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つくもの社 第12話

全体公開 29 15253文字
2022-03-24 19:50:29
Posted by @ayame0601s



 この場所に滞留する禍々しい空気はひどく重く、息を吸っても吸っても、酸素を取り込めないようだった。同時に、空気が入るたび、身体の内側から汚染されていくような。体内に渦巻く不快感が、何度も胃を収縮させ、込み上げる吐き気を必死に堪える。
 ひどい悪寒に、身体の震えが止まらない。激しい動悸は呼吸を荒くさせ、苦しさが蓄積されていった。

「もうすぐ此処から出られるから。あと少しの辛抱だよ」

 髭切さんの声が、すぐ近くで落ちてくる。預けた体に伝わってくる彼の歩調は、とても静かなものだった。
 立って歩ける状態にない私を、横抱きに抱き上げてくれた彼は、路地裏を後にした。彼のジャケットを頭から被っているおかげで、此処の禍々しい空気から、多少、隔たれているものの。
 体内が、毒に犯されていくような感覚に。満足に呼吸すらできない、この状況に。このまま死んでしまうのではないかという恐怖が、肺を更に締め付ける。

 ──くるしい。

 苦しい。身体も、心も。
 身体が、心が、至るところで悲鳴をあげていた。辛くて、つらくて、閉じた瞼の奥から涙が滲み出す。
 身体の異変から生まれる恐怖が、呼吸を荒くさせる。見えない先への絶望が、心をかき乱す。
 もう、限界だった。張り詰めていた糸が切れ、足場をなくしたように、下へ下へと堕ちていく。私は、わたしは、どうなってしまうのだろう──。

 酸素不足からか、意識がぼうっとし始める。その時、不意に、髭切さんの腕に力がこもった。ぎゅっと抱きしめられ、更に彼へと体を預ける。
 髭切さんのことも、信用していいのか、もう分からなかった。
 私の体を支えてくれるその腕の温もりは、何故かひどく切ない気持ちにさせられる。こみ上げる涙は、また別の感情を伴っている気がして。
 もう何も考えたくなく、薄れる意識のまま、思考を放棄した。 



 元より、器用であったり要領がいいわけではなかった。何か、秀でている、というものを持っているわけでもない。
 研修時代は、平均的だと思っていた。けれど実際、自分の本丸(・・・・・)を持ち、()としての務めを果たしていくうちに、他との差が明らかになっていった。
 毎日の日課をこなすだけで、一杯一杯な自分の霊力。一日のうちで手入れできる数にも限りがあり、進軍速度も遅くなる。采配の才があるわけでもない。珍しいとされる刀剣も顕現できず、なかなか埋まらない刀帳──。
 年月を重ねる度、研修時代を共にした他の審神者たちと、明らかな差が生まれていった。

『主、君は君の進め方でいいんだよ』

 だから無理をしては駄目だよ、と言ってくれる()は、いつも優しかった。彼だけではない。()の本丸の刀たちは、私の能力を分かった上で、皆が優しかった。

『主さま。正直、このままの戦績では、本丸解体も危ぶまれます』

 けれど、現実は甘くない。管狐(・・)の言葉は最もだった。戦争の最中、そんな生易しいことを言っていられないのは、私も分かっていたはずだ。

『敵は勢力を広げてきています。我々も、それに対抗出来るような部隊を形成していかなければいけません。そのため、主さまにはまず、霊力の底上げをせよ、と。政府からの通達が来ています』

 現実を突き付けられる。私では、能力不足だと。政府(・・)から遠回しに咎められていることなど、理解できないほど鈍感ではなかった。

『戦況が戦況ですので、背に腹は変えられません。主さまには、今からお伝えする方法で霊力の底上げを図っていただきます』

 そう続けた管狐の説明は、終始、淡々としたものだった。

 房中術、というのをご存じですか? 異性が交わることで陰陽の調和をはかり、気を高めるという養生術の一つです。古代中国から伝わるもので、日本でも平安時代に伝わっていた医術の一種でもあるのですが。実際、刀剣男士と交わることで霊力の向上が図れたという事例が、既にいくつか報告されています。体に異変をきたすような報告は、今のところありません。主さまには、この養生術を用いて、霊力の底上げを図っていただきたいのです。

 スラスラと紡いでいく管狐の言葉が、耳の表面をただ撫でていく。言葉の意味を、上手く呑み込めずにいた。けれど辛うじて理解した部分に、眉根は自然と寄っていく。

『この本丸では、そうですね。髭切さんが適任かと』

 出てきた名に、心臓が大きく脈打つ。同時に体温の上昇を感じ、なぜ、と無意識に言葉が漏れる。

『それは、彼がこの本丸で唯一、希少度の高い刀だからです』

 私の独り言を拾った管狐が、簡潔に答えた。
 髭切は、検非違使との戦いで刀剣たちがボロボロになりながらも、拾ってきてくれた刀だった。希少度でいえば、確かにこの本丸の中で一番高い。

 そんな彼と交わることで、霊力の向上を図れ、と。

 政府の言葉を理解した途端、体温は逆に下がっていくようだった。戦績が悪いと咎められることより、苦い思いが胸に広がる。
 それは、利用だ。人間の、政府の、私の──利己のための。

『強制ではありませんが、この本丸の現状は先ほどお伝えした通りです。どうされますか?』

 管狐の言葉は、常に事務的だった。その淡々とした物言いには、逆らうことのできない圧が含まれ、心に重くのしかかる。
 強制ではないが、断れば本丸解体は十分あり得る状況だということを、言葉の隅々から突きつけられる。そんなの、断れるはずがない。
 受け入れる他、道はなさそうだった。
 承知しました、と、苦々しい思いを閉じ込めて頭を下げる。悔しさや情けなさが胸に渦巻き、喉の奥を熱くさせた。

 ──よりによって、髭切、だなんて。

 込み上げるやるせなさを堪えるように、唇を噛み締めたまま、しばらく頭を上げられずにいた。



 ふ、と意識が浮上したのは、あまりに静かなものだった。トク、トク、と脈打つ心臓の音を、胸の奥で聞いて。目を閉じたまま深呼吸をし、ゆっくりと瞼を開ける。
 ぼやける視界。段々と焦点が合えば、薄暗い部屋の天井が目に映る。
 目が覚めた、という状況のはずだった。それなのに、意識はやけに明瞭だった。

 また、あの夢──。

 そう思うも、あの夢はただの夢ではないことなど、もう察している。
 ここまでパズルのピースが揃っているのに、それをはめられないほど、愚鈍ではない。それでもやっぱり、知りたくない部分はあって。

 目を閉じて大きく息を吸い込み、静かに、ゆっくりと吐き出す。

 夢だと思っていたものは、夢ではない。おそらく、記憶だ。
 誰の?
 そんなの、分からない。……分かりたく、ない。
 ずっと、引っ掛かっていた。初めて、この本丸の彼らと出会った時に向けられた、あの視線に。何かしら意図を孕んだ視線は、私と誰かの面影とを重ねているようだと、自分でも感じるものだった。
 あの感覚はきっと、正しかったのだ。彼らは私の中に『誰か』を重ね、その『誰か』の記憶が、あの夢なのだろう。
 それなら、なぜ、私はその『誰か』の記憶を見るのだろう。
 なぜ彼らは、私とその『誰か』を重ねるのだろう。
 その『誰か』の記憶が、あの夢なら。その『誰か』が、髭切さんと交わることで、霊力の向上を図ったのなら。

 ──だって、君さ。

 街で出会った、他本丸の髭切さんに言われた言葉を思い出す。

 ──僕の気、少し交ざってるから。

「ッ」

 息を呑み込み、目を開ける。
 そんなはず、ない。そんな、不可思議なこと。あるはずが──。
 困惑と拒絶が入り交じり、胸を締め付ける。焦燥感が、心臓の鼓動を速めた。
 そんな時、遠くの方から廊下の軋む音が聞こえ、ハッとした。近づく足音に、無意識のうちに息を潜める。
 寝た振りをするべきか、迷っていた。誰とも会いたくない。誰だとしても、会うのが怖い。それでも寝た振りなんてすぐバレてしまいそうでもあって、どうするべきか、心臓だけが忙しなく胸を叩いている。
 どうすればいいのか決意ができないうちに、足音は部屋の前で止まり、静かに襖が開いた。

……む。気がついたか」

 現れたのは、膝丸さんだった。彼は私と目が合うと、その目を微かに見開く。
 膝丸さんだと分かった途端、ふっと肩の力が抜けた気がした。良かった、とどこか安堵すら感じてしまい、振り払うように気を引き締める。
 もう、何を信じたらいいのか分からない。けれど髭切さんには何となく会いにくく、その分、膝丸さんで良かったというのも本音だった。

「なかなか目を覚まさないから、さすがに心配したぞ」

 膝丸さんは苦笑する。彼は私の近くまで来ると腰を下ろし、手に持っていた木製の桶を静かに置いた。
 チャプ、と水面がたゆたう。

「調子はどうだ」

 膝丸さんは手拭いを水につけ、固く絞ると、私の額に乗っていた手拭いと交換をした。ひやりとした冷たさが心地いい。
 そういえば、身体が少し熱い。内側からじっとりと熱されているような感覚に、ああ熱が出たのか、と自覚した。

……すこし、ねつが、あるみたいで」 

 出した言葉は、ほとんど音を成していなかった。唾を飲み込んでもカラカラの喉につっかえて、少しも潤わない。咳払いをすれば、喉がひどく痛んだ。

「喉が痛むのか。後で水を持ってこよう」
「すみま、せん」
「熱はいずれ引くだろう。三日前よりは大分、顔色も良くなったしな」

 その言葉に、思わず目を見開いた。

「え。み、みっか、まえ……?」
「ああ」
「そんなに」
「正確には、三回ほど日常を行っただけだが」

 膝丸さんは指を折りながら数える。そんな彼を視界に入れながら、わざわざ言い換えた意味が分からず、顔をしかめる。膝丸さんもそんな私の表情を見てか、眉をひそめた。

「なんだ」
「あ、いえ。……なんで言い換えたのかな、と思って」

 躊躇いつつも、疑問を口にする。それは、ほんの些細な引っ掛かりだった。
 膝丸さんは「ああ」と納得した様子で口を開く。

「此処に時間の概念は無いからな。それなのに『三日前』と言うのは、理に適っていないだろう」

 時間の概念が、無い。
 返ってきたのは、平然とした答えだった。それは膝丸さんにとって、普通のこと、だからだ。
 心の引っ掛かりが確かなものになり、言葉を失う。
 少し間、茫然としてしまったのだろう。膝丸さんの眉根が怪訝そうに寄ったのを見て、はたと我に返った。

「どうかしたか?」
「あ、いえ……そう、なんですね。それなら私は、此処に居たら、歳を……取らないんでしょうか」
「歳?」

 膝丸さんは不思議そうに復唱する。

「歳は、そうだな。おそらく、そういうことになるのだろう。街でそう聞いた気が──」

 視線を宙へやりながら思考を巡らしていた彼は、ハッとしたように言葉を途切れさせた。こちらへ視線を戻した彼の顔に、歯切れの悪さが滲んでいる。
 恐らく膝丸さんは、私が街へ行ったことを知っている。それなら、私がそこで何を見てきたのか察しているのだろう。
 そんな彼に、「そうですか」と、ただ一言返した。

「あの、もう少し寝てもいいですか? 身体がまだ怠くて」
……ああ。後で水を持ってこよう。粥くらいは食べられるか? 何か入れておいた方がいい」
「すみません。ありがとうございます」

 お礼を言えば、膝丸さんは眉尻を下げて笑った。苦笑とも見えるその表情は、少しぎこちない。
「では、また来る」と言って腰を上げて部屋を後にする彼の背を、静かに見送る。パタン、と襖が閉まった後、天井を見上げて、溜め込んだ空気を吐き出すように息をついた。

……嘘つき」

 溜め息と共に言葉を溢せば、胸に苦い感情がじわりと広がり、眉根を寄せる。何も入っていない胃から、胃酸が逆流してくるような。苦々しい思いがせり上がり、胸を焼け焦がす。

 嘘つき。この世界で、私は歳を取らない。それなら、一年、だなんて。

 鶴丸さんとの会話を思い起こす。
 私が一年、歳を取ったら帰してくれるだなんて、嘘だ。私の一年分、言葉の表面上で鶴丸さんと契約したとしても、元の世界には帰れない。彼は私を帰す気などない。私は、歳を取らないのだから。

『妖物は、人の心を惑わせる』

 不意に、三日月さんの言葉が脳裏に過る。ああこういうことだったのか、と、やっと理解した。
 私は、鶴丸さんに惑わされそうになったのだ。甘い誘惑に魅せられて。
 もう何を信じたらいいのか分からない。何も、信じられない。鶴丸さんのことも、三日月さんのことも、──髭切さんのことも。彼らは、妖物だから。彼らの言葉の裏には、やはり何かしらの意図があるようなのだから。

……かえりたい」

 音にすれば思いが溢れて、目の奥が熱くなる。
 帰りたい。元の世界に。これ以上は頑張れそうにない。街での、あの『人たち』を見てしまったら。痩せ細り、生ける屍のようになっていたあの人たちの姿が、脳裏に焼き付いて離れない。このままこの世界にいたら、私もあの人たちのようになってしまうのだろうか。

 嫌だ。私は──私は、そうなりたくない。

 目を瞑って、喉元をぐっと堪えても、溢れる涙は止まらず、嗚咽は小さく漏れてしまった。





 この世界は太陽が出ないため、昼か夜か分からない。屋敷を出た時に見上げた空は、どんよりと重い雲に覆いつくされ、月が昇っているのかさえも分からなかった。
 けれど、今は夜らしい。膝丸さんがお粥を持ってきてくれた時、彼らは夕飯を終えたらしいことを言っていた。

 ジャリ、と靴の裏で石が擦れる。風が木々を揺らし、葉のざわつきが耳に届く。

 森の中は、相変わらず鬱蒼としていて気味が悪い。風で葉が揺れる度に、びくりと肩が跳ねた。
 虫の声すらしない森を一人で歩くのは、生きた心地が全くしない。

 体の震えは、刺すように冷たい風からなのか、緊張からなのか、区別がつかなかった。熱も上がっているのかもしれない。内側から込み上げる震えを堪えようとしても、カチカチと奥歯が擦れ合う。

 着込めるだけ着込んで、バッグに必要最低限の物だけを詰め込んで。鶯張りの廊下を鳴らさないよう、わざわざ中庭へ出てから玄関へ行き、靴を履いて屋敷を飛び出してから、もう随分と歩いた気がする。 三日も寝たきりだった割には、足元は覚束ないけれど何とか歩けていた。

 髭切さんと往復した道を、一人で歩く。目的地は、あの橋だった。

 あの橋に、一人で行けば。もしかしたら……もしかしたら、帰れるかもしれない。
 必死に思考を巡らせた結果、それがたどり着いた憶測だった。

 この世界の仕組みを、私はいまだによく分からない。けれど鶴丸さんは言っていた。彼らは、私たち人間を誘う(・・)のだと。私は髭切さんに誘われた(・・・・)と思ったと、そう言っていた。

 私が橋から出られなかったのは、髭切さんと居たからかもしれないと、そう思い始めていた。
 そこにどんな力が働いているのかなんて分からない。けれど、もし私が本当に誘われたのなら、誘った人間を、みすみす帰すなんてしないだろう。
 私が帰れなかったのは、髭切さんがあの場に居たためで。それなら、髭切さんが居ない状況なら──もしかしたら、帰れるかもしれない。

 その頼りない期待と憶測が、足を無理やり動かしていた。帰れる可能性が少しでもあるのなら、それにすがりつきたい。そうでもしないと、此処から一生出られないかもしれないという切迫感に、押し潰されそうだった。

『此処にいる人間だが、俺たちが考えなしに連れてきてると思うかい?』

 靴裏で砂利の擦れる音を聞きながら、ふと、鶴丸さんに言われた言葉を思い出す。

『ちゃんと選んでいるのさ。此処に、来るべき人間をな』

 耳の奥で、言葉が反芻される。同時に、びゅうと冷たい風に煽られ、奥歯を噛み締めた。

 来るべき人間を、選んでいる。

 どこまで本当か分からない言葉でも、あの言葉は本音のような気がして、こびりついたように頭から離れない。

 人間に捨てられたという彼らが、選んでいる人間とは。

 今までの話からして、彼らを捨てた人間は、当にこの世に居ない。歴史というワードが出てくるくらい、昔のことなのだから。それなのに、彼らが選ぶ、人間とは。

 此所で見る、あの夢での『記憶』はきっと、彼らがまだ捨てられる前のもので。
 彼らが私へ向ける、意図的なあの視線は。
 あの『記憶』を、私が見る理由は。

 もし……もし、前世というものがあるのなら。

 そこまで考えて、あるはずがない、と首を横に振る。屋敷で目が覚めてから、何度も同じことをしている。
 前世だなんて。そんな非科学的なこと、信じきれない。けれどこの世界自体が説明のつかないことすぎて、あるはずがないと言い切れないことも──本当は答えに辿り着いているのじゃないかということも、薄々感じていた。

 それでも、もしそんなことがあったとしても、今の私には関係ない。
 私は、知らない。
 今の私が、彼らを捨てたわけじゃない──。

 そんなことをぐるぐる考えているうちに、ふ、と視界の端に映った明かりに、顔を上げた。目の前が、朱色の明かりに包まれている。

「戻橋……

 もどりばし。この橋の名前だ。灯籠の光に照らされている橋を前に、ホッと胸を撫で下ろす。
 ここまで一本道だからか迷うこともなく、運が良かったのか誰とも会うことはなかった。けれど寝たきりだった身体には相当負担だったようで、弾む息が冷たい空気を真っ白に染める。

 橋のたもとまで歩みを進め、目の前で立ち止まってコクリと唾を飲み込んだ。
 橋の両側に、等間隔に灯籠が並んでいる。ぼんやりと浮かび上がるその灯籠の明かりは、暗闇の中で橋を淡く照らしあげていた。それは息を呑むほど、神秘的で美しく見える。

 無事に、着いた。この世界の入り口に。あとはどうか、元の世界へ戻れますように──。

 一歩足を踏み出し、橋の縁を越える。

 緊張を訴える心臓が、痛いほど胸の内を叩いていた。震える肺が吐き出す息をか細くさせ、白い吐息が風で後ろへさらわれていく。
 歩きながら、初めて髭切さんと出会った時のことを思い出していた。桜の花びらが漂う中、彼は橋の手摺に腰かけ、観察するようにじっと私を見ていた。
 あの時は確かに、季節外れの桜が舞っていたけれど、今はどこにも見当たらない。

……此処は、この世とあの世の、境目」

 髭切さんが言っていた言葉を、思い出すまま口にする。此処はどこなのかと尋ねた時、返ってきた返答だった。此処へ来てまだ一ヶ月すら経っていないはずなのに、随分と昔のように感じる。

 私は、戻れるのだろうか。元の世界へ。戻橋、という名のくらいなのだから、戻らせて欲しい。

 けれどふと、戻る(・・)というのはどちらのことだと、思ってしまった。

 私がこの橋を通って、こちら側へ来たというのなら。私が、こちら側へ戻ってきた(・・・・・)というのなら。

 私は、あちらへ帰れるのだろうか。
 帰って、いいのだろうか。

……なんて、何を」

 思考を遮るように頭を振る。
 一体、何を考えているというのだろう。こちら側へ戻ってきた、だなんて。
 帰って良くないはずがない。私は来たくて此処へ来たわけじゃない。私は、髭切さんに誘われた(・・・・)のだから。

 ──本当に?

 橋を渡りながら、頭の片隅で自問自答する。
 本当に? 本当に、私は髭切さんに誘われたのだろうか。

 初めてこの橋で会った時、彼の様子はどうだったか。
 彼は私を、この橋に置いていこうとすらしていなかったか。もし私が本当に誘われたなら、そんなことをするだろうか。
 契約の話が出たのも、出会い頭ではない。一夜明けた後だった。私の名前も、彼から聞かれたわけではない。

『君が此処に居る間、我が本丸の主になってほしい』

 彼と交わした、契約の真意は。
 彼らの主となる、その役割は。 
 
『人々に祀られれば神となる。だが神も、人々に祀られる事がなくなれば、神ではなくなる』

 彼らを祀り直す、本当の意味とは。

『堕ちたのさ。格が下がり、あるべき場所へ戻れなくなったんだ』
『此処は、そんな還るべき場所へ還れなかった(もの)の捨て場さ』

 神ではなくなり、あるべき場所へ還れなくなった彼らを、神へと戻して。この世界からあるべき場所へと、還すためではないのか──。

 そう思った瞬間、ぐっと肺が押し潰されるような、苦しさが込み上げる。胸がひどく痛い。

 迷いが生まれ始める。
 私が帰れば、彼らは神へと戻れない。

 追い討ちをかけるように罪悪感すら感じ始め、そんな気持ちにならなくていいのだと必死に言い聞かせる。けれど歩調は、無意識のうちに遅くなっていた。

 橋の終わりにつき、あと一歩のところで立ち止まれば、脈の音が耳の奥に届くほど、心臓が強く鼓動していた。その理由はどの感情からくるものか、もうよく分からない。
 まさか、こんな所で迷いが生まれるとは思いもしなかった。けれど街での、あの『人たち』を思い出せば、忌避感が混ざり込む。

「嫌だ……あんな風に、なりたくない。帰り、たい」

 言い聞かせるように、言葉を溢す。
 前を見据えれば、橋の先は暗闇に呑まれていてよく見えなかった。
 大きく息を吸い込む。
 最後の一歩のために、橋の外へと、足を踏み出した。




 
 橋から足を踏み出し、一歩外へと渡った瞬間、ガラリと景色が変わった。
 朱色の明かりが、辺りを包み込む。
 視線の先は暗闇ではなく、灯籠に照らされた橋が続いていた。

「だめ、か」

 独り言と共に肩を落とす。
 やっぱり私は帰れないらしい。髭切さんが居ても居なくても、変わらなかった。
 落胆の気持ちが広がる。それなのに、絶望感に襲われるというより、罪悪感が消えたことでどこかホッとしている自分がいることに、心のチグハグさを感じていた。

 もう、自分の気持ちすらよく分からない。

 思考することを放棄して、気が抜けたように、ただその場に佇んだ。


 しばらく放心しながら橋を眺め、やっとその場を後にする頃には、感情が抜け落ちてしまったような心地だった。
 焦燥感も、絶望感も、色んな感情が薄れている。何も考えなくなかった。屋敷へ帰るかどうかも決めていないまま、来た道を引き返す。

 内側から感じる悪寒も相まって、頭がぼんやりし始めていた。熱が上がったのだろう。高熱特有の、ひどい寒気に襲われる。カチカチと震える歯を制御できず、身を丸めて歩くことしかできない。

 気を張り詰めていたことで忘れていた身体の不調が、思い出されたように現れていた。身体を休めたい。どこでもいいから、とりあえず横になりたい──。

 とぼとぼと砂利道を引き返していれば、ふと、少し先に細い脇道がある事に気がついた。

 直進するか横へ曲がるかの、小さな分岐点がある。

 灯籠の並ぶ砂利道から横へ逸れ、暗い木々の中へと続く細い小道は、見覚えのあるものだった。初めて髭切さんとこの場所を通った時に、気にかかった脇道だ。
 あの時は「ついて来ないのなら置いていくよ」と、髭切さんに言われ、通りすぎた分岐点。その細い脇道に差し掛かったところで、思わず立ち止まり、森の奥を見つめる。

 本道である砂利道から逸れる森の奥は、明かりが届かず、闇に呑まれている。
 その鬱蒼とした暗い森の中で、かろうじて見えるのは、鳥居だった。

 草が生え乱れ、手入れもされず放置されたその場所に、鳥居が鎮座している。

 しかも、ただそこに鳥居があるだけではない。
 鳥居をくぐる通り道には、細い縄が幾重にも張り巡らされていた。

 まるで何かを封印しているようなその姿は、初めてみた時と同様、不気味という印象を抱かせる。それなのに、その気味の悪さが好奇心を刺激するような。なぜか目が離せず、身体は自然とそちらを向いていた。
 その時。

 ──あるじさま──

 風と共に聞こえた、微かな声に目を見開く。
 声が、聞こえた。聞こえた気がした。ジッとその場で注視していれば、森の奥から再び風が吹き、耳を撫でていく。

 ──あるじさま、あるじ──

 聞き間違えではないその声は先ほどより明瞭で、コクリと唾を飲み込む。
 子供の声だった。それも、一人だけではなさそうな複数の声。 
 足を踏み出す。吸い寄せられるように、森の奥へと歩みを進めた。靴の音が、砂利を擦る音から、落ち葉を踏み鳴らす音へと変わる。
 鳥居が近づくにつれ、心臓の鼓動が大きくなっていた。近づかない方がいいとは分かっていても、好奇心のようなものに抗えず、足を動かす。
 だんだんと暗闇に目が慣れてくれば、鳥居の奥に人影が見え、息を呑んだ。

「あるじさま……?」

 声が、明瞭に届く。鳥居の奥に居るのは、聞こえた声と同様、子供のようだった。
 子供が、居る。こんな暗い森の中に。暗闇に鎮座する鳥居の奥で、子供の姿がぼんやりと浮かび上がる。それも、一人ではない。複数の子供がこちらを見つめていた。
 けれどその姿は、ふと、街で見たものと重なる気がして。
 街にも確かに居た。人ではない、子供の姿をするものたちが。
 歩みを止める。あと数歩進めば、鳥居に手が届く距離だった。子供たちも鳥居の奥から動かない。

「あるじさま、かえってきてくれたんですね!」

 一人が言った。その声にビクリとする。
 和服の子供だ。長い髪で片目が隠れたその子供は、確かに私へと言った。
 暗くて表情までは分かりづらい。こんな鬱蒼とした森の中に子供が居るだなんて、不気味以外の何物でもなかった。けれど急いで逃げようという気が起きないのは、その声色が、あまりに嬉しそうなものに聞こえたからだ。
 あるじ、あるじ、とその場に居る子供たちが口々に言う。その子たちは、私を呼ぶ。懇願するように。涙ぐむ声で私を呼んでいる子もいた。

「あるじさん、ボクたち、ずーっと待ってたよ。早くこっちに来てよ」

 別の子が言う。今にも泣きそうな声だった。
 ずっと待っていたというその言葉が、胸に突き刺さってズキリと痛む。
 その場から動けずにいた。この子たちは──私をあるじと呼ぶこの子たちも、髭切さんたちと同様、付喪神なのだろうか。それならばこの子たちも、捨てられたというのだろうか。人間に。

 人間に捨てられ、長い期間ここから出ることもできず、こうして主人の帰りを待っていたというのだろうか。

 胸の奥から込み上げてくるのは、不憫というより罪悪感に似た感情だった。
 また、この感情。けれど、私は知らない。罪悪感に苛まれなければいけないことなんて、身に覚えがない。それなのに、心がひどく軋む。
 あるじ、と口々に呼ぶ子供の声が、鼓膜を反響させる。その一人一人の声は知らないはずなのに、なぜかとても懐かしいような。あるじ、と。また一緒に遊んでください、と言うその言葉が、記憶の底から何かを喚起させるような。
 胸が痛い。心臓の鼓動が頭まで響き、頭痛もし始める。
 私は。
 私は、もう、後悔したくない──。
 
「駄目だよ」

 後ろから伸びてきた手に視界が遮られ、すぐ背後から聞こえた声にハッとした。踏み出していた足を、ぴたりと止める。

「そっちへ行っては駄目だ」

 耳に届いたその声は聞き覚えがあり、心臓が大きく脈打つ。思い出したように呼吸をすれば、凍てつく空気が喉にしみた。
 不意打ちに心臓が激しく胸の内を叩き、ドッ、ド、と、脈動が身体中を響かせる。驚きと同時に、はたと我に返るような、目が覚めたかのような感覚を覚えた。
 目元に宛がわれていた手が、静かに離れていく。ゆっくり振り返った先に居たのは、想像通り、髭切さんだった。
 私の知る、私の本丸の髭切さんだ。

「髭切、さん」

 渇いた喉が声を掠れさせる。驚きが先行し、次いで焦燥感に煽られる。屋敷から逃げ出したことに対する焦りだった。けれどそれは一瞬のことで、彼の表情を見て唖然とする。
 肩で息をする彼は、暗闇でも分かるほど眉根を寄せ、悲痛の滲む表情をしていた。そこに含まれる、焦りのような感情に気圧され、固唾を呑むことしかできない。

「引き返そう。君は、彼らの主じゃない。そっちへ行ったら、君は」

 彼は呼吸を整える中で、言葉を途切れさせた。
 そっちへ行ったら、何だというのだろう。髭切さんを横目に、恐る恐る、鳥居へと視線を戻す。
 ひゅう、と冷たい風が横切る。鳥居の奥を見て、言葉を失った。

 鳥居の奥に、誰も居ない。先ほど居た子供たちの姿は、無い。代わりにあるのは、全てを呑み込むような深い闇だけだった。

 鳥居に張り巡らされた縄が、風で揺れる。同時に多数の御札も風ではためき、この時初めて、御札の存在に気がついた。
 幾重にも張り巡らされた縄に、御札の存在。それはまるで、何かを封印しているようにも見える。

 まるで、そこから誰も出てこられないように。

 背筋が凍る。悪寒が足元から這い上がり、気味の悪さが内臓を撫でた。私が見ていたものは、一体。
 鳥居の奥から感じるその不気味な空気は、『街』で感じた時とどこか似ているものだった。

「行こう」

 短く言った髭切さんは、私の手を握る。引かれるまま、足を踏み出した。
 もう、後ろを振り向けない。振り向いたらいけないという本能が、強く働いた。

 ──あるじさん──

 再び、耳へと声が届く。さっきと同じ声だった。けれど気のせいだろうと、ぐっと唇を噛み締める。

 ──また置いていくの? ボクたちを──

『行ってしまうのか』

 脳裏で聞こえた声に(・・・・・・・・・)、呼吸を忘れた。子供のものとは違う、聞き覚えのある声。記憶が想起される。お香のような香りが、鼻を掠めた気がした。
 皆が寝静まった本丸。暗い玄関。私は(・・)、誰にも言っていなかった。でも()は分かっていた。分かっていて、玄関近くの和室で私を待っていた。「行ってしまうのか」振り返れば、眉を下げた彼の顔が視界に映る。そんな彼に、私は何か一言二言、言ったのか。速まる心臓を制御できないまま、動揺から揺らぐ視界の中で、玄関の扉に手をかける。

 私は。そうだ、私は、やっぱり。

 逃げ出すように、彼らを置いていったのではないか。

「は、あ……

 動悸が早まり、呼吸が乱れる。
 それは、私の記憶(・・・・)だ。理屈ではない、感覚の部分で自覚をする。夢で見た時のように、客観視していたものと違う。大昔になくした物が、不意に見つかった時と似ていた。その探し物は誰のものでもない、私のものだと一目で分かる、あの感覚と同じだ。
 すでに揃っていたパズルのピースを、やっと合わせる。合わせてしまった。知らないふりをしていたかったのは、認めたくなかったから。

「あ……わ、たし」

 彼らを捨てた人間は、やっぱり私だったのだと、認めたくなかったからだ。

……主?」

 呼吸が苦しい。これ以上は歩けず、座り込む。ハァハァと大きく息を吸い込んでも、苦しさがどんどん蓄積されていき、目の前が揺らいだ。
 主、と呼ぶ髭切さんの声が、自分の呼吸音でかき消される。息を吸っても、吸っても、苦しさが和らがない。手先が痺れ出す。末端が氷のように冷たくなっていく。肺が、苦しい。

「主、落ち着いて」

 髭切さんがしゃがみこんで、私へ声をかけているのは分かっていた。それでも、返事が出来なかった。苦しくて、苦しくて、呼吸の出来なさが怖くなる。手足の痺れはひどくなっていた。筋肉が痙攣し、足もつり始め、明らかな体調の異変に恐怖心が煽られていく。
 怖い。苦しい。何が起こっているのか分からず、視界が滲み出した、その時だった。
 引き寄せられるまま、髭切さんへと体を預ける。背中へ回された彼の手が、赤子をあやすように、静かなリズムを刻んだ。

「ゆっくり息を吐いて。大丈夫だよ。息を吐いたら、ちゃんと吸えるから。ゆっくり、吐き出して」

 耳元で囁くその声は、あまりに優しいものだった。
 震える肺から、息を吐き出す。吐ききった反動で吸い込めば、「ゆっくり吐いて」と再び言われ、彼の言葉に従った。体がガタガタと震える中、吐いて、吸って吐いて、を繰り返す。

「主、大丈夫だよ」

 髭切さんの柔らかい声が、胸に落ちる。体を包み込まれ、背をトン、トンと優しくあやされる感触に、安堵が広がっていくのを感じていた。

 そうだ……彼は、いつだって優しかったのに。

 濁った記憶の底に残る優しさが、目の前の彼と重なり合う。

 泣いて済まされることでないと、分かっていても。

 こみ上げる想いが視界を滲ませ、溢れ出る涙を抑えきれなかった。


 


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