#世界史創作企画 第1回 お題【字】
スラヴの文字の礎を築き、キリル文字にその名を残した「スラヴ人の使徒」キュリロスについて、短い文章を書きました。
@namicky24
キリル文字。バルカン諸国、ロシア及びその周辺国で使用される、スラヴの言葉を書き表すために作られた文字である。
東ローマ帝国から正教会の使徒としてスラヴ人たちの元に送られた哲学者キリル、ギリシャ語名キュリロス(西暦八二七年~八六九年)にちなんでこの名で呼ばれる。
キュリロスその人がこの文字を作ったわけではない。些かややこしいのだが、彼が作ったのはキリル文字の母体となった別の文字(グラゴル文字)であった。彼の亡きあと、弟子たちがこれを改良して作ったのがキリル文字である。弟子たちが亡き師を偲び、「キュリロスの文字」と呼んだのである。
スラヴの文字の礎を築いた、このキュリロスなる人物の話をしたい。
一、ただ知恵のみを妻として
さて、キュリロスという名前――、これは彼が死の直前に修道士となって称したものである。元の名はコンスタンティノスという。
東ローマ帝国、テッサロニケの貴族の家に生まれたコンスタンティノスは、まだ幼かったある日、こんな夢を見たそうだ。
街を治める長官が、街中のすべての少女たちを呼び集めた。長官はコンスタンティノス少年を傍らに招き、
「この中から、お前の生涯の伴侶としてふさわしい人を見つけてごらん」
と言った。少年は注意深く彼女たちを見つめ、輝くばかりに美しい一人の少女に目を奪われた。
「この子です」
コンスタンティノスは長官にそう告げ、少女に名前を尋ねた。彼女はにっこりと微笑み、
「私は知恵よ」
と名乗った。
そう、この少女は知恵――人間ではなく、知恵が具現化した存在だった、というわけである。
不思議な夢が告げた通り、コンスタンティノスは生涯人間の妻を迎えることなく、ただ知恵のみを愛し、一身を賭して彼女に尽くし続けることになった。
このコンスタンティノス少年、あまりにも賢すぎて、ほどなくテッサロニケの街には彼に教えられる先生が誰もいなくなってしまった。少年は一人で様々な難しい書物を読破しつつも、独学に限界を感じて悩んでいたらしい。そんな矢先、時の宮廷の最高権力者であったテオクティストスという高官が彼の噂を聞きつけた。東ローマ帝国の幼い皇帝ミカエル三世の御学友として、コンスタンティノポリスの宮廷に招いてくれたのだ。
コンスタンティノスはミカエル三世より十歳ほども年齢が上であり、実際に皇帝と机を並べたかどうかは疑わしい。しかし、とにかくコンスタンティノスは宮廷に出入りを許され、当時考えうる限り最高の師に恵まれた。
一人は数学者レオン。「九世紀の東ローマ帝国で最も賢い男」として様々な発明品を生み、アッバース朝のカリフ・マアムーン(ハールーン・アッ=ラシードの息子)が巨額の金貨を積んでバグダッドに来てくれるよう懇願したほどの人物である。
もう一人は、後にコンスタンティノポリス大学の教授職を経て、ギリシャ正教会の最高権威・コンスタンティノポリス総主教となる大学者フォティオス。
彼らのもとであらゆる学問を修めたコンスタンティノスは、若き哲学者として、人々から並々ならぬ尊敬を集めるようになった。
コンスタンティノスを宮廷に招いた高官テオクティストスは、さぞかし鼻が高かったことだろう。彼はこの若き哲学者を心から気に入り、いつまでも手元に置いておきたいと思った。
「コンスタンティノスよ、私が代父になっている美しい娘がいる。妻としてもらってやってくれまいか。君ほどの人物なら、この先どんな地位も名誉も思いのままだ」
「閣下、確かにその贈り物は、それを必要とする人たちにとってはこの上ないものかと存じます。しかし……」
コンスタンティノスは丁重にその申し出を辞退した。彼が愛する生涯の伴侶は、ただ知恵のみだったからである。
二、ひとつの畝を耕す二頭の雄牛のように
哲学者コンスタンティノスには多くの兄弟があったと伝えられるが、十歳ほど年齢の離れた兄の一人と、とりわけ仲が良かった。学者肌で身体があまり丈夫でないコンスタンティノスとは対照的に、この兄は身体頑健だったらしい。後に襲いかかる数多の艱難辛苦を潜り抜けて長生きしている。
「貴方たち二人、どんな時も助け合うのですよ」
兄弟の母は彼らにそう言い聞かせたそうだ。
「もし一方が先に命を落とすようなことがあれば、もう一方が兄弟を弔うのですよ」
さて、この兄は宮廷で官職を得て、スラヴ人の州の長官を十年ほど勤めたのだが、ある時これを辞し、修道士となってオリュンポス山の修道院に入った。
出家後の名前をメトディオスという。キュリロスと共に、「スラヴ人の使徒」として深く歴史に刻まれる名前である。
ちょうどその頃、コンスタンティノポリスの宮廷では大きな政変が起こっていた。皇帝ミカエル三世が長じるにつれ、摂政である母后や、政治を牛耳っている高官テオクティストスを疎ましく思うようになったのだ。皇帝は寵臣バルダスに命じてテオクティストスを暗殺し、母后を修道院に追いやってしまった。
コンスタンティノス同様、兄のメトディオスも、この高官テオクティストスに目をかけられていたから、彼が暗殺されたことでそれ以上の出世が望めなくなったのかもしれない。メトディオスが世を捨てて修道士となった原因には、宮廷の勢力争いも関係していそうだ。
一方、弟の哲学者コンスタンティノスは、テオクティストスから示された宮廷での栄達を断ってのち、コンスタンティノポリス大学の教授職を務めていた。自分の学問に集中したいからと、隠棲を強く望んでいたのだが、恩師であるフォティオスがここの教授を務めていた縁故もあって、推薦を断り切れなかったらしい。静謐を好みつつも弁論には極めて長けていたようで、異なる教義の主教やイスラム教徒の論客を打ち負かした逸話が幾つも伝わっている。
そんなコンスタンティノスも、兄メトディオスがオリュンポス山に籠もったと聞くと、何もかもかなぐり捨て、彼を追って山奥の修道院にやってきた。兄弟は二人、祈りと学問に明け暮れる心静かな日々を過ごし、幸福は永遠に続くかに思われた。
しかし、宮廷は彼らを放っておいてはくれなかった。世を捨てて隠棲するには二人は有能すぎたのだ。皇帝ミカエル三世の命を受け、兄弟は正教会の教えを普及させるべく、ユダヤ教を信奉するハザールへの伝道を命じられたのである。今やコンスタンティノポリス総主教となっていた恩師フォティオスの推薦もあったのだろう。
二人はさながら、並んでくびきに繋がれひとつの畝を耕す二頭の雄牛のように、力を合わせてこの仕事に取りかかった。もっともメトディオスは弟ほど学問に秀でていたわけではなかったので、ハザールの学者たちと論戦を張るのはもっぱらコンスタンティノスの役目だったが、頑健な兄は病弱な弟を陰に日向に護り、まるで従者のように献身的に尽くしたという。
三、我々自身の言葉で
一方その頃、モラヴィア王国(現在のチェコ、スロヴァキアを中心とする王国)の王ロスチスラフは、眠れぬ夜を過ごしていた。
モラヴィアの地に住まうスラヴ民族は、カール大帝の時代に、カトリックのフランク王国の勢力下に置かれた。大帝の死後、後継者たちが相続をめぐって争っている隙を突き、独立を果たしたばかりであった。
勢力争いの果てに東フランク王国を勝ち取ったルートヴィヒ二世はしきりに臣従を迫ってくる。しかしロスチスラフは、なんとか彼らの影響を脱したかった。
モラヴィアが意のままにならないことに業を煮やしたルートヴィヒ二世は、挟み撃ちにしてくれるとばかり、南のブルガリア王国と同盟を結び、今にも攻め込んできかねない勢いである。
――助けてください!
大国・東ローマの助力を得るべく、ロスチスラフは次のような言伝を使者に持たせた。
「我々は異教を捨ててこのかた、キリスト教の掟を守っております。しかし我々は、我々自身の言葉でキリスト教の正しい信仰を説く教師を持ちません。そこで陛下、このような教師としてふさわしい者を我々のところに派遣してください。良き掟は常に貴方がたのもとから出て、あらゆる国に広がるのですから」
我々自身の言葉、とはすなわちスラヴ民族の言葉である。
それまでキリスト教世界では長いあいだ、「神を讃えるために用いられるべき言語は、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語の三つに限る」という三言語主義が主流であった。しかし八一三年のトゥールの宗教会議において、「神はあらゆる言語で崇拝されて良い」という考え方が認められたところだった。
自分の国で、キリスト教の典例が自分たちの言葉で行われるようになれば、スラヴ語の権威は増し、モラヴィア王国はスラヴ文化の一大中心地となれる――。そんなロスチスラフの思惑を、東ローマ帝国は良しとした。カトリック、フランク王国、ブルガリア、いずれも東ローマ帝国にとっては宿敵。ここでモラヴィアを自分たちのもとに引き入れることに成功すれば、彼らに一矢報いることになるからである。
四、「水の上に言葉を書くことはできない」
モラヴィアへ送る教師として白羽の矢が立ったのは、やはりコンスタンティノスとメトディオス兄弟。ハザールへの旅から戻ったばかりで疲労困憊していたが、彼らよりふさわしい者はいないという、皇帝ミカエル三世と総主教フォティオスたっての御指名である。
というのも、兄弟が生まれ育ったのはテッサロニケ。古くからスラヴ民族が流入している地域で、二人はスラヴ語を完璧に話すことができた。(両親のいずれかがスラヴ人だったという説もあるが、これは信憑性に欠けるようだ。)しかも兄メトディオスに至ってはスラヴ人の州の長官を十年も務めたことがあり、彼らの思想や生活習慣にも精通していた。
「水の上に言葉を書くことはできない」
伝道のためにモラヴィアへ赴けという皇帝からの命令を聞いて、コンスタンティノスは言った。
「文字が無くては教えは記せません。話し言葉のみで教えを広めようとしても、文字で残さない限り言葉が曲解されて異端を生み、全ては無駄に終わるでしょう。……スラヴの民は文字を持たない。まずは文字が必要です」
こうして、コンスタンティノスが兄メトディオスと弟子たちの協力のもと作り上げたのがグラゴル文字である。スラヴ語にはラテン文字やギリシャ文字では表せない音が多くあり、従来の文字を流用したのでは不十分と彼らは判断したのだった。
このグラゴル文字は一朝一夕でできたとは到底思えない精度の高いもので、モラヴィア行きが決まってから作られたとは考えにくい。あるいは、兄弟はずっと前から時間をかけて準備を進めていたのかもしれない。彼らが幼い頃から親しんだスラヴ語を書き起こす方法、スラヴの人々に効率的に伝道する方法を模索し続けていたのだろう。だとすれば、まさにモラヴィア伝道は彼らのための仕事だった。
この新しいグラゴル文字を使って、彼らは教会文献の翻訳に勤しんだのだが、手始めに取り掛かったのはアプラコスと呼ばれる典礼用福音書抜粋集の翻訳だった。アプラコスとは、復活祭から始まる毎週の典礼において教会で朗読されるべき福音書の章句を教会暦にしたがって並べたもので、何はなくともひとまずこれさえあれば、スラヴ語で典礼を行うことができるのだ。
コンスタンティノス、メトディオス兄弟は、グラゴル文字とアプラコスとを携え、多くの弟子たちを従えて、ロスチスラフ王の待つモラヴィアへと向かった。
五、帰る場所は失われた。ならば敵の懐へ
コンスタンティノスとメトディオスはロスチスラフ王の歓迎を受け、モラヴィアの教会にスラヴ語による典礼を導入した。さらに後継者を確保すべく、スラヴ人の弟子たちの育成に努めた。その傍ら、福音書、詩編や使徒行伝などの教会文献の翻訳もせっせと進めた。
当然のことながら、フランク王国から派遣されていたカトリックの聖職者たちとの間に軋轢が生じる。彼らは「神を讃えるために用いられるべき言語は、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語の三つに限る」という三言語主義を未だに支持していたし、実際それ以外の言葉で典礼が行われるなどということは前代未聞だったためだ。
コンスタンティノスはここでも、非難を浴びせる連中を相手に得意の弁舌を振るう。
「人々が自分の知らない言語で祈りの言葉を聞いたとしても、意味がわかっていなければ『アーメン(かくあれかし)』と唱えることができないではありませんか」
そう言って、聖書の様々な章句を引いて彼らを論破してみせた。
兄弟は四十か月ほどモラヴィアに滞在したが、カトリックの聖職者たちからの妨害は日に日に激しくなっていったらしい。コンスタンティノスは在俗の哲学者、メトディオスは一介の修道士、主教として叙階されておらず、聖職者としての地位を持っていなかったので、権威に欠けることもやりにくさの一因だったようだ。
この問題を解決するためには、自分たちのことはさておき、弟子たちを主教なり司教なり(正教会では主教、カトリックでは司教という)聖職者として叙階してもらう必要がある……と兄弟は考えた。そこで、モラヴィアを出発し、ヴェネツィアへと旅立った。
ヴェネツィアから船でコンスタンティノポリスに帰って総主教フォティオスに頼めば話は早いはず――だったのだが、折しも宮廷でクーデターが起こり、皇帝ミカエル三世が暗殺されてしまう。新たに帝位についたバシレイオス二世によって、総主教フォティオスも罷免されてしまった。
「帰るべき場所は失われた。かくなる上は仕方が無い。敵の懐へ飛び込みましょう」
カトリックの総本山ローマに乗り込んで、ローマ教皇に弟子たちの叙階を頼むのだ。そしてスラヴ語典礼を正式に認めてもらおう……。
この目論みは成功した。教皇ハドリアヌス二世は兄弟の学識と人格に大いに感銘を受け、彼らを歓待した。教皇はスラヴ語典礼を正式に認め、メトディオスとスラヴ人の弟子たちを司祭に叙階してくれたのだった。
こうして、コンスタンティノスの望みは全て叶った。スラヴ人の文字による教会文献の翻訳。スラヴ語典礼の許可。弟子たちは叙階され、後継者も盤石だ――。それらを見届けて、身体の弱いコンスタンティノスは精魂尽き果ててしまったのかもしれない。
六、「山へ帰ってはなりませんよ」
コンスタンティノスはローマの地で病の床に伏してしまった。死期を悟った彼は、命が尽きる前に修道士となり、キュリロスという修道名を名乗った。
兄のメトディオスは大いに取り乱した。何しろ、自分たちが何をすべきか決めるのはいつでも秀でた弟コンスタンティノスだったのだ。頑健だが弟ほどの才を持ち合わせなかった兄は、ただ従者のように献身的に彼に尽くして、ここまでやって来ただけなのである。
コンスタンティノスは兄をなだめて言った。
「兄上、私たちはさながら並んでくびきに繋がれひとつの畝を耕す二頭の雄牛のように、力を合わせて仕事に臨んできました。今、私は己の日を終えて畑の上で倒れようとしています。兄上、私たちが共に暮らしたオリュンポス山がどんなにか恋しいことでしょうね。しかし貴方は、山へ帰ってはなりませんよ」
哲学者コンスタンティノス、修道名キュリロスはとうとう力尽きた。四十二歳の若さだった。
七、汝の母国語で主をたたえよ
兄メトディオスは、兄弟二人で耕してきた畝を、一人で耕し続けることになった。
彼のその後の苦労を思えば、コンスタンティノスは一番良い時に亡くなったのかもしれない。
スラヴ語典礼を許可するという教皇からの文書を預かったメトディオスは、モラヴィア同様スラヴ語典礼の導入を望むパンノニアの地でしばらく活動した後、モラヴィア・パンノニアを含むシルミウムの大司教に任じられた。
しかしやがて情勢は一変。モラヴィアは東フランク王国に攻め込まれ、ロスチスラフ王は位を追われてしまう。メトディオスも逮捕されて三年半に渡って幽閉の憂き目に遭うが、ローマ教皇の抗議のおかげでようやく釈放された。彼はロスチスラフの甥、スヴァトプルク王の元でスラヴ式典礼の実施を許される。
余談だが、アルフォンス・ミュシャの『スラヴ叙事詩』の中に「スラヴ式典礼の導入 汝の母国語で主をたたえよ」という一枚がある。スラヴ語典礼を許可する教皇の勅書を、使者がスヴァトプルク王の前で読み上げる様子が描かれている。
左上、宙に浮いて悩みを抱える婦人たちを力づけているのがコンスタンティノスこと聖キュリロス。中央の一番高いところに座しているのがロスチスラフ王。聖メトディウスは地面に立ち許可書が読み上げられる様子を感慨深げに見つめる老人として描かれている。右奥の暗がりで従者たちに囲まれて座っている髭の男はスヴァトプルク王だ。

『スラヴ叙事詩』「スラヴ式典礼の導入 汝の母国語で主をたたえよ」
このスヴァトプルク王、心なしかやや悪役顔に描かれているように思える。スラヴ語典礼を熱望する民の声に押されてこれを認めざるを得なかったものの、本人は東フランク王国寄りであった。この人のもとでは、メトディウスもロスチスラフ時代のように自由に活動するわけにはいかなかった。
不自由を強いられつつも、メトディオスはせめて自分にできることをしようと、旧約聖書や教父の著作をスラヴ語に翻訳することに残りの人生を費やした。
メトディオスの死後、弟子たちはスヴァトプルク王によって迫害され、拷問にかけられたり奴隷に売られたりと辛酸を舐めることになる。
それでも彼らはキュリロスとメトディオスから受け継いだものを守りつつ、ブルガリアに拠点を移した。そしてその地で、形状が複雑で使いにくかったグラゴル文字を改良し、現在も使用されるキリル文字を生み出すのである。