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気まぐれの縁

全体公開 395
2022-05-25 00:45:28

カイオエ|月花妖異譚🦊時空|捏造しかない

Posted by @yakuno_tn


オーエンが死にかけていた妖狐を拾ったのは、ただの気まぐれだった。

それをオーエンは、住まう森から少し離れた荒地で見つけた。鬼の仕業だと分かるその有様は、情が無いと言われるオーエンですら顔を顰めるものだった。逃げ出さぬように両足を深く傷つけた上で、散々痛めつけられたと分かるぼろぼろの身体。流れ出した血が水溜まりのように広がり、彼の赤銅色の髪を鮮やかに赤く染め上げていた。明らかに折れているだろう指で強く強く握りしめられた刀。気絶してもなお、それを手放さない彼の姿を認めて、オーエンは死にかけの妖狐を拾う事を決めたのだ。

***

三日三晩は高熱を出して寝込むでしょう。
急ぎで呼びつけた医者の言は正しく、拾った妖狐は医者が帰ってすぐに高熱に魘され始めた。滝のような汗をかき、着替えさせる端から寝間着をびしょびしょに濡らしていく。身体は燃えるように熱いのに、顔色は真っ青で本当にこいつは回復するのだろうかと怪しく思えるほどだった。
意外なことに、この妖狐はあれだけぼろぼろだったにも関わらず、身体のどこも欠けていなかったらしい。酷く傷つけられた両足も、折れていた指も、三か月もすれば元に戻るでしょうと医者は言っていた。曰く、致命傷を上手く避けている、と。遊びでこの妖狐を痛めつけた鬼は、殺したつもりになっているのかもしれないが、そこはこの年若い妖狐が一枚上手だったようだ。鍛え上げられた肉体を見るに、武芸に秀でているのだろう。
オーエンは千年を生きる天狐だ。
気まぐれとは言え、拾ったものを途中で投げ出すことはしない。例え億劫でも、治るまで面倒くらいは責任をもって見てやろうと腹を決めた。この年若い妖狐が目覚めた時、どれだけふんだくってやろうかなどとは考えてはいるのだけど。
「僕に拾われるなんて、かわいそうなやつ」
汗で濡れた額を手ぬぐいで拭ってやりながら、オーエンは思う。
この男は、どんな目の色をしているのだろう。
髪の色も睫毛の色も、眉毛の色も燃えるような赤銅色だ。目も同じ色なのだろうか。瞑られた瞼の裏側、何色が広がっているのか妙に気になっていた。他者の目の色なんて、気にしたことも無かったのに。男が、苦しそうに呻き声を上げる。流れ落ちた汗が、ぱたりと布団に落ちてオーエンは我に返った。
「酷い汗。……また着替えないとね」
本日三度目の着替えさせ、布団も新しいものに変えてやった。他人の世話なんてまっぴらごめんだと思っていたのに、どうしてかそこまで不快ではない。不思議だなと思いながらも、苦しそうな寝顔を見つめる。こんな若い妖狐の寝顔なんて興味もないはずなのに、この男から目が離せないのだ。
かたん、と小さな物音が玄関から響き、やっと来たかとオーエンは立ち上がった。医者を呼ぶついでにおつかいを管狐に託して、桜雲街に飛ばしていたのだ。引き戸の向こう側、大きな影が見えてオーエンは戸を開けてやった。
「オーエン」
「遅かったね、レノックス」
行李を抱えたレノックスは、ため息をついた。天狗の飛脚便は本来お使いを頼むようなものではない。しかしながら、ある意味お得意様とも言えるオーエンの依頼を、レノックスは拒絶しないだろうと踏んでいた。無表情で分かりにくいが、この男は中々お人好しなのだ。予想通り、レノックスはお使いを遂行したらしい。
「刀鍛冶屋の妖狐がもう寝ていたんだ。たたき起こしてしまった」
「あは、上出来。じゃあ頼んだものは入っているの?」
「ああ、入っている。ほら」
「うわ、重」
行李を受け取ると、ずしりと重い。かちゃかちゃと金具の鳴る音が響き、オーエンは眦を緩めた。これがあればなんとかなるだろう。
「しかし、どうしていきなり刀の手入れ道具なんて必要だったんだ?」
「面倒なものを拾っちゃっただけ。捨てるわけにもいかないでしょ?」
……刀を?」
「刀と、何かかな?僕は優しい天狐だから」
……
訝しむ視線を感じながらも、オーエンは明言を避けた。あの妖狐がどういう立場の妖怪なのか分からない以上、ここに居ると知る妖怪は少ない方がいいはずだ。レノックスはそれ以上言及せず、代金を支払うと渋々帰っていった。
重い行李を抱えて若い妖狐が眠る部屋へと向かう。苦しそうに魘されている妖狐は、少し熱が下がったようだ。僅かに顔色が良くなっている。医者が飲ませた薬が効いてきたのだろう。
「本当に手がかかる拾い物だね、おまえ」
男が寝ている隣に、血まみれの刀を置いていた。医者と苦心しながら引きはがした、この男が強く握りしめていた刀だ。
刀というものは不便な武器だ。錆びやすく、折れやすい。このまま放置しておけば間違いなくこびりついた血で錆びてしまうだろう。オーエンは刀を所持したことはない。しかし、刀の手入れならば、飽きるほど"視た"ことがある。行李を開けて、刀鍛冶屋から譲ってもらった刀の手入れ道具を広げていく。まずは血脂を落とすところからだ。
魘される妖狐の隣で、オーエンは初めて取り扱うはずの刀を見つめる。
あまり刀に詳しくないから、どれも同じように見えてしまうのだろうか。男が持っている刀は、普段オーエンが"視て"いるものとよく似ていた。
……まさかね」
オーエンの左目が稀に、見覚えのないここではないどこかの景色を映すようになったのは、ここ数十年の話だ。
最初はぼやぼやとした滲んでいたが、次第にくっきりとした輪郭で描かれるようになった景色は、オーエンが訪れたことのない街並みを映していた。時の流れと共に、視点の高さが代わりオーエンと同じぐらいの視点になったと頃、様々な街並みを見るようになった。
その頃から、刀を見る機会もぐっと増えていた。明らかに強敵であろう妖怪に向かって、まっすぐ向けられる切っ先。自身の怪我の手当のあとに大切そうに刀を手入れする姿。巡る様々な街並み。流れをしているものの視界なのだろうか。天狗の一族と共に行動をしていたかと思えば、見たことも無い山の中で生活している様子も見ることが出来た。遭遇した竜に顔を顰められている様子や、野営で行う粗末な料理まで。
気が付けば、オーエンは稀に共有される視界に夢中になっていた。
まるで誰か他人の人生を、こっそりと覗き見しているようだ。
それも、自分とはまったく異なる生き方をしている男の視界を。
街に居れば人に囲まれ、一人で居る時は愚直に鍛錬を積み重ねている男のことを、オーエンは嫌いではなかった。
早朝鍛錬をしながら見つめる朝露に濡れた花や、雨上がりの太陽。きらきらと眩しいものを見つめるその眼差しを、いつか見てみたいなと思っていた。最近は桜雲街に滞在しているようで、何度か足を運んでみたが、そういう時に限って視界が共有されることはなかった。役に立たないなと思いながらも、そのうち会えるだろうと思っていた。
――だからまさか。
……これ」
目釘を抜いて柄から刀身を外して気が付いた。刻まれた銘は、何度も見たことのあるものだった。繰り返し共有された刀の手入れをしている様子。視界の持ち主が器用に刀身を外した時に見えるものと、まったく同じだ。同じ銘が刻まれた刀がどれほどあるのかは分からない。分からないけど、こんな偶然があるのだろうか。
……おまえ、もしかして」
魘されている男を見やるが、苦しそうにしているばかりで答えは返って来ない。
今は気にしても仕方がない、とオーエンは刀の手入れに意識を向けた。刀は錆びてしまえば戻る事は無い。オーエンは刀を使わないからよく分からないが、草紙で見る刀を使う妖怪はいつだって自分以上に刀を大切にしていた。自身もぼろぼろにされ、刀ももぼろぼろになってしまったらさすがに目も当てられないだろう。慣れない手つきで、それでも見慣れた手順を踏んでいく。なんとか手入れが終わった頃には、オーエンはへとへとになっていた。

***

三日三晩高熱に魘された妖狐は、四日目の朝目を覚ました。
ぱちりと瞬いた双眸は、オーエンと同じ色のオッドアイ。ああ、やっぱり、と思う自分が居た。
やっぱり、この男の視界をオーエンは見ていたのだ。
「ここは……?」
がさがさに乾いた声に苦笑する。当たり前だ。寝ている間も水を飲ませてはいたが、充分な量とはほど遠い。喉も乾いているだろうと水差しを向けると、男がくちびるを開いた。ゆっくりと水を流し込み、男が飲み終えたところでオーエンは口を開いた。
「僕の家だよ。きみは荒地で倒れていたんだ。……刀は隣に置いてるよ」
オーエンの言葉に、ゆっくりと男が隣に視線を向けて、安堵の息を漏らした。
……あんたが、助けてくれたのか?」
幾分マシになった声で問われ、頷きを返す。ありがとう、とぽつりと呟いて、男は再び眠りに落ちた。どこかぼんやりとした口調だった。はっきりと覚醒していたわけではないのかもしれない。それでも、刀があると知れば安堵して、ありがとうと礼を言ったのだ。身体の痛みも酷いだろうに、泣き言ひとつ言わずに。
……変なやつ」
男が起きたら、粥を食べさせなければ。少しずつ食事をさせて、薬を飲ませる必要があると医者から聞いている。さて忙しくなるぞとオーエンは立ち上がる。蜂蜜色と薄紅色の瞳。見慣れたはずのその色が、何故か目に強く焼き付いていた。

男は寝たり起きたりを繰り返していたが、その日の夜にははっきりと意識を取り戻した。
カインと名乗った妖狐は、普段桜雲街に住んで用心棒をしているらしい。普段は薬種問屋専任だが、たまたま得意先に頼み込まれ少し危険な地域への護衛をすることになったのだという。無事に目的地まで依頼主を送り届け、街まで帰る途中で鬼に遭遇したらしい。
「鍛えていたつもりだったが、全然歯が立たなかったよ」
「尻尾が一尾の妖狐が、鬼に敵うわけないだろ」
「そうだな。修行が足りなかった」
オーエンの嫌味に気を悪くすることなく、カインはからりと笑う。身体を起こしたいと言うので手伝って起こしてやったが、痛みが酷そうで顔色が悪い。それでも、弱音を吐かない姿に関心していた。赤ちゃんのような年齢であるはずなのに、彼はしっかりとした芯があるようだ。
「そもそも妖狐はそこまで力が強くないだろ。刀より妖術を使う方がいいんじゃないの」
鬼のように筋肉がつきやすい身体ではない妖狐は、基本的に妖術で戦う方が多い。オーエンだってそうだが、カインは首をゆっくり横に振った。
「妖術を疎かにしているつもりはないんだが、刀で強くなりたいと思っているんだ。……その、妖術は修行中で拙いっていうのもあるんだが」
……変なやつ」
「オーエンは天狐なんだよな。すごいな、妖術も上手そうだ」
「上手そうじゃなくて、上手いんだよ。この辺の妖怪で僕に敵うやつはいない」
ふん、と鼻を鳴らせば、カインは素直に羨望の眼差しを向けた。嫌味を言っても響かず、自慢をすれば素直に感心をする。ひねくれた知り合いが多いオーエンとしては、こんな素直な反応は初めての経験だった。
「俺も、怪我を癒したらまた修行しないとな」
「三か月は安静にしろって言っていたよ。明後日医者がくるから、詳しいことはそいつに聞いて」
「三か月!?いっ、てて……
大きな声を上げれば、流石に傷に響いたらしい。見れば、着物の合わせ目から覗く包帯に赤色が滲んでいる。ちっ、と舌打ちをして、カインの肩口に手をやった。触れた肩が熱い。熱が上がっているのかもしれない。
「おい、傷が開くだろ。もう寝ろ」
「わ、悪い。でも、三か月って……、オーエンにも迷惑がかかるし、それに薬種問屋にも連絡をしないと……
……僕への迷惑はもうかけた後だろ。これ以上膨らんだところでどうってことない。助けてやったのにその辺で野垂れ死にされる方がムカつく。薬種問屋へは……
桜雲街の薬種問屋はオーエンも知っている。世話になったことはないが、ここ数百年でめきめきと大きくなった大店だ。場所が分かれば、管狐を飛ばすことも出来るだろう。
「オーエン?」
「代筆して、文を届けてやる。誰宛てに伝えればいいの」
ぱちん、と指を鳴らせば、青白い管狐がひゅるひゅると文机から筆と紙を運んできた。カインは目を丸くして管狐を見つめている。
「すごい……
「は?」
「管狐だよな、それ?すごい、初めて見た」
……こんなの、誰でも出来るんじゃないの」
ぱちん、と再び指を鳴らして三匹の管狐を呼び寄せる。オーエンによく懐くその三匹は、呼べば嫌がることなくいつだってオーエンの元に駆けつけてくれるのだ。ひゅるひゅるとカインの周りを飛ぶ三匹に、カインは目を輝かせた。
「同時に複数の管狐を!?本当にオーエンは凄い天狐なんだな!」
……べつに」
天狐であれば管狐の使役なんてたいした力が無くても出来る。妖狐でも修行を積めば一匹くらいは取り扱えるのではないだろうか。
「俺もいつか使役できるようになるかなぁ」
少年が夢を見るような瞳で言われ、思わずオーエンは何も考えずに言葉を口にしてしまった。
普段なら、絶対に言わないであろう言葉を。
……教えてあげようか」
他人に妖術なんて教えたこともないし、そんな面倒なことしたくもないはずなのに。
「えっ!」
「でもすぐは駄目だよ。まずは傷が塞がるまでは安静にして。ほら、宛先は。誰に向かっておまえが大怪我を負って死にかけたって伝えればいいの」
「え、えっと、薬種問屋のヒースクリフに……
「ああ、あの白狐か」
「オーエン!本当に管狐の使役を教えてくれるのか!?」
「わ!?おい大声出すなよ。傷が開くだろ」
「あ、わ、悪い」
筆を手に取り、さらさらとヒースクリフに向けてカインが大怪我を負った事、治療が終わるには三か月かかる事を簡素な文でしたためた。ふっ、と妖力を込めた吐息で手紙を乾かし、くるくると丸めて筒に入れる。管狐に持たせたところで、むぐむぐと言葉を飲み込もうと苦心しているカインに目を向けた。他人に教えるなんて面倒なことこの上ないはずだけど。ずいぶん前から、視界を共有していてくれた相手のようだし、まぁいいか。とオーエンはため息をついた。
……傷が塞がったらね」
オーエンの言葉に、カインの目がきらきらと輝いた。
素直な反応や、眩しい瞳。何もかも自分と違うカインのことを、オーエンは気に入り始めていた。

***

薬種問屋にカインのことを知らせた翌日、見舞いに行きたいと管狐を介して返事が返され、面倒ながらもオーエンは許可を出した。医者を引き連れてやってきたヒースクリフと用心棒のシノというかまいたちは、包帯をぐるぐるに巻かれたカインの姿を見て酷くショックを受けていた。やはり共有される視界の通り、彼は他者に愛されて生きている妖狐なのだろう。
一人で生きてきたオーエンとはまったく違う生き方だ。
薬種問屋から提供された最上級の薬を処方され、カインは苦笑していた。ヒースクリフはカインを街へ運んだ方がいいのかと問うてきたが、医者は今のカインに移動する体力はないときっぱり言っていた。意気消沈するヒースクリフを横目に、オーエンは何故か少しほっとしていた。治るまで面倒を見ると決めたものを横取りされそうになったからだろうか?よく分からない。ともかく賑やかに訪れた二人は、賑やかに帰っていた。カインに負担をかけないように、今後の見舞いは控えるなどと言っていた。
「早く治さないといけないな」
布団に横たわったまま、カインが呟いた。この男は、自分のためだけではなく他者を気遣って怪我を治したがっているようだ。変なやつ、と心の中で呟きながら、オーエンはため息をついた。
「おまえに出来ることは、安静にすることだけだよ」
「とはいえ、ずっと寝ているのは落ち着かないんだ……
普段あれだけ鍛錬や仕事に駆け回っているのだから、恐らく本音だろう。折れた指を動かさないのであれば、手や腕は多少動かしても良いと医者は言っていた。それなら、と棚から絵巻物をいくつか取り出してカインの枕元にどさりと置いた。
「ほら、絵巻物を貸してあげる。暇ならそれを読めばいいだろ」
「絵巻物って俺もう二十二だぞ!?」
……?赤ん坊みたいなものだろ」
「えっ、……天狐から見たらそうなのか?」
「おまえ、わがままだね。草紙もあるから後で持ってきてあげる」
御伽草紙でも持ってきてやるかと考えていると、カインは絵巻物の一つを手に取って、難しい表情を浮かべていた。よほど赤ん坊扱いが効いたのかもしれない。しかし、千年を生きるオーエンからすれば二十二歳も赤ん坊も変わらないのだ。
数刻後、食事の用意をするために席を外していたオーエンがカインを寝かせている部屋に戻ると、彼は夢中になって絵巻物を広げていた。まるで、子供のように目を輝かせながら冒険譚を読んでいる。ふ、と知らず笑みが零れる。

――ほら、やっぱり赤ん坊みたいなものじゃないか。

そうしてゆっくり過ごした最初の一か月で、カインの傷は大体塞がった。折れていた骨に負荷をかけないようマッサージや軽い運動を含めたリハビリを始めたのは二か月目のことだ。その頃には、カインはよく食べよく笑い、よく喋るようになっていた。
オーエンは長くを生きる天狐だ。あくせく働かなくても生きていくことのできる蓄えはある。だから、面倒で長引きそうな仕事などは全て断りカインの面倒を見ることに時間を費やしていた。一週間に一度来る医者は、カインの回復は順調だと言っていた。当たり前だ。無茶をさせないようにしているし、薬だってちゃんと飲ませている。医者の言いつけは守らせている上に、このオーエンが世話を見ているのだから良くなって当然というものだ。
「なぁオーエン、そろそろ管狐の使役を教えてくれないか?」
「おまえよく覚えてるね。……別にいいけど」
リハビリが終わった後であれば教えてあげると言えば、カインは張り切ってリハビリを行うようになった。
夜の数刻、オーエンがカインに妖術を教える時間が加わって、二か月目もあっという間に過ぎていった。
その頃にはもう、カインは一日の大半を布団で過ごす必要もなくなり、オーエンの家の中を物珍しそうにうろちょろしたり、森の中を二人で散策することも出来るようになっていた。
「ここから、あっちの湖の向こう側までが僕の縄張り」
「広くないか?」
「昔ここで威張っていた妖怪を倒して貰ったんだ。ちゃんと土地の権利書も持ってるよ?」
「えっ、縄張りって土地の所有者ってことなのか!?」
「?違うの?」
「いや合って……、いや、うーん……?すごいな、オーエンは」
何かを教えれば素直にすごいと言うカインの素直さは、怪我が治っていっても損なわれることはなかった。
森の中で一番美しい湖にカインを連れていけば、その景色の素晴らしさに彼は息を飲んでいた。
暫く無言で湖に向けるカインの柔らかな眼差しを見つめながら、オーエンはとうとう自分がずっと見たかったものを見ることが出来たのだということに気が付いた。美しいものに向ける、カインの眼差し。共有されていた視界を映す目。
一緒にいる間は一度たりとも視界の共有はされていないけれども、きっと彼は今と同じ眼差しを美しいものに向けていたのだろう。
隣でそれを見るのは、悪くない心地だった。ずっと、見ていたいと思うほどに。
「きれいでしょう?」
誇らしげに囁くと、カインはこくりと頷いて何故かオーエンの手をぎゅっと握りしめた。
手から伝わってくるカインの体温に、どきりと心臓が強く跳ねた。どうして、いきなり手なんて繋ぐの、と言いたいのに、言い出せない。この二か月間一度も手なんて繋いだこと無かったのに。じわじわと自分の手が熱くなっているような気がする。
炎に炙られたように、胸から湧き上がるこの熱はなんだろう。
……綺麗だな」
少し掠れたカインの囁き声に、普段と違う甘さが滲んでいるような気がして。
二か月前は箸すら握ることが難しかったその指で力強く手を握られ、オーエンはなぜか息が詰まるような思いを味わうのだった。

***

命の恩人が時折愁いを帯びた表情を見せることにカインが気づいたのは、調子に乗ったと内省した翌日のことだった。
昨日、空気も水も澄んだ美しい湖を誇らしげ案内してくれた恩人に対して、カインは何故かかわいらしさを感じて彼の手を握りしめてしまったのだ。
僅かに頬を赤く染めた彼は、手を握っても何も言わず緩い力で握りしめ返してくれたものだから、離したくなくてオーエンの家につくまでずっと握り続けてしまった。
調子に乗りすぎた!と気付いたのは布団に入ってからだ。
他人を家に上げるなんて面倒だと事あるごとに言っているオーエンが、どうして自分を助けてくれたのかは分からない。
でも、激痛の中目を覚ました時、彼の顔を見てカインは運命だと思ったのだ。自分と同じオッドアイ。白い肌に、銀色の尾。見たことのある着物。物心ついた時から、カインは稀に不思議な景色を見ることがあった。ここではない、別のどこか。自分のものではない視界が見えるのだ。深い森の中や、澄んだ水の湖。砂塵が舞う谷や、竜の背に乗っているかのような大空。それらどれもが美しく、カインはこの不思議な現象が好きだった。
視界の持ち主が、妖狐だと気付いたのは剣術を習い始めた頃だった。
水浴びをしていたのか、水面にゆらゆらと映る耳と尻尾。銀色のそれが、自分と似た形をしていることに気付いた時、相手も妖狐なのだと知った。
甘い物ばかり買い漁っていたり、驚くほどの量の草紙を買い集めていたり。
綺麗な景色の合間に、視界の持ち主がどんな人物なのか伺い知れるものも見て、それでもやっぱりカインはこの不思議な現象が好きだった。視界の持ち主にいつか会いたいなと思っていたので、武者修行の果てに桜雲街に辿り着いた時、見慣れた街並みを認めてカインは滞在することをを決めたのだ。
きっと、いつか会えるだろうと思っていた。
だからまさか、自分の命の恩人がその視界の持ち主だと気付いた時は本当に驚いた。それになにより。

――馬鹿みたいだけど、運命だと思ったのだ。

死にかけていた自分を助けてくれた上に、相棒とも呼べる刀も一緒に回収し手入れまでしてカインの傍に置いてくれていた。それだけでもう、心惹かれるには充分だったのに。彼を知れば知るほど、どんどん惹かれてしまった。この三か月に近いオーエンから受ける看病の日々で、降り積もってしまったのはカインの恋心だ。冷たく皮肉に満ちた言葉を吐くのに、カインに向けるのは気遣いだ。無理をするな、傷が開くだろ、と何度言われただろう。一か月が経つまでは頻繁に高熱を出していたカインを、献身的に看病してくれたのは誰でもないオーエンだ。汗をぬぐい、時には着替えも手伝ってくれた。心惹かれた相手に、ここまでされて好きにならないわけがない。せめて、相手に邪な気持ちを抱いていると悟られないよう振舞うのがカインに出来る精一杯だった。彼に好意を伝えるなら、身体が全快して、彼に恩を返してからだ。
思っていたのに、我慢が出来ずに調子に乗ってしまった。
オーエンはいつも通り振舞おうとしているようだが、やはり元気がない。昨日調子に乗ったせいだろうか。というか、そうとしか考えられない。
今だって、妖術を教えてくれているはずなのに、オーエンはぼんやりと手元を見つめたまま動かないのだ。
「オーエン?」
「え」
「大丈夫か、体調でも悪いのか」
……そんなわけないだろ。なぁに、うまく出来たの?」
オーエンは首を緩く横に振ると、カインの手元を見つめた。取り繕われた表情に、内心頭を抱えてしまう。しかしながら、今は教わっている立場だ。妙な話題を出すよりも、真面目に妖術に取り組もう。教わった通りに印を結び、カインは管狐を呼ぶための妖力を練り上げた。
かれこれ一か月ほどオーエンに妖術を教わっているが、なんというか上手くいっていない。管狐を呼び寄せる術を使っても、姿を現わしてくれなかったり、からかうように手元をすり抜けていくのだ。今回も例に漏れず、現れた管狐は周りをくるくる回ってどこかへいってしまった。
「うーん、難しいな」
「きみ本当に妖術が拙いね。管狐にからかわれてるよ」
むむむ、と眉根を寄せる。とはいえ、天狐であるオーエンと比べればカインの妖術は児戯のようなものだと分かっている。分かっているが、せっかく教えてくれているのだからひとつくらいは身につけたい。
とん、とオーエンの白い指が、カインの額をつついた。
「考えて。彼らの力を借りて何をしたいか。それをちゃんと術にして伝えて」
……管狐の力を借りて……、ええっと」
例えば、そう。
カインの身体が全快して、オーエンの家を出なくてはならなくなったとしても。
管狐が居ればオーエンと連絡を取ることが出来るはずだ。自分の足で迎えない時、文を届けてもらえるだろう。そういったことを管狐には手伝ってもらいたい。たぶん、きっと、長期戦になるだろうから。
「戻ってこないね」
……うーん……
願いがよこしまな気持ちからくるものだから駄目なのだろうか。よこしまというか、まっとうな恋だと自分では思っているのだけど。
……べ、別に、出来るようになるまで見てやってもいいけど」
オーエンの言葉に顔を上げる。今、彼はなんて言った?
「え?」
「だから、もうここを出た後でも、出来るようになるまでまた通えば――……
するり、と手元を擽る感触。薄ぼんやりと光る細身の身体。カインが持つ竹筒を伺うように、一匹の管狐が絡みついていた。
「あ……!えっと、使役の術を……!」
わたわたと手で印を結び、管狐の様子を伺う。ひくひくと匂いを確認するように鼻をひくつかせた後、仕方ないなと笑ったように見えた。
管狐が放つ光が一段強くなったと思った瞬間、竹筒の蓋がぱちんと音を立てて閉まった。使役が成功したのだ。
「!!で、できた!オーエン!一匹だけど、使役に乗ってくれた!!」
…………
そっと、オーエンの白い手が、カインが竹筒を掴む右手に重ねられる。体温の低い滑らかな感触に、びく、と身体が揺れてしまった。オーエンは俯いたまま、顔を上げない。何かまずいことをしてしまっただろうか。
……大切にしてやりなよ。弱っちいきみに使役されてもいいっていう物好きなんだから」
「もちろん大切にするさ!」
だって、オーエンとの懸け橋になってくれるかもしれない管狐だ。やりたいことを感じ取って、協力すると名乗りを上げてくれた管狐を大切にしないわけがない。
重ねられたオーエンの手の上に、さらに空いていた方の手を重ねてぎゅっと握りしめる。
顔を上げたオーエンは――
……そう」

酷く、寂しそうな表情をしていた。

***

「うん、もう大丈夫ですね。丁寧な看病のおかげでしょう」
医者の声に、耳がピンと立つのを感じた。
完治だ。
これで桜雲街に戻れる。仕事にも復帰しなければならないし、落ちた体力と筋力を取り戻さなければ。医者の言う通り、オーエンの看病があってこそだった。
「本当か!先生もありがとうな!」
「ははは、本当に元気になりましたね。よかったです」
オーエンは少し離れた場所から、腕を組んで診察の様子を見つめていた。なんだか、表情は暗く重いものだ。管狐を使役した夜も様子がおかしかったし、今となっては手を握ったせいなのかどうかもカインにはよく分からなくなっていた。
医者を見送った後、ふらりとオーエンが家の外へ出て行ってしまった。
とりあえず、手を握ってしまったことを謝ろうと思っていただけに、カインはがくりと肩を落とす。しかしまぁ、やるべきことは沢山ある。荷物をまとめたり、カインが使っていた部屋を掃除したり。今夜は泊めてもらって、明日桜雲街に帰ろうなどと考えながら、カインは腕まくりをした。
そうして、荷物をまとめて。部屋を隅から隅までぴかぴかにして。考えていたことを全て終えても、オーエンが帰って来ることはなく。昼が過ぎ、日が傾きかけたところで、何かおかしいぞと漸くカインは気が付いた。
……オーエン?」
そういえばオーエンは、完治だと医者に言われてから一言も喋っていない。手を握った以外にも何かカインがしでかしてしまったのか、彼に何かがあったのか。外に出て探そうかと履物を履いた時だった。ゆらり、と視界が歪み、ここではないどこかの景色が左目に映った。
「!」
久しぶりの視界共有だ。湖が見える。これは、オーエンが案内してくれたこの森にある美しい湖だ。湖を見て、視界が揺れたかと思うと、白い手のひらが映し出された。じっと何かを確認するかのように手のひらを見つめている。オーエンの右手。カインが、湖で強く握りしめた右手だ。
……っ」
ぎゅう、と胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
一人で何を思っているのだろう。そういえば、彼は管狐を使役した時も寂しそうな顔をしていた。もしかすると、カインが出ていくことが寂しいのだろうか。とんだうぬぼれなのかもしれない。
それでも、放っておけるわけがない。
オーエンの家を飛び出して、カインは駆けた。湖までは距離があるから、急がないと日が暮れてしまう。視界の共有は終わってしまったので、オーエンがいつ立ち去ってしまうか分からない。
けれども体力の落ちた身体では、どうにもうまく進めずぜぇぜぇと肩で呼吸をしながら必死に駆けた。何か、彼を足止めするようなものがあればいいのだけど。木の根に躓いた途端に、懐から管狐の入った竹筒が転がり落ちた。慌てて拾い上げて、声を上げる。
……そうだ!」

***

もう、カインは街へ帰っただろうか。
完治してよかったね、と一言だけでも言っておけばよかった。でも、どうにもうまくいかなかった。
もう大丈夫ですね、と医者が言った瞬間、視界が真っ黒に塗りつぶされたような気持ちだった。カインが完治したということは、オーエンの家から彼が出ていくということだ。分かっていたのに、考えたくなかった。この湖を見ながら、ぎゅっと手を握ってくれた男がいなくなる。
元々オーエンとカインは全く違う生活を送っていたのだから、それが当然であり自然な姿だ。
元の生活に戻るだけなのに。カインが居なかった頃の、ひとりで自由きままな生活に。
それなのに、胸が苦しくて仕方がない。
気が付くと日は暮れて、辺りは暗くなっていた。いつまでもここに居るわけにはいかない。そろそろ家に戻るかと立ち上がりかけた時だ。薄青く発光する何かが、ひよひよと飛んでいた。
……管狐?」
何かを探し求めるように頼りなく飛ぶ管狐。誰かに使役されているのか、それともたまたま姿を現しただけなのか。分からないまま、オーエンはぱちん、と自分の場所を知らせるために指を鳴らした。途端にびゅん、と速度を上げて管狐がオーエンの傍に飛んでくる。ひょろっとした身体と、年若い気配。これは、昨夜カインが使役した管狐だ。
……は?なんでおまえがここに?」
何か手紙でも持っているかと管狐に触れるが、ふわふわとした手触りが返ってくるばかりで何も持っていない。懐くようにオーエンの手にすり寄り、管狐が絡みつく。誤って逃がしてしまったのだろうか。だとしたら相当まぬけだ。あれだけ何度も失敗していたのに。
……今頃、おまえの主は顔を青くして探し回っているんじゃないの?」
オーエンの問いかけに同意するように、管狐が手に擦り寄ってくる。なんだろう、逃げ出してカインをからかっているのだろうか。こんなか弱い妖怪にすら馬鹿にされるなんて、かわいそうな男だ。くす、と小さく微笑みを浮かべたところで、背後から大きな物音が響いて視線を向けた。
「い、いた!」
――カインだ。
乱れた赤銅色の髪が、薄暗い闇の中で炎のように輝いている。もしかすると何度か転んだのかもしれない。カインを拾った時に着ていた着物も、顔も、泥で酷く汚して、よたよたとこちらへ向かって駆け寄って来る。
本当に顔を青くさせて管狐を探し回っていたのだろうか。仕方ないな、とため息交じりに管狐が絡みついている腕を差し出したところで、カインの腕が背に回され強く引き寄せられた。
「わっ!?」
「オーエン!よかった、見つけた!」
……は?管狐を探してたんじゃないの?」
「違うぞ!?こいつにはオーエンの元に行ってもらっただけだ。オーエンを探していたんだよ」
……どうして僕を?早く帰ればよかっただろ。おまえは完治したんだから」
はぁ!?とカインが悲鳴のような声を上げる。なんだ、どうしておまえがそんな声を出すんだ。
「そんなこと出来るわけないだろ!?三か月も一緒に暮らしていたのに、何も言わずに帰るなんて……!」
しがみ付くように抱きしめられて、しゅるりと管狐がカインの懐へ戻っていった。本当に、オーエンを見つけることが管狐に課せられた役目だったようだ。
せっかく使役した管狐をそんなことに使うなんて馬鹿みたい。
そう言って笑ってやればいいのに、どうしてかうまくいかない。
さっきと同じだ。
カインに、上手に別れを告げる事が出来なかった時と、同じ。
……どうして」
声が震えてしまう。どうして、自分を探していたんだ。義理堅い性格だから?
そんなのくそくらえだ。探さず帰ればよかったのに。
「オーエン、あのな。……俺、帰らなきゃいけないんだ」
……知ってるよ」
分かっている。カインは街に住む妖狐だ。刀を携えて用心棒をして生きる妖怪。きっともっと、強くなっていくだろう妖狐。
「でも、……オーエンにはまた会いたい」
ぎゅう、と苦しいほどに抱きしめられて、オーエンは言葉を失った。また、会いたい?管狐も使役できたのに?身体も完治したのに?オーエンに会わなければならない理由はもう無いのに。
「なんの、ために……?」
カインの着物をぎゅっと握りしめる。
どうして、カインが帰ると考えるだけで胸が苦しくなっていたのか、オーエンにはまだよく分からない。よく分からないけど、どうしてもカインが会いたいと言う理由を聞きたかった。
そうすれば、何かが分かる気がした。

カインは身体を少し離すと、薄暗がりの中で眩しい笑顔を見せた。

「それは――……

***

オーエンが死にかけていた妖狐を拾ったのは、ただの気まぐれだった。

「ひぃっ、あ、あの、お客様ぁ……!」
無様な悲鳴を上げる店主に向かって、オーエンは牙を見せつけるように笑ってやる。するとますます顔色を無くし、ぶるぶる震え始めた哀れな化け狸に向かって、オーエンは草紙の束をつきつけた。
「これ、全部ちょうだい」
「あ、あの、買占めは、その、他のお客様の」
ごうっ、と風が強く吹き、ばさばさと草紙の表紙が揺れる。ひぇ!と甲高い悲鳴を響かせ、とうとう店主は蹲ってしまった。
「ぜんぶ、僕のだよ」
金なら払うのだから、文句なんて言わなければいいのに。妖力を込めた風を強く吹かせながら、オーエンは内心呆れていた。別に奪おうとしているわけじゃない。草紙が欲しいだけだ。
……しょ、承知いたしま……
「こらっ、オーエン!」
「あっ、カイン様っ!」
化け狸の尻尾がぶわりと膨らみ左右に揺れ始めた。ちっ、とオーエンは舌打ちをする。後ろに立っているだろう男の表情が、オーエンにはありありと分かってしまう。せっかく街に出ると誰にも言わずに来たのに。こうもタイミング良く見つけたということは、恐らく"視えた"のだろう。
「勝手に人の視界を見るなよな」
言いながら振り返ると、とろけるように甘い微笑みを浮かべた、赤銅色の髪を肩に流した妖狐が立っていた。
最近、薬種問屋の用心棒様は、男前度が増したと評判だ。うんざりとため息を吐き出した。なんでこいつこんなにきらきらしているんだろう。
「それはお互い様だろ。……いや、そうじゃなくて、買占めは駄目だって言っただろ。他にもその草紙が欲しい妖怪はいるんだから」
「金なら出してるだろ」
「そういう問題じゃない。ああ、悪い店主さん。草紙は半分に減らすよ」
「はぁ!?おまえ、何勝手に」
ぐい、と腕を強く引かれ、思わずたたらを踏んだオーエンの身体を支えて、カインが嬉しそうに笑う。
「今日は俺がそっちに行くって言ってたのに。迎えにきてくれたのか?」
…………ちがうけど」
「そうか?じゃあせっかくだから一緒に帰ろう。店主さん、包んでくれるか?」
「は、はい!」
カインとオーエンを交互に見ていた化け狸は慌てて草紙の半分を包み始めた。本当に半分しか持ち帰れないようだ。せっかく街にきたのだから、全部買い占めてやろうと思っていたのに。
いつの間にか腰を抱かれていることにも違和感が無くなりつつある。
慣れとは恐ろしいものだ。
カインの顔を見やると、ん?と小首を傾げられた。
血まみれで、ぼろぼろで、倒れていた妖狐はもう居ない。
ここに居るのは、赤銅色の毛並みが良い艶の、男前と評判の妖狐だけだ。

ただの、気まぐれだったのに。

「お、おまたせしましたぁ!」
「はは!ありがとうな!ほら、行こうオーエン」
……引っ張るなよ……
いつかのように右手をぎゅっと握られても、もう言葉を失ったりはしない。慣れたぬくもりに動揺もしない。でも、少しだけ鼓動が大きくなるのは絶対に秘密だ。
こうしてまるで恋人のように寄り添いながら歩いていても、カインとオーエンの関係は曖昧なものだった。
彼から好意を告げられても、オーエンは自分が抱いている気持ちが何なのか分からなかったのだ。それでもいいとカインは言った。そして、会いたいと言ってくれた通り、街に戻ってからも何度もオーエンに会うため森に通っている。どうしてそこまでするのかもオーエンには分からない。少しずつでいいさ、とカインはいつも笑っている。もしかすると、カインはオーエンの気持ちも分かっているのかもしれない。

カインについて、オーエンが分かることは少ない。彼の行動はいつも予測できないし、こうして手を繋ぐ理由だって分かっていないのだから。

オーエンがカインについて分かるのは一つだけだ。
カインが強く握るこの手を、彼のことを。

――オーエンの気まぐれで、得た縁を。

もう手放すことができないということだけ。
それだけは、分かっていた。


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