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安息日と口実

全体公開 12368文字
2022-06-01 20:57:19

バロ龍 2017年3月9日投稿

Posted by @saeki_f

寿沙都さんが帰国した。お父上の病気という緊急事態だ、仕方がない。だけどもぼくは、信頼できる法務助士を失ってしまった。
ぼくはまだ法律を勉強し始めたばかりで、これから寿沙都さんの助けも無しにやっていかなければならない。身近に師が居ないというのは何とも心許ないけれど、法に明るく頼れる知り合いなど……いや、実は居る。でもあの方を頼るのはいくらなんでも……

男児たるもの独力で解決すべしと、今日は中央刑務裁判所の資料室に来た。昨日は図書館に行ってみたものの、必要な本が見つからなかったのだ。
この資料室、法律に関する多様な本が保管されてるのは良いのだけど、裁判所外への持ち出しは禁止されている。もちろん裁判所の開いている時間しか滞在できないから、手早く見つけなければならない。
ただ今回はぼくの迂闊なところが出てしまい、探すべき本の題名がうろ覚えなのだ。確かCから始まっているはず。該当の棚を細かく見て歩く。

……二、三度往復してそれらしきものを何冊か開いてはみたけれど、どうにも求めているものとは違うようだ。おかしいな。資料室には必ずあるはずなのだけど、もしかして誰かが閲覧しているとか?
考えながら棚を凝視していたせいか、自分の後ろを人が通ることに気付かなかった。屈んでいたぼくの足に、とても硬い何かがぶつかる感覚。急に現実へ引き戻された。

「わっ、失礼しました」
「こちらもよく見ていなかった……ああ、貴公か」

見上げた先には、倫敦の数少ない知り合い。なるほど、ぼくがさっき足をぶつけたのは"鋼鉄の踵"だったらしい。硬いわけだ。

「バンジークス検事」
「黒く小さなもので気付かなかった。お許し願いたい」
「ぐっ」

確かにここは本棚の陰であまり明るくはないけれども!
検事は至極真面目な顔でも、口元が少し笑っている。これはからかわれているな、ぼく。でも正直なところ、検事にからかわれるのは矜持の高い狼に心を許してもらっているような気分で、不思議と嫌ではなかった。

「探し物か」
「ええ、題名がうろ覚えでなかなか見つからないのですが」

何の気なしに言ったつもりだった。
そのままこの場を離れると思った検事はしかし、こちらへ背を向ける様子はない。

「どのような内容のものだ」

返ってきたのは思いもよらない言葉。これはもしや、検事がぼくの探し物を手伝ってくださるという?
どういう風の吹き回しだろう。検事席からぼくを睨みつけていた彼とは思えず、驚いた頭が咄嗟に出した結論は素直に質問に答えることだった。

「ええと、欧州で起きた重大事件とその量刑について詳しく記述されている本で……確か『重大刑事事件の量刑比較』という題名だったような」
「なるほど、おそらく貴公の探すべき棚はここではない」
「えっ」

ただただ理解が追い付かなくて、何も言わず歩き出した検事にとりあえず付いて行く。向かったのはRの棚。検事は立ち止まって少し蔵書を眺めた後、背表紙が日に焼けた分厚い本を一冊取り出した。

「『重大刑事事件の量刑記録』ではないか?」

頁を数枚めくり、中身を確かめる。ぼくが求めていた情報が記載されているようだ。

「ああ! これです! 助かりました」
「それにしても、随分と古い資料を見るのだな」
「ぼくの持っている本に記載されていた事件が気になりまして。独逸や仏蘭西の事件が詳しく載っている英語の本はあまり多くないですから」
……一度、貴公の持つ法典を見てみたいと思っていた」

これが英国紳士の皮肉かしらん。古い古いと言われてはいたけど、そういえばこの法典を誰かに見せたことはなかったな。というか、見せてもあまり意味がないのだ。

「ええと、今持っているこれは日本語で書いてあるのですが」

流石に読めませんよね。そう言って引っ込めようとしたのだけど。

「では貴公に読んでもらうとしよう」
「えっ、ええっ」

まさか検事がそんな事を仰るとは思わなかった。今日は驚いてばかりだ。
それほどこの本をご覧になりたいのならこれ以上止める理由もないだろう。先ほどの本を持って閲覧用の机へ移動し、該当の事件の頁を開く。ぼくの必要な情報は検事が探してくれて、検事が知りたい部分はぼくが読んで説明する。おお、なんだか相互補助という感じだなあ。

……流石は最終弁論を持ち出してくるような弁護士だ。こんな化石のような法典を使用していたとは……

検事は呆れを通り越して、いっそ嘆いているようにさえ見える。
これは寿沙都さんが置いていってくれたものだ。帝都勇盟大学教授の娘さんの持ち物だから、大日本帝国においては新しい文献のはずなのだけれど、なんとまあ随分な言われようだ。世界の最先端を進む国からすれば仕方のないことではある。
ただ申し上げておきますと、最終弁論はまだ有効な弁護側の権利なのですが。

「そんなに古いのですか」
「軽く十年は前のもののようだな。その頃に改訂された条文が修正前のものになっている」
「日本へ渡って翻訳までされているとなると、発行までで既に数年はかかりそうですから……それくらいのものでもおかしくはありませんね」
「法は不変ではない。時代に合わせて形が変わるものだ。だから法を扱う者は常に新しい法典に触れるべきであろう」

うう、確かにごもっともな意見なのですが。

「ぼくなどは英語を専攻していたので洋書に触れる機会もあったのですが、日本にはまだ数が少ないですし、翻訳ができる人も限られておりますから……世界で最先端の専門書など、大学でもなかなか手に入りません」
「英国へは勉学のために来たのだろう。こちらで揃えた本などは?」
「無いこともないのですが、依頼の少ない弁護士は生活だけでも精一杯でして……こうして資料室に来るか、図書館で調べるかしています」

どちらも蔵書が多すぎて、今回のように一冊の本を探し回ることもしばしば、というわけだ。英語を勉強した身とはいえ、母国語でない言葉でずらりと並んだ背表紙から必要なものを引き当てるのはなかなか難しい。似たような題のものもあるし、一つずつ中身を確認しなければならない。時には新しい知識も得られるし、決して全てが無駄な時間というわけではないのだけど、効率は悪いと思っていた。

「貴公、この後に予定はあるのか」
「? いえ、ございませんが」
「ならばついて来い」

検事は急に立ち上がり、本を司書に渡すと足早に出口へ向かわれる。いきなりのことで出遅れたけれど、見失わないように後を追った。突然どうなさったのだろう?
そういえば検事も資料室にご用だったのではと思って聞いてみたところ、もう用件は済ませた後だとか。

検事に続いて建物の外に出ると、見慣れない馬車が停まっていた。乗合馬車……ではなさそうだ。美しい黒毛の馬が引いている。装飾はあまり無いし大型ではないけれど、とても綺麗に使われていてなんだか高級感がある。もしかしなくても、検事個人の馬車だろう。
そりゃあ確かに、乗合馬車に乗る検事は想像しにくいものな。

「これに乗るのですか?」
「不満なら馬車の後を走って追うのだな」

乗らなければ本当に走らされそうだったので、言われるがまま馬車の中へ。個人用のものに乗るのは初めてだけど、静かな狭い空間に二人きりというのが何とも落ち着かなくてそれどころじゃない。
検事は何も話さない。ぼくがこれからどこへ連れて行かれるのか、何をしに行くのか。ただ気まずくても不安ではない。検事が悪い人でないことはよく知っている。

三町ほど進んだところで止まった。車内に二人きりだったから助かったけれど、こんなに短い距離だとは。

「検事は短い距離でも馬車を使用なさるのですね」
……私が街を歩いていると、人目につくからな」

有名人というのも大変なものだ。その辺り、ホームズさんとは違う捉え方をされているようだけど。

降りた場所は、そこそこに大きなお屋敷だった。門があり、庭があり、煉瓦造りの邸宅がある。検事個人の馬車に乗った時点で気付くべきだったか。

「もしやここは……
「私の自宅だ」

知らない間にお招きに預かることが決まっていたらしい。
誘われるまま中へ入ると、女中さんが出迎えてくれた。検事と二言三言会話したあと、ぼくに一礼して下がる。なんというか……本当に検事の家にお邪魔しているのだなあ。
英国に来て以来、捜査以外で人の家に入るのは初めてだ。とはいえ歓待されるわけはなく、まっすぐに通されたのはこぢんまりとした部屋だった。本棚に囲まれ、机と椅子が置いてあるだけの四角い部屋。検事の書斎だろう。
法に関わるものばかりかと思いきや、そうでないものも並んでいる。検事の私的な空間を覗いて少しそわそわした。

ぼくが部屋を眺める間、検事は一面の本から次々と選んでは取り出して机の上へ重ねていく。あっという間に十冊ほどの塔が出来た。

「検事、これは」
「貴公の読むべき本だ。他にも必要なものがあれば持ち帰るがいい」

ぼくが読む? 持ち帰る? 言葉もないとは正にこのこと。
急に何を仰るかと思えば! 確かに先ほど法典の話はしましたが、いつそんな話になったのでしょうか!
おろおろと落ち着かないぼくに、検事は溜息を吐いて語る。

「図書館に専門書は多くない、資料室の本は持ち出せない。あまりに不便であろう。私の蔵書であれば好きに使って構わぬ」
「で、でも、検事も使用されるのでは」
「私物には一通り目を通してあるし、内容も頭に入っている。さほど問題はない」

そうでしょうけども……もちろん、迷惑だなんて塵ほども思っていない。ただひたすらに申し訳ないのだ。

「ここまでしていただく理由がありません」
「貴公は国が受け入れた留学生だ。その国の人間として、多くを学べるよう協力するのは不思議ではないはずだが?」
「ぼくが……日本人がお嫌いではないのですか」
「個人的な事情だ。それに貴公を見て少し考えを改めるところがあった。それだけのこと」

不意打ちでありがたい言葉を頂いたことに気付き、一瞬思考が止まってしまった。裁判で弁論を交わして、少しは誠意が通じていたのだろうか。そうであれば喜ばしいことだ。

この方もなかなか頑固なもので、一度決めてしまうとひっくり返すのは至難の業だ。それは幾度かの裁判で思い知っている。
相手がバンジークス検事だと思うから恐縮してしまうのだ。知り合いから本を借りる。それだけのことだ。そう思えば少しは気持ちも楽になる。せっかくのご厚意を無下にすることもないだろう。

「それでは、いつお返しすれば良いでしょうか」
「好きなだけ持っていて構わぬ。帰国前に返せばな」
「帰国まで優に半年以上はあるのですが……

検事は本当に気にしないといった様子だけど、ぼくが気にするのだ。ものを借りるというのは気を遣うし、ほんの僅かでも信頼を得られたのなら気持ちには誠実に応えたい。

「返すのであれば、日曜日に来るがいい」
「日曜日ですか」
「知っているだろうが、この国において日曜日は安息日だ。誰も働かぬし、私も在宅していることが多い。質問があれば聞いてやることもできる」

なぜこんなにも急に検事が色々してくださるのかは分からないけれど、断るにはあまりにも惜しい申し出だ。
しかしぼくは根っからの日本人で、最高の環境にすぐ飛びつくことができないでいた。本をお借りするだけならまだしも、お休みの時間を取ってしまうのはいかに……そんな様子をご覧になってか、検事が背中を押す。

「厚意は素直に受け取るものだ。貴公ら日本人が控えめであることを美徳だとしていてもな」

証拠品なき弁舌においてはまだまだ敵わない。せめて無駄な時間を作ってしまわないようしっかり勉強しなければ。

「それでは、お言葉に甘えて」

こうして数週間に一度、ぼくは検事のお屋敷にお邪魔することになった。
そういえば、ぼくの勉強を見るというのは労働にあたらないのかしら?

「なるほどくん、おつかいをお願いしたいの」

そう言うアイリスちゃんから受け取った紙片には、聞きなれない名前が並んでいた。薬品だろうか? 一緒に地図が付けてある。この辺りには行ったことがないな。

「ごめんね、こんな日に」

今日は重い雨が降っている。こちらの雨は大体すぐに止むけれど、珍しいことに雲は非常に厚く、しばらくは止まなそうだ。窓の外を見れば人出もほとんどない。それでも頼まれるということは、何か急ぎの用件なのだろう。

「私は出版社に行かなきゃいけないの。ホームズくんが帰ってくるまでに買っておいてって言われたんだけど、そのお店、日曜日はお休みだから今日しか行けないの……

本当にごめんね、と謝られたけれど、普段アイリスちゃんに助けてもらっていることを思えば雨の中の買い物なんて軽いものだ。とはいえ流石にこの中を歩くなら傘が必要だな。自分のものは無いから、ホームズさんのをお借りする。月曜日まで帰ってこないと言っていたから問題ないだろう。
貰った地図と買い物の覚書を懐に入れて、水音響く街中へ歩き出した。


お店に着いて、目的のものを買って、建物を出たところまでは良かった。知らない場所を歩くとき、行きと帰りで景色が違って見えることがある。どうやらどこかで一本曲がる道を間違えてしまったらしい。

一本前に戻ってみても、元の場所に戻れない。おかしいな。自分が地図のどこに居るかも分からなくなってしまった。こうなったらどこかの大通りまで出るか、人に聞くか……でもこの辺りは住宅街のようで、おまけにこの雨だ。出歩いている人は見当たらない。仕方ない、荷物も軽いことだし、せめて馬車が通る道まで出てみよう。


異国の人間が一人できょろきょろしながら歩いていたのがいけなかった。後ろから音もなく近付いてきた輩がぶつかったかと思うと、途端に走り出した。いくら英国人が傘を持たぬからと言っても、この土砂降りの中で傘も差さずに。怪しい男。そして腰の左側に違和感。はっとぶつかられた所を確認する。

狩魔がない。

気付いた瞬間にぼくも駆け出していた。邪魔な傘は畳んで手に持つ。相手は日本刀を奪っていったのだ、丸腰よりはマシだろう。
何とか見失わないように追いかけるが、相手もなかなか足が速い。でも、諦めるわけにはいかない。狩魔だけは。

引き離されそうになった曲がり角、男が急に足を滑らせ失速した。これは好機。はずむ息も気にせず一気に距離を詰め、壁際に追い込んだ。

「返すんだ。それはお前が持っていいものじゃない」

ほとんど叫んでいた。切れ切れの声が雨音に消されないように。そうは言っても携えているのは傘。まったくなんて滑稽な。
袋小路ではないが、ここまで距離を詰めれば捕まえるのはさほど難しくないだろう。となれば盗人が抵抗する方法は一つだった。抜身の狩魔がこちらへ向けられる。
相手がどんな使い手であれ日本刀だ。ぼくがきちんと手入れをしていたから、切れ味は抜群だろう。少し掠めただけでも大怪我になる。
息を整える暇もなく、次々に襲い来る刃を避けなければならない。ほぼ丸腰の人間が抜刀した相手から武器を奪うなんて、よっぽどの武術の達人でなければ無理だ。せめて助けが居ればどうにかなるかもしれないが、ここでもやはり人の姿など見えなかった。

日本刀は西洋の剣より重く、自由に扱えるようになるには長い鍛錬が必要だ。あの親友のように。
この盗人がたまたま剣の達人でなくて良かった。重さに振り回され、かなりもたついている。刀を避けること自体はそう難しくない。ただ素人ゆえに型がなく、妙な方向から攻撃してくるのが難点だ。
ぼくが片足で立った瞬間を見抜かれ、払うように刃が走る。身を引いて避けはしたが、そこで体勢を崩してしまった。

平らな石畳は雨で濡れて滑りやすい。崩れる体を支えるはずだった右足は地面に留まれず、ぼくは片膝をついた。男もその機を逃さず、上から大きく振りかぶってきた。避けるのは間に合わない、咄嗟に傘で受け止めようとする。文字通り一刀両断になるだろうが、多少勢いは殺せるだろう、と思ったのだけど。
がきんと金属音がして、手が痺れるような衝撃。でも刃はぼくまで届かなかった。どうやら棒の部分が強い金属で出来ていたようで、狩魔をしっかりと止めていた。相手も少し驚いた表情をしているけれど、ぼくが一番驚いている。
傘が思いのほか役に立ったと言っても、形勢は圧倒的に不利なままだ。相手は上から体重をかけるだけで良いんだもの。一度は止まった刃がじりじりと顔に近付く。このままではまずい。親友の刀で人を傷つけさせるわけにはいかない。そしてぼくはこんなところで倒れるわけにはいかないのだ。

一層の力が込められた瞬間。突然横から何かが飛んできて、男の頭にぶつかった。男は衝撃で転がり、飛来物は地面に落ちて割れる音がした。いったい何が起きた?
刀の重圧から解放されて、ひとまずの危機からは脱した。男は倒れてはいるものの気を失ってはいないようで、狩魔はまだ手に握られている。何が飛んできたのかと、助けてくれたものの正体を確認する。これは……葡萄酒の瓶か? 雨に半分流されながら、その場に酒の香りが漂う。
瓶が飛んできた方向を見やれば、五、六人の制服姿が駆けてきていた。

「動くな! 武器を捨てろ!」

ああ優秀なる英国警察様、今日ほどあなた方の声を心強いと思ったことはございません。
きっと誰かが通報してくれたのだろう。警官によって盗人は取り押さえられ、狩魔も回収された。良かった、本当に。今になって震えが来たのは、雨で体が濡れたからだろうか。

呆然と座り込むぼくの頭上に、大きな影が現れた。ぼくの上だけ雨が止む。

「けっ、検事!?」

見上げた先にはバンジークス検事が立っていた。大きな黒い外套でぼくを覆うようにしている。うわあ、なんてことだ。
検事がここにいらっしゃるということは、そうか、あの瓶は”聖杯”だったのか。

「怪我は」
「あ……ありません、幸いにも」

検事にずっと雨避けをさせるわけにはいかないと思うものの、安心感からか力が抜けて立ち上がれない。検事もそれに気付いたのか、腕を引いて立ち上がらせてくれた。うう、情けない。

現行犯逮捕という分かりやすい形であれ、この後は取り調べが行われるだろう。ただいくらなんでも検事が出てくるのが早すぎやしないだろうか。まだ起訴もされていないのに現場へ駆けつけるなんて。

「検事はなぜここへ?」
……家の裏で騒ぎが起きれば嫌でも気付くものだ」
「家の裏?」

そういえばこのお屋敷の色や雰囲気、見たことがあるような。夢中で追いかけていたとはいえ、こんな所まで来てしまっていたのか。
ということは、通報したのは検事だろう。それならこの対応の速さも納得だ。それにしても、ぼくも運が良いのだか悪いのだか……不幸中の幸いと思っておこう。


そこから最寄りの詰所へ移動し、事情聴取を受けることになった。バンジークス検事の効果か分からないけれど、署では比較的丁寧に扱ってもらえた。まあ、今のぼくは弁護士じゃなくて濡れ鼠の被害者だしなあ。可哀相に思われても不思議ではないか。
一人の警官が手伝いを申し出てくれたので、アイリスちゃんへ荷物を渡して、ついでに帰りが遅くなりそうだと伝えてもらうことにした。
狩魔を受け止めてだめになってしまった傘は、犯人の攻撃を受けた証拠品ということで警察に預けている。返してもらえるらしいけれど、使えないものを持ち帰るのも……いや、一応ホームズさんの持ち物だ。ちゃんと返して謝っておかなければ。

警察の仮眠用毛布にくるまれ、聴取を行う個室で待つ。現れたのはやはりバンジークス検事だった。おっと、こんな格好で失礼します。

「この事件、検事が担当されるのですか?」
「実に小さな事件だが、乗りかかった舟だ。執行猶予無しで七年は禁錮処分にしてくれる」
「スリにしては重い求刑ですね」
「警察によると常習犯のようだからな。それに奴は武器を盗んだのだ。更に抜刀していたとあれば、傷害事件に発展してもおかしくはなかった。どんなに甘い検事でも五年は固い」

なるほど、確かにその通りだ。一言に盗みと言っても色々で、多くの要素から即座に適切な判断を下せる手腕は流石と言うべきか。

それからは被害に遭った場所の確認(ぼくはあまり役に立てなかった)や、当時の状況説明をした。日本刀の一撃を傘で止めたと言うと、検事の眉間に皺が寄る。でも本当のことだしなあ。

「念のため確かめておくが、それは本当に傘なのだな?」
「ええ、犯人を追いかける直前までは差して使っていました。といっても、これは借り物なのですが」
「借り物?」

おや、目の色が変わった。何かまずいことでも言ってしまったのかしら。
検事はすぐに納得したような、しかし忌々しげに眉根を寄せた顔をしている。

「ああ、分かった。あの探偵……どうせろくでもない仕掛けがあるに違いない」

なぜホームズさんのものと分かったのですか、と聞こうとして止めた。ぼくの周りに男性用の傘を貸す人など彼くらいのものだ。
ところで、ろくでもない仕掛けとは? 何か嫌な予感がするのですが。

「が、貴公が傘だというのなら"そういうこと"なのだろう。命拾いしたな」
「はあ」

意外にもそれ以上は追及されることなく、肩透かしをくらったぼくは間の抜けた返事しかできなかった。


その後は警察との書類作りが始まり、検事は犯人の聴取へ移っていった。全てが終わった頃には日が暮れ、雨も止んでいた。裁判には証人として出廷するため、日程が決まったら連絡が来るそうだ。被告人と弁護人の立場は経験済みでも、被害者側に立つのは初めてだな。
警察からは帰って良いと言われていたけれど、ずぶ濡れだった上着がもう少し乾くまで待たせてもらうことにした。夏も近いとはいえ、濡れた服で出歩いては風邪をひいてしまうもの。
……というのは単なる口実で、本当は検事を待ちたかったのだ。助けてくださったお礼をまだ言えていなかったから。

鉄格子のついた小さな窓から外を眺めると、煉瓦の建物や石畳で出来た道が橙色に染まっている。帝都に建つ洋風の建物は、このような欧州の街を真似て作られているそうだ。日本では洋館も和風建築も混ざっているけれど、いつかこんな美しい石造りの街並みになる日が来るのかしらん。ああ、留学が終わったら日本も少し様変わりしているのかも。

「まだ居たのか」

感傷を打ち切るかのように、背後の扉が開く音がして検事が再び入ってきた。扉についている小窓から中が見えたのだろう。だとしたら、ぼくを見つけてわざわざ声を掛けてくださったのかな、なんて。

「この後はここを使わないと言われまして。上着が乾くのと検事を待っていたのです」
「私を?」
「助けていただいたお礼をまだお伝えしていませんでしたので……今日は本当にありがとうございました」

深々と頭を下げた。事件を見て通報してくださったことはもちろん、少々荒っぽいやり方ではあったにせよ、あの瓶が飛んでこなければ袈裟切りにされていたかもしれない。命の恩人と言っていい。

「礼を言うために待っていたとは律儀なものだ。気にするな、犯罪者は捕らえる。当然のことをしたまで」
「それでも、今こうして怪我なくいられるのは検事のお陰です」

顔を上げれば、検事は少しだけ微笑んでいる。それがとても嬉しいと思ったんだ。

さてぼくの目的は果たされた。あとは帰るだけのはずだけど、もう少しだけここに居たいと思ってしまう。
不意に、初めて検事の馬車に乗った日のことを思い出した。あの時と同じ、でも少しだけ広い空間に二人きりだ。体温が、いつもより高い。だからだろうか、ずっと聞けなかったことを聞いてみようという気になった。

「あの……検事はなぜ、ぼくを助けてくださるのですか」

今日の事件だって、通報だけして後は警察に任せればどうにか解決していただろう。伝説の検事がたかだかスリの、しかも現行犯逮捕の裁判に携わるなど、普通でないことはぼくにでも分かる。それだけじゃない、法律の勉強で指導していただくのだって大変な労力だ。ぼくが一人前になったところで検事に別段得はないというのに。

「迷惑であったか」
「迷惑などとんでもありません! ただ……
「?」

適切な言葉が見つからない。英語だからとかそういうのじゃなくて、何て表現したらいいか分からないんだ。
あなたが助けてくださるのは嬉しい。でもそれがどういう意図のもとに行われているか、知るのが少し怖い。

「ぼくは勘違いをしてしまいそうなのです」
「ほう、どのような?」

検事は適切な理由を提示されるけれど、ぼくの頭は都合の良いように出来ていて、そこに感情が隠れているのではと思ってしまう。

「検事が、ぼくを好意的に思ってくださっているのではないかと……突拍子もない話ですが、そうとでも考えなければ検事のなさることに納得がいかなくて」

そうであれば嬉しいと思ったことまでは流石に口にしなかった。ぼくの中にあるその感情は決して無色透明なものではなく、言葉にしてしまえばあっという間に成長してしまうと分かっていたからだ。

でもこれは確信に近い推測だった。そうでなければ黙っていたに違いない。

「本当に、その答えを知りたいか」

静かに、ゆっくりと頷く。どんな形だって構いません。あなたの心が知りたい。

「私はおそらく貴公が思うより単純な考えで行動している。貴公が感じ取ったことは、率直に私の感情だと思ってくれて構わぬ」
「それは、つまり」

検事がぼくを好ましく思っているということ。少しずつだけど、ちゃんと受け取っていた。勘違いではなかった。どうしよう、思ったよりずっと嬉しい。
ぼく、いま変な顔をしていないかしら。

……こういうことだ」

不意に検事の手が伸びて、ぼくの頬を捉えた。

「っえ、あ」

眼前に青い眼が迫り、顔を寄せられていると知る。氷のような瞳にぼくだけが映っている。
もう少しで鼻がぶつかってしまいそうな距離。でもそれ以上は近付こうとなさらない。
ああ、"こういうこと"だったのか。触れられた頬が熱い。血が沸き立つようだ。ぼくが言葉にするまでもなく既に結論は出ていた。顔を寄せているだけなのに、想いに気付いただけでこんなにも恋しい。あまりに血の巡りが速いから頭がぼんやりしていて、冷静になど考えていられない。これは、夢じゃないのかしらん。
呆けている間に検事は離れてしまった。ほんの十数秒の出来事。

「これ以上知りたいと望むなら、相応の覚悟を以て踏み込むことだ。勘違いで済まされなくなってからでは遅い」

くちづけ、してくださると思ったのだけど。まだ逃げ道を残してくれるなんて、優しいのだかずるいのだか。

確かにぼくは勘違いをしていたようだ。検事が向ける眼差しにあんな熱が秘められていたなんて、近くで見るまで分からなかった。
でも、それは嬉しい誤算なのです。どうか知ってください、ぼくの気持ち。

「ぼくを見てください」

今伝えなければ。今を逃してしまったらきっと全て無かったことになってしまうと思った。
あなたを引き止められる間に、日が沈んでしまう前に。

「ええと、たった今自覚したばかりなのですが」

こんな感覚は初めてだ。こういうときは何と言えば良いのか。日本語でさえ言ったことがないはずなのに、気持ちは勝手に声になって零れ落ちた。

「ぼくはあなたが好きです」

言ってしまった。ああ今更になって恥ずかしい! 照れてしまって、検事の顔をまともに見られない。今、どんな表情をされているのだろう。確認するのが怖い。

「目を」
「え?」

何か言われたと思って顔を上げたら、すぐに視界が黒く塗り潰された。布越しの温かい感触。検事の手で目を覆われているのだと分かった。そして額に温かいものが当たる。これは、何だろう?
考える間もなく視界が晴れる。ようやく検事のお顔を確認できた。見たことのない、柔らかな空気を纏っている。あなたもこんな表情をなさるのですね。それがぼくに向けられているのだと思うと、嬉しさで倒れてしまいそうだ。
徐に、白い手袋の右手が差し出される。

「私はこれから帰宅するが……来るか?」

気付いた時には差し出された手を取っていた。それはほとんど衝動的に。肩からするりと毛布が落ちる。もう寒くはない。
検事は少し難しい顔をして、しかしぼくの手を固く握って問う。

「この手を取る意味、貴公は分かっているのか」

薄紙でできた本をそっとめくるように、一つ一つ丁寧に。誘っておいてなお確かめるとは、なんて慎重な方。大丈夫です、ぼくもあなたと同じ気持ちなのですから。

「はい」

教えてください、あなたのこと。ぼくもあなたに知ってほしいことがたくさんあるのです。
奇しくも明日は日曜日。労働を忘れて、穏やかな休日を。

「ごめんなさいホームズさん、傘をだめにしてしまいました」
「傘? ああ、この前の雨か。そっちは滅多に使わないから構わないよ」
「そっち?」
「ボクの傘は二本あるのさ。キミが壊したのは非常用……というか、それは傘として使うことを目的としていない」
「??」
「気付かなかったのかい? それ、中に剣を仕込んであるんだ。重かっただろう」

よく見ると持ち手の所に薄く切れ目が入っている。少し回せばそれは外れ、中から銀色の刃が現れた。
なんてもの持ってるんだ、この人!

「よくもまあこんな物騒なものを……
「キミの国だってよくやっているだろう。煙管の中に鉄砲を仕込んだりさ」

ぼくの命の恩人はもう一人いたということか。
しかしこの剣、分かっていたらきっと抜いていた。ともすれば、正当防衛とはいえぼくも人を傷付けてしまっていたかもしれないのだ。今となっては気付かなくて良かったなあ。
もしかして、検事はこれが仕込み傘だと気付いていらしたのかしら? 次の日曜日に聞いてみよう。


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