・誘い受のお話のアーデン視点。アーデンが誘い受なわけじゃないよ、ちがうよ!
・アーデンの激重感情がわかるだけでエロいシーンはないです。
@aburami_b
(彼に会いにこなかった日を、指折り数えてた)
フライパンから、じゅわっと肉の焼ける音と湯気が立ち上った。質のいいブロック肉は、絶妙な温度を保ちながら三時間ほどじっくり湯煎にかけたものだ。
レイヴス宅のキッチンは、家主にはほとんど使われることがない。調理器具や調味料の配置は、アーデンが最後に使ったときから寸分も変わっていなかった。八日間。蝉にとっては一生の長さでも、闇の中で二千年のあいだ生きてきた身にはほんの一瞬に過ぎないはずの。
(……なんだか永遠みたいに長かったなあ)
表面だけさっと焼き付けた肉をバットのうえに取り出した。あとはしばらく常温で寝かせておけば、外は香ばしく中はジューシーなローストビーフに仕上がる。
十年以上前のこと、オルティシエの水上レストランでシェフをしていた男が突然失踪した。店は廃業となったが、そのおかげもあってレギスのかつての仲間は最高の立地で店を持つことができたのだ。料理の味もアコルド首相お墨付き。王と共に旅をした料理人というバックボーンも手伝い、前身の店より何倍も繁盛しているという。消えてしまったシェフも、今ではアーデンの役に立っている。
「みんなには感謝してもらいたいね」
独りごちて、ソースを作り始めた。フライパンの肉汁に、バター、小麦粉、ブイヨンを足していく。仕上げに塩胡椒を少々。無意味な味見はしない。アーデンは二千年の獄中の影響か、化け物に成り果てたせいか、味覚も含めほとんどの感覚が極めて鈍くなっていた。それでも料理を完璧に仕上げられるのは、レシピは頭に住みつき、技術は身体に染みついているからだ。人をシガイにして取り込むというのは、そういうことだった。
付け合わせのタマネギは、これ以上はできない薄さでスライスしていく。レイヴスは苦手なものでも出されたものは全部食べる。しっかりと辛味を飛ばしておかなくては。彼の口に入るものは、すべて美味しくあるように。バゲットは切り分けて、軽くオリーブオイルをしみこませておく。焼くのは彼が帰って来てからだ。仕上げにはクリームチーズを塗り、キャビアを添えてシンプルにしよう。もっと手の込んだものを作ってもよかったが、気合いの入りすぎた料理を並べても向こうは怯んでしまうかもしれない。献身は、重くならない程度に留めなければ。
アーデンは腰を引き締めていたエプロンを外して、アイランドキッチンから広がるリビングを見渡した。レイヴスにはいい部屋を与えた。家具は本人の望み通り、全てテネブラエ製で揃えている。そして今夜は高いワインを用意して、料理を作り、帰りを今かと待っている……これが重くならない程度の献身か? まあ権力者の愛人なのだから、金はいくらつぎ込んでもいい。イズニアが誰の姓だったかは忘れたが、そいつが愛人を囲っていた時の作法のようなものは覚えているのだ。それが正しいかどうかはともかく。
常に、自分のなかに飼っている大勢の誰か。人間をシガイ化してきた副作用により、知識だけでなく思考や感情すら複雑に混線し、自分だけのものではなくなってしまった。ならばレイヴスへの感情も、誰かの影響によるものなのだろうか。
……あの時。
『ここで死ぬなら、それが世界の運命だ』
アラケオル基地でレイヴスがノクティスに向けた剣の切っ先と殺意は、本気のものだった。
神は、使命を果たすまではノクティスの死を許しはしない。アーデンがレギス殺しを阻まれた時のように、レイヴスの剣はノクティスの心臓を貫くことはできなかっただろう。それでも運命に牙を剥こうとすれば、神に裁かれてしまうのはレイヴスのほうだ。今度は腕一本では済まない。歴代王たちは神凪の血に恩情をかけたかもしれないが、神にとって彼にはルナフレーナほどの価値はなく、代わりのきく駒でしかないのだ。
見過ごしてもよかったものを、アーデンは衝動的に助けに入ったのだ……レイヴスのことを。彼を、自分のもとへ帰らせなければと。
……アーデンはリビングのソファにかけ、ワインを開けた。暖房の効果は感じられず、いよいよ終末のように暗い世界をうつす窓から冷気が貫いてくるようだ。灯りが乏しいぶん、気温も下がってしまうのだろう。計画停電には表向き魔導開発だなんだと理由をつけているが、有象無象の気配を感じさせる夜景が気に食わなかっただけだった。それを知れば、レイヴスはひどく怒るだろうが。
アーデンはグラスを傾けた。唇の隙間から流れ込んでくる液体は、ただドロリとしていて泥水のようだった。レイヴスは何故帰ってこないのだろう。柱時計の針は0時を回っていた。
いつも座っているのは、このあたり……アーデンは少し体をずらしてすぐ隣の座面を撫でたが、当然温もりは無い。背もたれに鼻先を埋める。そこには微かにジールの花の残り香があった。
「君のにおい……」
神凪の青年のそばにいる時だけは、アーデンは失った感覚を取り戻すことができた。におい、味、痛み、快感……。重度の不感症になっても唯一残された、神影島の石牢で味わい続けた寒さも、彼の肌だけが温めてくれる。
一度、実験的にレイヴスのそばで自害を試みたことがあったが、ただ苦しむばかりで死には至らなかった。神凪の力は王を生かすものであり、死なせることは許さないということだろうか。
レイヴスへの執心は、彼が指輪に選ばれず左腕を失った時に、より確かなものとなった……あれは自分のための神凪なのだと。自身が世界の救世主になれると思い上がり、絶望に叩き落とされた……弾かれた王と選ばれなかった神凪。王家を憎み、運命に傷つけられながら抗う、よく似たふたり。神への信仰を捨て血にまみれた王と神凪でこの世界を闇に落とすことができれば、それ以上に愉快で甘美な結末はない。
だが、今はその神凪が少し恐ろしかった。
この頃ノクティスに構いに行くのは、焦っているからだ。一刻も早く、真の王として目覚めてもらわなくてはならない。これまでじっくりと世界を壊す準備を整えてきたのに、今になってこうも焦る理由はひとつ。
レイヴスを抱けば、凍える肌は温もりを感じ、渇きは潤おう。まるでただの弱い男になったように。気づけば依存症じみて彼を求め、傍に置いて離さず、執拗に抱いていた。強烈な麻薬のようだ。用法用量を間違えて、復讐の妨げになっては本末転倒なのだ。
もし優先順位が狂ってしまうようなことがあれば、あれは殺さなければならなくなる……。
アーデンは不味いワインをすすり、今夜はセックスは避けようと決めた。万に一つもありえないが、レイヴスから誘惑してこない限り、理性は保てるだろう。
ふと、ワインの味が変わった。もうひとくちすする。先ほどより酸味を感じた。レイヴスが帰ってきたのだ。口に含むたび、味が徐々に変わっていく。近づいてくる花の香り……温かい気配……。玄関のほうから、ピッと電子音が聞こえた。鍵の開く音だ。ワインはどんどん本来の味を取り戻していく。これには何度経験しても感動する。
リビングのドアが開き、澄んだ空気を連れてきたレイヴスを振り返った。無意識だった、満面の笑みになってしまったのは。
「おかえり、ずいぶん遅かったねえ」
彼はこの寒い夜に、歩いて帰ってきたのだろうか。襟に埋もれた顔の鼻先や頬は赤く、髪はひどくぼさぼさで、いつもの完璧な美貌はなかった。アーデンは虚を突かれていた。その隙だらけの姿が予想外にかわいかった。
レイヴスも、つかの間、驚きに固まっていた。怒ったような、切ないような顔をして。だが、すぐにその氷像に血が巡っていくのが分かった。眉間が緩み、瞳から険が消え、薄く開いた唇からわずかに白い歯がのぞく。笑顔というには些細すぎる変化だ。氷が、ゆっくりと溶けだすような。
痛い……。心臓の下のほうを摘まれて、ぎゅっと捩じられたようだ。誰だ、と叫びだしたくなった。シガイ化してきた連中の数多の思考と感情のゴミ処理場のような内側に、一体誰が、こんなものを持ち込んだ?
記憶をたどって犯人をさがした。二千年よりもっと昔だ。まだ人間だった頃。色褪せて、琥珀に閉じ込めたような遠い彼方。アーデン……。懐かしい女の声がよみがえる。婚約者を放り出してふらふらしてるあなたに言われたくないわ……。会えなかった寂しさ、会いに来てもらえなかった腹立たしさ、ようやく会えた喜び……レイヴスの表情が、琥珀のなかで息絶えた誰かと重なった。ゾッとした。これは、誰かに持ち込まれたものではない……。あのとき、何故、レイヴスの命を救った。あれは、例えば彼が雨に打たれていれば傘を差しだしたくなるような、柔らかな衝動。
あたたかい。花の香りが濃くなってくる。君のにおい……。レイヴスが近づいていた。すぐさま顔に余裕を貼り付けた。見惚れていた瞬間など、一秒にも満たないだろう。隠蔽は得意だ。それに幸い、レイヴスは自身に向けられる眼差しには察しが悪い。
アーデンの胸のうち、錯乱の嵐はおさまりそうにない。会いにきたことに、後悔さえ渦巻いている。「待ちくたびれちゃったよ、」用意していた憎まれ口上を、丁寧に読み上げた。