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全部夏のせいにして

全体公開 2 2 9616文字
2022-06-01 23:26:01

あずあら 2019年5月31日投稿
オープンユアルームの続き

Posted by @saeki_f

(東さんはああ言ったけど、別に前の生活と大して変わらねえな……?)

 夏の盛り。自室で休暇前最後のレポートを書きながら、荒船はふとそんなことを考えていた。


 東と荒船が一悶着あり、結局この家で暮らし続けることと二人が付き合うことが同時に決まったのが二週間と少し前の話。それからすぐ大学のテスト期間に差し掛かり、院生の東はともかく荒船は多忙の身となった。自分の勉強はもとより、周りの同級生が荒船に助けを求めるので少しだけ手伝ってやっていたのである。
 大学や本部で過ごす時間が自然と増え、家に帰れば部屋でレポートを書き、東と顔を合わせる時間はあまり長くなかった。それがようやく落ち着いてきた今、荒船にも考える余裕が出始めていた。

(いや、そもそもそんなタイミングなかったか……

 東はテスト期間も関係なく忙しそうで、相変わらず夜遅くなりがちだ。昨日の朝の東はゆっくり過ごせていたようだが、荒船に一限のテストがあったために大した話はできなかった。一応恋人になったというのに、実感が湧くようなイベントがまるでない。あれだけの宣言をされたからには何かあるのだろうと身構えていたのだが。

 今日このレポートをメールで送ってしまえば長い夏休みが始まる。何をしようとも話していなかったが、せっかくの長期休暇だ。東が帰ってきたら相談してみようと決め、荒船はレポートを仕上げにかかった。



「夏休み? そうか、もうテスト終わったんだな」

 食後、ソファでアイスコーヒーを飲むのが荒船の最近の定番になっている。一週間ぶりに家で夕食を食べた東と並んで座って、夏休みが始まったことを告げた。

「何かやりたいことでもあればと思ったんですけど」

 夏休みの予定など普通は前もって相談しておくものだが、いかんせん付き合い始めたのがほんの二週間前だ。こんな長期休暇を過ごすことになるとは全く想像していなかった。

「ちなみにそれは、デートだと思っていいのかな」
「分かってんなら聞くなよ……

 荒船は顔を背けた。もちろんそのつもりだが改めて言葉にされると気恥ずかしいものがある。告白を受けた側でも、荒船からの好意だってちゃんとあるということを示したかった。
 と、東が荒船の肩に頭を乗せてきた。不意打ちの重さに驚く。

「うおっ」
「ごめん、嬉しくて」

 東の顔は髪に隠れていたが、口元がにやついているのは少しだけ確認できた。今の荒船に髪をどける勇気はない。

「テスト期間で忙しそうだったから邪魔したくなくてな。ずっと我慢してたんだ」
……そうですか」

 平静を装っているが、荒船はドキドキして仕方がなかった。憎からず思っている相手からの優しくも控えめな接触は想像よりも心地良い。同性であっても、友達とは違う。
 頭を撫でられる程度のことは付き合う前から度々あったが、今のこれは別の意味合いだ。我慢していたということは、今日から色々と解禁するつもりなのだろうか? 何をするつもりなのかあの日から想像を巡らせていただけに、荒船の緊張が高まる。
 しかし東は「あ」と言って体を起こした。軽くなった右肩が少し冷たく感じる。

「でも、夏休み中も週に何回かは大学に行かないといけないんだよなあ……だから長期の旅行とかは難しいと思う」
「今から計画立てるんじゃ長期は難しいでしょう。そもそもが任務あるんだし」

 普通の大学生のような休暇が望めないのは承知の上。申請しておけば休みは作れるだろうが、一緒に住んでいるのだしそこまでする必要も感じない。荒船も夏休みはバイトのシフトが増えるので、最初からそんなことは考えていなかった。

「荒船はどこか行きたい所あるか?」
「んー、泳ぐ場所以外で……ちょっと考えときます。今日思いついたことなんで」
「そうしよう。俺も明日、研究室の予定を確認してくる」

 何かを思い出したのか、東は中身が半分ほどに減ったグラスをローテーブルに置いて立ち上がった。自室へ向かうようだ。

「あの、東さん」
「ん?」
……ドッグランも無しで」

 とても言えない。もっと触らなくてもいいのか、なんて。



 二人で色々と考えた結果、とりあえずお互いのやりたいことをやろうという話になった。日帰りできる範囲で、あまり大掛かりでないことに限定する。二人の年齢差や収入の差を考慮した結果だ。

 よく晴れた8月の一週目、まずは東の番である。

「荒船、もうちょっと前に出た方がいいんじゃないか?」
……これ以上はちょっと」

 荒船は東の車に一時間ほど揺られ、三門市近郊の山中に来ていた。東からは動きやすい格好と虫よけがあればいいと言われていたので二人とも荷物は少ない。車は麓に停めてある。沢沿いを少し上った所に開けた水場があり、ここが今日の目的地だと教えられた。
 沢の傍に建っている小屋で、東は二人分の釣り具を借りた。ここは川魚を養殖している天然の釣り堀なのだという。それ自体には荒船も異存ない。問題は、絶対に水に落ちたくないという一点のみ。

「大丈夫だって。一番深い場所でも膝上くらいまでしかないから」
「それくらいの深さがあれば十分です」

 もちろん、「溺れるには十分です」の意である。山の地形に手を加えていないので当然柵など無いし、岩場は非常に滑りやすい。とはいえある程度は水に近付かなければ魚まで届かないので、荒船は水辺から一歩半ほど引いた場所で釣りをしている。
 やはり水場は駄目だっただろうかと東が心配していると、荒船の竿に引きがあった。

「お?」
「かかったかな。まだ引くなよ。完全に喰いつくまで……はい引いて」

 糸の引きが強くなったところを一気に引っ張り上げる。水飛沫の中から元気な魚が現れた。それを東が掴み、針を外してバケツに入れる。
 荒船が初めて釣り上げた獲物は、金色に光る腹が丸々と太っていた。

「鮎ですか」
「今は鮎の季節だからな」

 今の時期、この釣り堀に放してある魚は三種類ほどだと管理人が言っていた。中でも鮎は大物の方で、早速の良い引きに初心者の荒船もご満悦だ。

「どうだ? 初めての獲物」
「釣れると楽しいですね。ここだと野生の魚釣ってるみてえ」
「確かにな。俺もそれが気に入ってる」

 街中にも釣り堀はあるが、やはり環境が違うと気分も全く違ってくる。家から遠いのであまり頻繁には来られないが、東に時間ができた時はよくここへ来て釣りと森林浴を楽しむのだ。ちなみに荒船は知らないが、東が誰かを連れてきたのは初めてのことである。

 一度楽しさを覚えれば水への恐怖も少しは和らいだのか、荒船は半歩前に出て次の獲物を狙う。それを見て、東も嬉しそうに笑うのだった。



 制限時間が来たので、二人はバケツを持って小屋に戻る。釣果は東が五匹、荒船が四匹。意外と荒船が良いセンスを見せていた。
 管理人に渡すとこの場で調理してくれる。塩焼きと煮付けと天ぷらを頼んで、二人で腰を落ち着ける。小屋の中は同じように釣りを終えた人達が休んでいた。家族連れだったり、年配の友人同士だったり、老若男女に人気の釣り場らしい。

「釣りってこんな気軽にできるんですね。もっと自分で色々用意しないといけないのかと思ってました」
「意外と楽だろ? まあ今回は荒船が一緒だから、楽しい入門編ってところだな」
「いつもはもっと大変なんですか」
「時間あるときは船を出してもらって海釣りに行くんだけど、流石にそれはきついだろうと思って」
「そりゃどうも」

 荒船は笑っていた。泳げないのを気遣われているのが悔しいような嬉しいような。例えばこれを言ったのが犬飼あたりであれば迷うことなく殴りかかっていただろうが、こうして悪意なく思いやられているのを感じると。
 東のこういうところが好きだと荒船は思う。付き合う前から人として隊員として尊敬していたし、付き合ってからは良い所がもっとよく分かるようになった。日を追うごとにじわじわと好意が大きくなるのを実感している。だからこそ、東があれ以上触れてこないのが疑問なのだ。


 捕りたての川魚を味わった後、再び外に出る。街中だと暑さでやられてしまいそうな晴天だが、山の中は夏らしいながらも快適な気温だ。
 この山の中は遊歩道が設置されていて散歩ができるようになっていると東が荒船に教える。登山をするような装備が無くても軽装で歩ける道だということで、二人はさっそく出発した。

「なんかすげえ夏っぽいっすね」
「楽しんでくれて何よりだよ」

 蝉の鳴き声、強い日差し、沢の水音と土を踏み締める感触。夏のアウトドアを全身で感じている。
 遊歩道には人があまりおらず、二人だけの空間になったようだ。考えてみればこれが初デートである。人目がある場所では遠慮もするだろうが、二人きりになれば何かそれらしいアクションがある可能性もなきにしもあらず。なんて荒船は考えていたのだが。

「この辺は森が広いから、こっちまで侵攻が伸びたら山狩りが大変そうだな」
「天羽に平地にしてもらえばいいんじゃないですか」
「ははは、環境保護団体に怒られそうな発想だな」

 特に何かある様子もなく、三歩ほど離れて歩道を進む。荒船が少し手を伸ばせば届くのだが、それだけのことがとても難しい。

(まあ、それならそれで別に)

 どうしてもそうしたいわけではないし、必要なことでもない。それに急に自分から触れたら驚かれるかもしれないと思うと、汗ばんだ手はペットボトルの蓋を開けるだけで終わった。


 結局いつものような会話をしながら歩き続ける。東との会話は好きなので、これはこれで楽しい。

「山いいですね。涼しいし」
「九月に入ったらキャンプしてみるか? 興味があればだけど」
「やってみたいです」

 東は気軽に聞いたつもりだったが、荒船の目は本気だった。それなら道具の手入れしなきゃな、と楽しそうに笑う。自分の趣味に興味を持ってくれるのは嬉しいものだ。
 荒船は気付いているだろうか。釣りにせよキャンプにせよ、東は一人で無心になる時間が好きだった。その懐に誰かを入れようとしているのがどれほど特別なことなのか。

 三歩の距離は埋まらないまま、二人は小屋へと戻るのだった。




 そして次の週、今度は荒船の番が来た。
 二人は街中のハンバーガー屋で昼食を摂りながら、この後の予定を確認している。

「荒船のやりたいことって、これで良かったのか?」
「俺の夏休みは毎年これなんですよ」

 行動は三日前から開始していた。午前に一本、午後から二本の映画を観るため、まず良い感じのインターバルで回れるような上映時間を探す。それが決まったら0時のオンラインチケット発売と同時に席を予約。今日は早起きして映画館へ足を運び、今ちょうど一本目を観終えたところだ。
 荒船曰く、夏休みは邦画も洋画も大作が続々と公開されるのでいつも時間が足りず、こうして時間を取れるタイミングで映画のハシゴをするのだという。これをやりたいと聞かされた時は東も驚いた。

「ていうか東さんこそ、よりによってこれに付き合わなくても良かったんですよ。俺いつもハシゴする時は一人だし」
「いいんだよ。俺もやりたいと思ってやってるんだから」

 東は一日に何本も映画を観るということをした経験がない。というか、そもそも映画をそれほど頻繁に観ない。別に興味が無いわけではなく、少し気になるタイトルがあっても気付いたら上映期間が終わっているのである。だから今日の体験は貴重なのだ。

「ならいいんですけど……次のは今日のメインなんで、一回さっきの映画のことは忘れてください」
「はい」

 朝一番で観たのは歴史もののドキュメンタリー。これから観るのはアクション大作シリーズの最新作。三本目はアクションとミステリーを融合させたような作品。確かに頭を切り替えなければ置いていかれてしまいそうだ。

「本当は昨日公開のホラーも気になってたんですけど、流石にそれはきついだろうと思って」

 これは言わずもがな、先日の仕返しである。東の口調を真似る荒船が可愛いやら、弱点を見抜かれて恥ずかしいやら。

「そりゃどうも」

 東もまた、笑いながら同じように返すのだった。




 三本目を観終わった頃には日が傾いていた。強い西日を浴びながら、電車の中で今日の感想を話し合う。インプットが多過ぎて吐き出しておかないと二人とも落ち着かないようだ。

「にしても、あんなに座りっぱなしで過ごしたのは初めてかもしれない」
「大丈夫でした? だから言ったのに」
「いや、映画は楽しめたよ。お前よくやるなと思って」
「流石に毎回じゃないですよ。観たいのが重なったときだけです」

 映画館を出るときには二人とも大きく伸びをした。東など背が高いから窮屈だったのではないかと荒船は心配していたが、想像よりはずっと快適だったと東は言う。映画を観るのが数年振りだったせいで、今時の広いシートに座るのが初めてだったのだろう。

「そういえば、二本目は予習しといて良かった。荒船のお陰だな」
「ほんとですか!」

 荒船的にはどれも当たりで満足していたのだが、東も楽しめたようで内心ほっとしていた。更にそこまで言ってもらえたのなら誘った甲斐もあったというもの。大人びているように見えても、きらきらと目を輝かせる姿はまだまだ十代の若者だ。

 今回の映画を最大限楽しんでもらえるよう、東は荒船による予習を施されていた。メインの二本目がシリーズものなので、予備知識として必要そうな過去作を選んで見せたり、更に補足が必要な部分は口頭で説明しておいたり。どうせ荒船も見直そうとしていたので一石二鳥だった。

「今作だけでも充分面白かったけど、最後のスピーチの場面とか、あれが二作目の主人公だって分かって感動したよ」
「あの監督、よくそういうことするんです。だから予習してもらって……ん?」

 駅を出たところで、荒船はいつもと雰囲気が違うことに気付いた。商店街には提灯が飾られ、浴衣を着た人が何人も歩いている。

「花火……じゃないですよね。川はもっと遠いし」
「神社で祭りでもやってるんじゃないか? ちょっと覗いて帰ろうか」

 神社は家と反対側だが、まだ日も落ちきっていないような時間だ。思いもよらない夏らしいイベントにテンションが上がる。浴衣の人が歩いていく方向へ、二人も足を向けた。


 祭りは人でいっぱいだった。屋台が所狭しと並び、その合間を縫うように人がひしめき合っている。そこそこ大きな神社なので祭りの規模もそれなりだ。人混みは得意ではないが、賑やかな場所は気分も上向きになる。
 と、この雰囲気で思い出す顔が一人。

「穂刈に会うかもな」
「あいつ今日はサークルの合宿ですよ」

 東と一緒に居る時にボーダー隊員に会うのは別に問題ではないが、ただただ気まずい。しかもそれが同級生であれば後からグループチャットでからかわれるに決まっている。三門市である以上エンカウントは仕方がないが、できれば会いませんようにと荒船は境内に向かって祈りを飛ばした。


「あ、東さん。射的ありますよ」
「トリオンの銃とは勝手が違うからなあ。スコープ無いし」
(屋台の射的に何を求めてんだ……

 時折物騒な言葉を挟みながら屋台を冷やかして歩く。特に何を買うでも、何を遊ぶでもないが、ただその中に居るだけで祭りは楽しい。
 人混みの中でも頭一つ出る長身は便利だ。荒船も決して低い方ではないが、どこを歩いても見失わない東と比べてしまうと。大学の健康診断では去年から1センチも伸びていなかったし、そろそろ荒船の成長期も終わりか。もう少し近付きたかったと密かに思っていたのだが。
 そんなことを考えていると、荒船の目の前を浴衣の女性集団が横切った。東の歩みはゆっくりだが、荒船が立ち止まったことに気付かず進んでしまう。見失わないように目を離さず、集団が去ってから足早に追いかけた。

「あれ、荒船?」
「すみません、ちょっと人が多くて」
「ごめん。最初からこうすれば良かった」

 そう言うと東は荒船の右手を取った。急なことに驚き固まった荒船を、東の左手が優しく引っ張っていく。

「あ、あの」
「大丈夫」

 何が、とは聞けなかった。東がそう言うのなら何も気にするまいと思わせてしまうのが東のずるいところだ。
 東の手は荒船よりも少し温度が低くて気持ち良い。人目は気になったが、思ったよりも周りの人間は他人が何をしているか見ていない。それに気付くと荒船も少しリラックスして歩けた。


 人波の中、荒船の目にあるものが飛び込んでくる。反射的に体が強張り、歩みが重くなった。手を繋いだ東がそれに気付かないわけがなく。

「どうした?」
…………

 声をかけても荒船の視線は”それ”に釘付けである。東がその先にあるものを確認すると、ようやく何が起きたかを理解した。

「ああ、なるほど」

 若い女性に抱かれた小型犬が、荒船の視線の先5メートルほどの場所で存在感を放っていた。愛犬と一緒にこういった場所へ来る人は案外多く、意識してみると遠くで吠える声も聞こえた。浴衣を着た犬は道行く人に可愛いと言われているようだが、荒船にそんなことは関係ない。嫌いなものは嫌いなのだ。
 じりじりと後ずさる荒船を見て、東は何を言うでもなくくるりと踵を返す。

「もう大体見て回ったし、欲しいもの買ったら帰るか」
……そうしましょう」

 東は優しい。荒船はそう思っているようだが実は違う。物腰穏やかだからそう見えるだけで、本当は荒船にだけ特別優しいのだ。例えばこれが佐鳥だったら「逃げ続けてたらいつまでも苦手なままだぞ」などと言って犬の前に突き出しただろう。
 弟子や仲間に対する思いやりと、恋人への気遣いは別なのだ。今はまだ荒船は気付いていないが。


「喉乾いたんで、ラムネ飲んでいっていいですか」
「あ、俺も欲しい」

 東の返事に荒船は固まった。そして顔を凝視する。うっかり好きだとバレてしまった時でさえ荒船はこんな顔をしていなかった。驚きと同時に、訝しげに眉根を寄せている。

「え、何?」
「炭酸とか飲むんだなと思って」
「俺を何だと思ってるのかな」

 コーヒーばかり飲んでいるイメージがあると伝えたら、祭りに来てコーヒーはないだろうと笑われた。本当はビールが飲みたかったのだが、荒船が居るのでそれは止めたようだ。荒船の成人まであと一年と少し。一緒に酒を飲める日を、東は密かに心待ちにしている。

 飲み物の屋台は比較的空いていて、すぐに買うことができた。淡い青の瓶は見た目にも涼しい。氷水から出てきたラムネはよく冷えていて、あっという間に飲み終わった。



 祭りの喧騒から離れて家路を歩く。人通りのない暗い道に入っても二人の手は繋がれたままだ。

(これはそういう意味だって思ってもいいんだよな?)

 何か話そうと思うのだが、手のひらから全て筒抜けになってしまいそうで何も言えないでいる。東と二人で居るのはこんなに緊張することだっただろうか。
 東も無言だった。もしかして、東も緊張しているのだろうか。繋いだ手を離したくなかったり、でも荒船が嫌そうな素振を見せたらすぐに離そうとか、そんなことを考えているのだろうか。
 荒船は横目に東を見る。と、東も荒船を見ていた。しまったという顔をしてすぐに顔を背ける。感情を抑える癖はそう簡単に抜けるものではない。荒船はその瞬間、東の心の中が初めて見えた気がした。

(やっぱり)

 荒船は東の手を引いて胸倉を掴んだ。東は何事かと思う間もなく体勢を崩し、あれよあれよと荒船の方に吸い寄せられていく。受け止めたのは荒船の唇だった。東の首元を離さない両手が事故ではないことを物語っている。触れた唇はほのかに甘い。
 確かにキスくらいしてもおかしくない関係にはなった。しかしなぜ荒船から。しかも人が居ないとはいえ往来で。東がそんなことを考えている間にゆっくりと顔が離れた。東の影が荒船に落ちて表情は確認できない。だがきりりとした両目は真っ直ぐに東を捉えていた。

「なんでそんなに思い切りが良いの、お前……
「遠慮してるっぽかったので」

 ちゃんとした告白ができなかった分、東は地道に関係を積み上げていくつもりだった。それもこれも全ては荒船を驚かせないため。だがそんなものは余計なお世話だったらしい。この子供は、ときに大人の想像を遥かに超える力で壁を打ち破ってくる。

「覚悟しろって言ったのはそっちだぜ、東さん」

 荒船が不敵に笑う。安い挑発だ。しかし東には、それに乗らないという選択肢はない。

「あー、もう」

 東が荒船の手を引いて歩き出した。あと五分もかからない道を急いで帰る。お互いの顔は見えないが、どんな表情かは大体分かる。エレベーターを降りて、鍵を開ける間でさえ手を離さなかった。手が熱いのは気温のせいではないだろう。
 部屋のドアが閉まった瞬間、東は荒船を引き寄せる。上から覆い被さるように荒船の唇に噛みついた。東が割れ目を舌でなぞると応えるように口を開け、舌を絡めればどうぞと差し出す。初めてのはずなのに、この対応力の高さには東も驚くばかり。電気も点けないまま、東は荒船を好き放題に食い荒らす。

 荒船は東からの接触を甘んじて受け入れていたが、次第にいっぱいいっぱいになってきた。よくもまあこれだけの熱を涼しい顔の下に隠していられたものだ。息継ぎに一度顔を離すと、東が荒船の濡れた口端を舐める。

……よく我慢してましたね」
「急に距離を詰め過ぎたら嫌がられるかもと思うと……

 あれだけ啖呵を切ったくせに、やはりまだ遠慮があったのだ。なかなか思い切れるものではないと荒船も分かってはいるのだが、宣言したのだからその通りにやれと思わないでもない。

「俺、東さんのことが思ったより好きになってるみたいです」

 だから遠慮など要らない。全力で来いと言ったはずだと荒船が言う前に、東が力強く抱き締める。苦しいですという声は柔らかく、仕方ないなとあやすように東の背中をとんとんと叩いた。東を信頼しきった様子があまりに無防備で、今すぐ全部食べてしまいたいような衝動が顔を覗かせる。

(やばいな、これは……

 Tシャツの裾から滑り込みそうな手を必死で抑え込んでいると、荒船から顔を寄せてきた。街灯の下で見た瞳が東の心を掴んで離さない。

「東さん」
「ん?」

 この前は言えなかったことも、今の荒船なら言える。そういう覚悟を決めて名前を呼んだ。簡単なことだった。東がどうこうではない。荒船が東に触れたいのだ。分かってしまえば話は早い。

 両腕が伸びて東の背中を抱く。それだけでも東の全身が痺れそうになった。余裕のある大人の顔をしていたいのに、荒船はそれを遠慮なく剥がそうとしてくる。七歳差なんて、実は大したことないのかもしれない。
 荒船が東の耳元に顔を寄せた。直に聞こえる息で、東はおかしくなってしまいそうだ。

「もっと」
「!」

 あんなに男前なのに、こんなに可愛くて全てが愛おしい。東は荒船のこういうところに惚れている。荒船がこんな顔を見せてくれるのも、キスを許してくれるのも東だけ。

 もうブレーキをかけずに飛び込んでしまおうか。東にそう思わせるほど、今日は暑かった。


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