@_rookwebonly
大勢の生徒でごった返す食堂の隅に、一箇所だけ妙な空間があった。
テーブルの隅に座っているのはケイトで、汗をかきながら無心で目の前の料理を頬張っていた。隣り合う席は空いており、空席を挟んだ左側で、トレイが引き気味の表情になりながら座っていた。
ケイトは空になった食器の上にフォークを置き、一息にグラスの中の水を呷ると、立ち上がって両手を挙げた。
「終わったー! 食べきった!」
ケイトが宣言するやいなや、食堂の中が歓声で包まれたが、料理を完食することに対する純粋な賞賛は半分で、残りの半分は引き笑いであった。
「あーっ、辛! 見てこの汗の量!」
「お、おお……そうだな……」
トレイは空のグラスを掴み、中に水を注ぎ込む。ケイトはしきりに自分へ向かって両手を扇いでいた。
発端は、一週間ほど前に遡る。明らかに売り場と倉庫の面積を見誤っているとしか思えないMr.Sのミステリーショップで、サムはある商品の在庫を抱えて困っていた。
それは歓喜の港で流行したチリペッパーソースであった。大量に入荷したものの大半が売れ残り、賞味期限直前になって九割引まで値引きしても残っていた。面白半分に購入した生徒もいたはずだが、スープに一滴垂らしただけでも舌が焼けるほどに辛いせいで、ほぼ全員が処分方法に苦慮する羽目になった。
あまりの酷さに学園中で話題となり、当然のようにモストロ・ラウンジも導入して料理に使おうとしたものの、早々に処理してしまいたかったため大量に使った試作の料理を食べたジェイドとフロイドが、同時に体調不良で倒れた。作った料理の内容は非公開である。
なお、この後にアズールはジャミルにチリペッパーソースを譲ろうとしたが、ジャミルはすでにスカラビアの生徒たちに泣きつかれ、ソースの処理に追われていたところであったため、ろくに話も聞かずに突っぱねたという噂が、密かに流れていた。
食堂でも、当然話題になった。味見をしていたゴーストの一人が、ふいにこんな言葉を漏らした。
「これをまるまる一瓶使った料理を完食できた生徒がいたら、一ヶ月は学食の料金を免除してもいいくらいだよ!」
こうして考案されたのが、学食の利用料一ヶ月無料クーポンが賞品としてつけられた、地獄のような料理だった。魔法の使用は、当然のごとく禁止されている。
メニューは当日まで伏せられたが、その内容たるや惨憺たるものであった。衣にチリペッパーソースを配合したチキンウィングのフライ十本を一人前として、完成したものをソースそのもので和え、申し訳程度の葉物が添えられているが、それもソースを吸って辛くなっている。とても衣の食感を楽しんでいられるようなメニューではない。
挑戦者として名乗りを上げた生徒の一人が、金欠で困っていたケイトだった。トレイは給水係として呼ばれたにすぎない。
「おめでとう! 賞品のクーポン券だよ」
ケイトは噎せながら封筒を受け取り、ゴーストと握手を交わした。
「大丈夫か?」
「口の中がめちゃくちゃ痛い」
やや舌足らずになりながら、ケイトは答えた。これで体調を崩したらリドルも激怒するだろうが、ケイト自身には思いの外変化がない。今日の一件で、しばらくは空腹と話題に困らない生活を送ることだろう。
その後も、ケイトは何食わぬ顔で授業を受けていた。
「そんなに面白いことをしていたのなら、私も中庭ではなく食堂で食事を摂るべきだったよ」
ケイトの挑戦が見られなかったことを、ルークはひどく残念がった。
「辛かった記憶しかないよ。もうしばらくチキンはいいなあ」
「一席飛ばして座っていたのに、俺の方まで目が痛くなってくるくらいだったぞ」
「空気で魅了してしまうくらいに、素晴らしい料理だったんだね! 私も一口食べてみたいくらいだよ」
「でもな……いつも思うんだが、つまるところ激辛料理って、唐辛子の量とかの問題だろ?」
トレイの言葉に、ケイトはむっと眉根を寄せる。
「そんなことない。量だけじゃなくて、種類によって辛さが全然違ったりして、すごーく奥深いんだよ! それに、辛い料理は辛さと他の味の調和を楽しむものじゃん」
「そういうものか?」
「そんな風に言ってたら、カリムくんとジャミルくんに怒られちゃうよ。それに、激辛料理が唐辛子の量の問題なら、激甘料理こそ砂糖を大量に入れてるだけなんじゃないの?」
「いや、そんなことはない」
「絶対にそんなことあるってば!」
「確かに激甘料理は、大体砂糖の入れすぎなのかもしれない……現実的な話だとな」
ケイトは首をかしげる。
「どういうこと?」
「昔、少しだけ話を聞いたことがある。一滴垂らしただけで、強烈な甘味をつけられる魔法薬があるらしい。ただし、それを使った料理を食べると、大きな代償を払うことになってしまうとか──」
「大きな代償とは何だい?」
「それは知らない。俺はただの噂なんじゃないかと思う。砂糖も香辛料も、昔は貴重なものだったから、そういうものを作ろうとした人がいてもおかしくないだろう」
「なるほど。一理あるね」
「けどなあ……やっぱり激辛料理は、量の問題だと思うぞ」
「まーだ言ってる!」
ルークは目を細め、しばらくは無言で二人の応酬に耳を傾けていた。
この会話の時は、ただの話題の一つとして、単純に流されただけだった。
話した本人であるトレイさえも忘れかけた頃、サイエンス部の活動中に、ルークが何気なく切り出した。
「そういえば、トレイくん」
「ん?」
薬草の選別をしながら、トレイはルークの問いかけに応じた。
「この間話していた魔法薬の話、私はやっぱり真実だと思うんだ」
しばらく沈黙し、何の話であったのか思い出そうとしたトレイであったが、すぐに得心がいったため、大きく頷く。
「あの話か! お前は信じているとでも?」
「もちろん。味が変わるだけならば、用途はたくさんあるじゃないか。なぜ一般化されていないのだろうね? やはり、大きな代償とやらのせいだろうか」
「それほど危険性のあるものなら、逆に記録が残っていてもおかしくないはずだが」
在籍している生徒の中で、魔法薬のスペシャリストといえばヴィルだが、話題に出たことは一度もない。もっとも、ヴィルにしてみれば眉唾ものの魔法薬なのだろうが──ルークはぽんと手を叩く。
「そうだ! 次のサイエンス部の研究発表会は、これの真相の解明にしないかい?」
「本気で言っているのか」
呆れ気味に呟くトレイであったが、ルークは目を爛々と輝かせながら続けた。
「必要とする人は絶対にいるはずだ。体質や病気のせいで甘いものが食べられず、悲しんでいる人は大勢いる。安価に作れれば、誰でも手に取れるようになる。嗜好品とはいえ、夕焼けの草原では、経済的な理由で甘いものが滅多に食べられない層もいるんだ」
時折、自身とルークとの間には、これまで見てきた世界に対する認識の差が確実に存在しているということを、否応なく自覚させられる時がある。当初は誘いを断ろうとしていたトレイであったが、ルークのこの言葉によって、一気に賛成へと傾いた。
「……そこまで言うなら、やってみようか」
「私達の手にかかれば、不可能なことなど存在しないからね!」
まずは情報収集だ。授業に使用する教科書や参考書の類には、それらしきものの記述どころか、緒になるようなものすら見つからなかった。インターネットで調べようにも、名称すら不明であるために、検索結果として表示されたのは、効果が怪しいダイエット食品ばかりであった。
図書館でも、生徒に開放されている書架の中には、それらしき薬について書かれた本は一冊も見つからなかった。調査を始めてから幾日が過ぎ、進展は皆無であった。
トレイは手に持っていた本を、机の上に積まれた本の山の上に置いた。
「もうそれらしい本はすべて読んだような気がするぞ」
「レシピどころか、名前を探すだけでさえこれほどにまで困難を極めるとは……なんとも不思議だね。でも、得難いものほど、より魅力的に見えてくるものさ」
「そうはいっても、そろそろ見つかってくれないと、間に合わなくなるな。手に入れるのが難しい材料があったら、用意するまでにどれくらいかかるか……どうしても見つからなければ、別の案を考えてないとならない」
「それは最悪の場合の話さ。私はまだ希望を捨てないよ」
本の山を見上げたルークは、軽く息をついて立ち上がる。
「とりあえず、ここにある本は元の場所へ返しておこう。残念ながら、この書物の中には、私達の求めるものは何もなかった」
書物を読むのもさることながら、書架に戻すのも一苦労だった。背表紙に貼られたラベルを見つつ、棚の隙間を指先で軽く開いて本を戻していくが、トレイはふと手を止めた。
魔法薬関連の本の棚であるはずが、今ひとつ馴染んでいないタイトルの本が混ざっている。
タイトルは──『魔法士製菓応用IV 制作から流通まで』。
背表紙に貼られているラベルの内容と照らし合わせれば、この棚に置かれているのが正しい状態なのだろう。そのわりに、左右の本との通し番号は食い違っていないにも関わらず、シリーズの一から三までの本は置かれていないことが、やや気がかりだった。
何となく引き出して、トレイが表紙をめくると、用紙の上部に大きくお詫びと書かれた用紙が、視界に飛び込んできた。
お詫び:本書97頁〜101頁にて紹介した「亡霊のモラセス」の材料の表記に誤りがあったため、以下に正しい材料を明示します。
材料(100ml小瓶用)
粗糖 大さじ4杯
月影草抹 小さじ2杯
ツチウショクカミダケ抹 小さじ1杯
カルル果の種子 4分の1個
カルル果芳香蒸留水 適量
(※ツチウショクカミダケ抹の粉末の大きさや、使用する器具の大きさにより、必要となる量が変化します。全ての材料が浸る程度を目安に、量を調節してください)
本レシピの再調査にご協力いただいたD.C氏に、この場を借りて御礼申し上げます。(編集部一同)
トレイは明示されている箇所まで紙を捲り、説明文を読んで目を瞠った──記述の内容が、トレイが知っている話と一致していたからだ。禁帯出の本であったため、材料と作成手順をメモ書きすると、トレイはルークを探して、メモを見せた。
「マーベラス! 私だけでは決してたどり着けなかっただろう。トレイくん、素晴らしい着眼点だよ!」
「褒め過ぎだ。でも、見つかって良かったよ。準備室に材料があったら、早速明日作ってみよう」
「ウィ!」
この時、二人は気づいていなかった。代償を払うことになるという前提が浸透しすぎていたために、書物の中では注意書きとしてとある理由を掲げた後に、作成をしても決して使用してはいけないということに──。
材料は、大半が魔法薬学でも最上位の授業を受講しなければ開けることすら無いと思われる棚の中に置かれていた。その上、芳香蒸留水だけは自ら準備するしかなく、購買で必要な素材を発注しなければならなかった。
蒸留し終わり、蒸留水の上に浮いた油分を取り除いて、初めて全ての材料が揃ったことになる。材料を入れたビーカーの中へ、数滴の蒸留水を落としてみると、粗糖をかき分けるようにして吸い込まれていった。
材料が蒸留水に浸る頃にはほとんど溶けており、軽く数回混ぜただけで、淡い褐色を帯びた透明な液体が完成した。
「これで完成! ──なのかな?」
ルークとトレイは首を傾げ合う。
「古い本だったし、使われていた写真が白黒だったからな。でも色は説明文通りのものになっているし、正しいはずだぞ」
完成品の写真を撮影し、実験は一段落した。
「効果のほどが気になるね。やはり、まずはそのまま舐めて……」
「普通に舐めただけじゃ分かりづらいだろ」
「確かに、甘い、以外の感想が出なくなりそうだ。何かと合わせてみるかい?」
「ハーツラビュルの厨房にある茶葉の中でも一番渋いものを持ってきた。これでどこまで渋みが消せるか試そう」
「それは素晴らしい。ならば、一口目は紅茶の味を知っているトレイくんに譲ろう」
後片付けの手間を省くため、目いっぱい濃く淹れた紅茶は、そのままビーカーへ淹れることにした。その中へ、亡霊のモラセスを大さじ一杯入れる。強烈な渋みと苦さが舌を覆い尽くすため、亡霊のモラセスの効果がなかった時のことも考え、口直し用のクッキーも持ってきていた。
トレイが口をつけようとした瞬間、ルークはトレイを静止した。
「トレイくん、乾杯の挨拶があるべきだよ。A votre santé !」
ルークは乾杯するように、空のビーカーを掲げた。ルークの言葉に苦笑を漏らし、トレイは紅茶を口に運ぶ。
「──ぅ、ん゛うっ!」
「トレイくん?」
あまりの味に、トレイは呻き声を漏らした。
紅茶の風味は全て消し飛んでいた。確かに、完全な甘味が味覚を支配する。そして、それを知覚した瞬間に脳が拒絶する。甘さから痛みを感じる理由など無いはずなのに、明らかな苦痛として身体に降りかかってきて、手元が震えた。
ビーカーを受け取り、ルークはトレイの背をさすった。
「大丈夫かい? そんなにひどい味だったのかな」
「いや、多分これで成功していることになるんだと思う……」
成功はしていたが、口直し用のクッキーを用意しておいて正解だった。トレイはクッキーを一枚つまみ、口に運ぶ。
「これは楽しみだ。さて、私も」
「待て、ルーク」
ルークは止まり、トレイの方を見た。クッキーをゆっくりと咀嚼しながら、トレイはいぶかるように眉を寄せた。一枚食べきり、二枚目に手を伸ばしたところで、疑惑がさらに深まっていく。
「飲む前に、クッキーを食べてみてくれないか?」
「クッキーを? これはトレイくんが作ったものじゃないのかい」
「そうだよ。昨日の夜に焼いて、用意しておいたんだ」
トレイに促されるまま、ルークはクッキーを口に運ぶ。バターの風味が香る、シンプルな味わいのクッキーだった。
「いつも通りだ。とても美味しいよ」
「美味しい……?」
二人は首を傾げ合う。トレイはなぜルークが美味しがっているのかが分からず、ルークにはトレイが疑いを挟んでいる理由が分からない。そもそも、作ったのがトレイであったならば、味など当然分かっているはずではないのか。
トレイは未使用のビーカーに水を入れて飲んでみたものの、結論は同じだった。
「まさか……」
二人の目が合う。大きな代償──その意味が、ようやく分かった瞬間だった。
明くる日、トレイは数種類のベリーを使ったケーキを焼いて、リドルのもとに届けた。今日は、学園内へ業者が介入する清掃のスケジュール調整があるため、ヴィルと二人で相談し合う予定があるということは、あらかじめ知っていた。
その時刻に合うように、ケーキとハーブティーを二人の元へ運ぶ。ケーキを見るなり、リドルの表情がぱっと明るくなった。
「トレイ、ありがとう。丁度煮詰まっていたところだったんだ」
「アタシはお茶だけで結構よ。そこに置いておいて頂戴」
軽くあしらったつもりが、謎の視線を感じて、ヴィルはトレイの方を見る。いつになく表情が硬い気がする。
「どうしたの。体調でも悪いの?」
「いや……」
「何かあったのかい」
「そうじゃない。リドル、このケーキを、何も考えずに食べてほしい」
トレイとケーキの間に視線を行き来させながら、リドルはケーキをフォークで小さく切り、口に運んだ。ヴィルは静かにハーブティーを飲んでいる。
「どうだ?」
「どう、って……いつも通り、美味しいよ」
「他には?」
「他……? いや、適度に酸味もあって、本当に美味しい。さすがはトレイだ」
トレイは額を抑えて唸った。さしものヴィルも不自然に思い、ケーキの皿を手に取って、一口だけ食べてみる。
「……別に、変なところなんか無いじゃない。脅かさないでちょうだい」
「ヴィル先輩の言うとおりだよ。何も変わったところはない」
「これだと、俺の言い方が悪いな。リドル、俺のケーキを貶してくれ」
「け、貶す? トレイが作ったケーキで、貶さなければならないところなんて、あるわけないじゃないか」
リドルの困惑がさらに深まっていき、ヴィルは剣呑な表情になる。
「どうしたの。調子が出ないとか? アンタにもそんなことがあるのね」
「ヴィル。俺が作ったこのケーキの短所を教えてくれ。何がダメなんだ」
「そうねえ……ところでこのケーキ、どんなレシピを使ったの?」
ぴくりとトレイの肩が震える。
「ハーツラビュルのなんでもない日のパーティー用に作っているケーキのものだと思います。そういえば、前回のパーティーで振る舞われたのも、このケーキだったね」
「そうなの?」
「あの日はサイエンス部の活動があってトレイが不在で、代わりにハーツラビュルの二年生が作っていたんですよ。失敗することが多いのに、今回は成功したって喜んでいて──その日に食べたケーキと同じ味がする。トレイが前に作った同じケーキよりも、そちらに近いかもしれない」
「そうだろうな。何しろこれは、レシピ通りに作ったケーキなんだからな」
レシピ通り、と殊更強調しながら、トレイは呻くような声で言う。
「当然、同じようにできるでしょう。レシピ通りに作ったのならね」
頭を抱え、トレイは大きく溜息を吐いた。
「やっぱり、レシピ通りか……」
「ト、トレイ?」
「悪い、ちょっと用事を思い出した。後で取りに来るから、空いた食器は隅に置いておいてくれ」
「ちょっと……」
そう言うなり、トレイはさっさと部屋から出ていってしまった。リドルは残ったケーキに視線を落とし、もう一口食べてみる。
「……言われてみれば、確かにこのケーキは変なのかもしれません」
「そうかしら? アタシは何もおかしくないと思うけど。自分ではスランプだと思っていても、他人にすればそんなことはないって、よくあることじゃない」
「スランプ──だといいんですが」
最後の一口を頬張る。確かに美味しいが、ありえないはずの違和も存在している。
「なんだか、トレイらしくないんです。上手くは言えないけれど、トレイが作ったケーキじゃないみたいで」
ヴィルは三口目を食べてみた。ヴィルにしてみれば、何も不自然ではない。ケーキそのものは完成されており、こうして相談の合間に食べれば良い気分転換になるから、運んできたタイミングも悪くはない。飛び抜けた個性がなければ長所も短所もない、トレイが常日頃から標榜するところの「普通」を手本にしたようなケーキだ。
しかし、トレイのケーキを最も食べているのであろうリドルが引っかかりを覚えているということは──普段ならあるべきはずの何かが、今のトレイには欠けているのだろう。
リドルにケーキを届けた後のトレイの落ち込み具合ときたら、傍から見ているだけでも同情心が沸いてくるほどであった。ケイトとルークに挟まれながらべンチに腰を下ろして、トレイはがっくりと項垂れた。
「そんなに落ち込むことないって〜」
さすがに寮内で事実を知る生徒が皆無という事態は避けたく、二人で相談した結果、ケイトにだけは経緯を打ち明けることにした。
「だって、感じられなくなっちゃったのって、味覚だけなんでしょ?」
「そのはず、なのだけどね」
大きな代償──それは、亡霊のモラセスを口に含んだ瞬間は強烈な甘みを感じることができるものの、その時を境目として、口にした者は一切の味を感じられなくなるといったものであった。
「何を食べても、砂でも噛んでいるのかと思うくらいだよ」
「オレから見ても、何も変わっていないようなカンジがするけどな〜」
リドルとヴィルへケーキを届ける前に、ケイトにも味見をしてもらったものの、不可思議に感じるところは一切なく、いつも通りだという答えが返ってきた。
打ち明ける相手はともかく、味見をする役割までケイトにしたのは、今にして思えば人選を間違えたかもしれないと、トレイは密かに悔やんでいた。これまで何度か味見役に指名したが、ケイトの口からそれ以外の返答を聞いたことがない。
「パーティ用のケーキ、オレもかなーり前に作らされたことはあったけど。料理って、レシピ通りに作ればだいたい成功するはずじゃない? ハーツラビュル内では一年生でも失敗しないように、ちゃんとルール化されてるから問題ないでしょ」
「お前は分かっていないんだ」
大きな溜息つきながら言うトレイに、ケイトは目を瞬かせた。
「何が?」
「一定の品質を保つためには、その時々によって、非常に細かい調整が必要なんだ」
「あっ、オレ、もしかして変なスイッチ押しちゃった?」
「寮内の予算だって無尽蔵に出てくるわけじゃないんだ。限られた予算内で全員が納得できるものを作らなければいけない。フルーツや木の実はともかく、小麦粉の品種や砂糖の原産国が変わったせいで、予想外の狂いが生じることだってある。その時はレシピ通りに作らず、細かい工夫をしなければならないんだ」
「砂糖の原産国〜? そんな、大げさな……」
「そう単純なことじゃない。味見ができないなんてそれだけでも相当なハンデだぞ。一定以上の品質を保つために、俺は最大限の努力をしている」
「ふむ。私の気のせいだといいのだけれど、このやりとり、なんだか身に覚えがあるね」
ましてや寮長のリドルが繊細な味覚の持ち主で、僅かな変調にも気づきつつあるときた。リドルが知れば、ほぼ同時にハーツラビュルの全寮生に伝わる。実態が日の下にさらされてしまうのは、予想より遥かに早いのかもしれない。
「じゃあ、やっぱりこれを食べてもよく分からないわけ?」
ケイトが取り出したのは、銀色の包み紙に炎のイラストがプリントされたキャンディーだった。普段から持ち歩いているという激辛唐辛子キャンディーで、お菓子というよりも罰ゲームで差し出されるような代物である。
トレイはケイトからキャンディーを受け取ると、包み紙を剥がし、無造作に口へ放り込んだ。無表情のまま、口の中で転がしている。ケイトは目を見開く。
「トレイくんがこれ食べても動じないとなると、やっぱり問題だ……!」
そのまま、トレイは表情を変えずに、ボリボリと飴を噛み砕いた。
「あともう少し早くに起こっていたら、あの食堂のクーポン券を獲得していたのは俺だっただろうな」
「ノン! 無くなるのは味覚だけだよ。体質まで変えられるわけではないのだから、無理をするのは良くない」
唐突に、トレイが盛大に咳をし始めた。ケイトが慌てて立ち上がる。
「ちょっ、大丈夫!? 水持ってくるね!」
ルークは軽くトレイの背中を叩いた。
「それにしても──これほどにまで、何も思いつかないとはね」
亡霊のモラセスのレシピが載っていた本には、もちろん効果を取り消す方法も書かれていた。内容はいたって単純だが、考えようによっては異様にハードルが高い。
それは、今まで口にしたことがないものを口にすること、だった。
「俺もずっと考え続けているんだけど、分からない」
トレイは嗄れた声で答えた。体質は変化しないのと、口にすればたちどころに効果が消えることから、害があるものを口にするわけにはいかない。ハーツラビュルの厨房にある調味料の類を片っ端から手にとって試してみたものの、効果はなかった。
トレイ自身にも、自分の味覚を磨くために、一般の生徒よりも色々なものを食べてきたという自負がある。しかし、一度は食べているのに味を忘れてしまっている、などという場合は意味が無いときた。トレイにしてみれば、いよいよ八方塞がりの予感がしてきた。
「……よし! トレイくん、ここは私に任せてみてくれないかい」
ルークは軽く手を叩き、トレイの方へ振り返った。
「いきなりどうしたんだ?」
「以前、ヴィルから受けて、試してみたいことがあったんだ。せっかくだからキミにも協力してもらおう!」
ヴィルからの協力──この時点で何かを察するべきだったのだろうが、解決策が見つからないトレイは、ルークの誘いに乗るしかなく、静かに頷いた。
「あら。トレイ、いらっしゃい」
ルークの思わせぶりな態度から数日が過ぎた。ハーツラビュル内では、少しでも疑惑を挟まれれば話題を変えたり、のらりくらりとかわしてきたものの、そろそろ奇妙に思い始めた者が出てきてもおかしくない。
計画そのものは水面下で進められてはいたようだが、いざ全ての準備が整って呼び出された時、トレイは室内に用意されていたものを見て愕然とした。
確かに、魔法薬学や錬金術などで、奇特な材料と対面することはしばしばある。最近では、素材を得ることを目的とした交配や養殖なども行われ、道徳的に問題があると取沙汰されることもしばしばあるほどだ。
入学当初は乾燥したネズミの脾臓を刻むことにすら抵抗があったものの、授業と部活動の両方で様々なものを調合するうちに、不快感は薄れていった。魔法薬学の首席には及ばないとはいえ、トレイも好成績を収めている分、調合に使うための材料の知識は多い。
しかし──これは一体何だろう。明らかに素材として置かれているが見たこともないものが、実験用のテーブルを埋め尽くす勢いで並べられたシャーレの中に置かれている。室内に漂っているのも、強いて言うなら薬品臭だが、妙な甘さがあった。
「す……ごい量だな」
トレイがやや引き気味に呟くと、それもそうだと言わんばかりにヴィルは笑った。
「ずっと試してみたかった遠い国の生薬がやっと揃ったのよ。異国の素材だからって色眼鏡で見ることなく、良いものは取り入れていかないとね」
「効果は私とヴィルが証人になろう。トレイは一般の生徒代表として、味に問題がないかどうかを確認してもらおうと思ってね」
「中身はともかく、アンタが味を見てくれれば間違いないと思うのよ」
「まっ……まあ、そうだよな」
ルークは今のトレイの身に何が起こっているかは分かっているはずだから、ヴィルとはただ単に口裏を合わせているだけに過ぎないのだろう。トレイを推挙した張本人も、おそらくはルークだが、妙な言動をした時にかばってくれるかどうかは、運次第のような気がする。
トレイは目を細めて、シャーレを見やった。珍しい素材が揃っているのは事実だろうが、まったく知らないものばかりが並んでいるわけではない。パッケージには見慣れない異郷の文字が描かれているとはいえ、中身は大差ないはずだ。
褐色の丸まった根皮は、香りがシナモンによく似ている。隣には植物の根を破砕したような欠片が無数に置かれているが、おそらくリコリスだろう。幼い頃、何も知らずに食べて悲惨な目に遭ってからというもの、リコリス菓子を好んで食べようとしたことはない。その隣にあるのはスターアニス、かつて薔薇の王国の公園で異国料理の屋台が出ていた時に食べた料理の上に乗っていた。そのまま食べようとしたのも、思い出したくない昔の話だ。
──まずい。期待できるほど、条件に合っているものがないぞ。
トレイの内心を知ってか知らずか、ルークはヴィルと用途について話し合っている。
「甘い香りのものはお菓子にしたらどうだい?」
「効き目があるよう見せるのも大事だと思うのよ。やっぱり最初は薬味酒にするべきじゃないかしら。一年生と二年生には、飲みやすさを重視してジュースに変えて……」
和やかな二人とは打って変わって、トレイの表情は半ば修羅場じみていた。会話に気を取られている今なら、二人に気づかれず何かしらを口に入れ、効果を試すことができるかもしれない。しかし、何かも分からないものを口に入れるのは、本能的に気が引ける。
トレイは乳白色の飴細工のように繊細そうな素材を見つめ、眉をひそめた。素材というからには、ほとんど加工はされていないのだろうが、海藻の一種だろうか。
「トレイはどう思う?」
「あ、え、ええ……と……」
視界の端に黄色いものが見え、トレイは視線を止めた。ゼンマイのように見えるが、色が違うし、形状も風変わりだ。
「ヴィル。これは何だ?」
「それはキノコの一種で」
「キノコ?」
「虫に寄生して生えるのよ」
「虫に……?」
トレイは知らず識らずのうちに、ヴィルの言葉を鸚鵡返ししていた。
「その状態であっても、ミミズやムカデの類に見えるけれどね、形や大きさは本当に様々なの。なんでも、異郷ではさかんに研究が進んでいるとか」
トレイはぐっと息を呑み、頭の中でヴィルの説明に合う食べ物を探した。思い当たるものは──ない。
「薬としての効果は様々で……って」
次の瞬間、トレイはシャーレの中にあったもののうち一本を指で摘み、齧っていた。
「ちょっと! 何やってるのよ!?」
盛大に咽ているトレイに、ルークは視線で問いかける──効果のほどは?
ルークの目線に対して、トレイは舌を舐めた後、左右に首を振って応じた。
「いや、そのまま食べた方が、分かりやすいんじゃないかと……」
「そんなわけないでしょうが!」
トレイは水道の蛇口を捻って手を洗い、両手を器のように丸めて水を掬い、口の中を濯いだ。水は無味に近いが、完全に味がなくなり冷たさしか感じなくなってから、もう何日が経過しただろう。
ヴィルとルークの案は、当初ヴィルが口にした薬味酒に落ち着き、成分の抽出までにいつか程度かかるとされたため、解散となった。
その後のトレイはルークと食堂で昼食を食べていたものの、先ほど食んだものに見た目が似ているマカロニサラダを無表情で頬張っていた。
「トレイくん……味は……?」
トレイは乾いた笑みを漏らし、恐る恐る問いかけてきたルークに応えた。食べても直らなかったという悲しさもあるが、もとに戻らなかったという事実は、同時にトレイの覚えていないどこかで食べたということも明白にしており、二重に傷ついていた。
食堂を後にし、廊下を並び歩きながら、トレイは軽く息をついた。
「……ルーク。少し考えたんだけどな、このままでもいい気がするんだ」
予想もしなかった言い分に、ルークは目を剥いた。
「なんてことを言うんだ! キミらしくもない」
「あんまり悠長なことを言っていられないかもしれないと思ったけれど、狙って直すのは無理のような気がするんだ……ほら、俺もお前も、活動の一環と称して部活で色々変なものを食べてきたわけだし……」
「それは──うん、否定しようがないね」
「色々試していれば、そのうちあっさり治るかもしれないだろ? それまで待っても良い気がする。さすがに、そろそろリドルに隠すのも難しくなってきた頃なんだ……いや、さすがに、四年生になってインターン先へ行くまでには治ってもらわないと困るけれど」
インターンなど何ヶ月も後の話であるはずだが、気が遠くなるような話だ。
ルークが視線を向けた先で、二羽の白い鳥が飛んでいた。鳥の間を縫うように走っている雲が、淡い色彩のリボンに見える。
「キミは、そんなに先まで、耐えられるのかい?」
「でも、一つだけ心当たりがある。そしてお前の手伝いが必要だ」
「私で良ければ、どんなことでも協力するよ! 教えておくれ」
トレイはルークの顔をまじまじと見つめた。ルークに良心の呵責を芽生えさせたくはなかったし、今回の一件で自責の念に駆られていたのも分かっている。
「ただし、これを達成するにも代償が必要なんだよな」
「私が払うのでもいいよ。──いや、物にも寄るか……どんなものなんだい」
「俺とお前の友情」
時間が止まったように、ルークは目を瞬かせて立ち止まった。
「どうしてそんなことを」
「これをすることで、お前が俺のことを嫌いになるんじゃないかっていう不安がある」
「まさか! 私がキミのことを嫌うはずないよ」
「本当かな……」
ルークは疑り深い表情のトレイに向かって、力強く頷く。
「じゃあ、試させてくれるか?」
「ウィウィ! 私が力になれることなら、喜んで──」

ルークの言葉は、途中で遮られた。
瞬きをする間、時間にして二秒足らずの間に、トレイはルークの唇に自分の唇を重ねていた。ルークは目を見開き、そのまま立ち竦んでいた。
「ルーク」
トレイはルークを見下ろし、耳元に唇を寄せた。
「食後にアップルシナモンのキャンディなんて、ヴィルにバレたら怒られそうなもの食べてるんだな」
どこか勝ち誇ったような響きを含んでトレイが言うと、ルークの顔が瞬く間に紅潮した。
「それはエペルくんにもらった──そうじゃなくて、トレイくん!」
言葉を選ぶ余裕すら失うほど動揺したルークは、顔を赤くしながらトレイを追った。トレイがルークに振り回されることは多々あると、どの生徒もありふれた風景であると受け流してしまうきらいがあったものの、逆となるのは珍しく、生徒が何事かと振り返っている。
慌てているルークとは裏腹に、トレイは清々しげな顔で廊下を歩いていった。
「──まったくお前達は……」
二人が亡霊のモラセスに関するレポートを提出したことで、頭を抱えることになった人物がもう一人いた。サイエンス部の実質的な顧問であるクルーウェルだった。
効果が切れた経緯については不明としつつも、トレイが消滅を自覚したのはアップルシナモン風味のキャンディを食べた時だということは書き、ほんの僅かな虚言も混ぜつつ、二人はレポートを提出した。
肝心な解除に関わる部分が有耶無耶であるため、研究発表会に使うのは論外としつつも、レポートの出来は他のどの生徒よりも良かったため、クルーウェルはどう対処するべきか頭を悩ませることになった。
「本当にどういう経緯だったか覚えていないと?」
「ハーツラビュルのなんでもないパーティ用のケーキをどうするかで頭がいっぱいだったので、厨房にあるものを片っ端から口に入れてしまい……」
半ば事実であったものの、決定打ではなかった。味覚が消滅した期間も、リドルが疑問を持たないよう、ケーキを作っていなかった数日間しか記載していない。
「調味料か製菓用の材料で、当たりを引いたんだと思います」
呆れてため息を付きながら、クルーウェルは片手で顔を覆った。
「……ハントはどうなんだ?」
「私が口にする前に、トレイくんの効果が出てしまったので、被害が広がらないようにするためにも、私は遠慮させてもらった」
「本当に体は大丈夫なんだな?」
「心配してくれるのはありがたいのですが、そんなに何度も確認して頂かなくても……」
クルーウェルと少し距離を置いたところで、トレインはルチウスを膝の上に乗せながら、悠々と紅茶を飲んでいたものの、クルーウェルが反応に窮していると、カップをソーサーの上に置いた。
「クルーウェル先生。それほど気がかりなら、本当のことを話しては?」
クルーウェルの喉奥から奇妙な声が迸り、トレイとルークの視線が同時に向く。
「二人とも、亡霊のモラセスのレシピを探す最中に、何かがおかしいと感じなかったか?」
「材料が少ないわりに珍しいものばかりだとは思ったけれど……」
「他には?」
トレイはレシピを見つけた時の経緯を一つずつ思い出す。
「そういえばあの本って、シリーズ物の途中の巻だけ書架に置かれていました。前後にあったのはまったく関係ない本で」
「たしか、材料も訂正されていて、訂正後の紙が貼られていたんだったね」
「その通り。レシピの間違いを見抜いて、出版社に問い合わせたのが彼だった。十年以上前に、私が飲む紅茶に亡霊のモラセスを混入させたのも」
トレイとルークは顔を見合わせた。クルーウェルは苦々しげに顔を歪めている。
「調べれば分かることだから言ってしまうが──十五年ほど前まで、亡霊のモラセスは、三年生の魔法薬学では履修科目として必須だったんだ。手順や材料が面倒なわりに薬効が弱すぎるとして、在学中の俺が出版社に問い合わせたところ、出版社は即座に不手際を認めて謝罪、訂正後のレシピが公開された」
「しかし、必修の魔法薬であるというカリキュラムまでは訂正が追いつかず、強烈な薬効を発揮するにも関わらず、これを生徒が口にするあらゆるものに仕込む悪戯が横行した。水道管に仕込んだ生徒は余罪もあって退学。クルーウェル先生も、当時の私の態度がよほど腹に据えかねていたのだろう」
「試験で満点を取っても評定が落第直前だったら、文句の一つも言いたくなるでしょう」
「それ以外が全て不良であればどうかな。そんな理屈が通用するならば、君も錬金術の授業の評定を書き換えなければならなくなるだろう。たとえば、イデア・シュラウドなどは」
クルーウェルは大きくため息を付き、肩を落とした。
「これが、食うものに事欠くような地域から来た生徒であれば、食べたことがないものの特定が簡単であっさり治るが、生徒によっては呪いが解けるまでに半年近くかかった。そんなことがあったせいで、翌年、亡霊のモラセスはカリキュラムから削除されたというわけだ」
「トレイン先生は大丈夫だったんですか?」
「私は一ヶ月半ほどかかったが、教師達の中ではこれでも早い方だった。あの時は大変だった──面白がった娘に、変なものばかり食べさせられて」
「年を食っている教師は、時間がかかって大変そうでしたね……耄碌した者同士がより合って」
「聞こえているぞ」
クルーウェルの小声の呟きに、トレインはぴしゃりと言った。
「過去の反省を活かそうとする気概があるならば、君も受理せざるを得まい。真似をするような生徒が出てきても困るから、不明なところは不明のままにしておくべきだろう」
「ウィウィ!」
クルーウェルはレポート用紙の右上に、受領した旨のスタンプを捺すと、机の上に置いてあった書物の上にレポートを載せた。
「分かった、今回はこれで良いことにする。ただ、次回以降はせめて再現性のあるものにしないと、受け取らないからな」
「ありがとうございます!」
二人が去っていってからも、クルーウェルは訝しげな表情を浮かべていた。ルチウスが低い声で鳴く。
「……まだ何か気にかかることがあるようだな」
「俺は戻るまでに十日かかりましたよ。サバナクローの獣人属の生徒に、ペミカンを食わされて戻ったのを思い出しまして」
しかも、その生徒は完全な善意でペミカンを差し出してきた。その頃のクルーウェルにとっては、名前を知らなければ見たこともない物体だった。
「まだ食べられる物を渡されただけ良かったじゃないか」
「とんでもない、あれの味を思い出そうとするだけで胸焼けがしてくる! しかも何が決めてであったのかは未だに分かっていない」
トレインは鼻で笑い、ルチウスの背を撫でた。
「トレイン先生。差し支えなければ教えていただきたいのですが、何を口にしたら効果が無くなったんですか?」
「私にも分からん。何かを食べた後らしきルチウスに、唇を舐められて元に戻ったからな」
「やっぱり聞かなかったことにします」
トレイが何を口にしてもとに戻ったかは、最後まで不明なままであった。
思いを寄せている相手との口づけで呪いが解けた──そのようなおとぎ話めいた話は、なんともらしくない。
ただ、秘密を共有した二人はひどく楽しげに廊下を歩いていた。秘密の数が増えるだけ、二人は絆が深まっていく。