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客ザゲ小話

全体公開 客ザゲ 1 19 8579文字
2022-06-01 12:48:12

友達初心者ギルピョンユンの三人が鍋を囲む話と、ファピョンとユクグァン兄の出会い妄想の二品です。飯を奢られるファピョンセットです。
重大なネタバレは特にないですが、前半の話は16~18話あたりが辛すぎて「ファピョンに何か食べさせてやってくれ」となって書いた話なので、時間軸がそこら辺になっています。あれ以上辛い展開がまだ待ち受けているとは思わなかったよ……

Posted by @kosame85

 仕事終わりの夕暮れ時、ギルヨンとユンの二人は珍しくパク・イルド以外の件で落ち合い、重ねて珍しいことに、二人きりで庶民的なスーパーマーケットの前で立ち話をしていた。話題はここにいない因縁深い三人目、ユン・ファピョンのことだ。
「で、あいつの家、鍋くらいはありそう? ガスコンロは?」
「鍋はあると思いますが、ガスコンロは……
「はあ……分かった。署で使ってるやつ持って来るから、あんたは食材をお願い。後で車で拾いに来る」
「備品を使っていいんですか?」
「どうせ先輩くらいしか使わないから。ところで、あいつの好物知ってる?」
「見当はつきます」
「そう。じゃ、頼んだ」
ひらっと手を振って車に戻るギルヨンを見送ると、ユンは一人スーパーへと入っていった。頭に浮かんでいるのはユン・ファピョンの空っぽの冷蔵庫、その白さだ。
 カソック姿のすらりと背の高い男が、買い物かごを片手に野菜売り場に立っている。通りがかる人々は、そんな日常と非日常がぶつかり合う様を思わず二度見しながら通り過ぎたが、当の本人は涼しい顔をしている。元よりユンには涼しい顔以外の表情はあまりないのだが。
 長らく独り暮らしをしていたため、ユンにとって他人のための食べ物を買うのは久しぶりだった。といっても、先日酔いつぶれたファピョンに差し入れをしたばかりだから、正確には他人と一緒に食べるための物を買うのが久しぶり、ということになる。それをギルヨンに話すと、「私も久しぶりに他人に飯奢った。署じゃ年下の方だから……ユン・ファピョンはそういうのが上手い」と苦笑していた。二人とも、ファピョンには甘いのだ。
 ユンは、そんな甘え上手で甘え下手というアンビバレントな彼の不足している部分を補うための食材をひとつひとつ選んでいった。あの空っぽの冷蔵庫を埋めるためには何が必要だろうか、と考える。初めて訪れた彼の部屋は空虚で寂しく、染みついた孤独の気配がした。思えば、ユン・ファピョンという男は出会った時からそうだった。初めから、たった一人で何もかもと戦っているかのような佇まいをしていた。
 スーパーの一隅で物思いに沈むユンの手にしたカゴは、すぐに思いやりでいっぱいになった。


「うわっ! 何だよ、急に二人して!」
 それから数十分後、自宅のドアを開けたファピョンは、戸口に立つギルヨンとユンに目を丸くしていた。ギルヨンの手には何故かガスコンロ、ユンの手には丸々と太ったレジ袋があった。パーティーでも始めるのかというような出で立ちだが、ファピョンは何の連絡も受けていないし、そもそも祝うべき事柄の心当たりもない。何より、それらを持つ二人の顔はいつもの仏頂面で、めでたさの欠片もない。
 二人とその携帯品を見て困惑するファピョンを前に、ギルヨンが口火を切った。
「夕飯、まだなんでしょ?」
……はい?」
「持ってきました」
「へ?」
「上がるから退いて。お邪魔しまーす」
「失礼します」
「ちょっ、まっ、待て待て待てって!」
 ファピョンを押しのけて家に上がるギルヨンに続き、ユンもずかずかと敷居をまたいでいく。二人を止め損なったファピョンは、とりあえずドアを閉めると、慌ててその後を追いかけた。
 慌てふためくファピョンと反対に、さも当然といった体で部屋に入ったギルヨンは深々と溜息を吐く。吐息ががらんどうの空間に溶けていった。壁に沿うように最低限の家具が並べられたその部屋は、夕暮れの光が少し差し込んでいて、どこか侘しげな印象を与えている。
「本当に何もない……鍋やるのにぴったりって感じ」
「ええ。三人並んでも問題ありませんよ」
「ちょっと、人の家で勝手に話進めないでくださいよ。何? 鍋?」
 眉根を寄せるファピョンに、ギルヨンは顎でユンの持つネギの飛び出したレジ袋を示した。
「ユンが、あんたがろくに物食べてないって言うから持ってきてやったの。夕飯一式」
「はあ? 神父のくせにほんっと口の軽いヤツ……ええ、まさか今からやるんですか?」
 勝手に台所を見定めて食材を取り出し始めたユンと、手近な机にガスコンロを置き始めたギルヨンを前に、ファピョンは困惑したように言った。
「何、私の奢りなんだから文句ないでしょ」
 有無を言わせぬギルヨンの言葉と共に、ユンにもじろりと微かに睨まれ、ファピョンはぐっと言葉を詰まらせる。さっきからやけに愛想の無い二人だが、普段と違って妙にそわそわとしているのが雰囲気から伝わってくる。恐らく、二人としても慣れないことをしている自覚はあるのだ。それが分かって、ファピョンも落ち着かなくなってきた。
 正直なところ、ファピョンはここ数日、主に怨霊の件で肉体的にも精神的にも忙殺されていて、食事に時間を掛けることすら面倒になっていた。「ろくに物を食べていない」というのは紛れもない事実である。これから鍋をやろうという提案さえ面倒に感じている。だが、二人の若干横暴な親切も、悪しからず思っている相手ゆえ、無下にはしたくない。何なら、たまにはきちんとした食事をせねばならないというのも分かる。分かるのだが――
 あれこれ悩んだ挙句、ファピョンはどっちつかずのくぐもった声を上げた。
「その、俺が言うのもなんですけど……料理とか出来るんですか? 生活能力ゼロっぽいけど、二人とも」
 ギルヨンとユンはそう言われるのを待っていたかのように、タイミング良く袋からカラフルなパッケージを取り出して、シャカシャカと振って見せた。
「インスタントよ、インスタント。鍋なら具材足せばそれらしくなるし」
「辛ラーメンも入れますけど、辛いの苦手ですか?」
 ファピョンは目を回しながら「食えるよ。この前くれたユッケジャンのも食べたし……」と答える。完璧な連携プレーを前に、抵抗は諦めた。
 白旗を掲げたファピョンを他所に、インスタント袋を片手に部屋をぐるりと見回したギルヨンは、ふと、壁際に立て掛けられた小さな遺影を見つけた。中では、優しげな女性が微笑んでいる。
「これ、お母さん?」
「ああ。はい、そうですけど……
 後ろ頭を掻くファピョンの気まずそうな声を聞きながら、ギルヨンは手にした袋を下ろすと、手慣れた仕草で写真の前に腰を下ろし、静かに手を合わせた。
ファピョンはいよいよどうしたら良いのか分からなくなり沈黙した。ギルヨンはしばらくすると立ち上がり、再び鍋の準備に戻った。いつもと変わらぬ泰然とした表情だ。
 てきぱきと動く二人を前に、ファピョンは気圧される。自分の部屋なのに、これではまるで他人の部屋にお邪魔しているようだった。
 それをずっと横目で窺っていたユンは、常より柔らかい声で「ファピョンさん」と呼びかけた。台所机の前に置かれた椅子を指差す。
「椅子はこの一つだけですか?」
「え、そりゃ独り暮らしだからな」
 さも当然といったファピョンの声に振り返ったギルヨンは、「そう、じゃ持って来る」と言って玄関へ向かった。「何を?」と聞いたファピョンの声にジェスチャーで応えるギルヨンの手先だけを覗かせてドアが閉まった。
「自分の家みたいに……おい、マテオ。お前も何勝手に台所使ってるんだよ」
「今更ですね、食材の準備ですよ。……ところでファピョンさんは、野菜、切ったことありますか」
「馬鹿にしてんのか? ……じゃなくて……はあ~、何なんだよ、もう」
 ファピョンはぶつぶつと文句を呟くと、ねぎをユンの手から奪い取り「包丁の場所わかんないだろ」と彼の隣に並んだ。視界の端に映ったユンの微笑みは無視した。
 しばらくして、包丁がまな板を打つ音に混じって、ドンドンとドアを叩く音がした。包丁を持つファピョンに代わってユンがドアを開けると、段ボール箱を抱えたギルヨンが部屋に入ってきた。それをどさりと床の上に置く。
「え、それって捜査資料とか入れてるヤツじゃ……?」
「地べたよりマシでしょ? チェ・ユン、鍋は」
「ここに」
「あ、待て、これも入れるんだろ」
ギルヨンの持ち込んだ段ボールを机代わりに、三人は準備の出来た鍋を囲んで、床の上で円座になった。ぐつぐつと湯が沸騰する音だけが聴こえる何とも言えない無言の時間が流れた後、ガスコンロに焚かれた鍋から香辛料の食欲を誘う匂いが漂ってきた。こうなってはいくら乗り気でなくても腹が減ってくるのが人間というものだ。
「馬鹿みたいにいい匂いだな……
 ファピョンが何気なく呟いた一言に、ギルヨンは「何それ」と問い返す。ようやく会話が生まれたのに、何故か視線を逸らしたファピョンは、口を尖らせて居心地悪そうに身動ぎした。
「どうかした?」
「いや……その……
 珍しく言いあぐねるファピョンに、ギルヨンとユンは疑問符を浮かべる。「アイゴー」と小さく呟いて頭を掻いたファピョンは、どうにでもなれという勢いで言葉を吐きだした。
「ここで誰かと飯食うのなんて初めてで、こう、落ち着かないんですよ! 分かるでしょ、二人とも……人付き合い、悪そうだし……
 ファピョンの尻すぼみしていく声に、ギルヨンとユンは目を見合わせた。それから、どちらともなく箸とお玉を手に持つと、鍋の蓋を開けて、ファピョンの椀に次々と具をよそってやった。とりわけ肉を重点的に狙う。
「ああ! こぼれる! 気を付けてくださいよ! 何だよ、今日は二人とも変だな!」
「いいから食べなさい」
「肉好きなんじゃないですか」
「好きだけどさ!」
 やんややんやと言い合う内に、鍋は思いのほかすぐに無くなった。主にファピョンの腹に収まったのは言うまでもない。器が空になる度にすかさず具材を注ぎ込んだギルヨンとユンの努力の成果である。
 夜もとっぷり更けた帰り際、玄関先に立ったギルヨンは少し言い淀むと「また」と口にした。
「何か持って来るから。ユンも一緒に」
 ギルヨンが目を向ければ、ユンも無言で頷いた。それを見て、ようやく余裕の出てきたファピョンはニヤリと口の端を上げて腕を組む。
「まったく、意外と寂しがり屋ですね。カン刑事」
「あ? それはあんたでしょ」
 秒速で凄んだギルヨンに、ファピョンは心の底から心外だという顔をして目を見開いた。
「違いますよ! そっちが勝手に来たんじゃないですか。いきなり二人して押しかけてきて」
「それはチェ・ユンがあんたのことが心配だって言ったからで……
 急に流れ弾を食らったユンも眉をひそめて口を尖らせる。
「僕ですか? 僕は心配だなんて一言も言ってませんよ? そもそもはファピョンさんが……
「俺は関係ないだろ~!」
「ないはずないでしょ、ここどこだと思ってんの」
 一巡りした責任の擦り付け合いに、三人は数秒お互いを見つめ合うと、馬鹿らしいというように各々顔を背けた。意地っ張りが三人も集まると収拾がつかなくなる。
 感情がぶつかり合った時に誰が場を収めるかはその時々だが、今回はギルヨンが溜息をついて、二人より先に大人になってみせた。
「とにかく、ごちそうさま……楽しかった、と、思う」
「いや、こちらこそですよ。ごちそうさまなんて言うのは俺の方で。なんか、あんな豪華な……まあインスタントですけど……食べさせてもらって、ありがとうございます……
……では、失礼します」
 世事を言うことも無く、ぎくしゃくした空気を断ち切るように言い切ったユンは、さっさと立ち去ろうとする。踵を返したギルヨンもそれに続いた。
 ファピョンは扉を背にして棒立ちになっていた。二人の背が遠ざかっていく。胸の内に、久しぶりに感じる切ない思いが湧き上がって来ていた。
「あの」
 二人が足を止めて振り返る。ファピョンは微かに笑みを浮かべた。
「また、来てくれんの待ってますから」
 ギルヨンとユンは笑った。笑顔で手を振り、頭を下げる。
 月が道の先で輝いていた。



「すみません! 誰かいませんか!」
真夜中、扉を叩く音と叫び声に飛び起きたユクグァンは、慌てて寝床から這い出し、サンダルを引っ掛けてバタバタと玄関へ走った。荒々しいノックの音はしばらく息を整えるように止んだ後、またすぐ忙しなく始まった。
ユクグァンが黙ったままガンガンと叩かれる扉を不審げに見ていると、「ちょっと、そこにいますよね? お願いですから開けてくださいよ!」と悲痛な男の叫びが響いた。人好きのする柔らかい声質だったが、何故だか痛々しくひび割れていた。ただ事でないのは火を見るより明らかだ。
「今開けます! 今開けますから!」
一体こんな時間に何の用だ、まさか人ならざる者か、とユクグァンが怯えながら細く扉を開けると、そこにいたのは頭から一筋の血を流した一人の青年だった。
ユクグァンは思わず飛び上がって尻餅をついた。
「な、な、何だ何だお前は!」
「アジョシ……!」
血塗れの青年は倒れたユクグァンに半ば掴み掛かるようにして駆け寄ると、息を切らしながら同じくらい焦った調子で尋ねた。
「退魔は……退魔は出来ますか?」


ユクグァンは青年がタクシーから背負ってきた謎のサラリーマンを家に上げると、何が何だか訳の分からないまま祭祀の準備を始めた。サラリーマンは口に猿轡をされ、両手を縛られ、目はどこか狂人染みた様子でギョロギョロと辺りを見回していた。顔と服にはまだ赤々とした血が飛び散っている。まったく尋常ではない。
「憑依者じゃないか! こ、この血は!?」
「これは俺のですよ! それより、ちゃんと霊が視えてるんですね? じゃあ祓えますよね!? 騙りだったら困りますよ!」
「失礼な! 私は本物だぞ! その名も六つの光と書いて……
ユクグァンが言い終わらない内に、床に寝かされていたサラリーマンが甲高い悲鳴を上げて暴れ出した。その血走った目が大きく見開かれ、青年の目とかち合う。瞬間、猿轡の下から呪詛のような言葉がぞろぞろと漏れ出した。
「アイッシ、随分邪悪な霊だな……
ユクグァンが対応を迷っていると、放心したように男を見つめていた青年が突然体を折って、吐き気を抑えるように口元を覆った。がくり、と膝を折ってうずくまってしまった。
 ユクグァンは、まさか怨霊が乗り移ったかと思ったが、どうやらそうではないらしい。苦し気にうめく青年に悪霊の影は見えない。
「お、おい!? どうしたんだ?」
「何でもありませんよ! 何でもないから、早く退魔、を、……っ!」
えずく青年の背に手を回したユクグァンは、彼が悪霊に異常なほど影響を受けていることに気がついた。ある程度の神気を持つ者であるのは間違いない。
 今、自分は何かとんでもないことに巻き込まれようとしているのではないか、そんな思いがユクグァンの胸をよぎる。だが、そうして戸惑う間にも、青年はぎりぎりと強い力でユクグァンの袖を握り締めて「退魔をしてくれ」と訴えている。その必死さだけは疑いようがない。
「あ~分かった、分かったから、少し手伝ってくれ。いいか、目を見るなよ? 祭祀を始めるからこの人を押さえておいてくれ、な?」
ユクグァンが背を叩きながら言うと、青年はこくこくと頷き、何とか立ち上がって顔を背けたまま男の肩を押さえた。
まったく何でこんなことに。ユクグァンは腹を括って深呼吸をすると、手に持った鈴を威嚇するように勢いよく振り出した。


数時間後、退魔は無事終わり、悪霊は男の体から出ていった。ぐったりして意識を失った男の横に、汗だくになった二人もしゃがみ込む。
「これでひとまず安心だ」
「良かった……本当に良かった……
青年は心底安堵したように深いため息をこぼすと、よろめく足でふらふらと立ち上がった。
「じゃあ、俺はこれで……その人が起きたら、何とかうまく言って家に帰らせてあげてください」
 ユクグァンは言われたことがまるで理解できないというように口をぽかんと開けた。
「は? 待て待て、そのまま帰るのか?」
「あ~、すみません、その、今ちょっと持ち合わせが……
「違う、違う、金なんていいんだ! 金じゃなくてお前のことだよ。酷い顔色じゃないか。血も出ているし……
「これくらい大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないだろう! そんな……おい!」
歩き出した青年は数歩も行かぬ内にぐらりと体勢を崩して、そのまま倒れてしまった。ユクグァンが慌てて駆け寄ると、真っ青な顔をした彼は完全に意識を失っていた。
「ああ~だから言ったじゃないか……ああ、もう、はあ……
ユクグァンは頭を抱えた。いつの間にやら正体不明の行き倒れが二人も家に転がっている。こんな厄日など、これ以降もう二度と来ないようにしてください、と強く将軍様に願った。



翌日、記憶を喪失して混乱する元憑依者を上手く言いくるめて家に帰らせたユクグァンは、残ったもう一人の招かれざる客を前に渋い顔をしていた。昨夜、青白い顔で昏倒した青年は、今や厚かましいほどぴんぴんしていて、何故か食卓の前で胡座をかきながら飯を口いっぱいに掻き込んで頬を丸くしていた。
「何か事情がありそうだと思って優しくしてやったのに朝飯も奢れだと? 図々しいヤツだな……
「昨日全部吐いちゃったから腹ペコなんですよ~。あ、包帯もありがとうございます」
青年は軽く頭を下げつつも、遠慮なくキムチにスープにと出されたあらゆるものを次々腹に納めていた。その様子は、まるで久方ぶりに食料にありつけた野生の獣のようだった。
「アジョシ、ソジュはないんですか?」
「ソジュだと? まったく、朝っぱらから何を言ってるんだ! お前、未成年だろう!」
「冗談ですよ。それに俺は20歳です。成人してますからね?」
ユクグァンは青年の図太さに呆れつつ、内心ほっとしてもいた。改めて見てみれば、彼は思いの外あどけない顔をしていて、その風貌にはどことなく世話を焼きたくなってしまうような危なっかしさがあった。
「そういえば名前も聞いてなかったな。俺はユクグァンだ。六つの……
「六つの光と書いてユクグァン。昨日言ってましたね。俺はユン・ファピョン。ただのユン・ファピョンです」
そう名乗って顔を上げた青年の目は綺麗な鳶色をしていたがどこか暗く、年のわりにそれなりの苦労をしてきたのだろうと察せられる雰囲気があった。その目を覗き込んで、ユクグァンは訝しげに聞いた。
「なあ、ユン・ファピョン。お前も巫者か何かなのか?」
「家は巫者の家系ですけど、俺は霊媒師だったんで……巫者にはなってませんよ」
「霊媒師? じゃあ、お前に憑り付いた霊があの男に乗り移ったのか?」
「違います。個人的に追ってる悪霊がいて、そいつを探してる途中で見つけたんです。今回はハズレでした」
けろりとした顔で言われた言葉は、ユクグァンの安心しかけた心を再びざわめかせた。
「退魔も出来ないのにそんな危ないことを? なんてヤツだ……
ユクグァンは咄嗟にチラシの切れ端とペンを引っ掴むと、自分の電話番号を書き込んだ。それを相変わらず食べるのに夢中な青年に渡す。
「何ですか?」
「また昨日みたいなことがあったら電話するんだ。小さい、本当に小さい悪霊ならまた追っ払ってやるぞ」
「お~営業熱心ですね」
青年が興味無さそうにメモを見る姿を見て徒労の気配を感じたユクグァンは、首を振ってメモをひったくった。
「やめた。お前の番号の方を教えてくれ」
「ええ! 何でですか!」
「昨日の金を払ってないじゃないか! 取り立て用だよ」
「金はいいって言ったじゃないですか!」と文句を言いながらも、青年はしぶしぶ出された紙に番号を走り書きする。
「携帯の番号です。俺、タクシー運転手やってるんで運転中は出られませんけど」
「それ以外の時は出るんだな? 出なかったら出るまで掛け続けるぞ」
「ええ……何でそんな……やっぱりさっきのメモくれませんか? 俺だけ番号知られてるのフェアじゃないですよ」
「悪霊が、出たら、掛けるんだぞ?」
「はい、悪霊が出たら掛けます。約束します」
何とか青年との連絡手段を手に入れたユクグァンにも、ふと一体自分は何をしているんだと冷静になる気持ちも少しはあった。だが、長らく巫者として危機に瀕する人々と接してきた直感が、この青年を一人にしてはならないと告げていた。少なくとも頭から血を流しながら「大丈夫」などと言う人間は長生きしない。
「ユン・ファピョン」
「はい?」
受け取った電話番号を眺めていた青年は、無為な表情でユクグァンを見返した。寂寥が染み付いてはいるが、その顔はやはり子供のそれだ。ユクグァンはふっと笑った。
「いいか? おかわりは、無しだ」
「ええー!」
悲痛な声を上げた青年が再び飯をたかりに来るまで、そして、新たな憑依者を連れて来るまでそう時間はかからなかった。そして、それが二人の当たり前の関係になるのも、それから一年もしない内のことだった。


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