぜ。」
だから、レオナにそう言われた時、内心では少なからずドキリとした。エピクリシスはほぼ完全にあの強大な気配を隠していたが、流石の感知力である。
にこにこと上手に煙に巻き、なんでもないように振る舞いながら、まるで小さなガラスの破片が胸に突き刺さるような感覚を覚える。
「誰がてめぇの心配するか、変人野郎。面倒ごとに巻き込まれでもしたら敵わねぇからに決まってんだろ。」
何故。いつもいつも、肝心な時に気づいてくれるのは、見い出してくれるのは、君なんだろうか。
きゅっと三日月型に目を細める。アデューは言えないけれど、大切な皆のために何かを置いていくならば。
「兎にも角にも、心配には及ばないよ。」
少々強引にレオナを言いくるめ、舌打ちしながら立ち去る後ろ姿をぽつんと残された廊下で見送る。
「……ねぇ、エピクリシス。」
《何だ、小童。》
「君はとても強力な魔法がかけられるんだろう?」
《ククク、その洞察は正しいが…、お前、何か企んだな?》
自分がいなくなったら、必死に探し回ってくれる家族や友人たちがいる。そう思う程度には自惚れている。それに、気配を察知した彼に至っては何らかの後悔を抱えてしまうかもしれない。
皆の思い出に自分がいる限り。それならば。
「ウィ。一つ、お願いがあるんだ。」
そうして滔々と告げた願いに、エピクリシスはこの上なく愉快そうに笑って約束してくれたのだった。
すなわち、ルークの存在を"なかったことにする"ということを。
「アタシ、どうして忘れてたのかしら…。」
「おい、昨日から何度目だてめぇ。」
「だって本当に信じられないのよ。アタシがルークのことを忘れてたなんて…!」
昨日、記憶映しの魔法を行った直後、愕然としてその場にへたり込んだヴィルに一瞬焦ったレオナだったが、効き目は期待以上だった。ヴィルはこれまでの"正しい"記憶を思い出し、虚構との間でパニックを起こすこともなく受け容れたのだ。他の皆にも記憶を見せようと彼は言ったが、レオナは承知しなかった。結局、「てめぇは兎も角、他の連中は誰が敵味方も分からねぇ状況でできるか。やるとしても最低限必要な範囲だ」と冷静に諭したレオナに、ヴィルも理解を示したのだった。
二人は今、放課後の図書室で机を挟んで向かい合っている。机の上には書架から持ってきた山積みの本。やはりまずは敵を知ることこそが重要で、その手掛かりを探すしか道はないのだ。ヴィルから勿忘草の知見を得たように人を頼れば広がる視野もあるが、先の理由から無闇に他人にエピクリシスの話はできない。
"吾は時の運命により地上に終焉をもたらすべく生まれる。吾の中に存在するのは全ての悪、全ての負だ。時が満ちれば吾の中に肥え満ちた災厄が地上を葬るだろう。"
あの日、エピクリシスが自身について語ったのはそれが全てだ。神話、大洪水、怪異、地上の終焉。具体は分からないが、例えば自然災害のように何かしら大きな災いを起こすものだとして、それを止めるためにルークは消えたというのか。
"ゆえに、取引したのだ。この小童が贄となるのであれば、吾は地上に災厄を撒き散らすことなく、時空の裂け目へ身を引いてやる、とな。"
真偽不明だがあの言葉が仮に本当だとするなら、ルークは生贄となって一身にあの災禍を背負い、別の空間へ向かったことになる。怪異はルークの身体に取り憑いているように見えたし、もうあれから一ヶ月近くが経過している。今も無事かどうかすら、分からない。
「チッ…、あのクソ怪異…!」
「ちょっと、勝手にイライラしないで。黎明の国の神話に出てくる大洪水と神隠しの話が少し気になるから、アタシはそっちをもう少し詳しく調べてみる。アンタは…」
「…ほう、もしやおぬしら、"エピクリシス"について調べておるのか?」
「「…………!!」」
突然降ってきた声の主へと二人は瞠った瞳を向ける。
「リリア、アンタ……!」
背丈は小さいが決して侮ることのできない妖精族の男が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「くふふ、レオナが最近そういう調べ物ばかりしておるようじゃったから、ずっと気にはなっていてな。書架の影からストーキングしてたんじゃ!」
にこにこと悪びれなく言いながらリリアはヴィルのすぐ隣席へと座った。
「くそっ…あの野郎みてぇな真似…。」
「はて、あの野郎…?」
「何でもないわ、リリア。それよりアンタ、"エピクリシス"って名前を知ってるの?」
ヴィルの問いに、リリアはふと意味深く目を細める。
「あぁ、それなりに知っておるぞ?古来よりそう呼ばれるものの存在はの。」
確かにリリアは博識だ。特に歴史については教師より詳しいとすら評されるほど。彼に聞くのは得策である。得策であるが、しかし。
「てめぇ、何故俺を尾けてやがった。言えねぇ理由なら三枚におろすぜ。」
状況からして警戒しない訳にはいかない。ギラリと刃物のように鋭く光る新緑の木々の色をした瞳に、鮮血のような緋色がうっそりと笑った。
「ほう、おぬしがこのわしを?」
「…ハァ、煽らないでリリア、本当のこと言って頂戴。」
一触即発の雰囲気を醸す二人に、ヴィルは呆れ顔で言った。事情がなくてもこの二人の反りが合わないのはいつものことなのである。
「くふふ、心配するでない、ヴィル。話すとしよう。…あれは一月ほど前じゃったかの、上手く隠されてはおったが、マレウスとわしは何か大きな魔法の痕跡に気づいたんじゃ。」
リリアはまず強力な魔力を持つ茨の谷次期当主の仕業と疑って尋ねたが、身に覚えはないと宣ったらしい。それなら誰が、と訝しんでいたある日、滅多に図書室になど来ない人物を見かけて不思議に思ったのだ。
「おぬしじゃよ、レオナ。熱心に古代神話の書架を見ておって、本のラインナップからもしやエピクリシスについて調べておるのかと見当をつけた。マレウス以外の強大な魔力の持ち主として、候補に数えうる存在。辻褄が合うからの。」
「仮に俺がそれを調べてたとして、てめぇが尾けてた目的は何だ?」
「もしもエピクリシスがこの世に生まれてしまったのであれば、他人事ではないからじゃ。おぬしらが概ね調べておる通り、あやつは災厄を撒き散らす。より具体を言えば、あやつのせいで世の中が戦火の渦に飲まれたり疫病が流行ったりして多くの者が死んでいく。まぁそれがあやつのせいということは、なかなか伝わっておらぬがな。その点、妖精族に残る文献は充実しておる。」
「…なるほど、それでアンタも一緒に探ろうとしてるって訳?」
「あぁ。じゃが、わしが真に恐れたのは奴のもう一つの特性じゃ。」
「もう一つの特性?厄を撒き散らすって以外に何かあんのか?」
「うむ、エピクリシスが出ると…、光属性の魔法士が神隠しに遭うと言われておる。もっとも、必ずかは分からぬが。光が強いほど影は濃くなるもの…、魅入られてしまうんじゃろう。」
「「…………!!」」
レオナは小さく息を呑み、ヴィルは口元を手で抑えた。光属性の魔法、それを彼も使うから。
「ウチには光属性の魔力を持つ子がおるからの。ゆえに"他人事ではない"。」
リリアはぐっと眉根を寄せてそう言った。童顔の見た目に反して凄みのある表情。信じるに足る理由があった。
レオナは数秒じっとその顔を見つめ、それから意を決して口を開く。
「……てめぇの言う通り、エピクリシスが現れた。それで知ってる奴が、一人その怪異に拉致られやがった。」
「なんじゃと……!?」
「リリア、お前がエピクリシスについて持ってる情報を寄越せ。贄になった奴を連れ戻すために協力しろ。貸しに換算して構わねぇ。夕焼けの草原王室に恩を売っておくってのは、茨の谷にとっても悪くねぇだろ。」
ニヤリと悪どいながら端正に笑ったレオナを、ヴィルは少し驚いた顔でじっと見つめた。あの不遜な獅子が他人に協力を求めている。それも敵視してばかりいるディアソムニア寮の副寮長に。かの男のためにそこまでするんだな、とヴィルは率直に意外だったのだ。
「ふむ…あい分かった。わしもそのリスクへの対処を講じておいて損はないからの。」
そう言って普段通り屈託なく笑ったリリアは、惜しみない協力を誓った。
✳︎✳︎✳︎
結果として、リリアを引き入れたことにより状況は遥かに進展した。
ポムフィオーレ寮の地下実験室、鍋の水面にできた波紋をリコリスのような緋が睨みつける。
「なるほど…、悠長にはしておれんようじゃの。」
ヴィルの時と同様、記憶映しで仔細を見せてルークの存在を思い出させたが、百戦錬磨の妖精は微々として動じることなく、ただ普段はあまり見せない険しい表情で一言そう述べた。そして自らの知る情報を開示してくれたのだった。
リリアによれば、大洪水…つまりエピクリシスは、古来より魔力の吹き溜まる場所に生まれやすいと言われるらしい。溜まりすぎた魔力の澱が歪みとなって怪異を発生させるのだという。魔法士からは常に魔力が自然と空気中に発散されている。ナイトレイブンカレッジのように高い魔力を持つ者が集う場所にはそれが濃く充満しているのだ。
「それでも通常であればエピクリシスが生まれるほどの事態にはならぬが…、ほれ、今年は色々あったじゃろう、魔力出血大サービスの事件が。」
「……!オーバーブロットね…。」
ここにいるレオナもヴィルも、一度陥っている。極めて珍しいはずのその現象が今年は頻発していたのだ。
「ま、そもそも従来の蓄積ではあるんじゃがな。」
ヴィルが膝の上で拳を硬く握った。自分のせいで…なんて思っているのだろうなとその姿を視界に収めながら、レオナは落ち着いていた。
正直、怪異が生まれること自体は自然災害と同様に仕方のないことだろう。その矛先が見ず知らずの者であれば、全くもって構わない。そういう冷たさをレオナは持ち合わせている。あるいはその怪異が振り撒く災いが、たとえばこの星の全生物を死に絶えさせるようなものだったとしたら、それはそれで構わない。終わりだけは平等だなと割り切って不貞寝するだけだ。
でもあれは違う、とレオナは切に思った。別れを前に淋しそうに笑ったエメラルドの瞳。哀切を押し込めて緩い弧を描いた唇。
あれを諦めてしまったら、もう俺は俺じゃない。
「……で、エピクリシスとルークの野郎を引っ剥がす方法はあんのか?」
「…ふむ、怪異と宿主を物理的に断ち切る方法はないじゃろうな。」
絶望的なまでにはっきりきっぱりとリリアは言い切った。
「じゃが、あやつを取り戻す方法は一つあるぞ。」
「チッ、どっちだよ。」
その一見矛盾した言葉に、レオナは片眉を上げる。
「物理的に、と前置いたじゃろ。物理的に縁は切れぬが、博打のような方法なら一つだけあるんじゃ。」
「勿体ぶらないで、リリア。どんな方法でも構わないわ。」
「くふふ、これぞシンプルじゃ!"時を戻す"、それが唯一の方法よ。」
「……はぁ!?」
その突飛な発言に、素っ頓狂な声をあげたヴィルと、耳をぴるりと動かしたレオナは揃って目を見開いた。その表情に満足したのか、悪戯好きな妖精は泰然と笑う。
「おお、良い反応じゃな。何が何でも救おうとするなら、ルークがエピクリシスと出遭うより以前に世界の時を巻いて戻す他はあるまい。まぁ一口に時戻しと言うても、おおよそおぬしらも分かっておる通り、リスクだらけじゃ。それを承知で検討するしかないのう。」
「リスクも何も…、国際法違反の犯罪だわ…!」
ヴィルの言う通りだった。そもそも、時間を操る魔法は相当に高度である。発動させること自体も難関だが、それを差し置いたとしても時間操作——つまり時送りと時戻しはご禁制の魔法である。以前ハロウィーンの日にマレウスがやったような、内輪で少し時間を停めるというのとは訳が違う。世界中全ての人を巻き込む罪は計り知れない。
「別にそれはいい。方法がそれしかねぇならやる。」
しかし、それでもレオナは即行でそう断じた。
「レオナ……!」
「…わしやマレウスと同程度の実力がある魔法士であれば、時の歪みに気づく可能性もあろう。バレたらおぬし、世界から追われるぞ?」
「ハッ、上等じゃねぇか。そんなもんどうとでもしてやるぜ。」
「それに、わしから提案しておいてなんじゃが…、たとえ時戻しが無事に済んだとて、ほとんどの場合"その時点までの記憶"に修正されるのじゃ。すなわち巻き戻った先ではルークもおぬしらもエピクリシスのことを間違いなく忘れておるじゃろう。時が歪めば必ず同じことが起きるとは限らぬが、時戻しをしてもあやつが再度エピクリシスに魅入られる可能性は高い。つまり、先延ばしするに過ぎぬかもしれんぞ。」
ただ過去に戻るだけ。そう、時戻しはテープの巻戻しと同じなのだ。タイムスリップの類と違って魔法を発動した者の記憶が引き継がれる訳ではない。リリアの言う通り、同じことの繰り返しになるかもしれない。否、なるだろう。
しかし、稀に。偶発的に発動者の記憶が引き継がれることがあると言われている。でなければ、この魔法の存在自体認知されることはなかったはずなのだ。記憶の引継に係る条件は未だ解明されていないから、そんな奇跡が起こる可能性など0に等しいのだが。それでも、蝶の羽ばたきが時に嵐を呼ぶように、ほんの少しの歪みで世界が変わることがあるのなら。
「それも構わねぇ。僅かだろうが違う未来にする可能性があるなら賭ける。それに…、巻き戻した世界であいつが再度エピクリシスに魅入られようと、俺が必ず連れ戻す。何度でもな。」
目の前でアメジストの大きな瞳が揺らぐ。流石のリリアも意外そうに、燃える炎のようなルビーの目を瞬いた。レオナは二人の目を正面から、少しの怯みも迷いもなく射抜いてみせる。
「ほう、おぬし…。」
「レオナ、アンタ……。」
これが彼の運命だとか、そういう星の下だとか。大嫌いだった。初めから不平等な車輪だ、その車軸を傾けて不平等に誰かを救ったっていい。たとえ世界中を巻き込んだって、世界中から非難されたって。
「……承知した。ならば時戻しを行うことについてはもう何も言うまい。じゃが、まだ課題はあるぞ。ルークは今異空間におるのじゃろう?時戻しにはあまり例がないから真否は分からぬが、確実を期すのなら本人がおる場所で魔法をかけねばならん。最悪あやつだけ時空の狭間に置いていかれる可能性もあるからの。どうにかしてルークの居場所へ行く方法を探さねばならんぞ。闇の鏡とて場所が分からねば行けまい。」
レオナは息吹く萌芽のような鮮やかな翠眼をすいと逸らし、束の間思案するような顔をした。
「……あぁ、その方法は俺が用意する。」
「宛はあるのかしら?」
心配げなヴィルの声に、しかしフッと人を食ったような笑みを浮かべてレオナは言った。
「現時点ではねぇな。だがこういう時のために頭があんだろうが。何かしら捻り出してやるよ。」
自信たっぷりのレオナの姿に、ヴィルは安堵半分、呆れ半分で息をつく。
敵を知った。ゆえにルークの意志を理解した。救う手立ても見つけた。チェックメイトまであと一手。もう少しで彼の待つ王座に手が届く。
早く。早くあの男に会って、この苛立ちを清算したい。
尻尾が無意識の内にゆうるりと揺れた。
「よい意気じゃな、レオナ。ならばおぬしにこれを渡しておこう。ポムフィオーレに来る前にディアソムニアに一瞬寄らせてもらったじゃろ?やはり取りに行っておいて正解じゃったな。」
そうして差し出されたのは、恐らく妖精族だけに伝わるという古文書の一つ。
「わしのとっておきの魔導書じゃ。時戻しの呪文とそれから… 大事なことが書いてある。」
レオナはそこで僅かに息を呑んだ。リリアが、憐れむような、慈しむような、そんな瞳をして淡く微笑ったから。言葉でそれ以上を語らない男の感傷的な眼差しをじっと受け止め、レオナは受け取った魔導書を持つ手にぎゅっと力を入れた。この中にその答えはあるのだろう。
「…ふむ、では今日のところはわしはディアソムニアに戻るとしようかの。くふふ、実はさっきからセベクからの着信が鳴り止まんのじゃ!」
重苦しい空気を掃いて捨てるように、いつも通りニカッと笑ってリリアは席を立つ。いつの間にか、それなりにいい時間になっていた。スマートホンに目を落とせば、ラギーから二回ほどの着信と「晩飯いるんスか?いらねぇなら先に言ってほしいッス!」と母親かのようなメッセージが届いていた。足取り軽く立ち去るリリアの後ろ姿を見送り、レオナもひとまずサバナクロー寮へ戻ろうかと立ち上がる。
すると不意に、そこでヴィルが呼び止めたのだった。
「…ねぇ、レオナ。」
「何だ、ヴィル。」
「もし生贄になったのがルークじゃなかったら、アンタはここまで奔走したのかしら。」
珍しく机の上に落ちた視線。シャンパン色の長い睫毛が頬に淡い影を落としている。レオナはしばらくそのアンニュイな顔を静かに見つめ、それから大きな溜息と共にガシガシと前髪を乱した。
「……さぁな、知るかよ。」
くるりと背を向けて今度こそ地下室を後にしたレオナの背に視線を向けながら、ヴィルだけはまるで照れ隠しのようなその仕草が何よりも雄弁だということに気付いていたのだった。
あれはたしか、二度目の三年生となってすぐの季節だったと記憶している。
「召喚術の授業は二年生まではなかったから、実践するのは今日が初めてさ。ぜひ色々と指南しておくれ、獅子の君。あぁ、見知らぬ領域に足を踏み入れる洗礼のような感覚、胸の高鳴りがやまないね!」
「うぜぇ…っ!近寄るなクソ狩人。」
視線だけでも鬱陶しいのに期待に満ちた声で話しかけてくるものだから、レオナはうんざりしてルークから距離を取る。彼が後輩だった頃から散々追いかけ回されて迷惑していた間柄だったが、何がどうしてこの男と同じクラスに振り分けられたのか、教師陣を恨まずにはいられない。
召喚術は少しのミスが命取りになるような繊細な魔法で、危険を伴う可能性があるとして実習の際は実験着姿である。全てのボタンをきっちりと留めた暑苦しい姿で、それでも涼しい顔をしてニコニコと笑う男に更にげんなりと溜息を零した。
実習自体はレオナにとって欠伸が出るほど簡単で、サボらなかったことを後悔し始めた頃合。
「あれ?何か、変なオーラが…っ!?」
事故が起きたのは、本当に唐突だった。レオナの斜め前方で魔法陣を発動させたディアソムニア寮のクラスメイトが、不思議そうな声をあげて首を傾げている。
「お前、詠唱を間違えたんじゃないか?」
「え、そんな訳は…」
…——パキパキパキッ!
発動者が近くにいた同寮の生徒と怪訝な顔で会話を交わしていたその時、魔法陣の端から黒い閃光のような鋭いオーラが漏れ出した。
あれはまずいな、と他人事に思った瞬間。目の前を過って飛び込んだ、目を奪われる一線の金色。
ルークだった。
「伏せて!」
彼は発動者の生徒と魔法陣の間に割って入り、その男を庇うように飛びついて組み伏せる。眩ゆい閃光と共にすぐその背後に現れたのは、彼の二倍以上も背丈があろうかという厳つい異形のモンスターだった。遠い砂漠の奥地に住むと言われる獰猛な種。それがとんでもない速度でルークの背に襲い掛かろうと鉤爪の手を振り下ろした。
「………っ!」
バチィンと轟音が鳴り響き、モンスターの念動力で実験室の窓ガラスが一斉に割れる。空中に舞った羽付き帽子。降り注ぐガラス片。劈くような周囲の悲鳴。怒ったモンスターの地鳴りのような唸り声。その中で。
「獅子…の君…?」
肩越しに振り返ったルークの目に映ったのは威風堂々たる獅子の背中。レオナが眼前に張った魔法障壁がモンスターの一撃を強固に受け止めていた。

「チッ…自力で調伏できねぇようなモン喚びやがって。」
吐き捨てた言葉と同時に、右手に携えたマンダリンオレンジの魔法石には煌々とした光が集まっていく。
「俺こそが飢え、俺こそが渇き。お前から明日を奪うもの…——平伏しろ!王者の咆哮!」
鼓膜が破れるような鈍く醜い断末魔をあげながら、レオナのユニーク魔法の元、モンスターの巨体はビキビキと亀裂に侵され一瞬の内に砂塵へと帰した。風通しがよくなった室内で、吹き抜けた風にザァッと虚しく砂が舞い上がる。大丈夫か、怪我はないか、と周囲の小煩い喧騒をよそに、ゆったりと後ろへ振り向いたレオナは呆然としていたエメラルドと目を合わせた。
「……レオナ、くん…、ありが」
「てめぇ…っ!ふざけんじゃねぇぞ変人クソ野郎!」
「オ、オーララ、予想以上のお言葉だ。」
床に尻餅をついたままだったルークの胸ぐらを掴んで暴言を吐くと、彼はへらりと緩く笑った。締まりのないその笑顔にブチリと琴線が切れる。
「三年にもなって魔法障壁も張らずに俺の手を煩わせるとはいい度胸じゃねぇか、ルーク。」
駆け寄ろうとしていた教師までもがピタリと固まるほどドスの効いた重低音にも、ルークは何食わぬ顔である。
「私の魔法の発動スピードは君ほど早くないからね。堅牢な魔法障壁を張るよりは、こちらの方が早いと思ったのさ。」
「チッ…、だったら何故そいつの盾になった?俺が対処しなけりゃてめぇ今頃八つ裂きだったぜ。別に大して関わりもねぇそんな奴…、放っておけばよかったろうが。」
ルークの後ろで失神してしまったらしいディアソムニア寮生を鬼気迫る形相で睨みつける。明らかな苛立ちを含んだ声にルークは数度パチパチと瞬き、それからまたニコリと一層腹の立つ笑みを浮かべた。
「うーん、そう…だね。たしかに君の言う通りさ。けれど、咄嗟に身体が動いてしまったものは仕方がないよ。それよりも獅子の君、先ほどの君の魔法、まるで銀河に煌めく星屑のような砂粒が実に美しかったよ!トレビアン!」
キラキラした瞳で語られる呑気な賛辞に牙を抜かれたような心地になりながら、レオナは眉間をぐっと寄せて目を瞑った。
「人の話聞く気ねぇなこいつ…!」
「おや、聞いているよ。心配してくれたのだろう?メルシー、レオナくん。」
「あぁ?どんなポジティブ解釈してやがる…!俺に面倒事ふっかけんなっつってんだろうが、くそ…っ!」
腸が煮え繰り返るような感情の遣り場を失ったレオナは、ゆらゆらと揺らす尻尾にフラストレーションを預けながら、ようやく掴んでいたルークの襟を離した。分かりやすくホッとした周囲が駆けつけ、口々にルークや後ろでのびている生徒へ怪我はないかと心配げな声をかけている。
「獅子の君…!」
レオナは背中にかけられた呼び声を無視して静かに実験室を後にした。授業時間中の誰もいない廊下のひやりとした空気に、煮えたぎった温度を少しずつ冷ます。
無性に腹立たしくて、苛立たしくて、仕方がなかった。許せないと思った。だが、何故彼に対して腹が立つのか、何故許せなかったのか、結局のところレオナにはこれっぽっちも分からず、それに余計むしゃくしゃした覚えだけが今も記憶の底にこびり付いている。
✳︎✳︎✳︎
ルークがこの世界から去った時、あの時と同じ怒りが腹の底から沸々と湧き上がった。今も自分はあの怒りに、理由を見い出せないままなのだろうか——。
レオナはサバナクロー寮の自室で、制服のままベッドの上に横たわっていた。着替えの魔法も億劫なほど、連日の膨大な調べ物で流石に疲労が蓄積しているが、泣き言を言っている場合ではないのだ。
時間がない。気を抜くと焦燥で道を間違えそうになる。今だって、もう手遅れかもしれない…ということだけは、なるべく考えないよう蓋をし続けていた。ヴィルもリリアも、それだけは決して口にしない。彼らを巻き込み利用している立場だと自身に言い聞かせながら、そういう優しさを本当は理解していた。初めに"参ってるんじゃないの?"と指摘したヴィルはきっと正しく、一人では自嘲するほど無力で脆く。だが今は強靭な駒と化した彼らの力を得て、王手まであと一歩というところまで追い詰めている。だからこそ独りの時に臆病な弱音が心の隅にチラついても、レオナはそれを叩きのめして毅然と立ち上がるのだ。時戻しなんて大層な真似に迷いながらも止めないでいてくれる彼らの、司令塔であらねばならないから。
ほんの少し感傷が首をもたげたのは、リリアから受け取った魔導書を読んだからかもしれない。そういうことかよ、と手渡した時のリリアの表情が腑に落ちる内容だった。"それでも"時戻しをする覚悟はあるかと試されたような気もして、食えない妖精に少しだけ腹は立ったが決心自体が揺らぐことなんてない。
だが、そもそも。そもそもだ。何故あんな男のために、こんなにも必死になっているのだろうか。厄介で面倒ばかり、人のペースを掻き乱すのもお構いなし。日常ではわざわざ避けて通るような相手だというのに。
"もし生贄になったのがルークじゃなかったら、アンタはここまで奔走したのかしら。"
小生意気なヴィルの言葉を胸の内で反芻する。
「知らねぇよ…。」
自分以外の誰もいない空間に小さく文句を溶かしながら、そっと右手を天井へ伸ばして翳してみた。あの日、必死に伸ばして届くことのなかった彼の右手。静かに瞼を下ろせば浮かぶものは唯一つ。
今レオナを突き動かす原動力になっているのは、紛れもなく怒りだ。あの日鏡の間で見た切なげな微笑に、身体の奥から焼かれるような憤りをずっと感じている。たしかにその感情はルークに対してしか覚えたことのないもので、しかし理由となると説明できない半端さもあって。
レオナは一つ溜息をついてぱちりと両眼を開いた。
「…それより今はあの野郎の場所を特定する方法、だな。」
悶々とした思考に意味はない。遠い日の追憶に浸っていても仕方がない。
考えろ。ルークの元に行く方法、ルークにもう一度触れる方法。こんな時に彼がいたならば、ユニーク魔法で簡単に居場所が分かったのだろうか。もっとも異空間は対象外かもしれないが。肝心な時にいないものだと虚しさに薄く笑う。
考えろ。ルークのいる異空間へ行く方法。異空間とこの世界を繋ぐもの。鏡、それから——。
「…………!」
レオナはハッとして勢いよく上体を起こした。ドクン、と心臓が高揚を告げる。
あった。一つ。可能かもしれない方法が。
「…ハッ、くだらねぇ追憶が役に立つこともあるじゃねぇか。」
ニヤリと口角を上げて笑ったレオナのペリドットは、縦長の瞳孔を開いて爛々と輝いていた。
モノクロの薄暗い廃墟の中は、ずっと夜明けのようでもあり、ずっと日没後のようでもあった。あるいは白夜というものは、こんな寂しくて儚い薄明の色をしているだろうか。
「はっ、…ふぅ、ぅ…」
『ククク、苦しいなら泣き叫べばよい。泣いて縋れば楽にしてやるものを。』
こめかみから伝う汗に構うこともできず、ルークは滅びた玉座を支えになんとか持ち堪えていた。エピクリシスとの融合は刻一刻と進んでいる。元の世界と時間の流れが異なるこの空間に来てから、ルークの体内時計での時間経過はおよそ一日半ほど。左腕を起点に広がった黒いクレマチスの花紋様は今やルークの顔の左半分を覆い尽くしていた。服に隠れて見えていない右腕や体幹もほとんどを紋様に絡め取られ、右半身も首筋まで迫っている。その蔓によって現実に縛り上げられているのかと錯覚するような苦しさと灼け焦げるような熱に耐えながら、ルークはふっと息を漏らして悪意へと緩く笑み返した。
「ふ、ふふ…君は私を、絶望させたいよう…だけれど、私が…絶望することはないよ、エピクリシス。」
その言葉に、それまで身体を覆う黒い靄の中でニヤニヤと底意地悪く笑っていた口が、真一文字に引き結ばれる。エピクリシスはさもつまらなさそうな眼をして明後日の方向へ視線を投げた。荒い呼吸をしながら数瞬の沈黙をやり過ごせば、その不気味な眼と口が何か良からぬことを思い付いたとばかりにニタリと歪んで再びルークへと向いた。
『…なるほど。お前は痛みよりも、こちらの方が屈辱であろうな。』
「…………?」
ずるりと這い出した黒い影が、初めて遭った時のようにルークのすぐ目の前で丸い塊の姿になる。しかしあくまでその一部分はルークと繋がったままで融合を解かれた訳ではなかった。何をするつもりだろうか、とルークはただ静観しながら椅子に凭れていた身を起こして毅然と座り直す。すると、その黒い塊の端がにょきりと伸びて人の手を形作り、寮服の襟元へと伸びた。首を絞められるのだろうか、と思えば。
ブチブチブチッと、粗野な音。
「………っ…、」
服の右側を掴んだ手が至って乱暴に襟を開かせたのだ。詰襟の釦が数個弾け飛び、紋様が浮かぶ真っ直ぐな鎖骨が露わになる。
『クハハッ、クハハハハ!この場に獅子の小童がいないことが悔やまれるなぁ。お前が穢される様を目に入れられぬのは残念だ!』
エピクリシスは熱に浮かされしっとりと湿った首筋を、わざとねっとりとした手つきで撫で上げた。大口を開けて愉悦に狂い笑う口。期待したのは、恥辱と絶望に歪む顔。
…だというのに。
眼前に座す人間は無抵抗、そして無反応だった。ルークは太古から在る深い森のように落ち着いた瞳で黒く歪な塊をじっと見つめ返している。期待に反した姿にエピクリシスはキッと忌々しそうに眼を吊り上げ、とうとう憤慨した。
『何故だ!何故吾に隷従しない!何故絶望し泣き喚き、助けてくれと懇願しないのだ!小賢しい人間め、壊れるまで穢してくれる……っ!!』
憎々しげに歪んだ双眸がルークを射抜き、獰猛な手が頤をくいと上げさせる。その剣幕さえも、ひと匙とて効かない。まるで人形を相手にしているかのような手応えのなさに、エピクリシスは更に苛立ちを募らせてギリギリと歯軋りする。黒闇の中に渦巻くのは、いっそ清々しいほど純粋で明白な悪意の奔流、その只中へ——。
ふわり、と。徐に。
そこで、悪魔のような暗黒の塊を天使のような優しさで包み込んだのは、力の入らないルークの手だった。掬うように真っ直ぐに伸ばされた両手は、まるで全てを差し出すかのように。
「……いいよ、エピクリシス。君が望むのなら…、」
それは一見、聖者のように柔らかく穏やかな表情。しかしその瞳の奥には、決して折れない闘志があった。
「それで君が機嫌を損ねずに、大人しく私と逝ってくれるのなら……!」
その言葉にゾクリと怯んだのは、最早エピクリシスの方だった。
完全に融合が終われば、きっと彼はすぐにでも葬るつもりなのだろう。怪異の存在を確実に消し去るために、自らの身ごと。彼が掬い上げるのは、エピクリシスの首が載った盆一つで、そのためならば掌の上で優美に舞ってみせもする。
まさか、飛んだ食わせ者ではないか——。
まさに口密腹剣。物腰柔らかく温かに微笑いながら、澄み切った氷のように冷やい覚悟を最初からずっと腹の底に秘めていたのだ。
自身さえ餌にして獲物を狩り取る。狩人と名乗ったのは伊達ではないのだなと今更にたじろぎながら、エピクリシスはその決意にゾクゾクとした高揚を禁じ得なかった。むしろ火が付くのは、これしきで退いてたまるかという意気。
『…なるほど、その決して吾が物になろうとしない頑なな瞳……!いいだろう、ならばその目から光が消えるまで嬲ってやるとしよう!!』
影絵のような指先が晒された首筋をつぅっとなぞり、無作法に鎖骨の下へ潜り込もうとした、その時。
……——バシュッ!!!
空気が爆ぜるような大音が突如ルークの真後ろで響いた。
「触んな、クソ怪異。」
振り返る間も、なく。
背後から首に回された温かい右腕。革手袋をした右手が、暴かれかけた首元を隠すようにルークの左肩をぎゅっと引き寄せる。捲られた制服の袖から覗くのは褐色の肌。犯そうとしていた黒い影の手を握り潰すように掴んで止めたのは、力強い左手で。
『離せ!!離さぬか、貴様ァ!!』
じたばたと暴れるのは、黒々とした闇の塊。掴まれた掌中からずるりと逃げ出して怯んだ影に、間髪入れずマジカルペンの切っ先が向けられる。
『何故だ…!何故、貴様がここにいる!?』
「ククッ、非礼を詫びるぜ?大層いいご趣味の余興をやってたもんで、つい招待状もなしに来ちまった。」
振り向くことができなかった。それでも紛うはずのない、陽だまりのような匂い。ずっと遠ざかっていた背中に感じる温もりに、自分がまだ生きていることを教えられる。迫り上がる何かを震える喉元に飲み込んで、ルークは首に巻かれた腕にそっと右手を触れた。
「……レオナ、くん?」
掠れかかった小さな小さな呼び声に、背後にピタリと身を寄せた男が耳元でクツクツと笑った。
「よう、ルーク。随分といいザマじゃねぇか。」
そんな意地悪な一言に、どうしようもなく焦がれる。
「……どう…して…っ…君が…っ!」

背後に突如として現れたのは、レオナ・キングスカラーその人だった。彼はルークの疑問には答えず、その代わりにか左肩を抱く右手にはぎゅっと力が篭った。
✳︎✳︎✳︎
遡ること、数時間。
バァンッと分厚いヘッドホンごしにも届いた騒音に、パソコンへ齧り付いていたイデアはギョッとして振り返った。
「なっなな、何でっ!レ、レレレ、レオナ氏ッ!!?」
イグニハイド寮内の自室のドアを蹴破ったのは、傍若無人が服を着て歩くような男の姿で、慌てたイデアはヘッドホンを取り落としながら途端にパニックに陥る。
「悪ぃなァ、イグニハイドにはそれほど来たことがなかったもんで、"うっかり"道に迷っちまったらしい。邪魔するぜ。」
反射的に身体の前を腕で庇おうとするイデアを見て、レオナはクツクツとほくそ笑みながら平然と言い放った。
「ハ、ハァッ…!?せ、拙者何かしました?…ていうか、ノックなしが許されるのはハーレム物のラッキースケベ展開だけなのでは?ほんと流石ですわ、ワンパンでのされるタイプの雑魚キャラのようなこのイキり倒しよう…!」
「あ?何か言ったか?」
「ヒッ!す、すいません!」
早口でボソボソと紡がれたイデアの文句を一睨みで黙らせる。イデアは顔面蒼白で逃げ腰、頼みの綱のオルトは丁度バッテリー切れで充電中だ。都合がいい。時間が惜しいレオナはすぐに本題を突き付ける。
「イデア、てめぇ召喚術はお手の物なんだってな?実は面倒なことに異空間に盗まれたモン取りに行かなきゃならなくてなァ、ご指南を請いに来たって訳だ。」
「……あ、あの、話が見えないんだけど。召喚術って遠隔地にある何かを呼び寄せるものですし…?」
「一般的にはな。だが、てめぇは異空間にあるモンを呼び寄せる術式を知ってんだろ。」
イデアの目がハッと見開かれる。その表情を見て、自身の見立てに確信を得たレオナは口端を吊り上げた。そして充電装置に繋がれてスリープモードとなっているアンドロイドをチラリと横目に見遣って言う。
「そうだな、その禁術を使えばできちまうだろうぜ。例えば…、死後の世界から魂を呼び寄せる、なんてこととかな。」
その言葉に、眼前の男の顔つきは明らかに変わった。ゆらりと立ち上がったイデアは普段の臆病な姿からはまるで想像のつかない殺気に近いオーラを放っている。表情を失くした光のない金眼が鋭くレオナヘと突き刺さった。
「……何が目的?」
「ククッ…んな顔すんなよ。"例えば"って言ってんだろうが。別にてめぇのプライベートなんざ毛ほども興味ねぇから安心しろ。」
その冷たい殺意にも、レオナは泰然と喉奥で笑った。
「…理論上、てめぇの禁術に反転をかければ、異空間から特定のものを呼び寄せるんじゃなく、異空間へ特定のものを送り込めるはずだ。それも、場所が分からなかろうが"誰の元に行くか"その情報さえありゃ可能なんだろ。」
「あのさぁ、何をしたいかサッパリだけど、そんなに簡単にできると思ってんの?ただでさえ繊細な術式に反転かけるなんて、レベル1勇者がラスボス特攻するくらいの無謀なんですけど。だいたい、"盗まれたモノ"なら呼び寄せればよくない?言っとくけど人を送り込むなんてやったことないし、レオナ氏が行くつもりでいるなら身の安全保障できないから。後で難癖つけられても困るっていうか。」
特に自分に害をなすことが目的ではないと分かったのか、イデアは殺気を収めたが代わりに呆れ返った顔をした。異端ではあるが天才。その男の言う通り、これは無謀すぎる賭けだとレオナも分かっている。だとしても。
「フン、こういう時だけはやけに饒舌じゃねぇか。残念だが、目的は残り時間不明の時限つき核爆弾みてぇなモンだ。呼び寄せるのがナンセンスなら、行くしかねぇだろ?てめぇなら俺を空中分解させずに送り込むだけの手腕がある。ククッ、買ってやってんだぜ?」
「ハァ!?な、何に拙者を巻き込もうとしてんの?絶対ムリ、絶対イヤ。残念ですけど時には諦めも必要っていうか…、じゃ、じゃぁ拙者はこれで…いやここ拙者の部屋ですけど。」
「…てめぇも。」
それは、静かな声音だった。
「てめぇも、禁忌を犯してでもその人形を取り戻したんだろ。そうしてでも取り戻さなきゃならねぇ奴だったってことだ。俺にもそういう馬鹿がいる。」
「…………!」
常のような回りくどい皮肉も衒いもない、ただ真摯な表情であり言葉だった。そのあまりの痛々しさに、イデアは喉元の不平を詰まらせる。あぁ、かつて自分もこんな顔をしていたのだろうか、と。
「所詮、同じ穴の狢じゃねぇか。協力しろ、イデア。…つーか、この部屋の物全て砂に変えられたくなけりゃ、ツラ貸せよ。」
「……え?何で結局脅し?今ちょっといい話の雰囲気だったっていうか、こういうのって主人公が普段ギクシャクしてる腐れ縁ポジに頭下げてまでお願いするのが王道展開では?」
「ハッ、生憎俺は主人公 よりも悪役 が板につくタチでなァ。」
そう言ってレオナはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。その表情に、イデアは心底苦々しい思いで溜息をつく。
「……ちょっと待ってて、資料探すから。」
別に何があったかは知らないし、彼の動機に興味はない。だから共感だとか同情だとか、そんな陳腐な理由じゃない。抵抗したって損なだけ。
そんなつまらない言い訳を胸中にこさえながら、イデアは白旗を上げてやることにしたのだった。
✳︎✳︎✳︎
『くそっ!くそっ……!』
エピクリシスは我を見失うほど溢れ返る怒りと悔しさに、ガチガチと歯を鳴らす。まるで歌姫を略奪する怪人のように、レオナは背後で片膝をついたまま右腕に閉じ込めたルークを離さなかった。
『くそぅっ…!!邪魔をしおって…!貴様ら人ごときが…、吾を愚弄するなァァァ!!!』
そうして激昂した怪異から放たれた幾つもの攻撃魔法を、しかしレオナは簡単に撃ち落とす。
「ハッ、悪ぃが俺は防衛魔法の成績がいいんだ。融合ってのは不便だなァ?見たところ今のてめぇはルークの身体を、つまりこいつの意思を通さねぇとろくな魔法も操れねぇんだろ。」
『…っ……黙れ…!黙れ小童がァ!!』
エピクリシスは酷い形相で罵ったが、レオナの見立て通り強い攻撃魔法を放ってくることはなかった。
『くっ…この小童が意思をなかなか明け渡さぬせいで…っ!……だがまぁ、結果は同じこと。吾の災厄は魔力などと関係ないゆえな。クッ……クハハッ、どのみち吾が爆ぜればお前たちなど一溜まりもないわ!』
「だろうな。知ってんだよ、バーカ。」
嘲笑いながらもどこか焦りを滲ませる怪異を、レオナは興味なげに見つめて受け流した。
『何だと…っ!貴様ごときが吾を蔑むか…!愚かで、傲慢で、卑劣で、醜悪な…!虫ケラどもがァァ…ッ!!』
黒い影の塊がボコボコと形を歪ませながら、これでもかと暴れ始めた。その姿をまるっきり無視して、レオナはルークの耳元に吹き込むようにして囁く。
「ルーク、しばらくの間そいつを抑えてられるか?」
当然身体を共有するエピクリシスにもその声は聞こえている。それでも、"ルークだけに"話しかけているのだとあえて見せつけるかのようなその仕草。ルークにはそれが余計にエピクリシスの神経を逆撫でするのだろうと分かるし、後ろの男もそうと分かってわざとやっていよう。意地悪されて可哀想などと思っているのを知られたら、今度は自分が標的になるのだろうか…なんて呑気なことを想像するのは、左耳にかかった甘い吐息の熱を意識しないためでもあって。
「……ウィ、数分ならば。」
「よし、上々だ。」
レオナはそう言って鷹揚と笑った。もしかしたら初めて褒められたかもしれないな、なんて場違いな感想を抱いて、じんとした胸の奥が擽ったくなる。
『くそっ…!あと少しというところでェェ…!』
融合が終わるまであまり時がない。終わればどうなるかは分からないが、ルークは少なくとも今はまだ身体の主導権を明け渡していなかった。しかも不思議なことに、今なら自身の中のエピクリシスを意識的に抑え込むこともできるだろうと感覚的に分かっているのだ。それでもルークは、できるならば無理矢理エピクリシスを封じることを避けたかった。
「ムシュー、すまない。少しの間、眠っていておくれ。」
柔らかな声でルークがそう願えば、それまで喚き散らし興奮していたエピクリシスの暴れる動きがピタリと止んだ。束の間、視線だけの応酬。その姿にレオナは当然拍子抜けする。
『……フン、どうせ何もでき…まい…ぞ……。』
そればかりか、エピクリシスは仕方ないと言わんばかりの不満顔ながら、ルークの意思に抵抗せず従ったのである。影の中に蠢めく奇怪な眼と姦しい口がすぅっと表面から消失した。それと同時に灼きつくような紋様の痛みが和らぎ、ルークは思わずホッと息をつく。一連の手懐けぶりに、いよいよレオナは目を丸くした。
「…お前、懐柔してんじゃねぇか。」
「うーん、懐柔…ではないな。彼には彼の、私には私の譲れない本懐があって、けれど譲れる部分を譲るだけの優しさが彼に備わっているというだけさ。とは言え、この状態を長く保てるとは思えないけれどね。」
「…………。」
たしかに、レオナに対しては攻撃魔法も使ったエピクリシスだが、紋様はさて置き未だ無傷のルークを見れば本気で甚振ってはいなかったことが察せられる。決して大切に扱っている訳ではないにしろ、そこにルークの言う一定の"優しさ"がないとは言い切れない。
そもそも、この怪異は違和感だらけなのだ。エピクリシスは何の得があって、地上に厄の雨を降らせることを選ばず、ルークを攫ったのか。その目的は何なのか。しかし、ほのか脳内に掠めた疑問をレオナはすぐに振り払った。論理的思考を持っているかどうかすら怪しい存在の本心になど興味はない。解き明かすべき本音は、そっちよりも——。
怪異が気配を鎮めたのと引き換えに訪れた静寂の中で、ルークはようやく背後の男をそっと振り返り見た。ギロリと鋭くキレのあるペパーミント色と至近距離で目が合う。
「…てめぇには言いてぇことが山ほどあるが。」
「……怒って、いるね?レオナくん…。」
「たりめぇだろうが……っ!!」
睨まれながらもようやく右腕の檻から解放されたルークは、座ったまま正面に向き直った。レオナの発した重低音は明らかに怒気を含んでいる。困ったように笑ったルークに、獅子は更に端整な顔立ちを顰めた。
「ふふ、何故君が私を覚えているのかも、どうやって来たかも分からないけれど…。でも、君の颯爽とした登場は、さながら歌劇"フォステル"のメフィストフェーラのようでとても華麗だったよ!マニフィーク!」
「……俺の方がサタン役かよ。」
いつもと変わらないズレた賛辞に呆れながら、その能天気ぶりに溜息が出る。
「チッ、調子が狂う…。おい、今は時間がねぇ、とりあえず聞け。いいか、エピクリシスの野郎からてめぇを取り戻す。フン、この俺が直々に迎えに来てやったんだ、泣いて感謝してもいいぜ?」
「オーララ、残念ながら涙は出ないし、その話も聞けないよ。」
ルークはきっぱりとそう答えた。
自分が贄にならなければ、エピクリシスは世界を地獄に変えてしまう。そのうえ不可逆の同化が進んだ今、既に退路は断たれているのだ。
意地悪だなぁと思う。せっかく覚悟を決めてここまで来たのに、何故揺さぶるようなことを言うのだろう、と。退路がなくてむしろ良かった。
「いいから、まずは聞け。てめぇがあいつの言う災厄とやらを懸念してんのも、もう物理的にあいつから引き剥がせねぇのも分かってる。だから…、」
それは、突き抜けるほど一直線な意志だった。レオナは静かな声音にその決意を乗せる。
「時間を巻き戻すぞ、ルーク。」
「…………!」
ゆらり、と頑なだったエメラルドの奥底が揺蕩う。
「お前があの怪異と出逢うよりずっと前まで。それでお前とエピクリシスの縁を断つ。"時戻しの魔法"…存在くらいは知ってんだろ?時が歪めば未来を変えられる可能性もある。リリアの寄越した魔導書によれば、この魔法は必ず"二人で"発動させる必要があるらしいぜ。つまり、俺とお前の二人でな。ハッ、都合がいいぜ、てめぇが取り込んだその膨大な魔力を使えば簡単に発動できるんだからなァ?」
さも何でもないかのように恐ろしいことを口にして笑うレオナに、ルークは珍しく眉間を寄せて険しい表情をした。
「いけないよ、レオナくん…!そんなことをしたら全ての人の運命を狂わせてしまうんだ。私一人で今の美しい世界を守れるのなら…」
「だったら、何であんな花寄越した…っ!!」
ルークは思わず息を呑んで口を噤んだ。
珍しく強い語調で遮ったレオナの言葉には、血が滲むような苛烈さが篭っていた。薄明の中でも燃えるように輝くペリドットの瞳がルークを見据える。
"私を忘れないで。"レオナにそう告げた、青く可憐な花。あれはルークがかけた呪いだ。消えるはずだったのに、何故だか消えずに残ったその呪い。
そう、エピクリシスの力で存在を消される時に、鏡の間でルークが施した勿忘草の呪いも消えるはずだったのだ。怪異の強力な魔法は彼がこの世にいた痕跡の全てを洗い流すものだったのだから。むしろ消えると分かっていたからこそ、ルークはその呪いをかけたとも言える。万一追って来られたら皆を守るために消えるという決断全てが水の泡になってしまうから、確実に忘れてもらう必要があって。どのみちエピクリシスが抹消してくれるのだという期待と安堵を胸に、それでも姿を消す直前、矛盾するようにレオナを呪ったのは。
「本当は、消えたくなかったんだろうが。」
まだ生きたい、忘れられたくない、そういう欲と執念の花。葛藤に紡がれた一縷の希望。自らの存在が消えることで皆を守れたんだと安心して、同時に忘れ去られることに恐怖して。あんなに切なく苦しそうに微笑って、心のどこかでレオナが追って来ることを待ち望んでいたくせに、その気持ちを無理に殺して消えようなんて。
馬鹿げている、とレオナは思った。
ルークの両肩を掴み、逸らせないくらいの至近距離で真正面から目を合わせる。気丈に振る舞う彼の肩は僅かに震えていた。大切な人々に忘れ去られて、冷たい廃墟で独り息を閉じるなんて、一体どれほどの恐怖だったろう。
何かを堪えるようにチラチラと揺れて光るエメラルドの虹彩を、どこか冷静に美しいと思う一方で、ぐつぐつと沸騰した怒りの全てをレオナは叩きつけた。
「死にたくねぇなら死ななきゃいい!欲しいものを手に入れるためなら、たとえ世界中を踏み躙ったって手を伸ばせばいい!俺はてめぇのそういう、他人のために自分だけ犠牲になれば済むみたいな偽善に、反吐が出るほどイラつくんだ!!自分を蔑ろにして苦しいくせに無理して笑う、てめぇのそういう生き方が許せねぇんだよ…っ!」
目的のためには手段を選ばない。それがレオナの生き方だった。そうやって培われた不屈の魂が、あの日の泣きそうな微笑を諦めるなと叫ぶのだ。いつの間にか、ルークが自身の縄張り の内側にいたから。たとえ世界を天秤に掛けられようと、彼一人が生きることを諦めねばならない理由には足り得ない。世界の誰が糾弾しようが、自分が許そう。もっと傲慢に生きていい。強欲になっていい。
「だからお前は、大人しく俺の所に帰って来いよ…っ!!」
危なっかしくて、放っておけなくて、気付けば意識を割かれていて、腹立たしくて仕方がない。腹立たしいのに、今この手の中に彼がいるということに驚くほどホッとする。この感情を何と呼ぼうか。
「…レオナ、くん。」
戸惑いにひと匙の甘蜜を含んだ瞳がレオナを見上げていた。
迷っている。されど伝わっているのだ、想いが。そのことにレオナは何故だか喉元が熱く震えるような感覚がした。
「君は、結構強情だよね。」
「あァ、分かってんじゃねぇか。」
「……だとしても、時戻しは国際法違反だ。二人で発動させるとしたら、君に大罪人の汚名を着せてしまう。気づかれれば、君まで追われることになるんだよ?」
絆された瞳はそのまま、不安げに眉尻を下げたルークを見て、レオナはニヤリといっそ悪人面で笑ってみせた。そんなことを心配しているのか、と。
「ハッ、いいぜ。俺がお前の共犯者になってやるよ。」
パッと瞠られた瞳の中で開いた瞳孔。はく、と小さく唇が動いた。続いて、感情の抜け落ちたような顔。ストンと膝に落ちる視線。それから何かの情動に耐えるように、ルークはぐっと眉根を寄せる。ぽぽぽ、と林檎色に染まった頬は、熱のせいとでも言い訳するんだろうか。そんな忙しい百面相を観察しながらガシガシと前髪を掻き乱して、それからしばらくの間レオナは静かにその答えを待った。
"うーん、プロポーズ…、みたいなものかな。"
鏡の間でルークが言った言葉を不意に思い出す。
あの時、この男が何を誓ったのかなんて知らない。でも、こっちの方が余程。
ややあって、全ての感情を飲み込むように一旦閉じられた翠眼が、決意と共に再び開かれた。
「……ウィ!共犯者になろう。」
サラリと揺れた、トワイライトにも煌めく繊細な金色。ようやっと顔を上げたルークは、ハッとするほど鮮やかに笑っていた。この瞬間に何かを諦め、同時に何かを選び取った男。やはりその顔が一番彼らしい、と表情には出さずに、レオナは内心で満足する。
確かめ合うように数秒視線を通わせた後、静かな決心を胸に二人はゆっくりと立ち上がった。答えは出ている。思い残すことがないと言ったらきっと嘘になるが、それでも共に決めた道に後悔はしない。熱に浮かされたルークは一瞬くらりと眩暈によろけたが、レオナがすかさずその肩を支えた。メルシー、と言ってすぐに離れた彼は一瞬意外そうな顔をして、それから柔らかくはにかんだ。
「エピクリシス、待たせたね。」
ルークが声を掛けると、彼の影の中にまた不恰好な眼と口が浮かんだ。
『…フン、全部聞いていたわ。』
「おや、怒っていないんだね。」
クスクスと笑ったルークをエピクリシスはじとりと睨んだ。
『時戻しなど、人の分際で神の領域に土足で踏み込むような真似に、呆れておるだけだ。』
「ふふ、すまないね、ムシュー。でもきっと、また会えるよ。」
「チッ、また会ってたまるかよ…!」
ルークの呑気な言葉にレオナは舌打ちを零して右手でこめかみを抑えた。
とはいえ彼の言う通り、記憶が引き継がれない限りは、またこの怪異にも出遭うことになるのだろう。
「…だがまぁ、もしも記憶が残ってたら。てめぇのことも覚えててやるよ、エピクリシス。」
そう言ったレオナが右手に持ったマジカルペンに、煌々とした光が集い始めた。時戻しの魔法を発動させるために魔力を練り始めたのだ。ゆえにレオナは気づかなかった。何気なく放った言葉に、それまで濁り歪んでいたエピクリシスの眼が大きく見開かれ、鱗が落ちたように澄んだ瞳が揺らいでいたことに。
「おら、ルーク。」
「ウィ、獅子の君。」
差し出されたレオナの左手に、まるでダンスの誘いに乗るかのようにルークが右手を重ねた。レオナの中にその膨大な魔力が注がれ始める。
「…また、君を呪ってもいいかな。」
そう言ってルークは左手に握ったマジカルペンを一振りした。見覚えのある青い花のブーケが二人の間にもう一度現れる。
「ククッ、何度でも呪えよ。」
時を戻せば消えてしまう矮小な魔法。だが、レオナがルークのことを思い出すことができたように、この記憶が過去に引き継がれますように。今一度の奇跡を傲慢に願おう。
「ὑπέρ χάος καί κόσμος…」
レオナが古代呪文の詠唱を始める。ゴゴゴ、と地響きのような音がそこここを這い回った。鏡で空間を移動する時に似た、キィンとした耳鳴りのような音が遠くに聞こえる。
そして詠唱が終わった瞬間、目が眩むほど真っ白な光が全てを包み込んでいった。
✳︎✳︎✳︎
「うーむ、無事に辿り着いたかのう。」
「レオナのことなら心配いらないわよ。」
「くふふ、悪運が強そうじゃからの。」
「ふふ、憎まれっ子世に憚るとも言うわね。」
目の前に遺されたのは、古代文字がびっしりと書き込まれた巨大な魔法陣。つい先刻まで、この円の中には一人の男がいた。召喚術を反転させて異空間へ飛ぶなどという豪胆な無茶は、リリアの長い生の中ですら初めて見る。端的に言ってその勇気には少々驚かされていた。
「イデアめの協力を取り付けたことにも驚いたんじゃが。」
「アイツが協力するなんて、何かしら脅したとしか思えないけど。」
「事が終わったら一目散に逃げ帰ってしまったがのう。」
夜更けにも関わらず、突然レオナから「方法が分かったから実験室に来い」と言葉足らずな連絡があったのは数時間前。ヴィルは普段厳守する就寝時間にも構わず、鏡舎で合流したリリアと共に実験室へと向かった。魔法でこっそり解錠した実験室に忍び込めば、まもなくイグニハイド寮長を引き摺るようにして現れたレオナの姿に二人は仰天したのだった。結局、それから四人がかりでも数時間かかるイデア考案の巨大な魔法陣を製作した訳だが、その過程で協調性のないメンバー同士が度々揉めるので余計に骨が折れたことは言うまでもない。
この場に留まることに特に意味はなかったが、術式の発動が終わってレオナの姿が消えても、ヴィルは魔法陣を見つめたままその場を動かなかった。そして円陣の中心を祈るように見つめ続ける男の傍らに、リリアは寄り添ってくれていた。
「そういえばヴィル、今更じゃが、おぬしが行かなくてよかったのか?ルークはおぬしの副寮長じゃろう?」
リリアはヴィルを見上げ、ふと当然の疑問を口にした。
この魔法陣で送り込めるのは一人だけ。人数を増やすには、その数だけ魔法陣を描く必要がある。それでは時間も魔力もかかりすぎるため、方法が確定した時点でルークの元へ行くのは一人だけと決まっていた。
「えぇ、まぁそうだけど…、いいのよ。レオナが行くべきだわ。」
ヴィルは僅かばかり寂しそうに、されど穏やかな微笑でそう返した。
「時戻しの魔法のことを聞いた時、アタシは一瞬躊躇ったの。勿論ルークのことは助けなきゃいけないけど、アタシには家族とか大切な人が他にもいるから。全ての人を巻き込むことに、正直少し怯んだわ。だからあの場で迷わず断言できたレオナが、癪だけどちょっと羨ましかった。」
「……ヴィル、気に病むな。おぬしの感覚の方が正しいんじゃぞ。」
「平気よ、落ち込んでる訳じゃない。後はそうね…、ルークがアタシのことを分かってるように、アタシもそれなりにルークのことを知ってるからってところかしら。美を追跡する以外の目的で唯一、あのハンターグリーンの視線の先に誰がいるのか…、ずっと隣にいたんだもの。分かるわよ。」
唇に緩い弧を描くヴィル。その優美な瓜実顔に賛辞を贈る凛とした声ばかりが足りない。
「それに、レオナだってきっと——…」
ゴゴゴゴゴ……!
突如、大地が唸っているような鈍い地鳴りの音がヴィルの声を遮った。次第に大きくなっていくこの音は、きっと。
「あら。」
ヴィルとリリアは互いの顔を見て悪戯が成功した子どものようにクスリと笑い合った。
「始まったわ。」
まもなく世界を覆った白い閃光の中に、二人の姿は溶けていった。
白く眩ゆい光が弾ける瞬間、レオナは咄嗟にルークの腕を引き、自らの胸にその身体を抱き締めた。離れ離れになってしまうかもしれないと直感した身体が、考えるより先に動いていたのだ。
真っ白で何もない空間に、ただ二人だけ。それは神が二人に与えた猶予だったのかもしれないし、ただそういう仕組みなのかもしれない。
力いっぱいルークを抱き締めていたレオナは、反射的に閉じていた瞼をそろりと押し開く。見渡す限り白く染まり切った世界の中で、腕の中の男が無事であることを確認し、やっと拘束の力を緩めた。ドッドッドッと少し早い心臓の音。それが重なった胸から伝わっていることにようやく気付いて、レオナは瞬いた目を丸くする。それに居た堪れなくなったのか、ルークは両手で縋り付いていた胸板をそっと押し返して気持ちばかりの隙間を作った。それから自身を抱き締める男をやおら見上げた頬は、上気したように紅潮していた。束の間、至近距離で交わされる互いの翠眼。いつもみたいにコテコテの称賛でも始まるかと思いきや、彼は絹糸のような髪を揺らしてパッと下を向いた。いやいや何に照れてんだ、と思いながら、レオナの方も急に気恥ずかしくなってふいと明後日の方向に視線を逸らす。それでも抱き締める腕は解いてやらなかった。
温かい身体、柔らかい匂い。ずっと前から、こんな風に触れてみたかったような気もして。レオナの喉奥は無意識の内にグルグルと鳴った。
ルークはただの同級生。…だったのだろうか、本当に。だが、今更そんなことを考えても遅い。
しばらく沈黙のこそばゆさの中にいた二人だったが、徐に口を開いたのはルークの方だった。
「……エピクリシスは、淋しかったのかもしれないね。」
ルークの頬にはまだ黒いクレマチスの花紋様が残っていた。だが、その紋様も徐々に薄くなってきていて、時戻しがたしかに成功しつつあることにレオナは内心安堵していた。紋様の痕もただの名残であって、あの禍々しい気配は今や完全に消失している。
「災厄を振り撒くためだけに生まれ落ちて、誰にも愛されず理解されず、宿命のためだけに死んでいくなんて。きっと、この世界に一番絶望していたのは彼だったのではないかな。」
「…さぁな。あいつの本意が何であろうと、そもそも生物じゃねぇんだ。いちいちお優しく同情してられるかよ。」
「生き物ではなくても…、独りは淋しい。自我があるというのは、きっとそういうことさ。」
「…………。」
"あれ"は人を愚かだ傲慢だと罵りながら、その温もりにずっと憧れ続けていたのだろうか。だとすれば、今もその存在を"彼"と呼ぶルークは、エピクリシスにとってかけがえのない人間だったのかもしれない。だがレオナにとってのエピクリシスはどこまでいっても憎むべき怪異で、生物ですらない相手まで憐れむ目の前の男には辟易して溜息が出る。こんなことだから、自らを犠牲になんて考えるのだ。
「……レオナくん。」
「何だ。」
「私は、間違っていたのかな。」
ルークはまるで、叱られた仔犬のようにいとけない顔をしていた。結果的に全ての人を巻き込む決断をしたことを、咀嚼しきれていないのだろう。
「……別に、間違ってねぇよ。」
だからこそ、レオナは静かにそう断言した。
レオナもまた、矛盾を抱える一人なのだ。知り合い程度の同級生を身を呈して庇おうだとか、自分一人の肩に世界を背負って存在ごと消えてしまおうだとか。そういう無茶苦茶なところに心底腹が立って許せなくて、でも心のどこかで彼がそうした生き方を選ぶことを尊重してやりたいとも思っている。レオナにはないその眩しさが、どれだけ怒りが湧いて許せなくても、嫌いではなかった。
「お前は間違ってねぇ。その生き方を変えられねぇならそれでもいい。ただ、俺が許せねぇんだ。だからお前が何度そういう選択をしても、必ず俺が取り戻しに行く。それだけの話だ。…フン、せいぜい毎度俺に邪魔される覚悟でもしておくんだな。」
「オーララ、宝石のように磨き上げられた不屈の執念に、私はすぐ音を上げてしまいそうだね。」
意地悪げに口角を上げたレオナに、ルークは困ったように、しかし嬉しそうに笑った。彼もまた、レオナの意地悪に困らせられながらも、それが決して嫌いではないのだ。
「……なァ、ルーク。いつか巻き戻った先で記憶が残ってたら、見つけようぜ。あの怪異が生まれなくて済む方法。誰も犠牲にならねぇ方法。俺にとっちゃどうでもいいことだが、見つけねぇ限りお前は終われねぇんだろ。…まァ、それまでにどんだけ時間を歪めるのかは知らねぇけどな。」
「ウィ、素敵な提案だね。…ありがとう、レオナくん。もう平気だよ、共犯者になると誓ったから。」
苛立たしいほど優しいこの男は、そうは言ってもきっと自らの罪から目を背けることなど出来はしない。だからその時は、この透き通るような深緑を自分が塞いでいてやりたい。彼にはどんな悪意も似合わないから。それがレオナにとっての"共犯者"だった。
「……そういや、時戻しがどんな魔法なのか、お前に教えてなかったなァ。」
不意に、ポツリとレオナは零す。
「………?時間を巻き戻す、ということは知っているけれど。他に何かあるのかい?」
ルークはキョトンとした顔で問いかけた。魔法の発動前に彼に話さなかったのは無論故意である。動揺する要素は少ない方がよかったから。
"大事なことが書いてある"と、リリアは言った。時戻しについて書かれた秘伝の魔導書。たしかに知らないで発動したら、一杯食わされたと思うかもしれない。でも決して"大事なこと"なんかじゃない、とレオナは思った。
「"時戻しの魔法"。別名、"時別れの魔法"…なんだとよ。必ず二人で発動するという条件。そして巻き戻しの終点は、"発動者二人が出逢う前"らしいぜ。」
制服の胸に縋り付いた手がふるりと震えた。愕然と揺らぐ神秘的な翠玉を見て、まんまと引っ掛かったな、とレオナは気分よく口元を緩めた。
「ここでこの腐れ縁も切れる。巻き戻った先で、俺たちは晴れて他人って訳だ。ククッ、また初めからだぜ、変人狩人。」
クツクツと喉奥で笑って、レオナは紋様のすっかり消えたルークの頬を手の甲でするりと撫でた。キィン、と鋭い聴覚が耳鳴りのような高音を遠くに拾い始める。
「そんな、君を……まるっきり忘れてしまうなんて…っ、こんなに淋しいことはないよ、獅子の君…!」
「ハッ、どうせすぐ出逢うんだ。安心しろよ、どうせ俺たちの行き着く先は変わらねぇ。そうだろ?ルーク。」
だからそんな風に泣きそうな顔なんかしなくていいんだ、と指先に想いを乗せる。いつもみたいに、目障りなほど明るく笑っていればいい。
「…あばよ、今度はしつけぇストーキングはご遠慮願うぜ?」
白い光が再び辺りを包み始めた。目の前の男の顔が霞んでいく。
それでも、その今際に願いは実る。
「…っ……ふ、ふふ、たしかに変わらないな。レオナくん、きっとまた君を追いかけるよ。だって君は、最高の獲物だから。」
さいごの笑顔が、花が綻ぶように美しく見えたのは、きっと白い閃光に眩惑されたからだろう。
腕の中に閉じ込めた熱が、指先で踊った金糸が、こんなにも名残惜しい。この想いもきっと、ほんの数刻の内に忘れてしまうんだろう。
だが、大丈夫だ。忘れたって俺は、きっと、何度だってお前を————。
ふむ、この真っ白い空間が終われば、わしは数年前に若返るのじゃろうな。くふふ、数年ごとき、わしにとっては瞬きほどの間じゃが、おぬしらにとってはそうもゆかぬであろうよ。運命とは、真実気難しいものじゃ。
レオナよ、何故鏡の間でルークがかけた勿忘草の呪いは消えなかったか分かるかのう?
本来エピクリシスがルークの存在を抹消した時点で、あの呪いも共になかったことになるはずだったのじゃ。
おぬしは咄嗟に自分自身に呪いをかけたのであろうよ。忘れたくないと直感で強く念じ、それが無意識の内に呪いとなった。その呪いが盾となったことで、エピクリシスの魔法からルークの呪いが守られたのは奇跡としか言いようがないんじゃが。
しかし直感というものは案外偶然ではない。繰り返し遭遇した出来事に対して脳が無意識の内に作り出した反射、防衛本能じゃ。
さて、なぜおぬしの直感はルークのことを"忘れたくない"と思ったんじゃろうなぁ。くふふ、はてさておぬしはあと何度、あやつを取り戻しに行けばいいのやら。
暖かな陽射しが降り注ぐ。植物園のガラス天井をくぐり抜けた眩ゆい光が、絶妙な寝心地のよさを提供していた。
午後なんてまるごとサボるくらいで丁度いい。こんな日なら尚更だ。そう思って微睡んでいたら、あっという間に放課後になっていた。
今日はサイエンス部の活動日ではないので、このまま植物園にいても誰にも邪魔されないだろう。もう少しここにいようか、それとももう寮に戻ろうか。そんなことを考えながら重い瞼を押し開いて、大きな欠伸をする。
すると起き抜けのぼんやりした視界の端に、どこか懐かしい金色が揺れた。猫科の性なのか、稲穂のようにサラサラと揺れたそれが気になってつい視線を向ける。
ふわふわと揺れるのは帽子の白い羽根。深い森のように清廉なエメラルド。目が合った途端、パッと屈託のない笑顔が華やいだ。
「アンシャンテ、獅子の君!」

胸の奥を揺らすような、朗々とした声音だった。好奇心に満ちた瞳が爛々と輝いている。
——あァ、こいつは厄介だぜ。
レオナは厚い唇の端を皮肉っぽく上げて、ニヤリと笑った。
fin.