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2015-07-02 23:10:57

金福演習2の②、蟹工船ではない。

「どうにもならねぇ」
「なぁ。全部沈んだんだろ」
「そうさ、全部沈んだ。ぜぇんぶだ。工場があったって、蟹がなけりゃしょうがねぇや」
「どうなんだい、あそこは………
「そりゃぁ、まぁ、潰れるんじゃねぇか………
「船はねぇ、蟹はねぇ、遺族に金も払わにゃなんねぇ、とくりゃ、なぁ………

金城はそっと息を吐いた。煙が風に巻かれて遠く流れて行った。海辺の風は強い。ごぉごぉと耳元で鳴る。それでも、塩辛く嗄れた話し声は二人の耳まで届いてきていた。
「あそこの奴らがこっちまで流れて来てらぁ、仕事なんかねぇのによ」
「こっちゃぁこっちで不漁だしなぁ」
金城は目を細めると、吐き出した煙が入道雲に吸い込まれていくのを追いかけた。毒性の雲が水平線にもくもくと立つ。まだ、遠い。明日は雨になるかもしれない。
「もっと、静かなところに行こうか」
砂に指で絵を描いていた福富は、こっくりと素直に頷いた。やけに幼い仕草だった。金城は少しの悪戯心で、砂に描かれたうさぎとも犬ともわからぬ動物の線を、煙草の火でなぞってみる。砂に混ざった海藻が、じゅ、と音を立てて、潮の匂いが強くなった。燃え尽きた白い煙がゆっくりと立ち昇る。
「行こうか」
金城はそこに煙草を立てて置くと、福富の手を握って自分の肩に這わせた。膝の裏に手を回し、ぐっと腹に力を込める。立ち上がった拍子に、尻や足についた砂がはらはらと零れた。
「何処まで行く?」
「向こうの、岩場の近くまで行こう」
背に福富を負ったまま、金城は歩き出した。足にずんと重みが加わる。福富はこの旅行で、幾分か体重が増えたようだった。良いものを食べているからかな。そう思うと嬉しく、また、切なくもなる。金城の背に揺られている福富は、自分が重くなったことにも気付いていないのだろう。ゆらゆらと不安定に揺れながら、青く続く海の向こうをじっと見つめているようだった。
「何か、見えるか」
「いや………
風が強いせいだろうか。海上に船はなく、帆に寄り添うカモメの姿も見当たらなかった。一面がただ、青い、青い、海の色だった。風に導かれるように、福富の口が戦慄く。
「お前が乗っていなくて、よかった――――………
ぽつん、と零れた言葉を知らないふりで、金城は前を向いた。一歩踏み出す度に砂が撓んで、行先を妨げる。知らず息が上がり、絶えず吹きつける海風にしょっぱい汗が浮いた。脂っぽい汗だった。指で拭うとどろりとして、ねとねとと浮いた脂で指が光った。
「俺が乗っていなくてよかったとお前は言うが、な………
汚れた指先をズボンで拭い、金城はふ、と息を吐いた。それから福富を背負い直し、唇を引き結ぶ。福富は賢く、言いかけて止めた言葉の続きを強請るような真似はしない。力の入らない爪先がぶらり、と揺れた。
一度立ち止まったせいか、再び歩き出した足は福富の重みに悲鳴を上げて、膝ががくがくと笑いだした。砂は柔らかく歪み、纏わりつき、一歩で二十歩も三十歩も歩いたかのように錯覚させる。
昔はこんな風じゃなかった………。荒く息を吐き、汗を拭って、金城は小さく笑った。あの頃はこんな風じゃなかった………。明日の心配などいらなかった頃、町中を駆けまわって掻いた汗はこんな風じゃなかった。もっとさらさらとして、心地の良いものだった。自転車を借りて、酷い坂を懸命に登って掻いた汗は、時折吹き抜ける風に涼しく匂った汗は、こんな風じゃなかった………
脂臭い汗は全身に流れていた。背負う福富の鼻にもこの耐えがたい臭いが届いているに違いない。そう思うと金城は恥ずかしくて、今すぐにでも彼を放り出して逃げ出したくなった。辺りに人はいない。潮騒だけが耳にうるさく、ざわざわと響いていた。ぐるりと脳が回転する。今ここで、彼を置いて逃げたら………
ざわつく潮騒に足をとられる。よろめいて、転びきれず、金城はくらくらと立ち止まった。深く、息を吐く。ふくらはぎがずっしりと重く、これ以上は歩けそうになかった。
ここで、いいか。
金城はそっとしゃがみこみ、福富をおろそうとした。だが福富は、金城の肩にしっかりとしがみ付いて、おりようとしない。
…………福富?」
ぐず、と、彼は小さく鼻を啜った。項にぽつり、ぽつりとぬるい水滴が落ちて、金城はぎょっとした。泣いているのか。おろして、顔を見ようとしたが、福富は首を振るばかりで、決して顔を見せようとはしなかった。染め直したばかりの、左右に揺れる金色の頭が、ちくちくと背中に触れた。
「俺は………、すまない、」
「どうしたんだ」
「すまない、なんだか、情けなくなってしまって…………
金城はハッと、細く窶れた福富の足を見た。浜を歩く金城の腰の辺りで、ずっと、ぶらぶらと力無く揺れていた。荒く、疲れたような息を吐く金城の背中で、福富は静かに揺られながら、歩くことすら満足にできない自分が恥ずかしくて、情けなくて、申し訳なくて………。昔は、こんな風じゃなかった。あの頃は、こんな風じゃなかったのに―――――――………
「大丈夫だ、すまない………。すまない…………
福富は鼻を啜ると、背中からおりようとした。その身体を背負い直すと、金城はすっくと立ち上がった。呼吸はまだ整わず、身体は疲れきっていた。それでも息を吸い込んで、大きな声で言った。
「お前、重たくなったなぁ!」
ぎょ、っと福富が息をのむのがわかった。項垂れて、すまない、と謝る気配がわかった。金城は殊更明るい口調で、からかうように続けた。
「食ってばかりいるせいじゃないか? もう少し、痩せる努力をした方がいいんじゃないか? 背中に腹が当たっているぞ。どうするんだ、その三段腹。重たくて重たくて、俺はこれ以上歩けそうにない!!」
ぽつぽつと、項に、肩に、あたたかな滴が降った。福富は大きく鼻を啜ると、金城の耳元で、なんだと、と叫んだ。
「言っておくが、俺の体重は変わっていないはずだぞ。お前こそ、筋力が落ちたんじゃないのか? この程度で音を上げるなんて、見損なったぞ、金城!!」
「言ったな!? 見とけよ………!!」
爪先に力を込め、砂を蹴った。背中の福富が、ひゃぁ、だか、わぁ、だか、よくわからない歓声をあげたので、金城も笑った。砂を後ろに蹴り上げ、昔に戻ったように、何も考えずに走った。深く抉れた足跡が浜に点々と続いた。

「だめだ、もう、無理だ」

もう走れない、と遠慮なく浜に倒れ込み、背中の福富を振るい落とす。楽しそうに転げ落ちた福富は、犬のように首を振って砂を払った。随分走ったようなのに、振り返るとそれほど長い距離は走っていなかった。西日が足跡に濃い影を落としている。
いつの間にか、夕方になっていた。船も、カモメもいない海は橙色に燃えて、波の泡すらも金色に輝いていた。福富は鞄からアルミの包みを取り出して、金城にひとつ渡した。宿で貰った握り飯だった。塩気のない、米だけの握り飯だったが、潮風を含んで食べるとちょうどよい具合だった。声もなく、言葉もなく、見つめあうでもなく、海の方を向いて食べた。今日は殊更、美しい夕陽なのか、沈んでいく太陽が水面に照り映え、海に昇っていくようだった。
「蟹………
食べ終わったアルミを手の中でいじっていると、福富がふ、と波打ち際を指差した。影を背負った小さな蟹が、海に向かって歩いているのだった。よくよく眼を凝らすと、そういう蟹が、何匹も歩いているのが見える。浜に出ていた小さな蟹が、寄せてくる波に攫われて海に還って行くのだった。
「いいな………
両腕をさすりながら、金城は小さく呟いた。長く風に晒された身体は冷え切って、肌が粟立っていた。汗を掻いたせいもあるだろう。…………橙色の海は、あたたかく見える。とろりとして、輝いて、金城を、福富を、待っているように見える。声は憧れを滲ませ、金色に溶けた。
いいな………
金城はもう一度呟いた。福富の睫毛が小さく震えた。
「行くか? 向こうに………
海辺の風は強い。ごぉごぉと耳元で鳴る。それでも凛とした福富の声は、確かに、金城の耳に届いた。
…………いいのか?」
「あぁ」
「じゃあ、行くか?」
「あぁ………、行こう」
金城は福富の手を握って、自分の肩に這わせた。膝の裏に手を回し、ぐっと腹に力を込める。立ち上がった拍子に、尻や足についた砂がはらはらと零れた。小さな蟹の間を縫って、前に進む。あれほど絡んだ砂粒が、今は促すように流れ、沖へと滑っていった。晴れやかな心地だった。明日の心配をしなくていいのがこんなに心地いいなんて。金城は穏やかに思い、塩辛い波が目に染みて、少しだけ泣いた。


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