この話は下記を加筆・再構成しリライトさせていただいたものです。
【出典】シン・禍話第24夜(2021年8月21日配信、該当話1:00:30~)
(https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/697726028)
@saba__uma
『体験者に余計なことを言ってはいけない』と痛感した話だそうだ。
禍話の語り手であるかぁなっきさんの後輩に、Kくんという方がいる。
Kくんは普段こっくりさんにまつわる話を集めているが、そうでない話が寄せられることもある。
今回の体験者のAさんもその一人だという。
「こっくりさんの話じゃないんだけどさ……」
そう前置きして、AさんはKくんにこんな話をしてくれた。
大学院生だった頃、ある年の夏にAさんは先輩からバイトを紹介された。
「1週間くらいの、草むしりのバイトなんだけど」
聞いてみると時給は家庭教師のバイトとそう変わらず、肉体労働のわりにかなりの高給だ。
おまけに草むしりといっても1本1本引き抜いて完全に綺麗にしなければいけないようなものでもなく、必要な道具は全て向こう持ちで出してもらえる。それに敷地もそれほど広くないので、1週間程度の期間内には余裕で片付くのだという。
後から考えてみれば、この時点で不審に思うべきだった。
こんなに美味しいバイトがあるのなら皆が持ち回りでやっているか、誰かが独り占めしていてもおかしくはない。
けれどお金もなければバイトできるほど暇でもない大学院生にとって、短期の高給バイトは渡りに船だ。
当時のAさんは一も二もなく飛びついた。
バイト先はAさんの自宅からも歩いて20分ほどの、なだらかな丘の上にある5、6階建てのマンションだった。
「お、来たな。こっちこっち」
先にマンションへ来ていた先輩に連れられて中に入る。
マンションは真新しいわけではなかったが、敷地内は舗装されているところも多く草むしりが必要なようには見えない。
「いや、こっちじゃなくて裏が草ボーボーなんだよね」
先輩を先頭に一列に並び、それでも肩を擦るほど狭い通路を通ってマンションの裏手に回る。
マンションを背に、残り三方を大人の背丈ほどの塀に囲まれたその場所は確かにひどいものだった。
伸びるに任せた雑草がそこら中にはびこっていて、草むらどころか藪のようになってしまっている。
虫も出るだろうし、ベランダの目の前なのに1階の住民から苦情が来たりしないのだろうか……とそちらを窺ってみると、全てカーテンが閉まっている。
夏の盛りにもかかわらずエアコンの室外機が動いている様子もないので、どうやら1階には誰も住んでいないらしい。
「それじゃ、やっていくか」
困惑するAさんを尻目に、先輩は肩に提げた袋から鎌やら小さな熊手やら、便利そうな道具を取り出している。
「あ、そうだ。それとこのバイトって基本二人一組なんだけど、それぞれの休憩の時に『作業の音がうるさい』とか住民とトラブルになったらすぐに教えてくれよ」
「はあ、わかりました」
奥まった立地で、こんな風に敷地を荒れ放題にしているマンションだから、もしかすると家賃が安くて厄介な住民が多いのだろうか。
それかベランダ側にもかかわらずこうして塀に囲まれているような場所だから、土地自体がもともと訳ありなのかもしれない。
そういえば隣は何なのだろう、と塀の向こうへと目をやると何か建物が見えた。
「隣は何なんですか?」
「隣はお寺……じゃないんだけど、関係のある施設らしいよ」
お寺、ではなくお寺の施設とは何だろう。まさか納骨堂か何かだろうか。
はっきりしない物言いにAさんは違和感を覚える。しかし破格のバイト代の前には些細な問題だった。
むしろ、訳ありの場所だからあんなに給料が良いんだろうな。
ひとまず納得したAさんは先輩の持ってきた道具を手に、草刈りを始めた。
期間に余裕があるとはいえ、根が真面目なAさんはサボりもせずに黙々と草刈りを続ける。
するとある時、塀の向こうから妙な音が聞こえた。
トーン、トントトト…………
「え?」
思わず顔を上げると、また同じ音がした。
トーン、トントトト…………
ゴムまりのような、軽くてやわらかいボールが塀に当たっては転がる音だ。
バスケットやサッカーのような固くてよく張ったボールとは違い、小さな子どもが使うような軟らかいボールでろくに空気も入ってないのだろう。
トーン、と塀に当たりはするがすぐ地面に落ち、トントトト…………と一度弾んだきり転がる様が目に浮かんだ。
どうやら誰か……おそらくそんなボールを使うくらい小さな子どもが、塀にボールを当てて遊んでいるらしい。
お寺の施設ということなので、そこに住んでいるか連れられてきた子どもが退屈を持て余して遊んでいるのかもしれない。
それからもしばらく音は続いていたが、Aさんは気にせず作業を続けた。
「俺さきに休憩入るわ。Aも適当なとこで休めよ」
「はい、わかりました」
昼ごろ、先輩が先に休憩に入った。
Aさんは作業を続けていたが、ふと視線を感じて顔を上げると4階のベランダからこちらを見ている人がいる。
相手は高さと逆光のせいでほとんど真っ黒いシルエットのようになってしまっていて、顔はわからない。
『それぞれの休憩の時に『作業の音がうるさい』とか住民とトラブルになったらすぐに教えてくれよ』
先輩の言葉が思い浮かび、じろじろ見るのも失礼だろうと軽く会釈をしてまたAさんは草むしりに戻った。
色々と便利な道具があるとはいえエンジン付きの草刈り機なんて大がかりな物は使っていないし、作業中は二人ともほぼ無言だったので騒音になるほどの音は立てていないはずだ。
ただ草刈りをしているとどうしても土の匂いや青臭い草いきれが立ち上ってくるものなので、それが気になったのかもしれない。
いずれにせよトラブルというほどでもないし、先輩にわざわざ報告する必要はないだろう。
その後Aさんも昼休みを取り、午後の作業も滞りなく進んでその日は終わった。
ただ、午後の間も相変わらず塀の向こうからの音は続いていた。
トーン、トントトト…………
トーン、トントトト…………
当時のAさんは気にも留めなかったが、もし子どもがボール遊びをしていたのなら歓声か何かはしゃいだ雰囲気が伝わってくるはずであるし、昼や夕方に親が呼びに来ることもあるはずだ。
しかしAさんが作業をしている間、ボールが塀に当たって落ちる例の音の他には何も聞こえてこなかった。
翌日も同じように、Aさんと先輩は朝から草刈りに没頭していた。
しかし途中で、刈った草を一か所に集める大きな熊手が必要になった。先輩は色々と便利な道具を持って来てはいたが、流石にそんな大きなものを準備しているようには見えない。
「ああ、このマンションの道具使っていいことになってるからさ。ちょっと取って来てくれるか?」
聞けば最上階の外廊下に、掃除用具などを保管している用具入れがあるらしい。
エレベーターで最上階に向かうと確かに、外廊下の突き当たりに大きなロッカーのような用具入れがる。
頼まれていたとおりに熊手を回収したAさんは、階下へ戻ろうとした時にふと、用具入れの奥にある外階段から自分達の作業している草むらが見下ろせることに気付いた。
何の気なしに下を覗きこんでみると、草むらにしゃがみ込んで作業をしている先輩の姿が見えた。
そして草むらを取り囲んでいる塀の向こうへと目をやると――そこには何もなかった。
「えっ?」
正確には、コンクリート打ちっぱなしの敷地の中央部分に大きな丸い岩がある。でもそれだけだ。
先輩は『お寺の施設』と言っていたが、建物の類は一切見当たらない。おまけに敷地の四方はブロック塀と背の高い金網に囲まれていて、出入り口すらない。
初日に塀越しに何か建物が見えた気がしたのだが、あの岩を見間違えたのだろうか。
それにしても何のための場所かわからなくて、気味が悪い。
熊手を抱えたAさんは逃げるようにその場を後にした。
「あの~隣の施設って結局なんなんですかね?」
戻った直後は大っぴらに聞いていいものかと黙っていたAさんも、好奇心には勝てなかった。
その日の休憩が終わった後、声を落としながらも素知らぬ顔で先輩に尋ねてみる。
「まあ、なんていうのかな……昔の古い墓地みたいなのがあって、そのままにしているみたいだよ」
墓地、とは言うが、真ん中に置かれた岩は石碑や墓石のように何らかの加工が加えられていたようには思えない。
先輩の言い分は、先ほど見た殺風景な光景とは噛み合わない気がした。
けれど好奇心とバイト代とを天秤にかけたAさんは、これ以上追及しないことにした。
その日の作業も淡々と進み、夕方に草刈りを切り上げたAさん達は道具をまとめたり刈った草を集めたりと後片付けをしていた。
するとまた上方から視線を感じ、顔を上げると上階のベランダからこちらを覗いている人影が見えた。
「あっ、どうも。終わりましたんで……」
すでに夕暮れ時で薄暗かったこともあり、相手の姿は判然としない。
Aさんは愛想笑いとともにぺこぺこと頭を下げながら、足早にその場を離れた。
「じゃ、また明日もよろしくな」
「はい。おつかれさまでした」
用具入れに道具を戻した後、先輩と別れてAさんは帰路に付く。
その途中でふと、妙なことに気付いた。
そういえば今日もベランダから覗いてきた人がいたが、昨日とは階が違った気がする。
昨日は4階だったが、今日は3階じゃなかっただろうか。
とはいえ1階程度の差なら自分の見間違えかもしれないし、他の階の人も偶然気になって見てくることもあるだろう。
些細な違和感は、Aさんが家に着くころにはすっかり消え失せていた。
「ただいまー」
「あらおかえり。疲れたでしょ、ちょうどお風呂沸いたから入っちゃいなさい」
「うん、そうするよ」
「え、ちょっと待ってよ。あたし先に入るから」
草むしりのバイトも中盤に入ったある日、帰宅したAさんが母親に促されるがまま風呂場に向かおうとすると、高校生の妹が割り込んできた。
「なんだよ、俺が一番疲れてるんだから先に入らせてくれよ。親父もまだ帰って来てないんだし」
「いや、でもさ…………」
気の強いはずの妹が、歯切れ悪く言い澱む。
「なんか、今週くらいからさ……兄貴の後に風呂入ると、ヘドロみたいな変な臭いするんだよね」
「はあ!?どういうことだよ」
「いや違くて!」
あまりの物言いに流石に食ってかかるが、妹の方も反抗期や嫌がらせで言ってるわけではないらしい。
「バイトしてるって言ってたじゃん。下水とかそういうのじゃないの?」
「違うよ、草むしりだよ。前に言ったろ?」
「あらそうなの?…………正直、一生懸命に働いてるんだろうから悪いと思って言わなかったんだけど……」
すると母親も妹と同じようにAさんからヘドロのような悪臭を感じているのだという。
なんでも、Aさんが帰ってくると下水のような……悪く言えばドブ川のような臭いがするらしい。
「でも草むしりなんでしょ?もしかしてそういう川とか、汚いところをやらされてるんじゃないの?」
「いや、別に?マンションの近くなんだけど……」
これまで遠慮して指摘しなかったようだが、どうやらバイトを初めて以降のAさんからは下水のような悪臭がしていたらしい。
Aさん自身は全く身に覚えがないし自覚もないのだが、ひょっとすると例のブロック塀の向こうに側溝でもあるのかもしれない。
家族には悪いが、どうせ汗だくになるし風呂に入れば臭いは取れるのだ。
その日は言われた通りに妹に風呂の順番を譲り、それからAさんは汗を流した。
その夜、Aさんは2階の自室で調べ物をしていた。
大学院生に夏休みなどあってないようなものなので、バイトばかりに明け暮れて学生の本分をおろそかにしてはいけない。
ふと集中が切れたタイミングで、Aさんは大きく伸びをする。パソコンの時計を見れば、もう深夜の2時を過ぎていた。
明日も朝からバイトなのだから、流石にそろそろ布団に入らないとまずいだろう。
Aさんはパソコンの電源を落として席を立った。
その瞬間。
トーン、トントトト…………
跳ね返ったボールが転がり落ちるような、あの音がした。
おそらく、隣の妹の部屋から。
そういえば今日のバイト中も塀の向こうからずっとこの音が聞こえていた。そのせいで空耳でもしているのかもしれない。
と思ったらまた、隣の部屋から同じ音がする。
トーン、トントトト…………
聞き間違いではない。だが直接確かめに行く気にもなれず、Aさんは忍び足で1階へと降りた。
きっと妹が貧乏ゆすりか何かで似たような音を立てているだけで聞き間違いなのだろうが、どうにも気味が悪い。
一応は妹の様子を確認した方がいいのかもしれないが、こんな夜中に急に部屋へ入るのも気が引ける。
どうしたものだろう、と逡巡しているとダイニングに電気が点いている。
両親はもうとっくに眠っているはずだ。
おそるおそる覗きこむと、妹が自分の席で膝を抱えていた。
「えっ?お前なに、こんな時間にどうしたんだよ?」
「いや、あのさ……」
妹はやけに沈んだ様子で、寝ようとした途端に誰かに見られている気がして眠れなくなってしまったのだと言う。
「お父さんやお母さんや兄貴起こすのも悪いからさ、こうしてたんだけど」
「……それじゃお前いま、部屋にいないよな?」
「いやいないでしょ、ここにいるんだから。兄貴なに言ってんの?」
思わず当たり前のことを口にしたAさんに妹は呆れた様子だったが、Aさんはそれどころではない。
それならばあの音は一体、何だったのだろう。
ひとまずAさんはバイト先での出来事については黙ったまま、妹と連れだって2階へと戻った。二人で妹の部屋を確認してみたが特に何の異常もなかったため、それぞれの部屋へ戻って床についた。
この日以降は妹が眠れないと訴えることもなく、Aさんの草むしりのバイトにもおかしなことは起こらなかった。
そして最終日もこれまで通りAさんと先輩は黙々と作業を続け、夕暮れ前には目立った草を全て刈り終えた。
地面にまだ草の根元は残ってはいるものの、荒れ放題だった頃を思えば見違えるくらい綺麗になってAさんは達成感を覚える。
先輩も同じなのか、道具を袋にまとめながら満足げな顔をこちらに向けた。
「ありがとうなA、助かったよ。この広さを一人はさすがにキツイからさ。来年もよろしくな」
そう言われて初めて、Aさんは固定のバイト要員が先輩の他にいないことに気付いた。
大学院なんて年単位で在学するものだし、大学院生のほとんどは金と暇の折り合いがつかなくて困っているようなものだ。
こんなに美味しいバイトなら、先輩以外に何年も続けているバイトがいてもおかしくないはずだ。
そもそも先輩は、どうして自分に声を掛けたのだろう?
考え出すとキリがないが、どうせ最終日だ。今後の付き合いもあるし先輩にわざわざ問い質すのも気が引けて、Aさんも後片付けを手伝う。
そういえば今日は塀の向こうから何の音もしなかった。これまで毎日、朝から夕方まで続いていたのに――と思ったところで、Aさんははたと気付いた。
この前……最上階から見下ろした時、隣の敷地は塀や金網に四方を囲まれていて入口さえ無かったはずだ。
それならば塀にボールを当てている子どもは、どうやって入り込んだのだろう。
ブロック塀も金網も、Aさんの頭より少し高いくらいだ。大人に肩車でもしてもらえば子入れるかもしれないが、そこまでするほどの場所だろうか。
金網も頑張れば子どもでもよじ登れるだろうが、それならば大きな音がするに違いない。
本来ならばもっと早く、それこそ最上階から隣の敷地を見たその日にでも思い至らなければいけなかったはずだ。しかしAさんは今日に至るまで、その違和感に一切気付かなかった。
それでも、肝心のバイトも今日でもう終わりだ。
隣からは何の音もしないのだから今さら気にしてもしょうがないし、明日以降訪れることもないだろう。
「いやーお疲れさん。バイト代は後日俺から渡すから」
「あ、はい。ありがとうございます」
「んじゃ帰るか。……A、忘れ物してないよな?」
「いや、ないですよ」
「ケータイとか財布とか鍵とか、持ったか?」
「大丈夫ですよ、ありますよ」
最後、空き地を後にしようとした段になって、先輩がやけにしつこく忘れ物を確認してくる。
今まで帰り際に一度もそんなことを言わなかったはずなのに今日に限って何度も何度も、ずいぶんな念の押しようだ。
「全部もったな?忘れ物ないな?」
「いやいや大丈夫ですって。ほら、全部ポケットに入れてますから」
鍵や携帯電話に膨らんだポケットを見せるとようやく、先輩は安心したように肩から力を抜いた。
「そうか……じゃあ、道具とかは俺が返しておくから。おつかれさん、来年も頼むよ」
「はい。おつかれさまでした」
先輩と別れた後、Aさんが家に帰った頃に短時間だけ夕立があった。バイトや帰り道で降られなくてよかった、と思ったのを覚えているという。
その夜、Aさんは携帯電話を紛失していることに気付いた。
「はあ?おい、嘘だろ……」
先輩にあれだけ言われたのに、まさか忘れてきてしまったのだろうか。でもあの時は確かにポケットに入っていたはずだ。
居間のテーブルの上や脱衣所のズボンのポケットなど、思い当るところをくまなく探す。しかし捜索も空しく家の中からは見つからず、Aさんは観念して家を出た。
バイト先のマンションまでは歩いてもせいぜい20分程度の距離だ。
路面はまだ濡れていてそこら中に水溜りができているが、雨はすっかり上がっていて雲の切れ間に星も見えたので、降られる心配はなさそうだ。
夜にそのマンションを訪ねるのは初めてだった。
マンションなら夜中とはいえ玄関には明かりくらい点いているはずだし、場合によっては駐車場や周囲に街灯も整備されているはずだろう。
だが着いてみればマンションは真っ暗で、街灯どころか窓の明かりさえ一つも灯っていない。
こんなに真っ暗で、住民は不便じゃないのだろうか。
Aさんは、念のためにと持ってきた小型のペンライトを灯す。
少し心もとないが、こちらも毎日通っていたのだから勝手はわかっている。
外周を回って狭い通路を通り、草むしりをした空き地に出る。
するとそこに、先輩がいた。
「うわっ!?」
思わず大声を上げてしまった。
先輩はこちらに背を向けるように、塀の方を向いて地面に正座をしている。
先輩の服装は夕方に別れた時のままで、そのおかげで暗い中でも一目で先輩とわかったのだろう。
「えっ、せ、先輩!?何してるんですか!?」
正面に回って顔を覗きこむと、確かに先輩だ。
よく見ると先輩の身体は濡れていて、Aさんは家に帰った途端に夕立があったことを思い出す。
まさか、自分と別れた後も家にも帰らないままずっとここにいたんだろうか。
「ちょっ、ドッキリのつもりですか?全然おもしろくないですよ、それ」
恐怖のあまりAさんは詰め寄るように捲し立てるが先輩は無言を貫いていて、むしろこちらが反応に困ってしまう。
驚愕から来た怒りはすぐに醒め、むしろAさんの背筋を過剰に冷えさせる。
何故か先輩がここにいることも、一切喋らないことも恐ろしくてしかたない。
「えっ、ちょ、その……ケータイ忘れちゃって取りに来たんですけど。見てませんか?俺のケータイ……ど、どこにあるのかなー……」
恐怖を紛らわせるために、わざとらしく大きな独り言と共にAさんは周囲に明かりを向ける。
するとすぐに、見覚えのある携帯電話が塀のすぐ近くに置かれているのが見つかった。
とはいえ雨が降っていたのだからびしょびしょに濡れて、下手したら壊れてしまっているかもしれない。
しかしAさんの予想に反し、拾い上げた携帯電話はほとんど濡れていなかった。
「あれ?」
濡れた草や地面に触れていた部分には多少水滴が付いているが、それ以外は湿ってすらいない。
まるで、雨が上がってから――それどころか、Aさんがここに来てから置かれたように。
「え、これ…………いま置きましたよね?」
ここには先輩しかいないのだから、こんなことは先輩しかできるはずがない。
直感的な疑念が思わず口をついて出た、その瞬間。
トーン、トントトト…………
ボールが壁に当たって転がるような、あの音がまた聞こえた。
だが、塀の向こうからではない。
たったいま自分が通ってきた、あの狭い通路の方向からだ。
「うぁっ……!」
気の抜けた悲鳴が漏れた。
それを嘲うように、同じ方向から幼い忍び笑いまでもが聞こえてくる。
トーン、トントトト…………
ふふっ……んふふ……
トーン、トントトト…………
あはははっ……
ボールが壁に当たって、転がる。それが楽しいのか、子どもが笑う。
そしてその音はだんだんとこちらへと近づいて来ていた。
「…………俺、あんだけ『忘れ物ないか』って言ったけどねぇ」
先輩が、呆れたようにぽつりと呟く。
トーン、トントトトト…………
背後にボールが転がってきた気配がした。
当然拾いたくもないし、そちらを見たくもない。
Aさんが携帯を拾った時のまま凍りついていると、軽い足音が近付いてくる。
と同時にヘドロのようなドブ川のような臭いが漂い始め、気配が近付くほどに濃くなっていく。
……ふふふっ
吐き気が込み上げるほどの悪臭の中、Aさんの真後ろにまで近付いた気配はボールを拾い上げる。
そして小さな笑い声を漏らし――――トトトト……とボールを転がしながら遠ざかっていった。
ボールの音が小さくなるにつれて悪臭もだんだんと薄まっていく。
ついには何の音も臭いもしなくなってようやく、Aさんはいつの間にか詰めていた息を大きく吐いた。
「…………な、なんですか、いまの……」
背に冷たいものを伝わせながら、Aさんは振り絞るように声を漏らす。
「だからさぁ、『住人を怒らせるな』って言ったじゃねえか」
しかし先輩の調子は淡々としたもので、それが余計に恐ろしい。
「いやいやいやいや……俺、何も怒らせてないですよ……」
「いやお前、怒らせてるよ住人を。ああーもうなぁ……これだからこのバイトあんまり続かないんだよな俺以外」
Aさんが絶句していると、先輩は正座を崩さぬまま続ける。
「みんな怒ってるよぉー」
ふと嫌な予感がして真上を仰ぐと、2階のベランダから誰かが身を乗り出すようにしてこちらを見ている。
いや、身を乗り出しているのではない。
人の頭ほどもあるボールを両手で持ち、ベランダの外へと突き出しているのだ。
「えっ……」
その両手はぶるぶると震えていて、今にもこちらへと落としてきそうだ。
咄嗟に向けた弱い明かりの中でもボールは人影と一体化しそうなほどにどす黒く、古ぼけて薄汚れているのがわかった。
そして薄明かりにだんだん目が慣れてくるにつれて、ボールに顔が描かれていることに気付いた。
目鼻口がかろうじて揃っているような、子どもの落書きじみた下手糞な顔だ。
「落とすなよ、落とすなよ。田中は落としちゃったんだよなぁ~」
背後で先輩が訳のわからないことを言っている。
田中って誰だよ。
そう思うと同時、2階の何者かがパッとボールから手を離した。
「うわっ!」
咄嗟にAさんは固く目を瞑り、両腕で頭を庇うようにしてボールを跳ねのける。
トーン、トントトトト…………
あの音を響かせて、ボールが地面に転がった。
「……それで、僕は逃げました」
「え?じゃあその後はどうなったんですか?」
Kくんが尋ねるとAさんは重い口を開いた。
「『落とすなよ』って先輩は言ってましたけどね、やっぱりキャッチしてもいけなかったみたいですよ」
その後Aさんが大学で聞いて回ったところ、数年前に田中という人が大学院を中退していたらしい。
その人も先輩から草むしりのバイトに誘われた後、心身の調子を崩して大学院を去ってしまったそうだ。
「なるほど、咄嗟の判断てことで良かったんですかね。……それで、あの、変なことを聞くようですけど……」
唾を飲み、Kくんは口を開く。
「本当にボールをだったんですかね?」
すると途端にAさんはKくんを睨みつけ、語気を荒げた。
「ボールでしたよ絶対、ボールですよ!目鼻の付いてるボールだよ!ボールに決まってるだろうが!」
「あっ、はい、すみません!」
流石に踏み込み過ぎた、とKくんはそれ以上の怒声を覚悟する。
だがAさんは突然トーンダウンし、Kくんではなく自らへ言い聞かせるようにぶつぶつと呟く。
「ボール、ボールだよ。あれは絶対ボールだろ、ボールに決まってる……」
その後もAさんの調子は沈んだままだったが、場所を伏せ設定に創作を混ぜることを条件に、この話を他言する了承を得られた。
最後にKくんは、一番気になっていたことをおそるおそる聞いてみた。
「それで、その先輩って結局どうなったんですか?」
「ああ……まあ結局、もう大学もあんまり来なかったですからね……」
不機嫌そうな様子を隠そうともせず、Aさんは吐き捨てる。
「まだ座ってんじゃないですか、あそこに」
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【出典】シン・禍話第24夜(2021年8月21日配信、該当話1:00:30~)
(https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/697726028)
猟奇ユニットFEAR飯による著作権フリー&無料配信の怖い話ツイキャス「禍話」にて過去配信されたエピソードを加筆・再構成しリライトさせていただいたものです。
イニシャル表記などはすべて仮名です。
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