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中庭にて

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2022-06-01 20:53:13

バロ龍 2016年9月2日投稿

Posted by @saeki_f

教会から5時を告げる鐘が響く頃、バンジークス私邸の中庭に二つの影が寄り添う。一つは当然家主のもの、もう一つはそれより一回り小さな黒い影であった。
小さな黒い影は、大きな影と向かい合う位置に立つ。

四方を壁に囲まれて外界からの視線を遮断できるこの中庭が、建物の外では二人の唯一の逢瀬の場となっていた。豪奢とまではいかないが、花や緑が通年楽しめるよう趣向を凝らした造りになっている。
成歩堂龍ノ介は、この箱庭のような空間でバロック・バンジークスと過ごすのが何より好きだ。だが今日はいつものように浮かれた気分ではいられなかった。

「次は、いつお会いできるのでしょうか」

まだ別れの時ではないというのに、龍ノ介はひどく不安げに呟いた。

「どうした。貴公が帰るまでまだ時間はあるうだろう」

今日、龍ノ介はバンジークス邸に泊まる予定だ。屋敷の中では常に手の届く範囲から離れないほど親密な二人だが、今日は一段とその距離が近い。何を不安がっているのかと、バンジークスは龍ノ介の頭を優しく撫でた。そのお陰で少しは心の曇りが薄れたのか、しかしまだ拭いきれない様子で質問に答える。

「だって僕が帰りの船に乗るまで、あとひと月ほどしかないのですよ」

ひと月。そう言われて流石のバンジークスも表情を曇らせた。長いようで、過ぎてしまえば実に一瞬の期間だ。
そもそも龍ノ介が倫敦に来たのは運命のめぐり合わせだが、密航者でありながらも滞在がかなったのは留学という名目があったから。その期限付きの名目が無くなってしまえば、当然帰国せねばならない。倫敦で得た知識や経験という手土産を持って。
そしてこの地で得たもので、どうしても置いて行かなければならないものもある。それは物であったり、友人であったり、恋人。
日本と英国ではあまりにも距離が離れすぎている。龍ノ介は帰国したら、正式に弁護士となり日本に英国式法廷の仔細を伝え、故郷の法廷の役に立つのだと決めている。バンジークスもこの大都市倫敦に蔓延る闇を払うため、一層の力をふるうことになるだろう。二つの道は、如何とも交差しがたい。
つまりひとたび離れてしまえば、二度と会うことすらできなくなる可能性だって十分にあるのだ。

出会ってから別れるまで一年間。恋人であった期間は、それよりももっと短い。最初から期間限定だったのだ。
どうしても、この愛には終わりが来る。それがいよいよ目に見えるところまで来てしまった。

「いっそのこと僕のことなど嫌いになって、手酷く振ってくだされば諦めもつきますのに」
「馬鹿なことを。そのような真似、私には出来ぬと知っていよう」
……ええ、もちろん」

検事としてのバンジークスは厳しいが、恋人としての彼は優しい。龍ノ介はそれをよく知っていた。しかし別れの時が迫る今、その優しさで胸が苦しくなる一方だ。
あらゆる表情を見せてきたというのに情けない顔は見られたくなくて、龍ノ介は眼前の逞しい胸に軽く頭を預け俯いた。

「我儘を言っても、良いでしょうか」
「無論」

ここには誰も居ないのだから。そう囁いて、バンジークスは龍ノ介を促した。

……別れたくなどありません。まだあなたと共に居たい。あなたに会えなくなるなんて、僕には耐えられそうもない」

別れを思うだけで龍ノ介の声は震えた。なんと女々しいことだろうと自分に呆れもしたが、これが想いの全てだ。一度吐き出してしまえば、勝手に流れ出して止まらない。
バンジークスの服を掴む手に力が入る。その手を一回り大きな手が優しく包み込み、そっと解いた。バンジークスは今にも泣き出しそうな顔を上向かせ、右手を差し出す。

「ならば、共に死ぬか」

まるで舞踏にでも誘うかのように恭しく、そして優雅な動作で。
唐突な問いに龍ノ介は一瞬たじろいだが、その言葉に冗談の色など微塵もないことを悟ると静かに目を閉じる。

思い出されるのは、数ヶ月にわたる秘密の蜜月。
良い思い出ばかりではないし、天秤にかければ苦労の方が少し重いくらいだ。いつだって人目を忍んでいた。外では決して必要以上の接触など無かったし、法廷では好敵手として互いに全力で議論を交わした。
龍ノ介の近くに居た寿沙都、ホームズやアイリス、ジーナはどうだったか分からないが、傍目には二人が恋人同士だったなど露ほども思わなかっただろう。
だがその分二人で過ごす時間は、何物にも代えがたい価値があった。数え切れないほど口付けを交わし、数え切れない夜を共に過ごした。一つとして龍ノ介に思い出せないものなど無い。

再び目を開いた時には、真っ直ぐにバンジークスを見据えて微笑んだ。

「とても……とても魅力的な言葉ですね。思わずその手を取りたくなるほど」

龍ノ介はその右手を取りはしなかった。二人の間に、心なしか風が吹く。

「僕にはできません。この地で、そして故郷に帰って、果たさなければならない使命があります」
「件の親友の遺志、か」
「ええ」

頷く龍ノ介は、我儘を言っていた先ほどの弱々しい姿とはまるで別人だ。
恋人にしか見せない柔らかな微笑みと共に、バンジークスは満足げに右手を下ろした。

「フッ、そう言うであろうと思っていた」

バンジークスは本気だった。この蜜月の終わりを自らの人生の終わりとしても良いと思えるほど、龍ノ介に心奪われている。
だが断られると分かっていたのもまた事実。彼もまた龍ノ介の強さを最もよく知る人間の一人なのだから。つまるところ、どちらに転んだとしても構わなかったのだ。

別れがたいのはバンジークスも同じこと。留学期間を多少延長するくらいであれば、手を尽くして実現することはできるだろう。だが龍ノ介がこのような人間である限り、彼はいつか故郷に帰る。それはどんな手を使っても変えられない運命なのだ。
仮にも死"神"と呼ばれるものならば、この小さな人ひとりの人生くらい思うままに操ることができれば良いものを。バンジークスは何度そう思ったことか。

「貴公の使命も、亡き友人の遺志も、全て忘れさせてしまえたら」

気付けばバンジークスは声に出してしまっていた。しまったと思った時には既に遅く、龍ノ介は少し意地悪に笑っていた。

「嫉妬ですか?」
……おそらくな」

事実、バンジークスは幾度となく龍ノ介の心の中に居る親友を妬んだ。心の中だけではない。腕章も、常に肌身離さぬ日本刀も。四六時中傍に居ることのかなわぬバンジークスの妬みの種だ。
一方でそれらは、今日の龍ノ介を形作るにあたり不可欠の要素であることも承知の上で、検事の心は複雑だ。

「死すれば永遠に残された者の心に留まることができる、か」
「! 検事こそ、あなたともあろう方が馬鹿なことを仰らないでください。死なずとも僕はあなたを忘れたりはしません」
「私も忘れはせぬ。だが貴公が故郷へ帰れば、妻を娶ることもあろう。私とて同じこと」

心の傷は時間が癒してくれる。この胸が引き裂かれるような別れの悲しさも、隣で歩んでくれる人が見つかればきっと薄れていくのだろう。忘れることはなくても、過去のことは色褪せていく。今の二人にはそれがどうしようもなく恐ろしく、悲しいことだった。

「確かにこの先の人生、おそらくあなたの隣で歩むことは叶わないでしょう。ですが」

龍ノ介はそこまで言うと、既に下ろされたバンジークスの右手を両手で包み込み、口元へ寄せた。

「たとえこの愛に先が無くとも、どうか今だけは傍に」
「ああ……今だけは」

手を握りながら目を伏せる龍ノ介の姿は、敬虔なキリスト教信者の祈りのようだとバンジークスは思った。
信ずる神も違えば、文化も国籍も違う。ひとたび法廷に立てば互いに向き合う立場であるし、片方の勝利はもう片方の敗北だ。同じものといえば二人の性別と、互いへの想いくらいである。

バンジークスは空いた腕で龍ノ介を強く引き寄せ、日の目からさえ見えないよう外套で隠してしまった。

時代が違えば、遠く離れても恋をすることができるのだろうか。距離も国籍も、年齢も性別さえも気にすることなく、想う人と共に日の下を歩くことができる時が来るのであれば、きっと二人は生まれてくるのが早すぎた。
そんな空想に耽りながら、二人は運命に彩られたこの奇跡のような瞬間を噛み締めるのだった。


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