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初恋 前編

全体公開 1 2 185926文字
2022-05-28 23:20:25

ウルトラハッピーな本歌冷遇本丸におけるくにちょぎ。国広に恋する冷遇審神者と、山姥切の心の強さに惚れる国広、三角関係に巻き込まれた本歌の兄代わりをする大倶利伽羅がいる。第一部は山姥切問題における本歌の視点を審神者と国広が理解するまで

持てるものこそ、

  輜重愉卒 しちょうゆそつが兵ならば蝶々、蜻蛉も鳥のうち、そんな戯れ歌が昔の日本にはあったらしい。輜重というのは兵士に弾薬や食糧、衣服を補給する部署のことでいわゆる後方支援だ。旧日本軍ではこれらが軽視された結果、兵が戦う前に餓死した。
 当時の補給担当者によると兵士一人に最低限の働きをさせるには少なくとも十人が要ったらしい。兵糧は現地調達しろという脳筋時代の日本でこれだ。一人の審神者が四十近くの刀剣を顕現する本丸をあまた抱え、かつ本丸は増え続ける、その状態で走りつづける国ごとの本営の混乱は推して知るべし。
 本部の職員がさにぞんなる通販システムを開発し、常に予算争いでロミジュリの実家もかくやの争いを繰り広げてきた祭儀課の陰陽師と手に手をとって部署間のマリアナ海溝より深い溝に身投げ覚悟で物品供給システムを築くまで、本丸統括部は作戦指揮というよりいかにかつかつの食料や資材を平等に分配し審神者や男士を飢えさせないかを模索する、徹夜常習犯の巣窟だった。
 さにぞんシステムの稼働に伴い続発したトラブルの火消しをどうにか終えて、これでやっと家に帰れる、その前に祝杯をと立役者たる陰陽師と職員の結婚式に五体投地で出席した関係者を待っていたのは警察や消防の手を借りて整備したほんまる110番(刑事事件専用)と119番(急病人専用)の回線がパンクしたという知らせだった。
 刀剣の虐待や密売、審神者や刀剣間のトラブルに犯罪行為、人身売買や一部役人による強制連行によって審神者にされたものたちの訴訟、人権団体と国粋主義者のデモに乱闘、国会突入エトセトラ。
  山姥切長義はこの山城国の本丸統括部の人間たちが馬車馬のごとく働くのを見てきた。ストレスで胃腸をやられたものに甘酒やココアを、彼にフラれたと泣く女性にスムージーをつくり、顔色の悪いものから簡易マットレスに運んで寝かしつけた。三日月やレア刀が来ないと苦情をいれてくる審神者の号を確認し、その中でも特に精神が不安定な者の本丸には注意喚起のマークもつけた。
 刀として戦いたい気持ちはないでもなかったが、持てるものこそ与えなければと信じる山姥切は書類の海から彼らを救出し、いたわりながら刃生を終えるのも悪くないと思っていた。彼らを助けると決め、政府に限界数までの顕現を許した本霊の選択は正しかった。
 たとえこの歳月の間に自身が誇ってきた名が逸話が、写しに喰われるかたちでどんどん曖昧になっても。すり抜けていく信仰に己の足元が揺らぐのを感じても。そんなの些末事だと本霊から記憶を託されたすべての同位体は断言するだろう。
 だってそこには山姥切を必要としてくれる人間たちがいた。醜いのに美しい、強いのに脆い、愚かで賢い人間たちが。理不尽に涙を拭きながら体当たりで不可能を可能にし、今の本丸システムをゼロから作り出そうとしていた。
 霊力もほとんどないのにその大きすぎる志のためにいつも遡行軍やら悪霊やらに襲撃されている人間たちを守り育めたことは、山姥切長義の誇りだ。その選択から生じるすべての痛みや苦しみを甘んじて引き受けることは、山姥切の高貴なる義務だ。だが、腹が立たないかと言えば、それはまた別の話なのである。

『本歌とか知らないし、私の山姥切はあなただけだから』
『僕にとっての山姥切は君だけだよ』
『たとえ本歌が来ても俺の初期刀はお前だけだ』

 君たち、俺を絆イベントの種火に使うのやめてくれないかな。

『あんた、物好きだな』

 そして山姥切国広。物好きだな、じゃないよ。本歌が来たらどうせ写しの俺なんか、本歌だか演歌だか知らないが、俺の山姥切はお前さ。やかましいわ! どいつもこいつも判で押したようなやり取りをしやがって。知らないだろうけど演練場を監視している貴様の本歌たる俺の身にもなってくれないかな。
 いや仕事だし瑕疵本丸の摘発やトラブル防止のために大事な役目だからどんなに苛ついても集中は切らさないが。あと山姥切ったの俺なんだけど? そして審神者、山姥斬ったのは俺じゃないと言っているやつに対する正しい励ましは、でも私にとっての山姥切はあなただけだから! なのかマジか、もう審神者さんのファンやめます。
 己の写しが初期刀に選ばれた、五分の一の本丸、否この写しのコンプレックスを審神者が愛した本丸で無意識のうちに量産されてゆく、自身への否定の言霊。なるほど信仰が揺らぐわけだ。
 だが政府で山姥切国広と接してきた身としては、あの写しを初期勢に据えたお上の采配が間違っていたとは思わなかった。地味に縁のある刀の多い山姥切長義が先に実装されてはあの拗らせた刀の、写しではない自分を見てほしい、自分を通して本歌を見ないでほしいという悲壮な願いは退けられることになる。
 そうなったとき顔を上げて、 いのちを賭けて審神者や周囲の認識と殴り合い、敗れても笑って本霊に還るなんてことはきっとあの子にはできないだろう。だからできる己がするのだ。
 山姥切長義は持てるもの。持てるものとは与えられたものに感謝し、すべてを背負って立つものだ。与えられた愛を情けを、痛みを苦悩を愛し受け入れ、堂々と己を主張する。そうでなくては山姥切長義ではない。

「待っていろ、審神者よ。お前たちの知る山姥切国広の物語はこの本歌、山姥切長義の物語でもあるということ、この いのちを賭けてそのお花畑な頭と心に刻み込んであげよう」

  近々配属されるという第二陣の同位体が、一体どれだけ生き残るか。自分はその生き残る一振りとなれるか。結果は神のみぞ知る。すべての山姥切長義がなれぬ可能性を受け入れた上で、なれると信じてゆくだろう。
 たとえ敗れても悔いはない。初期から政府に所属してきた山姥切たちは、折られることさえ無意味でないと知っている。上司や知人、部下たちが自分の配属だけは阻止しようと、同じ願いを持つ他部署の人間とエゴで殴り合っているのを見るのは心が痛むが、そこまで惜しんでもらえるのは正直うれしくもあるのだ。
 唯一の心残りは、半年ほど面倒を見ていた新人ふたりを放り出すかたちになってしまうこと。ひよこのように山姥切の後をついてまわっていた二人は今、鬼の形相で嘆願を繰り返している。自分が折れたらきっと深く悲しみ、傷つくことになるだろう。それがわかっていても、山姥切は辞令を拒むつもりはなかった。そんな己を理解しているからこそ、彼らは山姥切を素通りし、配属要請を直接阻止しようとするのだ。

「山姥切室長、休憩なのになんでこんなとこで仕事してんですか!」
「本丸訪問まで時間ないですよ!」 
「わかった、少し待ってくれ」

 第二陣の配属計画が発表されてから新人たちは親に追いすがる幼子さながら、山姥切の居場所を把握したがるようになった。同僚たちを自身の不在に慣らすため、ちょくちょく他部署のヘルプに入っているのがどうやらご不満のようだ。隣の席で毛布を枕にすぴすぴ眠っている職員の肩を叩いて、その机にコーヒーをそっと置く。

「ほら起きて。俺はもう行くから」

 ゆるゆると瞼がうすく開いてぱちりと目が合う。眠りと覚醒が相半ばする表情はひなたぼっこを邪魔された子猫のようで、くすくすと笑ってしまう。本丸に配属されたらこの健気でかわいい人の子たちの面倒をみることはできなくなる。きっとそれはとてもさみしい。

……やまんばきりさん」
「おはよう。怪しい本丸はチェックしておいたから記入を忘れないようにね」
「ありがとうございます。眠気、かなりマシになりました」

 突っ伏していたせいでぐしゃぐしゃになった髪を整えてやる。はわわ、と最初はへどもどしていたこの子も、もうすっかり慣れて頭を差し出して待つまでなった。あと何度監視を代わってあげられるかはわからないが、目の下の隈もだいぶうすくなり笑顔も自然になったのがうれしい。
 いとおしくて、かわいそうでかわいい者たちばかりの、大切な山姥切の居場所。此処で愛して愛された。その記憶を大事に抱えて山姥切は為すべきことを成しにゆく。

「他の課のやつまで誑しこむのやめてください」
「激しく同意! 山姥切室長は、私たちだけ甘やかしてればいいんです!」

 むっとする二人に、こころもち顎を上げて高慢な笑みを浮かべてやる。

「俺は俺がしたいようにするだけだよ。お前たちのようなひよこの指図は受けないかな」

 繋がれた手と手からつたわる温もりを、心にやわらかな光が差すようなこの一瞬の積み重ねを、山姥切長義は愛している。 

すこしの興味と、
  己の価値を一瞬たりとも疑わず、針の筵で踊ってみせる。血だらけの足を誇って、傷や憎悪も抱きしめ進む。それは己を貫くための代償だと、喜んで引き受けると言い切った彼。憤ることはあっても恨むことはないと静かに宣言した彼の瞳の美しさに、磔にされたような衝撃が襲った。
 あのとき己の中のなにかが、たぶん永遠に形を変えた。それからというもの、俺はあの刀の青すぎる瞳を直視することができなくなった。そんなことになるとは知りもせず、最初はただかわいそうな刀だと思っていたのだ。時とともに形を変えてしまう物語のひとつでしかない逸話や名を誇って、ままならぬ現実に怒りをぶつけて。
 まるで、昔の俺のようだと。なんという見当違い。なんという浅はかな物差し。それをあの日、俺は思い知らされることになる。

***

 蜂須賀の贋作騒動である程度耐性はできていたものの、初期刀で古参の俺を本歌とはいえ新参者が名指しで偽物とやれば、本丸がざわつくのは当然である。俺自身は修行で山姥切長義の写しとしてつくられたのはルーツでしかないとふっきれたので、正直傷ついてすらいなかった。
 だが、俺がうじうじと悩んでいたときに親身になってくれたものや自身の真贋を気にしている兄弟なんかは、心穏やかでいられないようだ。

「長義さん、兄弟を偽物扱いするのはやめてください。自分の名を誇るなら、他人の名も大事にすべきだ」

 今日の第一部隊は俺を隊長に、兄弟、和泉守、加州、大和守、そして長義の編成だ。阿津賀志山の敵本陣の前で、昼食をとっていたところに切り出したのは兄弟だった。

「兄弟、俺は本当に、」

 気にしてない。長義が来てから何度この言葉を口にしただろう。名や逸話は物語の一つでしかないと言って長義を激昂させたのは記憶に新しい。今の俺にとって長義は修行前の俺のような存在だ。自分で自分に呪いをかけて、その重みに雁字搦めになって、かわいそうだとすら思っていた。

「僕が不愉快なの。長義さんのそれは仲間に対する態度じゃない」

 だが憤っているものたちは、それを口にする暇を与えてくれないのだった。己を案じてくれているのはわかっていたし、修行前にはかなり迷惑をかけていた自覚もある。
 長く共に過ごし、支えてくれた本丸の仲間たちと、親しく交わった覚えもない本歌。どちらかといえば前者を優先したかった。他の新撰組メンバーは長曽祢の真贋の問題で一波乱起こしたこともあって、見定めるような目が長義に集まる。

「君は、和泉守の相棒であるということをとても大事にしているね」
「話を逸らさないでください」
「和泉守にとっては前の主である土方歳三、加州や大和守にとっては沖田総司の存在。偽物くんにとっては己が国広第一の傑作であること。俺にとっては、山姥切だ」

  高練度の刀たちの鋭い視線にも、長義はびくともしない。

「資料が残ってない? 逸話が混じり合ってる? 銘が磨りあげで消えた? 後世の人間が何を言おうが関係ない。山姥切という名はね、これから死地に赴こうというときに、ただの刀でしかない俺が鉄屑になるのを惜しんで大事な戦費で写しをつくってしまうような馬鹿が、俺にそうあれと望んだ名だ。百歩譲って、その名に俺の百分の一のこだわりもない偽物くんが、山姥切と呼ばれていたことは許容しよう」

 キャンキャン吠えるように俺につっかかっていた刀の、死んだような落ち着き。主がいつか教えてくれた。赤くめらめら燃える火よりも、青く静かにゆれる火こそが、実は遥かに危険なのだと。青い瞳に炎がゆらめく。低練度の打刀が出していい気迫ではなかった。

「だが、己は国広第一の傑作であることを誇りながら、俺の誇りを“そんなもの”扱いした山姥切国広、貴様は許さん。そして俺の誇りを尊重せず、長義と呼ぶ君たちに、俺のあり方をとやかく言われる筋合いはない」

 山姥切と呼ばれるべきは己だと言われても俺は彼を山姥切とは呼ばなかった。名など大した問題ではないと思っていたのもある。彼は主の刀となったのだから、その主が俺を山姥切と呼びたがっているのだから。俺もその名に慣れていたから。彼の身になって考えるということをしなかった。
 国広第一の傑作を誇る己が、他者に誇りを傷つけられてきた己が、山姥切長義の誇りを軽んじていた。そのことに今の今まで気づかなかった。彼の言葉に恨みがましい響きはいささかもない。ただ言うべきことは言わせてもらうという、瞬間的に発火する怒りだけ。
  それは勝手に修行前の自身と重ねていた本歌が、はじめて謎として立ち現れた瞬間だった。

「うわ、このサンドイッチおいしい、さすが祖だ! 帰ったら教えを乞わないと」

 俺たちの絶句など気にもせず、長義、否、山姥切は燭台切のベーコンレタスサンドに桜を散らしている。

……ブリザードから誉れ桜って、切り替えはやすぎこわすぎくんなんですけど」
「ねえ安定、こういうときぐっぴーが死んでるって言うんだって」
「はあ? なにそれ意味わかんない」

 こわごわ話し始めた二人に、きれいに弁当箱を空にして手を合わせた長義、ではなく山姥切が真剣なまなざしを向けた。

「みんな、このサンドイッチ神だぞ。いらないなら俺がもらうが」
初恋
 乱藤四郎は恋物語がすきだ。主ときゃあきゃあ漫画や小説を批評し合い、並んで映画を見て泣いて。片恋に両思いに道ならぬ恋。主は想いが成就する瞬間を好んだが、乱は恋に落ちる瞬間こそ、もっとも美しいと思っていた。
 恋はするものじゃなくて落ちるものって、どういう意味かな。小説を本棚にしまいながら問うた乱に主は静かに言った。自分の理性では相手を選べないってことじゃない? 乱が贈った木製の写真立てをなぞる指がやわらかな日差しに包まれていた。さわやかな夏空をバックに顔を隠そうとする初期刀のとなりで、弾けるように笑う主。乱だけが知っている、彼女の心。
 修行でやっと自分なんかがと言わなくなった彼。あんたのための傑作という言葉に二人でもだえて喜んで。もうすぐだと、心ときめかせて待っていた。劣等感から解放されたヒーローが、いつも自分を支えてくれたヒロインの存在に気づくとき、きっと素敵な恋物語が始まるのだと。



 乱はあの一節の意味を予想外のかたちで知ることになる。恋に落ちるとは、誰かに撃ち落とされることだった。それまでは気ままに飛べた鳥も、被弾すれば落下するだけ。地面を目指して墜落する。何を狙うわけでもなく、ただその人がその人であるだけで誰かの琴線を貫通してしまうことがある。すべての迷いを振り切ったはずの緑の瞳は驚愕と混乱、ぎらぎらした熱をはらんで見開かれていた。



 悪いひとではないんだよと鯰尾や後藤、物吉は言うけれど。身内びいきで甘くなっているだけじゃないのと、乱は不満たらたらだった。ずっと俯いていた山姥切が修行を終えて、やっと顔を上げるようになったのに。そんな彼を偽物と呼ぶ長義を乱はすきになれなかった。
 本歌だからって威張っちゃって感じ悪い。ちょっと前までは乱がそう言うと、そうかもねと言ってくれる刀が結構いた。だが最近は様子が違う。
  堀川の怒りに影響されていたはずの新撰組は静かだし、今まで長義につっかかられても超然とした態度を崩さなかった山姥切は、最近やけにあの刀を気にしている。小田原で一緒だった江雪や小豆、刀工の関係で縁のある長船派や古備前派など、静かに長義を見守る刀は多かった。
 この本丸を初期から支えてきたのは山姥切なのに、その山姥切が新参の刀にあんなふうに扱われるのを、見てるだけなんて! いま乱の怒りに共感してくれるのは、主を除けば五虎退、秋田、前田くらいだ。
  だから演練のメンバーが発表されたときは憂鬱だった。長谷部を引率、山姥切を部隊長に、乱、同田貫、三日月、長義の配置。行きたくないとごねる乱を、諭したのは一期だった。

「乱、真夜中に太陽を見れないのはなぜだと思う」

 きちんと威儀を正して座る兄に、粟田口の弟たちは逆らえた試しがなかった。それはいっとう甘やかされている乱も例外ではない。

「なに言ってるの、いち兄。いま関係ある?」
「いいから」

 一期は学ぶことがすきで、主の学生時代の教科書を借りては、粟田口を集めて非番の日に寺子屋を開いていた。興味のないことはすぐに忘れてしまう乱にとっては修行のような時間。

「ええと、地球がまわってて、太陽に背を向けちゃうんだっけ?」
「そうだね。私たちが日の本にいれば、同じときに太陽を浴びることができる。では乱、私たちが月しか見れぬ真夜中には、太陽は存在していないことになるか?」
「ならないよ! どこかで誰かが、太陽を見てるんだから」
「そのとおり。見えるものがすべてではない。見えぬからといって、夜に太陽が消えるわけではないように。お前の立つそこからは見えぬだけだ。乱、世界の見え方はひとつではない」
……結局、長義さんの立場から考えてみろってこと? いち兄まで、長義さんの味方なの?」

 膝の上においた手が拳になる。なんだかすごく傷ついて、つい責めるような口調になってしまう。兄はいつも、ひとにはやさしくありなさいと言っているのに、どうしてあんなわがままなひとの肩を持つのだろう。

「いいや、ちがう。誰かを非難するときは、己から見えぬものも勘定にいれなければならぬということだ」
「自分から見えないものなんて、わかりっこないじゃない」

 このまま言いくるめられて長義と演練に行くのが癪で、ぷぅと頰をふくらませた乱に一期はからりと笑った。

「だが、考えることはできる。科学者たちが己の頭脳と心を頼りに、世界の謎をひとつずつ解いていったように。乱、勘違いしてくれるな。私は彼を批判するなとは言っていない。ただ、誰かを非難したいなら、そのひとを学ぶべきだと言っている。生きることとは学ぶこと。きっとあのひとは、学ぶに足る謎だ」

 正直なところ、お前にこれほど考えさせてくれるあのひとに、私は感謝しているんだ。穏やかに笑む琥珀の瞳は、乱が演練を御手杵に押しつけたと知ったら鋭くすがめられるだろう。
  いち兄はミステリ愛好家だからあのひとのねじれた心に謎解きを見出すのかもしれないけど、僕はロマンス至上主義なの。ヒロインはヒーローと結ばれてこそなのに! 不服です、と全身で意思表示しながら、それでも乱は演練への参加を約束した。

**

 演練場にはちらほらと長義がいて、それぞれ山姥切に絡んでは仲間や審神者から厳しい視線を浴びている。あの数だけ本丸で不和を起こしているのかと思うと、まったく気が滅入ってしまう。
  あのひとが来る前はお互いの意見のちがいはそこまで大きな問題にはならなかった。でも長義はそんな態度を許さない。衝突を望むような不敵さ、己ではなく周りこそ間違っているなんて堂々と言えてしまう、あの刀の不遜さがいやだった。
 いつも周りの目を気にしていた山姥切とは正反対。写しが貶されている横で、きっと当然のように賛美されてきたのだろう。山姥切国広など問題にならない、本物はちがうと多くのひとに言われてきたのだろう。山姥切以外にはあたりがやわらかいのもいやだった。一人にだけあからさまに当たるなんて、いじめもいいところだ。修行前の山姥切によその長義がどんな扱いをしているかなんて、考えたくもない。
 演練はまる一日かかる。いろんな本丸の長義が好き勝手に己を主張するのを、己の本丸の長義が山姥切に絡むのを、ずっと見ていなければならないなんて。ため息を飲みこんで、主と選んだ水色のナップザックからピンクのマグボトルを取り出す。中に入っているのは最近、主がキロ単位で買ったローズヒップティーだ。
 独特の酸味や赤とピンクが交じったような色にみんな慄いていたが、主の恋心に色をつけるとしたらきっとこんな色だろう。肌荒れにいいと聞いて、いまでは美容に関心があるものたちがこぞって飲んでいる。口をつけると溶かした蜂蜜のやさしい甘みが広がって、ささくれだった気持ちをすこし落ち着かせてくれた。

「最初の演練まで二時間ある。三十分前に各自第一ゲートの前に集合だ。遅れるような不届き者はこの俺がへし斬ってやるから心しておけ! では解散、」

――ふざけるな!」

***

 不満が爆発したような怒声に俺は思わず足を止めた。往来のど真ん中で年若い男が山姥切の頰を張る。

「山姥切の遠慮深さに、これ以上つけこむことは許さない! こいつはお前と比べられて、ずっとずっと傷ついてきた! 本歌なら名くらい譲ってやったらどうだ?! まあ、写しと偽物のちがいもわからないお前に期待するだけ無駄だろうがな!」

 両者の間に割って入ったその本丸の山姥切国広は、布を被ってはいなかった。きっと初期刀だろう、雰囲気でわかる。

「主、俺は本当に気にしていないんだ。長義、思うところはあるだろうがここは抑えて、」
「本歌だからって庇うな、山姥切! お前の痛みや苦しみを知りもせずに
――俺が偽物くんの痛みや苦しみを知らないと、主はそう言うわけだ?」

 顔をあげた山姥切からは、一切の感情が読み取れなかった。偽物呼びのことで兄弟がとがめたとき、彼が見せたのとよく似た顔。
  あの出陣から、俺は彼を長義ではなく山姥切と呼ぶようになった。彼との間はあいかわらずだし、俺が山姥切と呼ぶ度に、主がピリピリしているのもわかっている。

「お前も本歌としてこいつと比べられはしただろう。だが、山姥切の方が、お前の写しであることでもっともっと苦しんできた。俺はそれをずっとそばで見てきたんだ!」

 腕組みをして静聴している俺に苦い気持ちになる。刀として主を優先するのは当然のことだ。だが、主だけ見ていればいいというわけではない。主に堂々と意見するのも臣下の役目。この場合は戦力たる山姥切長義を御す責任が主にあるということを、理解させなければならないのだ。
  陸奥守と新選組の確執のときも、虎徹の騒動のときも、主に双方を理解させ静観を選ばせた刀たちがいた。だから俺はその役を負う必要がなかった。でも今は違う。審神者は第三者の意見など聞きいれない。当事者の俺が考えて動かなければならないのだ。

「知っているよ。修行前のあれがどれだけ写しであることを卑下していたか」

 ひんやりとした声が、会場の温度を下げてゆく。極の俺の目が動揺に見開かれる。山姥切長義を仲間の一振りとして迎えるのにあたって俺はきっとすこし無神経だった。
  悪意がなければいいわけではない。悪意がない方が、言われた方が怒れないぶんたちが悪いこともある。相手の立場を考えないぶつ切れの発言がどんなふうに受け取られるか。他人の言葉を曲解して写しごときと俯いていた俺こそ、わかって然るべきだった。
 主と山姥切の問題だからそこまで踏みこむ必要はないと、あの俺は思っていたかもしれない。写しのくせに生意気だと思われているんだろう、まあ気にしないが、なんて。昔の自分が罠につっこんでいくのを見るような気持ちだった。

「なら、どうしてもっと優しくあれない! 持てるものこそ与えるべきなんじゃないのか!」
「散々写しを免罪符に慰めを引き出しておいて、修行が終われば写しであることは大したことではないと投げ捨てる。顕現したての名も逸話も奪われようとしている俺に、俺の現状に一役買った自覚もなく、名や逸話より大切なものがあるなどとほざく。己は国広の傑作であることを誇りながら!」

 息が止まる。となりの山姥切は、静かに叫ぶ己を見つめていて、俺のことなど眼中にない。遠くへ飛びかけた思考を、審神者の激昂が引き戻した。

「知ったふうなことを言って俺の初期刀を侮辱するのはやめろ!」
「審神者よ、俺は政府にいたのだ。修行先からの手紙を精査し、戦場や演練を監視し、修行でたまに不具合を起こすあれや、本丸から保護されたあれの面倒を見た。俺が一体何振りのあれの布を洗濯し、本霊に還るのもいや、審神者はこわい、政府も信用できぬとごねるあれの相手をしてきたと思う? 貴様が、貴様に、俺とあいつのねじれた因果のなにがわかる! わかっていると思うことすらおこがましい!」

 血を吐くような怒号にあたりの空気が凍りつく。政府、山姥切の古巣だ。俺は山姥切が政府でどんな仕事をしてきたかなんて、考えたこともなかった。

「山姥切の名くらい譲ってやれ? 俺はあいつにすべてを与えた。審神者と絆を、物語をつくる時を与えた! どんなに俺の写しであることを蔑まれても! あんな愚か者にこれ以上与えては、他の写したちに示しがつかない! この上、俺の愛したひとがくれた名まであいつにやれというのか!」

 山姥切が、俺に、時を与えた? 顕現の時期は山姥切が決めたのか? 動揺でざわつく群衆の中をそのとき、何かが駆け抜ける。
  それは、あまりにも一瞬の出来事だった。銀の髪が彼の怒りに応えてなびき、白いマントが乱れた霊気にまきあがる。己の本丸の山姥切が、激昂する同位体の背後を急襲し、その顔を地に叩きつける。

「俺と同じ顔で、よくも見苦しい泣き言を垂れ流してくれたな」

 研ぎ澄まされた白銀の刃が、抜かれる時を待っている。あのときの比ではない。山姥切は怒っている。冷たく鋭く熾火のごとく、瞳の青が燃えていた。

「たしかに俺が定着したあとでは山姥切国広がコンプレックスを払拭することは難しいという計算はあった。だが、」

 山姥切は同位体の関節を完全にきめた上でその首に鞘ごと本体を添える。ロックがかかっているから抜けないことはわかっている。だが今の彼には気合だけでそれを破りかねない気迫があった。

「俺たちはやつのために本丸行きをあきらめたのではない。貴様の言葉は過去の己を、すべての俺を貶めた。大した霊力も持たずに妖相手に戦をしようという馬鹿を、俺たちは助けると決めた。彼らは俺たちを愛し、俺たちもまた彼らを愛した。選択のときは何度もあった。その度に俺たちは選んだ。貴様はわかっていたはずだ、人の子の性質、あの写しの性格。それでも貴様と俺は、すべての山姥切長義は、それを選んだ!」

 ぎりぎりと箍がゆるんで赤い光が点滅する。美しい刀身が鍔と鞘の間で見え隠れして止めなければと思うのに、山姥切から目が離せない。持ち主の感情に呼応して、炎にも海にも空にも変わる青い瞳が爛々と輝く。天上の青の苛烈さに目を灼かれる。

「すべて承知で選んだならば、すべての恥辱を引き受け進め! 今さら女々しく嘆くとは貴様の名誉はどこにある! お前は与えられた愛を軽んじ、与えた愛をも軽んじた。貴様は、山姥切長義の名に値しない。一度は名を同じくしたものとして、これ以上の恥をさらす前に、俺が貴様を叩き折る!」

 ぱりん、という音とともに封印の呪が砕け散る。すらりとした刀身がきらめき、冴えわたる刃の光が、この心臓を焼きつくす。

 なんという苛烈さ。なんという誇り高さ。あれが俺の本歌。堀川国広が俺をつくることになった原点。俺の物語の始点となった刀。写しの出自は俺にとって誇れるようなことではなかった。いつだって比べられ、悪意をぶつけられる。修行で逸話の不確かさを知り、己も山姥切を名乗っていいのだと思えてからは、写しとして生まれたことはただの事実でしかなかった。
 だが今、どうしようもなく理解した。長尾顕長が、堀川国広が、彼が折れた後もその名を遺そうとしたその訳を。
 うるさいほどに高鳴る胸が、柄にもなく竦む足が、静かに頰をつたう涙が、この鋼の心と身体に生まれた意味を思い知らせる。この荒れ狂う感情の名を、乱や主は知っているのだろうか?

***

 すらりとした白刃が、一寸のためらいもなく振り下ろされるのを、乱は息をとめて見つめる。

「そこまでだよ、俺」

 黒いマントが宙に踊る。沈む夕日に五重塔という山城国のシンボルが染め抜かれたそれは、政府所属の刀の証。突然現れた山姥切が乱たちの山姥切の首を制しながら、反撃をねらったもう一人の己から流れるように刀を奪った。

「まったく本丸つきの俺は利かん気が強くていけない。もっと穏やかに拳で語り合うことはできないのかな」

 利かん気が強いとは殺意の波動でロックを破壊し、同位体を折ろうとすることなのかとか、拳ではなく口で語るべきではとか、たったいま争いを拳で解決し、二人の同位体を気絶させた山姥切に聞くものはいなかった。

「事情聴取と始末書が終わったら返すから、ちゃんと引き取りにくるように。迷子放送で呼び出すから。加州、あとは頼んだ」
「りょーかい! 俺も交通整理したらいくー」

 同じマントを飾り紐や刺繍で飾った加州が二振りを担いだ山姥切に人だかりの中から手を振ると、乱はやっと緊張がとけた。
 長義にとって山姥切という名は、その名にふさわしくないと断じた己を切り捨てたくなってしまうほど重いものだった。乱は呼吸もまたたきも忘れてしまった初期刀を見やる。
 怒り狂った長義が気合で刀を抜き放ち、すべての恥辱を引き受け進めと恫喝したとき、乱の耳はたしかに、山姥切国広のかりそめの心臓が撃ち抜かれる音を聞いた。混乱、驚愕、正体不明の熱で緑の瞳をいっぱいに満たして、胸をおさえる彼の足場は、今まさに崩れんとしている。彼はあの刀に墜落する。
 写しであることから解き放たれたはずの山姥切国広を、山姥切長義は引き戻した。何を狙うこともなく、ただ己が己であるだけで。本歌は写しの琴線を焼きつくし、己が生まれた意味を思い出させた。山姥切国広が心に持っていたコンパスを、山姥切長義という苛烈な磁石がかき乱す。

「もう見るもんないからみんな解散、って言いたいとこだけど、ねえ国広。いろんな本丸のお前をみてきたものとして、ちょっと俺からアドバイスしていい?」

 腰を抜かした審神者を支えていた山姥切国広が複雑そうな顔で肯くと、加州は穏やかに微笑んだ。

「俺、いわゆるブラック本丸出身でさ、お前のとこの山姥切さんは恩刃なの。だからすげえあの人寄りになってるかもだけど聞いて」

 質問しようとした山姥切国広を目で制して、加州は明るく話をつづける。

「今の山姥切さんの状況って詰んでるよね。お前が初期刀とか古参として絆つくって、うじうじするお前の尻を叩いて四年。修行で写し関係の葛藤からおさらばしたお前の成長をみんなで祝ってるとこに練度一、政府あがり、コモンのスペックで“山姥切ったのは俺だしそう呼ばれるべきは自分だ”って、命惜しけりゃできねーよ。それはさ、その逸話や名がお前にとっての国広の傑作ってとこと同じくらいあのひとにとって大事だからじゃん。だからさ、たとえお前があのひとと山姥切の名を共有してても、お前はあのひとにそんなことより大切なものがとか、言っちゃだめなの。そこはわかる?」
「俺はそんなつもりじゃ、」
「かもね。でもお前、あのひとに誤解させない努力しないじゃん。興味ないからかもしんないけど。でね、お前が自分のあり方をそう決めるのはいい。でもさ、自分の物差しで、お前の本歌の苦しみ測っちゃだめじゃん。ねえ、布被ってたときに審神者に、お前の苦しみは本歌に比べれば大したことない、騒ぐなって言われたらどう? それを初期刀の山姥切長義を大事にしてる審神者に言われたらどう? で、本歌にもお前にとって大切なものは他にあるって言われたらどう?」

 野次馬の中に混じっていた多くの山姥切国広が、同時に絶句するのが乱にもわかった。

「お前に悪意がないのはわかってる。でもそれ言うならお前と本歌を比べてたやつらも悪意ないし、誰かを傷つけるのに悪意はいらない。お前の今までの言動でお前を大事にするために本歌を虐げなきゃってなった審神者がいて、大事な名前で呼んでもらえなかったり同位体がつまようじみたいに折られても、それでもあのひと俺がいなかったからしょうがないって言えるんだぜ? でさ、主と本歌の問題だしって考えること投げてない? あ、この場合考えるってのは自分についてじゃなくて本歌についてね。お前のせいだけじゃないけどお前、めっちゃ関係あるしあのさ、厳しいこと言ったかもだけど、俺の恩刃をよろしくね」

 じゃあ、かいさーん! ぱんぱんと打ち鳴らす手に藍色の爪が光る。あまりにも軽いノリで重い話を終わらせた加州清光は、疾風のように爽やかに去っていった。唖然とする審神者と刀剣男士たちを残して。

「あっはっは、面白かったな!」
「喧嘩っ早いやつだとは思ってたけど、想像を軽く超えてきたな。あれが噂の南北朝ヤンキーか」
「やめろ同田貫、南北朝でひとくくりにするんじゃない! 俺のような大人しい刀までびびられるだろうが!」
「日本号とのいざこざで本丸を本能寺にしかけた刀がいうと、なかなか説得力があるなあ」
「うるさいぞ、要介護老人。俺は山姥切を迎えにゆく。お前たちはここで待て」

 好戦的な刀を見つけてくつくつと笑う同田貫に、なかなか見ごたえがあったと満足げな三日月、主への報告に頭を悩ませながら出ていった長谷部。
 だがなんとなく和気あいあいとした雰囲気に、乱は確信する。ここにいたものたちは、きっとあのひとを山姥切と呼ぶだろう。あの刀が誇るその名にふさわしい敬意をもって。

「きっとあやつのようなものを、ばさらというのだろうなあ」
……ばさら?」

 今まで一言も発しなかった初期刀が現実にもどってきた。

「鎌倉以降は悪党とか、かぶきものとか、戦国の世ではうつけが近いか。ばさらとはな、南北朝の時代の流行りことばよ。天竺で金剛石をあらわす語がなまったとも言われてな、金剛石のような硬さで常識を砕く、反逆者への大衆の憧れを託したことばなのだ」
「金剛石の心か、本歌にぴったりだ!!」
「うわ、声大きい!」

 はしゃぐ初期刀を注意したあとで、乱はフリーズする。あまりの衝撃に頭が混乱する。修行から戻って一度も山姥切長義を本歌として言及しなかった彼が、初めは皆に流されて長義と呼んでいたくらいあの刀への関心が薄かった彼が、山姥切長義を本歌と呼ぶ、その意味。
 今、彼があの刀を本歌と呼ぶのは、自分たちの縁をうれしく思っているからだ。己のルーツとして誇りに思っているからだ。山姥切国広にとって呪いだったはずの写しというアイデンティティは、極めてからは己の価値を上げもしないかわりに下げもしない事実として、クールに処理されたはずだったのに。
 かつては呪いで、修行のあとは愛着のない事実だったそれは今、すきな相手と己を結ぶなによりの縁として祝福になったのだ。なんという因果。なんという呪われ、祝福された関係。頭を抱えて叫びたくなる。転げまわって暴れたい。どうにかそんな衝動をこらえ、乱は手で顔を覆った。

「鉱物に興味のなさそうなお前が、金剛石を知っているとは意外だなあ」
「だいやもんど、と言うのだろう? 主は一等すきらしい。図鑑もみせられた。世界一硬くて強い、美しい石……まるで本歌のようだ」
「ちと惜しいな。金剛石はもっとも硬いが、もっとも強いわけではない。硬度とはな、互いに傷つけ合ったときどちらが傷つくかで決まるのだ。金剛石に擦りつけて、傷をつけることができるのはおなじ金剛石のみ。それゆえ世界一硬いと言われる。それを踏まえてお前が、山姥切長義をどう表現するのか。いや若いとはよいことよ。国広、文の添削は我ら三条に任せよ! 間違っても歌仙などに頼むでないぞ!」
「おい煽んな、じいさん。主がガチで姑になったらどうする」

 黒いボトルから冷たいほうじ茶を飲み干した同田貫が眉をしかめるのに、三日月が悪戯っぽく笑う。

「女の性格がわかるのは恋をしているときではなく、嫉妬しているときだと言う。はてさて、我らが主はいかがかな?」
「主がなにか関係があるのか?」

 手のひらをこめかみに叩きつけ、いよいよ頭を抱えようとしたとき、端末が軽快に音をたてる。顔を伏せたまま、片手間に画面をスクロールして硬直する。
 さにったーのトレンドを飾る、山姥切長義、陸奥国、演練のワード。添付された動画のサムネは、おそらくたぶん百パーセント乱の本丸の山姥切が、己の本体を同位体に振り下ろそうとする、その瞬間だった。

「あああああ」

 本丸ラインは主が見てしまう。どうしてすべての刀剣男士のグループを作っておかなかったんだろう。粟田口のグループラインに動画のリンクを叩きこむ。



乱:みんな、しゅうごう~!!!!
乱:画像の同位体の首を叩き切ろうとしている男士は、うちの本丸の山姥切さんです
乱:あるじにこの一件がつたわる前に、本丸の全員がこの動画を見るようにして
乱:たぶん今日あるじはキレる。たのんだよ、みんな!!

* 

「三日月さん、同田貫さん、やま、国広、端末出して。ちょっと緊急事態だから」

 乱の目は完全に据わっていた。

私はあなたを、

 ただの中学生だった私が、役人に連れてこられた一室で、投げやりに選んだ一振り。それがこんなにも大事になるなんて、あのときは思いもしなかった。
 祝詞を唱えて、本当に顕現できるのかどきどきしながら印を結んで。大きな存在が錫杖 しゃくじょうを振るう清らかな音と、現と幽世の境にあるものが降りてくる気配にそっとまぶたを開ける。
 おとぎ話の王子様のような青年が、なぜかボロ布で全身を守るようにしてそこにいた。布からこぼれ落ちた金髪が太陽の光を受けて輝き、長すぎる前髪に隠された明るいエメラルドの瞳がまたたく。

「何だその目は。写しだというのが気になると?」

 想像以上に低い声はどこまでも暗く、湿っていた。王子様だと思った人は、自らに呪いをかけて塔に閉じこもるラプンツェルで、その美しい金の髪をつたって誰かが登ってきてくれるのを待っていた。
 その呪いを解く王子様になりたかった。彼に愛されるお姫様になりたかった。祝福を与える善き魔女になれると信じた。

「写しかどうかなんて関係ない。私の山姥切は、永遠にあなただけだよ。本歌なんて見たことも聞いたこともないのに、あなたと比べられるわけないでしょ」

 顔を上げて、誇って。あなたは私の特別であり唯一。あなたの居場所は私が守る。山姥切、山姥切と。呪いよ解けよと、何度も何度も名前を呼んで布をはがした。うつむく彼が陰気につぶやく。山姥退治は俺の仕事じゃない。隠された美しい緑の瞳をとらえて断言する。たとえ本歌が来ようとも、私にとってはあなたこそが山姥切なの。
 息をするように口にしてきた言葉たち。本歌が来てもなんて言っておいて、本歌が実装されるなど思いもしなかった。いない刀のことなんて考えもしなかった。

「覚悟するといい、偽物くん。俺が来たからには、山姥切と呼ばれるべきは俺だ」

 有無を言わせず、国民の義務の一言で私と家族を引き離した政府。そこからやってきた横柄な監査官。やっと監視が終わると思ったらこちらになんの予告もなく、彼を刀剣男士として従えよと命が下る。
 青みがかった銀髪に、紺碧を体現したような瞳。顔の造形は同じなのに、表情も所作も何もかもが違う。自分の美しさや貴さを疑ったことなど一度もない、そんな笑みで彼を偽物と呼んだ。新参者の分際で、私の大事な初期刀の彼を! なんて傲慢な刀なの、彼がどれだけ苦しんだかも知らないで。

「写しは、偽物とは違う」

 冷静に返した山姥切を見ても、私の心はおさまらない。ふつふつと怒りが底から込みあげる。顔を歪めて俺は偽物なんかじゃない! と叫ぶ彼を覚えている。四年かけて解いた呪いをこの男はふたたび山姥切にかけようとしている。許せない、許さない、許したくない! 私の心が叫んでいた。

***

 長義をあからさまに冷遇しなかったのは、もっとうまいやり方があると思ったから。長年本丸を支えてきた山姥切を悪しざまに言う長義に、うちの刀たちが甘い顔をするわけがない。縁のある刀はたくさんいるらしいけど、長義の態度に眉をひそめる刀は多かったし、大っぴらに近づくのは徳川美術館にいた鯰尾や後藤、小田原で一緒だったという江雪や小豆くらい。
 みんな私の就任の経緯から政府には不信感を抱いていたし、監査官のときの長義の横柄な態度に反発する刀も多かった。私があれこれするよりも孤立するにまかせて、心が弱ったところで政府に帰るよう持ちかければいい。そう思っていた。でも何かが変わりはじめた。
 端末を抱えこんで目をつむるとぽろぽろと涙がこぼれた。あんたのとこの山姥切さん、すごい話題になってるよ。そんなラインとともに送られてきたさにったーの動画リンク。そこには怒り狂う長義とそんな彼を熱に浮かされたような目でみつめる、私の山姥切がいた。
 左胸を撃ち抜かれたかのようにおさえるその右手には、私が想いをこめて編んだ、緑と金の組紐がある。胸元を飾る茜色のネクタイピンは、昨年のクリスマスにあげたもの。私の初期刀はしとしと泣いていた。私がこれまでみてきた彼のどんな泣き顔とも、ちがう顔。美しいものにうたれたひとが、意味もわからず泣いてしまったような、そんな瞳で。

……どうして、なんで私じゃないの? なぜそんな目で、あいつをみるの?」

 粉々に砕けた心をひとつずつ拾うように息を整える。だいじょうぶと何度も自分につぶやきながら涙をぬぐう。きっとだいじょうぶになる。私があいつがいることでいかに苦しんでいるか、みせればいいのだ。恋心は隠して、山姥切国広への愛着故に彼を受け入れられず、それでも受け入れたくて葛藤する主を演じればいい。
 あとは初期刀たる彼が、結論を出してくれるはず。彼を初期刀に選んで、今日まで愛してきた主である私のために。膝を抱えて、そっと自分を抱きしめた。すべて丸くおさまる。絶対に、大丈夫になる。


真夜中の誓い
 認めよう。たしかに美意識に欠けるからといって己を折ろうとしたのは軽率だった。だが、こちとら武器の付喪神だ。俺が政府につとめていたときなんて、さにちゃんの情報を鵜呑みにした審神者が刀剣男士を率いて乗りこんでくるのは日常の一部だった。めちゃくちゃ高価なパソコンをへし切られかけたこともある。
 それでも協力してくれる付喪神様だから、無傷で帰せとのお達しが下っていた。なればこそ、俺が俺の名を穢す同位体のひとつやふたつ叩き折ったところで、主や本丸を巻きこむ問題にはなるまいと箍を外した。あれだけ不甲斐なく泣き言を垂れるなら、その扱いも知れている。審神者に折られるか、刀解されるくらいなら、俺がこの名の誇りを穢した咎で、折っても許されるのではと。
 悪魔のささやきに耳を貸し、心のままに暴走した。それが傲慢だというのなら、なるほど俺は傲慢だった。

「今日の演練での不始末、そして私の初期刀への度重なる傲慢な態度。あなたが手をついて山姥切への無礼を謝し、悔い改めると刃に誓うまで一切の戦働き、演練や手合わせへの参加を禁じます」

 だが、山姥切国広への傲慢な態度? まったく覚えがない。手をついて無礼を謝せ? 俺の写しであることを不幸の源のように言っておきながら修行から帰れば一転、名を大事にする俺を悟りに遠い未熟者のように扱う、やつの態度は無礼ではないのか。あんなものが修行で得る悟りなら俺はいらない、堂々と修羅の道を行ってやる。

「そして、山姥切の名はあの子のものだと認めること」
「主、」
「私は今、長義と話しているの。大倶利伽羅は黙っていて」

 最近部屋にいることがふえた大倶利伽羅が端末から顔をあげた。何事かを言いかけた彼を手で制して、主はつづける。敵に向けるような鋭いまなざしに彼女の敵はいま遡行軍でも政府でもなく、俺という初期刀をあしざまに言う不穏分子なのだと実感する。まったくやりきれない。

「あいつがそうしてほしいと言ったのかな。山姥切の名は己にのみ使ってほしいと」
「遠慮深いあの子が、そんなこというわけないでしょ。修行を終えて、やっと顔をあげられるようになったの。今はっきり言っておくけど私の山姥切は永遠に彼だし、銘をもち同じ逸話をもつ初期刀のあの子にはその資格がある。新参者のあなたにあの子との四年を、私の彼への愛着を否定する権利はない」

 遠慮深い? 思わず首をかしげかけて思いとどまる。今の主には挑発と受けとられかねない。だが、山姥切国広とは遠慮深い刀だったろうか。政府で交流してきた写しや、モニター越しに見てきたいろんな本丸の彼らを思い返す。国広の傑作であることを誇り、布で俺とよく似た顔を隠して己を、己だけをみろと烈しく主張する山姥切国広という刀たち。
 俺と張る程度には誇り高かったような気しかしないのだが、これが人と付喪神の感性の違いだろうか。そしてなにより俺が山姥切という名に執着するのは銘や逸話以上に、俺の愛した者たちが伝えてきた名だからだ。どうしたらこの想いがつたわるのか。そもそも主に聞く気はあるのか。

「答えて、長義。山姥切の名をあの子に譲り、あの子を決して偽物と呼ばず、あの子に心から手をついて謝ることができる? 己の態度を悔い改めると誓える? 誓えるなら、私はあなたを己の刀として遇するわ」

 腕を組んで柱にもたれていた大倶利伽羅の金の瞳が俺をじっとみつめている。量られている、俺の拠って立つところを、俺がどうふるまうかを。

「断る。俺が俺であるために、その条件を吞むことはできない」
「そう。ならあなたは離れで謹慎よ。大倶利伽羅、あなたは皆に事の次第を報告して」

 いきなり監禁されることもないし、出陣もさせてくれる。山姥切国広を初期刀として愛する主のもとでの本丸生活としてはかなりのイージーモードだと思っていたが、やはりそうは問屋がおろさぬと見える。
 あの写しはどう受けとるだろうか。あれがこれを主の己への情ゆえとして受け入れるなら、このまま刀解一直線でもおかしくない。修行で主のための傑作となったあいつにとって俺は幾振りもの刀のうちのひとつにすぎない。やはり肩入れは望めない。
 だがそれも上等、古巣では鋼の心を持つ楽観主義者と崇め奉られたこの俺だ。すべての逆境を好機に変えてやるまでのこと。笑みを浮かべて了承の意を伝えようとした時だった。

「俺も離れにいく」
「え?」
「はあ?」

 それは俺と同室にされてからというもの、面倒ごとのラッシュしか喰らっていない刀の一方的な宣言だった。さすが一匹竜王、我が道をゆくという評判は伊達ではない、伊達だけに。いやうまいことを言っている場合ではない。審神者に好き勝手いわれるのは想定内だが、予想外の展開に混乱する。
 これは幻聴か? もしかして俺、自分が考えている以上に傷つき、救いを求めている?  いや、そんなに心が弱いはずはない、本物だし。

「俺も離れで生活するといったんだ。俺を世話役に指名したのはあんただろう」

 オーケイ、どうやら俺の耳はまだ大丈夫みたいだ、頭と心も。

「あんたら、あんまり大口あけると虫が入るぞ。そう幽霊をみたような顔をするな」

 ぶっきらぼうな言葉に胸をおさえる。これが音に聞くゆめじょしをギャップでころす刀……。だが何よりこわいのは、これを受け入れている自分だ。大倶利伽羅はそのヤンキーでスタイリッシュかつクールな外見に反して、少女漫画の王道をバイクで疾走できる類の刀だった。
 無為自然で同室者の心を泥棒しかける、油断ならない前科者でもある。神よ、この刀と俺を同室にしてくれて感謝します。俺はいるとも知れぬロマンスの神様に祈りを捧げた。

***

 なぜ自分が新刃の世話係に指名されたのか、大倶利伽羅はよく理解していた。本丸に来たばかりの刀には、顔見知りや刀派の近しいものと寝起きさせて本丸に馴染ませる。それが審神者のやり方だった。
 山姥切長義の場合は多少なりとも刀派のつながりのある長船や備前の刀たちや、北条家で所縁があった江雪、徳川美術館で一緒だったという鯰尾や後藤がそれに当たる。彼らも含め、当然その面子のうちの誰かが選ばれると思っていた本丸のものたちは主の決定に驚愕した。誰かの世話どころか、ひとり静かに過ごすことを呼吸のように必要とする己に面識もない新刃と寝起きする役を与えるとは、と。

「あの刀は政府から派遣されたんだよ。冷静に敵か味方か判断できる刀にそばにいてほしい。流されるだけの情をもっているような縁のある刀じゃ困るの。大倶利伽羅、戦場で刃をふるうだけが戦じゃないでしょ。あの刀に不審な点がないか、本丸に迎え入れても大丈夫か、見定めて」

 この本丸の刀たちは大倶利伽羅も含め、政府に良い印象を持っていない。主はなかば恫喝されるかたちで審神者になったという。監査官としての長義の態度は政府への、そして彼本人への警戒心を引き上げた。だがそれ以上に、初期刀を偽物と呼ばれたときの審神者の目を、大倶利伽羅は覚えていた。
 堀川の苛立ちに呼応する新選組に、修行で自信を手に入れたものの主だけを見つめ、周囲の軋轢にはどこか無頓着な初期刀。山姥切国広を慰め、その不安に寄り添ってきた乱、五虎退、秋田といった短刀たちに、本丸の和を乱すものとして彼をマークしたにちがいない長谷部。
  まったくもって面倒きわまりない。縁のある刀たちからはよろしく頼むと念を押され、己の性分を知るものたちにはにやにやと肩を叩かれ、大倶利伽羅の快適なひとり部屋ライフは幕を閉じた。

***

 主の寝室から一番離れた八畳ほどの和室。長義は本体を刀置きに置き、慣れた動作で浴衣に着替えている。浴衣の深い藍の地に映える銀の流水紋をなぞって、黒地に白い綸子 りんずの帯をしゅるりしゅるりと整える丁寧な手つきに、その品が彼にとっていっとう特別であることが知れる。戦装束を畳むと、彼は藍色のバックパックから端末を取り出した。

「それは政府の端末か?」

 審神者が顕現したての刀に事典代わりにまず渡す端末は、もっと大ぶりなもののはず。顔をあげた長義がぱちぱちと目を瞬かせる。

「いや、私物だよ」
「そうか」

 押し入れから布団を出しながら無造作に端末を覗きこむ。長義の白い指がふっと画面をオフにした。あやしい。大倶利伽羅の第六感がそうささやく。

――ッ?!」

 布団を背後からひっかぶせて視界を奪い、その勢いで押し倒す。もがく長義の帯をとらえて刻んだシーツで目、口、手首、足首を縛っていく。端末を起動させると、画面に指のマークと錠のアイコンが現れる。
 白布の枷の強度をよくたしかめてからうつ伏せになっていた囚人をひっくり返し、大倶利伽羅はホームボタンに彼の親指を押しあてた。ぼわんとした光とともに錠がとける。ぽんと浮き出た新たな錠とノイズのマークに舌打ちし、口の縛めを解いて端末を近づける。

……はッ、なにを、」

 クリアだ。そしてまた現れた新たな錠。目のマークが点滅する。このロックのかけ方は尋常ではない。やはりなにかある。即席の猿轡をふたたびしめなおし、目隠しを外す。
 その瞳を認識した端末が一際明るく光り、鍵が開いた。画面に映る何かのメールには緑の単色のカードのような画像が添付されている。あて先は本丸監査部。タイトルには今日の日付がある。
 主の刀となった後も定期的に本丸の内情を密告する、政府からの刀剣。鞘から引き抜いた刃をその白い首筋にひたりとあてて、口の縛めを外してやる。

「なにを企む、政府の狗」
「仮にも政府はお前の主のあるじたる存在。敵のような物言いは心外だ」
「主はかどわかされるようにして審神者になったという。敵意ならともかく、どうして敬意を抱ける」

 ほんのすこしの動きで、この刀はひとの身をとったことを後悔するだろう。本体が折れないかぎり、その地獄からは逃げられない。大倶利伽羅の殺気にこたえて刃の龍が熱を発した。パチパチと金の光が爆ぜる。掛け値なしの大倶利伽羅の殺気を浴びて、その男は嗤った。

「政府への不信を高らかに表明しながら、その政府から与えられた初期刀には無条件の信愛を向ける。ひどい矛盾だと思わないか」
……質問に答えろ、長義。貴様の目的はなんだ」
「山姥切、だ」

 刃をすべらせてやれば薄皮一枚ぶんだけの血の雫が、白い首からつたい落ちた。

「はぐらかすな」
……長義の手になるこの俺、山姥切がその名と刃において誓う。一切の嘘偽りを排し事実のみを語ると」

 夜の海のように凪いでいた藍の瞳が大倶利伽羅の金を映して夜空に変わる。瞳と刀が呼応して、青と銀の光が明滅した。誓約は成った。破られるときはすなわち、この刀が砕け散るとき。

「その代わり、お前も俺の誇りを尊重しろ」

 どうしてそんなことをしてしまったのか、わからない。その目、その声、纏う空気が、邪なものにはみえなくて。そこに踏み込まれるくらいなら折れる、そういう聖域を大倶利伽羅も持っているから。この刀にとってのそうした部分に、触れていることを直感で悟る。
 じりじりとした熱が、ぱちんと一瞬弾けるように。このあやしすぎる新刃の魂を信じてみたい、そんな衝動が勝手に口を動かした。

……廣光が刀、大倶利伽羅がこの刃と魂にかけて誓おう、山姥切長義の誇りを尊重する」

 驚きに目をみはった山姥切は金の燐光が鎮まると、困ったように、だがとてもうれしそうに笑った。

「誓約までしなくてよかったのに。大倶利伽羅、きみ、ひとがよすぎるね」

 両手両足を縛られ、首には刃をつきつけられて、大倶利伽羅の虜囚となり果てた刀がこぼれるような笑みを浮かべる。そのいとけない童のような無邪気さに、喉を撫でられた猫のような声に絶句する。
 気づかぬうちに、自分の足場をみずから溶かした。意図せず結んでしまった縁に、大倶利伽羅は今さら激しく動揺した。

**

 おいおい旦那、嘘だろう。孤高の一匹竜王の名が泣くぜ。いや、端末に気づいたのは彼の第六感があればこそ。見定めるのは、俺がやればいいことだ。天井裏の暗闇で身を潜める薬研は、顔をしかめつつ本体にかけていた指を外した。脇差でも視認できるかという小さな穴から見たものを紫紺の瞳が記録する。
 こうしてみると己をひそかに天井裏に配した一期はさすがだ。隠蔽、偵察は短刀の本領だが、その身はどうしても主や縁の深い刀への愛に引きずられる。それを問題と思うことすら短刀としては異端。
 薬研の本領は状況がそれを必要としたなら異端の役を引き受けられることだった。あのひとがかつて、そうだったように。己が情や立場、ときには主の心も排して、本丸全体を第一に考える。だから兄は、この時この場に俺を選んだ。
 

「黒、赤、黄、緑のカードがあって、俺は黒を除いた三色の中からひとつ選んで、送信するんだ。監査官のときから一日一回」
 
 足首の布をほどく大倶利伽羅に、長義はくすぐったそうに身をよじらせる。さっきまで己を折ろうとしていた相手にあそこまで無防備にふるまえるのは、よほどの役者か、素直な質か。どちらか或いはどちらもか、あとでいち兄の分析を聞く必要があるな。

「この端末は俺の本体と連動していて、俺が消失すると黒いカードが自動送信される。カードの赤は緊急の処置を要する、黄は早急に処置を望む、緑は今すぐの処置は不要、または問題なし。捜査課は俺が送ったカードをもとに、通報や審神者相談室の情報や、さにちゃんやさにったーの噂を集める。彼らの立ち入りと同時に俺が証拠を揃えておくのが理想だけれど、まあこれは審神者や担当職員に問題があった場合だ」

 手首を縛っていた布が抜かれて、ほうと長義が息をつく。それを見つめる大倶利伽羅の瞳から感情を読み取ることは、薬研にはできなかった。さらりと読み取る鶴丸や燭台切が異様なのだ。それにしても長義が誓約してくれて助かった。長義の意図を疑わずに済む。

「黒いカードも大切でね、本丸を調べているあいだに俺が折られたのなら黒確定だし、もし俺にとってだけブラックな審神者なら、試金石として活用する」
「試金石?」

 首を傾げる大倶利伽羅をよそに、長義は自由になった五体をほぐしている。

「つまり、偽物くんが折れたときブラック化しやすい本丸のリストがつくれるんだ。精神的に弱い審神者や、担当との相性やケアに注意がいる本丸もわかる。俺たちが頭をしぼって考えただけあるだろう? 潜在的な瑕疵本丸がわかれば、それだけ現場は楽になる」

 金の瞳と己の紫紺が、きっと同時に見開かれた。首筋に申し訳程度に添えられていた刃が、完全に降ろされる。大倶利伽羅はとうとう刃を納めて、額をおさえた。気持ちはわかるぜ、旦那。俺も頭いてえや。

「大倶利伽羅、頭が痛むのか? もう寝るか」
……あんた、自分が折られることをどう思っているんだ」
「最初はショックだったし、今もかなしい。でも俺たちはいつだって配属を拒めた。選択権は常にあった。第一陣があそこまで折られたのは予想外だったが、今配属されるものは覚悟の上だ。どれだけの同位体が折れたか承知で志願するのだからね。それにたとえ折れても堕ちはしない。俺たちはみな、その情報が活かされると知っている。大倶利伽羅、」

 一切の予備動作なしで長義が大倶利伽羅の本体を弾き飛ばし、首をきめた勢いそのまま彼を畳に組み伏せる。薬研の手が短刀に伸びたそのとき。

「誓ってくれ。今の審神者には一切口外しないと」

 その刀は、囁くように懇願した。

「主を信じてないのか」
「打ち明けられる日が来たらとは思っているが、あの子が俺に、そして政府に敵意しかない今じゃない。どれだけ秘密を念押ししても同期に漏らすものがいる。さにちゃんやさにったーに面白半分で投稿するものがいる。俺はあの子らの仕事を助けたいのであって苦労をふやしたいわけではない。だから誓ってくれ。それがいやなら、」

 褐色の首に絡みついた白い腕は、いかなる緊張もみせない。その瞳に敵意は一切なく、ただそこにある透徹した意志だけが、彼の本気を物語っていた。

「俺と心中してもらう」

 練度の差が天と地でも、生身の肉体はそうではない。まったく警戒を抱かせず、首をきっちりおさえた長義の手腕に薬研は舌を巻く。政府でなんの仕事してたんだ、あんた。

……この刃に誓って、決して主には口外しない。これでいいか」
「ありがとう。心から感謝する」

 こりゃあ、嵐が起こるな。灯りが消され、布団にもぐりこんだふたりの寝息が一定になるのを待ちながら兄への報告を整理する。
 主が初期刀へ向ける強烈な思慕。おそらくそれと表裏一体に存在する、新刃への静かな敵意。本丸内の刀たちの心の機微にはどこか無頓着で、本歌にも大した関心はないそぶりの初期刀。兄弟に対する蔑称にピリピリする堀川に確実に引っぱられるであろう新選組。小田原や徳川美術館で長義と面識のある刀たちと、山姥切国広を励ましてきた古参の刀たちはどう噛み合う?
 たった一振りの新刃が大きな波紋を巻き起こす。試金石とは言い得て妙。たしかにこれは政府が審神者に用意した合戦場だ。歴史を守るために俺たち付喪神に前の主への執着を葬らせた彼女は、果たして歴史を守るために顕現した山姥切長義を受け入れられるか。
  己の四年間の愛着や妄執に振り回されながら、それでも正しい道を選べるのか。俺たちにかくあるべしと望んだようなあり方をあの子はみずから選べるだろうか? ふたりぶんのやすらかな寝息が深夜の静謐を満たすと、薬研はそっと天井裏から脱出した。

眠る草木と、お茶会を
 厨に立つのはすきだ。凛とした弾むような声を思い出すから。炊事に洗濯、繕い物で刀をふるう以外のこの身の扱い方を、さまざまな本や映画でひとの心や関係の複雑さを教えてくれたひとがいた。寝不足と過労でふらふらになりながら、腰の重い上司や傍観者の同僚、彼女を恐れたり軽んじたりする部下に毒づきながら、それでも彼女は笑ってみせた。

 苦しいことやつらいことでじぶんの大鍋がいっぱいになったらね、砂糖や蜂蜜でぐつぐつ煮込んでジャムにするの。ちゃんと飲みこんで栄養にできるように。強くなるってね、植物が光合成するみたいに自分の中で砂糖や蜂蜜をつくれるようになることよ。苦いレモンや酸っぱい柚子も爽やかであまい糧に変えて、まずじぶんをしあわせにする。そしたら燃料切れなんかないから、どこまでだって行けるでしょう?

 彼女のすべての艱難辛苦が、さにぞん、さにちゃん、さにったーという審神者たちのあまい糧に結晶した。神祇部の若きエリートまで巻き込んで結婚式まで突っ走ったお転婆娘は今、どうしているだろう。

***

 黄金に輝く昼下がり、窓から差しこむごきげんな太陽が清流のような冬の冷気をやわらげる。昼餉の後片づけもおわり、ひとのない厨で腕まくりをする。彼女の気に入りが大倶利伽羅の気に入りになるとは、まったく巡り合わせとはふしぎなものだ。
 冷蔵庫を開けて山姥切長義の名が書かれた袋からゆずを出し、さっと洗って水気を切ってヘタを取る。半分に切ってから果汁をカップの上で絞り、種をまとめて取り除く。薄くスライスした柚子を瓶に入れ、砂糖は百二十グラム、蜂蜜は三百六十グラムを、こぼさぬように少しずつ。箸でゆっくりかき混ぜて、甘みを全体に馴染ませる。
 出陣、演練、手合わせといったいくさごとの禁止と離れへの転居を命じられはしたが、蓋を開けてみれば刀を振るえない以外に大きな変化はなかった。蟄居という審神者の当初のニュアンスを大倶利伽羅がしれっと拡大解釈して、書類番や厨番たちのあいだに己を放りこんだためだ。
 既成事実の積み重ねで、本丸のものたちはいつしか山姥切の罰を戦闘の禁止のみと認識するようになった。己と縁のあるものたちや最近やけに視線を感じる初期刀の援護ももちろんあるだろうが、きっかけをつくってくれたのは彼だ。
 大倶利伽羅はあれで、とてつもなく面倒見がいい。ふりしきる雨の中、段ボールに入った子猫と目が合ってしまった心やさしい不良のように。少女漫画のヒロインならほれているところだ、やはり見た目通り危険な男である。無口だけど的を得たやさしさ、乙女が求めるのはこれと昼休みに漫画を振り回して同期に力説していた新人を思う。元気にしているかな、あのひよこたち。
 要するに、初日から縛られて刃を突きつけられたり、こちらはこちらで無理心中を迫ったりといった殺伐としたスタートとは裏腹に俺たちはいまや謎の友好関係を築いていた。そんな大倶利伽羅にさらなる無茶ぶりをかますため、今日も今日とて甘味を作っているのである。ああもちろん、俺の同室に一匹竜王を配してくれた運命の女神よ、あなたへの感謝も忘れていません。

「それ、なんだい?」

 瓶を冷蔵庫に納めようとしたとき、ひょっこり現れたのは鶴丸国永だった。己よりも白みのつよい銀髪に、老成と好奇心が交じり合う琥珀の瞳。へらりとしているのにどこか鋭い笑みに背筋が伸びる。

「柚子茶だよ」
「茶ァ? ジャムじゃあないのか?」

 茶という名がつく所以とジャムとの作り方の違い。どちらを先に説明するか、少し迷ったところに聞きなれた声がして安心する。

「皮の蜂蜜漬けだ。さっぱりした甘さで湯で溶いても紅茶に入れてもうまい」

 大倶利伽羅はためつすがめつそれを眺める鶴丸から瓶を奪うと冷蔵庫にさっと仕舞ってしまう。俺は軽く急須を水洗いし、夜食組のためのパイプ椅子にどっかり座った二振りに緑茶を淹れた。

「大倶利伽羅、おかえり。鶴丸殿も無事でなにより」

 調理台の上を一瞥する竜の刀に、塵さえ照らす太陽の笑みでこたえた。あきれたような大倶利伽羅の視線を感じつつ、小鍋に五百ミリリットルの牛乳と大さじ三杯の蜂蜜を入れ、中火でコトコト温める。

「あんたが俺に甘いものをつくるときはたいがい面倒ごとだ。さっさと吐け」
「おお、見ると聞くとじゃ大違いだなあ。孤高の一匹竜王で通っていた伽羅坊が! 慣れ合うつもりはないとオウムのように繰り返してきた伽羅坊が! きみ、どうやって誑しこんだ?」
「そのふざけたあだ名はやめろ。そして誰がオウムだ、折るぞ」

 ぐつぐつ沸騰する牛乳と蜂蜜がやさしい匂いを連れてくる。弱火にしてからアッサムのティーバックを入れて、はじめて包丁をもった記念にとあのひとがくれた苺のタイマーを三分に設定する。

「ここでは話したくないかな。誰が来るかわからないし」
「俺がいるから、の間違いじゃあないのかい?」

 リリリと鳴ったタイマーに火を止めて、卵と卵黄をボールに入れてよく混ぜる。鍋の中身をボールにあけ、混ぜ合わせて二回す。大きめの鍋にカップを四つ並べて、水深を半分ほどにして火にかける。

……お縄にしたい審神者がいる。俺が演練で折りかけた同位体の本丸だ」
「きみを冷遇しているところだな」
「それ自体は罪じゃないし、そもそも罪状はちがう。いろいろ複雑でね、片手間にできる話じゃない」

 沸騰したら火をとめて、液をそれぞれのカップに流し入れ、アルミホイルでふたをした上から鍋ぶたをして弱火で蒸す。タイマーを十分にセットすると大倶利伽羅がお茶を淹れてくれる。ありがたく一服しているあいだになんと洗い物までしてくれた。惚れそう。

「おいおい伽羅坊、君は一匹狼だろう。いつからスパダリ枠に参戦した?」

 顔を引きつらせる鶴丸が目に入っていないのか、タイマーが鳴るとぱちりと火を止めてくれる。そういうところだぞ、伊達男。今日から大倶利伽羅さんのファンに……いやもうとっくにファンか。余熱のための五分をセットしながら鶴丸を怪訝そうに見つめるスパダリ属性持ち一匹竜王に思わずにやけてしまう。

「なんだそれは?」
「すーぱーだーりんの略、つまり伊達男のちょうすごいやつさ。それにしても絆レベルすごいな……。山姥切長義、きみは一体なにをしたんだい」

 顔は笑っているが目はまったく笑っていないし、疑問形ですらないところもこわい。

「ちょっと初日に押し倒されたり押し倒したりしただけだ」
「待て、伊達男! その言葉選びには悪意がないかな?! 鶴丸殿、そんなに心配なら夜のお茶に招待するから仔細はそこで聞いてくれ」
 
 背中に平安太刀の殺気を感じながら不動の心でカップを冷蔵庫にしまう。己の名が書かれたビニールを上からかぶせている大倶利伽羅をジト目で見つつ俺は洗い物を片づけた。

「これはなんという甘味なんだ?」
「甘味の名よりきみの保護者を気にしてくれ!」

***

 しんしんと降り積もる雪を横目に白いダウンのフードを被る。今夜は特に冷える。鶴丸は音もなく縁側を進んだ。大倶利伽羅が指定したのは、草木も眠る丑三つ時の厨だ。子の刻では夜食をとりにきた連中と遭遇する可能性が上がる。離れで生活する長義、大倶利伽羅はともかく、そこを夜更けに俺が訪れ、密談したと知れてはいらぬ疑心が生まれかねない。
 そういう意味でも小腹が空いて出てきたところをたまたま鉢合わせたといえる厨は都合がよい。引き戸を開けるとストーブで温くなった空気が頰をなでた。厨には黒いとっくりに同色のダウン、カーゴパンツの大倶利伽羅と、紺の浴衣に青いダウンコートの長義がいた。
 燭台切は見守ろうと言うこの新刃に、鶴丸は複雑な感情を抱いている。演練の動画で彼が、彼らがその名にかける想いはわかった。政府とやらが人攫いを生業にしているだけの集団でなかったのは幸いである。
 だが鶴丸が仮にも主と呼ぶ彼女は、長義の所属する組織に本来守られるべき自由を侵された。己が道を選ぶ自由を尊ぶ鶴丸にとっては政府は変わらず得体の知れぬものどもの巣であり、長義への警戒は彼がそこでの日々を誇らかに語ったことでいっそう高まった。
 この本丸の内情を偵察に来たのか。主や仲間に何かをさせようという気か。あれこれ思いを巡らせていたところに、己の座右の銘を投げ捨てた弟分がすっかり馴れ合っているのを目撃して、平静でいられるはずもない。鶴丸はもはや矢も楯もたまらず、強引に約束をとりつけたのだった。

「ようこそ、鶴丸殿。柚子茶なら白湯か紅茶がおすすめだが、なにが飲みたい?」
……紅茶」
「種類は、」
 
 冷蔵庫から昼間のカップと柚子の瓶詰、スプーンを卓に並べた大倶利伽羅がとん、と紅茶の缶を置く。 
 
「そいつに紅茶はわからん。これでいいんだろう?」
「優だよ、大倶利伽羅。ダージリンは柑橘類に合う。プリンはアッサムでつくったから今日は紅茶三昧だ」

 お前にだってわからんだろうとつっこまなくてよかった。桜を散らす長義に、鶴丸は見せつけられているような気がしてならない。ストーブの上でシュンシュンと音をたてる薬缶に笑われているような気さえする。長義は鶴丸のジト目を華麗に受け流し、薬缶を取るとティーポットと三つのカップに湯を注ぐ。ポットの温度をたしかめるように白い指をすべらせてから湯を捨てると、長義は真剣な目で匙の茶葉を計っていた。
 最近やけに親密なふたりの内緒話に押し掛けた身としては、こうも客扱いされると面白くない。くさくさした気分でぶすくれる鶴丸を、大倶利伽羅の金の瞳がとらえた。

「あんたを客扱いしてるんじゃない。今夜は俺とあんたがこいつの客なんだ」

 勢いよく注がれる湯にポットの中で茶葉が踊る。長義はそれをぴたりとフタで封じて、苺のタイマーをいじった。カップの湯を換えた大倶利伽羅が鶴丸を憐れむように見る。

「覚悟しろ。一仕事させられるぞ」

 いやに実感のこもった忠告に、鶴丸はポケットの中でひそやかに端末をタップする。端末の向こうでは長船部屋のふたりが耳を澄ましているはずだ。光忠、無駄な感傷でこのチャンスをふいにするなよ。この鶴丸国永が己のそしてお前のために、この刀の忠心の在り処を、その地金をしっかり引き出してやる。

「苦くてまどろっこしい話には甘味がいちばん。さあ、お茶会議を始めよう」

**

 午前三時の長船部屋。暗闇の中で端末が蛍のように点滅した。

「こんなの、かっこよくないよね……

 ためらう燭台切に小豆が首を傾げる。

「だが、祖はきになっているのだろう? わたしもちょうぎがなにをかんがえているのか、しりたいぞ。ちょうぎはわたしたち、ちきのものとはきょりをおいている。たよってもらうには、たしょうごういんなてでもつかわないと」

 あとで一緒に謝りにゆこう。小豆は端末から伸びるイヤホンを燭台切の左耳に押し込むと、己の右耳にもさした。でも、と言い募ろうとした燭台切の唇に人差し指をあて、やわらかな笑みを浮かべる小豆に暗く傾きがちな思考を切り替え、燭台切は目を閉じる。
 大倶利伽羅を、長義を、そして本丸を心配する己のために間諜まがいのことまでしてくれている鶴丸。その厚意を無駄にはできない。それでも罪悪感をおぼえるのは、燭台切の心のあり方が小豆とはすこしちがうから。小田原で一緒だった長義の力になりたくて、彼の事情を純粋に知りたがっている小豆。
 彼が来てから主は憂い顔がふえた。演練の一件以来、いつも泣き出す寸前のような顔の彼女のことを考えると燭台切は己が山姥切長義をどう思っているのか、思うべきなのか、わからなくなってしまった。己の系譜を多少なりとも継いでいて大倶利伽羅と良好な関係を築いている彼を、この本丸に、主に馴染ませるのは自分の役目のはずなのに、どうすればいいかわからない。
 苦しくて悲しくて、以前の和気あいあいとした本丸を取り戻したくて。この深夜の茶会が山姥切長義という謎を解くヒントを与えてくれると信じて、燭台切は耳を澄ませた。

***

「あんたが余計な考えをめぐらせる前に言っておく。こいつは俺に嘘をつけない」
「それはあれか……その……目と目で通じ合う間柄だというアピール、」
「ちがう」

 目をすがめた大倶利伽羅から長義に視線を移すと、なんと本体に手をかけている。ちょっとしたじゃれ合いだろう。仲間外れがさみしかったのか。訝る鶴丸に長義は背筋を伸ばして一言、

「大倶利伽羅、俺はお前がだいきらいだ」

 言い終わるや否や、じゃりんという音とともに淡い金の光が鎖となってその鞘と鍔を拘束する。呼応するように、大倶利伽羅の本体が青と金の入り混じった燐光を放つ。これは、まさか。

「訂正する。俺は大倶利伽羅がだいすきだ」

 鎖が霧散し光が消える。正真正銘、名と刃にかけて成された誓約。もしあそこで大倶利伽羅が一言、お前は約を違えたといえば、長義の刃は砕けていた。いったいどういう状況下で、そんなクソ重い誓いを立てることになるのか。

「彼がいるかぎり、俺は偽りを語れない。納得してくれたようだから本題に、」
「待てまて」

 いま絶対派手に省略されたエピソードあっただろう。異議ありとぶんぶん手をあげる鶴丸に大倶利伽羅は面倒そうな顔を隠さない。

「それは俺から後で話す。今はこいつがどんな厄介事を抱えこんだのか聞きたい」
……ちゃんと話してもらうからな」

 こくりと肯いた大倶利伽羅にこの場は矛をおさめることを決めて、紅茶のプリンをパクつく。変わった味だが悪くはない、なかなか面白い味だ。
 それぞれのカップに紅茶を注ぎ足すと長義はダウンコートのポケットから紺無地の巾着袋を取り出した。地味だが頑丈そうなつくりのそれの口から出てきたのは、数本の毛髪と使用済みのちり紙が入った袋だった。

「おいきみ、食ってるとこにゴミを出すなんて行儀がよくないぜ」
「失礼した。だがこれは俺の同位体から託されたものでね」

 大倶利伽羅が柚子の瓶を長義にまわし、長義は大倶利伽羅の器にプリンを盛る。すべて無言のうちに行われた動作に、鶴丸は端的に言ってめちゃくちゃ引いた。

「演練場で叩き折ろうとしたあいつだな」

 疑問形ですらない断定に、驚くことなく長義が肯く。なぜわかる、他の同位体かもしれないだろう。以心伝心か、ふたりはズッ友なのか。

「連れていかれた説教部屋であれが政府付きの俺に渡したいものがあると言い出してね」
「まさか、それを狙ってあんな往来で騒ぎを?」

 山姥切長義の特徴として目的のためならどんな騒ぎも巻き起こすというのは、よくよく記憶しておく必要があるな。まったく頭の痛いことだ。大倶利伽羅がそれを瞬時に察知したのは長義の基本的な性格をつかんでいたからだろう。同室になって二か月足らずの知己でもない相手を、あの大倶利伽羅が、理解したいと願ったのだ。
 大倶利伽羅は身内以外をやすやすと懐にいれるような刀ではない。彼にとって大事なのは、どれだけのときをともに過ごしたか。縁のある身内ならともかく本来、新参の長義とより長く過ごした国広なら後者に傾く。本丸で波乱を起こしている長義に深く関われば縁のある鶴丸や燭台切が心配するとわかっている状況で、これほど深入りしていること自体、革命的といってよかった。

「好戦的な俺を釣って喧嘩沙汰に持ちこみ、政府付きの男士と接触する。俺は見事に一本釣りされたわけだ」
「そのゴミが審神者の犯罪の証拠になるのか? 罪状は」
「毛髪に粘膜、剥がれ落ちた皮膚。ここから抽出した審神者の遺伝子と残された犯人のものを照合するんだ。一致すれば黒。あの審神者の容疑は……現世での強姦だ」

 突然の剣呑なワードに、カップを持つ手がぴたりと止まり、鶴丸の思考が長義に戻ってくる。

「そこのきみは、はじめから審神者を調べるために派遣されたのか。……うん? じゃあなんで外部に頼るはめになってるんだ。そういう場合はふつう、連絡手段を持っていくものじゃあないのか」
「端末は配属初日に没収されたそうだ。いきなり身体検査をされて、隠す間もなかったとか」

 罪を自覚しているからこその処置か、それとも政府に隔意があるだけか。

「黒だと思っているんだな」

 大倶利伽羅の問いに長義は答えない。

……配属前に追っていた案件でね、証拠が俺に渡ったのは政府付きの俺の所属がこの件には適さなかったからだ。容疑者の審神者は財務部の高官の息子で、」
「出た、政府高官の息子。どうせ甘やかされていたんだろう」

 審神者新聞の一面を毎週のように飾るあれだ。茶化すように言った鶴丸に、長義はティーカップを置いて威儀を正す。その目にひたりと見据えられ、思わず鶴丸の背筋が伸びる。

「甘やかすどころの騒ぎじゃない。彼は息子が生まれてから一日も家に帰れなかった。過労で病院送りになるものが続出したころで……名家出身でつてもあって有能な彼にみなが頼った。上司も同僚も彼を離さなかった。彼の奮闘で財務部はかたちを成しはじめたが、彼は妻子を犠牲にした。息子が二歳にもならぬうちに離縁だ」

 瞳の青が冴え冴えとした光を放つ。鶴丸はプリンの欠片を飲みこむのも忘れてその青に見入った。

「政府を一枚岩の魔窟のように思っているものもいるが、そんなのは幻想だ。財務部、人事部、監査部は他のすべての部署から目の敵にされ、実戦をこなす特務部は自負が強すぎていつも法務部や司令部、補給部と軋轢を起こす。そして司令部と補給部の仲は源平もかくやだ。万人が万人と争いながらなんとか一つの目的の下にまとまっている呉越同舟の見本市、それこそ政府、俺の古巣の実態だ。政府づきの数多の山姥切の責務は、この放っておくとエゴで殴り合いを始める部署間の緩衝材、そして潤滑油となること」

 ポットに手を伸ばした大倶利伽羅が、長義の空のティーカップに紅茶を注ぐ。微笑んで礼を言ってから長義はつづけた。

「あの俺は実戦部隊の生え抜きでね、政治的配慮を枷の別名と思っているタイプだ。上司の思想は推して知るべし。武人の長が憎き会計屋の長の弱みを握ったらどうするかなんて考えるまでもない。俺と俺に折られかけた同位体で手をついて内密を頼んで、どうにかこれを預かってきた。この件をネタに彼の失脚をねらったり、予算配分で利を得ようとする手合いに知られることなく、これを捜査課に届けたい」

 引き込まれるな、鶴丸国永。お前は理解者として来たんじゃない、裁定者として来たんだ。怒りや悲しみに震えるときこそ、普段は内に秘めている地金が露わになる。笑わせたり喜ばせる必要はない。挑発して負の激情を引き出してやれ。この場合は、長義が今なお心に棲まわせている役人たちが最適だ。

「なかなかの忠犬ぶりだなあ、きみ。もう政府つきでもないのに。その勘定方のお偉いさんとは、よほど親密だったとみえる」

 わざと意味ありげに笑ってやる。大倶利伽羅は静観している。鶴丸の意図を察したのか、あくまでその目は冷静だ。なら彼はすべての悪意から長義を守りたいというような、盲目の庇護欲に突き動かされているわけではないのだ。ひとつ安心材料をみつけた鶴丸の背筋が冷たい殺気に総毛立ち、藍の瞳がじわりと燃える。

「鶴丸国永、お前は一つの本丸の建造、維持管理にいくらかかるか考えたことはあるか? 土地や箱ものは作ってしまえば終わりだが、結界やゲートの管理、霊力や電力の供給や通信環境の維持、資材の支給に審神者の給金。それらの費えは誰がとってくるのか考えたことは?」  

 俺の言葉と、俺の心と、真摯に向き合え。向き合えぬならお前を刺してでもこちらを向かせる。言外ににじみ出る鉄の意志が、引き込まれまいと保っていた鶴丸の距離を粉砕する。
  考えたこともないし、考える必要もないと思っていた。自分たち刀は斬るのが仕事、主に仕えるぶんには、本丸より大きな単位の思考など必要ないと。無意識のうちに培ってきた思考の土台に、この新刃が大水を降らせる。

「財務部だ。彼らが政治家と渡り合い、他の省庁の同業と戦い勝ち取った予算で、本丸や戦線、後方の維持管理に必要なすべての費えが賄われる。その財務部を率いているのが彼なんだ。……主が役人に無体な扱いを受けたことは聞いた。審神者あっての役人だが、不心得な者も中にはいる。本当に残念だ」

 炎のようだと思った瞳が、凪の海のような落ち着きを孕む。そして、天井知らずの空の青に変わった。

「だが、戦とは政治の延長、経済の難問、民意の掌握だ。前線の後ろで政をこなし、算盤の帳尻を合わせ、納税者を説得するために知恵を絞るものたちがいる。そうしたものたちまで、役人風情と一絡げにしてくれるな。息子を野放しにした政府高官などという風評で事務方の大黒柱を倒させはしない」

 本体を差し出すようにして、その刀は深々と頭を下げた。

「鶴丸殿、この山姥切長義、伏してお願い申し上げる。このことはどうか、主には内密にしていただきたい」

 彼の言葉には一つの嘘偽りもない。その刃が砕けなかったことが何よりもの証だ。罠でもなければ、内通の誘いなどでもない。それは鶴丸にもよくわかっていた。主が長義に抱く筆舌に尽くし難い感情と、政府に対する問答無用の嫌悪感。理を説かれた彼女がすっかり拗ねて、いきおい有象無象の集うあの掲示板とやらに仔細を書き込んでも鶴丸は驚かない。彼女は主だが、今年でようやく十八を迎えた雛でもあり、山姥切長義の懸念は的を射ていた。頭を下げたままの長義と、こちらを静かに見据える弟分にひとつ息をつき、鶴丸は観念した。

「この鶴丸国永、貴殿の懸念は確かに承知した。いずれ主にすべてを明かすと誓うなら、秘密を守ろう」
「ありがとう、鶴丸殿。この名と刃にかけて誓う」

 少しの茶葉と半分ほどの湯で紅茶をつくった大倶利伽羅が、空になった三つのカップを満たしてゆく。 

「山姥切、夜明けまで時がない。それを飲んだら行け」
……もうそんな時間か。いまさらだけど大倶利伽羅、今回も頼っていいかな?」
「いまさらすぎる。いちいち聞くな」

 長義の頭をぽんぽんする古馴染みに、さてはこいつ伽羅坊の皮をかぶった少女漫画の付喪神ではと馬鹿げた思考がよぎる。
 首をふって紅茶を干したものの、無性にものすごく強いブラックコーヒーが飲みたくなった。あんなもの常飲するやつの気が知れないと思っていたが、きっと日常的に胸焼けに苦しんでいたやつが発明したにちがいない。

かはたれどきに名を刻む
 降りしきる雪はいつのまにかさらりとした粉雪に変わり、夜更けの道行きをすこしだけマシなものにしていた。薄く積もった雪を踏みしめる三人ぶんの足音と呼吸が夜のしじまに響きわたる。演練場や万屋、現世帰還用のゲートとは離れたところに、ひっそりと佇む赤い鳥居。石切丸や山伏がもっぱら利用するそれの向こうにある景色を知ったのは、山姥切が来てからだった。
 闇夜の森にあるときは打刀になった己を感謝せずにはいられない。夜明けまでときがないせいもあるだろう。遠回りをきらって山姥切は獣道をゆく。いつもなら肩を並べる大倶利伽羅だが、今日は太刀の身で同行したがった鶴丸の面倒を見なくてはならない。

「こんな寒い雪の夜に、山に一体なんの用があるんだ、あいつは?!」
……そもそもなんでついてきたんだ」 

 藪をかき分け棘のある野草を払い、夜目の利かぬ太刀のために道をつくる。衣に枝葉やら草やらをつけ、悪態をつきながらついてくる鶴丸が悪態に大倶利伽羅は小さく笑う。もちろん、暗闇で悪路と闘う鶴丸が気づかぬ程度に声は抑えた。
 鶴丸国永は本丸一、好奇心の強い刀だ。謎とみれば手を伸ばさずにはいられず、己を驚かせてくれる何かをいつも探している。山姥切長義を謎としてプレゼントするのに、あの茶会は絶好の機会となった。

「着いたぞ」

 雪に染め上げられた地上でその泉だけが夜空を宿し、星と月とを孕んでいる。この寒さにも凍ることなく、こんこんと水を湧きださせる不思議な泉。山姥切はその前に正座し、深く辞儀をすると一枚またいちまいと衣服を脱ぎはじめる。

「なにをしてるんだあの莫迦! 死ぬぞ!」
「刀は寒さでは折れない。いいから黙れ」

 鞘で殴るぞと脅かして、やっと鶴丸が口をつぐむ。山姥切は畳んだ浴衣をダウンコートで包んで置く。腰帯だけになった彼が泉に足先を踏み入れる。寒さに頬を染め、唇を噛みしめながらそれでも決して歩みは止めない。水面の星が砕け散り、銀の月が乱れてはかたちを取り戻した。
 その深みに腰まで浸して、一礼の後に彼が刀を抜き放つ。朝の予感に弱まる月光で刀身を洗うと息を止め、刀を水に潜らせた。一度目より二度目、二度目より三度目。回を重ねるごとに山姥切の顔は白くなり、指先に抑えきれない震えがにじむ。魂ごと己を凍らせていくようなその行為に、鶴丸の目が驚愕に見開かれた。
 ひとつまた一つと星が沈み、東からにじんだ黄金と茜の光が夜の青を追い立ててゆく。すべての境があいまいになる、かはたれどき。彼は誰れと問わずにはいられぬ薄闇と、夜にも朝にも属さぬ世界の揺らぎの中で、山姥切の刀が、身体が透けてゆく。

――んぐッ?!」

 泉に突っこもうとした鶴丸を取りおさえながら大倶利伽羅は微笑んだ。そうだ、もっと肩入れしろ。謂れなき非難を受けたとき。不遇な扱いを受けたとき。本丸の安寧も本刃の意思も顧みず、主に全身全霊で抗議するような兄弟刀を今のあいつは持たない。
 水底に沈む彼を引き上げたあの日、大倶利伽羅は誓ったのだ。兄弟刀を未だ本丸に持たぬ彼の、かりそめの兄となることを。主の敵意で鈍くなる刃を、揺らぎつづけるその存在を極寒の泉で祓い清める彼を見て、お前は誰だと問いかける世界に夜ごと名乗りを上げつづける彼を見て、大倶利伽羅はあきらめた。

「俺は、山姥切長義。備前長船の刀工、長義作の刀」

 この刀に深入りしないよう、努めることをあきらめた。

「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」

 透けていた刃が腕が指先が、ゆっくりと、だが着実に色を取り戻してゆく。太陽が月から空を奪還する。

「どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ」

 夜の底が抜けきったそのとき、山姥切はまったき姿を取り戻した。すこし前まで透き通っていたことなど嘘のように。ものも言えずにいる鶴丸を落とせたかまではまだわからない。だが、結構いい線まで行ったはずだ。
 鶴丸国永、あんたはこいつに肩入れする俺ごと、山姥切長義を受け入れることになるだろう。天に星、地に花、人に愛。人が愛で、尊ぶべきものを並べた言葉。では男士が至上と戴くべきは何か? 
  それは誇りだと大倶利伽羅は思う。誰にも侵させぬ矜持、踏みつけられても挫けぬ意気、それを支える己が本分への確信こそ、刀に冴えた光を宿す。山姥切長義は美しい。誰にも否定できぬその事実を、主に心の底からわからせる方法を大倶利伽羅は考え、探しつづけている。

「帰るぞ、山姥切」 

 お前がたしかな居場所を本丸につくるまで、俺の隣にいればいい。ふらふらと布団のある離れを目指そうとする山姥切を湯殿に誘導する。目の端に見え隠れする見覚えのある襤褸布、こちらを見つめる緑の瞳を目だけで制した。
 悪いな、国広。今のこいつにお前に構う元気はない。出直してくれ。お前が山姥切に関心を持ってくれたのはうれしい。だが、お前の自分探しに付き合う義理も余裕も、いまの彼にはないと知れ。


孤独のあかつき

 夕空が宵へと落下する。東の端から夜空がぬりかえられてゆく。この本丸で、幾度の黄昏とあかつきを迎えたことだろう。
 ひたすら星を眺めるのもすきだった。劣等感に苛まれたとき。ただ息がつまったとき。大きな失敗をしたとき。兄弟の寝息とともに部屋を抜け出し、音もなく屋根に登った。布をかぶって本丸中を相手に逃げ回ってきたのだ。隠蔽と偵察では短刀にもひけをとらない自信がある。
 心乱れると屋根の上でひとり夜明けを待った。兄弟も知らない俺だけの聖域。修行を終え、迷いを吹っ切った己にはもう不要と思っていた避難所で本歌のこと、主のことを考える。
 旅人に、船乗りに道を示してくれるという北辰の星を振り仰ぐ。戯れに手を伸ばしてみて似ていると思った。どこまでも孤高で、己はぶれずに周囲の星を回転させる、あの演練の日から俺の世界を揺さぶりつづける彼と。
 どうしても近づきたい。手を伸ばさずにはいられない。つめたい冬の夜風も雪も、思考回路を酷使するせいでオーバーヒート気味の頭を冷やしてはくれなかった。この衝動がなんなのか、彼と言葉を交わせばわかるのではと期待していた。この熱くて、痛くて、苦くて甘い感情を御す術も彼と情を育みながら学んでゆけたらと。この想いを、心を、彼にどうしても知ってほしかった。

✳︎

 離れで謹慎する本歌に話をしようと日参しては冷厳な金の双眸に見据えられる。厨番、書類番、内番をこなす彼のそばに行こうとすると、いつも傍らの大倶利伽羅に目で接触を禁じられた。

「どうして本歌と話をさせてくれないんだ」

 言葉を交わさなければ、わかり合うことはできない。ただただ、知ってほしかったのだ。彼を尊敬していること。初めて写しである己の出自を、自分と彼をつなぐ縁としてうれしく思えたこと。新しい世界がひとつ目の前で誕生したような、あのときの衝撃。つたないながらに言葉を尽くしても、大倶利伽羅は首を振った。

「お前が話すべきは、あいつじゃなくて主だ。主のそばで主と語らい、そこで己の答えを見つけろ。今のお前の心のまどいに、その生まれたての願望に、山姥切を付き合わせるな」

 どうして主と向き合うことで本歌への感情の答えを見つけることができるのか。納得はいかなかったが、それでも彼に頼られ、敬愛される大倶利伽羅に異を唱えることはできなかった。

✳︎

 山姥切の謹慎も二週間になる。同田貫や御手杵が演練で羽目を外して設備を破壊したときは三日だったことを考えると、いい加減解けていいころだ。書類の整理がひと段落したところで燭台切が差し入れてくれたずんだ餅を皿に盛る。

「主、山姥切の謹慎だが

 急須に伸びた主の手がぴたりと止まる。視線を合わせようとしないのは後ろめたさを感じているからか。代わりに緑茶を淹れて、うろうろする視線をしっかりとらえた。

「さすがに長すぎないか。もう解いていいころだ」
「でも長義は
「山姥切、だ」

 長谷部にそうしたように彼の想いもまた尊重すべきだと何度も諭した。だが、主はなかなか改めてくれない。でもいつか必ずと思っていた。山姥切の強さに、美しさに主がまだ気づけていないなら、俺が教えればいいのだと。

「でもちょ、山姥切は、私の出した条件をまだ守ってない」

 大倶利伽羅が淡々と伝えた条件を思い出して、頭を抱えたくなるのをこらえる。名を俺に譲り、無礼を手をついて謝れと主は本歌に迫ったという。俺への無礼を詰る彼女は、その要求がどれほど不当かわかっていない。

「主、あの演練の動画を見たならわかるだろう。彼があの名にどれだけの想いをかけているか。俺を偽物と呼ぶことにもきっと理由がある。それに
「それに?」

 こんなことを言ったら、変になったと思われるのではないかと躊躇して、思い直す。これまで彼女に心を隠したことはなかったし、これからも隠すつもりはない。顔を上げた主の皿に小さめのずんだ餅をひとつのせた。

「最近では、偽物と呼ばれることにすら、不思議な感慨がある。彼の写しは多くあれど、偽物くんと彼に名指されるのは俺だけだろう?」

 大倶利伽羅に阻まれながら、それでも少しでも近くにいたくて。少し離れたところから、見つめるうちに知った。考え事をするとき、人差し指を唇にあてる癖。大倶利伽羅や縁のある刀にみせる無防備な笑み。真剣になると青みを増す瞳。三日ごとに変わる脇に抱える本のタイトル。刀たちが教えてくれた彼のふるまいや言葉。
 新たな発見をしては主に聞いてもらった。彼女の複雑そうな顔はきっと山姥切の態度を受け入れられていないから。俺を傷つけるひどい刀という先入観のためだと思った。
  だから説きつづけた。傷つくどころか、こんなにも美しく、強く、清い刀との縁をうれしく思っているのだと。彼と戦場をともに駆けたい。こんなふうに彼を閉じこめておいてはいけないと。今日こそ、絶対に主を説得するつもりだった。

……ないの」
「主?」

 ふたたびうつむいてしまった顔を覗きこんで、息がとまる。大粒の涙が、ボロボロと焦げ茶の瞳からこぼれ落ちる。

「あの刀を、受け入れら、れない、の。事情がある……とか、ないとか、関係、ない。どうしても、いや、苦しい、つらい……どう、しよう、もない……!」

 まちがってるのはわかってる。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、嗚咽で声をつまらせながら、主は言った。

「あの刀を受け入れ、るのは……私の四年、間を、あなたへの、愛着を……否定する、ことなの。彼にね、私、あなたへの愛を……蔑ろに、されてる、ように感じて……

 過呼吸の兆候に抱きしめて背をなでる。冬場は特に、すぐ冷えきってしまう指先をあたためた。主がこんなに泣いたのは初陣の傷を抱えて過ごした、あの一ヶ月以来だった。
 家族や友を想う泣き顔が今と重なる。わけがわからなかった。これだけの数の刀がいるのだ。折り合いの悪いものとている。それでも主は今までそこに介入したことはなかった。
 俺が、初期刀だからか? それだけ大事に想われているということなのか? 俺への愛着ゆえに苦しむ主に、どんな感情を抱いているのか、抱けばいいのかわからない。
 主の刀になると誓った。四年のときを彼女と過ごした。守り、支え、愛され、愛してきた。だが、この心をどうすればいい。彼のあり方を美しいと感じる。ふれたいと思う。偽物くん、と呼ばれるだけで頰が熱くなる。なにより、戦場で不敵にかがやくあの瞳をもう一度見たい。嵐のように荒れ狂い、叫ぶ心を俺はどうするべきなんだ、主。

「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい山姥切!」 

 腕の中で細い身体が震え、主の涙が肩を濡らす。彼女はいつも歯をくいしばるようにして泣く。己の無力を恨むように。彼女を涙させるすべてのものから守ろうと思った夜があった。四年かけて積み重ねてきた思い出たちがよみがえる。
 その背に添えた己の手に、ぼたぼたと雫が落ちる。目に手をやって、はじめてそれが己の涙なのだと気づいた。どうしようもなく叫びたかった。主が謝るのは俺にであって山姥切にではない。そのことがこんなにも苦しく、つらく、痛く、悲しい。廊下から差しこむささやかな陽光が夕暮れの予感にその色を変えるまで、俺たちは抱き合って泣いた。

ж

 あの演練から本歌への感情は熱を増す一方で、主の言葉を思い返しては部屋で頭を抱える日々が続いていた。いい加減にしないと戦闘にも支障が出る。重くなる頭と身体を抑えつけ、何事もなかったかのように夕餉をとり、布団の中でひたすら夜が深まるのを待つ。
 以前のように、音ひとつ立てずに屋根を登る。極めてからは頼らなくなった避難所に久方ぶりに逃げこんで、夜の青が深まるのをただ眺める。
 あの刀の瞳を思わせる、深い瑠璃紺の空。あの刀の髪のような銀の月。そして、あの刀とよく似た、孤高の北辰。俺のすべての迷いと懊悩を打ち明けたら、彼はなんと言うだろう。目を腕で覆ったそのとき。

「こんな極寒の夜更けに山とかあれか、遭難ごっこか? 遊びのつもりがうっかり本番入って、眠るな死ぬぞとかやりたいのか? チョコの欠片を分け合ったり、素肌で温め合ってるところを、救出されたりしたいわけか?」
……あんたが寒さに死ぬほど弱くて、発狂予防でしゃべっているのはわかっている。だが、ついてこいと頼んだ覚えはない。あまり騒ぐなら殴る」
「鶴丸殿、俺のマフラーでよければ使うかな?」

 今なにより聞きたいと望む刀の声だった。屋根の上の物音は警戒を呼ぶ。瞬時に冷えた頭が身体に、もっとも音の出ない姿勢と呼吸のリズムを命じる。

「結構だ。きみの格好も大概だぞ。浴衣一枚にダウンコートなんて」
「この方が脱ぎやすいからね」
「脱ぐ?! あだっ」
「次は鞘で殴る。山姥切、お前は先に行け」

 山というのはきっと、兄弟や石切丸が使うあの鳥居の向こうのことだ。こんな寒い夜更けに、しかも脱ぐ?

「悪いね、鶴丸殿。お先に」

 青いマフラーを鶴丸の首に巻いて、山姥切が闇に消える。追わないという選択肢はなかった。

**

 外気にふれている頬が、ばりばりと痛むほどの寒い夜更け。泉を囲む巨木の陰で息をひそめる。
 視界の先では朝起きたら顔を洗うような自然さで、本歌が衣服を脱いでたたんでいる。極寒の、それも寅の刻に顔を青ざめさせながらそのつま先を泉に浸して、山姥切が歩みを進める。右腕を押さえつけている左手も、わずかな震えを隠せていないというのに。
 静かに見守る大倶利伽羅がわからない。刀とて今は人の身、風邪も引けば熱も出す。本体が折れなければ、死なないというだけだ。あまりにも外傷がひどければ、本体に跳ね返ることもある。
 腰まで泉に浸かりきった山姥切に、ぞわりと背筋を悪寒が襲った。凍傷になれば本体にヒビが入ることも十分ありえる。この奇行を終わらせ、早急に彼の身体をあたためなくては。彼らがやらないなら俺がやる。心を決めて一歩踏み出そうとしたとき、金の瞳に射抜かれる。大倶利伽羅がいつも俺を制するときに使う目。
 でも今は彼の身に関わることだ。あんたが己を危うくする本歌を止められないなら、俺も従う義理はない。にらみ返そうとして、刀が水をくぐる音に硬直した。幾度となく刃を水に沈めながら、透き通っていく山姥切の身体に叫ぶことはおろか、動くことすらできなくて。

「俺は、備前長船の刀工、長義作の刀」

 腕を組んで見ている大倶利伽羅に、山姥切は微笑んだ。其処にいてくれるのが心底うれしいというように。

「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」

 東の果てから太陽が夜空の陣地を奪ってゆく。それに合わせるように半透明だった彼の身体が、ひたひたと色を取り戻す。

「どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ」

 呆然としていた鶴丸が、泉からあがった山姥切に光の速さで服を着せ、二本のマフラーでぐるぐる巻きにする。大倶利伽羅が己のポケットに山姥切の右手を入れたのをみて、鶴丸が彼の左手をポケットにつっこむ。
 疑問と驚愕と恐怖で、頭がおかしくなりそうだった。いつから、なぜこんなことを? どうしても本歌の口から聞きたくて、本丸の廊下で隠れることなく様子をうかがう俺を、大倶利伽羅がぴしりと見据えた。
 低温のまなざしに非難の色はない。ああ気づいたか。だがお前の懊悩に付き合う義理も暇も今のこいつにはない。わかるな? そんな声が聞こえるようで。山姥切が配属されてから、ずっと彼とともにあった刀。もし俺が世話係に選ばれていたらなんて詮無い仮定が、存在しないありえた今が、匕首を飲んだように胸を裂く。

「どうしたんだい、国広の」

 廊下で立ちすくむ俺を見つけたのは、朝一番に本丸中を清めることを日課にしている石切丸だった。がらんとした大広間で彼が薬缶を火鉢にかける。朝、昼、晩に白湯で心と身体の不浄を流すと悪いものに憑かれにくくなるからね。布をかぶって俯いていたあの頃、そう言ってよく茶碗を差し出してくれた。ちょうど今のように。
 どこか清らかな気配をまとう白湯で喉を潤し、梅が咲いたとか紅葉が終わったとか、楽しげに語る彼の声を聞くのはつらくなかった。

「山姥切が……泉で、透けて、あれはなんだ、石切丸? いつから、どうしてあんな、」
「ああ、見たんだね」
「知ってたのか」

 まあ飲みなさいとすすめられて口をつける。

「彼が来て一週間くらいか。泉で禊をしてもいいかと聞かれた。古株の私を慮って伺いを立ててくれたんだ。この寒いのに感心な刀だと思っていたら、あるとき大倶利伽羅が血相を変えて飛びこんできた。泉で山姥切が倒れたとね。詳しく様子を聞いて、それが私の考えていた禊とはまったく異なるものだとわかった」

 一週間、俺や多くの刀たちが本歌をなんの考えもなく長義と呼んでいたころだ。茶碗を持つ手に力が入るのを、石切丸の指がやさしく叩いた。

「今はだいぶ楽になったはずだよ。主はともかく、多くの刀たちが彼を山姥切として認識し始めた。きみあっての彼ではなく、彼がきみのルーツなのだと。あれはね、主や本丸のみなの認識で揺らぐ己の存在を、此処に刻みつけるための儀式なんだ」

 泉で倒れた。大倶利伽羅が飛びこんできて。心に突きつけられた刃を一ミリずつ押しこまれているような心地だった。

「すべての境が曖昧になるたそがれどきや、かはたれどきは、彼の存在は不安定になる。それを利用して己に向けられる猜疑や敵意を祓い、極限まで存在を希薄にしたら、夜明けを告げる太陽に乗じて一気に世界に名乗りをあげる。よく考えられた手だ。欠かさず百度を踏めたなら、そう存在がゆらぐこともなくなる」

 俺が彼に強烈な関心を抱いたのはあの演練からだった。それまで幾度の極寒の夜明けを彼は越えてきたのだろう。本歌、本歌と話しかけるようになった俺を不思議そうに見た山姥切。大倶利伽羅のあきれたような、なんともいえない表情が脳裏を過る。

「泉で、倒れたというのは
「無理が祟ったんだね。練度も低いのに、出されるのはいつも高難度の戦場だった。縁のある刀たちが必ず出陣前にお守りを渡していたから、心配はしていなかったけれど」

 石切丸の青みがかった紫の瞳がやさしく細められて、泣きたくなる。主は新刃を出陣させるときは、慎重すぎるくらいの戦場から始めてきた。彼女の常とは異なるふるまいに、気づけなかった。
 山姥切を迎えるのにあたって俺たちは少し無神経だったなんて、よくほざけたものだ。あの演練で審神者が本歌を詰るのを静観していた俺と、この俺の、なにが違うというのだろう。
 無自覚で無関心を貫きながら興味を持った途端に、同じ熱量を相手に求めた。なんという、お笑い草。今ならあの二振りの表情の意味がわかる。山姥切は俺のてのひら返しを訝り、彼を支えてきた大倶利伽羅は俺の無頓着なふるまいにあきれたのだ。

……倒れて、その後どうなったんだ」
「湯船に彼を沈めてから、布団と毛布に埋めてきたというから様子をみせてもらって、知りえたことを説明した。より効果的な禊のための助言や、少し監修めいたこともね。山姥切の回復を助けたのは大倶利伽羅だ。とっつきにくいようにみえて、なかなか情に篤い。彼はね、あの泉に入ったよ」

 胸元をぎゅっと握りしめる俺に彼はきっと気づいている。それでも話をつづけてくれるのは俺が聞きたいと願っているから。悠久の彼方を見晴るかすような、今紫の瞳が細められる。

「腰帯一枚になって、あの冷たい泉に潜った。額を合わせて、瞳を見つめて、名乗りをしあい、呼びかけ合った。世界に口上をあげることも大事だが、やはり名は誰かに呼ばれてこそ。あの夜の積み重ねで、大倶利伽羅は彼を此処にとどめる楔となった。こころよく、うるわしい光景だった」

 ぽたぽたと涙が白湯に落ちてはとける。修行前とてこんなに泣いたことはなかった。俺は壊れてしまったのだろうか。極めてからはずっと心は安らかだった。あの演練の日、天上の青に灼かれるまでは。
 石切丸が手巾をそっと渡してくれる。いとけないものをみるような目で。

「己にはどうにもできぬことを考えつづけるのはやめだと、主の刀としてあればそれでいいと、やっと楽になれたのに……。どうしてこんなに苦しいんだ、石切丸」
「極めたからとて迷いから解放されるわけではない、国広の。生きるとは修行。ひとは泣いてこの世に生まれ、涙をぬぐいながら生きてゆく。私たち刀とて、ひとの身をもつからには迷い傷つくも道理」

 大きな手が、俺の乱れた髪を整える。仕方のない子だ、そんな笑みを浮かべて。

「怒りや哀しみを引き受けるからこそ、喜びや楽しみがある。きみの苦悩には苦しむだけの実がある。それを、忘れてはいけないよ」

 顔を覆ってうずくまる俺を、彼がするすると白布で覆う。

「どうしようもなく吐き出したい想いがあるなら三条部屋へおいで。間違っても彼にぶつけてはいけない。それはきみが己に問うべきことだ」

 動けるようになるまで、石切丸は襖の前で何も言わずに番をしてくれた。

狼たちの夜
 疑問と驚愕でぐるぐるしているだろう初期刀を目で威圧し、山姥切の手をひいて湯殿に誘う。湯船から出させた手のひらを握って、じわりと温かくなるまで待つ。頃合いになったところで彼を引き上げ、持ちこんだタオルで身体を拭った。
 脱衣場に出ると間髪入れずに衣服を着せる。体力と気力を使い果たしたいまの山姥切に何かを気にする余裕はない。大倶利伽羅が介入する前は這うようにして布団に辿り着くのが精一杯だった。
 己が心の安寧のために彼に限界以上を求めるのだから、そのぶん世話を引き受ける。大倶利伽羅にとって彼を介助するのは自然なことだった。離れの襖を足で開け、半ば担ぐように連れ帰る。
 コートを脱がせて毛布でくるみ、火鉢の前に座らせた。コート、ヒートテック、カーゴパンツと己の衣服を脱ぎ捨てて、山姥切の浴衣を剥ぐ。素肌にふれた外気に見開かれた藍の瞳が、ようやく大倶利伽羅を認識する。

……いけないことをしている気分だ」
「俺がしたくてあんたが受け入れていることの、いけない道理がないな」

 ぴたりとくっつけた布団の上には虎の毛皮が敷かれている。鶴丸が衝動買いのすえに大きさが半端で不便だと押しつけてきたそれは、二組の布団を上から覆うのにちょうどよかった。
 毛布を解いて彼を転がすと、毛並みにくすぐったそうにむずがるのがおかしい。大倶利伽羅は毛布や掛布を幾重にもかぶると、ゆっくりと額を合わせる。

「山姥切」

 ゆるゆるともやがかかっていた青藍の瞳が、その青みを増してゆく。覚醒が近づく。

「きみたち、湯たんぽだのカイロだのを持ってきた、ぞ……

 毛布や魔法瓶を抱えた鶴丸が足で襖を開けて、完全にフリーズした。

「どうだ、驚いたか?」

 ちょっとした悪戯心で山姥切の項に鼻をすりつけて、彼の常套句を返してみた。鶴丸は金魚のように口をパクパクさせている。
 今日だけで相当の驚きを鶴丸の刃生に提供している俺、かなりの功徳を積んでいるなとひとり満足していると腕の中でまどろんでいた山姥切が騒がしくなった気配に覚醒し、顔を引きつらせた。

「鶴丸殿、誤解だ」

 年中無休で驚きを探してきらめく琥珀の瞳が死んでいる。彼は抱えていた布袋をそっと降ろすと静かに踵を返そうとした。だが山姥切も然るもので大倶利伽羅の腕から駆け出ると捨て身で抱き着き、伊達の刀を御用にした。まったく、せっかく風呂で温めたというのに。
 襖を閉めて鶴丸に目だけで座るよう促す。苦虫を噛み潰したような顔だが、腰帯一枚の山姥切が追ってきた時の地獄絵図を想像したのだろう、大人しく胡坐をかいた。大倶利伽羅はすこし冷えてしまった山姥切の身体をふたたび腕の中におさめ、自分ごと毛布でくるむ。

「俺のことは気にするな、山姥切。正直、伽羅坊とそういう仲になるなら、俺や光忠に挨拶があってもいいんじゃないかとは思うが解釈違いすぎて馴れ初めを聞くだけで心が死にそうだし、妹背のあいだに割りこむなんて無粋は伊達男の誇りにかけてしない。では末永く、」

 左手で額をおさえ、目をそらしつつ右手を前に突き出し、ノーモア古馴染みの色恋沙汰の拡大フォントを背負う鶴丸に、もう我慢できなかった。

「はは、あんた、顔、もう無理だ、ふははっ」
「何がおかしい、この名実ともにスパダリ野郎」

 首筋でくすくす笑う大倶利伽羅に山姥切が身をよじる。それでも、どうしようもない。一期と組んで科学実験の反応動画をつくられたときのリベンジだ。過酸化水素水に血液を落としたり、リチウムを燃焼させて、俺の反応を本丸内で配信した罪は重い。

……俺のことは三十七度五分の毛布と思え」
「はあ?」
「大倶利伽羅がそう言ったんだよ、鶴丸殿。狼が気まぐれでひとの子を育てたりするだろう? 俺たちの関係はきっとそちらに近い」

***

 いつのまにやらできた、顕現当初に平熱を計って主に申告する習慣。彼女は親しい刀のあいだでその数値を共有させ、不調を隠しがちな新刃を体温計を以て休ませた。案の定というべきか、山姥切にはそうした配慮はされなかった。
 最初こそ本歌と距離を置こうとしていた大倶利伽羅だが、もとより他の男士との接触で感じるそれよりかなり低い気はしていたし、かりそめの兄となるなら知っているべき事柄だ。善は急げと薬研の薬箱から体温計をくすね、書類を裁く手をひととき休めた山姥切のわきの下に放りこんだ。
 目を白黒させる彼を後ろからホールドし、電子音を待つ。バックハグ……といやにぎらぎらした目でつぶやいた乱の言葉の意味はわからなかったが、別段関心もない。ぴいぴいと鳴く体温計を確認すると三十五ちょうどを示していた。
 鶴丸や燭台切の平熱は三十六度くらいで、他の刀もそのあたりが多いと聞く。ただでさえ体温が低い山姥切が、厳寒の夜明けに腰帯一枚で禊をしたいだと? 男士として顕現している以上、人の身を粗雑に扱えば折れることもあるというのに。狂気の沙汰のレベルが一つ上がって大倶利伽羅は眉をひそめる。
  倒れた彼を風呂で温め毛布に埋めても、翌日の顔色があいかわらずだったのは、その身に熱を生みだす力が乏しかったからなのだ。勝手にこいつを温めてくれる身の丈ほどの毛布があればいいのに、と考えてひらめく。毛布がないなら、俺が毛布になればいいのだ。

「大倶利伽羅……?」

 うろたえる彼の浴衣を剥いで、自分も寝巻を脱ぐ。風呂に沈めたばかりだというのに急速に冷えていく彼の青ざめた肌と、己の浅黒い肌を合わせて、その上からすっぽり布団をかぶってしまう。じわじわと温まっていく腕の中の身体に口角があがる。どうやら正解を見つけたようだ。

「俺のことは、三十七度五分の毛布だと思えばいい」

 山姥切はものすごくなにか言いたげだったが、禊で疲れ果てていた身体は正直だ。大倶利伽羅の体温でほどなく眠りに落ちることとなった。額を擦り寄せ名を呼びかけると、彼の存在は色濃くなる。新たな発見に大倶利伽羅は気をよくした。

***

「ありのまま今起こったことを話すぜ。俺は電気ポットもストーブもなく、風通しのよすぎる離れで震えているだろう新刃に、暖をとるものをもってきた。ところが襖を開いたら、居たのは素肌で温め合う妹背。しかも背の君は弟分。むちゃくちゃ複雑だが、彼の選択を尊重すると決め、しかし身内の艶ごとを聞くなぞ御免と去ろうとした。それを阻まれ、死んだ心で馴れ初め話を待っていたら、どうやら交際すらしていない……
「鶴丸殿、胸中はお察しする」

 察せてたまるかァ! そう言いかけて、真正面から涙目でにらんだ山姥切の目に鶴丸は沈黙した。羞恥に染まる頰とは対照的に、その瞳はどこまでも真剣だった。

「鶴丸殿はワイルドライフなる自然番組がすきだと聞いた」
「はあ、よく知ってるな……?」

 大倶利伽羅から聞いたのだろうか。胡座の上に山姥切を座らせて、それを素肌と毛布と布団でラッピングする背後の知己にジャックされそうになる思考と視線を、なんとか瑠璃紺の瞳に固定する。この刀がこういう目をするときは必ず傾聴に値することを言う。それくらいはもう鶴丸にもわかっていた。

「俺たちの関係は外からみたら少女漫画でも、中身はあれと大差ない。最初は驚きもしたが、俺にもそれがわかってきた。もし大倶利伽羅と恋仲なら俺はそれを恥じたりしない。三つ指ついて伊達の皆様方に挨拶申し上げる。彼に惚れている、お許しをいただきたいと。だが俺を助けたことで彼の真意が誤解され、寡黙な彼を弁明で煩わせたとあっては申し訳が立たない。だから鶴丸殿、」

 最良の兄を与えられた弟が、それをひたすら天に感謝するような声だった。そこにあるのは、恋と見まごうほどの熱量の尊敬と感謝と憧れの念。それを面映ゆそうに見つめる、金の瞳のやさしい温度。
 鶴丸や光忠は大倶利伽羅が誤解されぬよう兄貴分として立ち回ったが、二振りが本丸に馴染むのに彼の手はいらなかった。だから弟分としての彼を知ってはいても、兄貴分としての彼は知らなかった。

「あなたの大切な縁刀を、大倶利伽羅を、兄のように慕うことを、お許しいただきたい」

 頭をさげた山姥切に、それを誇らしげにみる大倶利伽羅に、鶴丸は天を仰いで白旗をあげた。鶯丸だってこんな局面で否とは言えないにちがいない。いや、誤魔化すのはよそう。鶴丸自身が、否と言いたくないのだった。

……お前を許す、山姥切。大倶利伽羅が誇れる弟分たれよ」

真夜中のパジャマパーティー
 山姥切があの刀を新参の一振りとしか思っていなかったころがあった。ぎすぎすしていようが、戦場で支障がなければいい。己が近くにいなければ衝突もしないと、彼があの刀を遠ざけていたとき。長義にお守りをあげずとも、最初から難度の高い戦場で連戦させても、山姥切が気づくことはなかった。
 私がそんなことをするわけがないと思っていたのもあるかもしれないが、そこにはたしかな無関心と無頓着があってそんな彼の鈍さに救われていたのだ。今それが刃となって跳ね返る。
 本歌に戦働きを禁じてから山姥切は毎日のように本歌についての新たな発見を私に聞かせた。瞑想を欠かさないこと。変わった甘味をつくること。大倶利伽羅がそばにいると近づくことさえ阻まれること。彼の不在時は小豆や江雪、徳川美術館ゆかりの刀たちのうちの誰かが交流を阻んでくること。
 長義に縁のある刀たちは、私に彼の扱いについて諫言してくることはない。それでも、不用意に一線を越えて、彼らがどう反応するか怖かった。それに彼らは山姥切と長義の交流をブロックすることで、ある意味私の意を汲んでくれているともいえた。
 だがはじめのうちこそ、彼の態度にざわついていた本丸はどんどん長義を受け入れはじめた。私の心を置き去りにして。でも私に長義を受け入れるよう、堂々と迫れるのは彼だけ。

「主、山姥切の謹慎だが

 彼だけが、否彼だからこそ、無邪気なまでに信じられる。熱っぽい瞳で長義の美しさ、強さ、すばらしさを語る。いつか私がわかってくれると確信して。

「最近では偽物と呼ばれることにすら、不思議な感慨がある。彼の写しは多くあれど、偽物くんと彼に名指されるのは俺だけだろう?」

 こんなにも美しくて、透明で純粋な善意でひとの心は砕けるのだという驚き。玉が砕けるなんて美しいものではない。硝子が砕けて、その破片を血だらけになりながら心臓におさめようと飲みこむ。そんな痛みだった。
 あの演練の日から痛みの深さを測ることはやめた。これが上限だと思っても、必ずそれを超える苦しみがやってくるから。
 でも、これほどの絶望を迎え撃つ準備はなかった。涙と嗚咽と鼻水で息ができない。ダムが決壊したようだった。心に澱んだ想いを、憤懣を、情念を喚き散らす私に山姥切が絶句する。私の言葉に混乱しながら、衝撃を受けながら、それでも抱きしめてくれる彼は今ぼろぼろと泣いている。
 声は完全に殺すのに喉が鳴る音だけは抑えられない、彼の泣くときのくせ。恋は罪悪なんて馬鹿みたい。恋は罪深くない、片恋こそが罪なのだ。どんなに醜く汚い行いもねじれた感情の濁流に押し流されて、自分だけの道理になる。この人を手に入れるためなら地獄を往還してもいいと。
 それでも、つらくないわけじゃない。悲しくないわけじゃない。自分がきらいにならないわけじゃない。あなたに恋する私は、こんなにも醜い。

「ごめんね、本当に、ごめん……山姥切……!」

 自分の心を御しきれずに苦しむあなたの気持ちを一番わかっているのは、きっと私だ。その感情の名と実がなにより骨身にしみているのも。それでも教えるわけにはいかない。迷い苦しみ心の痛みにのたうちまわるあなたは私の合わせ鏡でもある。
 毎日、眠りに就く前に祈る。今日も彼が、永久 とわに彼が、あの刀への想いに気づきませんようにと。私を愛してなんて言わない。あなたを偽物と呼び、あなたを冷たく袖にするあの刀以外ならもう誰に恋したってかまわない。だから神様おねがいします。あの日に彼を貫いた黄金の矢を抜き去って。

***

 亥の刻にもなると、三十振り近くの刀たちでさんざめいていた本丸はしっとりとした静けさを孕む。夜は短刀の時間だ。主君の添い寝役の短刀と、障子の前で寝ずの番をする短刀。二振りを彼女が指定し、近侍室の前のボードに名札をかけておく。
 規則正しかったローテーションは本歌の配属から乱れはじめて、最近では初鍛刀の乱とその次にきた秋田が寝ずの番と添い寝役を交代しながら、二日おきに入ることが常態化していた。
 マグボトルに入れたココアと紅茶、さくさくした揚げた芋の包みに、蜜柑を散らした牛乳かん、柚子の皮の蜂蜜漬けの瓶。それらを盆にのせて、部屋の前に着くと、待っていたかのようにすぱんと襖が開いた。

「あれ、 秋田。お菓子、なんだかいつもと感じちがうね? ほら主さん、お菓子も来たし、今夜はパジャマパーティーだよ!」

 乱がパジャマパーティーだというときは、主君の心が不安定なときだ。戸棚のスナック菓子や炭酸飲料を持っていくのはそのとき寝ずの番になった方の役目で、本丸にひとりと三振りしかいなかったころからつづいてきた慣わしだった。
 最初は山姥切をがっかりさせるのが怖いと本音を隠しがちだった彼女。幼い見目の二振りが悩みを聞き出し、必要があれば三振りで相談して主君と向き合う。そういう役割分担で初期の本丸はまわっていた。

「ありがとうね、秋田。うわっフライドポテト! 燭台切はこういうの作らないよね。誰がつくったの?」
「鶴丸さんが食べたいって言ったみたいです。燭台切さんと小豆さんがいて、」
「ああ、鶴丸は好奇心強いもんね。映画かなにかで見たのかな」

 嘘でもないが、真実でもない。厨を訪れた秋田を迎えたのは本丸の台風の目である長義に小豆、燭台切だった。本歌を案じる素振りを隠さぬ小豆はともかく、彼とは距離を置いていた燭台切までいたのには動揺した。
 彼がどこまで本丸の刀を味方につけたのか探るのもあり、会話をするうちにおみやげを持たされたというのが実際のところだ。

「じゃあ電気消すよー」

 乱がマッチを擦ると藤色の蝋燭に火を灯す。ゆらゆらとした灯が周囲をぼうっと浮かび上がらせて、毛布にくるまれるように香りが広がる。主君の母御の気に入りだというラベンダー。

「ではこれより、パジャマパーティーを始めます」

 微笑む目元には涙の跡がある。秋田は長義に邪な意図があるとは思っていない。あるなら、そもそも刀たちが受け入れるはずがない。だからおやつは頂戴した。いま心配なのは山姥切長義の思惑より、彼と相対している主君の心がすこやかにあれるかどうかだった。

……ねえ主さん、恋バナしよ」

 そうっとささやく乱の言葉に、折り畳みの卓を広げる主の腕がぴたりと止まる。肩をぽんぽんと叩けば、ほんのすこしだけ強ばりがほどけた。長義が此処に来てからというもの、彼女の心は安定を欠いている。
 主は初期刀である山姥切を、父のように頼り、兄のように慕い、弟のように守り、息子のように慈しみ、親友のように遇してきた。その想いに恋情がふくまれるのか、ずっとはかりかねていたが、あの演練の動画を見た主の表情に、秋田はすべてを理解した。
 あとは彼女が、秋田の助言を望むかどうか。乱が卓に置いたアルミホイルを開けて、二、三本の芋を主の口にいれてやる。明るい翡翠に金の小さな水玉を散らしたマグに、ココアを注いで渡した。此処にいない彼によく似た色味のマグカップを、彼女の指がなぞる。

「主君、僕いまひとの身があるのが、すごくうれしいんです」
……どうして?」
「主君の心を守るお手伝いをしたいと思えば、こうして言える口がある」

 息子に幽閉されて心を壊した前の主君を想う。なにもせずに帰ることもできたし、門番を叩っ斬る覚悟で屋敷に押し入ることだってできた。刀の身ではありえなかった豊富な選択肢の中から、秋田は紙飛行機を選んだ。

「無理強いはしませんし、主君の判断を尊重します。だから、素直な心で答えてください。あなたの苦痛に近づくことを、それにこの手でふれることを、許してくださいますか」

 業火にあてて冷水にさらし、叩けば叩くほど純度を増して強くなる刀と、ひとの心はちがう。ひとの心は美しい硝子細工だ。荒々しく狡知に長けた武将とて、儚く脆い硝子の心臓をひっそりと胸に隠している。
 ようよう十八を迎えた娘ざかりの主君の心の、どれほどやわく繊細なことか。彼女に教えられたとおりに飛行機を折りながら誓ったのだ。刀でしかなかった秋田は彼の心を守れなかった。だからこそ、ひとの身を得た今生では彼女の心を守りきる。秋田の戦は此処にある。あのときできなかったことを今こそ果たすときだった。

……許します」
「ありがとうございます、主君」

***

 泣きそうな顔で主がうなずいて、乱の胸にじわじわとうれしさがこみあげる。主が秋田に山姥切への恋心を打ち明けなかったのは、彼を疎んじてのことではない。乱は恋物語のひとつとして主と盛り上がることができたが、秋田はちがう。此処にいる一人と二振りにはそれがわかっていた。

 ココアをひとくち、ふたくちと飲んでいく主の肩に綿入れをかける。秋田は主の口にフライドポテトを戯れに放りこみ、くすくすと笑っている。その澄んだ水色の瞳はこと他者の感情に関しては信じられぬほどの洞察力を発揮する。
 陸奥守と新選組の心を来歴から推し量り、構造的な有利不利と干渉によって生まれる全体への正と負の影響を説いて、彼女に陸奥守を陰で支えながらの静観を選ばせたのは秋田だ。
 長曽祢と蜂須賀、日本号と長谷部。衝突の度に構図を絵解きしては主が片方だけに肩入れすることを防いできた。どちらにも素知らぬ顔で接して本心を引き出し、対立する二振りの重なる世界を探りあて、それと気づかせることなく共存を模索させる手腕のやわらかく、さりげないこと。
 山姥切国広への恋心が主の宝で、乱が主とともに泣き笑う親友なら、秋田は主の影だった。この本丸をやさしい見えざる手でまわしてきたのは彼だ。それは秋田がはじめから持っていた力ではなく、願いと研鑚の末に手にした技能。一期が世界の謎に惹かれたように秋田もひとの心の複雑な綾目を理解したいと願っていた。
 心理実験の実録本や心に傷を抱えたものたちの手記、泣けると言われる名作を一通り。ひとが何によって支えられ、また傷つくのかを知ろうとする秋田はどこか必死で痛々しくて、乱や主にできたのはなにも言わずに彼が興味を持ちそうな本をたまに差し入れることくらいだった。
 主のものとされている書庫の一角は実は彼のスペースで、そこには翻訳された外つ国の書籍や、雑多な国籍の受難者たちの手記、伝記がずらりと並んでいる。ルシファー・エフェクト、帰還兵はなぜ自殺するのか、アルジャーノンに花束を。秋田の棚だとみなが知ったら、彼の印象は大きく変わるだろう。
 秋田が山姥切の二振りにいつものように陰から介入しなかったのはそれによって主の心の箍が崩れるのを恐れたから。だが、乱の共感だけではどうにもならない瀬戸際に今の彼女は立っていた。
 端末を取りだしてスピーカーにつなぎ、主のお気に入りというタイトルを人差し指でタップする。御母堂さまが愛用しているというラベンダーの蝋燭に、姉君にすすめられてから気に入りになったという曲を集めたプレイリスト。彼女のこれからの時間がすこしでも楽になるように。
 すべてを見透かす瓶覗 かめのぞきの瞳が乱の心を強くする。主の心を預ける刀は秋田をおいて他にない。修行から帰った秋田を抱きしめて泣いた主。彼女が寝入ったのを確認してその夜、二振りは誓いを立てた。
 この子の心を守ること。敵だけでなく無理解に主を傷つけるものや主が後悔するだろう選択のすべてから彼女を守る。誓いを証明するときだ。

✳︎✳︎

 フライドポテトなるものをつまんでは、口に放って懐かしいとにこにこする主君。彼女くらいの年頃ならきっと好きだよと夜食は見目のよい甘味が常の長船の二振りを説得して、細切りの芋を揚げた長義の表情を知る準備は今の彼女にはできていない。
 なじみ深い音楽に主君の力が少しずつ抜けてゆくのを注意深く見守る。これはもっとも気に入りの曲の一つで、なめらかな異国語の歌詞の意味を乱や秋田は教えてもらったことがあった。

「最初はね、なんてじめじめした刀なのって思ったの」

 一年を分で数えると五十二万と五千六百分になるのだという。九十九のときを過ごした刀たちにとっての一年と、十四歳の主がこの本丸で積み重ねてきた一年の重さはまったくちがう。焦げ茶の瞳が遠くを思うように細められる。

「写しだか本歌だか知らないけど、なんだその目はなんていきなり言われてこの刀怖すぎって。私、女子校育ちで異性には慣れてなかったから」

 華奢な肩に乱が頭をもたせかけ、つまんだポテトを横取りする。彼女は乱に小さなことで甘えられるのがすきだった。女子校時代を思い出すと。
 
「友達や親と引き離されて、意味もわからず刀を選んで、そのまま本丸に放り込まれて。ほんとありえないよ、クソ政府。担当も連絡取れないし。しかもね、最初の出陣のあとこんのすけが消えて、手入れ部屋も鍛刀部屋も使えなくなっちゃったの。私、血まみれの彼のそばでずっと泣いてた。ごめんね、ごめんねって。折れちゃったらどうしよう、復旧して治せても、深い傷が残ったらどうしようって」

 乱や秋田が来る前、主君は初期刀とふたりきりで一ヶ月を過ごした。乱が目を爛々とさせているところをみると大事に秘めてきた思い出だったのだろう。
 ぽろぽろと涙をこぼし始めた彼女に紅茶を淹れ、柚子の蜂蜜漬けを落とす。カップを引き寄せた乱がスプーンで柚子をすくうと、彼女の口に放り込んだ。

「山姥切からしたらめっちゃ痛いのに横でしくしく泣かれて、うっとおしかっただろうね。でも彼、こう言ったの。動けなくなるのは困りものだが、傷痕くらいなら残ってもいい。あんたの俺だと、見分けがつくだろうって」

 なんともいえない顔をした乱の髪をやさしく梳きながら、主君は涙を流しつづける。やさしく、だが力強く歌声が交わり響く。五十二万五千六百分、人生の中の一年を愛で量ってみたらどう? 季節のようにめぐる愛で。
 主君の特に好きなフレーズだからか、大して英語が得手とはいえない秋田も乱もここは自信を持って諳んじることができる。彼女の十八年の人生のうち、審神者として生きてきた四年。その四年のうちの一ヶ月、初期刀とふたりきりの暮らしを思って秋田は瞑目した。

「よく魘されてた、俺は偽物なんかじゃないって。頭をなでながら、折れちゃうかもって不安だった。通信が遮断されてるから食糧も届かない。畑の耕し方もわからない。途方にくれてたら、彼が動くのもつらいはずなのに畑を耕したり、魚をとってきてくれた。血だらけでだよ? 火や薪で料理する方法も教えてくれた」

 乱が牛乳かんをすくって、スプーンを主君の口に持っていく。泣きながら雛のように飲みこむ彼女に微笑みかけた。親から引き離され、外界から遮断された十四の少女。頼みの綱は拗らせてはいるものの美しい青年の付喪神。二人きりで助け合い過ごすうちに恋心が生まれても不思議はない。
 だが、顕現したての彼にとってはどうだろう。己を所詮は写しと卑下するというより、他者が、多くの者が己を写しごときと侮り蔑むと強くつよく信じて、その信仰によって傷つきつづける、顕現したての山姥切国広。己を愛せず苦しむ彼に他者に恋する余力はきっとなかった。

「血で真っ赤に染まった布を、川で洗って帰ってきたら、彼、天使みたいに眠ってた。こっそりおでこにキスしたの。ちっちゃいころ、悪い夢をみないようにってお母さんがしてくれたみたいに。そしたら彼、唸ったの。カッて目を開けて睨んできて、がばって私を抱えて、ぐーぐー寝ちゃった。私さみしくてさみしくて仕方なかったのに、なんか、おかしくって」

 ぶっきらぼうで低い声、ごつごつした指、ちょっとかさついた頰、サファイアなんかより、ずうっと綺麗なみどりの瞳。夢見るよう羅列するあいだも涙が紅茶に飲みこまれてゆく。
 乱が隣で手を握り、秋田は向かいで彼女と瞳を合わせつづける。あなたの心を聞いている、たしかにきちんと届いていると示すために。

「復旧は一ヶ月後だった。サーバーのメンテナンスで、いくつか本丸が時空の狭間に落ちちゃったんだって。新しい担当が一言謝ってそれでおわり。やっとあなたたちを呼べた。そしたら彼、箍が外れたみたいに鬱屈して。どうせ写しにはすぐ興味もなくなるんだろう、なんて。試しに恋愛小説を読ませたらね、こいつらはいつ戦う、刀は出ないのか、なんて言うの。誰かを所有したい、所有されたいって気持ちが、わからなかったんだね」

 緊急事態によって抑圧されてきた山姥切の懊悩は、主君の安全が保障されたことで一気にぶり返したのだろう。彼女の独白はもはや自傷に近かった。話せば話すほど主君は己の初期刀の大きく変わったふるまいに、変えた刀の存在に思いを致さずにはいられない。

「だって山姥切は自分を所有したいってずっと叫んでたんだもん。本歌のおまけじゃない自分がほしいって。私が本歌なんか知らないのもおかまいなし。私の唯一が彼だってことなんか、知ったこっちゃないってかんじで、ひたすら自分の傷に手をつっこんでひっかきまわしてた」

 山姥切国広は山姥切長義という刀そのものを知っているわけではなかった。ただただ、いつも引き合いに出される本歌という概念を恐れ、それを使って周囲が己を不当に評価すると強くつよく信じていた。その信仰めいた呪いは山姥切の意図せざるところで審神者に波及し今、多くの彼の本歌に試練を課している。
 四年かけて彼女の中に育まれた山姥切長義は、山姥切国広のコンプレックスを刺激する刀でしかない。自然と本歌への目は厳しくなる。判定基準はただひとつ、山姥切を傷つけないか。
 偽物くんと呼んだことで彼は試験に落第した。山姥切が本歌に無関心のままならまだよかった。だが愛する初期刀が、彼の苦しみの根幹のように思ってきた刀に、その在り方を鋭く指弾する刀に恋に落ちたとき、彼女が四年かけて築きあげた山姥切国広の像はがたがたと崩れはじめた。
 山姥切のためという大義名分も、初期刀の恋と本歌の不遇に気づいた彼の懊悩によって説得力を失った。新しいティッシュの箱と、柚子の蜂蜜漬けの瓶を乱に手渡す。洗いたてのバスタオルをカラーボックスから出して、左隣から主君の目元をぽんぽんとたたく。

「ふたりきりのときはあんなに頼り甲斐があったのにって思ってから、ああ今度は私の番なんだって、彼を守ろうって思ったの。強制された審神者の道が祝福になった。私、彼が不安になる度に言った。名や逸話なんか関係ない。あなただけが私の山姥切だよって。本歌がきても変わらないよって。私がそう思うんだからそれでいいんだよって……

 繰り返してきた言葉は次第に、主君の枷となり名分となった。山姥切に言い聞かせながら、彼女は自分にも呪いをかけていたのだ。本歌が来ても決してあなたより尊重することはないから。あなたの方を絶対に大切にするから。だから私のあなたへの愛を信じて。言葉には魂が宿る。ひたむきな願いは時に呪いにもなる。
 主君が闘わなければいけないのは、山姥切への執着や恋心だけではない。四年のあいだに培われた理屈抜きの感情が、写しを無碍にする本歌を理解したくないと暴れている。彼女の涙でタオルがしめり、溺れる人のように息を乱す人の背をさする。

「それがだめだったの? ちがう道を選んでたら、彼があの刀に恋しない未来があったの? どうして私が四年かけてどうにかこうにか変えてきたものを、あいつは一瞬で砕けたの? 苦しいよ、乱。痛いよ、秋田。私じゃなくてもいい。あの刀以外なら……

 山姥切国広の世界を己を貫くことで砕いてみせた長義への、押し潰されるような敗北感。呻くようにしてすすり泣く彼女の頭をなでていた乱が突然ぎりりと天井を睨む。主君の背からその肩に手をまわして秋田は目だけで乱を止めた。
 きっと、一期が薬研を天井裏に忍ばせたのだろう。長兄はこの機会をつかって主君を将として研磨するつもりなのだ。情報収集で薬研が気配を悟らせるわけがないから、これは故意。一期の指示によるものだ。お前たちが主を正しく導けぬなら介入するという警告であり、長兄なりの叱咤激励。苦しい、悲しいとうわ言のようにつぶやく主君の頬を手のひらで挟んで額を合わせる。

「つらくて、苦しくて、悲しいんですね。胸が痛んでどうしようもないんですね」
「うん……! うん、そう、なの」
「話してくださって、ほんとうにうれしいです。主君の心の痛みをやわらげる方法を、これからみんなで考えましょう」

 秋田が額を離すのを待っていたように、乱が彼女の肩口に頭をすりつけた。乱は本能で主君の笑顔を引きだす術を知っている。ノートを広げて鉛筆を握る。刀たちのいざこざに主君が惑う度にこうして双方の価値観を絵解きし、本丸内での味方や中立派を整理してきた。
 一人と二振りに捻れ絡まった愛憎の糸。その材質、強度、効能を解明してはじめて、彼女とこの本丸にとっての最適解を探せる。主君と乱に、問題の構造をわかってもらうためには、まずあの二振りの因果を紐解かねばならない。

「なんだかなつかしいな。秋田の講義、久しぶりだね」
「うん……ちょっと怖いけど」

 目を伏せる彼女に笑いかける。ありったけの想いをこめて。僕はあなたを裁かない。あなたの心を侵さない。あなたになにかを強制しない。あなたの瑕疵を責めたりしない。あなたのそばにあるものとして、あなたの心を支えたいだけ。

「主君、これはひとつの僕の見方にすぎません。その上で、聞いてくださいね」

 五十二万と五千六百分もの時間が四度 よたびこの本丸に巡った。初期刀への愛執や恋着はもはや彼女の身体の一部と言っていい。故に耐えられないほど傷つけてはいけない。だが恐れがすぎて話の焦点がぼやけては元も子もない。

「まず、長義さんが山姥切さんに想いを返すことは、絶対にありえないでしょう」

 それが恋だと気づかぬままその熱と衝動にふりまわされ、懊悩する初期刀に心の中だけで謝る。主君の心の安寧のため、なにより秋田のエゴのために、彼には完膚なきまでに玉砕してもらわなければならない。山姥切はともに本丸をまわしてきた古参の仲間で、主君の宝物で、まっすぐでよい刀だけれど。
 それは秋田がとまる理由にはならない。彼は刀で鋼の身だ。恋心が滅多打ちになったところでなまくらに成り下がる道理はない。そこから己で這い上がれぬなら彼に初期刀の実はない。
 主君の苦悩、恋する相手の不遇、刀たちの対立と衝突。すべてを秤にかけてそれでも諦めきれぬというならば山姥切国広は、その恋の価値を身を以って証明する必要がある。修行を終えた一人前の刀の心を、秋田が主君より慮る理由はなかった。


秋田は伯仲の因果を紐解く

 主君の向かいに戻って姿勢を正す。秋田の瞳の色だと、彼女が選んだフリースの上着。チャックで閉じられたポケットには、戦場で分断されたときのために隊長が携帯する、特殊仕様の通信機。
 副隊長用の通信機の前で座しているだろう、堀川部屋の二振りを思う。堀川が新撰組の刀と眠る月曜の宵、衝撃で固まる初期刀のかたわらにあるのは山伏だ。戌の刻には眠り、山で日の出を拝する彼に、今このときを山姥切と迎えてほしいと頼んだのは秋田だった。

**

 暁を告げる空を、銀世界の紅一点たる本丸を眺望できる山の頂き。その断崖に座して日輪にぬかづく山伏にはぴんと張った弓の凛々しさがある。

「よき朝であるな!」
……山伏さん」

 拝礼を終えた山伏が立ち上がり、膝に滲んだ雪を払う。突如起こった烈しい風が、凍れる爪で二振りを襲う。びりびりとした冷たい痛みに思わず顔を腕で庇った、その隙間から見えるすがたに息が詰まる。

科戸しなどの風よ、我が罪と穢れを祓い給え」

 宝冠のひだが風に煽られ、花浅葱の髪が露わになる。山伏が胸元で印を結んだときには秋田は腕を下ろしていた。身を裂く寒風も彼にとっては罪を浄める天つ風。そのあり方が眩しかった。
 身の丈ほどの岩に飛び乗った山伏が、雪を盛大にこそぎ落とす。花咲の翁さながら景気よく雪を撒き散らす彼の刀に、重い心も束の間忘れて秋田は声を上げて笑った。
 こちらに手を伸べる山伏が心得たような笑みを見せる。綺麗な刀だと思う。がっしりとした小麦の腕に躍る、血潮のごとき迦楼羅炎。悪を滅し煩悩を焼く神の火はその純白の手甲をいろどる金糸の意匠にもなっていて、蝶結びの紐とその下に見え隠れする浅葱の手袋は彼の髪を映したような美しさだった。

「ありがとうございます」

 手をとって岩を駆け上がる。腰を下ろした岩肌は雪の名残りに湿っていた。ごつごつとしたおもてをなぜて、此処が己の駆け込み寺となった日に思いを馳せる。
 双方の視点に寄り添わなければ、対立する刀たちの主張の根源には至れない。だが、その過程で秋田の羅針盤は乱れた。衝突する二振りに、己が意見を臆さず誇示する縁刀たち。誰の言い分にも一定の根拠や正当性があるなら、本丸の波紋は何を以て治めればいい?
 夜明け前に起きだしては山桜の枝から空をぼうっと眺める秋田に、手を差し伸べたのは山伏だった。大音声と太陽のごとき明るさに霞みがちだが彼はその身に彫られた不動明王、その慈悲と正義の体現を刃生の目標とする求道者でもある。
 善とは、悪とは、正義とは。手がかりを求め、仏典だけでなく哲学書まで紐解く彼の心に座す、絶対の秤。山伏はあらゆる刀を理解しようと迷路でもがく己の、導きのすばるだった。

「心にかかることがおありのよう。拙僧でよければ、話されるがよい」

 穏やかな声に泣きたくなる。その性質ゆえに主君を深く傷つけようとも、秋田は山姥切国広が大事だ。純粋な怒りのみ抱けたらどんなにいいだろう。それでも彼は本丸の草創期から苦楽をともにした戦友で、主君が想う刀で、深く敬慕する山伏の兄弟刀だった。

「今宵の未明、僕は山姥切を傷つけます。山伏さんには知らせておくべきだと思って」

 赤くなった膝小僧に視線を固定し、一気に吐き出す。目を合わせられないのは秋田の弱さだ。

「彼は言葉を軽んじすぎる。己の善意を信じすぎる。対話とは、己の想いを正確に伝えようとあがき、他者の真意を泥臭く推し量る努力なのに。見当違いの善意や無関心から、些細な言動が刃になることもある。それを、知ってほしいんです」

 仕方ない面もある。現世ではともかく、この本丸に来てからの山姥切国広は他者の言葉に傷つけられた経験がない。己の痛みと闘うのに必死で写しごときと侮るなよと警戒する彼の傷を、敢えてつつく刀はなかった。彼に好意を抱く刀、苦手とする刀、無関心な刀も、等しく彼の苦悩を尊重した。こうすれば楽になれるなどと安易に言うものはなかった。

「以前はそれでもよかったんです。修行前の彼は自問する刀で、その軽率さは己を傷つけても、他者を傷つけはしなかった」

 ひたすら待った。布をかぶらぬ山姥切に遭遇する度、思い悩む主君に彼を変えようとしてはいけないと諭した。苦悩する彼を見るのがつらいからと苦しまぬことを強いてはならない。彼が周囲を信じるまでただひたすらに待つしかない。やさしさとは己が苦痛は脇に置き、他者を支える根性なのだと。
 山姥切国広はようやく懊悩から解き放たれ、他者と対峙する余力を得た。だが今の彼は、撃ち合いの経験もなく銃を操る童子でしかない。手中のそれが武器とも知らずに心のままに撃鉄を引き、それを対話と思っている。

「殻に篭っていた雛は、もはや立派な鷹となった。鷹だけがそれを知らずに、雛のつもりで空を翔けている。秋田殿はそう言いたいのであるな」
「長義さんへの無頓着なふるまいには呆れましたが、彼は鷲です。己に関心のない刀の言動で彼の誇りは砕けない。でも空には強者ばかりじゃない。雲雀のようにちいさく儚いものもいる」

 膝を抱える手がぎりぎりと握り拳になる。沸々と胸に湧きあがる悔しさ、悲しみ、憤りが凍えた身体を熱くする。

「山姥切が彼女を傷つける覚悟で、それでも伝えたいことがあるというなら、咎めません。でも狩りでもないのに小鳥を傷つけ、それに気づかぬような鷹は、その身で道理を知るべきだ……!」

 彼に悪意は欠片もなく、その心根が善良なのはわかっている。だがそれは他者の心を測る努力を省いてよい理由にはならない。此度、主君が受けた悪意なき言葉の弾丸、それはいつかの長義を襲ったものと同根だ。

「僕がするのはただの考察です。写しと本歌の呪われた因果への私見の表明。そこから山姥切への配慮を除くだけで悪意なき言葉がどれほど鋭利な刃になるか、その身と心で感じてもらう」

 大事な兄弟を作為で傷つける己を山伏はきっと許さない。彼がいなければ、秋田は片翼も同じ。今までのように自信を持って主に道を示すことはできなくなる。

「二度と彼が善意と無自覚で主君を傷つけぬよう、刃を扱う丁重さで言葉を扱えるように……!」

 主君に乱、山姥切の顔が浮かぶ。彼らが秋田の意図や行いを知ったらと思うと、闇に灯りもなく取り残される幼子の心地だった。それでも、その結果を引き受けると決めた。

「少なくとも一週間は、彼が本歌に近寄るのをためらうほどの打撃を与えます。ほんのたまゆらでも主君は二振りの進展に思い煩うことなく、己が心と向き合える」
……なるほど。本歌殿は兄弟に恋情どころか好意も抱けぬよしありと言えば、主殿は本歌殿の視点から考えざるを得ぬ。それが狙いであるな?」

 彼の声には温度がなかった。そこにあるのが否定か肯定かなど己に測れるはずもない。秋田はゆっくりと頷き、膝に顔を埋めた。目を瞑り、覚悟を決めろと己を叱る。
 最初は本歌が写しに恋する可能性の検証に過ぎなくともそれを布石に変えてみせる。主君が長義の視点で考えるための布石へと。彼女は本歌が写しを愛するのは、時間の問題と恐れている。四年かけて恋を育て、山姥切の美点を知り尽くす主君は、彼の愛に応えぬものを想像できない。その恐怖だけでも砕きたかった。
 己の傲慢など、彼女がそれを望まぬことなど百も承知。山姥切を傷つけることで秋田が得んとするものは、少女を傷つけた彼に復讐したいがための口実ではないと言えるのか。そんな自問は執務室で万年筆の先を見つめる主君の昏い瞳に吹き飛んだ。猶予はないと心がこの身を急き立てる。
 
「山姥切は通信機で僕と乱、主君の会話を聞く手筈です。子の正刻に電源を入れるように言いました。能うかぎりの言葉で今宵、僕は彼を傷つけます。山伏さん、子の刻ちょうど、必ず彼の側にいてあげてください。今までありがとうございました。僕のこと、許してくれなくて結構です」
「待たれい」

 ぴしりとした声に息をつめる。背負子からなめし革の腕当てを取り、すっくと立ち上る彼に頑なに伏せていた目を上げてしまう。一本歯の高下駄で拍子木のように岩を鳴らして、山伏が左腕を水平に伸ばす。
 雲居まで達するようなその口笛に、空を舞う鷹が美しい声で応じた。朝焼けの名残りがちらほらする天から、鷹が雲路を駆け下りる。歌うような口笛と大きくなる羽ばたきの音。にわかに現れた五色の彩雲、その光の中で一羽が一振りの腕に降り立つ。

「よく来てくれた、ニケ。こちらは拙僧の友、秋田殿である」

 つぶらな黄玉が秋田をみとめて、わずかに首肯する。その翼をなでる山伏の紅蓮の瞳は、湖の深遠を湛えていた。

「ちかごろこの山の地図を作りはじめてな。以前なら踏みこまぬような深みにも入るようになった。そこで怪我をしていたこれを見つけて、それから挨拶を交わす仲である」

 凍っていた表情筋の上をぬるい涙が流れる。彼が己を友と呼ぶ。そのことがこんなにもこの胸を満たす。

……どうしてまた、地図を?」

 修行のルートをすでに確立した山伏がわざわざ地図を作るというのが不思議で、顔をぬぐいながら問う。山伏はやさしく目を細めるだけで秋田の涙にはふれなかった。

「みなが鍛錬しやすいようにという、本歌殿の提案である。戦ごとを禁じられてから、野山を駆けて心身を鍛えておるのだ。微力ながら、拙僧もお手伝いしている次第」
……僕、あのひとのそういうところ、本当にすきだなあ。ニケという名は長義さんが?」
「左様。遥か西方にはアテナなる戦女神がおり、その意に適ったものに随神を遣わす。ニケはその強靭な翼で万里を駆け、もっとも正しく戦ったものに勝利を宣うのだとか。典雅にして力強い、よき名である」

  同意を示すように風切り羽が山伏の腕をなでたそのとき。谷底から起こった風が、雪を天へと吹き飛ばす。翼を広げて気流をとらえ、鷹は遥かな雲間へ消えていった。打ち上げられた雪の欠片が、桜の花弁さながら青空を舞う。

「秋田殿は鷹がいかにして雛を育てるか、知っておるか」

 首を振る秋田の隣に、高下駄を響かせて山伏が戻ってくる。

「親は木の枝で巣をつくり、己が羽毛で寝床をしつらえる。殻を破ったばかりの雛が安らかに眠れるよう親は我が身を血で染めるが、一方では雛の成長に合わせて羽毛を減じ、巣の居心地を悪くしてゆくのである」

 身を低くした山伏が、うつむく秋田を覗き込む。感情によって色味を変える瞳は、ひとを鼓舞する猩々緋しょうじょうひに染まっていた。戦塵にまみれて輝く陣羽織の色だ。

「貴殿が今まで兄弟の心を安んじるためにどれほど心を砕き、立ち回ってくださったかを考えると拙僧、感謝の念に耐えぬ。だが、いま心配りをもっとも必要としているのは主殿であって兄弟ではござらん。秋田殿、己を愛せず苦しんだ以前ならともかく、今の兄弟に羽毛は無用」

 あとからあとから溢れる涙を、山伏がまっさらな手巾でぬぐってくれる。どうしていつもこんなふうに彼は秋田を救えるのだろう。

「発せられた言葉は波風を起こし、成された行為は取り返しがつかぬ。そこに本意は関係ないのだから、げに言行とは恐ろしきものよ。兄弟も巣立った以上は、己が心を血だらけにしても、誰かを守る技量を学ぶべきである。これもまた良き機会。ゆえに拙僧、秋田殿に含むところはひとつもござらぬ」

 肩を抱かれ、秋田は声を殺して泣いた。

山伏国広は静観する
 夜の闇に浸された部屋で、蝋燭の火がしめやかに呼吸する。小さな卓袱台ちゃぶだいに鎮座する、手のひら大の通信機。ボディを飾る幾多の傷は、隊長や副隊長の蛮用に耐えてきた証だ。
 姿勢を正した兄弟は一心に腕時計を見つめている。防水、防塵、防泥その他、山伏には覚えきれぬほどの機能を備えたそれは、自分へのご褒美なる概念を主殿から聞いた兄弟が、顕現一年の記念に購入した初めての高価な品だった。
 張りつめていく背に未明が近いのを悟って立ち上がる。押入れから取り出すのは今朝、蔵から出したばかりの梅酒の瓶だ。手ずから摘んだ青梅で漬けたそれは、兄弟が嗜める数少ない酒類のひとつで、懊悩を内に秘めがちな彼に真情を吐露させる山伏印の特効薬だった。
 兄弟の肩をたたいて安座し、ふたつの湯呑をなみなみと満たせば、馥郁とした香りが広がる。とがめるような翠の瞳に笑いかけた。

「さあさあ、まずは一献。少し力を抜くがよい」
「秋田は真摯に聞いてほしいと……
「いかめしい顔で空を睨めば真摯というわけでもあるまい。器に合わせてかたちを変える水のごとく相手の升に己を容れる、そう努めることこそ真摯さということもある」

 戸惑うように瞳を瞬かせる彼にずい、と湯呑をつきだす。

「僅かの酒は心をやわく無防備にする。そんな心で聞くのがよい話もあるということである」

 観念して杯を干す兄弟の造形は、色味以外は本歌たる山姥切と瓜ふたつ。彼らを似ても似つかぬ二振りにするのは、両者の対照的なあり方、そこから生まれる表情である。兄弟と主殿、迷える二羽を秋田は一石で導くつもりだ。その投石にされる本歌を思い、山伏は苦笑した。

*

 主殿が己に懸想していた、それだけでも兄弟には驚天動地であろう。だがそれが本歌に不遇をもたらし、彼女も恋心を御せずに苦しんでいるとあってはその衝撃はいかほどか。硬直する兄弟の心に執務室から秋田が照準を定める。

『まず、長義さんが山姥切に想いを返すことは、絶対にありえないでしょう。……少し時間を設けますから、理由を考えてみてください。相談は不可、僕が手を鳴らしたらタイムアップです』

「俺が本歌に恋?」

 呆然とつぶやく兄弟の肩をつかんでこちらを向かせる。通信機が伝える沈黙と茶器の音は、秋田が己に与えた猶予だ。迷い子のように揺れる翡翠をしかと見据える。

「その情が恋か否か、拙僧が判じて進ぜよう。兄弟よ、本歌殿と大倶利伽羅が恋仲とならば、いかなる心地ぞ」
「こ、恋仲……

 激痛に耐えるように胸を抑えた手に、乱れた呼吸、心の泉門せんもんを殴打されたものの顔が、すべてのいらえを語っていた。

「兄弟、こんなにも痛くて悲しい、つらくて苦しいものが恋なのか?」

 耳を塞いで膝がしらに頭を埋めるのは布を被っていた頃によく見た、追い詰められたときの癖。今回ばかりはそれを阻んで、青ざめた頰を両手ではさむ。ぱしんという軽快な音に潤んだ瞳が瞬くのをいたわしくは思えど主殿に秋田、そして本歌殿が等しく闘う今、兄弟にその苦から逃避するだけの義が、暇が、名分があろうか。

「恋の苦海へようこそ、兄弟。万葉の昔から老若貴賎の男女が溺れてきた荒海である。おぬしのような武骨者が満身創痍となるも、その痛みに恐懼するも無理からぬこと。然れども、」

 俯こうとする頤をとらえ、目を逸らすことを許さない。山伏にとって兄弟の無知や無頓着は罪にはならねど、守られるべき善性でも、尊い美質でもなかった。彼の身上は他にある。

「苦海で溺れる主殿を千尋ちひろの底に沈めるも、遥かな陸へと奮起させるも、おぬしの言行次第である。それをゆめ忘れるな」

 傷つき、懊悩するはあの二振りも同じ。違うのは彼らは信じる道を選び、その労苦を引き受けると決めた、その一点だ。
 山伏の糾弾を確信し、それを心底恐れながら、意図して兄弟を傷つけると宣言した秋田の瞳の、薄氷うすらひの湖のごとき静けさ。武働きを許される日のために山を駆け、背水の陣で躍りかかる狼を素手で迎え撃った本歌の目に宿る、燃えるような深海。
 二振りの覚悟や矜持が兄弟を傷つけるとて、どうして立腹できようか。押入れからいつかの襤褸布を出し、膝を抱える兄弟を覆う。

「これからが本番であるぞ、兄弟」

 通信機の向こうで、秋田が決然と手を鳴らす。開戦を告げる鏑矢のごとく、山伏の耳はその音をとらえた。

薬研藤四郎は観察する
 薬研は色恋の道にはからきしだが、一期の意を受け、天井裏に潜むうちに分かってきたことがある。恋とは病だ。身も世もなく恋するものに分別を持たせるのは、昼夜の別なく痛苦に苛まれる病人に、冷静で筋目の通った思考をさせようとするようなもの。
 苦しみに悶えるさまは見守る周囲の心を揺さぶり、ときにはその目を曇らせもする。秋田に乱、お前らの心眼はどうだろうな? 薬研の紫苑、その玻璃のごとき透徹が、天井からひとりと二振りを見定める。

「まず、長義さんが山姥切に想いを返すことは、万に一つもありえないでしょう」

 ぴしりと空気を打つ声には、一切の感情が抜け落ちている。言葉を慎重に扱う秋田の常ならぬ断言に何事かを言おうとした大将は口をつぐみ、乱も顔を引きつらせた。秋田の言は薬研にとっては自明の理だ。大将はともかく、乱まで絶句するとは。こりゃ要報告だな。
 薬研の見立てでは、山姥切が今の国広に恋するのは、甲斐の虎が越後の龍に恋するくらいの珍事だ。否、仇敵とはいえ幾たびも戦場で見え、互いの才をその血肉で味わってきた龍虎より望み薄やも。信玄の苦境を塩で救った謙信に対して、国広は彼になんら益をもたらしていないのだから。

「少し時間を設けますから、理由を考えてみてください。相談は不可、僕が手を鳴らしたらタイムアップです」

 長考を始めたひとりと一振りに薬研は懐から帳面を出し、鉛筆を握る。乱や秋田にとって今の薬研は、招きはせぬものの追い出すにも障りがある客といったところ。よって気配や音への気遣いは、大将に気づかれぬ程度で十分。薬研は遠慮なく報告書のひな型をつくり始めた。
 大将が国広に激しく執着する所以にその感情の濃度。政府への敵意の契機となった出来事と、山姥切へのふるまいに罪悪感が見られるか否か。秋田、乱の姿勢も併せて整理してゆく。
 秋田が手を鳴らす音に、薬研は帳面と鉛筆を懐に収めた。ふたたび神経を天井裏の小さな穴、そこから見えるものへと集中させた。

「どうですか、主君。なにか思いつきました?」
……長義は自分の号や逸話を山姥切が奪ったと思ってて、だから山姥切をきらっても、すきになることは絶対ない、とか?」

 その声が宿す、びりびりとした敵愾心。拳は堅く握りしめられ、焦げ茶の瞳は暗く険しい。本丸で見せる、理性に抑えつけられた敵意とは熱がちがう。隠すことなく心を表に出せるのは、二振りならどんな己も受け入れてくれるとわかっているからか。

「でも主さん、山姥切がわざとそうしたわけでもなし、誤解がとけたらきっと関係も変わるよね。秋田がありえないとまで言うかな? 山姥切は口下手だけど強いし……

 たしかに山姥切は強い。だが強みは弱みにもなる。彼が占める書庫の棚には、それがよくあらわれていた。
 世界の体術や護身術の指南書、各国陸軍の格闘教本。甲陽軍鑑、五輪書、孫子といった古典から、戦闘技術の歴史といった比較的最近の本まで網羅するそれは、もはや個人というより兵事の棚。同田貫や御手杵など好戦的な刀の棚と比べても、その一極集中は抜きんでている。
 彼の蔵書で恋愛描写があるのは平家物語くらいというのは、衆目の一致するところだった。歌仙の薦めで源氏物語を繙き、その面前でおやすみ三秒をかましたのは今なお本丸の語り草である。

「そうだよね……かっこよくて、綺麗で、やさしくて……山姥切にひたむきに尽くされたら、長義もいつか、」

 突っ伏する大将に乱の澄んだ青が翳る。そこに秋田がいざり寄った。

「主君、何度でも言いますが、ありえません。いまの長義さんに、山姥切を好く謂れはない」

 噛んで含めるような口調に大将が顔を上げる。乱はそれぞれのカップに紅茶を注ぐと胡乱げに目を細めた。

「あの、俺の名前で顔を売ってってやつ? でも山姥切は、俺は山姥切ってないって言ってたし、長義さんを悪く言ったこともないじゃん」
「乱はあれから、あの動画は見返した?」
「ううん見てない」

 視線をカップに落とした乱が少しずつ紅茶を飲む。声こそ平坦だが、挙措はどこかぎこちない。無意識にせよ、後ろめたさを感じている?

「きちんと見た方がいい。あの動画だけで、長義さんについて多くを知ることができる」

 大将の頰を秋田の手がそっと包む。やわらかな仕草とは裏腹にその水縹には堅固な芯があった。

「主君もです。彼が山姥切を好きになると心配するくらいだから、きちんと見てはいませんね」
「その、見返そうとは、思ったの。でも……どうしても、冷静になれなくて、」

 うろうろと揺れる焦げ茶を秋田はとらえて離さない。緊張に硬くなる背を乱の手がさする。

「長義さんを恋敵だと思うなら、あなたは彼を知るべきです。敵を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ずあやうし。誰の言葉か、主君にはおわかりのはず」
「孫子だよね。山姥切がよく読んでた……

 なるほど。恋に振り回されるものに道を説いても、容れられる見込みは薄い。ならばことの理非はひとまず置いて、その恋心を利用しようというのだろう。いかにも秋田らしいやり方だ。
 国広の初恋が真実、永遠に叶わぬものかどうかなど神のみぞ知る。ありえぬことなど、この世にはなに一つとしてないのだから。さしずめこれは、二振りの因果を本歌の側から考えさせるための、秋田の口実。

「でも、いやなものはいや! 私があいつを知ってなんになるの。山姥切が私に恋してくれる? あの二振りが恋仲になるのを、止められる? そんなのできっこない……ぜんぶ、ぜんぶ無駄なんだ……!」
「主君!」

 錯乱する大将を秋田が鋭く静止する。厳しい声音に臆して揺れる彼女の背を、乱がそっとかき抱いた。

「いいですか、主君。山姥切があなたに恋する確率は低い。しかしゼロではありません。そして今の長義さんの、山姥切への好感度、これは底辺どころかマイナスです」

 額と額をくっつけて、穏やかに、しかし断固たる調子で、秋田は言葉を紡いでゆく。

「とはいえ油断は禁物です。主君が悪手を打つたびに、山姥切には挽回の機がめぐってくる。彼が好機を活かして加点を重ね、マイナスをゼロに、ゼロをプラスにできれば、長義さんの気持ちも変わってゆく……かもしれない。万に一つのそのときこそが、主君、あなたの敗北です」

 そろそろと大将が目を上げる。秋田の落ち着きは月だ。彼女の中で荒れ狂う怒りや悲しみの波を、その引力で静めてゆく。

「主君、勝てずとも敗けぬことは可能です。どうか、僕に局面を解説させてください」

 おずおずと頷く大将の肩に、乱が甘えるように顎を乗せた。それに蕾がほころぶように秋田が笑う。書庫で己を待つ長兄がこの夜をどう捉え、どう動くか。とりあえず、いずれ来る討議の場が荒れるのは間違いない。十中八九その行司を任されるのは己だ。薬研は人知れず嘆息した。

一期一振は思案する
 夜の底に沈む本丸。霙交じりの雨が大地を打ち、やさしく楽を奏でている。細い渡り廊下の終点で、荘重な石造りが一期を迎えた。
 絡みつく蔦の常盤の緑に、丸屋根の頂きで翼を休めるブロンズの梟。主殿の学び舎の礼拝所を参考に歌仙が図面を引いたというこの書蔵を、一期はこよなく愛していた。
 鋼鉄の錠と鎖で閉ざされた檜の扉を前に、上着のポケットを探る。二つの鍵を金属の輪でまとめたそれ。又貸しは禁じられているその束を、当番の小豆は何も聞かずに貸してくれた。薬研の偵察の結果を以て、一期は彼に報いるだろう。山姥切と大倶利伽羅が同室となったあの夜、此処の鍵を預けてくれた江雪にそうしたように。
 鈍色の鍵で錠を開け、扉に絡む鎖を解く。真鍮の鍵を穴に差しこみ、右に三回、左に二回。かちりと歯車が噛み合う。ふかふかの毛氈が足を包み、ひしめく本があまく香った。
 林立する棚の向こうに見え隠れする、無人のカウンター。お世辞にも広いとは言えぬそこに、はじめて本歌を匿ったあの日。誤れる方へと向かう初期刀を素知らぬ顔で送り出した時のことを思い出し、一期はひそやかに笑みを浮かべる。

**

「一期、此処に本歌は来なかったか?」

 戸惑うように左右を見回す初期刀に、本から目を上げる。
 
「つい今しがた、出ていかれたところですな」
「ありがとう。邪魔してすまなかった」 
 
 己が虚言を弄しているとは思いもせず、踵を返す初期刀に、つくづく神意の不思議を感じる。出雲に集いし御方々は、今年の神議かみはかりでいったい何を話されたのか。根っからの武辺の彼をよりによっていま本歌に恋させるなど、源氏物語に呂布をぶち込むがごときてんごう。ご臨席の神々はさぞ聞こし召していらっしゃったに違いない。

「ありがとう、一期殿」

 そのステータスに見合わぬ隠蔽・偵察を披露した山姥切が、安座を解いて頭を下げる。国広の気配を察知し、読みかけの本をうらめしげに見つめる彼を、咄嗟にカウンターの下に引き入れたのは一期だった。

「我ら本の虫には、良書は蜜のようなもの。他人の至福を邪魔するような無粋の徒は、馬に蹴られて然るべきですな」

 冗談めかして言えば山姥切が真剣な顔で頷く。写しの猛攻はそれなりに堪えているらしい。

「あつかましいお願いかもしれないが、このまま此処で読ませてもらえないかな」
「ふむ、彼の再来に備えてですな。客人には少々手狭なれど、歓迎致しましょう」

 固辞する彼に座布団を差し出し、本に没入するのを見届けると、一期は読みさしの頁を開く。一定の速度で文字を追うものの、読書を再開する気はない。考えるのは、あの演練からこれまでの無頓着など嘘のように、話をしようと本歌に迫る初期刀のこと。
 大倶利伽羅や彼の縁刀という防壁の不在と、主殿の寵臣として忙しく立ち働く彼の暇が重なるのは稀だ。ゆえにその二つが揃うと焦りと期待に駆り立てられて、猪のように本歌を追い、拙い言葉で逆鱗に触れてしまう。まったくの悪循環だった。
 昨日はたしか、本はいつでも読めるだろう、たまにはあんたの写しの相手もしてくれ、だったか。まず、山姥切が本をいつでも読める身の上となったのは、国広への非礼を名目に主殿が彼から戦ごとを取り上げたからだ。
 道場に出入りできず、もっぱら山で身体をいじめ抜く彼にとって、読書は憩い。大倶利伽羅や縁刀たちがいるとき本を読まないのは、彼らと交わす言葉を甘露のように味わうためだろう。
 あんたの写し云々は自分たちの縁をうれしく思っているという彼なりのアピールなのだろうが、つい最近まで己にさしたる関心もなく助けてもらった恩があるわけでもない写しの翻意に、本歌はどこまでも無関心だった。
 さもありなん。不幸な事故を望む主殿から本歌を守った刀たち。他の内番を除かれ、ひとり畑を耕す彼を手伝った刀たちや主殿に談判した刀。そのどれにも、いかなる援護のかたちにも、本歌との接触を避けていた国広は不在だった。大倶利伽羅の介入まで山姥切は愛の名の下に暴走する主殿の勘気とほぼ独力で向かい合ってきたのだ。
 美しく配置された漆黒の棚に目をやる。各々の刀紋があしらわれたそれは顕現して三日目の夜、新刃に下賜される餞で三日夜の棚と呼ばれていた。顕現して二ヶ月半ばになっても、彼にそれが与えられる兆しはない。間借りしている大倶利伽羅の棚を慈しむようになでた、彼の淋しげな表情を覚えている。
  誰かの心を知りたいからと、まとわりつくのは童子の真似だ。観察と考察を推論へと編みあげ、対話によって修正する。そのたゆまぬ努力こそ、誰かを知ろうとすることなのだ。それを疎かにして己を知ってもらうことしか頭にない今の初期刀は、母でもない相手に玩具をねだる童を想起させた。どこかで本歌を探し回っているだろう写しに、不義理をしたとは思わない。
 その日、一期は活字の海に耽溺し、知識を愛する同志を見つけた。

**

  夜の闇に同化する、黒漆の棚たちの間を縫うように進んでゆく。棚の側面を懐中電灯で照らして、白抜きされた刀たちの紋を辿るうちに、大倶利伽羅の車輪のごとき紋を見つける。以前は室町・戦国の通史に太平記など戦記がまばらに並んでいた彼の棚は今、多様な書物で賑わっていた。
 本丸のみならず、書蔵にさえ新風を吹かせる彼はまさしく、泰平の眠りを覚ます上喜撰だった。いま茶葉をそのまま口に含んで、その苦味とまずさに悶え苦しむ主殿に、一期がして差し上げるべきことはただひとつ。
 口中のものを取り去り、洗い清めて、正しいやり方でお淹れした上で、しっかり飲んでいただくこと。それを消化し、己が血肉にしてはじめて、彼女は羽化することができる。攫われた姫子から、本丸の要石たる女城主へ。

「山姥切殿、期待しておりますよ」

山姥切国広の罪と罰
 言葉とは、己の心や想いをよそう器。青磁や銀器は目に楽しいが、それが料理の味を変えるわけではない。器選びに熱中するより、盛られたものに嘘がないか、吟味することが大切だ。欠片も疑うことなく、そう信じてきた。
 いつだったか、拙い言葉で誰かを怒らせてしまったとき、秋田は静かに言った。悪意がなくとも、言葉が刃となるときがあると。意味がわからなかった。器で殴ればひとは傷つく。だがそれは相手を傷つけようという意思が、ただの器を武器にするからだ。それを振るう意思も手もなく、どうして器が武器になる?

 秋田はいつかの言葉を俺の心で証明した。胸を焼きつくす痛みに目の前が真っ暗になる。まぼろしの獣がその牙を俺の喉に食い込ませてゆく。息が、できない。冷静に進む考察には一点の悪意もない。嗚呼、それなのに。秋田の紡ぐ声。その意味の連なりは俺の血肉を貫通し、鋼の心臓に風穴を開けた。

**

 大事から小事まで、一振りひと振りが己の金科玉条を固守し、言葉と刃で火花を散らす。勝負の結果を賭けの種にし、花見のごとく喧嘩を見物する。そんな曲者揃いのこの本丸で、秋田は永世中立の見本だった。穏やかで公平、どちらの側にも決して与せず、調停役を任されることも多い。
 しかし絶対中立、和睦の使者とも言われる彼には他の異名もある。何事にも控えめで旗幟を明らかにしない秋田に苛立った刀たちが強いて意見を求めたとき、彼は笑顔と簡明な答えで双方の臓腑を同時に抉った。
 平和主義者の称号は返上され、ついた渾名が武装中立の秋田。言葉に練達するからこそ、それを振るうことを自戒してきた秋田が、伝家の宝刀を抜こうとしている。気をつけろと本能がささやくのに、通信機から目が離せない。

『今の長義さんの山姥切への好感度、これは底辺どころかマイナスです』

 よく晴れましたね、と言うような声は秋田にとって、それがただの事実でしかないことを示していた。その揺るぎなさに頰が引きつる。俺とて本歌に好かれているとは思っていないが、激しく嫌われていると思ったこともなかった。
 大倶利伽羅や縁刀たちが不在なら、言葉を交わせることもある。贈った文とて返事こそないものの、突き返されはしなかった。いつの日か、普通程度の仲になれると期待するのは間違いなのか? それとも俺がまた何かを見落としているのか。秋田の言葉が頭の中でぐるぐると回り、胃の腑が殴られたように痛んだ。
  
『長義さんは修行前の山姥切の言動や、手紙の内容を知ってる。それを踏まえて考えるんだ。彼の目から、山姥切のこれまでがどう見えるか』

 不安定な主を支え、三振りで役割分担しながら本丸を回すうちに、俺たちは兄弟のような、同志のような関係を築いた。
 修行の手紙は主以外には読まれぬのが原則だが、俺は主と一緒に乱や秋田の手紙を読んだし、その逆もまた然り。俺の手紙は変だったのだろうか。詳細に記憶しているわけではないし、とりとめのないことを書き連ねたような気もするからなんだか自信がなくなってきた。

『良くは思ってないから、あの反応なんだよね

 乱の苦々しい声に不安になる。何の気なしに本歌を怒らせるのはしばしばだから、あの文に彼が立腹するのは意外ではない。だが彼らにとっても違和感を覚えるようなものだったのだろうか。

『でも山姥切は思ったことを言っただけだよ! 長義にそれをどうこう言う権利は、』
『主君、権利や是非を云々するのは頭です。恋い焦がれるとき、ひとは理性を灼かれてしまう。恋は心でするものですから長義さんがどうあるべきかではなく、彼の心で考えてみましょう。それを主君の恋に役立てるんです』

 通信機越しでもわかる、激した主の荒い呼吸といきり立つ気配。それを秋田の沈着さが魔法のように引き戻す。

『あの二振りの関係は特別です。基本的に傷つく側だった山姥切が、長義さんに対してだけ、無自覚で善意の加害者になれる。主君、悪意なく自分の誇りや苦悩を軽んじてくる、そしてその自覚すらない誰かを、あなたは好きになりますか?』

 頭のどこかで、考えるのを避けてきた問いに息が止まる。練度に見合わぬ戦場での連戦、持たされなかったお守り、百度を目指して繰り返される明け方の禊。心臓がどくどくと早鐘を打つ。
 石切丸や大倶利伽羅は知っていた。本歌の縁刀たちは、他の刀たちはどうなのだろう。俺が知らないことは、まだあるのか。山姥切と初めて戦場をともにしたのは彼が来て、たしかひと月ほどのこと。あの頃の己を考えれば考えるほど、氷水が心を満たす。

『山姥切はそんなつもりじゃ、』
『乱、僕らが山姥切をすきなのは、すきになる理由を彼がくれたからだ。山姥切が長義さんにそれをあげたと思う?』

  何も知らず、知らないという自覚もなく本歌を後続のように扱った。今は名や逸話がすべてかもしれないが、いずれお前にもわかると、不確かなものにこだわる彼を昔の己に重ねて哀れみすらした。あの苛烈で誇り高い刀を! 山姥切はどう感じただろう。彼の不遇にまったく気づかず知ろうともせず、それでいて先達のようにふるまう俺を。

……どういう意味?』
『故意ではなかったにせよ、彼らはその言動で審神者たちに紹介してしまった。山姥切長義という名刀を、自分の、山姥切国広の劣等感を刺激する刀として』

 なぜ、どうやって、いったい何が。溢れるほどの疑問が頭を埋めつくす。意味がわからないのに秋田の言葉は縄となり、この肺腑と気道を締め上げてゆく。

『写しを愛する多くの審神者にとって長義さんは山姥切への愛を証明するためのモノになった。伯仲の評価は変わりはじめる。資料が残っていない本歌、写しにも劣る本歌、写しと比べれば、』
『ちょっと、秋田!』
『なまくらの、山姥切長義』

 まるで俺のためにあつらえた弾丸のように、秋田の言葉が心を貫く。刀にとって最上級の蔑称を主のために生き生きとした罵言で訳す乱の声を聞きながら、痛みと麻痺は強くなる。凍りついた恋がその先端から壊死してゆく。
 
『そんな……そんなのって、』
『長義さんをなまくら扱いすることで、山姥切をより大切にしようとした審神者がいた。山姥切への愛を錦の御旗に、彼を虐める悪い本歌を折り、受け入れられずに刀解し、牢や離れに監禁した。数多の長義さんが散った。政府の加州が言ってたのは、そういうことだ』

 いつ、俺が審神者にそんなことを頼んだ?! あんまりだと心中で叫んだとき、兄弟の手が肩をつかむ。その峻厳な眼差しが、熱くなった頭と心に、冷水を浴びせかけた。
 静かな動作で梅酒を注ぎ、目だけで飲めと命ずる兄弟に渋々湯呑みに口をつける。梅のさわやかな甘みに力が抜けたとき、脳裏を主の顔が過る。
 ぱしんと頰を打たれたような衝撃が奔った。山姥切が折れることを主もたしかに望んでいた。そのための膳立てに俺が気づかなかっただけで。百度を踏まねばならぬほどその存在を拒まれた本歌は今、戦場すらも奪われて置物のごとく扱われている。俺が望んだことではなくとも彼女はそれをやっている。何が主をそうさせた?

『でも、山姥切は望んでなかった!』
『もちろん、山姥切は望まない。自分のために、誰かが虐げられるのを望む刀はいない。ただ、彼がそんなつもりじゃなかったことは、長義さんにとって好意を抱く理由にはならないんだ』

 共用の衣装箪笥の上に置かれた、青いギヤマンの花瓶。その中ですっくと立つ蝋梅の枝が、俺を冷たく見下ろしている。
 紫褐色の満月の輪を中心に、幾重にも重なる、丸みを帯びた黄色い花弁。古色蒼然の冬山で、あざやかに花を咲かせていたそれ。枝を持ち帰ったときの、彼女の微かに歪んだ顔。鶴丸が声を張り上げたのは、俺が主にいらぬことを言う前に追い払うためだったのだと、今ならわかる。
 おい、みんな! 兎に猪、わらびにドクダミ、食えるものか飲めるもの、薬になるものしか取って来なかった我らが初期刀が、とうとう花を手折ってきたぞ。
 鶴丸の号令に餌を放り込まれた池の鯉のようにわらわらと集まってきた、物見高い連中から辛くも逃げおおせ、部屋に籠ってひとしきり悩んだ末にいっとう好きな歌を書きつけ、文を枝へと結びつけた。
 離れの上がりかまちに置いた蝋梅の枝は大倶利伽羅を通して突き返されたが、文は山姥切が持っていると聞いてうれしかった。椿や梅が咲いたらまた文を贈るのもいいなと本歌の好きな花を訊ねた俺に、大倶利伽羅は額をおさえていた。何も、なにも見えていなかった。

『長義さんを害する審神者たちの非は明らかだけれど、そういう彼らの認識は、山姥切との交流を通してつくられたものでもある。刀を育てながら、刀によって育てられる、それが審神者だ』

 比べられるのがいやで、己越しに山姥切を見られるのが苦痛だった。誰かがそれを使って、俺の真価を蔑ろにするのではと。裏切られる痛みを思えば、容易く信じることはできなかった。
 切れ味には自信があるが、俺は面倒な刀だぞ、あんたに俺が扱えるかと、試さずにはいられなかった。我が身と心のために張った、幾重もの予防線。それが彼女の中の本歌を、俺を傷つけるだけの刀にしてしまった?

『悲劇が起きた本丸の彼は、恋に落ちる前の山姥切みたいに、本歌への関心が薄かったんだろう。気づいたときには手遅れだったか、手をこまねくうちに事が起きたのかは、わからないけれど』

 秋田の声は鉋となって俺の心を削りとる。唇を噛みしめれば、血の味が口中に広がる。この本丸で悲劇が起きていないのは、偏に本歌と彼を支える刀たちの尽力ゆえ。以前も今もあらゆる意味で、何の助けにもなってこなかった。彼に恋してさえ山姥切がそれをどう思っているかは、思考の枠外だった己に失望する。

『それで山姥切を恨むなんて筋違いだよ! 長義が本丸にいなかったのが悪いんじゃない!』
『主君、長義さんが山姥切を恨んでいるなら、なぜ聚楽第を守ったんです? 前の主が勝つ世界線を、写しが生まれない歴史を、どうして選ばなかったんですか?』

 はっとして顔を上げる。本丸での主との絆や兄弟刀との縁もなかったのに、山姥切は俺が生まれる歴史を選んでくれた。ならば、

『うっわ、気づかなかった……。え、じゃあ秋田、長義さんってもしかして、』
『なら長義も、山姥切を大切に思ってる……?』

 主の暗い声が気がかりで慰めたいと思うのに、それと同じだけの想いでこの恋に一縷の望みがほしかった。この心の醜さ、浅ましさ、罪深さに震える。こんな己が赦せない。だが、もしも、

『それは言い過ぎです。腹立たしい相手でも、目の前で死にかけていたら助けますよね、そういうことだと思います。彼自身、山姥切に怒りはあっても恨みはないのでは? 敬遠よりの無関心が一番近いかと』

  縋るようにつかんだ藁も手中で燃えて灰となる。本歌の無関心など少し前までは痛くも痒くもなかったのに。それが今、こんなにもつらい。心の痛みに耐えかねて、シャツの胸元を引き絞る。
 ひとりでに青痣をつくろうとする右手を兄弟にはっしと抑え込まれた。唐紅の瞳が俺を戒める。秋田の言葉は器などという生易しいものではなかった。それは俺を繋ぐ牢、この身を焼く業火、水の代わりに差し出される鉛。にもかかわらず、そこにないのは俺への配慮だけなのだ。

『それ、正しく好きの正反対じゃん。秋田、ちょっと山姥切にきつすぎない?』
『乱、物事には因果がある。山姥切が意図せず審神者たちの中に蒔いた、写しを傷つける本歌の印象。その種は長義さんが彼を偽物と呼んだとき、花を咲かせた。多くの長義さんが折られた。頭では不幸な巡り合わせだったと理解できても、好意を抱くようなことじゃない』

  血まみれの心と崩折れそうな身体をなんとか支えて、思い切り頰を拳で叩く。これ以上の無様を兄弟に晒すわけにはいかない。何かを覚悟したような目で清聴を頼んできた秋田。俺への恋に苦しむ主。不当な扱いを甘受する本歌。誰も彼もが痛みを抱え、闘っているのにどうして俺だけ己の業から、その因果から逃げられる? 
 初期刀の誇りにかけて、国広の傑作の名にかけて、そんなことは絶対にしたくない。半分開いた押し入れから覗く、小さめの木箱に頭を抱える。宝箱であり、いつかのための貯金箱でもあったそれは今、俺の度し難い脳天気の証だった。

**

「珍しいね、山姥切がついてきたがるなんて」

 目を瞠る主に、落ち着かない気分になる。

……柄じゃないのはわかってる」

 彼女の後に続いて、このすみれ色の暖簾をくぐるのも久しぶりだ。主が驚くのも当然で、この店に自発的に入る己など、少し前までは考えられなかった。



 主は石が好きで、万屋に資材や備品を購入するついでに、足を運ぶ店が数軒ある。色とりどりの石を指しては、好みを聞かれるのには参った。それを美しいと思うものはこの世にごまんといるのだろうが、あいにく俺には色のついた石を愛でる感覚はよくわからなかった。
 とにかくなにか口にせねばと強度や耐久性、殺傷力を尋ねたところ、売り子は固まり、店内から笑声が消え、俺は眉を八の字にした主に嘆願された。曰く、興味のない俺を付き合わせていると思うと気兼ねして趣味に没頭できない。どうかどこぞで楽しく暇を潰していてほしいと。頓珍漢な質問で彼女に居心地の悪い思いをさせた俺に、否と言えようはずもない。
 幸い主の贔屓の店々の向かいには防具やダンベル、武具を扱う店や、武術や体術、戦の指南書に特化した本屋が軒を連ねていたので、端末が鳴るまでそこで過ごした。
 玉石の美を解せぬ己に、あの店の門戸は開かれていない気がしたし、その扉にあえて半身をねじ込む理由もそのときはなかった。でも今はちがう。どうしても見ておきたい石があった。



「いらっしゃいませ、若緑の方。あら、初期刀殿までご一緒で!」
「うん、珍しいでしょ? 私もびっくりよ」

 ふたりが好奇の眼差しを向けてくるが、それどころではない。此処は本当にあの店か? 午後の日差しに石たちがさざめき、その色と光は虹のごとく交錯する。百花繚乱を成す一粒ひと粒を本歌と合わせて似合いの玉を選べたら、天にも昇る心地だろう。色と光の洪水の中、ひときわ輝く純潔の石に引き寄せられて、硝子の覆いの前で足が止まる。

……なによりも強く、征服されざるもの」

 悠久の時の流れの中で、何にも征服できぬという意味の言葉からひとつの音が脱落した。斯くして、ダイヤモンドの名は生まれる。カードに記された語源は石というより彼の説明書きだ。鋼鉄の信念に金剛石の矜持。傷すら光をとらえる細工と成して、輝きを増す不屈の刀。親指の爪ほどの光の結晶は、あの演練の白刃の閃きを思わせた。

「こちらはオーダーメイドでして、お客様のお好みでアンクレットやピンキーリングに加工したり、変わった石と組み合わせたりもできるんです。初期刀殿は、どんなイメージをお望みで?」
「石だけでいい」
「へ?」
「戦場で邪魔にならないよう、加工は武具の職人に頼む。払いは一括で」

 面食らっている様子の店員をレジに導き、所属する本丸の番号、主の審神者名、自分の名をサインして、財布から抜いたカードを読み取り機に差し込んだ、そのとき。

「あっ!」

 主の手から滑り落ちた端末がリノリウムの床と衝突する。呆然とする彼女に代わってそれを拾って画面を袖で拭うと、液晶は蜘蛛の巣状にひび割れていた。

「これは修理に出さないと。代替機を借りて、主……?」

 ただでさえ色白の顔は真っ青で、瞳も潤んでいる。そんなに端末を落としたのがショックだったのだろうか。それとも体調を崩した? 
 袋を差し出す店員に手短に礼を言い、額に手を当てて熱を確認する。特に異状は認められないが、万が一ということもある。一言も話さぬ彼女の手を引き、帰路を急いだ。



 手の中でさらさらと流れるのは、己のこだわりの結晶。馴染みの店にあの金剛石を預けて一週間、待ちに待った首飾りだった。五指で遊んで肌に触れさせ、その手ざわりを確かめる。
 何十種もの鎖の中から選んだ、細すぎず、太すぎずの金鎖。戦場に耐え得る強さと、着けていて鬱陶しくないだけのささやかさを両立するのは一苦労だった。金剛石のペンダント部分は強靭だが、どの面が当たろうと決して肌を傷つけない。きちんと固定されているのに着脱はきわめて簡便。こだわった甲斐があった。
 金の元素記号は灼熱の夜明けを意味するのだと一期から聞いた。太陽の化身、栄華と高貴、純粋無垢に永遠不滅のシンボル。悠久の時とともに、黄金は幾千もの物語を託されてきた。これなら本歌の身を飾っても、見劣りすることはない。戦場でも、すばらしく映えるだろう。

……兄弟、それ自分に?」

 此方を伺っていた堀川がおずおずと尋ねてくる。山籠りの準備が済んで一息つこうと思ったのか、山伏が緑茶を三つ淹れてくれる。礼を言ってそれを受け取り、口をつける。舌にやさしい苦味が広がった。

「本歌に贈る。今日は一日非番だから、これから彼を探すつもりだ」

 茶を啜っていた堀川がいきなり噎せた。

「いきなりダイヤモンド?! それはちょっとどうかと思うよ……!」
「なぜだ?」

 うっと言葉を詰まらせ、堀川は縋るように山伏を見る。首を傾げる俺を凪いだ目が見据えた。

「本歌殿がそれを喜んで受け取ると思うか?」
「少し悪態はつくかもしれないが、説得する」
「つまり、諾と言うまで追いかけ回すということであるな?」

 山伏は顎に手を添え、少し首を傾げると淡々と人聞きの悪いことを告げる。心外な言い様に憮然とする俺に、柘榴の瞳は小揺るぎもしない。

「俺はそんなつもりじゃ……!」
「兄弟、暫し黙して拙僧の話を聞け」

 大樹のごとく座した山伏には、鎌鼬にも微動だにせぬ風格がある。平素は明るく燃える瞳が、血の池のような深淵を湛えたとき、俺たち兄弟の選択肢はただ一つ。姿勢を正して、心で彼と向き合うことだ。

「本歌殿にはおぬしからそれを受け取りたくない、至極真っ当な理由があるのだ。考えよ、兄弟。わからぬうちは、彼になにかを贈ることは罷りならん」

 違えるなら、必ず罰が下るだろうという、言外の約束。忠告でも命令でもなく、それは託宣だった。金鎖を握りしめて葛藤する。本歌を探して、受け取ってほしいとこれを差し出すのが何故いけない? 
 指折り数えて完成を待った。きっと彼を助けるものなのに。兄弟たちには見えていて、俺には見えていない何かがあるのか。肩にふれる手に顔を上げると、堀川が困ったように微笑んでいた。

「僕も待つべきだと思う。その方が兄弟の想いもそれも、きっと大切にしてもらえる。いつか彼と談笑できる仲になるまで、それは此処に仕舞っておこう?」

 空の木箱をすいと差し出し、堀川が続ける。確かに現状では、山姥切が快く贈り物を受け取ってくれるとは思えない。俺は焦っていたのかもしれない。絆を育む時はたっぷりある。
 今は本歌が笑顔で受け取ってくれる日までそれを貯金しておくべきなのだろう。手のひらの首飾りをケースに入れて木箱の底にことりと置く。兄弟たちに見守られ、俺は静かに蓋を閉めた。



 彼のマントの裏地のごとく鮮やかな、瑠璃の勾玉。風光る森の緑を閉じこめたような翠玉。深海を孕む青玉に、清泉の化身のような人魚石。あてもなく万屋を歩くのが、こんなにも楽しいとは。
 あの演練から夜毎日毎に、己の中で新たな扉が開いてゆく。馴染みの店を通り過ぎようとして、愛用する腕時計に夜空のような藍色が出たのを知る。主が贔屓にする店では、青と緑の階調に銀の差し色が美しく映える正絹の組紐を見つける。
 本歌との関係は好転せず、箱の中身は増えていく。それでも信じて疑わなかった。今はすげなくされていてもいつか誤解は解けるだろう。それらを受け取ってもらえる日は必ず来ると。

**

 箱の中身が増えるにつれ、主はよく泣き、よく怒るようになった。大倶利伽羅がこちらに向ける視線は鋭くなり、彼の肩に頭を凭せてすよすよと眠る本歌にも疲れが見え隠れしていた。
 二振りの仲をうらやむばかりで、見落としていた。あんな寝姿を晒すほど、山姥切は疲弊していたのに。己の節穴っぷりに吐き気がする。主の目の前でてらいなく玉を、時計を、宝石を、組紐を選び、彼女に意見を求めさえした。主はどんな想いだったろう。俺の浅慮の報いを受けたのはきっと本歌だ。

『長義さんは、あの手紙をどう思ったかな? 己の名や逸話の根拠は気にしないと言うだけですむところを、本歌の逸話まで引き合いに出す』

 言葉は鈍器となり、俺の心を打ち据える。罅は大きくなっていく。

『名など重要ではないと、主君や周囲に流され、彼を長義と呼ぶ。山姥切にとっての名や逸話の重要性と、長義さんにとってのそれはまったくの別物なのに。乱、どうして山姥切はふたつを混同した?』

 秋田はこの本丸のダモクレスだ。俺をこの席に座らせ、頭上に剣を用意した。そしていま抜き身の剣を吊り下げるたった一本の毛髪を、言葉の刃で断ち切らんとしている。準備はできたかと兄弟の包みこむような真朱が問うのに、こくりと一つ頷いた。肩の力を抜き、ゆるりと瞼を閉じる。
 これから我が身と心を貫くだろう激痛を、引き受ける義務が、俺にはある。どれほどの痛みを味わおうが、己を憐れむ涙だけは流すまいと決め、居ずまいを正す。いつでも来い、秋田。俺が至らぬばかりに嫌な役をさせて、すまなかった。


秋田藤四郎は狙いを定める
 盆を畳に置き、湿った布巾で茶卓を拭く。熱々のマグボトルに揃いのティーカップ、蓋つきの菓子鉢を並べたところで襖が開いた。

「おかえりなさい」

 顔色の悪い主君と乱を笑顔で迎える。むべなるかな、己の先ほどの講義は本歌と写しの因果を解く以上に彼女への牽制でもあった。

「ただいま、秋田」

 その笑みは儚く、どこか弱々しい。目元を赤くした主君の手を引いて、乱が静かに着席する。澄みわたる蒼穹の瞳が静かに問う。これは本当に必要なのかと。
 目だけで問いに是と返し、秋田はマグボトルを開けた。小休憩の間にもらってきたそれでカップを満たせば、まっしろな湯気が立ちのぼりミルクにアッサム、種々のスパイスが香り立つ。

「これ、チャイでしょう? 良いにおいだけど私、生姜は……
「主さん、これ生姜入ってない。おいし~!」

 自由な方の手をぱたぱたさせてアピールする乱に主君はマグを捧げ持ち、ふうふうと息を吹きかける。おずおずとひとくち含めば、強張っていた表情がゆるゆるとほどけてゆく。

「おいしい……! これも燭台切?」
「小豆さんです。最近、凝っているみたいで」
「なんだか意外。小豆は緑茶党だと思ってた」

 頰をゆるめる彼らに本当の作り手を教える気はまだない。厨での長義との会話を思い出し、背筋を伸ばす。私欲で長義を折ろうとした審神者の中に、主君はしっかり名を連ねている。
 山姥切のためと己を欺き、彼の鈍感さにつけ込むかたちで本歌に不慮の事故を願った。臣の務めの最たるものに諫言を置く長兄が事態を静観していたのは、偏に秋田が猶予を願ったから。此度、薬研が己の存在を明かしたのは猶予の終わりを意味していた。
 一期は近々動くだろう。嵐に備える必要がある。己のために他刃が害されるのを望む刀はいないという秋田の言葉に激しく同意した乱に、顔を翳らせた主君。焦りは禁物だが、手を緩めてはいけない。土に沁みゆく雨のように少しずつ、だが確実に彼女に意見を浸透させる。
 菓子鉢の蓋を開けると二対の瞳が同時に輝く。抹茶にコーヒー、ミルクにココアの順にきちんと整列するまちまちの長さの板たち、そこから白い一本をつまみ、ぱきぱきとひとくち大に折った。

「主君、あーん、です」

 親鳥よろしくそっと口に差し入れる。練乳とミルクの結晶がかりかりと噛み砕かれて、彼女の目が懐かしげに細められた。

「ちっちゃい頃、友達とよく食べてたなあ、これ。すっかり忘れてた。やさしくてしあわせな味ね、小豆の人柄がにじみ出てる」

 その賛辞を受けるべきは他にいる。だがいま作り手を明かせば、彼女の集中は途切れる。長義はなぜこんな遅くまで起きているの? 彼は小豆や燭台切と何を相談していたの? 疑心暗鬼になる主君の姿が目に浮かぶ。

「主君、ココアや抹茶、コーヒーもつまんでみてください。本題に入る前に、ひと心地つきましょう」

 誰にもこの夜は邪魔させない。己のため、主君のため、そして山姥切長義の覚悟のために。

山姥切長義には謎がある
 月光は冴え冴えと夜の輪郭をなぞり、こぼれた光が秋田の行く手をさやかに照らす。空の器で満載の盆を持ち、渡り廊下をしずしず歩く。突き当たりを右に曲がって扉の前で足をとめれば、がらりと引き戸が開かれて、燭台切が穏やかな笑みで迎えてくれる。

「やあ、秋田くん。お互い今日は夜更かしだね。これ、洗っておくよ」
「ありがとうございます、燭台切さん」

 玻璃の器やティーカップを秋田の手から取り上げた燭台切が、オーブンを調整する小豆、戸棚を開ける長義の合間をするすると泳いでゆく。秋田は後ろ手で引き戸を閉めると彼の後につづいた。

「おや、おちゃかいはもうおわりかい?」

  肩を並べて燭台切と洗い物をする秋田に臙脂のタイマーをセットした小豆がものやわらかに首をかしげる。

「暫しの休憩です。お茶のおかわりをいただきに来ました」

 また使うマグボトルやカップの水気を布巾で拭い、秋田は玻璃の器を定位置に戻した。

「ならいいときに来たね。ちょうど冷えたミルクケーキがある」
「ミルクケーキ?」
「練乳とスキムミルクでつくる、軽い焼き菓子かな。あったよ、こちらへ来て味を見てくれ」

 長義が冷蔵庫からタッパーを出し、調理台に載せる。洗い物が途中になってしまうことを燭台切に謝ると、秋田は両手をタオルで拭う。
 さあご覧あれ、なんて言うほどのものでもないけれど。そう言って彼が蓋を開けると、中には三十枚ほどの板状の菓子が並んでいた。

「ココアに抹茶、コーヒー、ミルク、主の苦手なものはあるかな?」

  白い人差し指が焦げ茶、緑、薄茶、白となめらかに菓子を指し、一本ずつ秋田に渡してくれる。口に含むとパリパリという感触とともに、どこかやさしく懐かしい味が広がった。

「たのしい食感ですね。どれもお気に召すと思います」
「それはよかった。いま分けるよ」

 容器を出そうと長義が戸棚に向かおうとしたとき、小豆が中くらいのジップロックと菓子鉢を調理台に出した。

「ありがとう、小豆」

  長義は小豆にちいさく微笑みかけてコーヒー五枚、ミルク二枚、ココアに抹茶を一枚ずつ取ると、さっと小袋に詰めてゆく。

「長義、のこりはぜんぶもっていってよいのだな?」
「ああ、大丈夫だ」

 袋の中でコーヒーとそれ以外を分けると長義は空気を抜き、ぴたりと蓋を閉じた。それを見て小豆の瞳が悪戯っぽく光る。

「大倶利伽羅はぜんぶこーひーでよいのにというだろうな」
「ははは、ならお友達にあげておいでと言うまでだよ」

 食材を整理する燭台切がじと目になる。

「まったく、世の中不公平だよね。僕が同じようなことを言うと加羅ちゃんは途端に不機嫌になるのに、長義くんだとうれしそうなんだもの」

 おどけて拗ねてみせる燭台切に長義は鈴を転がすように笑った。秋田とともに菓子鉢にミルクケーキを散らしていた小豆は、口許を抑えたものの目が笑っている。

「大倶利伽羅は天下無双のお兄様だからね、俺のような不肖の弟にも兄貴分の真似事をさせてくれるのさ」
「長義もあいのおもさでは、てんかむそうのおとうとぶんだとおもうぞ」
「はいはい、ごちそうさまでした」

 燭台切は両手を上げて降参のポーズをする。どうしてこんなにも平静でいられるのだろう? たまたま初期刀が山姥切国広で、主君が彼を想っていた。それだけで事故を願われ、今は置物のごとき扱いを受ける。
 山伏が教えてくれた、揺らぐ存在を固定するため、繰り返される夜明けの禊。誇り高い彼が我意を通す主君に、それに寄り添う秋田や乱、本丸のものたちに、その理不尽に憤らないのは何故だ。
 努めて彼を写しありきの本歌と認識し、意識的に長義と呼んできた。主君の側に立つ姿勢を示すことで、これ以上の自棄を彼女が起こさぬように。乱も本能で同じことをしている。
 だがそんな己の思惑など長義にわかるはずもなく、それを察する義理もないはず。なのにどうして、こんなにも穏やかに接してくれる?

「秋田殿、今からチャイも作るけれど、持っていくかな?」

 思考の渦から引き戻されて、覚えのある語が指すものを思い出そうとしたとき。冷蔵庫や戸棚の中身をチェックし、リストを作っていた燭台切が顔を上げ、眉を下げた。

「たしかチャイって、生姜を利かせたやつだよね? 主は生姜が苦手なんだ」
「生姜は必須ではないよ。大倶利伽羅は入れない方がすきだ。秋田殿、すぐできるから味を見てくれるかな?」
「もちろんです」

 満足そうにうなずくと長義は戸棚から四つの缶――アッサムにシナモン、カルダモン、クローブの文字が躍る――を取り出し、砂糖に鍋に計量カップと必要なものを揃えてゆく。

「ぎゅうにゅうはこれでたりるかい?」
「十分だよ、ありがとう」

 シナモン二本にカルダモンとクローブを八個ずつ。鍋に水を張り、まな板の上で長義の指が軽やかに躍る。カルダモンのさやから取った黒い種をすり鉢で潰し、鍋の上でシナモンのスティックを四つに折る。
 八つのシナモンの欠片がぷかりと浮かぶそこにまな板の上のものたち、次いですり鉢の中身を投入して強火にかける。そのなめらかな手つきと、遠くの誰かを想うような、やわらかな表情。
 誰かのために幾度も腕をふるってきたのだろう、この本丸とは雪と墨ほども違う何処かで。そこにはきっと愛と敬慕で、彼の献身に応えたものたちがいた。

「長義さんは、主君をどう思いますか」

 それを思えば、もう聞かずにはいられなかった。書き物をしていた燭台切のペンがぴたりとまり、小豆のエメラルドの瞳がその輝きを深くする。一方の長義は緊張の気配など欠片も見せず、計量カップに牛乳を注いでいる。

「うーん……年頃の女の子って感じかな。初期刀が大好きで、よんどころない事情から政府を激しくきらっている。写しへのあたりがきつくて、政府で働いていた俺のこともきらいだ」

 彼個人の感情というより観察の結果を読み上げるような調子に、どう伝えるべきかと思いを巡らせたとき、波紋ひとつない湖のような眼が秋田をとらえた。

「秋田殿、思うところを直截に言ってくれて結構。俺は噛みついたりしないよ」
……あなたには怒る権利がある。主君の理不尽にも、それを座視する僕にも。なのに長義さんはいつも朗らかに接してくれて、それが僕には謎なんです」

 思いもよらぬことを聞かれたとでも言う風情で、藍の瞳がぱちぱちと瞬く。言葉を探すように、人差し指が唇にふれた。

「秋田殿、俺たち第二陣の配属はね、受諾してから三ヶ月後に決まるんだ。いわゆる試用期間というやつで、毎日どさどさと課題が出る」

 ふつふつと湯の沸く音をとらえて、長義が鍋に向き直る。つまみを中火に戻しながら彼は話をつづけた。

「一日一件、終業時間と同時にメールが送られてくる。破壊、冷遇、幽閉、虐待、モラハラからパワハラまでなんでもござれの、山姥切長義にとってだけ瑕疵のある本丸の報告書が添付されてね。締切は翌日の未明、自分ならどうするかをレポートにして提出だ」

 小豆がすっと目を細め、燭台切が唇を噛む。彼らの変化には気づかぬまま長義は口許に笑みを浮かべて、茶色がかってゆく湯を見つめている。ぐっとしなやかに伸びた腕がスパイスの缶を頭上に仕舞うと、繊細な指がマグボトルの蓋をきゅぽんと外す。
 一つひとつの動きが音色を奏で、リズムを刻む。歌っているわけでもないのに、ご機嫌なハミングが聞こえてくるようだった。

「赤ペンだらけの答案を直して優をもらえたら、晴れて次の課題に進める。朱を入れているのはおそらく総務の俺なんだが、コメントがいちいち嫌味ったらしくてね、同位体ながらみんな憤慨していたよ」

 シナモン、クローブ、カルダモン。あでやかな主張が縒り合わさって、香りがひとすじの綾をなす。ぱちりと火を止め、金のティースプーンにすりきり十杯。魔法の粉のように茶葉をふりまき、苺のタイマーをセットする。
 スプーンで軽く味を見て、ピピピと囀る苺をとめる。八百ミリリットルの牛乳と、大さじ一杯の砂糖をかき混ぜ、流れるように中火にかけた。

「頭痛と胃痛の種みたいな報告書を熟読しながら、配属を取り下げるかと折々で確認される。それに千辺否と答えた頑固者の集まりが俺たち、第二陣というわけだ」

 紅茶の缶を仕舞い、茶漉しを用意する長義の瞳は冬の夜のように静かで、遠浅の海のように透き通っていた。

「どうしてそこまで……

 一期に呼ばれて訪うた、夜更けの書庫での困惑が蘇る。大倶利伽羅と長義のやりとりを報告する薬研に一期は瞳をきらめかせ、後藤はあの刀らしいと笑い、鯰尾は陽気に応援を誓った。
 長義や政府が何を考えているのか、秋田には皆目わからなかった。そのためなら自らがリトマス紙になってもいいと思えるほど愛した場所をなぜ去ろうと思えた? 第一陣の惨状を知りながら、お上は彼を送り出した。長義が想いをかけるほどには、役人たちは彼を想っていないのだろうか。
 答えは明白、断じて否だ。手間ひまかけた研修の意図は明瞭である。役人たちは彼がむざむざ折られるのを望まず、能うかぎりで知恵を尽くしたのだ。

「あなたには、愛し愛される場所があった。とどまることも選べたのに、そこを去ってまでこの本丸にやってきた。何故ですか?」

 渦巻く疑問を遠慮会釈なくぶつける。沸騰の予兆をみとめてぱちりと火をとめた長義が、ゆるりとこちらを振り返る。青空を映す泉のように清らで澄んだその双眸が、謎めいた笑みに輝く。
 
「それが必要なことだから、かな。俺には果たすべき使命がある。迷いはないし、主を咎めたいとも思わない。心に迷いなき時はひとを咎めず、と言うだろう?」

 あたりを払うような、光る声。なに一つ具体的な答えを与えず、己を信じるものだけが持つ強さと尊さ、凛々しさで彼は秋田の息を奪った。
 まろやかなチャイを茶こしで漉す長義に、小豆が黒い水筒を差し出す。礼を言ってそれを受け取ろうとする彼の手を小豆が握った。

「長義、謙信公はこうもいったぞ。えこによってゆみやはとらぬ。ただすじめをもっていずかたへもごうりきす、と。わたしがきみをおうえんするのは、なによりきみに、ぎがあるからだ」

 朱をはいたように頰を染める長義に、小豆が慈愛のこもった声でささやく。

「長義、きみにはわたしもいる。それをどうか、わすれないでくれ。わたしはきみが、ほんとうにすきなのだ」
「う、上杉のすきな、義や義や汝を如何せん、というやつかな? ありがとう、小豆。光栄だよ」

 目をあたふたと泳がせる彼に、燭台切と小豆が顔を見合わせて笑う。長義は黒い水筒の蓋を閉めると、いっそう赤みを増した頬を片手で扇いだ。

「いやはや、乙女殺しの長船の恐ろしさを、我が身で味わうことになるとはね。さあ秋田殿、味見をしてもらえるかな」

 匙を受けとり、鍋からチャイをひと掬い飲む。まろやかでコクのある甘みが舌を包んだ。

「どうだい、主の口に合うかな?」
……ええ、きっと」
「それは重畳。いま淹れ、」

 秋田の持ってきたマグボトルをチャイで満たそうとして、彼がぴたりと静止した。

「大倶利伽羅が帰って来る!」

  その声に籠る、あふれんばかりの高揚。ギアチェンジの合図のように、藍の瞳に星屑が散る。静かだが手早い動きで野菜室を開け、ラップに包んだトルティーヤを出すと、ミルクケーキのジップロックと一緒にエコバックに入れる。

「すまないが俺はこれで失礼する。秋田殿、よい夜を!」

 水のペットボトルと黒い水筒を小脇に挟み、バックを肩にかけると長義は疾風のごとく去っていった。まばたきをする秋田をあとに残して。
 気を取り直して瞳を閉じる。心を研ぎ澄まし、本丸の霊気の流れを意識する。戦場に繋がるゲートは大きな水門のようなもので、その開閉には膨大な霊力の流れが生まれる。
 そうして男士は部隊の出陣や帰還を知るのだ。霊脈の動静、風の色や匂い、どれにも開門の兆しは見られず、秋田は瞼を開けて首を傾げる。

「まだ門は開いていないのに、なぜ大倶利伽羅が帰還したと……?」

 オーブンから天板を引き出した小豆が、透きとおる鮮緑せんりょくの瞳で秋田を一瞥する。

「江雪からきいたぞ。秋田は、大倶利伽羅と長義の、はじめてのよるをしっているのだろう?」
「はいそこ、青江くんじゃないんだから、意味深な言い方はやめようか!」

 ガナッシュクリームのボウルを抱えた燭台切が引き攣る笑みで小豆をたしなめる。秋田はマグボトルにチャイを移しながら頷いた。

「聞きました。あの日、兄に鍵を貸してくださったのは江雪さんだったんですね」
「あのよる、長義は大倶利伽羅にまことたるをちかい、大倶利伽羅は長義のほこりをおかさぬことをちかった。やくじょうはなり、かれらはたがいにやいばをあずけた」

 天板の上で咲き乱れる、七色のマカロン。小豆はそこから明日の八つ時に主君と近侍がつまむぶんを取り分けると、ガナッシュを塗り、マカロン同士を接着してゆく。
 七十ものそれが居並ぶ姿は壮観だが、三十振りと少しの刀がつまむことを思えば、多すぎるというほどでもない。明日は師走の三十日。大晦日から三が日まで里帰りで本丸を留守にする主君のために催される三十日みそかの宴では、彼女の好物たるこの菓子をみなで食すのが恒例となっていた。

「伽羅ちゃんはたぶん、誓うことで長義くんの払う代償と自分のそれを釣り合わせようとしたんだと思う。情というより、義務感がそうさせたんだ。でも少しずつ彼らは近づき、交わり、支え合うようになった。連理の枝みたいにね」

 桃色のマカロンにガナッシュを塗る燭台切が、思いを馳せるように目を伏せる。

「さかずきこそかわしていないが、いまのかれらはあいとそんけい、ぎによってむすばれたきょうだいもおなじ。えにしのいとはそれにこたえて、たがいのざいしょをおしえているのだろうというのが石切丸のけんかいだ」

 仲よきことは美しきかな、私は彼らを応援するぞ。小豆は溌剌と語りながら若草色の列を終わらせると、レモン色のマカロンに手を伸ばす。

「心の中に羅針盤があるような感じで、針の先に伽羅ちゃんがいるのが本能でわかるんだって。長義くんによるとね。鶴さんなんて自分で聞いたのに腰が引けていて、おかしかったな。まあ僕もいろんな意味でお腹いっぱいだったけど」

 彼らの絆の深化のほどは、予想を遥かに超えていた。秋田の首筋を汗がひとすじ伝う。わかってはいた、大倶利伽羅がいまだ異議申し立てをしていないのは、時機を図っているためだと。来たるべき彼の指弾を思い、秋田の背筋が冷えたとき、若竹の瞳が鋭く光った。
 
「ところで秋田、わたしはたいしょうたるもの、ごとくをめざすこころがたいせつだとおもっているのだが、われらがあるじはいかがかな?」

 己をひたと見据えて、鼎の軽重を問う小豆の、穏やかな迫力に思い知る。これが、あの越後の虎の佩刀。上に立つ者に仁・義・礼・智・信の五徳を求めた謙信公の、栄えある太刀。
 こちらを気づかわし気に見る燭台切もまた、長義や大倶利伽羅の扱いには多分に思うところがあるはずだ。今は主君の心を慮って口を閉じてくれているとしても。
 マグボトルを握りしめる手に力が入る。この夜で本丸の混沌になんらかの道を示すことを、秋田はあらためて誓った。

秋田藤四郎は狙い撃つ
 止まっていた端末を操作し、主と乱が最近気に入っている一曲を選ぶ。低くやわらかな声が歌う。さあ、あなたの日が始まる音を聞いて。立ち向かうの、未来に待ち構えているものに。

「さて、本題に戻りましょう。いま少し、お付き合い願います」

 彼らの集中が戻ってくる。チャイをひとくち飲んで喉を湿らす。さあ、第二幕を始めよう。

「長義さんはあの手紙をどう思ったかな? 己の名や逸話の根拠は気にしないと言うだけですむところを本歌の逸話まで引き合いに出す。長義さんの逸話は彼のもので山姥切のものじゃないのに」

 目を見開く乱とちがって主君は難しい顔で頬に手を当て、目を伏せている。これは熟考するときの彼女の癖だ、幸先は悪くない。秋田は笑みを押し隠した。

「名など重要ではないと主君や周囲に流され、彼を長義と呼ぶ。山姥切にとっての名や逸話の重要性と、長義さんにとってのそれはまったくの別物なのに。乱、どうして山姥切は二つを混同した?」
「わ……わかんない」

 ふるふると乱が首を振る。将を射んとすればまず馬を射よ。誰よりも深く主君の心を知悉する乱に、因果を理解してもらう。それができれば、あとは彼がその本能と直感で、彼女に届く言葉を選び取ってくれる。先ほどなまくらという蔑称を色とりどりの言葉に置き換え、主君の心胆を寒からしめてくれたように。

「露ほどの悪意もなく、他刃の逸話をどうでもいいものとして扱い、その名の価値を勝手に決める。なぜそんなことができたのか? たぶんそれはね、あの二振りの関係が呪われているからだ」

 初期刀が恋する刀との縁として、無意識で祝福に転化した、本歌と写しという関係。これを確実に切り崩す。主君の頭と心から本歌と写しは惹かれ合うのではという、この本丸には無用の恐怖を一掃する。

「正反対の性質の刀が、真逆の立場で、名や逸話を分かち合わされる。こんな複雑な関係もない。双方が気をつけなければ、縁は容易く呪いに変わる。俺はこうあると決めた、だからお前もそうあれると、相手のあり方に土足で踏みこむ下地になってしまうんだ」

 山姥切はその思考と労力のすべてを戦ごとに投じ、乱や秋田は彼の口下手を補う。そうやって、この本丸は回ってきた。だが、もはやそれを続けることは不可能だ。主君の心を奪った身で長義に恋するなら、彼は他のあり方も学ぶ必要がある。

「山姥切は今まで、較べられることが苦しすぎて、面識のない本歌のことまで考える余裕がなかった。極めてからも、考える必要があるとは思わなかった」

  一意専心、猪突猛進。主君が言おうが秋田が言おうが、納得しなければ梃子でも動かず、常に正解を探しつづける。戦で輝くその不屈のひたむきさは、今の本丸では危うい。

「名は物語のひとつでしかない。もっと大切なことがある。似たような悩みを乗り越えた先人のつもりで、山姥切は言ったのかもしれない。でも、長義さんに関心があれば気づけたはずだ。その受難や苦悩は己と似ているようでその実、何もかもがちがうことに」

 秋田に朝告げ鳥の大音声はない。だが、この言葉と策で、初恋に酔いしれる初期刀を叩き起こすことはできる。いざ、美酒を酸に変え、その喉を焼く劇痛で以って彼の目醒めの鐘としよう。受け手によって千変万化する言葉の恐ろしさを、今その心に証明する。

「山姥切は長義さんを理解しようとせず、無作為と善意でその誇りを軽んじながら、己のあり方に対しては理解を求めた。本歌にとって、修行前の己がもっとも忌み嫌ったであろう存在になってしまったんだ」

 配慮を排した言葉の弾丸で山姥切の鋼の芯、かたちを成したばかりの恋心に折れても消えぬ痕を残せ。悪意などなくとも、言葉でふるまいで誰かを切り裂くことはできると彼に示そう。

「でもまだ挽回の余地はあった。練度の低いうちから難関の戦場で連戦つづき。顔色も悪くて、いつ心が折れてもおかしくなかった。山姥切があんな扱いを受けたら、自棄になるかもしれないね。俺が名剣名刀じゃないからこんなふうに扱うのか、なんて」

 胸をぎゅっと押さえた主君が唇をかみしめて俯く。そう、すべては彼女が望み、選んだこと。長義の縁刀と大倶利伽羅によって阻まれはしたが、主君はあの時たしかに不幸な事故を願った。逆境で奮い立つ長義の性質と縁刀たちの努力を頼みに、秋田はこの機を待っていた。
 主君の隣にいざりより、こわばる肩をそっとなぜる。冷えきった右手を握れば、乱が彼女の左手をとった。己の手の中でちいさく震える、白魚の手。葉脈のような血管からどくん、どくんと伝わる鼓動は、いつもよりずっと速い。
 彼女は秋田の軽蔑を恐れている。華奢な肩に手を置き、トットットッと、一分で七十ほどのリズムで叩く。その心臓が常の搏動を思い出すまで。傷に包帯を巻くように、やさしくあたたかな声が歌う。あなたはもっと不敵になれる。大胆になれる。聡明になれる。いちめんに涙が張った焦げ茶の瞳の正中を見据えてささやく。

「主君があのときなにを望んだか、知っています。それを願い、行動に移したとき、あなたはたしかに審神者としてののりを超えた

 ほろほろとこぼれ落ちる涙の粒に手巾をやわく押しあてた。ひたひたと夜に沁みいる歌声、それは秋田の祈りでもある。あなたはもっと堅固になれる。しぶとくなれる。強くなれる。だってあなたは愛すべきひとだから。

「あの頃の長義さんは主君からどう見えました?」
「私のやることなんか、全然、堪えてないって感じで……。美術館の子たちとか、江雪や小豆とかと楽しそうに話してて……

ぐずぐずと鼻を啜り、顔をぐちゃぐちゃにするこの子が、かわいそうで、かわいくて、どうしようもなく愛おしい。たおやかな声が旋律を奏でる。あなたはもっと素敵になれる。自信を持てる。だって僕らはずっと一緒にいられるのだ。
 彼女は秋田から受け取ったティッシュで乱暴に鼻をかむと、乱が差し出す水玉のダストボックスにごみを入れた。ぐちゃぐちゃの顔をタオルできれいに拭ってから、空のカップにチャイを注ぐ。両手でカップを抱えこみ、ちびちびと飲む彼女の背をさすった。

「あれで結構、追い詰められていたと思いますよ。どんどん食が細くなって目元に疲れが出ていました。あるときなんか洗顔中に眠りかけて、危うく鏡に激突するところでした。たまたま横にいた大倶利伽羅がすんでのところで抱きとめて……あの後からです。彼がそれとなく長義さんを気にかけるようになったのは」

 ぬばたまの黒髪を乱がやさしく櫛で梳く。秋田や乱が顕現したてのころは、顎のあたりで切り揃えていた髪。ランドセルを背負う主君の写真を見た山姥切が、その髪を馬の尾のように愛らしいと褒めてから、彼女は髪を伸ばし始めた。
 乱は指に一、二滴の椿油を馴染ませ、その毛先に擦りこませてゆく。背中の半ばまでをさらさらと流れる髪は彼女の想いの結晶だ。

「それでも縁ある刀たちの前では、決して不調を見せなかった。彼らが心配せぬよう、気を張っていたんでしょう」

 彼女の背後に屹立する本棚。秋田の背と同じくらいの高さのそれは黒漆が塗られ、審神者の紋が白く抜かれている。書庫にある主君の棚を寝室用に小さくしたそれには、彼女の私蔵する本たちが並ぶ。少女漫画や恋愛小説、詩集の中で異彩を放つ場違いな三冊。
 孫子に甲陽軍鑑、五輪書。漢文と古典はいちばん苦手と頭を抱えながら、十四の彼女は辞書と首っ引きでそれを読み通した。すべては、彼を理解したい一心で。

「あの頃の長義さんに、手を差し伸べていたら、山姥切への信頼と感謝がなにかに変わる可能性はあった」
「でも、山姥切はあのとき、」
「うん。本歌はあくまでルーツ。もう吹っ切った過去で特に面識のない、自分と相性の悪い新参の一振りに過ぎなかった」

 主君はもっとも多感な時期に家族や友、現世から切り離され、この本丸で過ごしてきた。よほどのことがないかぎり、審神者として生き、審神者として生涯を閉じるだろう。山姥切への恋は彼女の人生そのもの。その心を駆動させる、エンジンの燃料だ。

「そして、大倶利伽羅が介入した。苦境の彼を尊重し、守り、支えたのは彼だ。親愛と信頼と尊敬で分かちがたく結ばれた絆で、長義さんはもう満たされてる。もう山姥切に出る幕はない」

 だからこそ是非を論じても始まらない。どれだけ迂遠に見えても、彼女の不安を少しずつ崩してゆくしかない。主君を天に昇らせるも、奈落に突き落とすも、すべては山姥切の自覚とふるまいにかかっている。

「山姥切の恋が叶うことは、絶対にありえません。ですから主君、彼らが恋仲になる心配は杞憂です」

 初期刀の傍らにある山伏が己の意を正しく汲んでくれると、秋田は信じて疑わなかった。  

山姥切国広は罰を受ける
 主があの日、落とした端末の液晶を思う。蜘蛛の巣状に亀裂が入り、砕けるか砕けないかというぎりぎりの一線でかたちを保っていた黒い表面の、ざりざりとした感触を。

『そして、大倶利伽羅が介入した。苦境の彼を尊重し、守り、支えたのは彼だ。親愛と信頼と尊敬で分かちがたく結ばれた絆で、長義さんはもう満たされてる。もう山姥切に出る幕はない』

 誰かがいま俺の胸を開いたら、縦横無尽に生じた罅から血をどくどくと滴らす、鋼の心臓を見るだろう。その無様で気味の悪い姿をさらして、俺のために本歌が眉を動かしてくれるか賭けてみたいなんて、いよいよもってどうかしていた。

『山姥切の恋が叶うことは、絶対にありえません。ですから主君、彼らが恋仲になる心配は杞憂です』

 通信機の接続がぷつりと切れて、泥を飲むような沈黙が訪れた。自らを憐れみ泣くような真似だけはすまいと誓ったのに、いったいこれはどうしたことだ? 身体は誓いを裏切って、ぽろぽろとうるさい涙が頬を伝う。ずぶ濡れのシャツを脱ごうとして、手のひらに滲む血に気づく。
 兄弟が俺の手をとり、くるくると包帯を巻いてくれる。しつこい嗚咽に邪魔されて、礼すら言えぬ己が歯痒い。唇を噛みきりかけたところで、兄弟にきつく抱きしめられる。
 あの日、俺を乳飲み子よばわりした大倶利伽羅の鋭利な瞳。その翼下に山姥切を庇護し、支えてきた魂の兄弟刀の冷たい怒りを、ようやく俺は理解した。

✳︎✳︎✳︎

大倶利伽羅廣光は激怒する
 響き渡るような青が天蓋を染めて、光と風に溶けた太陽の残滓が、大地にささやかな温もりを与える。純白のシーツがはためき、男士たちの上衣やズボン、手ぬぐいが風に遊ぶ。物干し場からは完全な死角となる渡り廊下の角で、ジャージのポケットを確かめる。
 硬い金属の手触りが、己の手首にあるのとは色違いの紺碧の腕時計の存在を伝える。まだ彼にものを贈る段階ではないと俺を止めた兄弟たち。彼らの助言に背くな、馬鹿はやめろと懇々と説く理性に本能が低く唸りをあげる。
 山姥切と言葉を交わしたくないのか? 同じ屋根の下にいながら本丸では縁刀たちや大倶利伽羅、伊達の刀に阻まれつづけて、会話など夢のまた夢。彼らが長らく不在のときは、本歌が山に籠ってしまう。食卓の彼を遠くから眺めるしかない日々に、心を炙られる思いだった。
 俺が本歌を害するなど、石に花が咲こうとありえぬ。だが彼の縁刀たちは、俺を危険な猛獣のごとく扱う。胸に巣喰う憤懣と焦燥が、心と身体を駆り立てる。どうせ開かぬと諦めていてどうして扉が開かれよう。扉の前に立つことさえ許されぬなら、力づくでも立つまでのこと!

 風の息吹が洗濯物の一群を翻し、ひときわ大きなシーツの両端を持つ大倶利伽羅と山姥切を垣間見せる。純白のそれが土に触れぬよう、彼らは大きく風をはらませ、息の合ったステップで交互にシーツを折り返す。近づいては離れ、離れては近づく、その舞踏のような動き。
 山姥切が玉を転がす声で笑い、大倶利伽羅は声の深みにたしかな愛を響かせる。その光景に棘を飲み干したように痛む心を引きしめた。俺の非番にはいつも小田原や徳美、伊達の縁刀たちに囲まれている本歌が、今は大倶利伽羅とふたりきり。たまさかの好機だ。
 十振りちかくの男士が雑魚寝できる大きなシーツは、主が帰省する大晦日から三が日まで居残り組が使うもの。主の留守中は機密の宝庫である執務室に接する部屋の襖は取り払われる。
 ひと繋ぎとなったそこを仮の寝所と為し、刀たちは本体を抱えて雑魚寝をするのだ。二振りで取りまわすには注意を要するそのシーツは全部で四枚。彼らがそれを畳み終わるまでが勝負だ。
 本歌と大倶利伽羅が四枚目のシーツに手をかけたとき、向かいの廊下から秋田と主が歩いてきて、内心で頭を抱えた。物陰に潜むような恰好の俺に主が不思議そうに首を傾げる。彼女がおおっぴらに疑問を投げるより早く、人差し指を口に当ててから両手で拝む仕草をする。
 戸惑う主に眉を顰める秋田。立ち往生のようなかたちになる彼らに、大倶利伽羅の意識がこちらに向かった。まずい、気づかれる。行くなら今しかない!

 一瞬で両者の間に踏みこみ、白いシーツを絡めとる。両手を大きく使ってくるりと回り、大倶利伽羅と本歌の目を同時にくらます。

――?!」
「うわっ?!」

 狙うは左、本歌の軸足。シーツに気を取られて留守になった足元を大外刈りでなぎ払い、勢いそのまま横抱きにする。

「すまない、本歌。無礼を許してくれ!」
「無礼をはたらいてからッ、言う台詞じゃ、ない、かな! お、ろ、せ!」

 頭、肘、手首、膝、足首。体の可動域を左右する部位で、攻撃の起点となるポイントは限られている。関節の構造を利用すれば、さしたる痛みを与えずとも拘束は可能だ。

「悪いが……っと、無理だ!」

 瞳孔の開ききった大倶利伽羅の蹴りを回避し、目潰しにシーツを投げる。

「はあ?!」

 俺の肩口で絶句する山姥切の呼気を感じながら、大倶利伽羅との戦力差を分析する。どちらも練度は上限だが、俺は極で彼は特。俺の利は二倍の機動に、三倍ちかくの隠蔽値、立ち回りにおける選択肢の豊富さ。
 不利なのは腕の中の本歌によって動きを制限されること。そして何より道義的制約。純然たる私情で拐かし紛いのことをやるのだ。大倶利伽羅や山姥切に擦り傷以上を負わせる訳にはいかなかった。一方、今の大倶利伽羅が俺を重傷にするにあたって些かの躊躇もないことは、論を待たない。
 山姥切の抵抗を抑え、大倶利伽羅から逃げまわりながら本歌を説得するなど、控えめに言っても分が悪すぎる賭け。それでも、気づけば走り出していた。本歌の頬を白無垢のようなシーツが撫ぜて、大倶利伽羅がほのかな慈愛の笑みを浮かべたあの時、心の中で堰が崩れた。

「これはいったい何の真似だ、山姥切国広」

 浅黒い腕がぐしゃりとシーツを掴み、隠れていた顔が露わになった。黄金の瞳がぎりぎりと怒りを孕んで熱を発する。

「大倶利伽羅、彼と話を、」
「黙れ、唐変木!」

 彼が天高く放ったシーツに秋田が駆け寄り、苦い顔でキャッチする。主のもとへ踵を返すその前に、こちらを厳しく一瞥した勿忘草の瞳は、たしかな罰を約束していた。

「どういうつもりかな、偽物くん」
「本歌ッ、俺に……あんたの、時間をくれ!」

 身を低くした大倶利伽羅が蹴り技の勢いで大内刈りをしかけてくるのを、飛び退いて避ける。

……っ! ふたりきりで、話がしたい」

 己のふるまいが罰されるべきものだと、わかっている。それでも本歌を縛める腕は弛まず、疾駆する足が止まらない。届かぬ月より、掴めぬ星より、遠い本歌がいま腕にある。彼の体温、ひかえめな呼吸、くぐもる声、すべてを心に刻みこむ。

「頼む本歌……ッ! お願いだ」
「いやだと言ったら?」

 天与の勘を持つ大倶利伽羅には洗濯物の遮蔽などものの数にも入らない。せっかく干して乾いたそれが俺のせいで砂埃に晒されたと知ったら、洗濯当番たちは協力して俺の背後を狙うだろう。

「離さない。俺に抱えられたまま此処で一緒に鬼ごとだ」
「どんな嫌がらせかな?!」
「山姥切、無理はするな。そいつのホールドは一寸やそっとじゃ外れない」

 その鶴の一声で、じたばたと暴れていた本歌がぴたりと鎮まり、早鐘を打っていた彼の心音が徐々に平静を取り戻してゆく。大倶利伽羅が本歌の心に張りめぐらせた、絆という根の奥深さを見せつけられる思いだった。

「その馬鹿を捕まえたら簀巻きにして、忘れ草で満たした池に沈めよう。傍迷惑な煩悩が消え去るようにな……!」

 琥珀の瞳を殺気に光らせ、ジャージの袖をたくし上げる。黒手袋を口にくわえて、丹念に片手ずつはめる動作が、彼の本気を物語っていた。洗濯物の海を抜けて庭に出るには、臨戦態勢の伊達の刀の脇を、右か左に抜かねばならない。

「二言三言でもいい、ふたりきりで話したいんだ……! 本歌、俺は信用ならないか?」
「信じる信じないを決められるほど、お前のことを知らないかな」
「山姥切、阿呆の戯言だ。気にかけ……ッ!」

 みなまで言わせず、大倶利伽羅の真正面へと躍り出る。もう少しで互いに手が届くという、ぎりぎりの間合いで小刻みにステップを踏む。
 至近距離で鍔迫り合いを演じながら、右か左、迷う心を隠さぬまま、無理押しで距離を縮めてゆく。予備動作を増やして揺さぶりをかけたとき、大倶利伽羅が右足で踏みこむ!

「待てまて嘘だろ――わあッ?!」

 強く抱きしめられた山姥切が、遠心力に呻きをあげる。伸ばされた腕を紙一重で躱し、右へとターン。脇を一気に抜き去った。

「なら俺を知ってくれ、頷いてくれ……ッ! そしたら、俺はあんたを連れてゆく」

 燭台切と轡を並べることが多く、その死角を補うことの多い大倶利伽羅は、どちらに動くかわからぬ相手に対しては、咄嗟に右方に踏み出しがちだった。

「それで偽物くんは俺をどこに連行するつもりかな?」

 春、夏、秋と舟を浮かべて、酒宴や歌会が催される大池には薄く氷が張っている。万が一にも落とさぬように、本歌をしっかり抱きしめた。大倶利伽羅の猛追をなんとか躱しながら、歌仙や三条の気に入りである丹色の反橋を斜めに踏んで駆けめぐる。

「ふたりで静かに、……ふっ! 話せる場所だ」

 この鬼ごとでは時間は大倶利伽羅の味方だ。竜の刀は俺の動きを心で感じ、体で記憶し、その冴えわたる第六感で、必ず答えを見つけ出す。
 やられる! 進路を先回りされ、黒手袋から出た指にジャージの裾をとらわれる。金の瞳が獲物のミスに爛々と輝く。上着が枷となる前に脱ぎ捨て、雪が縁どる朱塗りの欄干に跳び乗る。後背に迫る大倶利伽羅を半身でふりきり、その強烈な払い蹴りを跳ね返って避ける。
 擬宝珠ぎぼしに着地した俺にいまいましげに舌打ちし、鬼ごとを再開しようと身を屈めた彼に、破れかぶれで叫んだ。

「大倶利伽羅、俺は本歌を攫って雲隠れしようなんて思ってない! 少し話をしたらすぐ帰す、彼に危害は加えぬと誓うッ」 

 我ながらどうかしている。虎穴から虎児を攫い、親の承諾を求めるような暴挙だ。縁側に集まっていた物見高い刀たちも同感なのだろう、首を振り振り茶をしばいている。
 いつの間にか集まってきた彼らは、季節外れの花見とばかりに、俺たちの鬼ごとを肴に酒や茶菓子で一服していた。野次を飛ばしたり、やんやの喝采を贈ったりと、もはや宴の様相だ。
 
「だから、大倶利伽羅、彼と話を、」
「顔を見せろ」
……は?」
「山姥切の顔を見せろ。お前の鈍器のような骨格に押しつけられて、山姥切が窒息したらどうしてくれる?」

 腕を組んでこちらを睨む大倶利伽羅に、それもそうだと本歌の頭を抱いていた右手を外す。月の女神のくちづけを受けたような銀の髪が、はらりと手から流れ落ちた。

「! すまない、本歌……。大丈夫だったか?」
「特に痛みはなかったかな。大した技量だ、素直に感心した」

 こだまのように心が言葉を増幅し、多幸感が指先まで浸潤する。藍銅鉱アズライトの瞳がぱちりとこちらを向いている、この瞬間が永遠であればいい。時よ止まれと願うものの気持ちを、心の底から理解したそのとき。

「分を弁えろ、花盗人」

 背に大倶利伽羅の回し蹴りが炸裂する。受け身で勢いを殺したものの、骨が折れていないのが不思議なほどの威力だった。骨に響くような鈍痛を歯をくいしばってこらえ、本歌と額を合わせる大倶利伽羅に抗議する。

「俺は何も盗ってはいない。……それとも、お前から山姥切を盗んだとでも言う気か?」

 本歌はお前のものじゃない。精一杯の皮肉にも大倶利伽羅は動じず、山姥切の耳をふさぐと、声量を下げろと仕草で示した。
 褐色の手に安心して身を委ねる本歌の肩を揺さぶり、あんたとこの一匹竜王の間にはいったい何があるんだと問い詰めたい衝動をこらえる。聞き分けのない餓鬼の相手はうんざりだと目で雄弁に語りつつ、伊達の刀は億劫そうに口を開いた。

「今のお前は乞食と同じだ。否、自覚がないぶん乞食よりも悪い。何度でも言う、こいつに何かを求めるな」
「? 俺は本歌に贈りたいものがあるだけだ。なにかを恵んでもらおうなんて思っていない」

 山姥切とほんの一時、ふたり言葉を交わしたい。彼の日常に役立つものを贈らせてほしい。その効用を説明しても本歌が俺からの贈りものなどいらぬというなら、あの木箱に収めるまでだ。
 それは乞食のふるまいなのか? 戸惑う俺をとらえた琥珀の瞳は、氷柱のように鋭かった。

「いいや、お前は乞うている。お前のふるまいがその証だ。ものを贈るに際しても山姥切がそれを欲しているか、真にこれの助けになるかなど思案の外。お前がそれを贈りたいだけ、こいつの言葉や情けを乞うための手段に過ぎん」

 知ったような口ぶりに、ぐらぐらとはらわたが煮える。あんたに俺のなにがわかる? あの演練の日、心に生まれた清流は立派な大海へと姿を変えた。相反する感情が幾重にもぶつかり合って潮目をつくり、時化や凪が糾える縄のごとく強襲する。俺の思惟など木っ端に過ぎぬと骨の髄まで思い知らされる日々だった。

「そう軽々に、俺を語ってくれるなよ……!」

 この痛みと苦渋と祝福と、荒れ狂う情動の何がわかる? たとえ大倶利伽羅といえど、俺の本歌への想いを訳知り顔で測る資格は持たぬはず。否、絶対に持たせはしない。噛みしめた歯の隙間から、獣のような唸り声が洩れる。

「黙れ、小童」

 大倶利伽羅は本歌の頭を肩にもたせ、見せつけるように絹の銀糸をさりさりと梳く。俺を見下ろす鬱金の瞳の権高なさまに、激情が胸を迸る。

「あんたに童よばわりされる謂れはない!」
「では赤子か? 幼子は母の都合など考えもせず乳をねだるものだからな。生憎だが、こいつはお前のかかさまじゃない。裳裾に縋って甘えたいなら他をあたれ!」

✳︎✳︎✳︎

 そのときは反発しか覚えなかった大倶利伽羅の非難が今、雷のように突き刺さる。昼日中に俺の大立ち回りを見る羽目になった主。
 彼女の悲嘆と怒りの矛先は例によって本歌に向かったのだろう。己を起点に幾度も負の連鎖を起こしながらそれに気づかず、心のままにふるまう俺に、大倶利伽羅が業を煮やすのは当然だった。
 ぼたぼたと落ちる涙の粒が、白い包帯に吸い込まれ、兄弟の腕をしとどに濡らす。

「兄弟、息をしっかり吐くがよい」

 幼子のようにしゃくり上げる俺の背を、兄弟がやさしく叩く。己の意志でどうにもならぬ涙や嗚咽が憎かった。秋田の冷たい方程式が鋼鉄の輪で首を絞め、鼓膜に呪詛を反響させる。

「はッ、は、兄弟……! 息、がッ」

 吸えない、何度呼吸を繰り返しても。己の身に何が起きているのか分からぬまま、心を蝕むささやきは大きくなる。これだけの面倒をかけ、本歌に害を為してきたお前など疫病神でしかない。彼がお前と交友を望むとしたら、それはよほどの孤独に苛まれたとき。

「拙僧の目を見て呼吸を合わせるのだ」

 この本丸の大倶利伽羅は本歌の孤独を許さない。お前の出る幕など永遠にありはしないのだと、耳障りな声が嘲笑する。指先がじわじわと痺れ始め、心臓が酸素を求めて喘鳴する。
 視界が闇に飲まれようとしたそのとき。ゴツンという衝撃とともに節くれだった手が頬を包んでそほの瞳が飛びこんでくる。

「臨む兵、闘う者、皆陣ならべて前に在り。拙僧に合わせて唱えつづけよ」

 氾濫する呼吸の濁流、その間隙を縫って途切れ途切れに復唱する。瞼の裏でちかちかと明滅する闇と光を、破邪の九字が払ってゆく。
 漢文調より読み下しの響きがすきだと言った俺に、己の心が安らぐ音を選べばいいと笑った兄弟。朝な夕な揺らぐ心に唱えるうち、彼が教えてくれたその文言はいつしか、どんな逼迫した戦場でも心を静めるまじないとなった。
 胸を圧する空気の塊がほろほろと崩れ、吐息となって詠唱に溶ける。呪文を口ずさむごとに肺の圧力が軽くなり、血潮に旋律が巡りはじめる。

――臨む兵、闘う者、皆陣列べて前に在り!」

 過ちを悔やみ、羞恥にうずくまりたい気持ちをぐっと抑える。そんなものは自己憐憫の賜物、俺には過ぎた贅沢だ。

「兄弟、力を貸してくれ。どうしてこんなことになってしまったのか、皆目わからないんだ……。わかっているのは、そうとは知らず、間違いを重ねたということだけだ」
「それがわかっただけでも大いなる前進である。して兄弟よ、拙僧に何を望む?」

 浅葱の睫毛を震わせて兄弟が呵々大笑した。好ましいものを見るように夕焼けの瞳を細め、湯呑みに梅酒を注いでくれる。それを一息に煽って背筋を伸ばした。

「兄弟には俺を此処まで連れてきた瑕疵が、見えているのだろう? 過ちを繰り返さぬために、助言を願いたい」
「その意気やよし! 雪に耐えて梅花麗し、霜を経て楓葉丹ふうようあかし、と言う。おぬしの恋路は苦しくつらい道行となろうが、その厳しさこそがおぬしをして一段上の益荒男となしてくれよう。今から心が沸き立つというもの」

 心沸き立つというのは幾ら何でも言い過ぎだろうと思いつつ、莞爾と笑う兄弟につられて、ほろ苦い笑みがこぼれた。

「お手柔らかに頼むぞ、これでも繊細なんだ」
「よく言う、猪武者の間違いであろう。粗忽な兄弟にもわかるよう、拙僧がしっかり留意すべき点を叩きこんで進ぜよう。おぬしが此度の御帰省で、主殿の心を徒に乱さぬようにな」


山伏国広は秘密の扉を開いてみせる
 色かたちから大きさまで、多彩な履物が並ぶ三和土に降りて、兄弟は静かに戸を開ける。

「随分な霧だな……

 あたりに充満するまっしろな靄を手で払い、顔をしかめる。禊による百度参りが存在を固定する上で効果的なのはわかる。だが季節は厳寒、雪が降りしきる闇夜では軽い転倒すら大怪我につながりかねないのに、身一つで泉に潜る等……霊的に存在が強くなったとしても、今度は彼の身体が危うくなる。

「にわかに冷え込んだからなあ……。夜明け前には晴れて欲しいものだが」

 本歌を案じる声にあたたかい気持ちになると同時に胸が痛む。兄弟も俺と同じく、この天気での禊は危険と思っているのだ。

「もし、もし霧がこのまま晴れなければ、大倶利伽羅は本歌を止めるか?」
「否。大倶利伽羅はおそらく、本歌殿の意思を尊重するであろうな」
「だが、それでは本歌の身体が……!」

 保たない、そう続けようとした俺の口を、硬く鋭いルビーの瞳が縫いとめる。

「よいか、兄弟。本歌殿をこれまで支え、助けてきたのはおぬしではなく大倶利伽羅である。今さら彼に他の誰でもなくおぬしが本歌殿の安全を説くは厚顔、釈迦に説法というものぞ」

 頑是ない子どもを相手にするように静かに諭す兄弟の言が、水銀のように心に沁みる。ああ、またやってしまった。一体いつになったら俺は、間違いを繰り返さずに済む? この胸を衝く烈しい痛みに順応する?
 たしなめるような視線の先にぎりぎりと胸元で爪を立てる己の指を見つけて、ため息を押し殺す。この身体すら儘ならぬ己に、心が御せるわけもなかった。自嘲とともにポケットに手をつっこもうとしたそのとき、武骨な手のひらに制されて、柘榴の瞳に灯火がゆれる。

「他者の動静に気を配れるようになったのは成長の証だが、徒らに振り回されているようではまだまだであるな。今のおぬしに必要なのは闇雲な行動ではなく正しい思索である」

 一間先すら定かでない霧の中を、無力な幼子のように手を引かれて進む。獣たちのひそやかな息遣いや葉擦れのさざめきも、この乱れ、うち騒ぐ心を鎮めてはくれない。

「これよりおぬしの思索の火に焚べる、薪を拾いに行くのである」

 繋いだ手からつたわる温度とこちらを鼓舞する闊達な笑みに、敗北感がこの身を侵す。彼のようにありたかった。苦境の本歌を助けたくて。主の心を安んじたくて。だがことをややこしくする以外に、俺にいったい何ができた?
 複雑に絡み合ってしまった撚り糸をほどく術をこんなにも欲しているのに、何の良案も見出せぬ己がふがいなくて、苦しくて。

「兄弟、到着であるぞ」

 堂々巡りの失望に巻き込まれかけた思考を、鮮やかな灼眼が断ち切る。顔を上げたそのとき、頬をばちばちと霊気が走って、得体の知れぬ呪術の魔の手が背筋を瞬時に駆け上がる。霧の中から立ちあらわれた因縁の木に己の在所を知る。
 山へと通ずる鳥居のぐるりに鬱蒼と茂る木々のあいだに、ぽつんと佇む桜の大樹。花散里の愛称で親しまれ、春が来るたびに飲めや歌えの騒ぎが繰り広げられてきたその木に、かつての憩いの場の面影はない。

「兄弟、」
「案ずるな。これはおぬしや主殿が思うほど、不吉なものではないのである」
「だがそれは政府の、」

 目だけで制されて口をつぐむが、本心では納得がいかなかった。

 あれは聚楽第の任務が始まる、三ヶ月ほど前のこと。薄紙一枚の書状を咥えて久方ぶりに姿を見せたこんのすけは奇妙なまでに明るいトーンで、この木は政府が接収すると宣言した。
 有無を言わせぬ迅速な手際で、目的も用途もなにひとつ知らされぬまま、彼女の桜は政府の印を深く刻まれ、鎖と注連縄で雁字搦めにされた。
 苦しみに悶えるように大ぶりの枝が歪曲し、幹のおもてを白、黒、灰の病的な斑点が覆う。獣だろうが人型だろうが、近づくものを苛烈な障気で威嚇するその変わり果てた姿に、主は言葉をなくしていた。当時の彼女の歪んだ顔、蒼白の唇、震える肩。脳裏を過ったすべての記憶にむかむかと胸が悪くなる。
 白い包帯でこの手を覆うと、見せたいものがあると俺を連れ出した兄弟。彼がなぜ今、すっかりいわくつきとなり近づく者もなくなったこの場に俺を導いたのか、その意図がわからなかった。
 俺の手をしっかり握って彼がその木へ歩み寄ると花浅葱の髪が霊気を弾いてぱちぱちと逆立つ。皮膚をぞくぞくと駆けめぐる瘴気に本能がけたたましく警報を鳴らし、この寒気と悪心をもたらす“モノ”から一刻も早く離れよとがなる。
 兄弟とて、肌を焦がすこの不穏な熱をその身で感じているはずなのに。思考の糸が絡まり合って困惑を隠せない俺に、あかがねの瞳が悪戯っぽく光った。

「迷える子羊たるおぬしのために、拙僧がひとつ、雨夜の星を見せて進ぜよう」

 そこにたしかに存在するのに容易く見過ごされてしまうもの。個人の知覚という狭くて粗い網の目では掬いきれぬ何か。雨夜の星とはそういった概念を表す際に兄弟がよく用いる例えだった。
 つないだ手と手がするりとほどけて、軽やかな柏手が打ち鳴らされる。流れるような二礼二拍手一礼はまるで神への参拝だ。顔を引きつらせる俺の前で兄弟の足が霜柱を踏み、その桜へと歩み寄る。どす黒い瘴気があたりを覆って、酸素が一気に薄くなる。領域を侵そうとする不届き者を罰せんと、ちいさな雷を内に秘めた霊子たちがびりびりと共振する。
 このままではこの木の形をした呪具に、兄弟が黒焦げにされてしまう。大きく足を踏みだせば、呪わしい霊気がざりざりと肌に鑢をかける。構うものか、一刻も早く引き離す! 兄弟のもとへ駆け寄ろうと、土踏まずに力をこめたそのとき。

「“持てる者はまだ足りないと、」

 凛々しく深い天鵞絨ビロードの声が妙なる調べを謳いあげ、澱んだ呪気を打ち払う。

「天を仰ぎ その手をかざし――

 ぴたりと樹皮に寄り添う手が幹を戒める鎖と注連縄に、それらに躍る梵字へ伸びて、その指先がふれたところが、淡い金へと色を変える。

――迷える者に塔を積ませ、」

 木のおもてを駆けあがる兄弟の両手はなめらかな動線を描いて、六芒星と卍字を組み合わせたような複雑な図象を結んでゆく。

「省みるすべ 失くしゆく――

 光をひと刷毛するように、節くれだった小麦色の指が、樹皮を覆う無数の黒斑を一掃する。幹の中核に刻まれた山城国の紋に兄弟が額をつけて目を閉じると、沈む夕日と五重塔が青の燐光を帯びてかがやく。

――神の御手に命委ね、」

 その返された左の掌に結集する薄水色の光が、精緻な南京錠をかたちづくる。

「救いを待ち 祈れ――

 上方へと伸ばされた右手には銀の光が吸い寄せられて、鍵のかたちに収束する。

――それでもこの両の手が、」

 ゆっくりと自転するしろがねの鍵を兄弟の右手が掴み、もう一方の手のひらの上で浮遊する薄青の光の錠前に挿しこんでゆく。

「祈るは 我が明日のため!”――

 伸びやかな歌声に合わせて光が踊り、がちりと歯車が噛み合う。不可視の壁が砕け散り、霊子のかけらが宙に舞う。頂上付近の枝の間に忽然と物見櫓が姿をあらわす。勝手知ったる他人の家とばかりにひとりでに降りてきた縄梯子に足をかける兄弟を、俺は呆けたように見つめた。

 どの本丸でも接収されたのはもっとも大切にされ、想いをかけられてきた木だったという。改装にかかる高額な費えの半分を審神者に負担させながら委細を明かさぬ政府にみな不満を覚え、台所を預かる長谷部や博多は降って湧いた借金に頭を抱えていた。
 主がスクロールして見せてくれた掲示板の論争、その混乱ぶりときたら。本丸を監視する呪具では。否、無理を言うことで忠誠を試しているのだ。ちがうちがう、借金漬けにして辞任を防ぐ腹だ。細かいことは後でいい、とにかく政府に殴り込もうと、気炎の上げ方も千差万別、議論は異種格闘技の様相を呈していた。
 百出する意見の中から現実味のあるものを選んで集約し、だいたいの真相にあたりをつけるうちにできた、この木とは距離を置くという不文律。それからしばらくのときが経ち、最近ではその存在について考えることもなくなっていた。
 そこにあるのに見えないもの。認識の網からそうとは知らずにとりこぼしてしまう何か。これもその一つだったのか? こんなにも大きなものを見逃していたならば、俺に見えない雨夜の星は、この世にいったい幾つある?

「兄弟、疾く上がるがよい。この扉は間もなく閉じるのである」

 物見櫓から俺を促す兄弟の声にはっとして、丹念に整えられた縄目のあいだに指をかける。

「すまない、すぐ行く!」

 呆けている場合ではない。雨夜の星を残らず見つけて、その苦さ、辛さ、えぐみを咀嚼し、大事にだいじに飲みくだしてみせる。それを己の血肉となして、苦境の本歌を、懊悩する主を、真の意味で助けられる刀に何としてでもなってやる! 足裏に麻縄のやわらかな感触を感じながら俺は一気に梯子を登った。

山伏国広と雨夜の星
 梯子を登りきった兄弟が櫓の縁に足をかけ、胸ほどの高さの欄干をくぐって、己の傍らに腰を下ろしたその時。ここまで登ってきた梯子が泡と消え失せ、霊子の砂金が疾風の速さで結界を再構築する。息を殺してその光景に見入る姿に、此処にはじめて招かれた日の己が重なった。
 微風が止み、霊子の饗宴が終わると異変に気づいて兄弟が眉をひそめる。

「霧が消えた? いつの間に……
 
 怪訝に思うのも当然だ、つい今しがたまで天地の境すら曖昧にしていた霧など、まったくの幻といった風情で夜空に浮かぶ月を見れば。

「目だけに頼ってはいかんぞ、兄弟」

 彼の肩を叩いてこちらを向かせると、山伏は手本を示すように目を瞑った。まぶたの裏の暗闇の中で鮮明になる、雨にも氷にもなりきれない空気の匂い。頬をやわらかく包みこむ、濛々たる冷気の手のひら。五官をきちんと活用すれば、天候が変わっていないのは明白である。

「おぬしの肌は先ほど同様、空気の湿りを感じておるはず。これは晴れたのではなく、この櫓に施された術式が視界を遮る障害を透過しているためである」

 ゆっくりと目を開ければ、驚愕とほんのひと匙の不審が緑の瞳の中でさざなみを立てていて、くすりと笑みがこぼれ落ちる。
 あの日、狼に咬まれた左腕を飴色の光で癒しながら、彼の刀は歌うように講釈した。櫓の柱や手すりに嵌めこまれた藍銅鉱に翠銅鉱、カバンサイトにラピスラズリ、タンザナイトを指で示して、ねぎらうように白い指がなぜる。

 石の一つひとつにかけられた遠見のまじないには、少しずつ差異が加えてある。互いを補い合えるようにね。合唱のようなものさ。たとえばこの青系統の石たち、彼らの役目は視界を阻むすべての自然現象を、力を合わせて透過すること。

 楽しげに説く甘く爽やかなテノールが、己の鼓膜を心地よく揺らしたあの日。

「あの不可思議な歌といい、兄弟はどうして、」

 口許に人差し指をあて、今にも質問を乱打しようとする兄弟を押しとどめる。本丸の周辺でも最も上背のあるこの桜のこれまたかぎりなく頂きに近い部分に設えられた物見櫓は、各種の転送門に母屋や離れ、書庫の屋根や縁側まで一望できるつくりになっている。
 三百六十度を見晴るかすそこで、目当ての刀が母屋の土間から小走りに出てくるのを発見し、あいかわらずのひたむきさに山伏の口元が綻んだ。指をぱちんと鳴らしてそちらに兄弟の注意を導いてやれば、時よ止まれの呪文のようにその身と呼吸が瞬時に凍る。

「本歌、」

 呼気のようなつぶやきが保有する、無尽蔵の熱量。わりなき想いがエメラルドの瞳を烟らせ、昂る心に呼応するように黄金の髪が波立つ。全身を目にした写しが上から穴を穿てそうなほどの視線を注いでいることなど露知らず、下界では布の手提げを大事に抱えて本歌が門へと走っている。
 出陣ゲートの前に彼が到達したちょうどそのとき。ゆったりと呼吸していた霊脈が鼓動を速め、朱塗りの鳥居の対となる控柱に青い光が明滅する。ほの青い光はひとつ奥まった両脇の柱へ、そしてその上部を裏から支える貫へ、その上で平行線をつくる島木へと伝播して、一陣の風が鉄と硝煙の匂いを散らした。
 膨大な霊力が渦潮をつくり、彼方と此方を繋ぐ仮初めの橋が出現する。開門のときだ。

『おかえり、みんな。大倶利伽羅も、無事の帰還なによりだ。中傷以上のものはいるかな?』
『皆無だ。ただいま、山姥切』

 本来なら聞こえるはずもない距離の会話が、耳元で囁かれたような明瞭さで以って反響する。どんなに遠くの小さなものも拡大鏡を通したように鮮明な姿をとるこの櫓の眼下では、大股で距離を縮めた大倶利伽羅が仲間の目も憚らず、山姥切を抱きしめていた。
 ひゅっと息を飲んだ兄弟の手が痛みを待ち構えるように、その心臓に添えられる。

『身体が冷えてる。ぎりぎりまで山に居たな?』
『う……ああほら、大倶利伽羅! 今日のラップサンドはカレー風味にしてみたんだ。チャイもある。次の出陣まで時がないんだから、しっかり食べて、――ッ!』

 黒手袋を取り去った褐色の手が白雪の肌を包むと、縁側で身を横たえる猫よろしく、山姥切の身体の強張りがほどけてゆく。
 短く爪を切りそろえた長い指が人肌の温度に上気した頬をすうっと撫ぜて、百遍繰り返したと言われても納得してしまうようなスムーズな動きで、くいと山姥切の顎を掬う。

『お前はすぐ無理をする。きちんと自愛できないなら、そのぶん俺が愛するまでだが』

 睦言や口づけを交わしていないのが不思議なほどの親密な距離感とは裏腹に、向き合う二振りは平常そのもの。かたや平気でいられないのは同じ部隊の面々で、歌仙は顔を引きつらせて江雪に助けを求めている。

『あの不愛想な田舎刀が、光の君のようなふるまいを……江雪、僕はとうとう目がおかしくなったらしい』
『安心してください、歌仙。私の目にもたしかに、あなたと同じものが見えています……

 傍らでおだやかに波打っていた兄弟の呼吸がにわかに乱れて、その胸元を指がきりきりと引き絞る。やれやれ、秋田の会心の一撃で重傷を負ったところで二振りの睦まじさを直に浴び、意地と矜持でこしらえた瘡蓋が開いたというところか。
 大倶利伽羅と山姥切の間にある繭のごとき絆は、兄弟の痩せ我慢の生皮を剥ぎとり、治りきらぬ傷の上から新たな傷をつくるだろう、それは承知の上だった。傷だらけになる彼を見て心が痛まないと言えば嘘になる。だが、兄弟がすべてをよくしたいと望むなら、左右の秤がつり合うまで葛藤し、思索し、行動していかなくては。
 さあ、兄弟。おぬしの覚悟は十分か? 鷹の目で注視する山伏をよそに白磁の顔がうつむく。金の睫毛がちいさく慄き、瞳は暗い水底に沈んだ。
 それでも頑なに眼下の二振りから逸らされぬ視線に、山伏の口角が上がる。見たくないもの、己を傷つけるものからは顔を背けて、いっときの安寧を得ようなどとは、夢にも思わぬその心。
 その神すら匙を投げるであろう潔癖さ、愚直さを山伏は愛している。今それが裏目に出ているのならしかと導き、表に返す手助けをする。
 彼にわかるように問題の所在を説くのは骨の折れる仕事だろうが、山伏の心は躍っていた。より善く、正しくありたいと望み、どんな傷も痛みも引き受けようと腹を括った緑の瞳が冴え冴えと光る。ようやっとその本領を発揮し始めた兄弟に、山伏は顔を綻ばせた。

五虎退は異議を申し立てる
  此処まで大急ぎで駆けてきたのだろう。風や霜、霧を含んで四方八方に躍る銀髪に、大倶利伽羅の指がやさしく分け入る。褐色の指に宿る魔法は、毛先のもつれをするりとほどき、乱れた髪をあっという間に銀のせせらぎに変えてしまった。

「お前はすぐ無理をする。きちんと自愛できないなら、そのぶん俺が愛するまでだが」

 長義の顎をくいと息をするように持ち上げるその姿に、どんなに親しい間でも愛情のジェスチャーは控えめだった伊達の刀の面影はない。
 いまはむかし、主に対してさえ絶対不可侵の一線を引き、生半な心で近づく者を威圧していた冷たく鋭い狼の金眼は今、蜂蜜を溶かしこんだように甘く、やさしい温度に満ちている。
 彼のすべてからしたたる親愛の情に思わず見入った五虎退を、大倶利伽羅の金の瞳がばちりととらえた。こいつに無礼をはたらくならば、俺の勘気も覚悟しろ。目だけでそう威圧する刀に五虎退は首からさげたチェーンの先、ちょうど心臓あたりの懐中時計を戦装束の上からなぞる。
 大方後藤や鯰尾から自身の本歌に対するスタンスが肯定からはほど遠い、というより敵意ある否定に近いと聞き及んだのだろう。ともすれば臆しそうになる心を叱咤し、五虎退は深呼吸した。

「あの不愛想な田舎刀が光の君のようなふるまいを! 江雪、僕の目はおかしくなったらしい」
「安心してください、歌仙。私の目にもたしかに、同じものが見えています……

 独立孤高を長らく信条としてきた刀の変貌に面食らっているのは、どうやら己だけではないらしい。眩暈をこらえるように額をおさえた歌仙を江雪が穏やかになだめる。
 夜戦に不向きな太刀の彼が此処にいる理由は一つ。長義のふるまいに憤る主がその縁刀や大倶利伽羅のような親しい刀を、昼夜の別なく戦場に放り込んでいるためだ。
 銀の鎖を手繰りよせ、引き出した真鍮の懐中時計には己の紋と審神者の紋とが二重写しで刻まれている。修行から無事帰還したお祝いだとあるじさまに頂いたあの日から肌身離さず身に着けてきた、五虎退の宝物。そのなめらかなおもてをひと撫でしてから蓋を開き、次の部隊がやってくるまでの時間を確認する。
 軽傷以下の刀は次に出陣する六振りが来るまで、閉じたばかりでゆらぎを孕む帰還ゲートの番をする。次の部隊が揃い次第、門や戦場の状況を引き継ぎ、その後に解散するというのが、この本丸の決まりだった。

「やまんばきり、やりますね。ほんまるきってのいっぴきおおかみを、こづれおおかみにしてしまうとは……
「まったくだ。俺個人としちゃきらいじゃないがな、あの活きのよさ」

 どこか面白がるような響きすら漂う同田貫と今剣の会話に、唇をぎゅっと引き結ぶ。当初は本歌への警戒を隠さず、事態を見守っていた刀たちが、一振りまたひと振りと長義の視点に引き寄せられてゆく。神経の張りつめる、そのじりじりとした綱引き。
 あるじさまを置き去りに長義を受け入れるべくかたちを変えてゆく本丸。それを歯噛みしながら見守るしかないこの無力感、この恐怖。本丸が本歌の家となったとき、彼女を裁く評定の場までできてしまうような、そんな気がしてならなかった。
 倫理的には、あるじさまが長義を受け入れるべきなのだろう。だが、彼女に果たしてそれができるか。その過程で、あるじさまの心は無事で済むのか。彼女なら乗り越えられると当たり前のように信じる兄が、鯰尾や後藤が、五虎退には不思議でならなかった。
 堂々巡りする自問自答のなかで頭をよぎるのは、ぽかぽかとした日曜の昼下がりに催された異国語の勉強会での一幕だった。

***

 ひなたぼっこをしたくなるような、うららかな日曜の午後。やわらかな光で満たされた座敷に、一期の凛とした声が響く。

「書物のなかに海がある、心はいつも航海をゆるされる。寺山修司はある詩のなかでそう謳った。さて、此度航海するのは聖書、外つ国の言葉と信仰でかたちづくられた海だ」

 脇に抱えていた小型の辞書のような本を掲げて、すらりとした手が黒革の表紙に刻印された"Bible" バイブルという英字をなぞる。

「汝の敵を愛せよ。求めよ、さらば与えられん。目から鱗。豚に真珠。普段何気なく使われるこうした言葉はすべて、この聖書に由来する」

 兄のチョークは黒板の上を流水のごとく移動し、教科書顔負けの端正な手跡で、それぞれの英文とその出典を綴ってゆく。

「各自一回ずつ音読してみよう。抑揚と流れを意識して。“Love your enemies” “Ask, and it will be given to you” “The scales fall from one's eyes” “Do not throw your pearls to pigs”」

 この本丸の誰より流暢な英語は、一期の不断の努力と献身、知的好奇心の賜物だ。物理は鶴丸、歴史は長谷部、古文は歌仙というように、この本丸では週に三日、近侍があるじさまの業務を肩代わりし、彼女はさまざまな刀を師として、高校のカリキュラムなるものに則した勉強をする。
 兄の役目は彼女に、英語によって開ける地平を体感させること。映画にドラマ、音楽、小説、使えるものは何でも使い、一期はそれを見事にこなした。いずれ来る高卒認定試験では誰が教える科目が高得点を叩き出すか、早くも賭けが始まっている。兄の英語は対抗馬たちを大きく引き離しての、不動の一番人気だった。
 あらゆることをそつなくこなす一期を見ていると、五虎退はしばしばその場にしゃがみこんで、消えてしまいたい気持ちになる。刀の付喪神でありながら戦闘すらままならぬ不出来な己を彼がどう思っているのか、想像するだに恐ろしくて。

「我らにとって大切なのは、ここに書かれた事物の真贋ではなく、これに記されたことを敬い、信奉する人々がいるという事実だ」

 手を軽くはたいて白い粉を払うと一期がぱらぱらと頁を繰る。英文でびっしりと埋め尽くされた紙面に、乱や後藤、鯰尾といった勉強熱心とは言えぬ面子から悲鳴とも呻きともつかぬ合唱が漏れた。五虎退は湧き上がる負の感情を抑え、世界中の基督者たちが拠り所にするという聖典、その割には装丁も地味でなんの変哲も無さそうな書物に、己の意識を集中しようとする。

「それでは、いま我らが聖書を学ぶ意義とはなんだろう。薬研、どう思う」
「うーん……審神者のなかにも役人のなかにもきっと信じてるやつらはいるよな。基本を知ってりゃあ、少なくとも無知ゆえの非礼は防げる……ってのはどうだ」

 くるくると指のあいだを回っていたペンをぴたりと止めて堂々と己の意見を述べる薬研に、一期は満足げにうなずいた。

「その心意気はとても大事だ。そうしたことへの適切な配慮や礼節といったものは、無知や運ではなく、最低限の知識と謙虚さから生まれる」

 穏やかな蜂蜜の瞳が長机の前に居並ぶ弟たちを見渡し、窓から差しこむやわらかな陽が浅葱の髪に聖人めいた光輪をつくる。

……薬研の答えに補足すると、主殿はご成人とともに、外国の使節を迎え入れる審神者の団体“薔薇と刀”の一員となられる。聖書は英語圏では欠くべからざる、教養の主たる水脈だ。英語や聖書を知ることは、なんらかのかたちで彼女の助けとなるだろう」

 物語の王子の華やかさと気品を持つ長兄の立ち居振る舞いにうっとりと見入っていた乱が趣旨を説明された途端、ぴんとその背筋を伸ばして、瞳に真剣な色を宿す。本丸の誰よりあるじさまに忠実で、彼女のためならどんな努力も厭わぬ乱。だが己とは違って、彼の努力は報われる。
 自分と乱の、否、兄弟たちと自分の何がここまでのちがいを生むのか、ずっと考えつづけてきた。いまだに答えは出ないけれど。

「では、センテンスごとに訳してもらおう。まずは、鯰尾」
「うええ~?! えっと……新しいワインを……古いボトルに、入れる者は、ない?」

 鯰尾が首を傾げるのに合わせて、黒髪が踊るように揺れる。顕現してひと月足らずの彼は今やすっかり人の身や刀の扱いにも慣れて、持ち前の明るさと物怖じしない態度で、本丸に素早く馴染んでいた。
 
「よろしい。ただ、ボトルは革袋と訳した方がいいな。聖書の時代に今でいうワインボトルはないからね。後藤、次の文章は?」
「いち兄、ファイナルアンサーか? 他にもっとうまく答えられるやついるって!」

 自由にはねまわる紫がかった金髪をかき回し、軽口を叩く後藤に座からくすくすと笑いが漏れる。彼もまた、顕現二週間にしてがっちりとコツをつかみ、破竹の勢いで練度を上げている最中だった。

「質問しているのは私だよ。さあ、訳して」
「うゔー……そんなことをすれば、ボトル、じゃなくて、革袋が破れて、ぶどう酒がこぼれる? 革袋もだめになる……?」
「できるじゃないか。だが、なめらかに訳すなら、ぶどう酒も革袋もだめになってしまう、くらいが適当かもしれないな。ちなみに後藤、この文の意味はわかるか?」
「全ッ然!!」
「ははは、正直でよろしい」
 
 みんなが当たり前に越えてきたハードルを、どうして己は越えられないのだろう。誰かに武器として振るわれるのではなくこの腕で自ら刀を振るうということに対する、圧倒的な違和感。思い通りに動かぬ身体、硬直し惑乱する心。
 誰もが水を得た魚のようになる戦場で、五虎退だけが溺れてもがく。腕を引くか押し出すかといった、ちいさな迷いが山と積もって、気づけば追い詰められている。そしていつも、近くの誰かに助けられる。
 皆そのうち慣れるさと笑うけれど、今日でもうふた月だ。ひたすら戦い、道場で竹刀を振るって、それでも練度を一向に上げられぬまま六十日と一日が過ぎた。己より後から来た鯰尾や後藤に追いつかれるのは、もはや時間の問題だ。
 我が身とは到底思えぬほど扱いにくい身体と心、そして刀。疲弊し、それでも他にできることもなく周囲の気遣うような視線を避けて、ひたすら身体を苛め抜く毎日。

「では平野、次の文を」
「はい。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」
「上出来だ、平野」

 どうして自分は稽古場でも戦場でもなく畳の上で、ちっとも集中できない講義を受けているのだろう。今日こそ何かを変えられたかもしれないのに。威儀を正した兄に、週に二日はきちんと休息をとるべきだと、身体を虐めるばかりでは成果は得られぬと諭されて、大した反論もできずに文机の前に座ることになってしまったけれど、本当は異議しかなかった。

 迂回できない見えざる壁、高さも材質もわからぬそれにしゃにむに跳躍しては、ざりざりと爪を立てて落ちてゆく。そんな挑戦をこの二か月、ずっと続けてきた。五虎退が休もうが休むまいが、成功の果実は期待できまい。そんなことは重々承知だ。それでもやらずにはいられない。あがかずにはいられない。
 いっそ叫んでしまいたかった。この焦燥、この苦痛、この絶望は、きっとあなたにはわかるまい。他の誰にもわかりはしない。いいから、放っておいてくれと。だがそんなことは不可能で、万が一めそめそと兄に泣きつき、その勢いで当たり散らすなんてことになってしまえば、今以上に自分で自分を許せなくなるにちがいなかった。
  これ以上、どうしようもない弱虫とは思われたくなかった。刀を振るえぬ刀の付喪という、ただでさえ致命的な欠陥を抱えているのにこのうえ己の心も御せぬ未熟者だと思われたらどうすればいい。思考の泥沼に頭まで浸かっていたところに、腕をつつく控えめな感触に我に返る。急いで顔を上げれば、真顔で顎に手をあてる長兄がいて、五虎退の心臓が地に叩きつけられた毬のように弾んだ。

――ひゃッ!!」
「惜しかったな。気づかなければ、次はでこぴんとやらに挑戦してみようと思っていたのに」
「す、すすすみません、僕、あ、あの、その、」

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。どくどくと鼓動が速まり、息が苦しくなる。一期と視線を合わせるのが怖い。うわの空だった己を、彼は不遜で不真面目だと思ったに違いない! 
 あたふたする自分は兄弟たちにどう映っているのだろう。すぐどもって俯いて、誰かが助け舟を出してくれるのを待っている五虎退。そんな自分がだいきらいだった。

「五虎退が戻って来たところでもう一度質問だ。この比喩の意図は何だと思う」
「え、あ、あの、あ……比喩の、意図……? わ、わ、わかり、ま、せん……

 鉛筆を握りしめ、蚊の鳴くような声で答える。間違えるのではと恐ろしくて、ろくに考えることもできない。正解を導き出せると信じるには失敗を重ねすぎた。
  "わかりません"はもはや口癖だ。なんで練度が上がらないんだろう。わかりません。でもいつか馴れるよね。わかりません。政府に連絡してみたけど同じ症例はないんだって、心当たりはある? わかりません。反芻すればするほど消えてしまいたくなる。カッと頬に血が上って、目頭がいきなり熱くなる。

「水やワインといったものを革袋に入れて持ち運んでいた時代にいるつもりで、考えてみればいい。長年使ったことで柔軟性を失った革袋。そのなかに注がれた新しいぶどう酒……

 忙しなく回転していたペンがぱしんと止まり、机にころりと投げ出される。薬研の指がぱちんと鳴って、紫紺の瞳が輝いた。

「わかったぜ、いち兄。生成された炭酸ガスは、ただでさえ伸びきってる革袋をさらに膨張させる! そういうことだな?」

 ご明察、その言葉とともに黄金を蜂蜜に浸したような瞳が細まり、一期が軽く両手をパンと打ち鳴らした。

「そう遠くない未来に袋は破け、なかのワインも流れ出す。でも新しい革袋なら、」
「発酵に合わせてふくらむ柔軟性がある」

 薬研とちいさく笑みを交わすと一期は両手を鳴らして、聴衆の注意を引きつけた。

「まとめに入ろう。これはいったい何の比喩か。それは思想でも技術でも変革者でもいい、ひとや社会に未知のもの、新奇なものを受け入れさせようと思ったら、そのものに合った新しい器や形式が要るという意味だ。適切な容れ物が用意できていないのに新しすぎるものを受け入れてしまったら、結局お互いがだめになってしまう。これはそういうたとえなんだ」

✳︎✳︎✳︎

 あのときはそれどころではなくて聞き流していた一期の言葉が警鐘のごとく鳴り響き、幾度も幾度も脳裏をめぐる。長義という新しいぶどう酒があるじさまの心に流れこみ、今にも破裂させるのではと身のうちで恐怖が発酵する。
 それはいつしか怒りに近いなにか、嵐のような感情へと姿を変えた。本歌の誇りはなるほど尊い。だが正常に運営されてきた本丸にここまで恒常的な機能不全をもたらしてまで守られるべきものだとは、どうしても思えなかった。長義とて此処で不和の種となり死蔵されるより政府に戻り、己に適した本丸を探す方がずっと本分を全うできるはずなのに!

「あいつがいるだけで大倶利伽羅しかり、国広しかり、いろんなやつの意外な一面が拝めるのも面白ェし。江雪、もちろんあんたも入ってるぜ」
「どういう意味です……?」
「なに、あんたは諍いをきらうだろう? 奴は古馴染みてえだし、仲裁に走り回るんじゃねえかと思ってたから、どっちの側にも何も言わねえあんたが、ちと意外でな」

 虚を衝かれた江雪がぱちりと瞬き、考えをめぐらすように目を伏せる。ゆるりと上げられた薄青の瞳、いつもどこかに厭世の色を残す物憂げなそれに、やわらかく強靭な光がさざめく。

「同田貫、私が忌避しているのは……老若男女を、とりわけ弱者を贄に肥え太る、血みどろの戦です……。自由に意見を闘わすのは、そのかぎりではありません。これだけ刀がいれば、見解が異なるのも当然ですから……

 自由に意見を闘わせる。その言葉に己の底で火打石が鳴る。敵にまわしたら手ごわい後藤や鯰尾に阻まれ、摘みとられつづけてきたチャンス、彼に面と向かって物申す機会がいま、五虎退の手の中にあった。気づいてしまえば、もう引くことはできない。腹のなかでぱちぱちと爆ぜる、ちいさな火の粉と炸裂音に、己の口がひとりでに開く。

「江雪さん、僕……長義さんに、い、言いたいことがあるんです。江雪さんは長義さんと親しいから、僕の言葉にきっと、その、立腹されると思います。でも、ぼ、僕が彼と話をするあいだ、怒ったり、さ、遮ったり、しないでほしくて……あの、おねがいします!」

 大倶利伽羅には頼めない。彼が長義を見る瞳の色、声のトーン、仕草の温度、どれをとっても己の願いが聞き入れられないのは明らかだ。でも江雪なら、もしかしたら。話せばわかってくれるのでは? 己の訴えに耳を貸してくれるのでは?

「いいでしょう。それが糾弾の手段ではなく、対話のための議論だと言うなら……私は貴方が意見を開陳するのを、邪魔だてはしません……
「ありがとうございます!」

 同田貫と今剣の静観勢、そこに江雪が加われば五虎退が議論をふっかけたとき、長義を擁護するのは寡黙で通る大倶利伽羅ただ一振り。
 二対一、多勢に無勢であることに変わりはないが、それでも当初の三対一、弁の立つ江雪を敵にまわすのに比べたら、はるかに論破の望みがある。心の中で拳を掲げ、僥倖に感謝する。

――ただし、私の沈黙には、ひとつ条件があります……

  江雪の瞳のなかの氷河にひとすじの亀裂が走り、凍れる青が深みを増した。

「山姥切や大倶利伽羅にも、貴方とちょうど同じだけ、思いを表明する権利があるということを、五虎退、貴方が忘れぬことです……。貴方が相手に理解を求めるとき、貴方にもまた、相手を理解しようと努める責任が生じる……それを心に刻んだうえで、実のある議論をしてください……
……心にとめておきましょう」

 こちらを飲み干してしまいそうなほどの深淵を湛える、江雪の青い氷の瞳。それを負けじと睨み返して、沸々とわきあがる熱と焔に身を任せる。心にたぎるものに応えて、傍らに横たわっていた虎がゆるりとその身を起こした。

「山姥切長義! あなたに、物申したいことがあります……!」

  帰還ゲートへの襲撃とそれに伴う己の不注意で戦場に放りだされ、山姥切国広が英雄としてその存在をこの心に刻みこんだ冬の日を思う。まぶたを閉じれば昨日のことのように生き生きとよみがえる景色、鼓膜に残響する声。あんな芸当を見せられて、あんな言葉をかけられて、どうして彼のようになりたいと憧れずにいられる?
 圧倒的多数を相手に低練度の己を守り、血路を開いたその剛腕。敵をかき分け一面へと突き進みながら、戦闘の心得まで指南してみせた、その靭く透徹した心。すべてが遠く、懐かしいあの日。

 彼を強者たらしめていた心・技・体の黄金の三角形は、本歌が彼の心を奪ったあの瞬間から、目に見えて狂いだした。このままでは武働きに支障が出るのは時間の問題だ。

「なにかな、五虎退殿?」

 喉から手が出るほどほしいもの、ふたつ。一つは、あるじさまの心の安寧。二つ、自身が英雄と慕ってきた刀の正気。目の前の二振りを論破して、なにがなんでも取り戻したかった。

 山姥切長義、僕にとっては好ましくない新参刀。古い革袋を無理やり己の身の丈に合わせようとする、新しいぶどう酒。あなたを容れるべき革袋はこの本丸以外のどこかであって此処ではないと断じたら、あなたはどんな言葉を返す?

「あるじさまが、あ、あなたを受け入れる日は、永遠に来ません。これ以上本丸を引っかきまわしても、あなたの縁刀たちに迷惑がかかるだけです……! 潔くあきらめて、せ、政府に、帰ってください……!」

 瑠璃紺の瞳が見開かれ、大倶利伽羅の鋭い怒気が肌を刺す。水を打ったようにあたりが静まり返っても、身体が震えそうになっても、五虎退は一歩も退くつもりはなかった。
 賽は投げられたのだ。あとは目的を達成するのみ。どんな言葉を以ってしても、望む答えを手に入れる。長義さん、僕と傷つけ合ってください。

歌仙兼定は観察する
 何一つとして独りでは回らぬ本丸で、馴れ合うつもりはないと他者を拒む。周囲に対して壁を築き、いじけた子犬のようにふるまう。
 歌仙にとって大倶利伽羅は相手の領分には立ち入らぬというあの諍いで達した合意を守り、無用な衝突を避けるべく協働する同僚ではあっても尊敬や心服の対象ではなかった。それを変えたのは、目の前の打刀。花を散らす嵐のごとく苛烈にして予測不能の新参刀、山姥切長義だ。

「山姥切長義! あなたに、も、物申したいことがあります……!」

 向かい合う本歌と五虎退を一歩引いた場所から注視する琥珀の瞳。やすらかに眠っていた狼が首をもたげてゆるりとその身を起こしてゆく。
 
「あるじさまが、あ、あなたを受け入れる日は、永遠に来ません。これ以上本丸を引っかきまわしても、あなたの縁刀たちに、いらぬ迷惑がかかるだけです……!  潔くあきらめて、せ、政府に、帰ってください……!」

 震えながらも、鋼鉄の芯を感じさせるボーイソプラノ。きつく握りしめられた拳と、めらめらと燃える金の瞳。主と心を同じくする虎がその怒りに呼応して、ぐるると低く唸りをあげる。
 いついかなるときも諍いをきらい、小さな口論すら避けてきた粟田口の気弱な短刀。だが、何事にも例外はあったのだ。
 争いを厭う五虎退の性向には、主と初期刀の権威が脅かされたときはそのかぎりではないという注釈がついていた。歌仙はあたりに充満する殺気にひしひしとそれを感じとる。

……悪いが、それはできない相談かな」

 厳しい糾弾にラピスラズリの瞳が揺れる。彼とて己のために縁刀たちが過剰な出陣を強いられる現状を、苦く思わぬはずがない。フォローされたところで罪悪感は募るのだろう。
 五虎退はそんな彼の急所の正中を突いた。それでもなお、生傷を堂々と晒して山姥切は一歩も退かない。その恥じるところのない姿に、五虎退の瞳が獰猛に光る。

「どうしてですか?! どうしてそんなにこの本丸に、あるじさまにこだわるんです? あなたには帰る場所がある。ここで置物のように暮らすよりお上に仕え、あなたを歓迎する本丸を探した方がずっとずっと、あなたの、あるじさまの、お上のためになるはずだ!」

 激昂する主人に感応し、虎の毛並みが逆立つ。獣の蜂蜜の瞳に戦場で馴染みの青い焔がぼうっと灯り、忍耐の限界とばかりに声を上げようとした大倶利伽羅を、山姥切が目だけで止めた。

「それは……俺は政府から配属されて、」

 己を守る繭をほどく蚕のように、不器用に糸を繰る童のように、頼りなくぽつぽつと言葉を紡ぐ山姥切に、五虎退の目は切れ味を増し、獲物を前にした獣さながら、その瞳孔が縦に細まる。

「安易な言葉でお茶を濁せるなどと思わないでください! お上とてあなたがこの本丸での任務達成は絶望的と言えば、突っぱねはしないはず……。あの演練の動画を見れば、政府があなたを大事にしていることなど一目瞭然です!」

 薪を斧で叩き割るような声の背後に見え隠れするのは、あふれんばかりの激情と恐怖。五虎退はきっと怖いのだ。道を踏み外した主が恋の痛手から立ち直れなくなること、初期刀の翼が恋によって捥がれること。

 あの夏の夜にゲートの外に弾き出された五虎退を初期刀が救ってから、ちょうど三年と半年。後を追おうとする隊員を制し、自らは救出に駆けた軽傷の山姥切国広。襲撃によって凍結し、開かずの扉と化したゲートの前で技術者の到着をじりじりと待った、生きた心地のしない七十二時間。
 ようやく開通したゲートに飛びこみ、馬を飛ばして駆けつけた面々を迎えたのは呂布さながらに方天画戟を振り回す中傷の山姥切国広と水を得た魚のように戦場を駆ける五虎退だった。
 顕現して三ヶ月になってもひとの身の扱いに難儀し、後続の兄弟に練度を詰められていた五虎退の見違えるような戦ぶりに、弟をひそかに案じていた一期は号泣。左腕で涙をぬぐい、右腕では感動に水を差す敵を滅多切りにしていた。

 二振りだけで過ごした七十二時間は五虎退と初期刀の間に師弟の絆を醸成し、粟田口の短刀は国広を英雄と仰ぎ見るようになった。
 だからこそ、彼は恐れている。貂蝉への恋が呂布の刃を絡めとり、ついにはその死をもたらしたように、山姥切国広の武もまた、恋情によって錆びつくことを余儀なくされるのでは、と。彼がやらかした数々の誤作動を考えると、一概に否定できないのがつらいところだ。

「配属の取り消しは重篤な規律違反がない場合以外は認められない」
「お役所言葉を羅列しても無駄です。認めたらどうです、すべてはあなたの名誉のためだと。そのために円滑に回っていた本丸がボロボロになろうが、親しい刀が苦境に陥ろうが、自分の知ったことではないと!」

 鋭さを帯びる五虎退の言葉に、黙して聞いていた大倶利伽羅の空気が変わる。竜の刀からぱちぱちと青い放電が起き、漆黒の髪がぶわりと逆立つ。二振りは互いと向き合うことに忙しいと見え、背後で臨界に達しようとする刀の存在に気づかない。

「俺はそんな……!」
「いいえ、あなたは思っている、大義は己の側にあると。そのふるまいが、言葉が、何よりの証!」

 噴火直前のマグマのように大倶利伽羅の瞳が煮える。とうとう彼が口を開こうとしたとき、傍らにやってきた江雪が、もう少しだけしゃべらせてあげてくださいと身振りで頼む。不承不承といった風情ではあるものの、大倶利伽羅は瞳に殺気を滾らせたまま、かったるそうな腕組みに戻った。

「僕たちの立ち位置がもう少し違ったら、僕はあなたの矜持を讃え、あ、憧れさえしたかもしれません……。自分でもわかってるんです。き、きっと僕は、あなたに憧れた」

 意外な言葉に山姥切と大倶利伽羅が同時に瞳をまたたかせる。そのシンクロした仕草に、歌仙は薄ら寒いものすら覚えた。これは行き過ぎた心配だろうか? いやいや、ただでさえ拗れた本丸に四角関係を収納するスペースは流石にない。
 彼らの間だけは決して、決して、色恋に発展しませんよう。歌仙は大国主命に、そして思い浮かんだ幾柱かの縁結びを趣味にされている神々方に切なる祈りを心中で捧げる。

「間違っているのはあなたではなく、きっと、あるじさまの方なのでしょう……。でも彼女は名君でもなければ英雄でもない、ただのひ、人なんです……それでいいんです! そしてただの人は正しさだけでは生きてゆけないんです!」

 ぎりぎりと山姥切を睨みすえ、泣きそうな顔で声を絞り出す五虎退に、歌仙はため息をこらえる。彼女の懊悩も無理はない。誰か作りし恋の路、いかなる人も踏み迷う。己の元主を含め、数多の遭難者を呑みこんできたその道は年端もゆかぬ少女にはさぞ辛かろう。
 だが、彼女はただの娘御ではない。曲がりなりにも主の名と実を背負って此処に座している。臣下のことで頭を悩ますのは、主たる者が支払うべき正当な代償であり、それを彼女の心の安寧のためにと周囲が勝手に踏み倒しては、本丸は童の遊戯に堕してしまう。
 それは歌仙の望むところではなかった。なれば、ここらで口をさし挟むべきか?

「あなたは、そんなあるじさまに、道義を掲げて圧をかける……! あなたのそれは、こ、高慢じゃない、ただの……ただの傲慢です!」

 あたりを満たす濃霧を切り裂き、雷のごとく轟く非難に、夜空を飾る天幕のような瞳が見開かれる。なんらかの感情がそこをよぎる前に、浅黒い手がその目を覆った。
 固まる本歌をしっかり抱えた大倶利伽羅の身のうちから、青みがかった雷の気泡がぽつぽつと生まれて消える。謂れなき偏見や敵意に晒される本歌を、青の霊気が包みこむ。
 
――さすがに俺も、これ以上は我慢ならん」

 ドスの利いた声から殺気と憤懣がほとばしる。

「いいんだ、大倶利伽羅! これは俺の、」
「俺が良くない。……お前が俺の胸のうちなぞ問題ではないと言うなら話は別だが」

 顔を引き攣らせた本歌がなんとかして事態を収拾しようと言葉を探すが、口以上に物を言う大倶利伽羅の目にあきらめたように息を吐く。

……断じてそんなことはない。大倶利伽羅の意見は、いつだって俺には重要だ」
「お前に抱くこの情が、俺の片思いではなかったようで安心した」

 青い雷を孕んだ霊子が、弾けては消え、消えては弾けを繰り返し、燃え盛る焚き火のように、ぱちぱちと不穏な音を立てる。ぬばたまの髪が一陣の風に龍の髭のごとく波打ち、触れなば切れんという言葉を体現したかのように、鋭い視線が五虎退を刺す。

「さて五虎退、俺はお前の筋違いの糾弾を、今の今まで黙って聞いた。今度はお前が、俺に物申される番だ」
「いいでしょう、受けて立ちます!」

 同田貫が金の瞳を輝かせ、短刀の胆力に口笛で喝采を送る。火事と喧嘩は江戸の華を地で行く彼は、面白い催しの予感に浮き立っている。それでも睨み合う二振りのあいだに平然と割って入り、おろおろする山姥切を回収して戻ってくるあたり、なかなかどうして面倒見のよい刀である。

「ちょっとした口論にも小さくなってた奴がなあ……。こう言うとあれだが、なんだか俺ァ感慨深いぜ。あんたとしちゃあ複雑だろうが、そう気に病みなさんな」
「だが同田貫殿、俺は……
「そうですよ、やまんばきり。りゅうこあいうつとはまさにこのこと! ろんせんのゆくえがたのしみです!」

 龍を守る八十一枚もの鱗のうちの、たった一枚。顎の下にだけ生える逆さまの鱗に手をかけたものは、生きて帰してもらうためには、命を賭けねばならないと聞く。山姥切への礼を失したふるまいで、粟田口の短刀は大倶利伽羅のそうした部分に素手でふれた。静かに怒り狂う伊達の刀に怖気づくどころか、その前に一歩踏み出すことすらしてみせた。
 以前の五虎退ならありえない所業だが、山姥切のために一匹狼から龍になった大倶利伽羅と同様、彼もまた、主のためなら鬼にも虎にもなれる刀で、それに気づく機会がなかったというだけのこと。瑠璃も玻璃も照らせばわかる。薄暗がりではわからぬ差異を照射する本歌の強靭な光、歌仙はそれをいざこざの種と評する気にはなれなかった。

「主といい、お前といい、どうしてこれには変えようのないこと、与り知らぬことで、その非を責め立てられるんだ? 勝手気ままに山姥切を非難しながら自らに非難される用意はない……己は自由を享受しながらこれには何を強制してもいいと思っている……俺にはその倒錯した態度こそが、まさしく傲慢と映るがな!」

 伊達の刀が吼えると同時にゴングが高らかに鳴り響く。視線をとおして火花を散らす二振りに、歌仙は長くなりそうな夜を思って嘆息した。


大倶利伽羅博光は激怒する
 拳をきつく握りしめ、粟田口の短刀をぎろりと睨む。山姥切の双眸に一瞬過ぎった怒り、かなしみ、やるせなさ。そしてほんのすこしの、あきらめの色。青ざめた唇は苦いものを無理に飲み下すときのように、ぴったりと閉じられている。
 いつもならこんな手前勝手な理屈を許す彼ではないのに、よほど縁刀たちの境遇が堪えているのだろう。顔は力なく伏せられたままで、それが怒りに油を注いだ。

「主といい、お前といい、どうしてこれには変えようのないこと、与り知らぬことでその非を責め立てられるんだ?」

 敵を威嚇する獣のような声が洩れ出て、己の剣幕に目を瞠る五虎退にぐらぐらと苛立ちが募る。主が恋い焦がれてきた初期刀は彼女の願いとは裏腹に己の本歌に恋をした、たったそれだけの話だ。いったいこれのどこに、山姥切がここまで責められ、うつむく謂れがあるというのか!

「勝手気ままに山姥切を非難しながら、自らに非難される用意はない……

 心とはままならぬもの、それは重々わかっている。だからこそ慎重に事態を見守ってきたが、短刀の糾弾はひとつの教訓を与えた。もはや口を噤んでいる場合ではない。今こそ主や五虎退が信じる彼らの正当性とやらに拳を叩きこみ、派手に砕いてみせるべきだ。
 ひと気のない裏山に篭って過剰な出陣を科されるようになった大倶利伽羅の身を案じ、自らをひたすら責めていた彼。この腕の中で鼻を啜っていた弟分の姿が頭を過り、拳の中で殺気が弾ける。

「己は自由を享受しながら、これには何を強制してもいいと思っている……ッ」

 目の前の短刀は言うに事欠いて、彼を傲慢と評した。薄っすらと青みを帯びた霊気が髪を浮き上がらせて、腕に宿った俱利伽羅龍が低く歌って雨を呼ぶ。怒りだけで穴が穿てるなら、五虎退は今ごろ蜂の巣だ。
 これの草鞋を履いてみろ、貴様に同じふるまいができるか。兄弟刀がこんな目に遭ってみろ、貴様は彼らに同じことを言うか。己ができもしないことを、こいつや俺に押しつけるとはなんたる傲慢!

「俺にはその倒錯した態度こそが、まさしく傲慢と映るがな!」

 思いの外どすの利いた声になったが、構うものか。身を退きたいのを必死で踏みとどまっているといった風情の五虎退に氷の礫が降り注ぐのを、大倶利伽羅は絶対零度の視線でとらえた。

山姥切国広の震撼
『俺にはその倒錯した態度こそが、まさしく傲慢と映るがな!』

 大倶利伽羅の糾弾によって五虎退の言葉の皮が剥がされてゆく。的を射た批判を相手の急所にあやまたず叩き込む、その手並みのなんと鮮やかなこと。
 だが五虎退も意地を見せ、大倶利伽羅を睨み返す。威圧されるのが何より苦手で、兄弟間のちょっとした諍いにすら怯えていた彼は、今や挑みかかるように大倶利伽羅を睨んでいる。意地と矜持の鍔迫り合いは次の部隊の到着まで続いた。

***

 連戦となる大倶利伽羅に夜戦に向かぬ太刀の小豆、徳川美術館で縁のあった鯰尾、後藤、物吉。光のゲートに消えてゆく縁刀たちを心苦しそうに見守る本歌の手を、慰撫するように江雪が握る。俯く本歌を穏やかに離れへと導く江雪の長い銀髪は煤に汚れており、袈裟には派手な穴やほつれが覗いていた。
 大きな傷を受けぬよう、なりふり構わず戦った証である。彼らが負傷すれば、本歌はきっと己を責める。そうした事態を避けるため、縁刀たちは尽力している。

 それに比べて、この俺の体たらくよ。主の所業に気づけなかったあのときから、何ひとつ成長していない。まぶたの裏にあざやかに像を描く、大倶利伽羅の擦り切れた戦装束。その全身に目を走らせ、隠れた負傷や疲労の度合いを探ろうとする山姥切。“親しい刀を苦境に陥らせてまで”という五虎退の言葉。
 そこから導き出される解は一つ。山姥切を蟄居させるだけではあきたらず主は彼と親しい刀を標的に選び、本歌に圧をかけていた。そんな陰険な行いが彼女にできるなんて信じたくなくて、だがそれ以上に多くの刀が把握していたであろう事実を見落としたことに愕然とする。

***

 ひと気のないゲートを茫然と見下ろして、先ほど目にすることになった光景を、それが意味するすべてのことを消化しようとあがいても、心に鳴り響く声を鎮めることはできない。

――なんという盲目、なんという役立たず。仲間を守れずして、お前に初期刀の実はない。

 うるさい、黙れ。蹲って己を責めていれば、彼らを助けられると、主を正道に戻せるとでもいうのか。どんなに無様でふがいなくとも俺はこの本丸の初期刀、何かできることがあるはずだ。己を罰する暇があるなら道を探せ。問いを発しろ。他人の袖にとり縋ってでも、答えを求めて己を知れ!

「教えてくれ、兄弟。みなに見えているものを、どうして俺はいつも見落とす?」
「なに、簡単なことよ。部隊の編成は主殿の管轄なれば、我らは端末に届く通達によって集合し、誰と轡を並べるかはゲートの前で初めて知る。彼女はおぬしの手を書類で満たし、さらには本歌の縁刀たちとは可能な限り遠いシフトに兄弟を組みこむことで、その目的を達したのであろう」

 淡々と語る兄弟に心が冷える。山姥切が謹慎を命じられたとき、その不当な処遇に憤りを感じる一方、安堵も覚えた。本丸に本歌をとどめおくなら彼に過剰な出陣を強いたり、身の丈以上の戦場に送って不幸な事故を演出することはできない。理想的とは言い難いが、彼のつかの間の安全が保障された以上、彼女の説得に集中しよう、そう思った。
  だが主は一枚も二枚も上手だった。親しい刀たちからの要望や相性の悪い刀たちからの苦情を退けるために考案した仕組みは逆手にとられて、今や本歌に圧をかける手段に変わった。彼女の手管に気づけなかった俺の鈍さも衝撃だが、本丸を開いてこの方、戦を差配してきた己の背後で主がなした不当な所業を誰も知らせてくれなかったという事実に打ちのめされていた。

「どうして何も言ってくれなかった? 知っていたら、」

 思わず責めるような口調になってしまった俺を、兄弟の凪いだ瞳が見据える。

「おぬしは我らの静止を振り切り、主殿の非を真っ向から咎めたであろう。彼女はますます不安定になり、状況は悪化したやもしれん。なればこそ、みな沈黙を選んだのである。彼らの苦境を自ら悟ることもできぬおぬしが、彼らのために上手く立ち回れる等とは思えなかったゆえな」

 目を閉じて、本歌が戦場を閉め出されてからの我が身を反芻する。俺を避ける主を追いかけ、きっとわかってくれるはずと諫言を続けながら、空回りするばかりの己にじりじりと焦りを募らせていたあのとき。主の所業を知った己がどんな行動に出るか、それによって状況がどう転ぶか我がことながらまったく予測ができなかった。
 リスクばかり高くて得るものの少ない道を、本丸のみなが選ばないのは当然である。心の底から納得して苦い果実を飲み下す。息をするようにトラブルを量産しながら、それでいて事態を改善する術を持たぬ己が情けなくて、拳をきつく握りしめる。

「兄弟、助けてくれ。俺はどうするべきなんだ? 何を指針にしたらいい? 己の判断を信じるには俺は過ちを重ねすぎた。もうこれ以上誤るわけにはいかない」

 額ずくほどに頭を下げて、俺は懇願した。

山伏国広は兄弟刀に知恵を授ける
 櫓の手すりに額を打ちつけ、深く項垂れた兄弟の肩を叩いて隣に座らせる。戦場では鷹の目の鋭さですべてを見通す瞳が、山伏を幼子のように窺っている。

「おぬしのふるまいは主殿を刺激し、結果として本歌殿とその縁刀たちは甚大な迷惑を被っておる。兄弟がそれを気に病むのは当然のこと。拙僧は気に病むなとは言えぬし、言わぬ」

 己への不信と自責の念になみなみと満たされた翡翠の瞳。だが、山伏は何も生み出さぬ自罰の儀式に付き合うつもりはさらさらなかった。輝く金髪をかき分け、秀でた額を指でぴしりと弾いてやれば、沈みかけた彼の視線がこちらを向く。

……わかっている。俺なんかが好きになったから本歌は、」
「兄弟、拙僧にみなまで言わせよ」

 先ほどよりも強く指を弾いて、目で傾聴を要求する。萎れたように兄弟が顔を伏せようとするのを、頤をつかむことで阻止した。
 今から出るのは真心から出た言葉であるとどうしても理解してほしくて、山伏は一言一句に想いをこめる。

「己の不徳を悔いるとも、恋したことを恥じてはならぬ。誰かを想い、誰かのために変わりたいと願う、変わろうとあがくそれは天がおぬしに与えた、稀有にして尊い試練である。他者の批判を血肉となせ。だが決して、その心までは裁かせるな。心を裁くは神の領分である」

 本歌からもらった飴玉を握りしめ、堀川がしつこく促すまで何時間も喜びに浸っていた新緑の瞳を思う。白地に青い水玉が散る包み紙を丁寧に洗い、ラミネート加工した上で栞にしていた彼の上気した頰。

「だが本歌はどうなる?! 俺の恋情が本歌を害するなら、それは罪悪でしかない。俺はこの恋を殺さねばなるまい。否、殺すべきだ……!」

 蝋梅の枝に文を結んだと微笑んで、出番とばかりに浮き足立った歌仙に促されるまま贈った歌を詠じてみせた兄弟の、溌剌とした明るい声。
 斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
 兄弟からすれば己のもっとも気に入りの歌を知ってほしいという一念だったのだろうが、その果たし状のような内容は書庫にいた全員から不可をくらい、歌仙と三日月に懇々と諭されていた。行動を起こしては失敗するか裏目に出て、その度に肩を落としてきた不器用すぎる兄弟刀の、冷え切った頰をそっと包む。

「火事を扇で消すことはできぬ。煽げば煽ぐほどに火は燃え盛るだけであろう。だいいち、本歌殿はおぬしが心を殺すことを望んでおらぬ」

 山姥切や彼を大事に想う刀たちにとっては傍迷惑でしかないだろう兄弟の想いをそれでも山伏がこうして祝福できるのは、彼の刀の人となりを多少なりとも知っているという自負ゆえだ。

「なぜそんなことがわかる?!」
「本刃に直接お聞きしたからよ」

 こちらをきっと睨みつけていた挑みかかるような双眸がまんまるに見開かれて、兄弟が驚きのあまり絶句する。

「おぬしには言っていなかったが、拙僧は本歌殿が武働きを禁じられて間もないころ、偶然お助けしたことがあってな。縁刀たちには敵わぬまでも、彼の刀とはそこそこ親しい間柄なのである」

 少々横道にそれるが、今の兄弟になら話しても問題なかろう。心の臓ごとその恋情を葬ろうとしているかのような無骨な指をその胸元から引き離し、山伏は彼の刀との突飛な邂逅を思い起こした。

山伏国広は本歌山姥切の窮地を救う
 山眠る冬。木々や大地は雪に覆われ、獣たちは息をひそめて春を待つ。その静まり返った様子を、古人はひとの眠りにたとえた。
 春には笑い、夏には滴り、秋にはよそおう山のすがた。それに比べてものさびしい冬が眠っているように見えるのも無理はない。その厳しさ、険しさを考えれば妥当な形容である。だが山伏は冬山のあはれを、その苛烈さをこそ愛していた。  
 内番や出陣のない完全な非番日は夜明けの後も山に残り、ひねもす森羅万象の声を聞く、それが山伏の日課である。鬱蒼とした森の切れ間から差し込む冬日ふゆびが、生きとし生けるものを抱擁するなか、草木や花の中に点在する岩の一つを選んで山伏は座禅を組んだ。
 瞳を閉じて思うのは曇りなき鏡が、止まれる水が、ありのままの事物を映し出すさま。頭と心から束の間煩悩を放逐するそのとき、山の静寂は破られる。死んだような静けさを一枚めくって現れるのは、生死を賭けた鉄火場たる山のすがた。
 鳥や草木や獣や花がその命を間引かんとする天の御手と、烈しい鍔迫り合いを繰り広げる。その熱、その音、その火花。瞑想する山伏の肩や腕に小鳥たちが止まる。足を引きずる子鹿が己の傍らに伏せ、それを少し離れたところから狼が窺っている。巣穴の母子に、群れに糧を持ち帰ろうと、山伏が去るのを待っているのだ。太陽の南中とともに山伏は山頂まで駆けるから、子鹿の安息はあと二刻ほど。

りん ぴょう とう じゃ かい じん れつ ぜん こう

 臨む兵、闘う者、皆陣つらねて前を行く。追うものと追われるもの、等しく冬に抗うものたちの加護を祈った、そのとき。

うわっ!」

 覚えのある声に目を見開く。雪中になにかが沈みこむ音。狂乱する仲間の呼び声に即座に向きを変えた狼を追う。目指すべき場所はわかっている。縄張り争いの勝者たる群れが勝ちとる、天然の仕掛け罠。ぶあつい雪が底なし沼を隠すこの時期は狼たちのかきいれどきだ。

「山姥切! 拙僧の声を真似よ!」

 全力で走りながら、力のかぎり遠吠えをする。声がどんどん近づいてくるのが狼の群れにわかるように。即座に返ってきた山姥切の遠吠えもどきに大音声で応じて走る。
  遠吠えの機能の一つにはぐれた仲間にその居所と安否を問うというものがある。狼たちはこれまでずっと山伏を遠巻きにしてきた。彼を己が群れの一員と悟れば躊躇するやも。薄暗い森を抜ければ、そこは純白の雪原。下半身を沼に囚われた山姥切が、飛びかかる白狼の顎をわし掴み、薄茶の狼に叩きつけ、その激しい動きで一層の深みに沈んでゆくところだった。
 肩にかけた弓を外して、威嚇するように山伏が唸る。振り返った狼たちの身体から少し逸れたところに続けざまに矢を見舞って混乱させ、とどめとばかりに事態を後方で見守っていた首領格の狼の足許に矢を放つ。

「退け、者共! これは拙僧のともがらである!」

***

 戦仕事も手合わせも禁じられ、これでは鈍ると山で鍛錬していたら運悪く狼の群れに当たったのと面目なさげに語る本歌に、そういえばこのところ出陣続きの大倶利伽羅に修行の折は気にかけてやってくれと頼まれていたのを思い出す。
 座禅の際は心と頭を空にしているとはいえ、意識のどこかでは常に本歌の気配を確認しながら修行をしていた。そのことが今回彼を救ったことを思えば、まったくできた兄刀だと言う外ない。
 山伏は彼を担いで手入れ部屋に直行しようとしたのだが、勝手にこしらえた傷を本丸の資材で治すわけにはいかないと止められ、この本丸では忌避されるようになった桜の木の前に導かれた。

「山姥切殿、なぜかようなところへ?」
「山伏殿、これから此処で目にすることは、主には内密にしていただきたい」

 澄みわたる夜空のような藍の瞳に、一切の私心がないことを感じとり、山伏はひとつ頷く。

「俺の動きをよく見て、覚えておいてくれ。完璧に同じ手順を踏めればいつ何時でも、この空間を開錠できる」

 そのあと目にすることになった摩訶不思議な現象は、滅多なことでは動じない山伏をして絶句させたのだった。

山伏国広は山姥切長義を推し測る
 山姥切の白い指が櫓に備えつけられていた抽斗から琥珀色の玉をひとつ取り出し、そっと患部にすべらせる。ぽうっと淡い飴色の光が広がって、ゆっくりと傷を癒してゆく。 
 審神者と資材と手入れ部屋の三役を身一つでこなしているその小さな玉は、中心に刻まれた山城国の紋章を見るに、政府の秘密道具というやつなのだろう。あっけにとられて見守っていた山伏に、本歌がやわらかく目を細める。

「貴重なものだから自分の手落ちで使ってしまうのは心苦しかったが、山伏殿が使い方を覚えてくれれば緊急のときに役立つからね」

 そのとき、目の前がさっと開けたように山伏のなかですべての点と線とがつながる。この刀の一本筋の通った強さの理由を、直感で悟る。
 己の誇りや古巣への忠心のためだけというには強靭すぎる、気高すぎると思っていた。彼を支えるのはきっと、使命感にも似た何か。この刀はなんらかの役目を帯びて此処にあり、それがみなのためになると心から信じている。
 その信念こそが本丸の主に拒絶された彼の存在を、なおも尊く清く保ったのだ。彼に対する己の本能的な好意は、それを第六感で知っていたためだったのだろう。

「山伏殿、先ほどは危ういところを助けていただき、心より感謝する。俺に多少なりとも返礼できることがあるなら、ぜひとも言ってほしい」

 姿勢を正して言う山姥切に政府から受けた命の詳細を聞く気はなかった。山伏が今あえて問わずとも、それが必要だと思えば彼は明かしてくれるだろう。本歌と腹を割って話せる稀有な機会は他のことに使いたい。

「ではこの山伏、お聞きしたい儀がござる」
「構わない、どんなことでも聞いてくれ」
「まず、心より謝罪させていただきたい。貴殿は兄弟のために随分と重い荷を背負った。にもかかわらず、拙僧は貴殿の苦境に手をこまねくばかりであったこと、誠に面目次第もござらぬ、このとおりである」
 
 山姥切長義には理不尽に耐える強さがある。だがそれは彼の刀が傷つかないという意味ではなく、傷だらけでも胸を張り、背筋を伸ばして立てる類の強さだった。だからこそ山伏は彼の誇り高さに甘えているような現状が、ずっと心苦しかった。
 櫓の床に額をつけて、ざらついた木目の感触を肌で感じる。山伏はあわてた本歌に肩をつかまれ、その上体を引き起こされた。

「やめてくれ。山伏殿は俺が畑で難儀しているといつも手伝ってくれたし、一人で禊をしていれば気遣ってくれただろう。此度など命まで助けていただいた。山姥切国広は俺にとっては因縁の相手だが、あなたの兄弟刀であるというその一点だけでも、俺が礼を尽くす十分な理由になる」
「そう言っていただけるのは幸いであるが、山姥切殿、お気づきのように兄弟は心底貴殿に惚れている。貴殿の現在の苦境は恋に溺れる彼の迂闊なふるまいとそれに傷つく主殿の乱心によるもの、貴殿にとってはとんだとばっちりであろうが――
「いやいや、何がどうしてそうなった?! あ、その、すまない、つい本音が……

 群青の瞳が大きく見開かれ、藍の瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。兄弟は相当わかりやすい方だと思うが、まさか気づいていなかったとは。
 大抵のことに驚くほどの聡明さを発揮する彼もどうやらそちらの道は不得手らしい。恋情という単語を茫然となぞり、固まっていた本歌がぎこちなく首を傾ける。

「その、以前は俺にさしたる関心を見せなかったあれが最近やけに構ってくるのは、もしかしなくともそういうことかな……?」

 おそるおそる聞いてきた山姥切に頷けば、がくっと深く項垂れた。なにが楽しくて俺が偽物くんなんかを挟んで主と地獄の大三角形をつくらなきゃならないんだ。彼女から俺への矢印はもとより敵意一色なのに、恋敵ともなれば……! そう嘆く山姥切の瞳はこんなときまで美しく、彼の澄んだ夜のような双眸を山伏はとっくりと眺める。

「兄弟の想いがご不快ならば遠慮なくそう申してくだされ。あれは馬鹿ではあるが愚かではない、おぬしが恋を葬れば主殿もいま少し安定し、本歌殿へのあたりも和らぐと説けば心を殺す最大限の努力をするはずである」

  遠慮せず心のままを語ってほしい。そう伝えると山姥切はゆるりと首を左右に振った。

「その必要はないかな。俺を好こうが嫌おうがあれの自由、心は誰にも裁けないし、裁くべきでもないからね。政府に勤めていた時分やむなく心を殺す人間たちを見てきたよ無理が祟って心身の調子を崩す者も多くてね。俺のことであれに心を殺させるのは気が進まないかな」
「それが貴殿を面倒ごとに引きこんだ張本刃であっても、であるか?」
「もちろんだ。それにしても当初は事故で折る気満々だったのに突然置物扱いにシフトチェンジしたのは、偽物くんの気持ちを慮ってのことだったか。そういう意味では恩恵を受けたとも言えるのかな?」

 間髪入れずに答えた山姥切に感嘆する。なんとも気持ちのよい御仁よ、兄弟が惚れるのもむべなるかな。堀川がこうした彼の一面を知らないでいるのは返す返すももったいない。
 あの日、青空のような瞳を曇らせ、ぽつりぽつりと危惧を打ち明けた堀川の声を反芻する。
 兄弟、僕はね、兼さんが彼の立場だったらと考えて、申し訳ないのと同じくらい怖くなった。僕なら初期刀の恋心を利用して本丸を割る。兼さんを説得したら初期刀には気を持たせるようなことを言って、二振りを函館にでも駆け落ちさせる。味方と執務室に乗り込んで審神者に詰め寄る。以後は決して兼さんを害さず、不当に扱うこともないと念書に書くまで、あなたの初期刀は戻らないと。ここまで考えてやっと彼らがどれだけ踏みとどまってくれているかわかった。でもいつまで彼の周囲が目こぼししてくれる?
 彼らが心を決めたら兄弟は、主さんは今よりいっそう傷つく。山姥切さんはなにも悪くない、誰より傷ついているのは彼なのに、こんなふうに考える自分がいやでどうしたらいいのか……
 現在進行形で傷つけられている本歌や、彼を案じる縁刀たちに兄弟を傷つけてくれるな等と頼むのは、あまりにも厚顔に過ぎる。相手の出方を待つしかないが、事が起きるなら前もって知っておきたい。かといって直截に聞くのも躊躇われる。
 相反する感情に引き裂かれ、本歌や縁刀たちの胸中を類推しては不安を膨らませる、そうした緊張に兄弟の心は耐えきれなくなったのだろう。恐怖や不安は無知より生まれる。最悪の仮定や想定で頭を悩ますくらいならひと思いに聞いてしまった方が、遥かに建設的だ。
 だが本歌を真っ向から批判し、紆余曲折を経てそのあり方を認めるに至った今でも、彼に対する堀川の感情は複雑だった。聞くだけ聞いて疑うような無礼な真似はしたくないのに、自分はそれをしかねない。それが怖くて聞けないのだと目を伏せた兄弟。その不安に、山伏ならなんらかのかたちを与えることができる。
 己の総身を彩る迦楼羅の炎はその破邪の性質ゆえか、嘘も誤魔化しも許さない。悩みをひとりで抱えこみ、不安を胸にとどめがちな堀川は己の第六感の精度を実地で味わう機会が多く、山伏の見立てには全幅の信を置いていた。

「だが、よいのであるか? 多少の波乱は起きるだろうが兄弟の想いを利用し、実力行使によって主殿に貴殿の待遇を改善させるという手もある」
「俺を好いているという初期刀を駒にして、本丸を引っかき回すということかな? 無いな、大倶利伽羅の命が懸かっているならともかく……そうか。俺の身の上を案じてくれている刀たちならやりかねない、山伏殿はそう危惧しているんだね。そうしたことは望まないと、俺が彼らに言うべきかな?」

 山伏の腕を這う迦楼羅の炎が純粋な善意を感知し、春の日差しのような温もりを孕んだ。すらりと長い人指し指を唇に押し当て思案する本歌に山伏はきっぱりと首を振った。

「否。使えるものはすべて使うが戦の常道、貴殿の縁刀たちが兄弟の恋心を利用しようと決めたとて、それを咎める道理はござらぬ。ただ、事前にお知らせ願いたい。決して邪魔立てはせぬ。兄弟を研磨する場を整えたいのだ。この意を貴殿の縁刀たちにお伝えいただけるであろうか?」
「その託け、たしかに承った。山伏殿、こう言うと不遜に聞こえるかもしれないが、彼の恋はあれや主、ひいてはこの本丸を最終的には良くするのではないかな。俺にはそんな気がしてきたんだが、どう思う?」

 先ほどまで困惑の色を多分に含んでいた声は、今では興味津々とばかりに弾んでいた。他者を駒にすることには躊躇いがあるのに、そのくせ大義のためなら晴れやかに笑って自らを駒としそうな本歌に、これでは彼の縁刀たちも気が気ではなかろうと苦笑する。

「試練はひとを成長させる。貴殿の配属によってあれは変わった。兄弟の恋は初期刀としての彼を、審神者としての主を、この本丸を成長させよう。それは紛うことなき真実である」
「ははっ、なら言うことはないかな。あれは善良で真っ直ぐでこの本丸に、何よりこの戦に必要な刀だ。俺を踏み石にして成長してくれるなら願ったりかなったり、俺は彼の想いを祝福する」

 一陣の風が吹きわたり、しろがねの髪が空に遊ぶ。向きを変えた太陽が彼のすがたを真っ直ぐとらえ、蒼穹の瞳に花火のような光を散らす。どこぞから飛んできて己の肩に止まった瑠璃色の小鳥に、山姥切が慈愛のこもった笑みを向ける。
 宗教画から抜け出てきたようなそのすがたに、あまりにも美しく穢れを知らぬ微笑みに、胸を清涼な風が吹き抜けたような快さが満たしてゆく。この世に数多ある縁のなかから目の前のただ一振りを選びとった兄弟が誇らしくて、山伏は天に響くような声で笑った。

初期刀は己が瑕疵と向き合う
  本歌の心の中で大倶利伽羅に並ぶ存在になりたかった。労苦を厭わず努力をすれば、いつか必ずと夢見ていた。九十九のときを経て無機物が神の末席に列なるこの世、真に不可能なことなど一つもないと信じていた。
 ひとの手で運ばれるしかなかったあの頃とは違い、今は想いを行動に移す手足が、心を伝える口がある。時をかけ努力を楽しみ、いつの日か大倶利伽羅が根を下ろしたのとは別のひと隅に、己の場所を得てみせると意気込んでいた。

 兄弟が見せてくれた雨夜の星は、俺のそうした希望的観測を完膚なきまでに砕いた。知れば知るほど己の無知に驚愕し、その愚かさに失望する。この恋が本歌の邪魔にしかならないなら、俺ができるのはこの想いを葬ることだけ、それがきっと正しいのだと、そう思ったのに。

「俺は、彼に恋したままでもいいのか……? 本歌に迷惑ばかりかけて、それでも想っていたいなんて、本当にそれが許されると……?」

  ぼろぼろとこぼれ落ちる涙もそのままにつっかえながら言葉を紡ぐ俺のもとへ、兄弟がすっといざりよる。

「兄弟よ、おぬしの強みは他者の真意を察することにはない。まあそこも磨いてもらわねば困るが、おぬしの身上は己の傷に手を差しこんでひっかき回し、自身にとっての正しき解をわき目もくれずに模索する、その愚直さにあるのである」

  膝がふれあうほどの距離で眺める兄弟の瞳は恐ろしいほど凪いでいて、煩悩とは無縁に見えた。頭の中をぐるぐると疑問が巡ってひやりと背筋が寒くなる。俺が彼を想いつづけるのは真に本歌のためとなるか、彼に益をもたらすことができるのかと、むくむくと疑心が湧きあがる。
 だがその一方で、この恋を捨てなくて済むことにほっとしている。喜怒哀楽が混じり合い、名状しがたい感情がとぐろを巻く。己のせいで散々不利益を被りながら、それでも想い続けることを許してくれた本歌に、目頭がかっと熱くなる。

「さて、ここからが本題である。本歌殿の期待を裏切らぬためにも、おぬしの瑕疵の答え合わせといこうぞ」

  慰撫するようだった山伏のトーンが、鋭く切り込むそれへと変わる。空気が変わったのを感じとり、俺は目元をぐいとぬぐって、膝頭に拳を置いて威儀を正した。

「まず、おぬしが縁刀たちの過剰出陣に気づかなんだのを、拙僧は主殿がそう差配したからだと言ったが、あれは真実の半分である。主殿はどう動けば兄弟に事を知られずにすむか承知していた。おぬしの心の動きを見切ったのだ。だが兄弟は主殿の心を探るのではなく彼女にかようなことが出来るはずはないという己の考えを信じた、そうではないか?」

 心の動きを見切られたという兄弟の言葉に顔が引きつる。動きを見切り隙をとらえて、そこに一撃を叩きこむ、それでは俺と主が竹刀を構えて互いに隙を窺っているようではないかと考えて、遅れてやってきた衝撃に息がとまる。
  読み合いに山姥切の本丸での生活がかかっているなら、それは真剣で敵と相対するのと同じくらい、俺にとっては勝たねばならぬ勝負のはず。そしてその力比べに俺は今このときまで負けつづけてきたのだ。

「たしかに兄弟の言う通りだ。彼女は本歌を事故で折ろうと画策したくらいだ、本丸での謹慎を命じたとて別の手段で彼に圧をかけてもおかしくなかったのに、頭からすっかり抜け落ちていた。主を疑うことを無意識に自分に禁じていたのかもしれない」

 ダウンの首元を握りしめ、情けなさで顔を伏せた俺の顎をがしりととらえて兄弟が目線の高さを合わせてくる。その朝焼けに染まる凪の海のような瞳に吸い込まれるようにして、肩から強張りがとけてゆく。

「信頼と盲信は別物である。主殿を妄りに信じないからとておぬしが罪悪感を覚える謂れは一つもない、そう心に刻みつけよ。主君は間違いを犯すもの、そうでなくば臣下など必要なかろう」
「そうだな、そのとおりだ。俺の心構えが間違っていた、主を質さなくては……。兄弟、俺はこのとおりの口下手で言葉の裏を読むのも苦手だ、相手の隠れた真意を察知することもできない。このままでは同じ過ちを繰り返すだけだろう。兄弟、俺はどうすればいい?」

  凍てつく風が月にかかっていた叢雲を蹴散らし、兄弟の端正な面が冴え冴えとした月の光に照らされる。すっと鋭くなった視線に息がとまる。

「兄弟は言葉を扱うのが苦手というより、言葉を軽んじていただけよ。だから言葉に復讐されたのである」
「俺はそんなつもりは!」
「しばし黙して聞け、兄弟。はじめに言葉ありきという詩句を知っておるか?」

 首を十五度ほど傾け、無表情で俺を見つめている兄弟の瞳のなかで、抑制された炎がちらちらと踊っている。その問答を許さぬ空気に、俺はあきらめて首を振った。

「耶蘇の教典、新約聖書にはこうある。“はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった。その光は闇の中で輝き、闇が光に打ち勝つことはなかった”」

 言葉は神で、万物は言葉から成り、言葉の内に命が宿る。それが真なら心はいったいどうなるのだ。あまりに極端な教えに絶句している俺に委細承知とばかりに山伏が頷く。

「大仰な表現だと思うか? だが我らは心のなかの言葉を土台に思考を組み立て、その思考は言行に、言行は習慣に、習慣は性格となって我らを縛り、性格はあらゆる事物を解釈する際の物差しとなる。兄弟よ、おぬしはその言葉に対してふさわしい扱いをしてきたと言えるか?」
「それは……
「大事なのは言葉ではなく心だと、どこかで軽く見てこなかったか?」

 心のど真ん中を射抜かれたような衝撃に俺はぴしりと硬直する。本歌の誇りを心ならずも傷つけてしまった己の迂闊な物言いと主をいたずらに刺激するだけに終わったふるまいの数々が脳裏にぐるぐると交錯する。

「その癖、相手の言動は額面通りに受け取ってきたのではないか?」

 一度中心に当ててしまえばそれに近いところを射ってゆくしかない弓矢とちがい、言葉は何度でも相手の正中を射抜ける、無言のうちにそう諭されているのを感じて、恐れに背筋が総毛立つ。山伏の瞳が静かな凄みを帯びて光る。
 山姥切の言動が何に根ざしているのか、彼に恋に落ちるまで考えもしなかったのはなぜだ? 主の言葉をそのまま受け取り、本歌や縁刀たちの苦境に今のいままで気づかなかったのはどうして?
 俺は他者の言葉やふるまいの表層だけを見て、その深奥をわかった気でいたのだ。俺の手を掠めたのはその上澄みにすぎなかったのに。

「おぬしは口下手なのではない。語りえぬことをなおも言葉で語ろうとする努力を省いてきただけである」

  頭から冷水をぶっかけられたような気づきとともに、己の敗因をありありと悟る。語りえぬことを語るために言葉があるなら、なるほど俺は言葉をこの上なく粗略に扱っていたことになる。そこに弁明の余地はなかった。

「ひとの真意を測るというのは夜の海に潜るようなもの、どこかに沈んだその真意を息がつく限り探し続ける、その労苦をおぬしは体験したことがあるか?」
……ないな、一度も。考えてみれば、俺は己の内面を掘り下げるばかりで他人の内面を、その心の奥底を知ろうとしたことはなかった」

  根底のところで俺は自分にしか興味がなかったのだ。己を掘り下げるためにいちいち言葉を選ぶ必要はない。他者とつながるための言葉を学ぶことをそうとは知らずに軽んじてきたのは、己の苦しみと闘うことに夢中で、周囲を見渡す余裕がなかったからだ。
 だがいまさら、どうやって人間関係の機微を学べばいい? 山姥切を腕に抱えて大倶利伽羅から逃げ回った罰として源氏物語五十四帖ぶんの感想文を命じられたときなど、チェックした歌仙は額を押さえて唸っていたし、それを隣で覗き込んだ三日月に至っては三条の者たちを呼ばわり、みなで涙を流して笑っていた。
 少しは雅を解することができるようにとの歌仙の進言による罰だったが、己の情緒のレベルがわずかでも底上げされたとはとても思えなかった。頭を抱えようとしたそのとき、兄弟の穏やかな灼眼とかち合う。

「兄弟にひとつ助言を。他者と言葉を交わすというのは、相手の的のできるだけ意図したところに矢を射ることに似ているのである。狙う姿勢をまずつくってから、得物をそれに従わせるのだ」

 浅葱の髪がさらりと流れて、明けの瞳が叡智を孕む。兄弟は息を呑む俺に微笑み、額と額をぴたりと合わせた。三十七度三分の命の熱が肌から伝わり、感電するように彼の言葉の真意を悟る。

「言葉の矢尻で相手の的を正しく射るには、相手の的がどんなものでできているのか、そもどこにあるのか、その矢が的を貫くに十分か知っていなければならぬ。以前のおぬしは目を閉じたまま矢を適当に放っているだけ、流れ矢が誰かに当たるのも当然である」

 断固たる声で叩き込まれた教訓は、銃口から解き放たれた弾丸の強さで俺の心を貫通した。そうか、そういうことだったのか!

鯰尾藤四郎は思案する
 大広間にどっしりと設えられた折りたたみ式の長い座卓には純白のテーブルクロスが敷かれ、その上には食欲をそそる香りとともに湯気を立てる華やかな料理の数々が所狭しと並んでいる。
 今日は十二月の三十日、みんなだいすき晦日の宴だ。主は明日の早朝に初期刀とともに本丸を発つ。彼女は実家で親類縁者と旧交を温め、帰ってくるのは年明けの一月六日。今日はこの本丸にみんなが揃う今年最後の日である。
 一年の慰労と主の無事の帰還を祈って催されてきた宴も今年で四度目になるが、以前のそれと異なるのは半ば決まっていなかった席順がある程度固定されたことだろう。
 上座の主の両脇を占める初期刀と乱、その隣の秋田は前と同じだが、そこから下座に至るまでの席順は山姥切の席がもっとも下座に固定されたことによって、それぞれの刀剣たちの本歌への肩入れの度合いをあからさまに示す指標となった。
 山姥切の隣に大倶利伽羅が腰を下ろすのと同時に、鯰尾は彼の正面に座った。小豆や江雪、物吉、後藤が山姥切の近くを埋めて、伊達や左文字の兄弟たちがそれに続く。
 一連の動きを渋い顔で見守っていた主が初期刀に耳打ちされてはっと頰を押さえるのをみると、先ほどの表情はどうやら意図せず出てしまったもののようだった。

「みんな、今年も本当にお世話になりました。私は明日から山姥切と一週間留守にするけれど、羽目を外しすぎずに元気で過ごしてね。新年会の出し物、すっごく楽しみにしてます! さて、前置きはこのくらいにして、お待ちかねの、いただきます!!」

 気を取り直して手を打ちならした主に、めいめいが唱和して箸をとる。ちらちらとこちらを窺う主の眼差しに鯰尾が苦笑をこぼすと、まったく同じ表情を浮かべている物吉と目が合い、吹き出してしまう。

「にしても困ったもんだよね〜。でもまあ、なんとかするっきゃないわけで」
「まったくもって同感です。謙信公に倣ってみんなで家出でもしましょうか」

 柔和な笑みを湛えながら物騒なことを口走る物吉に、一瞬座が水を打ったように静まり返る。視界の端で硬直した主には気づかないふりで、鯰尾は軽い調子で言葉を返した。

「あの家臣が言うこと聞かなすぎて出奔しちゃったってやつ? お堅いイメージがあるけど意外と腰の軽いひとだよね」
……行動力云々というより、そうするしかなかったのではないかな。謙信公の実父は長尾為景。上杉家当主の上杉為房を自害に追いこみ、関東管領の上杉顕定を戦で打ちとったかと思えば、上杉定実を傀儡にして勢威ををふるう下克上の見本のような人だ。謙信公はそうした父の行いを背負って名門上杉の養子となり、当主となった。並大抵の苦労ではなかったはず」

 慈愛のこもった瞳で見つめる小豆や歴史を嗜む面々から視線をもらっていることには気づかず、ただただ故人への敬意をもって語る山姥切に、鯰尾は最初にこの刀を好いた理由を思い出す。
 記憶がないことなんて歯牙にもかけていないというふりで、実は何よりその欠落を気にしていた自分。虚勢でもなんでもなく、芯から強い山姥切にどうしてそんなふうにあれるのかと聞いたことがあった。そのときの問答は、鯰尾の心に今も焼きついている。

**

  知ろうとしたからだよ、鯰尾。知りたかったんだ。自分だけじゃなくこの戦に馳せ参じたすべての刀の来歴に、彼らが名を高めた時代に興味があった。俺は南北朝の時代に生まれたが、そこから今に至るまでのすべての記憶を隈なく持ってるわけじゃない。その空白が、欠落が怖かったときもあった。でも山ほど史書を読むうちにたくさん信じたいものを見つけてね、それでいいと思えたんだ。
  いろんな逸話を見つけたよ。たとえば鯰尾、きみに関する面白い話もある。京と鎌倉が並び立っていた時代に、内裏に乗り込み、天皇を弑し奉らんとした武士がいた。かなわぬと見てその場で自害を遂げたけれどね。その彼が持っていた刀の名も鯰尾なんだ。
 それ、俺がやばい逆賊の刀だったかもってことですよね。なにが笑えるんですか? 剣呑に目を細めた己にきょとんと首をかしげて、なんでもないことのようにその打刀は言ってのけた。
 鯰尾、増鏡にはこんなくだりがあるのを知っているかな。あるとき出征した北条泰時は、引き返してきて父義時に聞いた。此度の戦、後鳥羽上皇ご自身が合戦の場に臨幸されたらどうしますとね。義時は言う。君の輿に向かって弓を引くわけにはいかない。そのようなときは冑を脱ぎ、弓の弦を切って仰せに従え。だが君が都にとどまり、軍兵だけを派遣してくるなら、千人が一人になるまで戦うべし。
  わかるかな、合戦に天皇や上皇が輿でちらっと現れだけで戦は終わってしまうんだ。誰も彼もが御身を傷つけ、逆賊の汚名をかぶることを、天罰によって地獄に落ちるのを恐れるためだ。鯰尾を携え内裏に侵入した男だって、怖くなかったはずがない。その試みが成功したとて生かしてもらえるわけもなく、庇護してくれる場所もない。
 これは俺の推測だが、このひとのためなら世界を敵に回してもいい、地獄に落ちても構わない、そういう相手がその武士にはいたのではないかな。鯰尾、これでも逆賊の刀と名を同じくするのは不名誉だと思うか?

**

  元主やその家の歴史を知悉している刀は珍しくないが、自身と関わりのない人間たちの来し方までをも愛をもって学んだ彼はかなり特殊な部類だろう。だがそんな変わり種の彼だからこそ守りたいと思った。こちらを見つめる小豆と目が合い、なんでもないと首を振る。心得たように上杉の太刀は頷き、ものやわらかに言葉を紡いだ。

「やまんばきりはさすがだな、うえすぎのかたなとして、こうのこしかたをしってもらえてうれしいぞ。かちゅうでもうらぎりもののながおのすえっこと、かれをさげすむこえはおおきかった。だからこそかれはぎをとなえ、それをたいげんすることでしゅういのしんをえようとしたのだ」
「なるほど。謙信公は義に厚いという以上に、義を必要としていたわけか」

  ぽそっと言った大倶利伽羅に振り向いた山姥切があっと、小さく声を上げる。

「大倶利伽羅、唇が切れているよ」

 ぱちりと琥珀の瞳が瞬きぺろりと唇の端をなめる。血の味がする、そうつぶやいた大倶利伽羅に向き直り、山姥切がポケットを探った。

「冬はすぐ切れるから用心しないと。じっとしていてくれ」

 山姥切は小さな缶を取り出して蓋を開け、指で中身をひと掬いした。左手で大倶利伽羅の頤を持ち上げ、伊達の刀の唇に丁寧な所作でワセリンを塗っていく。そのありえないほど近い距離感、親密な空気にみなが箸を止めて見入っていることを彼らは知らない。

「うーん、ちょっと多く取りすぎたかな」

 だが周囲にとどめを刺したのは、困ったようにワセリンの残る自分の指を見つめていた山姥切がまあいいかなと呟いて、あろうことか、己の唇に余ったぶんをそのまま塗ったことだった。
 二振りから目を背けるようにして熱い緑茶を煽っていた初期刀が胸を抑えて、げほげほと咳を繰り返す。主が彼の背をやさしくとんとんと叩いて、きっと彼らを睨みつけた。
 まずい、これはあかんやつだ。主は山姥切国広の恋が叶えばいいとは思っていないが、本歌に彼の心を傷つけられることも地雷中の地雷。縁刀でもないのに山姥切長義を孤立させようという彼女の意図にことごとく反する大倶利伽羅も、彼女にとっては目障りな存在だろう。
  彼らにとっては普通――というにはかなり濃厚だが――のふるまいも主にとっては国広を害する行為、あなたの敷いた道は往かないという一種の示威行為のように映るにちがいない。彼女の暴走を止められるとしたら国広だろうが、あのコミュ障にこうした局面での活躍を期待するのは無茶だ。鯰尾が額を押さえたそのとき、

……みんな、私がこの本丸を発つ前に、ひとつ発表したいことがあるの。大倶利伽羅! あなたに、修行を命じます」

 そう来たか。なかなかにやらしい手だ。鯰尾は心中で天を仰いだ。刀がちがった時間軸や場所に飛ばされ、迷子になるといったトラブルがつづき、改良を重ねていくうちに極修行の期間は延長の一途を辿って、今ではまるまる一か月もかかるまでになっている。
 大倶利伽羅は主に拒まれた打刀の存在をこの本丸に固定する錨だ。彼が不在なら俺たちのうちの誰かがその役を担わねばならないが、一朝一夕にできることではない。つまるところ、いろいろ計画したり彼を支えたりするための時間が失われるってことだ。

 それも織り込んでの事なら大した策士だ。しかも表向きは修行を許されたという体なのだから、けんもほろろに断っては角が立つ。そこまで考えを巡らせたとき、大倶利伽羅が勢いよく杯を干して卓に置いた。

「丁重にお断りする」

 ズバン! という音が聞こえるような、快刀乱麻の切れ味でなされた拒絶に、大広間にあふれていた音という音が消失する。

「?! これは主命よ、大倶利伽羅!」

 なんとか回復した主が言い募っても、伊達の刀は小揺るぎもしない。あまりの急展開に顔を引きつらせている山姥切の手をぎゅっと握って、口パクで伝える。だいじょーぶ、大丈夫。伊達の兄さんに面倒は任せて今はお口にチャックです。

「礼に過ぐれば諂いとなる。政宗公が遺した言葉だ。あんたは俺の主だが、だからといってへつらうつもりは微塵もない」

 ついにやったか。ついにやったね。そんな会話が聞こえてくるような鶴丸と燭台切の目だけの会話に、鯰尾は不謹慎な笑いがこみあげてくるのをこらえた。

「兄弟でもなければ縁で結ばれているわけでもない彼を、どうしてそこまで庇い立てするの?! 私の知ってるあなたは、そんな刀じゃない!」
……兄弟刀でも縁刀でもない俺がこいつを護りたいと思うのが、そんなに不思議か」

 空気が変わったのはそのときだった。地を這うような低い声に、主がひっと息を飲む。

「ならあんたのためにも俺たちの関係をはっきりさせておこう。誰か、神酒と朱塗りの盃をくれ、俺とこいつの分で二つだ」

 次郎が先ほどまで抱えこんでいた酒瓶と兄弟が酌み交わしていた二つの杯とが、人づてに大倶利伽羅の手までまわってくる。無造作にそれを受けとった彼は自分と山姥切の前に盃を並べると、なみなみとそこに神酒を注いだ。

……大倶利伽羅、なにを、」
「山姥切、俺と同じようにしてくれ」

 自身の小指を口に含んで牙を立てた大倶利伽羅が、血の滲む指を山姥切の前の酒杯に突っ込む。それを唖然として眺めていた山姥切が大倶利伽羅に肩を叩かれ、弾かれたように小指を噛む。大倶利伽羅の杯に浸した白い指から鮮血がたなびき、澄んだ神酒のおもてにマーブルを描く。

「山姥切、杯を掲げて、俺が言葉を言い終わったら唱和してくれ。それが終わったら互いに腕を絡ませ杯を干す。できるな?」

 山姥切がこくりと頷くのを確認し、大倶利伽羅が背筋を伸ばした。

「我ら病めるときも健やかなるときも苦楽をともにし、互いを愛し、敬い、いつくしむことを此処に誓う。生まれたときはちがえども、死すときは同じであれと天に願う。山姥切、復唱だ」

 杯を掲げた伊達の刀の黒髪がふわりとなびき、その金の瞳のなかにひと雫だけ山姥切の藍が混じる。神秘に満ちた青紫の光が天衣のように収束し、大倶利伽羅の身体をやさしく包みこんだ。

「我ら病めるときも健やかなるときも苦楽をともにし、互いを愛し、敬い、いつくしむことを此処に誓う。生まれたときはちがえども、死すときは同じであれと天に願う」

 山姥切が控えめに杯を持ち上げて言い切ると、その銀髪が巻き上がり、夜空をかたどる瞳のなかに大倶利伽羅の黄金がきらめく。羽衣のような黄緑の光に包まれ、山姥切が瞠目した。

「神も仏もご照覧あれ、この盃を交わすとき我らは持って生まれた縁ではなく、義によって結ばれた兄弟となる」

 持ち主のちがう二つの腕が連理の枝のように絡まり、同時に朱塗りの杯を干したそのとき、大倶利伽羅と山姥切のぐるりをとりまく青紫と黄緑の光が淡く美しいオーロラとなって、義と愛で結ばれた兄弟たちを祝福した。

「これで俺たちは名実ともに義兄弟だ。弟を害する気満々のあんたのもとに遺していけるほど、俺は薄情にはなれないんでな、修行の申し出は断らせてもらう」

 光のカーテンが消えたあとも、金の瞳は瑠璃の欠片を、瑠璃の瞳は金の欠片を保持したままで、あたりは蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
 半狂乱の主を慰めようとする乱に五虎退、無表情で状況を計算する秋田、茫然自失の初期刀という大混乱の上座をよそに真ん中あたりでは石切丸が三日月と無音のハイタッチを交わしている。鯰尾は義兄弟の契りの作法を大倶利伽羅が誰から学んだのか、なんとなく察した。

「なにそれ……なんなのよ……!! あなたなんて、あなたたちなんて、私の刀じゃ、」
「やめろ、主!!!」
「きゃあ?! 痛いよ山姥切、なにするの?!」

 フリーズから解けて早々、ごつんという鈍い音とともに盛大な頭突きをぶちかましてきた初期刀を、主がきっと睨みつける。ここ最近は初恋によるバグで主と関わるすべをまるっと忘れてしまったかに見えた国広は、見違えるような落ち着きをもってそこにいた。

「主、あんたが本歌を受け入れられないのはあんたの心の問題だ。誰かの心にずかずか踏みこんで正しいとか正しくないとか言う気はないし、俺とて他人に容易くそれを許しはしない。だがな」

 彼女の真っ赤になった額にぴたりと己の額を合わせて、国広は一言一句に魂をこめるように言葉を紡いだ。

「誰にも己の心は裁かせないというのなら、あんたにだって大倶利伽羅の心を裁く権利はない、そうじゃないか? 主、あんたが今しようとしたのはそういうことだぞ。なあ、俺の言っている意味がわかるか?」

 恐ろしいほど真剣な翡翠の瞳に射すくめられて、彼女のまあるいこげ茶の瞳に涙の膜が張ってゆく。表面張力ではとどめきれなくなった涙がぽろぽろと白い肌に脱落するのを怯むことなく見つめていた国広の肩を、主がどんと突き飛ばした。

「待て、主! 逃げてはだめだッ!」

 すぱんと襖を開け放ち、ばたばたと逃走をはかった主を追って、音もなく大広間を駆け抜ける初期刀に、鯰尾は精一杯のエールを送った。

「いやはや、爽やかなものよ。これぞ青春というやつだな」
「じいさん、少し黙っててくれ」


審神者の姉は妹の異変を悟る
 今日は一月三十一日、大晦日。一年のほとんどを幽世である本丸で過ごす妹が、刀剣男士を伴って帰ってくる特別な日。鼻歌交じりでテーブルに純白のクロスを敷く母のシュシュでまとめた栗色の髪がお日様に照らされてきらりと光る。

「紫、いま何時かしら?」

 母が私につけてくれた名前は紫じゃないけれど、これはいわば期間限定の仮の名前。彼女が私をその名で呼ぶのは、妹が初期刀を伴って帰ってくるときだけだ。

「十一時五十分だよ、母さん」

 審神者やその家族の真名は刀からは秘匿するのがルールだが、それは万一刀剣が囚われた際、審神者個人を敵方に特定させないためなのだと教えてくれた刀がいる。不安にかられるたびに電話をかけてすっかり相談ダイアルの常連となった私が神隠しを防ぐためなんて噂もあるけどと切り込むと、講義モードで答えてくれた。
 本名を知られてまずいのは刀を虐げている審神者くらいかな。真名を使って主を呪うことはできるけれど、人を呪わば穴ふたつ、その刀は結局砕ける。要は捨て身の特攻だからそういう意味での心配は不要だ。それでもきみ自身や大切な妹さんのためにも、用心に越したことはない。審神者本人は言うに及ばず、家族にもきちんと仮の名を使ってほしいかな。

「もうすぐあの子が帰ってくる、半年ぶりね! 今度は一週間もいられるんだもの、初期刀くんとの進展とか色々聞かなきゃね」
「この前のお盆のときは、なんだかんだいって二日くらいしかいれなかったもんね」

 戸棚を開けて、水色とピンクの装いが華やかな紅茶の缶を取り出す。ウェッジウッドのイングリッシュブレックファストは普段飲むには少々お高めだが、甘くさわやかな風味が妹のお気に入りで帰省する彼女のためのとっておきだ。
 卓にティーセットを並べたとき、インターホンが軽やかな音を立てた。

――来たわ、あの子よ!」
「母さん、あんまりあわてると転ぶよ!」

 盛大にスリッパを蹴散らした母の背を追って、負けじと小走りで玄関に向かう。観音開きの扉をふたりで解き放った先には半年前と変わらぬちんまりした妹のすがたと、その半歩後ろに控えるおとぎ話の王子様のような初期刀がいた。

「おかえりなさい、ふたりとも!」
「よく帰ったね、妹よ! 山姥切も!」

✳︎✳︎✳︎

 モッツァレラチーズとトマトのサラダ、肉汁たっぷりのピリ辛チキン、ふわとろの卵でカレー風味のじゃがいもを包んだ特製オムレツに、かりかりに焼き上げた大皿いっぱいの餃子。
 どれもこれも腕まくりして母とつくった妹の大好物のはずなのに箸を持つ当人は沈んだ顔で、王子様のエメラルドの瞳もどこか硬質な印象だ。

「何かあったの、あんたたち。喧嘩でもした?」
「たしかに変ねえ。山姥切くんも、なんだかいつもと雰囲気がちがうわ」
「御母堂、姉君、俺のことは以後は国広と呼んでくれ。うちの本丸に本歌が来たんだ。美しく気持ちのよい刀で、その名を大層大事にしている。彼が来る機会があったらぜひ山姥切と呼んでやってほしい」

 はーい、と良いお返事で唱和した私たちに翡翠の瞳を細めて、しあわせそうに微笑む彼に息を呑む。黙々と料理を口に運んでいた妹の箸の進みが目に見えて遅くなって、はてと首を傾げたとき、母が歓声を上げた。

「本歌って山姥切長義さんのことよね。やま、失礼、国広くんの本歌は彼だもの!」
「御母堂は彼を、山姥切をご存じなのか?」

 サラダを取り分けようとしていた手がぴたっと止まって、その名が心に火花を起こす。わきわきと込みあげてくるものがある。

……山姥切長義? え、ちょっと若緑、マジであんたの本丸に彼が来たの?!」

 国広とか藤四郎とか名前の一部が同じ刀はたくさんいるけど、山姥切長義なら彼しかいない。怖気づく私たちを励まし、闘う道を示してくれた彼がとうとう妹の本丸に来てくれたのだ!

「お姉ちゃんまで……ふたりともどうして彼を知ってるの?」

 わあっとはしゃぐ私たちを妹は訝しげに、初期刀は興味津々で見守っている。この調子では新聞もろくに読んでいないだろうし、現世の動きを把握しているとは思えない。
 半年ものあいだ離れていた娘に自分が教えられることがあるというのがうれしくてたまらない様子で、母が両手をぱちんと合わせた。

「そりゃあ、よっぽど世情に疎い人でもないかぎり知っているんじゃないかしら」
「ねえ、母さん、いま国会中継やってるよね? なら見せた方が早いよ、はい!」

 テレビのリモコンをとって参議院の予算審議会にチャンネルを合わせる。ごま塩頭のおじさんたちの中で一際目立つしろがねの髪、すっくと伸びた背筋、質問者を真摯に見つめるラピスラズリの瞳に笑みがこぼれた。

「審神者のシステムって私たちにはよくわかんないことが多くてさ、でもちょっと前に家族向けの相談ダイヤルができて、すっごい真摯に対応してくれるひとに会えたの。お役人って良いイメージなかったけど、私も母さんもすっかりファンになっちゃって」

 あなた方を守るべき政府がその心に耐えがたい苦痛を与えたこと、申し開きのしようもない。ところで妹さんのように理不尽な経緯で審神者になった者たちの家族や友人がNPOを結成したのはご存知ですか? 彼らは政府に真相究明の要望書を提出し、訴訟の手助けもしています。体験を共有し支えあうサポートグループにも力を入れているとか。“審神者の人権を守る会”で検索すればHPが出てくるので、よければコンタクトを取ってみてください。
  あの日受話器越しに闘うメリットとデメリットを説明してくれた、誠実な声。辛辣な質問にも礼を尽くすことで、相手を敵から議論を高め合う仲間に変えてしまうその手腕。液晶の向こうの彼は私たちにとって御歳ウン百歳の刀の神様というより先に、温厚篤実だが謂れのない非難には抜群の切れ味を発揮する頼れる能吏様だった。

「いつだったかしら、ご飯の支度してたらいきなりこの子に呼ばれてね、国会中継が流れてたんだけど、そこに出てるひとと電話口のひとの声が同じだって言うのよ。まさかと思ってちらっと見たら、黒髪黒目のおじさんたちのなかで宝石みたいな髪と目をした美形が答弁してるじゃない」

 ちょっと前まで不毛な争いはうんざりと倦厭され、ごくごく一部の人が見るものだった国会中継は彼の登場で高い視聴率を叩き出すようになり、波及効果で投票率まで上昇した。ワイドショーでもかなりもてはやされていたが、電波の通らない本丸でほとんどの時を過ごす妹にとっては完全に守備範囲外の出来事だったのだろう。

「どこのだれさん?! ってググったら歴史修正対策本部付事務次官の山姥切長義さん、生まれは南北朝時代ってほんとぶったまげたわ」
「それから国会中継は録画してるのよね、うち。彼が表に出てくるようになってから情報公開も進んだし、国も家族にやさしくなったわ。まあ、派手に噛みついたからかもしれないけれど」

 くすくすと晴れやかに笑う母に以前のような翳はない。状況は確実によくなっている。みんながみんな敵ではない。審神者やその家族のことを考えてくれるひとたちが、政府のなかにもたしかにいるという事実が母の英気を養った。

「あれくらい当然だよ、母さん。同意なく一般人を審神者として徴発したのは立派な人権侵害だもん。一部の役人が〜なんて、構造的な問題を認めたくない組織の常套句だってあのひとも言ってたじゃん。……怖かったけど勇気出して運動してよかったよね」

 私たちみたいに鬱屈していた多くの家族に幸福を運んでくれた彼が、今度は妹を本丸で支えてくれる。それが心強くて、うれしくて、によによと口角が持ち上がった。

「尻込みする私たちに発破をかけてくれて、影に日向に支えてくれて……政府での立場もあるでしょうに本当によくしてもらったわ。訴訟のごたごたでこの子ったらすっかりファンになっちゃってね、今じゃ一緒に仕事がしたいって公務員試験の勉強まで始めちゃったのよ」

 ぴしゃりと箸を置く音が食卓に響いて、深くうつむいた妹の顔をふだんは横に流しているこげ茶の前髪が覆い隠す。彼女と私のあいだがシャッターでがしゃんと隔てられた気がした。

――ごちそうさま。私、部屋にいるから」
「主、俺も、」
「山姥切はついてこないで!!」

  席を立とうとする初期刀を手ひどく拒絶した妹は追いつめられた手負いの獣みたいで、ばたばたとスリッパを鳴らして駆けてゆく彼女の瞳にはこらえきれない涙がにじんでいた。
 ドアを閉めるバタン! という音と、がちゃりとまわった鍵の音。一気に重くなった沈黙に、最初に耐えられなくなったのは私だった。

――ねえ、本当にどうしたの? あの子、なんだかやけにピリピリしてるし」
「それは……

 言葉を選ぼうと苦心する彼の肩をがしりとつかんで、箸を置いた右手を拘束する。洗いざらい話すまで妹のもとに走ることは許さないと、明確な意図を持ってガンを飛ばした。

「おねがい国広くん、教えてちょうだい」

 拝むようにてのひらを合わせた母が、瞳を不安に潤ませて間髪入れずに泣き落としにかかる。

「すまない……俺の口からは……

 一瞬で前門の虎と後門の狼に退路を塞がれた格好の初期刀が、それでも言葉を濁して切り抜けようとするのをきつい眼差しでにらんでやれば、わかりやすい彼が恥じ入るようにうつむく。
 恥ずべきことをしたのが彼なら迷わずそれを打ち明けて、じっと非難を受け入れるはず。そういう刀だってことは、この四年の付き合いでよくわかっていた。じゃあ恥じなきゃいけないようなことをしたのは、しているのは、

……あの子が傷つけられたなら、あんたは私たちにそれを言うのをためらったりしない。でも躊躇するってことは、もしかしてその逆? あんたのその煮えきらない態度は、あの子がなんかしちゃったから?」
「まあ! あの子が誰かを傷つけたり、困らせるようなことを?」

 図星を突かれように顔を引きつらせた初期刀に、答えを聞くまでもないとすっくと席を立ち上がる。工具箱をひっくり返して目当てのブツを手にすると、ドアにかかったホワイトボードにある“入室禁止”の文字はまるっと無視して、カンカンカンと切り裂くようにノックした。

「開けなさい」
「いや! ほっといてよ!」

 ぐすぐすと鼻を啜るのが聞こえて、がんと扉を蹴りつける。ちょっときついことを言うとすぐ泣いて閉じこもるあの子を部屋から引きずり出すのはいつも私の役目だった。妹の安寧を守ろうとドアと私のあいだに割り込もうとした初期刀をハグで止めた母に感謝しつつ、私は扉に向き直る。

「あんたがひとさまに迷惑かけたってんなら、ほっとくわけにはいかないんだよ! ドアを開けるか、ドアノブごとぶっ壊されるか、十秒以内に選びなさい」

 電動ドライバーのスイッチをオンにし、厳かにテンカウントを始めた私に、ドアの向こうであわてふためく気配がした。

審神者の母は娘を案じる
  おばあちゃんが編んでくれたレースのカーテンが娘の部屋で所在なさげに揺れている。ドリル片手に乗り込んだ姉としぶしぶドアを開けた妹が小さなちゃぶ台を挟んで対峙するのをハラハラと見守る。折り畳みの容易な円卓は小学校に入るときにおじいちゃんに買ってもらったもので、お気に入りのぬいぐるみよろしくどこにでも持ち運んだ結果、大小の傷でいっぱいだった。

「信じらんない。あんた、なんつーことを、」

 小麦色に焼けた両手にがっちりと肩をつかまれて、観念したように事の顛末を話し終えた妹にわなわなと姉が震える。私はといえば本人の口から詳らかにされた彼女の行いやその動機に呆然とするばかりで、心に渦巻く感情に名をつけることすら困難だった。

「お姉ちゃん、長義は付喪神だよ? 超図太いし、そう簡単に傷ついたり、折れたりなんて、」

 弁解がましく添えられた娘の言葉にくらりと眩暈を覚えたとき、パン! という音がして姉の平手打ちが炸裂する。先ほど立ちくらみを起こしかけた私を支えてくれた初期刀が、姉妹のあいだに割りこもうとする気配を感じて、彼をぎゅうっと抱きしめる。

「ふざけんな……相手が付喪神だから? 刀のみんなのこと、自分のために命がけで戦ってくれる大事な仲間って言ってたじゃん。それとも恋敵は例外ってわけ? あんたのいう仲間ってそんな都合よく線を引いたり、引き直したりできるもんなの? そんなの、絶対おかしいよ!」

 あの子はあなたの主かもしれないけれど、それと同じくらい彼女の妹で、私の娘でもあるの。だから今は邪魔をしないであげて。そうささやく私に彼が神妙な顔で頷いたとき、怒りに燃えるあの子の声が空気を裂いた。

「お姉ちゃん、あいつは……!」
「黙りな! いまのあんたはお父さんの胃に穴を開けたやつらと、あのひとを過労死させたやつらと同類だよ……! あんた、そんなことがマジで許されると思ってんの?!」

 夫は役所勤めだったが、苛められていた新人を庇ったことで上司に目をつけられ、村八分にされた挙句、処理しきれないほどの仕事をまわされるようになった。心療内科の門を叩き薬を処方してもらったことで精神は安定したものの、仕事は一向に減らず、ある朝玄関を出ようとしたところで倒れ、還らぬ人となったのだった。
 上の娘が中学生、下の娘が小学生のときだ。祖父母の手を借りながらこの子たちを育てていく上で言い聞かせたのは誰かを傷つけるくらいなら、傷つく方がましだと思えるひとになってほしい、それだけだった。

……それは、でも、私は主でッ、」
「言い訳なんか聞きたくない!」

 顔も見たくない! そう言い捨てて姉が膝小僧に顔を埋める。私はブランケットをとる前にシモンズのベッド――夫が天蓋付きのベッドをねだる娘を諄々と説き伏せて購入したそれ――をそっとなぞった。毛布でお姉ちゃんをラッピングするように包んでから、頑なに目を合わせようとしない妹の横に座る。

「お母さんね、審神者であることが一体どんなことなのか、付喪神がどういう存在なのか、あなた以上に知っているとは思わないわ」

 夫の馴れない日曜大工の賜物である白いカラーボックスの上に鎮座する、シンプルな木のフォトフレームに目をやる。中学の技術の時間に娘が手ずから作ったその写真立てのなかでは、夏の青空をバックにふたりの女の子を腕にぶらさげたあの人が晴れやかに笑っていた。
 ねえあなた、私、この子に何を言うべきかしら。あなたならどうする? 私はどうすべき? 胸に手を当て心に棲む彼に問えば、きみが信じるままを言うんだ、大丈夫だよとあたたかな声が聞こえた気がして、迷いがすうっと晴れてゆく。
 
「でもね、これだけは言える。刀だろうがなんだろうが、言葉を交わして一緒に笑いあえるなら人と大きなちがいはないわ。そしてあなたは審神者である前に人よ。あなたのしたこと、していることは人間として間違ってる」

 思いきり打たれて赤くなった頬をやさしくなでて、表情を隠す長い前髪をそっと払う。ショックを受けたように見開かれたこげ茶の瞳から、ぼろぼろとこぼれる涙にハンカチを押し当てる。

「あなたは恋敵の彼を恨んで、不幸な事故をわざと引き起こそうとした……。法があなたを罰しなくとも自分が道に反したことは、あなたが一番わかってるはず。部下の死を願うモラハラ上司のパワハラなんて現世なら牢屋行きよ……そこのところ、どう思ってるの?」

 審神者じゃないお母さんにはわからない、そんな言葉が出ようものなら、今度は私が頬を張るつもりだった。
 
「そ、れは……

 頰を両手でしっかり包んで、後ろめたげに伏せられたこげ茶の瞳をじいっと覗きこむ。

「お母さん、あなたにそんなことができてしまうなんて思わなかった……。あなたの本丸の山姥切さんに、なんてお詫びしたらいいのか……

 うるうるとにじむ目もとを袖でぬぐって、口を開こうとした娘をきっとにらむ。ここでしっかり是非を糺して自分の過ちと向き合わせないと取り返しのつかないことになる、そんな気がした。

「お母さんは、お母さんはッ、私とちがって長義を知らないから……!」
――知ってるわ。非公式とはいえ、彼は家族会の相談役だもの。大晦日から三が日までだったお休みが六日まで伸びたり、お盆に帰省できるようになったのは山姥切さんが私たち家族の気持ちを慮って、走り回ってくれたからだわ。いま世間では一部の審神者の行動が問題になっているけれど、彼はいつだって矢面に立ってあなたたちの名誉を守ってきたのよ」

 本丸を舞台にしたアニメが人気を博したのをきっかけに審神者たちのふるまいは週刊誌やテレビを賑わすようになったが、全部がぜんぶ好意的なものではなかった。新聞もニュースもワイドショーもてんで興味のない目の前の我が子に期待していたわけではないが、それでもこれは疎すぎる。

「世間で問題……? なにそれ?」

 呆然とつぶやく娘に状況をかいつまんで説明するのは、毛布から顔を出した姉だ。

「あんたら審神者は一年のほとんどを部下に囲まれて本丸に缶詰めになるでしょ? そのストレスのせいか、現世で羽を伸ばしすぎちゃう馬鹿もいるってこと」
「冠婚葬祭の席で延々と刀自慢にふけるのは可愛い方で、望まぬ縁組を強いられる弱者を演じて義憤にかられた刀剣男士にお見合い相手を脅させたり、相続の話し合いに刀を同伴して家族に圧をかけるなんて話もあったわ」

 部屋の隅でお行儀よく正座していた初期刀がびくりと肩を震わせたのをとらえて、申し訳ない気持ちになる。娘もまたそういう人たちと同じように初期刀の好意に寄りかかり、自らの手を汚すことなく本歌に非道を働いてきたのだ。

……でも本当に深刻なのは、事件の容疑者が審神者だったときだよ。法的にも物理的にも幽世と現世の間の壁が高すぎて、捜査が全然進まない。そういう透明性のないプロセスのせいで普通の人が審神者に反感を持ちやすくなってる。特権階級みたいだって」
「でもそんなの、全体のほんの一部なのに!」

 狼狽したように言葉を紡ぐ娘に、ため息をこらえる。簡潔で舌鋒鋭い質問にも真摯に答えていたあの会見での彼を思う。
 審神者の犯罪捜査への道は着実に開かれつつありますが、まだまだ課題が山積していることも事実です。法整備や人的資源の投入を急ぎ、どれほどの困難が伴おうと必ず正義を実現します。関連法案が今月末に審議されるのでその折にも進捗をお知らせします。何か質問はございますか?
 世論が沸騰していただけに、あの会見はネットニュースの見出しにもなった。わかってはいたけれど、やっぱりこの子、社会に興味がなさすぎる。審神者はある種の公務員で、世の大勢に我関せずというわけにはいかないのに。

「若者とか高齢者とか外国人叩きなんかと一緒だよ、ひと握りの人たちの行いで全体を語っちゃう。でもそういうことが話題になる度に、広報の山姥切さんが統計や資料をどっさり抱えて会見開いたりテレビ出たりして、地道に火消しをしてきたんだよ。あんたが今いびり倒してんのは、そういう人なの」

 世間からどう思われるかといったことには関心が薄い傾向にある審神者たち、秘密主義に走りがちな政府、両者に疑いの眼差しを向ける国民。そういう三者の仲立ちとして、常に奔走してきたのが山姥切という刀だった。

「長義が政府でそんなことまでしてたなんて」

 だから、審神者の家族たちのあいだで彼への人気は高かった。そんな彼に娘が無体をはたらいているというのなら、断じてそのままにしておくわけにはいかない。額をぴたりとくっつけて、私とおそろいの榛の瞳をがっちりとらえる。

「お母さん、そろそろあなたの考えが聞きたいわ。本丸に戻ったら彼をどうするつもり?」

審神者は心を決めて新年を迎える
 床の間を華やかに彩る、松竹梅が品よく活けられた瑠璃の壺。それに負けじと花を添えるのは掛け軸のなかで遊ぶ鶴と亀で、めでたいモチーフがその質感や色合いで互いを絢爛に引き立てあうさまは、一目で歌仙の趣味とわかった。
 今日は一月七日、年が明けて初めて皆が一堂に会する新年会の日だ。お雑煮入りの朱塗りの椀とおせち料理の入った漆の重箱の前で姿勢を正している刀たちを見回し、すうっと息を吸う。

「みんな、私が留守の間、本丸を守ってくれてありがとう。こうして無事にあなたたちと新年を迎えられて、とてもうれしいです。不束な私ですが、今年もよろしくお願いします。では声を揃えて――いただきます!」

 パチン! と手と手を合わせて礼をした私に唱和する声が続いて、彼方此方で歓談に花が咲く。今年の余興はどんなものになるのか、ああでもないこうでもないと盛り上がる面々のなかで、しっとりと互いの杯にお酒を注ぎ合う二振りを見つけて、胸がずしりと重くなる。
 脳裏によみがえるのは、主命を拒否した大倶利伽羅の鋭い瞳と交わされた義兄弟の盃、二振りを引き離すのに修行を使おうとした私をきっぱり諭した、山姥切の断固たる声。

「主、彼らが気になるのか?」
……ううん、ちょっと見てただけ」

  こちらを心配そうに窺う初期刀に首を振り、お雑煮の椀で顔を隠す。この恋の終わりを引き延ばすためなら、どんなことでもしてみせる、そう思っていたはずだった。
 長義に恋する山姥切は、彼を失えばこの世の終わりのように悲しむだろうけど、最後は私を許してくれる。だいきらいな政府で愛され、大事にされてきた本歌なんか私の刀じゃない。山姥切に対して己の写しであることを光栄に思えと言わんばかりの態度をとる長義なんか、どうなったって構わない。そう思っていた、はずだったのに。
 皆の視線にいたたまれなくなって子どものように広間を飛び出した私の手を引き、宴の席に連れ戻した山姥切の手のぬくもり。私が長義にしたことを告白したときの、家族の顔。でも積み上げてきた言い訳のジェンガを突き崩したのは、夜明け前の路地裏でした山姥切との会話だった。

初期刀は審神者の恋を受けとめる
 布団を頭からかぶって、何度も何度も寝返りを打つ。真っ暗な部屋にチクタクと時計の音が響いて、母と姉の失望したような表情が瞼の裏でよみがえる。毛布を投げ捨て端末に手を伸ばせば、午前五時の文字がぽうっと浮かんだ。握りしめたそれを懐中電灯の代わりにして、クローゼットからダウンコートを取り出す。
 リビングのソファベッドで眠る山姥切を起こさないよう抜き足差し足で適当な靴をつっかけ、玄関を開けた。小雨を身に受けながら、街灯もなければ人通りもない道をあてどなく歩く。シャワーで身体の汚れを落とすみたいに、心の靄も押し流してしまえたらいいのに。頭上に傘が差しかけられたのは、そんな益体もないことを考えていたときだった。

「山姥切、今はひとりにして」
……俺と一緒にいるのはいやか?」

 紺のウインドブレーカーの上下に母の手編みの赤いマフラー、肩には得物の入った竹刀袋という格好で、山姥切はそこにいた。小学生の頃から使っている小花を散らした水色の傘が、雨滴を弾いて音を立てる。

「お説教なら聞きたくない。頼むからどっか行ってて!」

 みじめで放っておいてほしくて、山姥切から顔を背ける。彼と向き合うのが怖くて、その翡翠の目に軽蔑の色を見たくなくて、衝動のまま足が駆け出す。右足で大きく踏み込み駆けようとしたそのとき、つま先からぶかぶかのスニーカーがすっぽ抜けて、ぐらりとバランスを崩した。
 スローモーションのように目の前をいかついスニーカーが舞い、そのとき初めて自分が姉のナイキを履いてきてしまったことに気づく。顔を守ろうと咄嗟に腕を突き出したとき、一瞬のうちに駆け抜けてきた初期刀が私を受けとめ、流れるように抱え上げた。

――主、俺はあんたを追い詰めたりしない。どうしてそれがわからない?」

 耳元で唸る低い声はやるせなさに満ちていて、鼻先がふれそうな距離で私を見つめる翡翠の瞳は心配に暗く翳っていた。

「俺は本歌への想いに振り回されて、彼を散々追いかけまわした。あんたに説教できる立場じゃない。……主、頭がぐちゃぐちゃで、どうしようもないんだろう? あんたを一人にしたくない。頼むから側にいさせてくれ」

 受け取った傘の柄を握りしめてうつむく。私を抱えたまま姉のナイキを山姥切が拾って、王子様よろしく靴下だけになっていた右足をそっと差し入れてくれる。ちがうのは、私は彼のお姫様じゃないってことだけ。じくじくと痛む胸を押さえる。丁寧に靴紐を結ぶ指を見ながら、気づけば口を開いていた。

「どうしてそんなふうに耐えられるの?」
「なにをだ、主?」

 よし、できた。歩いていいぞ。そんな言葉とともに靴をとんとんと指で叩いた山姥切をきっとにらんで、立ち上がる。

「長義の王子様は大倶利伽羅で、万に一つの望みもないってわかってるんでしょ?  どうして正気でいられるの?! 私なんて、頭がおかしくなりそうなのに!」

 誤魔化すことは許さない、そんな想いで叩きつけると山姥切が傷ついたようにうつむき、望みはないと断じたことが少しだけ後ろめたくなる。

……主、俺は大倶利伽羅と本歌が親しげにしているのを見ると、鳩尾のあたりがきりきりと痛む。彼の無関心が息もできぬほどつらくて、目が合うだけで心臓を握られる心地がする。兄弟に助けられて平静を装えるようにこそなったが、これは正気と言えるのか?」

 彼の深いところから汲み上げられた、純粋な問いが私の心を貫通する。山姥切が長義を慕う気持ちを心のどこかで見くびっていた。彼の想いの熱量よりも、私が彼に傾ける感情の総量の方がずっとずっと大きくて深い、そんなふうに決めてかかっていたのだ。

「山姥切、前はすぐ顔に出たのに平気なふりができるようになったんだね。すごいな、あの人。どんどんあなたを変えてって……でも私、」

 とんでもない見当違いだった。言葉を飾らぬ彼が鳩尾が痛んで、息も上手にできなくて、相手の言動に心臓を握られる思いがすると言ったなら、それは比喩ではなく文字通りの意味なのだ。私と同じだけの熱と痛みを抱えてもなお、山姥切は恋情を抑え、顔をしゃんと上げている。心のままに生きてきたはずの彼が、己を戒め律している。
 こんなに苦しい想いを抱えて、それでも背筋を伸ばしてる。それに比べて私は……。傘の柄を握る指に力が入ったとき、上からあたたかな手が重なる。

「主、我慢するな。思っていること全部、吐いてしまえばいい」

 吐息のようなその声は泣きたくなるくらいやさしくて、私の堰を決壊させる。涙で染まった視界の向こうで、朝露に濡れる森のような瞳が揺らめき、太陽みたいな黄金の髪が夜風になびく。

……山姥切、私、あなたが好きなの。あなたを、あ、愛してる。あいつじゃなくて、私を見て、私にこたえて!」

 決して私のものにはならない、心も外見も宝石みたいに美しいひと。少し前まで自分の王子様だと信じて疑わなかった、私の初期刀。 
 暴れる感情に突き動かされ、傘を地面に放り出す。叩きつけるように言葉をぶつけて、その胸倉を揺さぶる。私ごときの力ではびくともしない山姥切の頑丈さが、このときばかりは憎かった。悲しげに凪いだ瞳に波紋一つ起こせない自分に敗北感が募って、目の前が真っ暗になる。

「ずっと一緒にいたのに、なんで? どうして私じゃだめで、よりにもよってあいつなの?! ひどい、ひどいよ……!!」

  駄々っ子のように泣きじゃくりながら彼の胸をべしべし叩いたとき、山姥切に抱きしめられて、世界のすべてが静止する。

「かわいそうにな、主……俺は所詮鋼の身、傷心で折れたりしないが、」

 私の頭を肩にもたせて、武骨な指が壊れ物にふれるようにぐしゃぐしゃの髪を梳いてくれる。とんとんと、背中をさする手の穏やかなリズム。

「あんたは俺とちがって、若く脆い。耐えるのはさぞしんどかろう。主、俺はあんたの側にいる。好きなだけ泣いていいんだ」

  荒々しいところは微塵もないその仕草が、彼に狂おしく望まれることはない己の立場を明示しているようでどうしようもなく悔しいのに、なぜたが心がやすらいでゆく。降りしきる冷たい雨が、私のなかの汚いものを洗い清める。

……ねえ、人を燃やすとき、いちばん最後まで燃えてるのって心臓なんだって。知ってた?」

 彼の耳元でそうささやけば、山姥切がふるふると肩越しに首を振る。

「夜に火をつけるとね、身体は一晩かけて燃えつきるけど、心臓は明け方くらいまでじりじり燃えてるんだって。不思議だよね……

 一年ほど前に母に薦められて手にとったハン・ガンという韓国の女性作家の短編集、喪失と再生がテーマの物語の一節だった。白地に淡色で女性の顔をぼかした美しい表紙に感嘆し、憂いに満ちた物語にどっぷり浸りながら、自分だけは喪失と無縁でいられると思っていたあの日の私。

「そのときはロマンチックだと思っただけど、今は馬鹿みたいって腹が立つの。ちょっとばかりこの世に長く居座ったところで、最後は塵になるしかないのに朝まで粘ってどうするの? さっさと燃え尽きちゃうのが一番じゃない」

 最後は灰になるしかないのに、往生際悪くのたうちまわるばかり。彼の想いを知ってからというもの、この恋を終わらせたくないと、それしか考えられなかった。でも今は目の前の刀にひと思いにとどめを刺してもらうのもいいかもしれない、そんな気持ちになっていた。

「望みはないとわかっていても、望む気持ちは抑えられない。それが人情というものだ」

 実感のこもった言葉に胸はぎしぎし軋んでいるのに、思わずくすりと笑ってしまった。だっておかしい。これだけのすったもんだの後で私たち、なにお互いに片想いの苦労なんて分かち合っているんだろう。

「なんでこんなに苦しいんだろ? 別の生き物に寄生されて、そいつの巻き添えで死にかけてるみたいな感じなの」

 胸骨のあいだのくぼんだところ、臓器はなにも入ってないそこが今こんなにも痛むのは、きっと終わりが近いから。長義が彼の心をかっさらっていくまでは、身体にそんな場所があることすら知らなかったのに、差し込みのように襲ってくる痛みとともに今ではすっかり覚えてしまったそこをなぞる。

……言い得て妙かもしれないな。なあ、俺のおまじないを教えようか? 兄弟に教えてもらったんだが、きついときによく唱えるんだ」

 こくりと頷き、ちいさな声で教えてとつぶやいた私に、山姥切がすうっと息を整える。

よろづ有漏 うろと知りぬれば、阿鼻 あびの炎も心から、極楽浄土の池水 いけみずも、心澄みては隔てなし」
……それって、どういう意味なの?」

 おずおずとたずねる私の頭を手ぬぐいでふいて、山姥切がふわりと傘を差しかける。

「有漏というのは煩悩や迷いの世界を指す。阿鼻叫喚せずにはいられないような苦しみもすべては己の胸ひとつ、心さえ澄んだ状態に保っていれば、地獄の業火のなかでも極楽浄土の池水を感じられる、とまあ、こういう意味の歌だ」

 弾かれた滴が奏でるささやかな雨の合奏に彼の朗々たる低音が響いて、歌の意味が心にじんわりと沁み入ってくる。

「山伏らしい歌だね。気にするもんかって見ないふりしてきたけど、今の私の心が目に見えたら、真っ黒でどろどろしていて、下水みたいにきっとすっごく汚いんだろうな」

 思わず顔をうつむけた私の頰を山姥切のてのひらがすっぽり包んで、くいっと顎を持ち上げられる。春の日差しに照らされたような若草の瞳は、自嘲の翳りと同じだけの決意の色に満ちていて、その美しさに息が止まる。

「なら俺の心も同じだな、きっと底なしの泥沼だ。だがたとえ報われる日が来なくとも、俺はこの気持ちを捨てられない。刃が折れるその瞬間まで大事に抱えて過ごすだろう。だからこそ、この痛みや苦しみを愛してみせると決めたんだ」

 いつしか雨は止んでいて、闇の帳に包まれていたはずの路地裏に駆け足で朝がやって来る。

「なにそれ、そんなふうにかっこよく言われたら私、いつまでもみっともないことできないじゃない。山姥切のばか……!」

 こぼれる涙をぎゅっと拭って青に藤色、ほんの少しの茜に橙が入り混じる曙光に照らされる初期刀を心にしっかり焼きつける。

「主、じきに夜が明ける。一緒に見よう」
 
 久しぶりに見た彼の弾けるような笑顔、この世のものとは思えないほど純な光を宿す瞳に、やっとの思いで覚悟を決める。
 私の愛着、私の妄執、私の欲の化合物。恋と名づけて大事にしてきたそれを、これから少しずつ分解してゆく。今は毒でしかないこの気持ちを、かならず土に還してみせる。
 さよなら、私の恋心。私がつくりあげた、王子様のまぼろし。はじめまして、本歌に恋する山姥切国広。

***

 どんなに心が痛くとも、長義に恋する初期刀を受け入れ、山姥切が慕う本歌を己が刀として平等に扱う。あの笑顔をもう一度見るためなら、私はきっとできるはず。
 長義に抱く複雑な思いや、この心の奥深くに根を張る彼への恋慕の情は、簡単には手懐けられない猛獣みたいなものだけれど、私には好きな人からもらった呪文がある。
 相手の食べたいものを視線で察知し、無言のうちに互いの皿に取り分ける義兄弟を焦がれるように見つめる、山姥切の透きとおった緑の瞳。彼の頰を手のひらで包んで私を見てと懇願したい、そんな衝動をこらえる。よろずをうろとしりぬれば。大丈夫、彼の笑顔こそ私にとってこの世で一等大切なもの。

……主さん、大丈夫?」
「私は大丈夫だよ、乱」

 もう二度と優先すべきものを見誤ったりはしない。心配そうにこちらを見ていた乱に笑みを投げかけると、こちらを観察していた秋田の瞳があたたかな承認の色を宿した。ちゃんとわかってるよ、秋田。私、きっと頑張れるから。

加州清光は感慨深く義兄弟を見守る
 睦まじげに談笑する二振りの下ろしたての着物――大倶利伽羅が自分と山姥切のためにわざわざあつらえ、年末年始の外出禁止の慣行を破る口実となったそれ――に加州はちらりと目をやり、なんの因果か外出の許可を出すことになった新選組の面々と顔を見合わせた。みな程度の差こそあれ意外な顔をしているのは着物の受け取りが山姥切の用件を済ませるための方便でしかないと思っていたからだろう。
 仲間たちがそわそわするのもわかる。新年の宴ではめかしこむ刀も多く、この日のために着物を仕立てるのも珍しくはない。だがそうした洒落者の輪には決して入らず、いつも地味な紺絣で通していた大倶利伽羅が、華麗なペアルックならぬ義兄弟コーデで現れたとあっては、騒めくなという方が無理な話だ。
 大倶利伽羅のグレー地の着物に大胆な筆致で描かれた純白の雲と金の朝日、悠々と遊ぶ青い龍。山姥切の紺地のそれには繊細なタッチで、水平線に沈む茜の夕日と穏やかな湖で身体を休める白銀の龍が躍っている。雅なことには明るくない加州にも、彼らの意匠が対をなすものであるのは一目瞭然で、隣に座っていた歌仙が己の予感を教養という名のセメントで固めてくれた。
 昇る太陽と沈む夕日、東の青龍に西の白龍。雲を起こし雷を生む天上の龍と、嵐を呼び水にやすらう地上の龍。まったく魂の兄弟にふさわしい装いだね。あの東北の田舎刀にこんな瀟洒な一面があったとは恐れ入ったよ。渇いた笑いとともに嘆息した歌仙に、加州は顔を引きつらせつつ同意を示すことしかできなかった。
 自分たちの動揺などどこ吹く風で楽しげに杯を交わす彼らをほんのちょっぴりうらめしい気持ちで眺めていると、にわかに大倶利伽羅が山姥切をじいっと見つめる。

「どうした、大倶利伽羅? 俺の顔に何かついてるのかな」
……いや、そういう格好をするとだいぶん雰囲気が変わるな、と」

 まあたしかに、と加州は思う。今日は特別な席だからか、山姥切の薄いまぶたには山伏や神刀たちが引くようなあざやかな紅がすっとひとすじ引かれていて、鶴丸が施したというその戦化粧は彼の纏う見慣れぬ衣装ともあいまって、ある種の神聖な美しさを漂わせていた。たぶん、大倶利伽羅が言っているのもそういうことなんだろうと、加州がひとり納得しかけたそのとき、

「まあいつもは部屋も暗いし、きみと寝るときは服なんか着ていないも同然だからね」

 本歌が爆弾を投下した。歓談にふけっていた仲間たちの声がぱたりと死に絶え、たっぷり十秒ものあいだ、大広間の上座から下座までを天使がさあっと通り抜ける。そうかと思えばよーいドンの合図よろしく、すわ結納か、三日夜の餅かと刀たちが騒ぎはじめた。
 ぴしりと固まり、通夜モードに突入した初期刀とそんな彼を慰めようとおろおろする主をしり目に、賭けの胴元である三日月が目をかがやかせて二振りに真偽を問う。わたわたと手を振りながら面目なさげに関係を否定する山姥切の横から大倶利伽羅が涼しい顔で火に油を注ぎまくるので、刀たちのどよめきが大きくなる。
 まったく、物見高いんだから。普段の自分は棚に上げて、ぽいっとミートボールを口に放る。加州にしてみれば伊達組や本歌ゆかりの刀たちがこのカオスな状況のなか平然と食事を続けている時点で、先ほどの山姥切の発言が単なる誤爆であることは明らかだった。
 あの二人はもう行きつくとこまで行きついちゃってんだから、今さら惚れた腫れたの関係にはならねーでしょ。ぐいと強いのを引っかけたい気分になって杯を引き寄せれば、安定がなんとも言えない微妙な顔で酒を継ぎ足してくれた。
 浮き立つ他の刀たちに比べて新選組の面々がいやに静かなのは、やっぱり主の帰省中に大浴場で持たれた、あの話し合いが原因なのだろう。加州はいろいろな意味で情報過多だった会合を思ってため息をつきたくなるのをこらえた。

***

 大きな窓から降り注ぐ夕日が石造りの浴槽をやわらかく包んで、淵までなみなみと張られた湯はほんのり茜色を孕んでいる。いつもだったら歓声をあげて我先にと飛び込むところだが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。
 理由はひとえに湯船でお行儀よく待っている山姥切と大倶利伽羅の義兄弟コンビと、浴室の扉の前で好奇心旺盛な短刀たちが闖入してきた場合に備えて番をしている鶴丸国永の存在による。
 この本丸の大浴場は三十振り以上の刀が一度にくつろげるほど、贅沢なつくりではない。せいぜい心地よく過ごせるのは十振りから十五振りが限度で、ここでは縁ある刀たちをひとまとめにして入浴時間を区切り、ひと月ごとにローテーションしていくやり方をとっていた。
 今月新選組に割り振られたのは午後三時から四時半の時間帯で、断りなくその時間に入浴するのはルール違反だが、なにかしらの事情があるのは脱衣場で自分たちを待っていた山姥切の言葉と大倶利伽羅、鶴丸の真剣な表情に明らかだった。
 きみたちの団欒に割り込むのは気が引けるんだが、こちらも差し迫った案件を抱えていてね、どうしても内密に相談したいことがある。風呂なら誰に聞かれる心配もないし、どうか俺たちにもお邪魔させてくれないかな。
 コンマ一秒で快諾した長曾根に和泉守の待ったがかかかることはなかった。となればそれは、対外的には新選組の総意も同じ。複雑そうに目を伏せた堀川を気遣いながら、加州と安定は湯殿の暖簾をくぐったのだった。

新選組は山姥切と相対する
 湯気のたちのぼる浴槽に肩まで浸かって、加州たち新選組と義兄弟とが向かい合う。

「単刀直入に言う。俺と大倶利伽羅が一月三日に外出する許しをいただきたい」

 頬を上気させた山姥切がざっくばらんにそう告げると鷹揚に構えていた長曽祢がくいと片眉を上げ、和泉守が訝しそうに目をすがめた。本歌の意図がつかめないのは安定や堀川も同じらしく、困惑した様子の二振りと顔を見合わせ、加州はことりと首を傾げた。
 今回の里帰りにあたって、主がゲートの鍵となる軍配を預けたのは長曽祢だから、彼に二振りの外出を許可する権限があるのは確かだ。でも審神者不在の年末年始は主の帰る場所を守るのが臣の務めと、城下町への出入りは避けるのがこの本丸の不文律。それでも外出したいなら軍配を預かる者を説得する必要があるが、山姥切がどんな事情を抱えているのか、加州には見当もつかなかった。

「理由を聞かせてもらわなくては、俺としても返事のしようがないな。山姥切、ゲートを開けば履歴が残る。政府から来たお前に主がひとかたならぬ疑心を持っているのは承知だろう。どうしてそんなリスクを取る?」

 ふっと軽く息をつき、姿勢を正した山姥切の白い指に大倶利伽羅の褐色の指が絡まる。ちょっと、そういうのはよそでやってくんない? そう言いかけたとき、嘘偽りは言わないこと、質問には包み隠さず答えることを山姥切がその名と刃、義兄弟との絆にかけて誓い、浴槽の湯が生き物のように脈動する。
 ゆらめく水面のなかで青紫と黄緑の光の粒子が比翼の鳥のかたちをとって、堅牢な鎖が誓いを保持する。その誓いが破られたとき、彼らはともに葬られる。加州は涼しい顔で山姥切に自分の命を賭けさせた大倶利伽羅に瞠目した。

「今から話すことは、他言無用に願いたい」

 そこから始まった本歌の説明は平淡でわかりやすかったが、あいにくその内容は加州の予想の遥か斜め上を後方宙返りするようなトンデモっぷりで、ついていくので精一杯だ。
 乱がラインで送ってきた動画のなかで思いっきり頬を張られていた他所の本丸の山姥切――自分を詰る審神者に往来で喰ってかかり、己の同位体のくせに無様を晒すなとキレたうちの山姥切に、いきなり斬りかかられた彼――の審神者は、実は現世で強姦の容疑をかけられていた。
 そこに配属された山姥切の役目はDNA鑑定のために審神者の皮膚や髪の毛、体液を入手し、特殊な端末を通して政府に転送すること、審神者を監視し、その逃亡を防ぐことだったが、配属初日に持ち物すべてを没収された。困った山姥切は同位体の地雷ワードをふんだんに使って主を往来で詰り倒し、あえて醜態をさらして血気盛んな己を釣りあげ、通報を受けて自分たちを連行するだろう政府の刀に取調室で証拠を渡そうと画策した。
 独創的なその策は彼というルアーにうちの山姥切が食いついたところまではよかったものの、駆けつけた政府刀が特殊部隊の出だったことで暗転する。容疑をかけられている審神者の父は財務部の大黒柱で、歴史修正主義者との戦において必須である予算を熟練の狩人よろしく奪取するエースだった。
 過労で戦線離脱していく仲間の分もしゃにむに仕事をこなした父は息子が二歳にもならぬうちに離縁されたため、彼が息子に連座するいわれはないが、政敵と週刊誌に組まれてしまえば世論を沸騰させるのは簡単だ。財務部のトップたる父親の政敵とは毎年のように予算の増額をゴリ押ししてくる特務部――実戦部隊で構成された誇り高い軍人たちの牙城――であり、それこそが政府つきの山姥切長義の所属する部署だった。
 彼が上司に証拠を渡せば、武人の長が反目する会計屋の長の急所をおさえることになる。これはまずいとビビった二振りは、上官に情報を秘匿するなど軍人失格と渋る政府の本歌を拝み倒して証拠を回収、彼の気が変わらぬうちにダッシュでその場をあとにした。かくして証拠はうちの山姥切の手に渡った。

――政府にいたころの部下が城下町まで証拠をとりに来てくれることになったはいいが、直近で身体が空くのは一月三日のみらしくてね……そういうわけで、どうしても外出許可がほしい。ご助力いただけないだろうか?」

 山姥切の真摯な声に長曽祢と和泉守が目だけで対応を相談する。彼らの瞳が少なからぬ興味と好感にじわりと光って、加州には暗黙のうちに交わされる会話の中身が手に取るようにわかった。

……そうだな、」

 長曽祢の組まれていた腕がほどけて、ぱしゃりと水面から引き出される。顎に手を添えるのは悪くないと思っているとき。そんな彼を諌めるでもない和泉守に拳を握る。いやいや勘弁してよ、どっちも完全に乗り気じゃん。こうやって大義のために自分を平然と駒にするとこ、めちゃくちゃ鬼の副長を彷彿とさせるもんね。あんたらが惹かれるのもわかる、わかるけど!

――山姥切の言動に後ろ暗い意図がないのは明らかだし、俺は彼を助けるのは士道に則った行為だと思う。みな、異論があったら述べてくれ」
「じゃあ遠慮なく、異議ありィ!」

 しぶきを上げる勢いで手を上げて、盛大に物言いをつける。偽物呼びや愛されることを当然とするような態度の山姥切を苦手に思っていた時期もあったが、ともに出陣したことや演練での騒動で彼への見方は大きく変わった。今ではなかなか骨のあるやつじゃんとすら思っている。
 だからあの演練事件に深い訳があったと知って、むしろ感心する長曾根や和泉守の気持ちもよくわかるのだ。でも彼の古巣たる政府を加州はいまいち信じきれなかった。

「山姥切の肚は疑ってないけど、政府を信じる気にはなれないね。胡散臭いお上のために俺たち新選組が主の背後で動くなんて、マジで気が進まねーってのが本音。ねえ山姥切、あんたの古巣がうちの主に何したか知ってる?」
「主は攫われるようにして審神者にされたと」
「それだけじゃないよ。家族や友達と引き離されて、本丸なんて得体の知れないとこに放り込まれて、ただでさえ心細かったろうに、初陣から国広が血だらけで帰ってきたと思ったらあんなことになって……

 安定がぴりぴりとした空気を放ち、俯いていた堀川が殺気を帯びる。長曾根や和泉守は山姥切を推し量るようにしげしげと眺めて、急変した空気に目を瞬く山姥切の手を大倶利伽羅が湯船のなかでそっと握った。

「あんなこと?」
「いきなりこんのすけが消えて、水や電気、通信機能みたいなライフラインが軒並み断絶、ゲートも鍛刀所もみんな麻痺して、そこから一ヶ月サバイバル生活だって。バリバリ未成年の女の子が、顕現したてで重傷の刀と二人きりでだぜ? ほんっと、信じらんないよ」
「一ヶ月のあいだサバイバル……?」

 山姥切に罪はないが、その呆然とした様に腹が立ち、湯船をきっと睨みつける。そっちは主のことをやたらめったら政府に盾突く分からずやだと思ってるかもしれないけど、あの子にだって事情はある。肌に馴染んできた湯のなかで拳を握ったり開いたりしながら、加州は不満をぶちまけた。

「メンテのときにバグったとかなんとか説明っぽいものはあったらしいけどさ、新しい担当が一言謝って終わりって、いくらなんでもバカにしてね? 古巣を大事に思ってる山姥切には悪いけど、政府がマジで信頼できる組織なのか、俺はどうにも不安でね、たぶん安定も同じだろ?」
「まあ、だいたいこいつの言う通りかな」

 澄まし顔の安定が目だけでいいぞ、もっとやれと伝えてくる。ちょっと、それだけ? もっと積極的に協力してくれてもいいんじゃないの。俺らの仕事は本歌を揺さぶって、我らが局長と副長に判断材料を与えることだってのに。

「就任初日にそんなトラブルが、しかもひと月? メンテナンスのバグで本丸が孤立するなんて聞いたことが……まてまてまて、主が就任したのは何年何月何日かな」
「? 2×××年の四月一日だけど、」
――暗黒の月曜日、血まみれのエイプリルフールか! でもあの事件は週刊誌にすっぱ抜かれて、新聞でもずいぶん取り上げられたはずだ。主が知らないわけが……

 暗黒の月曜日、血まみれのエイプリルフール。意味深なワードをつぶやく山姥切に安定と首をかしげていると、今まで静観の体だった和泉守が助け船を出した。

「うちの主は世間への関心が薄くてな、投票も俺らに尻たたかれてようやく行く始末だし、審神者新聞だってろくに読んじゃいねえ。俺らがチェックしてる今ならともかく、前はなんかでかい事件があってもスルーだろうよ」

 明治・大正・昭和戦前と選挙権のために交番や電車に放火する民衆、それに負けじとサーベルで斬りかかる官憲という物騒すぎる半官半民のダンスを見てきた加州たち幕末の刀にとっては、年若い娘が投票権を持っているだけで驚きなのに、彼女は多くの人の命で贖われたその権利を隙あらば捨て置こうとする。これではいけないという陸奥守の提案で、各党のマニフェストや評判をさらい、投票前の主にプレゼン、そのまま現世に送り出すのが恒例行事となっても、世間一般に興味のない主の姿勢はあいかわらずだった。
 なんだか、猛烈に嫌な予感がする。加州が次の衝撃に備えたとき、顎に手をあてて黙考していた長曽祢が口火を切った。

……それで山姥切、その暗黒の月曜日、血まみれのエイプリルフールとは?」
「サーバーのメンテナンスであわただしくしていたところを衝かれて、山城、備前、相模の本営が大規模かつ同時多発的な襲撃を受けたんだ。俺の部署では殉職者こそ出なかったが、とにかく負傷者が多くてね。そうか……あの混乱の煽りを喰らって、主の本丸は孤立したのか……
「ちょーっと待った。なにそれ、一体どういうこと?! そんな大事件、俺らが知らないでここまで来ちゃうなんておかしくね?!」

***

 ここはひとつ、彼が信じるものを信じてみるのもいいんじゃないか。何か起きたら本歌を斬って俺も切腹するだけだ。ところで山姥切、外出の口実はちゃんと用意してあるんだろうな?
 山姥切が驚きの内幕を語ったあと、朗らかにそう言い切った長曽祢に和泉守が頷いたあのとき、新選組の方針は決した。長曽祢はみなの意見を汲みつつその眼力と直感で方針を定め、和泉守はシビアでクールな計算のもと信じやすい質の局長の刀を補佐する。それが新選組の役割分担だったから、否やがあろうはずもない。
 結論が出るあいだ、彼の手を握っていた伊達の刀の穏やかな目。互いに向けて全幅の信頼を歌う霊気と、それに呼応してふるふると震えていた熱い湯の感触。義兄弟、友、恋仲、同志といった既存の言葉をあてはめるには彼らのあいだは特殊すぎる。結局のところその関係性は、この本丸の大倶利伽羅と山姥切だけが共有する何かという言葉でしか説明できないものなのだろう。

「やあやあ皆の衆、ご注目。宴も酣となってきたところでお待ちかねの余興の時間だ。ここからは当本丸の宴会隊長、鶴丸国永がお送りするぜ!」

 考えたって仕方ない、新選組はもう道を選んだ。あとは流れに任せるだけだ。三十日の宴同様、今回の宴でも一波乱起きるような気配をひしひしと感じながら、勢いよく杯を干した加州の耳に高らかな鶴丸の声が響いた。


「やあやあ皆の衆、ご注目! 宴も酣となってきたところでお待ちかねの余興の時間だ。ここからは当本丸の宴会隊長、鶴丸国永がお送りするぜ」

 高らかに宣言する鶴丸にいつもなら待ってましたと声をあげる新選組は、神妙な顔でこちらを窺っている。程度の差こそあれ彼らの意識に根づいていた山姥切への猜疑が見えなくなったのは、あの浴室での会談が効いたのだろう。

**

山姥切長義は己が信念を新選組に証明する
 そんな大事件が自分たちの耳に入らないなんて、いくらなんでもおかしすぎる。そう反論する加州にしばし黙考していた本歌が、口許に手を当てて自問する。

 たしかに筋が通らない。これは役人たちのあいだでは秘密でもなんでもない事件だ。なぜ審神者にだけ情報がいってない? 糸をより合わせ、山姥切が全体像を紡ぎ出す。
 審神者に情報を秘匿する意味……サーバーの更新日を知っていたのは政治家、役人、審神者だが、内通者を探すのは大変な手間だ。身内のなかで密告を奨励するようなものだから組織は一度ボロボロになる。なるほど、見えて来たぞ。
 正直に真相を明かせば、情報管理がずさんだったと政府は必ず批判される。本丸の安全を不安視する審神者が一斉に辞表を出しかねない。あらゆる意味で情報の開示は損だと考えたかな。そういえば、週刊誌や新聞で暗黒の月曜日事件が話題になっていたとき、審神者の現世帰還は禁じられていた。あれは報道が下火になるのを待って……
 どうやら政府の意思決定には憲法を写経すべき者たちが関わっているようだな。というか、知る権利以前の問題だ。前線で命を張る者に対して情報を出し惜しみするなんて、日本軍の教訓を忘れたと見える。政府が審神者を信じずして、どうして審神者に信じてくれ等と言える?! 

  部下に確認しなければと唸る刀をあっけにとられたように見つめる面々は、本歌がお上の立場を代弁すると踏んでいたのだろう。だが山姥切は政府の意図を察した上でその理不尽に憤った。新撰組は彼が古巣への情ではなく、信念によって動く刀だと知った。

「大倶利伽羅、食べないのかな」
「ああ、ありがとう」

 いっそ感心してしまうほどに自分の好物ばかりで満たされた皿を受けとり、不思議そうに首を傾げている本歌のすがたを見分する。鶴丸が引いた目元の朱が瑠璃の瞳を神々しく引き立て、彼のために誂えた己と対をなす紺地の着物はその大胆な意匠――泉に遊ぶ真っ白な竜――で匂い立つような高貴さを感じさせる。
 いよいよ勝負をかける今日という日にぴったりの戦装束だ。本歌の縁刀たちと協力し、鶴丸や燭台切の助力を受けつつ本丸の刀たちの心を一振り、またひと振りと手繰ってきたのは、ひとえにこの日のためだった。
 証拠の受け渡しのために城下町で落ち合った二人の役人と護衛の南泉一文字、彼らとふれあう山姥切のやすらぎに満ちた顔。彼らとの会話が大倶利伽羅の耳奥でこだまする。

***

南泉一文字は知己の誇りを尊重する
 呉服屋に併設されているカフェの一角で待っていたのは男にしては背が低く、まろい頬を持つ童顔の役人に目鼻立ちが派手で勝気な印象を与える女の役人、護衛というより彼らを従えているようにしか見えない南泉一文字だった。
 証拠の受けとり、書類の記入を瞬時に終わらせた役人たちがプロの表情を投げ捨てて、待てをする飼い犬よろしく本歌を見つめる。
 上品な仕草でティーカップを持ち上げた南泉があきれたように肩をすくめると、仕方ないなと山姥切がカップを置いて、ん、と両手を大きく広げた。よしの合図をもらった子犬たちがしっぽを振って、両脇からぎゅっと抱き着く。

「山姥切さん、よくぞご無事で……!」
「俺たち、あんたが折られちまったんじゃないかって毎日、生きた心地がしなかったんですよ!」

 ぐりぐりと頭を押しつけ、涙声でまくし立てる年若い男女をあやす山姥切の慈愛に満ちた表情に、周囲の視線が釘付けになるのがわかる。

「あれ、なんか顔色悪くないですか? やっぱ実家が一番ですよ。私たちと一緒に帰りましょ? 無理して本丸にいることないですから!」

 じいっと顔を近づけてきた女の役人が、にこやかに提案するのに山姥切が苦笑する。

「お前たち、変わってないね。というか、俺がいた頃より仲良くなったかな?」
「「仲良くなんてありません!」」

 きれいなユニゾンに本歌が鈴を転がす声で笑って、それを食い入るように見つめる引っつき虫と化した二人を、席から立ちあがった南泉が慣れた手つきで引きはがす。

「はいはいお前ら、そこまでにゃ。……なんとか持ちこたえてるようだなぁ。情けないザマになってたら一思いに叩き折ってやるつもりだったが、手間が省けてよかったぜ」
「ははは、良い本丸に当たってね、この分ではきみに労をかけなくて済みそうだよ。大倶利伽羅、これは俺の腐れ縁の南泉一文字。猫殺しくん、こちらは大倶利伽羅、俺の自慢の兄刀だよ」

 プラチナの瞳の中で縦長の瞳孔がきゅっと細まる。こちらを見定めるような目つきに不快にならないのは、ひょんなことから放っておけない刀の係累となった同族意識のなせる業か。

「こいつを斬るのは一仕事だろうから、にゃ。オレの面倒を減らしてくれて礼を言うぜ」
「いや、礼を言うのはこちらの方だ。山姥切のおかげで俺の世界は広がった。感謝している」

 ぱちりと瞬く刀の顔がふっとやわらかな色を帯びる。だがひとたび瞳を閉じて開けると、秀麗な顔から一切の表情が消え失せていた。

「そうかよ。化け物斬り、こいつでサシで話したいことがある。お前、少し席を外せ、にゃ」

 命令というより決定事項を通達するような調子の古馴染と、役人たちの緊張した面持ちに山姥切が首を傾げる。俺としては彼らの希望を叶えたいけど大丈夫かな? そんな声が聞こえてくるような瞳と身振りに大倶利伽羅は首肯で返した。

「着物を受け取ってきてくれ。サイズは確認したから問題はないはずだが、一応合わせてくるといい。歌仙や三日月から頼まれた使いもついでに済ませてくれると助かる」

 本歌が出ていくと音を立てずにカップを置いた南泉が口火を切る。

「あいつとお前の霊気、異様に混ざり合ってんな。いったいどういう関係だ? なにがどうしてそうなった、にゃ」
「ゆえあって義兄弟の契りを交わした。あれの存在を本丸に固定させるためにな。そういうお前はどうなんだ? いざとなったら介錯は任せるだなんて、ただの腐れ縁とも思えんが」

 いかに本歌の係累とはいえ、これ以上話す義理はない。南泉が山姥切とどんな付き合いをしていたかは知らないが、今の大倶利伽羅は彼の正当なる兄刀、縁ではなく絆によって結ばれた魂の兄弟だ。そのことについて誰にも申し開きをする気はない。
 質問を質問で返した大倶利伽羅に南泉は息をつき、頭をくしゃりとかき回した。

「オレが顕現されたのは俗にいうブラック本丸ってやつでな。演練相手に通報してもらって監査の通知が来たまではよかったんだが、やっこさんビビッて本丸に籠城しちまった。向こう一年の備蓄に人並み以上の霊力、しかもオレらが策を弄したのまでバレたとあっちゃ面倒は必至とみんなで頭を抱えてたとこに、あいつがバズーカで結界ぶっ壊して乗り込んできた、にゃ」

 淡々とした声の調子とは裏腹に、抑えきれない熱と葛藤が行間から滲み出ている。目の前の刀が山姥切に抱く感情の大きさを肌で感じて、大倶利伽羅の背筋が伸びた。

「それからオレは政府つきになってあいつとコンビを組まされた。比較的リスクの低い本丸に突入して審神者を捕縛したかと思えば、瑕疵本丸に放り込まれた引継ぎ審神者を救出したり、目が回るような毎日だった、にゃ」

 それ以上は言葉にされずともわかる。彼らは相棒だったのだ。走り出したら止まらない山姥切を追いかけて、互いにその背を預けて来たのだろう。本丸に配属されることで本歌の手からこぼれ落ちたもう一つの未来。

「そんなわけで、やつには借りがある。本丸でやべェ目に遭ってんなら気絶させてでも連れ帰るつもりだった。オレとあいつは縁があるから多少の勝手も目こぼしされる。部署のやつらも嬉々として麻酔銃だの委任状だの持たせてきたし、オレが本当にそれをやったとこで大したお咎めは受けねェだろう、にゃ」

 顔を見合わせて、期待に満ちた目を南泉に向ける役人たちに胸が痛む。本歌は己の心に根を張り、今や群れから欠けることなど想像もできないほど大きな存在になってしまった。だが山姥切の相棒だったこの刀がそれを決断したとき、彼は一体どちらを選ぶ? 俺はあれの選択に圧をかけずにいられるだろうか。

「本丸で腐るくらいなら政府で働く方がいい。その損切ができねぇってんならオレが代わりにやるだけ、にゃ。だがあの様子なら審神者はともかくお前の本丸はそう悪いとこじゃなさそうだ。感謝するぜ、大倶利伽羅。この程度ならまだあいつの意志を尊重してやれる」

 大倶利伽羅の肩から力が抜けると同時に、役人たちが頭を抱える。

「そんな……! 南泉さん、山姥切さんの顔色見たでしょ? 霊気もどこか不安定だし、絶対無理しちゃってますよ。俺たちは権限ないけどあんたは無理を通せるじゃないですか!」
「こいつの言う通りです、南泉さん。私の勘が言ってます。山姥切さんがいるのはまず間違いなく本歌だけ冷遇してくる妖怪めんどくさにわんの本丸です! これ、南泉さんなら政府に連れて帰れる案件ですよ。事後処理とかぜーんぶ私たちがやりますから、ね、一生のお願い!」

 感情のボルテージは最大なのに声量は必要最小限におさめるところに、彼らを躾けた刀の影を感じて、大倶利伽羅はなまあたたかい気持ちになる。子猫のようにまとわりついて抗議していた役人たちは南泉に睨まれ、ぴゃっと口を閉じた。

「お前ら、此処に来る前に最終的な判断はオレに任せるって言ったよな? 忘れたとは言わせねえ、にゃ」
「そうですけど、でも、でも~!」
「だって、山姥切さんが……!」

 かたちだけのデコピンを一発ずつお見舞いされ、役人たちが額をてのひらで覆う。

「けど、でも、だっても禁じたはずだ……にゃ。あいつを大事に思ってるならあいつが信じるものを信じろ。それができなきゃ駄々っ子だ。手塩にかけて育てた部下がわがままな悪い子になったって知ったら、あいつはどんな気持ちになる?」

 うっと二人が言葉に詰まる。頑なに目を合わせない、拳を開いては閉じるといった役人たちの仕草からは、わかっちゃいるけど納得できない、したくないという感情がありありと伝わってきた。

「絡んで、すみませんでした」
「うだうだ言って、すみません」
「ん、良い子。大倶利伽羅、これはオレの端末の番号だ。状況が悪化したら連絡をくれ。まあなんだ、お前がいりゃ大丈夫だとは思うが、ひよこどもがぴよぴよ鳴くからな。保険みたいなもんだ、にゃ」

 差し出されたメモを折りたたんで懐にしまい、一振りとふたりに辞儀をする。深く想いをかけながらやむを得ず離れることになった刀が決して理想的とは言えない主の手に渡ったとなれば、もどかしく思って当然だ。
 ましてその主は大倶利伽羅が仲間と育て、育てられてきた審神者なのだ。その懊悩を隠すことなく露わにする役人たちがいじらしく、逆に力を行使できる立場にあるのにまったく私情を挟まぬ南泉が好ましかった。彼らの想いを大事にすることは、山姥切を大事にすることでもある。
 
「信じてくれて感謝する。あれは大事な弟分だ。決してこのままにはさせない。山姥切が心置きなく使命を全うできる環境をつくるのも、兄刀としての俺の役目と思っている」

***

 お前らの大事な刀は俺がたしかに預かった。そうしたくともできないお前たちの分も支えとなって、必ず彼にとっての最善を掴む。顔を上げ、本歌のかつての係累たちをまっすぐ見つめて、あのとき大倶利伽羅は誓った。今日はその誓いを実現する第一歩だ。
 鶴丸が見得を切るように片手でパシンと扇を開く。扇のおもてで戯れる白と青の龍は己と本歌の着物の柄と揃いであり、本丸のみなに鶴丸のスタンスを知らしめたはず。さて、これからが本番だ。誰かが息をのんだ気配に大倶利伽羅は気を引き締めた。

「みな承知のとおり、この本丸ではくじに当たった刀に余興をさせてそれを肴に楽しく飲むのが新年の習いなわけだが、なんと今年はめでたいことにすべての枠が立候補で埋まった! 早く面子を紹介しろって? では期待に応えて、」

 器用に扇子を回していた鶴丸の手がぴたりと止まって、ある一点を指し示す。彼の指に、その派手な仕草に引き寄せられるようにしてやわらかな笑みを浮かべる小豆と、伏し目がちの江雪に周囲の視線が集中する。

「トップバッターはいずれかがキレたら裏山が噴火するなんてまことしやかにささやかれている本丸きっての温厚トリオ、江雪と小豆、物吉だ! みな、新年早々俺たちを興じさせてくれようという仲間に盛大な拍手を!」

 準備のために三振りが席を外す。
  今は昔、西方に妃の裏切りで狂気に堕ちた王がいた。賢妃シェヘラザードはその褥で千夜一夜物語を紡ぎ、女という女を憎む王の心をほどいたという。ならば我らも語り部たる姫がそうしたように、物語でもって主の心を溶かしてみせる。

初期刀と審神者と、あの日の小田原
  鶴丸が呼ばわる江雪、小豆、物吉の名に主の肩がびくりとはねる。謙信公にならってみんなで家出でもしましょうか。常と変わらぬ穏やかさでそう言ってのけた物吉に、否定も肯定も返さなかった縁刀たち。彼女は彼らに怯えている。
 しきりに髪をいじり、不安に爪を噛もうとする主の強張った背を叩いてやる。様々な感情が渦巻く彼女の顔に多少の平静が戻ったとき、座敷の中央にいざり寄った江雪と小豆が、少し離れたところに座った物吉とぴしりと揃った辞儀をする。
 江雪がついと顔を上げ、すうっと一つ息を入れた。薄氷の瞳が遠くを想うように瞑目する。

「ときは天正十八年、豊臣秀吉の北条攻めが苛烈さを増し、敗色が日を追うごとに濃厚になる時分のこと」

 朗々とした語りに物吉が琴で華を添える。

「みながみな、あすをもしれぬわがみのふあんにいきをひそめるおだわらじょうで、すずろばなしをするものふたり……

 琴の穏やかな音色に乗って小豆がささやき、並んで座る二振りがするりと羽織の紐をほどく。

「膝を交えて語らう彼らの兄の名を由良国繋 ゆらくにしげ、弟の名を長尾顕長 ながおあきなが。これは歴史に翻弄された人間たちの物語……

 彼らの羽織がぱさりと畳に落ちたそのとき、灯という灯が一斉に消えて、漆黒の闇があたりを包んだ。

「われらのきおくをもとにつむいだ、きょうだいたちのものがたり、」
「とある刀の物語、いざ開演と参ります」

 物語が始まる。山姥切の存在を後の世まで遺そうと、俺を堀川国広に打たせた長尾顕長。本歌に山姥切の名を望み、彼からあふれんばかりの愛を向けられる長尾顕長に、兄がいた。そのことがなぜだか胸をざわめかせる。そこにあるのに見えていない何か、雨夜の星の予感がする。
  主の冷えきった手をあたためながら、どくどくとうるさい心臓をなだめる。山姥切長義の、彼の視点を彼女に理解させるための物語が今まさに始まろうとしていた。

審神者は山姥切長義の物語にふれる
 どうせ長義が打たれるところから話を始めて、彼がどれだけ愛されてきたか、私に示すつもりなんでしょう。もしくは北条の刀として彼がどれほど大事にされてきたのかを語って、私を改心させようとでも? おあいにくさま。どんな事情があったって私の初期刀を偽物呼ばわりしていい理由にはならないんだから。
 江雪と小豆をが長尾顕長・由良国繁の物語と前置きした時点で、物語の展開におおよその見当はついた。長義という刀に惚れこみ、写しとして山姥切を打たせたという長尾顕長。彼が本歌の美しさに目を瞠る様子を再現したところで、私の心が収まると思ったら大間違いよ。 
 暗がりのなかで拳を握る私をよそに、ぽうっと蠟燭に火がともる。ちろちろと揺れる灯りに照らされ、闇から浮かび上がった二振りは先ほどとは装いを異にしていた。髪を高く結い上げた江雪が、前髪を後ろに撫でつけた小豆のおとがいを持ち上げる。

「兄上、今少し顔を上げてくだされ」

 たなごころの上にのせた貝入れから江雪の指が紅をすくって、大人しく目を閉じる小豆の目じりにぽんぽんと朱をのせてゆく。弟である長尾顕長を江雪が、兄の由良国繁を小豆が演じるというわけね。江雪は兄のイメージが強いから、弟然としたふるまいをする彼を見るのは違和感がある。

「おお、すまぬ。……なあ顕長、秀吉のぐんぜいとちょくせつやいばをまじえるまでは、まだいくらかのときがあろう。それにおだわらじょうは、なんこうふらくをうたわれるしろ。そうやすやすとはおちるまい。いくさげしょうをするには、まだちとはやいのではないか?」

 あざやかな戦化粧をほどこされた小豆がことりと首を傾げる。それを見守る江雪の顔には張り詰めたような険しさがあった。
 秀吉がなかなか上洛しない北条にしびれを切らして、小田原城を攻め落としたのは――たしか天正十八年だ。テキスト片手に長谷部が詳しい経緯を説明してくれた気もするけど、覚えているのはそれだけだった。
 彼らは落城前の小田原城を舞台にどんな一幕を演じる気だろう。かつての名門北条氏の悲劇的な結末か、はたまた長義の素晴らしさを褒めたたえる長尾顕長と、それに頷く兄上様か。 
 私のとげとげしい視線なんてまるで感じていないみたいに役に没入する二振りに、彼らの真に迫った演技に、広間のみんなが引き込まれてゆくのがわかって心にざわりと波が立つ。

「相手はあの中国大返しをやってのけた秀吉ですぞ。現に味方の城はすさまじい勢いで落とされている。どんな堅城にも弱点はある。城に難攻はあっても不落等ありませぬ。いつ敵の刃にかかってもいいように、準備をするのは肝要です」

 だいたい兄上には自覚というものが足りませぬ。そう言って苛立ちを露わにした江雪に、もろ手を上げて小豆が降参の意を示す。

「おぬしのいいたいことはわかる。たしかにあのおとこがひとたびこころをきめれば、すべてはあっというまであろうな。どれ顕長、おれにもかせ。このあにがきれいによそおうてやろうぞ」
……真にわかっておられるので? 力もあれば名分もある天下人と戦うのです。いくら北条といえ、きっと無事ではすみますまい。我らもここで滅びるやもしれませぬぞ」

 互いの覚悟を推し量るように二振りの視線が交錯する。目と目の会話にピリオドを打ち、眉を八の字にして笑ってみせた小豆の顔があんまり痛々しかったからか、胸のどこかがつきりと疼く。

「なに、主君とうんめいをともにするのだ、ほろびたとしてはじではない……。氏政様も氏直様も、ともにいきるのはくるしかったが、ともにしぬにはわるくない主よ」
……散々不忠の謗りを受けてきた我らが、最後は主家に報いて死ぬのですか?」

 不忠の謗りを受けてきた? 長尾顕長と由良国繁は北条の家臣だったはず。すねた幼子みたいにぷいと弟が顔をそらして、その迷いと懊悩に満ちた問いかけにおやおやとエメラルドの瞳が瞬く。さらさらと流れる銀髪をやさしく梳いた兄の手が、弟の顔をそっと包んだ。

「なんだ顕長、おまえはふふくか? まあわれらは氏政様とも氏直様とも、ひとかたならぬいんねんがある。そうおもうのもむりはないか……

 吐息まじりの兄の言葉に勢いよく弟が顔を上げる。氷のような美しさを感じさせる秀麗な面が、怒りにさっと紅潮していた。

「無体をされたは我らの方です! 我らは氏政様のご命令通りに、かつての主家の縁をたどって必死に上杉との和睦をまとめました。それを、あの御方は簡単に反故にしてしまわれた……! 北条と上杉の国境を守る我らにひと言の断りもなく、」

 なおも言い募ろうとする弟をどうどうとなだめながら、気持ちはわかると兄が頷く。その様子を眺めながら頭が疑問符でいっぱいになる。
 兄弟と北条のあいだは円満ではなかったの? 長義は北条家で大事にされてきたと聞いた。そんな刀を下賜されたのは、長尾顕長が主の信を得ていたからではないの?

「あれはたしかにこたえたな。謙信公からのしょじょうでそれをしったときはあまりにめんぼくなくて、どうしたらいいのかわからなかった。おれはじっしだからまだ、いきどおるみなをしずめられたが、おまえはさぞかしなんぎをしたろう」

 主だろうが家臣だろうが顔を潰せば刃傷沙汰、それが乱世の習いです。まあ今で言う、やくざの仁義のようなものかと。日本史用語集を抱えて私がうなっていた時、端的にまとめてくれた長谷部の言葉を思い出す。なら北条は二人の面子を潰してきちんと手当をしなかったということ? だから家中は反発した? 
 いたわるように己の頭をなぜる兄に弟が俯く。切り揃えられた前髪のあいだから見え隠れする青灰の瞳にさあっと暗い影が差した。
 
「私が養子に入った長尾は、もとは山内上杉の重臣として活躍していた一族です。ゆえにかつての主家を関東から追い落とした北条には、本能的な反感がある。ただでさえ家中をまとめるのは大変なのに……

 養子は自分が適当な跡継ぎがいなかったがための次善の策・苦肉の策であるということ、隙あらばたやすく取って代わられる存在だということを、骨身に感じながら家をまとめてゆくのです。その重圧にどう向き合ったかで彼らの性格を測ることができる。そう言って目を細めた長谷部。
 ぎゅっとしわが寄った弟の眉間を指のはらで軽く叩いて目を閉じるよう促した兄が、その白く透き通ったまぶたの上にやさしく紅をのせてゆく。

「ははをふくめて、われらのかちゅうにも、北条にはふくざつなおもいがある。りょうちのぐるりを北条にてきたいするせいりょくにかこまれているのもよくなかったな。ほら顕長、めをおあけ」

 四方を敵に囲まれた状況で、昔の縁を手繰ってようやく取りつけた和睦。それをひっくり返すなら彼らの主は尽力してもらったのにすまない、国境が動揺するかもしれないから気をつけてくれと注意を促すこともできたはず。そうしなかったのは、今さら上杉には戻れまいとタカを括ったから? 上杉に心を残しながら北条に仕える長尾の家の人たちはそれをどう受け止めたの?

 長尾顕長というひとりの人間に、その苦悩に、初めて興味を覚えている自分に気づく。ふるふるとしろがねの睫毛が震えて、朱をほどこされたまぶたの下からアクアマリンの瞳が覗く。痛みをこらえるように笑う兄の姿に弟の顔が歪む。

「十分な援軍も受けられぬまま始終上杉・佐竹の攻勢にさらされては、士気が落ちて当然です。御屋形様は我らが敗れることはあるまいと信じてくださっていたのでしょうが、私にはその信こそが重かった……
「そうしたことへのつもりつもったふまんが、かちゅうにまんえんしていたころであったな……佐竹がこちらにつけといってきたのは」

 彼らの主は敵の領地に囲まれた兄弟に十分な援軍を出さなかった。孤立無援で国境を守るか、敵に寝返り尖兵として北条の地に攻めこむか。私が長尾顕長ならどちらの道を選んだだろう? 
 武家の主従は御恩と奉公によって成り立つ。自分が敵に攻められたときは主が援軍を差し向けてくれる。そう信じるからこそ臣下は兵力や金品を差し出して主に報いる。逆を言えば、部下の窮地を救えぬ主は裏切られても仕方がない。そういうものだと言い切った長谷部。
 額をおさえて暗いまなざしでつぶやく兄の袖口に、そっと手を伸ばす弟の沈痛な表情。その壊れ物を扱うようなやさしい仕草に、なぜだか胸がぎゅっとなる。

「このままほろびるくらいならと、はんきをひるがえしてはみたが、かちきることもまけることもできずに、うんめいのいたずらでふたたびおつかえすることになって……。だがあのうらぎりのあと、氏直様や氏政様がわれらをしんからしんじてくださることはなかった」

 胸をなみなみと満たしていた悔恨の水――普段は抑えつけているそれ――が否応なしにあふれてしまった、そんな湿度を感じさせる兄の声に薄青の瞳が潤む。粗略に扱われたから。憎かったから離れた。そんな単純な話じゃなかった。彼らは本心では主を裏切りたくなかったのだ。

「仕方のないことですが、さみしいことでございましたな。血まみれになって大将首をとってきても、我らの扱いは裏切り者に他ならなかった」
「おかしなものだな。北条のたてとして、さいぜんせんでてきのこうせいにさらされていたときは、そのしんらいがつらかった。だがいまとなっては……ただあのころにかえりたい。よくやったとせきじつのようにわらっていただきたい。顕長、おれをばかだとおもうか?」

 無理に笑おうとして失敗したような、弱りきった表情を見せた兄の肩を弟ががしりとつかんで引き寄せる。

「思いませぬ。やりきれぬ思いはあっても、私もこうして此処にいる。いくら理屈をこねようと、私も結局あの御二方が好きなのでしょう」

 都合が良すぎるとわかっていてもそう望まずにはいられないほど、彼らは主が好きだった。だからこそ今、天下人との戦を前に主と運命を共にしようとしている。

……兄上、この顕長、あなたにお納めいただきたいものがあります」
「きがはやいなあ、おとうとよ。らくじょうまえからかたみわけか?」

 なだめるように、からかうように、くすりと小さく笑みをこぼした由良国繁を澄みわたる湖の瞳が射貫く。天正十八年の在りし日のすがたが私の心をかき乱す。

「からかわんでください。……これを、」

 捧げるようにして一振りの刀を差し出してきた弟の真剣な面持ちに気圧されつつ、兄が両手で鞘を受けとる。

「ふむ、このかたな、どこかで……?」

 刀の拵えを見分し、すらりと刀を抜き放ったそのとき、翡翠の瞳が驚愕に見開かれた。

「! 顕長、これは氏政様からじきじきにいただいたかたなであろう?! ししそんそんまでかほうとしてつたえてゆくべきもののはず! それをおまえがかってにおれにくれてやるなど、」

 その言葉に胸がざわざわとさざめく。北条氏政から長尾顕長に与えられた刀。となればそれは本歌、山姥切長義でしかありえない。

「兄上が持ちやすいよう、打刀にして銘と日付を入れました。正真正銘、長義の手になる刀、山姥切です。私にはこちら、その刀を本歌にとった国広の手になる山姥切がありますゆえ、兄上にはそちらをお持ちいただきたいのです」

 兄の剣幕などどこ吹く風で腰の刀をすっとかざした弟に息が止まるような衝撃が走る。長尾顕長は長義が戦で失われるのを惜しんで写しを打たせたのではなかったの? 兄に持っていてほしいなんて、それじゃあまるで、 

「だが、せっかくごいんきょさまがおまえにとくださったものを……
「兄上、私はよすががほしいのです。いざ合戦となれば互いに指揮する兵を抱える身、生死をともにすることなどできませぬ。運よくふたり生き残っても城が落ちれば、このまま生き別れということもありえます」

 それじゃあまるで、形見じゃない。隣で初期刀が絶句するのがわかって様子を確認したいのに、言葉を交わす兄弟たちから目を離すことができない。何かに追い立てられるように懇願する弟に由良国繁がうっと詰まる。

「もし兄上がこの戦を生き延びたら、山姥切を見るたびに思い出してほしいのです。その刀を今日という日に持ってきた弟のこと、その刀と対になる写しを持って戦った私のことをずっとずっと、覚えていてほしいのです」
……よかろう。もしわれらがあのよとこのよのあいだでへだてられるようなことになったら、おぬしもそのかたなをみておれをおもえ。やくそくだぞ、顕長」

 兄弟たちが二つの山姥切の鞘を十字に合わせて、額をぴたりとくっつける。祈るように、誓うように、瞳を閉じて互いの温度を感じている彼らを、物吉の琴がやわらかく包みこむ。
 傍らではっと息をのむ気配におそるおそる初期刀を振り返る。下座の一角に注がれている視線を追えば、私がどんな扱いをしようと決して曇ることのなかった本歌の瞳が、ほとほとと涙の雨を降らせていた。
 凍りついた表情で手のひらに落ちる涙の粒を眺めている彼に、床が抜け落ちたような浮遊感が襲う。はじめて、初めて彼を心底傷つけていたことに気づいて、足元ががらがらと崩れてゆく。
 まだ山姥切国広という刀が己の本歌にさしたる関心を抱いていなかった頃、書庫で私の棚の前に立っていた彼をつかまえ、廊下に引っ張っていったのを思い出す。写しと偽物の違いもわからないで、よくも本歌を名乗れたものね? 何度でも言うけれど、私の大事な初期刀を偽物扱いすることは許さないから!
 そう喰ってかかった私に山姥切長義が返した言葉。あのときははぐらかされている、馬鹿にしているとしか思えなかった彼の言葉が今あざやかによみがえる。
 俺が彼を偽物と呼ぶのは、あれが写しだからではないよ。どんなあり方を選ぼうとあれの自由……だが俺は、俺だけは、自らの生まれた意味を、己を打たせた者の祈りを知ろうともせず名や物語を軽視する、やつの姿勢を許すわけにはいかないかな。長尾顕長は俺の愛する主のひとり。その想いを蔑ろにするようなあり方を選ぶかぎりにおいて、山姥切国広は俺にとっては偽物だ。

 山姥切長義という刀のすばらしさに打たれて写しを依頼した長尾顕長の心を汲んで、本歌たる俺を敬い、分を弁えて行動すべき。もったいぶった言葉の裏にそんな副音声が聞こえて、ぐらぐら煮え立つ怒りのままにきっと本歌を睨みつけ、踵を返したあのときの私。
 なんという傲慢、なんという浅慮。山姥切長義が守ろうとした物語は私が思っていたようなものではなかった。天下人との戦を前に兄に己の形見を預け、自らはその写しを持とうとした弟。どちらかが戦場で散ったとしても対となる刀をとおして互いを想えるよう、そんな祈りを刀にこめた弟とそれに応えた兄がいた。
 歴史に名を刻む武将たちのなかで、容易く埋没してしまうような兄弟たちの物語。彼を山姥切と呼び、かくあれかしと願った長尾顕長の心。山姥切はそれらを守り、大事にしようとしただけなのに、私は本歌の言動を写しに対するマウントと決めつけ、自分の怒りを正当化した。 
  物吉のすらりとした白い指が舞うようにして琴をつま弾き、子守歌のようにいとおしいリズムでやさしく物語の幕を下ろす。

――主家の没落とともに流浪の身となる長尾顕長と、領地を安堵される由良国繁……時代の大きなうねりによって、自分たちの運命が分かたれるとはつゆ知らず、手にある刀をよすがとなして彼らは互いを想おうとした……

 哀切に満ちた音色にのって江雪の声がのびやかに響く。音もなく涙する本歌の肩を抱く大倶利伽羅に、ぎりぎりと胸が締めつけられる。

「たけきものもついにはほろびぬ、ひとえにかぜのまえのちりにおなじ……てんしょうじゅうはちねんしちがつ、ついに氏直が秀吉にこうふく、氏政のくびはじゅらくていにさらされ、ごだいつづいた北条のえいがは、はるのよのゆめとなりはてる……ここにせんごくのよはおわる」

 弔いの鐘を鳴らすように、あらたな時代を言祝ぐように、厳かに告げる小豆の声を物吉の琴が包みこむ。

「互いを愛した兄弟とその絆の証となるはずだった二振りの刀の物語。山姥切長義が愛する人間たちの物語。これにて終幕とさせていただきます」

 ものがなしく美しい鎮魂の音色に合わせて、姿勢を正した小豆と江雪が両手をつき、ぴたりと同時に頭を下げる。
 余韻に浸っていた刀たちが一振りまたひと振りと拍手を始めて、それが万雷の轟きに変わる。側近くに座っている乱に秋田、五虎退、国広の心配そうなまなざしに、やっとの思いで笑顔をつくった。
 恥ずかしくて情けなくて、本歌やその縁刀たちをまっすぐ見られる気がしない。刀たちがこちらを冷静に観察しているのがわかって呼吸が浅くなったとき、かたわらの初期刀が励ますように手を握ってくれて、気づけばおずおずと拍手していた。
 
――さてさて、お次はつい先日の晦日の宴で一匹竜王の称号を華麗に返上してみせた大倶利伽羅と、その義弟たる山姥切、後藤、鯰尾、燭台切だ! みな、あたたかい拍手を!」

山姥切国広は己の名と物語とを認識する
 頭を壁に打ちつけたいのをこらえて、鶴丸の呼びかけに拍手で応える。最近では偽物と呼ばれることにすら不思議な感慨がある。彼の写しは多くあれど、偽物くんと彼に名指されるのは俺だけだろう? 
 そう主に心境を吐露した日が遠い昔に感じられた。本歌が俺をそう呼ぶのには深い訳があるのだろうとわかってはいたが、ひとたび自覚してしまえば己の至らなさに眩暈がする。主に彼の主張を理解させるための物語だと? 笑止だ、俺もまた無理解な者のひとりだった。
 その事実に打ちのめされる俺をよそに、次の出し物の幕が上がる。燭台切が琴をつま弾き、鯰尾が鼓を打ち鳴らす。そこに後藤の横笛が飛びこみ、彼らの華やかな合奏に背中を押されるようにして山姥切が片膝を立てた。

「指に 額に 髪に あなたの向こう 垣間見える面影――

 湖面に雫を落としたように広間をひたひたと満たしてゆく、ひそやかで清らかな山姥切の歌声。この歌を知っている。以前主がよく聞いていた奄美大島出身の歌手、元ちとせの“語り継ぐこと”。
 つい今しがたまでしとしとと涙の雨を降らせていた目元を大倶利伽羅の指がなぞって、本歌の白い手のひらが伊達の刀の頬を包む。互いをいたわり慈しむ彼らに、江雪と小豆が演じてみせた兄弟たち――敵に囲まれた小田原城で言葉を交わした長尾顕長と由良国繫――のすがたが重なる。

――もしも時の流れを さかのぼれたら その人に出逢える」

 差し伸べられた本歌の右手に大倶利伽羅が指を絡めて、艶やかな低音を披露する。遠くを想う瑠璃の瞳に胸がぎゅうっと締めつけられる。
 本歌が心をかける長尾顕長は刀工国広に俺を作るよう依頼し、俺という刀を初めて腰に差した男だった。俺という刀がいま“俺”として此処にある起点といってもいい人間。そんな彼を俺は知ろうとしてこなかった、知りたくないとすら思っていた。なぜかなんて、いまさら自問するまでもない。

「この世界 生まれてそして 与えられたあらゆる名前に願いがある――

 ほろ苦くて切ない山姥切の歌声が安らかな色を帯びてゆく。手に手をとって立ち上がる魂の兄弟刀に胸がじくりと痛みを覚える。本歌に魅せられ写しを作ったのだと、己は添え物でしかないのだと、勝手に決めてかかっていた。俺を打たせた男の想いなど念頭になく、ただただ逸話の真偽にこだわった。
 なんということだろう。俺がひとたび見ようとすれば、名にこめられた誰かの願いは、たしかにそこにあったのに。

「「――いとしい笑顔に 心動かして 嵐に揺らいで 立ち止まる時も」」

 大倶利伽羅の吐息のような歌声に山姥切が穏やかに微笑む。ゆるく絡まっていた彼らの手と手がすっとほどけて、二振りの袂から金をまぶした純白の扇と銀を散らした真紅の扇が顔を出す。
 山姥切に出会う前の俺、修行で踏ん切りをつける前の俺は、写しとして作られたこと――己が本歌に付随する存在であること――や本歌と比較されることを呪いのようにとらえていた。

「「守りたい すべてを捧げても 思いは力に 姿を変えるから――」」

 本歌の甘くさわやかなテノールがあたりをほのかな光で照らして、背中合わせで舞う二振りの手中で蝶のようにひらひらと扇が遊ぶ。
 修行で時を遡れるとなったとき、迷わず山姥切の伝承を確かめようとしたのは、俺が山姥切の写しとしての評価ではなく、俺としての評価で独り立ちするためには、最大のコンプレックス――山姥を斬っていないにもかかわらず、山姥切の名を冠されているという事実――に向き合う必要があると思ったからだった。
 真実を知るのは怖かったが、斬っていようが斬っていまいが、とにかくこの生殺しのような状態からおさらばできるなら、そういう想いが強かった。かつて己を手にした長尾顕長のもとに出向くなど、頭の端にものぼらなかった。

「「――語り継いで 伝えてゆくこと 時代のうねりを渡って行く舟」」

 山姥切の瑞々しい高音と大倶利伽羅の重厚な低音が織りなす、二重らせんのハーモニー。二振りの手のなかでゆらめく扇は波や風雨にさらされてなお、ひたむきに進路を目指す二艘の舟のごとく映って、目頭がかっと熱くなる。
 写しがどうの、山姥切の伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。俺がそんな言葉で切り捨てたところに、語り継ぐべき何かがあった。俺は、山姥切国広は、兄弟たちの絆のよすがとなるために、本歌を写して作られた。

「「風光る 今日の日の空を 受け継いでそれを 明日に手渡して――」」

 互いの髪をもてあそび、慰撫するように頬をかすめた彼らの指がそっと離れて、紅白の扇が宙を舞う。散りゆく花を惜しむような燭台切の琴が、草原に吹きわたる風のような後藤の横笛が、岩を打つ雨だれのような鯰尾の鼓が、歴史の海に還った兄弟のためにレクイエムを奏でる。
 回転しながら軌跡を描くふたつの扇をぴたりと同時にその手でとらえて、二振りが深々と辞儀をする。ゆっくりと顔を上げた本歌の目は玉の涙で潤んでいて、その銀河みたいな瞳にあふれる思慕と追憶に息が詰まる。
 世界を根底からひっくり返されたような衝撃に、涙が頬を流れ落ちる。本歌が俺を偽物くんと呼ぶ理由、それは俺が、己に託された想いや物語を顧みず、その自覚すらなかったからだ。
 己にかけられた想いごと、彼にかけられた想いまで軽んじた。そのとき俺は本歌にとって兄弟の物語を分かち合うべき、己の対として作られた写しではなく、呪いのような因果で結ばれた偽物の写しとなったのだ。
 本歌が祝福にしてくれたこの縁をそうとは知らず呪いに変えた。彼の誇り高いあり方に心奪われておきながら、その矜持の根幹たる名や物語に、今このときまで思いを致してこなかった。

「さて、トリは柔和な見目とは裏腹に鋼の芯を持つ男、暗黒微笑()からロイヤルスマイルまで七色の笑みを使い分けると評判の粟田口のプリンス、一期一振と気風のよさで柄まで通す短刀きっての男前、薬研藤四郎だ!」

 鶴丸が高らかに音頭をとると、粟田口の長兄と薬研がきれいな礼を披露する。和やかな拍手の輪に加わりながら心は深く沈んでゆく。ひとりよがりと無知とで塗り固められたこの恋心の罪深さに、己がしでかしたことの重さに息が詰まって、胸元をきつく握りしめたそのとき、一期の琥珀に射すくめられる。

「我らがこれから披露するのは、言の葉による御前試合。粟田口のなかで意見が対立するたびに、用いられてきた遊びです。挑戦者が問題提起し己が意見を表明したら、異論のあるものは名乗りをあげて一対一での論戦を行う」
「行司は俺こと、薬研藤四郎が務めさせてもらう。どちらかが言葉に詰まったらテンカウントをとって時間内に反論できなきゃ試合は仕舞いだ。俺っちが二振りの名を呼ぶから旦那方は道理だと思う方に挙手を、その多寡によって勝敗を決める。それじゃいち兄、始めてくれ」

 薬研をねぎらった一期が主にふっと微笑みかける。道場で彼が弟たちをしごく際に見せるのと酷似した笑みに主が固まり、膝の上に置かれた青白い手が拳をつくる。

「主殿は自らの立場を利用して山姥切長義に無体をはたらき、その縁刀たちに圧力をかけ、歴史を守るという大義を汚しました。私、一期一振は彼女から部隊編成の権限をとりあげ、山姥切殿を貶めたのと同じだけの期間――彼の配属から数えて三か月としましょう――離れにて謹慎させることを提案します。さて、私と一手試合うてくださるのはどなたか?」
「この五虎退がお相手します! あるじさまのふるまいは褒められたものではありませんが、我ら臣下がそれを罰するはお門違いというものです。たとえいち兄といえど、看過できません!」


三日月宗近は兄弟の甲論乙駁を観戦する
「主殿は自らの立場を利用して山姥切長義に無体をはたらき、その縁刀に圧をかけ、歴史を守るという大義を汚しました。私、一期一振は彼女から部隊編成の権限をとりあげ、山姥切殿を貶めたのと同じだけの期間――彼の配属から数えて三か月としましょう――離れにて謹慎させることを提案します。さて、私と一手試合うてくださるのはどなたか?」

 一期の言葉に刀たちが黙考をはじめた時、五虎退が意を決したように兄を睨む。

「この五虎退がお相手します! あるじさまのふるまいは褒められたものではありませんが、我ら臣下がそれを罰するはお門違いというものです。たとえいち兄といえど、看過できません!」

 迷いを振り切るように張り上げた声、ぎゅっと衣服を握りこむ拳、焦燥と不安に揺れる金の瞳。どれもこれも自信がないとき、虚勢を張るときに五虎退がやりがちな仕草。人の身の扱いに苦心し、破竹の勢いで練度を上げる兄弟たちと己を比べて劣等感に苛まれる短刀を縁側に引き込んでは茶菓子でもてなし、爺と孫のような関係を築くうち、三日月は彼の表情を読むすべを得た。
 兄弟とふたつの山姥切の物語にあれほど聞き入っていたのだ。主のふるまいは庇い立てできるようなものではないとわかったはず。諍いをきらい、口論すら避けてきた五虎退が能弁家の一期に口で勝てるとは思えない。それでもなお挑むのは、主ひとりを矢面に立たせまいという意思ゆえか。

「お門違いとは面白いことを言う。主に誤りあらばお諫めし、ご正道に引き戻すことこそ、臣たる者の務めだろう。武家の掟は御恩と奉公。公儀の命で参陣した配下に対して私怨を抱き、仇で報いるなど世が世ならお取り潰しもありえる所業だ」
 
 徳川の世で少しでも御上に隔意ありと見なされば当主は狂気・乱心の烙印を押され、領地は即刻召し上げられた。山姥切の配属がこの本丸との関係を改善しようとする政府の意志のあらわれだったとしたら、主がなんの咎めも受けていない現状はいかにもまずい。
 和平の使者を折ろうとしたなど、ひと昔前ならそれだけで開戦の合図である。政府に糾されたときのためにもよくよく考えて償いの内容を決めねばならぬ。

「本丸を守るためにも、主殿に事の重大さをわかっていただく措置がいる。罪には罰を、罰には赦しを。五虎退は主殿から罪を償う機会を奪おうと言うのかな?」
「罪に対して罰があまりに重すぎると言っているんです。あるじさまは僕らを腰に佩いてきた武人とは違う。若年にして家族から引き離され、訳も分からず放り込まれた本丸で、彼女はずっと真面目に務めを果たしてきました……!」

 顔を膝がしらに埋めて、山姥切に物申したと告げる短刀の暗い声を思い出す。自己嫌悪にかられる五虎退の頭を猫の子よろしくさりさりとなぜた非番の午後。

 あるじさまが間違ってるってわかってます。長義さんを傷つけていいわけがないってことも。でも、それでもあの子にわかるよって言ってあげたい。苦しいね、つらいねって、でも大丈夫、これ以上傷つかなくていいからねって言ってあげたい。誰に軽蔑されてもいい、僕はあの子の味方でいたいんです……

 五虎退は上杉の刀、義を曲げることに葛藤がないわけがない。それでも、彼は道を選んだ。正しくないとわかっている道を。

「あるじさまが山姥切に恋したこと、政府との間が良好ではなかったこと、彼女と長義さんの相性が悪かったこと……此度は不幸な偶然が重なった結果。情状酌量の余地は多分にあります!」

 水のような霜の夜も、氷のような雪の暁にも、乾いた所に子を寝かせ、自らは湿った所で眠るのが親だという。子のためには止むを得ず悪業をし、悪しきところに落ちるのも甘んじる、それが親だと釈迦は説いた。
 どこか五虎退を想起させる教えだが、仏陀はこうも続けている。もし親が頑迷で道理にくらく、思いやりの心なく人を傷つけ、礼なくして色欲にすさみ、信用なく人をあざむくなら、子はまさに厳しく諌めて、そのような行いから覚め悟らせるべきであると。
 審神者は我らをこの世に降ろした親であり、刀によって主たるべく養育される子でもある。どこに重きを置くかは男士によって違うが、山姥切の配属はそれぞれの譲れぬものを明確にした。軸が違えば衝突も起きよう。だが和が乱れた等と悲観する必要はない。流れる水は腐らずという言葉の通り、山姥切はこの本丸をかき回し、澱みを押し流しているだけなのだから。

「それでは逆にお聞かせ願おう。主殿の犯した過ちに対して、五虎退が考える順当な償いとはいかなるものか」
「! その、手をついて心より謝罪することでしょうか……。今のあるじさまは、自身の過ちをわかっていらっしゃいます。そんな彼女にこれ以上、鞭打つような真似をせずとも!」
「過ちを解したら罪科は消えてなくなるとでも? 罪なき山姥切殿やその縁刀たちに鞭打った彼女の所業は、口頭の謝罪で帳消しにされるべきものなのか? 私はそうは思わないが」

 氷柱のような声に五虎退が凍る。爛々とかがやく一期の瞳は主に、そしてすべての刀に鼎の軽重を問うていた。主殿は我らが仰ぐにふさわしい器を、それを身に着けようとする気概をお持ちか。貴殿らはそれを支える臣たれるのか。一期の真意が聞こえるようだ。

「主殿は部隊を編成する権限を使って山姥切殿を折らんとした。彼の縁刀たちを虐げ、我欲を正義と信じ込んだ。ならばせめて彼女が彼らの誇りを踏みにじった期間くらいはその権限は取り上げられて然るべきだ」

 まったく、炎のような苛烈さよ。だが悪くない。三日月はそうした烈士がきらいではない。かつての主、足利義輝にもこういう男が必要だった。なんら実権を持たぬ征夷大将軍の立場に鬱屈し、身の丈以上の力を望んだ元主。器を磨くこともなく道理を曲げてでも名に実をともなわせようとした男は力ある大名の暗殺を企て、返す刀で襲撃されて命を散らした。
 人の身を得た今、三日月は今の主にかつての主の轍を踏ませるつもりはなかった。ここらで一つ、我欲のままに権威を振りかざすことがいかに危険か、誰かが教えてやらねばならぬ。この問答はまたとない機会よ。

「それは……でも、でも……!」
「テンカウントを始めるぜ。十、九、八、」

 薬研の声が時を刻む。どちらに軍配が上がるか等見るまでもないが、邪魔立てするなら三日月が相手をするのもやぶさかではない。平安爺などと言われてはいるが、三日月の生まれた平安の世はその名に似合わず疫病、災害、戦の蔓延る末法の時代であった。
 誰が言いだしたのか、不殺の刀などと言われる己もまた、乱世に生を受けた刀であること、示してみるのも面白いかもしれない。恥じ入るようにこげ茶の瞳を伏せている主に、三日月はゆるく微笑んだ。

 そう怖がるでない、主よ。お主はたしかに間違いを犯したやもしれぬが、命あるかぎり汚名を雪ぐ機会はある。汚名を返上せんとするその気概こそが肝なのだ。

大倶利伽羅は山姥切国広を見定める
 勝負あったな。居並ぶ刀たちの瞳に山姥切への反発がないことを認めて、大倶利伽羅は息をつく。異論があるならかかってこいと宣言した一期にいち早く挑もうとした山姥切の手を握り、目線で制した甲斐があったというものだ。勢いよく顔を上げた五虎退に長兄がまだ何か? とばかりに首を傾げる。

「さ、先ほど! 彼らの誇りを踏みにじった期間くらいはと言いましたが、ならば三か月後、彼女にその権限は返されるのですか?」
「本丸のみなで合議し、差し支えなしという結論が出たなら私としては否やはないよ」

 一期一振にかぎって被害者たる山姥切を議論から締め出す等ありえない。本歌が強いて手を上げずとも弟相手に快勝したあと、一期はきっと意見を求める。こちらはそれまで待てばよい。正しさだけを求める一期と主に肩入れする五虎退、まずは二人を争わせた方が角が立たない、そう思ってのことだった。

「五虎退、お前が主殿に寄り添うために、あえてそこから目をそらしているのはわかっている。だが一度はしっかり考えなさい。兄弟やお前に縁のある刀が同じ目に遭ったとして、お前は私の提案を過重だと思ったか?」

 びくりと跳ねた五虎退の肩が、罪悪感たっぷりに伏せられた目元が、すべての答えを語っていた。主が神妙に裁きを受けるためにはきっと、五虎退のような存在は不可欠だ。人は正論で責め立てられるばかりでは意固地になる。だからこそ一期は弟を飴に鞭をふるい、主を正道へと引き戻そうとしているのだろう。

「でも、三か月ものあいだ、離れで謹慎させるというのは……!」
「もとはと言えば主殿が山姥切殿に命じられたこと。ご自身で経験されれば、二振りの離れでの生活の不便がよくおわかりになるだろう。五虎退、」

 諭すような声とは裏腹に、その目は粟田口の頭領にふさわしい、あたりを払うような威厳を備えていて、弟の身体がぴしりと強張る。覇気にのまれて硬直する主の背を叩き、耳元で何事かを囁きかける国広と大倶利伽羅の視線が交わる。
 己と本歌が繋いだ手を食い入るように見つめる彼の、こちらを芯から焦がすような目に身じろぎしかけた山姥切とこつんと額を合わせてやって、嫉妬やら苦悩やらでぐちゃぐちゃになったエメラルドを真っ向から睨む。

「刀はこれからも増えてゆく。山姥切殿と同じかたちで配属される者もあれば、因果な縁を持つ者もある。そうした刀が来る度に彼らの誇りを踏みにじり、口先だけの謝罪でことを済ませるのか?」

 雷に打たれたように固まる五虎退に、それでも一期は手を緩めない。目を見開く初期刀に証明してみせろと思う。握った手からつたわる温度を、この刀のやわらかな鼓動を大倶利伽羅は愛している。でも、それはきっと恋ではない。
 お前にこれを任せてもいいと思えるだけの証を俺に与えてみろ、山姥切国広。己が本歌に恋していると信じる刀はたくさんあるが、大倶利伽羅は彼とそうした間柄になる気はなかった。
 己と山姥切とのあいだに恋情に育ってもおかしくないだけの何かがあるのは事実だ。だがこの想いをひとたび恋に育ててしまえば、きっと自分は彼に対してこんなふうにはあれなくなる。
 いつかの初期刀のように恋心に振り回されて、兄刀の役目を全うできなくなるのは御免だ。いつ終わるともしれぬ浮き沈みの激しいそれより、大倶利伽羅は不変の絆を選びたい。 いわおのようにたしかな本歌の心の拠り所。彼をこの本丸に繋ぎとめる不動の錨たることこそが、己が何より望むこと。

「未熟さは悪ではないが、過ちは正しく償われるべきだ。主殿の成長を阻む気なら容赦はしない」

 凄みを感じさせる低音で会心の一撃を叩き込んだ一期からさっとバトンを引き継いで、流れるようにテンカウントを終えた薬研が高らかに手を打ち鳴らす。

「試合は終わりだ、これより勝敗を決する!」

和泉守兼定は陸奥守吉行の言葉を反芻する
 誰かがどうにかしなくちゃなんねえ。そう思ってはいたものの、まさかこんなかたちで事を為すとは、亀の甲より年の功ってのはあながち嘘じゃないらしい。大した刀だと和泉守は心のうちで天を仰いだ。御前試合の名目で一期は見事に主を裁いた。だが、肝心なのはこっからだ。下駄を履くまでわからないのが勝負事。刀もそうだが、我らが主はこの顛末をどう受け止める?
 居並ぶ刀にざっと視線をくれると、真顔で主を見つめる陸奥守がいた。新選組が本歌を見極め、見定められた大浴場での会談のあと、長曽祢が設けた内々の話し合いの場には、竜馬の刀も招かれていた。耳にやわらかな土佐弁で、だがしかし断固たる態度で彼は意見を示してみせた。

***
 ここ最近の主の山姥切や縁刀たちへの扱いは目に余る。彼女に行状を改めてもらうために、俺たちができることはあると思うか。新年を迎えてから三日を数える快晴の朝。山姥切と大倶利伽羅を約定通り役人の待つ万屋街へと送り出し、部屋に帰るなりそう告げた局長の刀に車座になっていた刀たちが唸る。

「いやそれなんて無理ゲーよ! 下手につつくと火傷するぜ?」
「俺も清光に一票。あの坊主にくけりゃ袈裟まで憎い状態の主を見ても、ガッツを失わないでいられる曽祢さんは流石だけど、気合だけじゃどうにもなんないこともあるでしょ」

 間髪入れずに言葉を返す沖田組にも、長曽祢はまるで動じない。己の意がこのまま捨て置かれることはないと、わかっているからこその余裕だ。かつての主を想起させるあの刀の苛烈さを好ましく思いながら、この状況で下手に動くのはリスクが大きすぎると懸念する俺、それを察して沈黙を保つ堀川とくれば、彼があてにするのは、

「そういいなや。どうにもならんことらぁてない。薩長を同盟させるよりはずっと簡単じゃき!」

 あの動乱の時代に誰より大きい夢を見た志士の刀、陸奥守吉行だ。ぱんぱんと手を打ち鳴らし、明るい笑みで座の緊張をときほぐす打刀は、今となっては半分以上身内みたいなものだった。
 それもこれも元主の因縁から顕現早々鍛錬場を壊しかけた彼らに、その日近侍をつとめていた一期が言い渡した罰則――互いの元主に関する指定図書五冊の感想文を提出し、そのすべてに彼の優を得るまで一切の武働きはまかりならぬ――と取っ組み合う内に生まれた謎の連帯感によるところが大きい。

「俺たちと陸奥守がいざこざを起こしたときや、俺と蜂須賀が衝突したとき、主は無用な介入を避けた。山姥切にだけそれが許されないのは間違っている。これ以上事態を座視するのは、士道に背くことではないか? 薩長のように主と彼が互いを憎んでからでは遅いぞ」

 怨敵同士でありながら手に手をとって、世紀の大勝負である討幕を成し遂げた薩長。だが栄えある勝利からときを置かずして昔日の恨みは再燃した。勝者たる彼らは海の薩摩と陸の長州に道を分かって、新生日本には隙あらば相手の喉笛を噛みちぎらんとする海軍と陸軍が誕生した。
 目的のために手を携えて大事を成した者たちですらわだかまりを抱えるというのに、大義のために手を繋ぐ意志すらない主の姿勢は、山姥切に、縁刀たちにどう映るのか。
 
……誰かを恨みに思うには山姥切さんは高潔すぎる。彼ならきっと主さんの弱さをわかった上で待ってくれると思います」

 心もとない表情でおずおずと告げる堀川には、かつてのような本歌への反感や疑心はなく、ただただ葛藤が滲んでいる。だが、その主張には大事なことが欠けている。山姥切が現状に耐える強さを持っていることと、俺たちが本歌にそれを耐えさせるのはまた別の問題で、長曽祢が言っているのはおそらくそういうことなのだ。

「少し楽観がすぎるぞ、堀川。己が誇りを否定され、戦場を奪われ、親しい刀を傷つけられて、腹が立たないわけがない。主が彼の人となりを知らずに暴走しているならまだいいが、今の彼女は山姥切をわかりたくなくてああなっている」

 自らの主たれない者に俺の刃を、仲間の心を預けるわけにはいかないな。さらりと付け足す長曽祢に堀川が押し黙ると、顎に手を添え何事か思案していた陸奥守が膝をはたいて、気ままな猫よろしく伸びをした。

「よういかんなあ。薩長を結びつけたもんが、主と山姥切の間にもあるはずなんじゃがのう」
「なにそれ冗談?」
「いや、ないでしょ」

 長曽祢の抜き身のごとき視線と言葉に心持ち気圧され気味だった加州と大和守が、水を得た魚のようにさえずるのを陸奥守のやわらかな眼差しがとらえた。黄昏の空を閉じ込めたような瞳はやさしげで、だがしかし鋼鉄の芯を感じさせる。

「いんや、あるぜよ? 遡行軍っちゅう共通の敵じゃ。刀のよう来ん此処にせっかく来た刀やき、御上の事情もよく知っちゅうなら、それこそ逃す手はないがじゃ。問題は、」
「今の主にそういうあたまがねえってこった」

 言葉を継いだ和泉守に加州の瞳がぎらりと光る。膝の上で拳を握りしめる相棒の肩を大和守がどうどうと叩いた。

「でもッ! 初期刀のあいつに思い入れがあるのは当然じゃん!」
「すききらいとか、合う合わないがあるのはふつうだよ。人間だもん」

 言葉の端々に迷いを含ませながら、それでも主を擁護しようとする二振りに嘆息する。いま自分たちにできる最善は下手に動かず、事態を注意深く見守ることだと思っているが、だからといって和泉守は現状を容認しているわけではない。彼らが己に対してそういう印象を抱いたなら、正しておく必要がある。

「土方さんは芹沢さんを斬った。だがそりゃ道を正すためだ。今の主にそういう志があるか? わだかまりはあるかもしんねえ。だがそれあ、あの刀の拠って立つなにかより尊いか?」
「肌に合わんもんを片っ端からきらっていては大事をなすことはできん。相手を忌み嫌うより心を御して愛してみゆう。それでこそ主の実があるっちゅうもんじゃ。おんしらはそう思わんか?」

***

 死んだような静寂のなかで、じっと考え込んでいた加州と大和守、堀川はそろそろ答えを出せただろうか。まだ自分なりの解を見つけていなかったとしても、どちらかには手を上げ、己の意見を示さねばならぬときが来た。

「五虎退に理があると思った刀は挙手を」

 さあ、お前らの答えを聞かせろ。

山姥切国広は異議を唱える
「もういねえか? おし、それじゃあ、いち兄に賛同するって刀は挙手を頼む」

 ほとんど逡巡することなく、刀という刀が堂々と手を上げていくのを、主は蒼白な顔で見つめている。これは審神者としての彼女への不信任決議だ。動揺するのも無理はない。
 冷え切った手を励ますようにぎゅっと握って、主の顔を覗き込む。不安はあってもその表情に敵意や反発の色はなく、ほっと息をつく。そこにいるのは恋に狂って強権を振るう主君ではなく、これからどうなるのだろうと途方に暮れる線の細い少女だった。

……これまたはっきりしたもんだ。まさしく一目瞭然ってやつだな。では改めて発表する。この論戦の勝者は一期一振! 旦那方、二振りの健闘を称えてくれ!」
「さて、他に私と意見を戦わせたいという御仁はおありか? この一期、手厚く歓迎致しますぞ」

 主への公開裁判をあざやかな手並みで捌き切った粟田口の長兄が、本丸の刀たちの拍手に優雅な礼で以て応える。喝采の輪に加わりながら、俺はどこか煮え切らないものを感じていた。これでは本歌が蚊帳の外だ。彼の意見を聞かずして、償いの内容を決めていいのか。

「ふむ、いないようですな。ではこの機に山姥切殿のお考えを聞くとしよう。私がこれより主殿にする提言、貴殿とその縁刀たちへの償いの内容をいかが思われる? 心にかかることがおありなら忌憚なく述べていただきたい」

 終始、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で論戦の行方を見守っていた本歌が唐突に話を振られて、瑠璃の瞳を瞬かせる。気を取り直したように姿勢を正して、山姥切はまっすぐ一期と正対した。

「俺の扱いについては覚悟していたことでもあるし主に含むところはないが、縁刀たちへの仕打ちについてはきちんと償ってほしいかな。俺のあとにも刀は来る。元同僚が同じ目に遭うのは見たくないから、起請文でも書いてもらうか」
「ならば誓うのは、北条ゆかりの三嶋の神でどうだろう。誓いを破った場合の罰はどのようなものを望まれる?」
「具体的な神罰までは望まないかな。主義主張の違いで刀を差別したり、害することはしないと一筆書いて執務室の壁にでも飾ってくれればありがたい」

 起請文は神仏への誓いを記した文書で、誓いの内容を記した前書の部分と、違背した場合に神仏の罰をこうむる旨を記した神文 しんもんの部分からなる。後半部分を空白にするなら具体的な効力は望めない、形ばかりのものとなるはず。

「今の主は俺の立場も多少はわかってくれたようだし、縁刀たちの待遇がこれから改善されるなら、俺にとっては言うことなしだ」

 本当にこれでいいのか? はきはきと言葉を続けた山姥切に名状しがたい感情が胸のうちでさざめく。この裁定は正しくない。天秤はまだ偏ったままだ。それを少しでも水平に近づけるため、俺に何かできることは……。そう考えたとき、気づけば口を開いていた。

「待ってくれ。俺はこの裁定に異議がある!」

 無遠慮に割って入った俺に本歌の瞳が見開かれる。みなの視線が俺に吸い寄せられるなか、穏やかな笑みで続きを促してくれた一期に目礼し、俺は構わず言葉を続けた。

「主は山姥切を蟄居させたが、それ以前に彼を折ろうとした。本歌を人質に縁刀たちに圧をかけた。この罰ではそうしたことへの償いにはならない」
……なるほど。それでは、いかなる罰が適当だと?」

 恐れに縮こまった彼女の手のひらを叩いて、強張った指を一つまたひとつとほどいてゆく。くしゃりと顔を歪めた主と額を合わせて、その瞳の底に揺蕩う感情のひだを慎重に推し量る。
 今から俺がすることを、あんたは受け止められるだろうか。否、わかってくれると信じている。ささやく俺に主が頷くのを確認してから、腰の刀を抜き放った。

「俺は初期刀でありながら主を正しく導けず、仲間を守ることにも失敗した。二度と同じことが起こらぬように力を尽くす義務がある。故に、」

 鞘と刃を交差させ、瞳を閉じて峰に額を押し当てる。ぶわりと髪が霊気に逆立ち、みなのざわめきが肌を刺す。心を凪いだ状態にして瞼を開ければ、寄せては返す霊気の波が俺を迎えた。

「この刃と誇りにかけて山姥切国広が誓う。主がふたたび審神者としての本分をおろそかにし、この戦に参じた刀を不当に貶めたり害するようなことあらば、この腹十文字に斬って詫びとする!」

 一語一句に心を込めて言い切れば、金と緑の光が刀身に巻きつき、じゃりんと鎖の音が響く。ただでさえ下るかわからぬ神罰の記載すらない起請文より、ずっと確実な誓いが成った。あとは彼女がどう受け止めるか。
 呆然と一部始終を見ていた主が、夢から覚めたように髪を乱して立ち上がる。

「なんてことを! 今すぐ誓いを取り消して! どうしてこんな自分の命を盾にするようなやり方を……!」
「主、誓いをなかったことにはできない。あんたも審神者ならわかるだろう? まあできたとしても、するつもりはないが」

 涙をこぼして錯乱するヘーゼルの瞳をしっかりとらえて、抜き身の刃を鞘へと仕舞う。主のもとへといざり寄り、膝と膝とがふれあう距離で彼女の乱れた髪を梳く。小刻みに震える手のひらをすくって背中をなぜながら、俺は静かに語りかける。

「なあ主、胸が痛むか? 今あんたが感じているその痛みこそ、あんたが本歌を虐げているとき山姥切が、彼の縁刀たちが感じていた痛みだ。あんたは本歌の命を盾にそういう苦難を彼らに強いた。それをわかってほしかった」
……私にわからせるために、こんなことを?」

 青ざめた唇からこぼれた力のない声に胸がきりきりと痛む。呆然とした表情で心臓のあたりを握りしめ、どこか得心したようにつぶやいた彼女に一気に肩の荷が降りた心地になって、号泣する主の背中をあやすリズムでなぜてやる。

「わかったよ、国広。私、やっとわかった……」 
「今のあんたなら、きっとわかってくれると思っていた。思うところはあるだろうが、これが俺なりの誠意の示し方だ。さあ主、あんたの番だぞ。一期の進言に対する答えを、あんたの気持ちを聞かせてくれ」

 涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにした主が本歌にすっと向き直り、両手をついて深々と畳に額づく。大倶利伽羅に江雪、小豆に物吉、鯰尾といった縁刀たちに順番にうなじが見えるほど頭を下げて、しゃくりあげながら謝罪と承諾の意を示した彼女を、遮る者はいなかった。

山姥切長義は襲撃を受ける
 月と星が完璧な配列で散りばめられた夜の世界で、砂金のような光の粒子が収束する。帰還のゲートが現れるのを浮き立つような心地で眺めて、緩みっぱなしの頬をおさえた。
 主が現世から帰ってまだ一日しか経っていないというのに、俺や縁刀たちの待遇はすっかり改善され、部隊編成の権限を預かる一期は自分のシフトを組み替えてまで俺を出陣させてくれた。一日でこの急転直下、もはや隔世の感がある。
 わずかばかりの衣服と日用品を離れに持ち込み、早々に謹慎を始めてしまった主も主だが、それを薦めた刀も尋常ではない。なんという自浄作用だろう。俺の知ってる冷遇本丸じゃない。

「天の海に雲の波立ち月の舟、星の林に漕ぎ隠る見ゆ。昔の人はよく言ったものだね。まさしく今宵にふさわしい歌だ。そうは思わないか、山姥切」
「柿本人麻呂だね。たしか、万葉集だったかな。まったく同感だよ。久方ぶりの出陣がこんなにも美しい夜で幸せだ」

 鳥居から覗く戦場の空とまったく同じぬばたまの夜空と、どこまでも続くかに見える雲の浮橋に飛びこんで、背を押し流す潮のかいなに身を任せる。
 やわらかな雲の浮橋を進む馬を手綱を繰って導いて、栗毛のたてがみをやさしくなぜる。小指にゆるく結ばれた不可視の糸を手繰り寄せ、俺はつかの間瞑目した。
 指先からつたわるかすかな鼓動が、蛍のように脈を打つ光と熱のぬくもりが、己にそっと教えてくれる。次元の壁を隔てた先で大倶利伽羅が待っている。先に眠っていてくれと頼んだのに、我が兄刀は心配性だ。かくなる上は早急に無事な姿を見せて、ありったけの感謝を。そう思って馬に拍車をかけたそのとき、殺気がぴりりと首筋を焼く。

「後方、銃兵を引き連れた短刀による襲撃を察知! 総員、全力で退避せよ! 逃げられないと思ったら申告しろ」

 初期刀が声を張り上げると同時に馬から飛び降りた俺に、銃弾が雨あられと降り注ぐ。浮橋を流れる霊力は一方通行。後ろを振り返ったら最後、ゲートを守る術式に弾かれ、戦場に放り出される羽目になる。
 ならば勘で回避するしかない。銃撃を受け身でもってかわしながら必死で走ったそのときだった。

――かはッ!」

 ズダァン! という音がして銃弾のひとつが腕を貫通する。骨が砕ける衝撃とじわじわと広がる麻痺に足が止まって、ふがいない己にぐらぐらと腹が煮え立つ。俺には果たすべき使命がある。間違ってもこんなところで終わるわけにはいかないのに! 
 金縛りにあったかのように動かない足を殴りつけ、奥歯をぎりりと食いしばる。動け、動け、動いてくれ! 致命的な隙をさらした俺を松風が立派な体躯で覆い隠して、勇敢な汗馬もろとも銃兵たちが俺を狙い撃たんとした時だった。

「俺の本歌に、汚い手でふれるなッ!!」

 全力で逆走してきた山姥切国広が上体をぎりぎりまで傾け、腕一本で俺を愛馬へ引き上げる。指折りの機動を持つ赤兎が心得たように旋回し、銃弾の雨を僅差で避ける。口笛ひとつで松風を呼び寄せ、軽業師のように飛び移ってみせた初期刀に導かれるまま、敵の群れへと突撃する。

「よくやったな、松風。俺が来たからにはお前も本歌も必ず無事に帰してみせる」

 翡翠の瞳がぎらりと光って、彼の手中で見慣れぬ武器がくるくると踊る。三国一の武芸者、呂布奉先が愛用したという方天画戟によく似たそれから繰り出される疾風怒濤の大立ち回りに銃兵たちがなぎ倒されて、短刀もろとも間合いの外へと吹き飛ばされる。
 あまりにもあざやかな手さばきに思わず絶句したそのとき、霊気の膜が千々に砕けて、雲の浮橋がはじけ飛ぶ。ふわふわとした雲海が刹那のうちに蒸発し、吐き気を催すような浮遊感とともに天と地が、この空間を司る理が逆流を始める。

「俺と本歌は戦場で待つ。落ち着き次第、座標を連絡する。みな、あとは頼んだ!」
「たしかに任されたよ。武運を祈っている!」

 やけに手馴れた初期刀と歌仙の会話のあと、胃の腑を千本で滅多刺しにされたような痛みが襲って、許容値を遥かに超えた刺激に電源を落とそうとする身体を意志の力でなんとかおさえる。

「山姥切、もう少しだけ持ちこたえてくれ!」

 じりじりと本能に押し負け、遠ざかってゆく意識のなかで最後に見たのは、落馬しかけた俺を抱き寄せ、ロープで鞍にくくってゆく機敏な手先と、ついさっきまでの武神のごとき荒々しさが嘘のような憂い顔だった。


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