@saeki_f
春の訪れが近いある日、バンジークスの屋敷に一人の男が現れた。屋敷の主人は顔を見るなり門前払いしかけたが、男が懐の封筒をちらつかせると渋々ながら彼を招き入れる。
二人は応接室で向かい合って会話を始めた。
「やあありがたい。まだ雪の残る路上に放り出されるのは堪えるからね」
「用件はその封筒だろう。さっさと渡せ」
「元はといえばボクとアイリスに届いた手紙なんだから、わざわざ持ってきてあげたことに感謝してほしいなあ」
「……ご足労頂き感謝する。ホームズ氏」
変わらず渋い顔をしてはいたが、声色から嫌味な感情が伝わってこなかったことにホームズは意外そうな声を上げる。
「キミ、あの子のことになると素直だねえ」
「恩人だからな」
話しながらホームズはバンジークスに二通の白い封筒を渡した。一通には「バンジークス卿へ」。もう一通には「亜双義へ」と書かれているのだが、日本語で書いてあったためバンジークスには読めず、ホームズから説明が入った。どちらも宛名のみで住所は無い。
「彼が住所を知っているのがボクらだけだったから、色んな人に宛てた手紙が同封されててね。キミとミスター・アソーギのが最後だ」
話しかけてもバンジークスは封筒から目を離そうとしない。それを見てホームズは安心した。東洋の友人を、この紳士も少なからず大切に思っているのが伝わってくる。彼の半生を思えば当然のことだった。数々の苦難に追い込まれたバンジークスの、ようやく得られた信頼できる相手なのだから。
それ故に、龍ノ介があの運命の裁判から幾日と経たず帰国してしまったことは、彼にとって大きな衝撃となっていた。もちろんそれはバンジークスに限った話ではない。だからこそホームズがこうして配達員の真似事をする羽目になっているのだ。
バンジークスは封筒を見つめるばかりで一向に開く気配がなかった。ホームズが去ってから読むつもりなのだろうが、早く中身を見たいに違いない。熱心な様子が微笑ましく、長居しない方が良さそうだとホームズは悟る。しかしその前に伝えておかなければならないことがあった。
「返事を出すなら彼の住所を教えてあげよう」
見た通り、宛名以外は何も書かれていない真っ白な封筒だ。返事を出そうにもどこへ送れば良いのか分からないだろうと、ホームズは返信用の住所を控えて手紙と共に配り歩いている。
「……願えるだろうか」
初めてバンジークスが封筒から目を離した。その瞳はホームズが驚くほど期待に満ちている。バンジークスにこんな表情をさせる程度には、あの留学生の存在は大きかったのだろう。
「もちろん。その代わり、必ず書いてやれよ」
「ああ」
喜ばしいことだ。あの運命の日から後、バンジークスは家にまつわる全ての非難を一人で受けている。それでもなお倒れることなく表舞台に立ち続け、更にはかつて強い敵意を向けられた相手を弟子としているのだ。その心労は如何ばかりか。そんな状態だったバンジークスの目に期待の光を灯すことができて、ホームズも雪が残る道を歩いてきた甲斐があったというものだ。
日本の住所が書かれた紙片を渡して、配達の仕事は完了した。
帰り際の玄関で、探偵は少し暗い面持ちで振り向く。今回の件とはあまり関係ないが、ホームズには個人的にバンジークスへ伝えておきたい話があった。
「本当はアイリスも一緒に来たがっていたんだ。でもここは……」
言葉の先は濁されたが、それが全てだった。バンジークス邸にはクリムトとその妻に関するものがあまりに多過ぎる。「バスカビル」の名前さえ遠ざけたホームズだ。まだここにアイリスを連れてくる時ではないと判断したのだろう。
「分かっている。検事局の方ならば歓迎しよう。今度は不在時の侵入など企まぬように」
「アッハッハ、まあその辺はホラ。キミが居ない時に入らなきゃいけない場合もあるし」
そんな場合はなかろうとバンジークスは溜息を吐いたが、実際に探偵が手柄を上げた経験があるのも事実。この破天荒な男への認識も改めるべきかと思いながら、以前より少しばかり頼もしく見えるようになった背中を見送った。
邸内へ戻り、バンジークスは受け取ったばかりの封筒を手に取って自室へ向かった。見慣れない縦型の封筒を開けるのに少々手間取ったが、中身は傷つけずに済んだようだ。
入っていたのは四つ折りにされた紙が二枚。他の人にも送ったというのだからきっと枚数を削らざるを得なかっただろうに、それだけ書いてくれたことがバンジークスには嬉しかった。
英国には無い類の紙を開くと、黒く丁寧な文字が並んでいた。元は英文科の学生なだけあって慣れた筆跡で、ふと彼の流暢な英語を思い出す。ほんの数ヶ月だというのに、懐かしさが彼の胸に満ちた。
『バンジークス卿へ
まずは無事に船旅を終え、日本に到着したことをご報告します。
そして、ちゃんとしたご挨拶もできずに帰国してしまって申し訳ありません。
ぼくは御琴羽教授に声を掛けていただき、英国で学んだことを伝えながら弁護士として歩んでいくために帰国いたしました。今はまだ仕事を始めたばかりですが、バンジークス卿と言葉を戦わせた日々がいかに有意義なものだったか実感するばかりです。
あなたはいつも、裁判で勝つことより真実を求めることを優先していました。それをできる検事が一体この世界に何人いるでしょうか。あなたという人間だったからこそ、未熟なぼくが法廷で真実を追求できたのだと思います。
ヴォルテックス卿と慈獄判事のことはこちらでも大きな話題になっていたようです。ぼくが帰国した頃にはかなり収束していましたが、それでもやはり報告は求められました。
そしてそれは、バンジークス卿のことを整理する良い機会でもありました。』
一枚目はそこで終わった。大きな恩人であり、大切な友人からの手紙だ。バンジークスは丁寧に読み進める。
『ぼくからこんな心配をされるのは不本意かもしれませんが、その後いかがでしょうか。疑いが全て晴れたといっても一度は犯人扱いを受けてしまいました。それにあの事件を公開することで、全ての批判をあなたが一人で背負うことになってしまうのではないかというのが何より心懸かりです。
検事をやめると仰った時、ぼくはそれも仕方がないと思いました。でも亜双義がそれを止めて、少し嬉しくもありました。あなたが前に進むと決めたのを見て、検事としてのあなたはもう大丈夫だと思えたのです。
後はただ、バンジークス家の人間としてのあなたに平穏があるよう祈っています。
そしてもう一つだけ。どうか亜双義のことをよろしくお願いします。優秀な男ですが、稀に周りが見えなくなるときがあるので。
仲良くしてくれとは言いません。ただ、もしあいつが迷うようなことがあったら、その選択を見届けてやってほしいのです。きっと必要なのはそれだけですから。
叶うのなら、もう一度お会いしたく思います。英国か日本かは分かりませんが、いつかきっと。
それまではこうして手紙を送らせていただくことをお許しください。
成歩堂 龍ノ介』
読み終わった後もバンジークスはしばらく紙面を眺めていた。そしてもう一通の手紙を開いてしまいたいような、あるいは捨ててしまいたいような気持ちが顔を覗かせていることに気付く。
なぜそんなことを思ってしまったのか、すぐには分からなかった。だがバンジークスの内側には確かに何かがあった。龍ノ介の言葉を他人に聞かせたくないような何かが。
さっそく返事を書くべく、バンジークスは万年筆と洋墨、そして便箋を机に並べた。しかしいざ向き合ってみると何を書いたものか。話すことは多くあるはずなのに、頭の中でそれらが上手くまとまらないでいる。
とにもかくにもまずは手紙の礼を。そして、龍ノ介がバンジークスの様子を気にしていたので近況の報告を。従者についての話はおそらく本人から伝わると予想できたため、短く留めておいた。
そこで筆が止まる。変わりないかと聞こうにも、裁判という特殊な状況下でしか会うことがなかった相手だ。バンジークスは龍ノ介について知っているようで、実はほとんど何も知らないのだと気付いてしまった。法廷での時間などたかが知れている。調査中にも滅多に会うことはなかった。たったそれだけの時間で一体何が分かるというのだ。
それに比べて、亜双義はバンジークスの知らない龍ノ介をたくさん知っている。逆もまた然り。現にこの数ヶ月だけでも亜双義の口からは数えきれないほど龍ノ介の名前が出た。それを聞く度にバンジークスの中では少しずつ何かが芽生えていた。
芽は育ち、龍ノ介からの手紙を受け取った今日、遂にその正体を知る。名前を付けるならば「嫉妬」という言葉が相応しいだろう。
(今、私は何を考えていた?)
はっと我に返ったがもう遅い。バンジークスはそれを自覚したも同然だ。書きかけの手紙が一層進まなくなってしまい、口に手を当てる。そうしなければ何かが溢れ出てしまいそうだった。
(彼は友人……友人だ)
もはや自分に言い聞かせなければならないほど、バンジークスの意識は傾いていた。検事としてではなく、一人の人間として気遣われていることがこんなにも嬉しい。今すぐにでも会って話をして、彼についてもっと知りたい。何ヶ月も前に整理をつけたはずの気持ちが、当時よりも遥かに大きな嵐に見舞われている。
ただ会いたいと思う一方で、龍ノ介が帰国してしまって良かったと思うところもあった。手の届く場所に居たら何をしてしまうかバンジークス自身にも分からない。龍ノ介が今後も手紙を送るという意思や再会を望む言葉でさえ、ありがたくも苦々しくもある。
(このような気持ち、許されるものではない)
恩人に向けるべき想いではない。分かっていても、理性で押さえつけられる感情ではなかった。
気付けば万年筆の先が手紙に大きな染みを作っている。新しい紙を取り出して、バンジークスは再び向き合う。書きたいこと、書くべきではないこと。頭の中で言葉だけが渦巻いて、紙の上に置かれた手はまだしばらく動きそうにはない。
一体この手紙は、何度書き直すことになるのだろう。