@saeki_f
裁判が終わって依頼人を送り届けた後、ぼくは裁判所へ戻ってきた。バンジークス検事に会うためだ。
今日も数々の困難を乗り越え、真実を全て明かした結果、ぼくの依頼人は無罪判決を受けた。つまり、検事側の捜査結果が誤っていたということになる。
検事は英国警察や関係者を集め会議を行ったり、記録物の作成をしたりで遅くまで残ることが多い。ここは恋人に私的な話をするのに相応しい場所とは言えないけれど、あまり人に聞かれたくない話だからこそ今日この機会を選んだ。
扉の前で止まって深呼吸して、軽く三回扉を叩く。
「入るがいい」
返事はそれだけだ。この感じ、ぼくが来たと分かっているんだろうな。
「失礼します」
心なしか少し重い扉をちゃんと閉めてから、検事の正面に立つ。
机の上には細かい字がたくさん書き込まれた書類が積まれている。裁判の資料に修正が入った跡だ。今回も例に漏れず証言が二転三転し、真実に辿り着くまで多くの時間と証拠品を要した。記録係もさぞ難儀したことだろう。ぼくなら目を通すだけでも音を上げてしまいそうだ。
書類から視線を上げた検事は、やはり少しお疲れのようだ。
「お忙しいところすみません。お邪魔ではありませんでしたか」
「構わぬ。ちょうど終えたところだ。しかし……話をするにしては些か遠いのでは?」
扉の前から動こうとしないぼくを見て、検事は怪訝な顔をした。ぼくは扉のすぐ前に立ち、検事は部屋の奥に着席している。距離にしてぼくの足で十歩弱ほど、ちょうど裁判での弁護士席と検事席くらいだ。確かに二人で話をする距離ではない。でも、これ以上近付いてはいけない。
「恐れ入りますが、ここからで失礼します」
まだ不思議そうな顔をされているけれど、話を続ける。
「今日はお願いがあって来ました」
なかなか続きを言い出せない。検事は黙っている。ぼくだけが気まずい沈黙。
緊張で口の中が乾いて、喉が震えて、口を開けては閉じを繰り返す。この言葉を音にしてしまったが最後、もう後には退けなくなる。
それでも言え。言ってしまうのだ。そのために来たんだろう、成歩堂龍ノ介。
「ぼくと、距離を置いてはいただけませんか」
「何?」
検事の目が、急にその鋭さを増した。距離は遠くとも確実に突き刺さんとする視線。竦み上がってしまいそうになるのをぐっと堪える。
一度は眼前に迫った剣の切っ先だが、それがぼくを貫く前に検事は止めた。
「……理由は聞かせてもらえるのだろうな」
理由次第では本当に刺されてしまうかもしれない。青い瞳にはまだそんな怒りが揺らめいているように見えた。
「冷静に、考えたつもりです。ぼくは以前とっていたあなたとの距離が分からなくなってしまったのです。それが原因でこの関係が世間に露呈してしまったらと思うと……ぼくは留学生だからいずれはこの土地を離れますが、検事はそうではないでしょう。あなたを罪人にするわけにはいかないのです」
そう、この恋は罪になる。悲しいけれどぼくは小さな国の留学生で、王様じゃない。どんな形であれ法を学ぶためにやって来たのだから、この国の法律には従わなければ。それは検事もお分かりのはず。
それでもぼくのことを忘れてくださいとは言えないあたり、ぼくには勇気が足りない。
「ならば、なぜあの時私の手を取った」
その答えはご存じなんでしょう。意地悪な質問ですね。
ぼくだって何度も思った。もし偶然にぼくの想いが通じなければ、もし何もきっかけが無ければ、ぼく達はずっとただの弁護士と検事でいられたはずだ。どこかで道を踏み外してしまっただけ。間違いはどこかで正さなければならない。これはそのための準備だ。
せめて微笑んで返事しようとしたけど、今のぼくはきっと変な顔をしているに違いない。
「あの時の衝動を抑えられる程度の恋であれば、ここまで思い悩むことはありませんでしたよ」
気持ちは離れていない。離れるものか。この人が好きだからこそぼくは距離を誤ってはいけないのだ。ぼくが好きなのは、高潔で清廉なバロック・バンジークス検事なのだから。その像にぼくが傷をつけるなどあってはならない。
これは単なるぼくの押し付けだ。分かっている、そんなこと。
「……承知した。好きにするが良い」
検事は一度目を伏せ、軽く息を吐いてからそう告げた。
言い出しておいて変な話だけど、こうもすんなりと受け入れてもらえるとは思わなかった。やはり検事は理性的だ。今でさえ必死に感情を押し殺しているぼくとは違う。
「ありがとうございます」
お礼を述べつつも、心は喜んではいない。一体ぼくは何を感謝しているんだろうな。
了承してくださったとはいえ、検事も傷ついている……はずだ、おそらく。想いを寄せてくれる相手にこんな勝手なことをして、ぼくも随分悪い男になってしまった。
あなたの悪いようになど決してしません。今のぼくは花に吸い寄せられる蝶のごとく、足取りもおぼつかないままあなたの傍をうろついてしまっている。ぼくがしっかりした人間になって、あなたと適切な距離を取れるようになったら、また戻って参ります。それまではどうか、ぼくを一人にさせてください。
あまり長居していては迷惑になる。一礼して去ろうとしたところ、検事に引き止められた。
「ああそうだ、言い忘れていた事がある。今日、弁護士側の席に釦が落ちていたそうだ。東洋の文字が入っている。貴公の袖のものではないか?」
「えっ? あっ、本当だ。一つ足りないようです」
確認すると、左手の袖から黒い糸が伸びていた。もともと少しほつれていたから、今日どこかで引っ掛けて落としてしまったのだろう。
大事な一張羅の釦だ。左右の数が違うというのはあまりに格好がつかない。日本に帰れば替えもあるが、あいにく倫敦へは持って来ていないから、見つけてもらえて本当に良かった。
「私が預かっている。渡しておこう」
「ありがとうございます」
検事が懐から出してくれるようだったから、傍へ歩いていく。
好意に対して失礼なことをしてしまったにも関わらず、検事が普段通りに接してくれる。それだけのことがとても嬉しい。それで張り詰めていた気持ちが少し緩んでしまった。
でも今の検事に近付いてはいけなかった。近寄らないようにしていたはずなのに、油断した。
「っあ」
釦を受け取るために差し出した手を掴まれ、気付いた時には既に検事の腕の中だった。肩を強く抱かれて動けない。いや、こうなってしまったらぼくは検事に抗うことなんて不可能だ。あんなことを言ったのに形だけでも拒否することができなくて、口ごもるぼくに検事が囁く。
「貴公は、私を随分と物分かりの良い人間だと思っているようだ」
「けん、」
呼びかけようとした声は検事に吸い取られてしまった。残っている人が少ないとはいえ、裁判所内でこんなことをするなんて、あなたらしくない。それにぼくが拒否できないと分かっているのでしょう。なんて悪い人。
唇を噛まれ、ねじ込まれた舌が上顎を、歯を、そしてぼくの舌を味わうように舐めとっていく。こんな口付けは寝台の中でしかされたことがなくて戸惑う。このままではまずいと分かっているのに、逃げられないよう大きな手で頭を固定されているから、これを終わらせられるのは検事だけだ。
腰が砕けそうになるほど口内を蹂躙され、崩れ落ちる直前にようやく解放された。あくまで体は離さないまま。
「急に誰かが入ってくるかも」
「死神の居る部屋にか?」
ああ全く、憎たらしいほどご自分の使い方を分かっていらっしゃる!
「だ、騙したのですね」
「人聞きの悪い。釦を預かったのは本当だが、貴公が嘘を吐くからだ」
「嘘など!」
「では己の顔を鏡でよく見てみるが良い」
「……ぼくは、どんな顔を?」
そんなことを聞けば自覚してしまうから聞きたくないのに、検事の腕の中に居るとぼくは変なことを口走る。
検事は逸らそうとするぼくの顔を上向かせ、焼け焦げてしまいそうな目で見つめてくる。そんな目で見られたら、ぼくは本当に燃え尽きてしまうかも。
「……私に、愛してくれと言っているような顔だ」
言われて、かっと頬が熱くなった。やはりこの視線は熱線に違いない。
嘘を吐いたつもりはない。だけど口で何と言ったところで、押し込めた本心はだだ漏れだ。矛盾がぼくを埋め尽くす。心のままに検事に愛されたい、でも検事まで罪人にしてしまうのは嫌だ。
ここに来る時はまだちらほらと人が残っていたけど、今はもう気配を感じない。二人だけの世界になってしまったみたいだ。そんなものありはしないのに。
何でも顔に出てしまうぼくだ。帰国するまで隠し通せるとは思えない。密航どころか、留学先で罪を重ねるなんてことになったらいよいよお終いじゃないか。それでもぼくを離さないと仰るのですか、検事。
「時間が限られていると分かっているのに、わざわざ離れるなど損な事だとは思わぬのか?」
「は、う」
問い掛けておいて、返事も聞かずにまた口を塞がれた。これは、相当怒っていらっしゃる。
ええ分かっていますとも、時間が無いことくらい。だからあなたを遠ざけて別れの傷を少しでも浅くしようとしているんじゃないですか!
これはあなたのためでもあり、ぼくのためでもある。ぼくはもう手遅れなんです。あなたの声を聞いて、あなたに触れられるだけで体が言うことを聞かなくなってしまう。体も心もかみ合わなくて、自分にしか聞こえない悲鳴が上がる。
ほら腕が勝手に検事の背中に。だめです、ぼくはあなたから離れないといけないのに。
「また余計なことを考えて」
耳に検事の唇が触れた。心地よい寒気が背中を駆け抜けて、いよいよ立っていられなくなる。検事に固く抱かれているから崩れ落ちはしないけれど。
余計なこと、か。確かに、想い合う恋人同士には余計なことでしかないだろう。
ぼくだって離れたくなどない。倫敦に居られる残りの時間、一瞬たりとも無駄にはしたくない。けれどそれは法が許す範囲での話。あなたは本当に、ぼくのためなら法すら破ると仰るのですか? いけません、そんなこと。東洋の小さな弁護士など、取るに足らない存在でしょう。
ああでもどうしよう、ぼくの全てが歓喜に打ち震えている。
「今日は連れ帰るぞ。良いな」
頷く暇さえ与えられず深く口付けられる。体の力が抜けて、全て検事に預けてしまう。部屋に入る前はあんなに頑なだったはずの心さえも粉々に砕かれてしまった。
きっとこの後には、ぼくの愚かな企てなど全て無駄なんだと思い知らされるんだろう。