@saeki_f
荒船哲次はとてもいい子だ。それはボーダー内で彼を知る誰もが認めるところだろう。多少言動が荒っぽいところもあるが、隊長を務めるだけあって面倒見は良く、物事を教えるのも上手い。進学校に通うほどに勉強もできるし、何より自分の目標のために努力する意志の強さは多くの人の目に眩しく映った。
東も、そんな荒船を恋人に持つことを誇りに思っている。荒船はいい子だ。そう、とてもいい子なのだ。
「荒船、悪いんだが今日の予定は延期にしても良いか。忍田本部長から招集がかかってな」
「大丈夫です。本部長ってことは重要な会議でしょう。俺は任務が終わったら帰るんで、また連絡してくれれば」
今日、東は荒船と夕食に行こうと約束していた。東はC級の指導、荒船は防衛任務の予定で、終了時間がほぼ同じであったため一週間ほど前に決めたものだ。
楽しみを延期されたというのに荒船は嫌な顔ひとつせず、むしろあっさりとした態度で東を送り出した。
二人の間では、これは珍しい事ではない。つい二週間ほど前に休みが被った際も会う約束をしていたのに、運悪く大学院から呼び出しがあり結局一時間と一緒に過ごせはしなかった。約束を果たせないのは、今のところ100%の確率で東に原因があった。その度に東は荒船に謝る。そして荒船はというと、いつも笑って東を送り出すのだ。
あまりに荒船が簡単に了承するものだから、東は自分への興味を失ってしまったのかと考えたこともあった。しかし二人きりで過ごすときは変わらず愛情を向けてくるし、そこに曇りは一切見えない。だからその可能性はないと切り捨てた。
つまるところ荒船哲次は、いい子過ぎるのだ。
「悪い、また夜に連絡する」
互いに時間も無く、必要最低限の会話しかできない本部の廊下。伝えなければならないことがあるのに、適切な言葉が見つからないもどかしさで、東は一人ため息を吐いた。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。早かったな」
数週間のすれ違いの後、遂に休みが重なる日曜日が現れた。今度は大学から呼び出されたりしないよう東も入念な根回しを欠かさなかったので、心置きなく休日を満喫できるはずだ。荒船も当然のように東と過ごすつもりで予定を空けていた。
「早く会いたかったし」
こういう事を笑顔でさらりと言ってのけるあたり、荒船は実に男前だ。さしもの東も敵わないなと笑って、茶色い髪を優しく撫でた。
貴重な休み、部屋に呼んだのは東だ。外ではあまり触れることができないからという至極単純な理由で。会えない時間が長くなると大抵荒船が東の部屋へ行くことになるので、こうなる予想はできていた。一ヶ月ほどまともに接触していなかったためか、東は荒船の座椅子として離れようとしない。荒船もその状態で非常に満足そうだ。
しかし、ふと東の頭に消せなかった疑問が過る。この穏やかな時間を壊すことになってしまうとしても、今聞いておかなければ次に話を聞く機会はいつになるか分からない。そう思って喉に引っかかっていた言葉を吐き出すことに決めた。
「お前は俺と会えなくても平気なのか?」
「はあ? 平気なわけないだろ。何言ってんすか東さん」
おや、と東は首を傾げる。荒船は首だけ振り返り、不思議そうな顔をした。その表情にはやはり一点の曇りも無く、荒船が本気で言っていることが伝わってきた。ならば一層のこと、東は疑問に思う。
「でもお前、俺が急用で約束を取り消したりしてもあっさり見送るだろ」
途端に荒船の眉間に深い溝が刻まれる。心の底から心外だと言いたげだ。
「俺がそんな女々しい人間だと思ってんですか?」
「そうじゃないんだが」
年相応な反応ではない、という言葉は飲み込んだ。そう言われるのを荒船が良しとしないことは東も承知している。個人の性格もあるだろう。ただでさえ七歳も年上の男と付き合っているのだ、大人になりたいという気持ちは人より強い。実際のところ、東と居る時の荒船はたまに高校生とは思えないような顔を見せる。隊長を務める分、他の同学年の隊員よりも少しだけ大人びて見えるのは気のせいではないだろう。
男前で頼り甲斐があるのは良いのだが、年上の恋人としては寂しい部分もある。そう言えば荒船はにやりと笑うだろうが、大人の男として少し格好がつかないのでその言葉も飲み込んだ。
「じゃあ東さんは、「忙しくて恋人に構ってる暇なんかない」って俺と別れようと思ったことあります?」
「あるわけないだろ。何言ってんだ荒船」
「そういうことですよ。愛されてるって分かってるから、予定の一つや二つ流れてもまた次があるって思えるんです。まあ無言でキャンセルされたりしたら怒るかもしれませんけど、そういうときはいつも連絡くれますし」
東は虚を衝かれて言葉もない。その間も荒船は更に続ける。
「東さんの人望も忙しさも知ってます。具体的に何やってるかは分かんねえけど、研究とか会議とか、個人的な時間より優先しなきゃいけないものがあるのも分かってます。時間が合わねえのも慣れてるし、自分の時間が空いたら俺にもやる事はあるんで。バタバタしても仕方ないでしょう」
十代とは思えないほど合理的で達観した意見である。自隊の小荒井や奥寺とは二歳しか違わないというのに。接する機会の多い隊員とはつい無意識に比較してしまう。
「それに、俺が我儘言ったところで東さんの予定が変わるわけでもないでしょ。優先順位を考えた上で俺との予定を後回しにしてんだから。だからせめて東さんが罪悪感感じないようにしてるだけです」
気を遣われている。七歳も年下の子供にだ。多忙な東にとっては大変ありがたい気遣いであり、今までもそれにかなり助けられていたことは認めざるを得ないだろう。だが年上として、恋人として正解とはとても言えない。
抱えるものが多い今は、その優しさを甘受する他ないのだが。
「荒船がいい子過ぎて、時々どっちが年上だか分からなくなるよ」
「俺、そんないい子じゃないですよ」
そう言うと荒船は振り向いていた頭を戻した。東から表情は窺えなくなってしまったが、耳は少し赤い。
「歳の差を感じられる内に、もっと甘えてくれて良いんだがな」
晒された首筋に顔を埋めると一瞬ぴくりと動いたが、すぐにまた東に体重を預けた。返事はなくても、荒船が何を考えているかおおよそ想像はできる。それだけで一層愛しさが増して、東は腕の中にいる荒船の体を更に抱き寄せた。
東はまだ気付いていない。荒船哲次が本当は悪い子供だということに。
全ては計算の上だ。こうすればいい子に見てもらえるだろう。こう言えば東はもっと自分のために時間を割こうとしてくれるだろう。相手を観察し、考えて行動に移しているのだ。打算的でずるい手だと荒船は自覚している。子供らしく甘えた言動をすれば、それはそれで可愛がってもらえることも知っていた。だがそうして東を困らせたいわけではない。荒船が自分で言った通り、東が優先度を考えた結果が荒船との時間を削ることなのであれば、どんなに拗ねたところでその結論は変わらない。変わるのは相手への印象だ。
十八歳という微妙な年頃、ましてや隊長:荒船哲次だ。わざわざ子供っぽいと思われる行動を選んだりはしない。長期的に見れば、聞き分けの良い言動を取った方が互いにストレスなく過ごせると読んだのだ。それに東の性格からして、荒船が我儘を言わない優等生でいればいるほど甘やかそうとすることを知っている。
無理をして演技をしているわけではないが、押し殺している部分だって少しはある。二人きりになったときはそれを少しだけちらつかせるのだ。
「俺はさ、隣に居なくても東さんが俺のこと考えてくれてれば良いんですよ」
荒船はまだ知らない。東春秋が本当は駄目な大人だということを。
「俺はいつでもお前のこと考えてるよ」
「東さん、嘘は良くないですよ」
荒船が嘘だと言うのも無理のないことだ。東は並のB級隊員よりずっと忙しい。元A級1位の隊長だから、狙撃手の祖だから、経験のある年長者だから、理由を挙げればキリがないが、とにかく周りからの信頼が厚くあちこちの会議に参加を求められる。頭脳明晰で実力も指導力もあって、人格者。それが東春秋の評価であるし、そう評されるだけの実績も十分だ。そんな人間が常に特定の人のことを考えているなんて、荒船でなくとも疑うだろう。他に考えるべき案件は山とあるはずなのだから。
「嘘じゃないって」
本当に、嘘ではない。目が覚めてから寝るまでずっと、東の頭の中には常に荒船の存在がある。もっとも東が自分以外に証明するのは不可能なのだが。
「でも、東さんこそ俺がいなくても平気なんじゃないですか?」
今度は荒船が疑問を口にする番だった。軽口に見せかけて、突き刺さるような重い質問。
もし荒船がいなくなったら? 東にとってはあまり考えたくない話題だ。
おそらく自分は、荒船がいなくなったら崩れてしまう。東はそう考えている。
例えば通常通りの生活をして、防衛任務を行い、後輩の指導をするという表面的な日常をこなすだけなら難は無い。だが内側は常に空虚で、精神のバランスが狂ったまま生きることになるだろう。もしかしたらもっと酷い状態になるかもしれない。
荒船と付き合うことになる前、ひいては入隊する前は確かに独りでもちゃんとやっていけていたはずだ。しかしいつの間にか、この子供がいなければ駄目な大人になってしまった。
「全然平気じゃない。死ぬな荒船」
「誰もそこまでは言ってねえ」
荒船は呆れながらも肩に乗った頭にぽんぽんと優しく手を乗せる。
いい子のフリをしているから表に出さないだけで、荒船にも不安はあった。東の人生において、自分はプラスアルファ程度の存在なのではないか。ずっとそう考えてきた。
酔狂で男と付き合うような人間でないことは分かっているが、荒船が東の人生に何を残せるか考えないわけではない。だから少々大袈裟であっても、「全然平気じゃない」と言われたのが嬉しくて堪らないのだ。
不意に頭に乗せていた右手が拘束され、驚いた荒船が振り向くと東と目が合った。
「な、」
「信じてない?」
「?」
「本当に平気じゃないんだけど」
「!」
至近距離、ごく真面目な顔で言うものだから、荒船も疑念は捨てた。本当は想像よりもずっと東が荒船に心を傾けていると、いつか知る日が来るのだろう。
「信じてます、から、ちょっと離れて……」
「嫌」
いつもの優しい笑顔で、東は荒船の頬に唇を寄せた。今日が日曜日なのが本当に惜しい。明日が休みでさえあれば、荒船を家に泊めることもできたのに。そう思いながら東は何度もキスを落とす。軽く、優しく。
至福の時だ。互いにある程度の我慢はできても、会えなくて平気なわけではない。会う時間が少ないのは仕方ないと強気に出てはみたものの、やはり荒船もこうしている時間が何より幸せだ。今回はいつもよりスパンが長かったせいで余計にそれを感じていた。
(俺が大人になったら、もっと時間も合うのか?)
学生、ましてや高校生だ。層は厚いが中学生隊員より拘束時間は長く、大学生以上の隊員と活動時間が合うことは少ない。東が高校生に時間を合わせるとすれば、それは自隊で揃って活動する時だ。
高校を卒業して自由な時間が増えたら、もう少しくらいは。それまでは我慢も必要だ。いい子のフリはまだしばらく続くだろう。いつまでも子供のままではいられないけれど。
「東さん」
「ん?」
「もうちょっと待っててな」
今度は荒船から唇にキスをした。東は一瞬だけ固まったが、すぐに心得たとばかりに茶色の頭へ手を添える。言葉は少なくても、意図は全て伝わってきた。東にはそれが愛しくて敵わない。
軽かった口付けはいつしか深いものに変わっていた。
「ちゃんと待てたら、ご褒美をもらわないとな」
荒船はまだ知らない。数ヶ月後、東が年下の恋人を手元に置いてしまおうと考えていることを。