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Pretend Play

全体公開 1 3 19937文字
2022-06-01 23:29:55

あずあら 2019年10月17日投稿

Posted by @saeki_f

 ある日、荒船は東から呼び出しを受けた。ボーダー本部内では人目があるからと外で待ち合わせをして、車でどこかに連れていかれる。車内では何を聞いても「後で順を追って話すから」と言われるばかり。東はかなり慎重で、荒船にはこの時点で既に面倒なことが起こる予感があった。

 荒船と東は特別仲が良いわけではない。ただの先輩と後輩。今でこそ同じポジションで顔を合わせることは多いが以前はそうでもなかったし、荒船が再びポジションを変えればまた元通りだろう。
 だから、東がなぜわざわざ荒船を選んで話をするのか全く想像ができないでいる。東の人脈があれば、他に頼れそうな人間はいくらでも居るだろうに。

 やけに高級そうな店の個室に通され、いよいよこれは大変なことになってきたと荒船はげんなりする。大抵の問題は何でも自力で解決できそうな東が持ち込む話だ。嫌な予感が最高潮に達したところで、ようやく東が口を開いた。

「俺と付き合ってくれないか」

Pretend Play


 荒船はしばらく呆然としていた。想像していたものと180度違った上、はいともいいえとも答えづらい。そんな困った様子の荒船を見て、東がすまんと謝った。

「順を追って話す約束だったな。まず正確には、俺と付き合うフリをしてほしい」
「はあ」

 二ヶ月ほど前のこと。東の研究室に新たな後輩が数人入り、その内の一人から猛烈なアタックを受け始めた。恋人を作る気のない東は穏便に断ったのだが、彼女はなかなか諦めが悪い。顔を合わせれば必ず話しかけてくるし、どこにでもついて来ようとする。所謂ストーカー気質という感じで、それがかなりストレスになっていた。

 東は出来た人間であるし、男女問わず慕う者は多い。女性にもさぞモテるのだろうとはよく噂されていた。しかし。

「東さんでも人を上手くあしらえないことがあるんですね」
「ああいうタイプはちょっとな……恋愛体質っていうのかな。常に恋愛をしていないとダメで、それこそが一番の幸せだと信じて疑わないんだ。相手を幸せにしてあげようって善意みたいなもので動いてるから全然折れなくて」

 東も八方手を尽くした。まずは真剣にお断りしたし、後腐れのない程度に冷たい態度をとったし、周りに手を回して付きまといを止めさせるように言ってもらったりもした。
 しかしどうも諦める様子がない。よって東は、ひとつ嘘を吐く羽目になってしまった。

「俺には男の恋人が居るから無理だよって、つい」

 話の途中から荒船もそんなところだろうと思っていた。できればそうでないことを祈っていたが、無駄だったようだ。荒船は呆れたように溜息を吐く。

「我ながら馬鹿なことを言ったとは思うよ。でもそれくらい言わないと逃げきれそうになくて」

 今はまだ大学内で収まっているが、それがいつ外に及ぶか分からない。というか、先日は大学の最寄り駅までついて来たのでストーカーとしての完全体に変貌するのはもう時間の問題だ。ボーダーに迷惑をかけるわけにもいかないし、誰だって警察沙汰になるような事態は避けたい。押しの強い相手には、劇薬が必要だったのだ。

「まあ事情は分かりましたよ。でも、なんで俺が?」
「それが……その子からどんな相手だって聞かれて、咄嗟に思い付いた荒船の特徴を答えてしまって」

 はた迷惑な話である。荒船は、東がこの高級な店を選んだ理由を理解した。あまりに一方的で理不尽な巻き込まれ方だ。これくらいしてもらわなければ、いや、これでもまだ割に合わない。これからもっと面倒なことを頼まれるのが目に見えている。

「てことは、その女の人に俺が東さんと居るところを見せて、納得させりゃいいんですね?」
「話が早くて助かるよ……

 大方、彼女から「自分の目で見るまで信じない」とでも言われたのだろう。
 東は申し訳なさそうなだけではなく、とても疲れた顔をしている。本当に困り果てているのだ。ただでさえ忙しい身、今のところボーダーに彼の代わりになる人材は存在しない。彼が傾くとボーダーに多少なりとも影響が出る可能性が高く、余計な心労は命取りとも言えよう。
 特別親しいわけではないが、日頃からなにかと世話になっている自覚は荒船にもある。内容が内容だけに喜んで、というわけにはいかなくても、偉大な先輩の切実な願いを無下にするなんて律儀な荒船にはできない。

「分かりました。協力しますよ」
「ありがとう、本当に助かる。あ、もちろんそれなりのお礼はするから」

 現金を渡すと完全な援助交際になってしまうので、こうして食事を奢るとか、荒船が必要とする知識を与えるという話で取引は成立した。荒船としても悪くない条件である。

 そういった経緯で、二人の恋人ごっこが始まったのだった。



 とはいえ相手は大学生、荒船は高校生だ。鉢合わせする機会など皆無に等しい。どうするのかと東に聞いたら、そこは既に考えているとのことだった。

「来週末にオープンキャンパスがあるから、そこに来てくれないか」
「なるほど」
「というか、お前そもそもうちの大学を受験するつもりなんだろ?」
「まあ、一応」
「なら普通に来て損はないと思うぞ」

 荒船は元々オープンキャンパスには行かないつもりだったが、事情が事情である。大学なら人目もあるので大したことをする必要もないだろう。予定も入っていなかったので、荒船はそれを了承した。



 ということで週末、東と荒船は大学の中で待ち合わせしていた。大学は広いからと東は正門を入ってすぐの所で待っていて、荒船を見つけると軽く手を挙げる。隊服でない東を見るのは久し振りのような気がした。

「おはよう」
「おはようございます。わざわざすみません」
「いや、それはこっちの台詞。それにキャンパス内では恋人のフリしなきゃいけないから、入口で待つくらい当然だろ」
「確かに」

 周りの高校生は大抵親か友達と一緒に来ている。その中で、少し離れた兄くらいの男と一緒に歩く荒船は他の人よりも若干目立っていた。

 大学の歴史や理念を説く展示などには目もくれず、荒船はひたすら進む東の後に付いていく。例の後輩はオープンキャンパスの案内係になっているのだが、その当番は午前中で終わってしまうらしいのだ。確実に姿を見せておかなければ荒船が来た意味がない。

 東が歩みを緩めた。荒船に歩調を合わせて、自然に隣を歩く。それだけで目的地が近いことが分かった。

「あの子だよ。あそこの受付に立ってる、右側の」

 そう言われて荒船は視線を向ける。明るい茶色の髪を綺麗に巻いて、流行りを押さえた服を着た、女子大生を絵に描いたような人だ。学部の四年生だそうで、荒船が想像していたよりも大人っぽく、東を疲労させるほど猛然とアタックを仕掛けるようには見えなかった。東の言葉を疑うわけではないのだが。
 まだこちらには気付いていないようで、これからホールで行われる説明会の参加者の対応をしている。

「東さん、人型近界民に立ち向かう時みてえな顔になってます」
「あまりからかわないでくれ……
「大丈夫ですよ。普段通りいきましょう」

 荒船の言葉で肩の力が抜けたのだろう。東はふっと弱々しく笑って、受付に向かって歩き出した。

「ようこそ……あ、東さん」
「おはよう」

 後輩は東を認識するとぱっと表情を明るくしたが、返す挨拶は素っ気ない。これだけの塩対応をされてなお諦めないというのは相当なことだ。荒船は彼女に対する認識を早々に改めた。

「もしかしてその子……
「ああ、俺の恋人。来年うちの大学を受けるから連れて来た」
「どうも」

 東の恋人と聞いて、隣に居たもう一人の受付の女性がひどく驚いた顔をしていた。嘘とはいえ恋人として紹介されるのは初めてで、荒船は少し照れる。東はよく自然に演技できるものだ。

「本当に男子高校生に手を出してたんですね」

 後輩は声のトーンを落として話をする。目の前で見ても信じられないといった顔で、若干引いているようにも見える。だとすれば東の計算通りなのだが。

「まだ手は出してないよ」

 さらりとそう言って、机に置いてあったパンフレットを一部取る。荒船は何の話か一瞬だけ理解が遅れたが、すぐに気付いて東の背中を軽く叩いた。これは演技ではなく心からの突っ込みである。

「じゃあ行こうか」

 返事をする前に、東は荒船の腕を引いてホールの入口へ向かう。荒船も少し驚いたものの、すぐ順応して腕を絡ませた。どこからどう見ても立派な恋人同士……のはずだ。

 ホールに入ると同時に二人は素早く離れた。この中は説明会に参加する外部の人ばかりなので気を張る必要もない。

「とりあえず、上手くいったかな」
「そうですね……でもよく考えたら、これ東さんにはなかなか不名誉な感じになるんじゃないですか?」

 時代柄、同性と付き合うことについてとやかく言われたりはしないだろうが、成人が未成年と付き合うのは性別に関係なく問題視される。実情はともかく、ポーズだけでもこの状態を人目に晒すのは東にデメリットが多すぎるように思う。

「荒船は心配しなくても大丈夫だよ。俺が頼んだことだからな」
……なら良いんですけど。ところで、これ何の説明会ですか?」

 受付で茶番を見せるために来たので、何も見ずに部屋に入ってしまった。入ったからには説明会を聞いて帰らなければ怪しまれる。荒船が周りを見回していると、東が受付で取ったパンフレットを差し出した。

「理系学部の説明会だよ。だから俺の後輩が受付やってたんだ」
「ああ、なるほど」
「お前も理系だったよな。しっかり聞いとけよ」
「俺はもう受ける学部ほぼ決めてるんですけどね……

 説明は各学部の教授が行うらしく、紙の資料よりは聞く価値があるかもしれない。東の研究室の教授も登壇するらしい。
 いずれにせよ終わるまではここに座っていなければいけないのだ。荒船はパンフレットを眺めながら、ぼんやりと会の開始を待った。



 三十分ほどの説明会を終え、他の来場者と共にぞろぞろとホールを出た。受付にはまだ後輩が残っていて気を張りつめたが、特に会話することもなく素通りしていく。彼女がこちらに気付いたかどうかは定かでない。

 他にも展示や学生との交流会が開かれているようだが、荒船はあまり興味がないので横目に見る程度で済ませる。

「他に見たいものとかあるか?」

 元々来る予定ではなかったのだからと東は返事を期待していなかった。しかし荒船は、少しだけ考えた後に東を見上げる。

「東さんの研究室は見てみたいですね」
「俺の? 今日は誰も居ないぞ」
「まあ、雰囲気だけでも」

 そもそも今は夏休み中だし、オープンキャンパスで大学は混雑するので、関係のない学生は今日の登校を避けている。東のカードキーがあれば部屋に入れないことはないのだが、教授も説明会に駆り出されているので本当に部屋を眺めるだけだ。
 だが荒船がそれで構わないと言うので、東は首を捻りつつ研究室まで連れて行く。研究室棟の三階まで登ると喧騒は一気に遠ざかった。来場者で賑わう中庭を下に見る。荒船は、自分が何か特別な存在になったような気分だ。

 東が鍵を開ける。薄暗く静かな部屋だった。

……意外と片付いてますね」
「教授が綺麗好きだからな。人が居なくなる時間は全然物が無いんだ」

 あまり奥には入らずに荒船はふむふむと部屋を見渡す。物は多いが整然としていて、荒船の想像していた部屋とは少し違った。

「もっとごちゃごちゃしてるのを想像してました」
「はは、他の研究室はそういうところもあるぞ」

 研究室は教授の特徴がよく出るとのことだ。ボーダーの隊室も似たようなものだろう。個人のものらしき机には私物が並んでいる。居心地の良さそうな空間という印象を受けた。

「とりあえず、今日の任務は終了ですかね」
「ああ。あの子も担当が終わったら帰るだろうし……せっかくだから、学食でメシでも食っていくか?」
「そうします」

 しかしわずか十分後、二人はこの選択を悔いることになる。


「あれ? また会いましたね」

 二人が向かい合って食事を始めようとしたところへ、例の後輩が現れたのだ。彼女も仕事を終えて昼食を食べに来たのだろう。東の顔が引きつってもお構いなしだ。

「よかったらご一緒していいですか?」

 と言いつつちゃっかり鞄を東の隣に置き、断る暇もなく食券を買いに行ってしまった。二人は唖然とそれを眺めた後、彼女の後ろ姿を見て同時に頭を抱える。

「なんというか……東さんはよくアレに対して穏便でいられますね……
「一応立場もあるし……悪いが任務延長だ」

 ほどなくして彼女が戻ってきた。妙な三人で食事が始まる。学食の味を楽しもうと思って来たのに味がわからなくなるな、などと荒船が思っていると、彼女がにこやかに話しかけてきた。

「君、名前なんていうの?」
「あ……荒船です」
「荒船君ね。学校どこ?」
「六頴館の三年です」
「へえ、名門だね」
「そんなことは……

 予想通り、荒船に質問が集中する。東の隣に陣取った時点で分かっていたことだが、押しが強いし初対面でも怯まない。荒船が一対一で話すには分が悪そうな相手だ。

「荒船君もボーダー隊員なんだよね」
「はい」
「かっこいいなあ。じゃあ、東さんとはそこで知り合ったんだ」
「!」

 一瞬油断させてから本題に切り込んできた。荒船だけでなく、東もつい身構える。

「そうですよ」
「ねえ、どっちから告白したの?」

 探りを入れられているのか、それともただの興味本位なのか。どちらにせよ荒船は答えに詰まる。今日は顔を見るくらいで済ませるつもりだったので、そういう設定はまだ決めていなかった。

「俺からだよ」
「え、そうなんですか! 意外~」

 東の助け舟にほっと胸を撫で下ろす。流石、東のフォローはスマートだ。

「優秀だし、俺には無いものを持ってる。素直で可愛い良い子だよ」

 荒船は思わず東を見た。そんな風に見られていたとは思わなかったのだ。この場をしのぐための言葉だったとしても、荒船の褒めるべき点を探してくれたのだから素直に嬉しく思う。後半については特に気にしないようにしたが。

「ね、じゃあ東さんのどこが好き?」

 彼女は遠慮なく続ける。この質問は東も助けられない。返事をできないでいると思われないため、荒船は咄嗟に時間稼ぎを考えた。

……言わないとダメですか」

 本当に荒船が東の恋人だったとしても、彼女の存在や行動を知らされていないはずがないのに。それでも聞いてくるのは戦略か、あるいはただ無邪気なのか。率直に言って迷惑でしかなく、荒船は今日初めて険しい顔をしてみせた。

「だって荒船君も告白されて東さんと付き合ってもいいと思ったんでしょ? 気になるなあ」

 にこにこと笑顔で荒船を追い詰める彼女は、ある種ランク戦の東よりも厄介である。荒船は必死で頭を働かせて、東と付き合う架空の理由を構築し始めた。

「東さんは俺から見れば大人だし、頭が良くて尊敬もしてます。でもそれだけじゃなくて……告白された時、可愛いなって思ったんです。あんなに何でもできる人がすごく必死で」

 無論後半は作り話だ。東の嘘を補強する形を取れば、東も話を合わせやすいと考えた。その作戦は上手くいったようで、後輩は興味深そうに話を聞いている。これは信じてくれたと思いたいところ。

「荒船、その辺にしてくれ」

 困ったように笑いながら東が止めに入った。タイミングも完璧だ。事情を知らない者からすればただの恋人同士の惚気のはず。東が横から表情を伺い見るが、彼女は綺麗な笑みを崩すことなく頷くばかり。

 結局その後も質問責めは止まらず、二人で探り探りの答えを作り出していった。今日の設定をちゃんと覚えておかなければ後々困ることになるので二人も必死だ。ようやく昼食を食べ終わった頃にはすっかり気疲れしてしまっていた。


……上手くいったと思います?」
……分からん。八割方は上手くいったと思うんだが、どこかでミスした気がしないでもない」

 東の車で本部に向かいながら、二人は今日の反省会を開く。
 所感は二人とも同じだった。昼食の場で再会してしまったのがやはり痛く、慌てて余計なことを言ったような気がしているのだが、具体的に何がと聞かれると思い出せない。これは前途多難である。
 二人で「設定」を復習しながら、車は立ち入り禁止区域へと向かっていった。



「君達、博物館のチケットがあるんだけど行く?」

 研究室の教授の言葉に、学生達は一斉に振り返った。隣の市にある県立博物館のチケットを別の教授から何枚か貰ったらしく、手元でチケットをひらひらさせている。
 大半の学生は興味が無いようで、自分は大丈夫ですと言いながら視線をパソコンに戻していく。が、東だけは徐に立ち上がった。

「俺が二枚頂いていいですか」
「おお、東君。恋人でも誘うのかな」
「ええ、まあ」

 教授の冗談など軽く流すと思われていた東がまさかの肯定をしたものだから、研究室内が少しだけざわついた。その中には当然、例の後輩も居る。

「有効期限っていつまでですか?」
「それが次の日曜なんだよね。急で悪いんだけど」

 今日は火曜日。平日は基本的に研究室かボーダーに行くことになっているので、土曜か日曜にしか行けない。確か土曜日の午後に荒船隊のシフトが入っていたはずだ。

「じゃあ、日曜日に行ってきますよ」

 わざと口に出した。これはトラップだ。ずっとこんなチャンスを待っていた。荒船とデートに行くと彼女に聞かせて誘い出し、現場を見せる。そうすることで二人が付き合っていることを裏付ける作戦。普通の人間なら尾行などしないだろうが、彼女ならする可能性は十分にあると東は踏んでいる。場所も日程も決まっていればやりやすいだろう。
 もし彼女が来なかったとしてもそれはそれで問題ない。それだけ東への執着が薄れているか、荒船を東の恋人と認識しているということの表れだ。



 日曜日、東は事前に事情を説明して荒船を呼び出した。荒船もそれに快く応じ、昼過ぎに博物館の最寄り駅で集合する。
 電車を使うのには理由があった。東が車を出しては彼女に姿を見せられないのだ。博物館の中で既に待機している可能性もあるが、撒く餌は多い方が良い。

 八月最後の日曜日は酷暑も少し和らいでいたが、それでもまだまだ暑い。荒船の黒いキャップは熱を集めてしまうようで、時々外しては頭に空気を送っていた。

「予定が空いてて助かったよ。シフトは入ってなかったけど、何か約束でもあったらどうしようかと思った」
「受験生ですからね、一応。そんなに予定は詰めてませんよ」

 荒船が何気なく放った一言に東が固まった。受験生。そうだ、オープンキャンパスへ連れて行くまでは覚えていたが、荒船は受験生なのだ。こんな茶番に付き合っている時間は無いはず。しかも今は夏休み中。荒船ならば宿題は終えているだろうが、夏期講習などもあるのではないか。
 自分のことで精一杯だったとはいえ、東は自分の浅はかさを呪った。

……ごめん。そもそも受験生にこんなこと頼むなんて最低の大人だよな……
「あっ、いや、そういうつもりで言ったんじゃないんです。本当にただ空いてたので」
「うん、分かってる。でもごめん」

 今日もちょうど息抜きになって良かったと荒船がフォローを入れるが、東は謝らずにはいられない。課題でも受験対策でも何でも手伝うからなと言ってしゅんと眉尻を下げた。

「そ、そういえば、よくうちの隊のシフトが土曜って覚えてましたね」

 珍しいほど落ち込む東を見て申し訳なくなって、荒船は別の話題を振る。

「ああ、最近お前のシフトも気にするようになったんだ。会えるタイミングとか考えなきゃいけないからな」

 東が少し元気を取り戻した。なるべく荒船の迷惑にならないよう考えて動いているのは荒船にも分かる。その気遣いだけでも十分で、受験生だからといってそれほど気遣わなくてもいいのにと思う。
 しかしその時、東が急に真剣な表情に変わった。進行方向を確認するふりで周りを見回し、小さく低い声で荒船に呼び掛ける。

「荒船、釣れたぞ。五時の方向三十メートルくらいの位置だ」

 言わずもがな、彼女が尾行しているという意味だ。荒船は振り返らずに歩き続ける。彼女のためのトラップだが、本当にかかるとは荒船も驚きである。恋は盲目と言うものの、ここまでする人間を初めて見た。

「外なら声は聞こえないだろうが、建物の中では気を付けよう」
「了解です」

 荒船は鞄を探るふりをして一度だけ背後を確認した。前回会った時とは髪型が違い、変装のつもりなのか眼鏡をかけているが、間違いなく彼女だ。こちらに気付かれているとは露ほども思っていないだろう。
 彼女は東や荒船がボーダーで何をしているか知らないだろうが、素人が本職の狙撃手達を相手に尾行などするものではない。見つけるのは容易いことだった。

 博物館の入口でチケットを見せて中に入る。館内は涼しく、二人は生き返った心地だ。夏休み終盤ということもあって、自由研究の題材を探しに来たような小中学生が多い。それなりに盛況だが、やはり外よりは人の声を聞き取りやすい。この中で作戦会議などしていては彼女に聞かれてしまいそうだ。

「さて、何から見ようか」

 東はごく自然に振る舞う。今日は人目もある外部なので、仲の良いところを見せつける演技は必要ないだろう。荒船も友達と過ごすような感覚で肩の力を抜いた。



「荒船、あんまり離れないで」
「すみません」

 博物館は想像よりも面白いものが多く、荒船はついあちこち単独行動してしまいがちだ。今の二人は恋人同士。それだけは忘れられては困る。東は荒船に申し訳なく思いつつ、仕方なく一つ提案をした。

「手、繋いどくか」
……はい」

 デート中という体裁であるので、こういうことがあるかもしれないとは荒船も思っていたし、東からも可能性については説明を受けていた。しかし実際に行動に起こすとなるとどうしても照れが入る。
 荒船は自分でも不思議なほど嫌だと感じていなかった。人前で手を繋ぐことに抵抗があるだけで、東が相手だということについては別段なんとも思わない。多分、東から必要以上の情を感じないからだろう。これも必要だからやっているのであって、そうでなければ手を出したりはしない。そのドライさを肌に感じている。

(東さんの手、冷てえな)

 冷房で冷えたのだろうか。あるいは単純に荒船の方が代謝が良いだけか。ひんやりとした手に熱を分けながら、二人でゆっくりと展示を見て回った。



 日が沈む前に帰ろうと言い出したのは東だ。「受験生」発言がまだ後を引いていたらしい。可哀想なほど落ち込む東を見てしまってはその気遣いを無下にできるわけもなく、荒船もそうしましょうと頷いた。
 だが一つ問題が残っている。彼女は根気よく二人の後を付いてきていて、きっとこの後どこに行くのかを気にしているのだ。最寄駅からだと二人の家は反対方向にあるので駅で解散するつもりだが、これだけでデートが終わるとなると彼女が疑いを持たないとも限らない。

「何時間も我慢させて悪かった。あと少しの辛抱だ……撒くぞ」
「了解」

 これが今日最後の詰めだ。東と荒船の目が戦闘員のそれに変わる。二人は手を繋いだまま歩みを速めた。

 たった一人の素人を撒くくらい、ハンデがあっても楽勝だ。人混みに紛れ、死角を利用し、駅に着いた頃には完全に彼女を振り切っていたのだった。



 数日後、荒船が本部のラウンジへ入るとにわかに周囲がざわつき始めた。荒船を見て何か話しているようだが、自ら進んで話しかけてくることはない。

(なんだ……?)

 妙な雰囲気に囲まれつつ荒船はベンチに座った。その瞬間、遠巻きにせず堂々と荒船に近付く者が現れた。

「荒船~」
「犬飼」

 何かと絡んでくる同級生が笑いながら肩を組んでくる。少し鬱陶しいと思いつつも、その意図は理解できた。犬飼は自然な空気を壊すことなく少しだけ声を低くする。

「なんかねえ、噂になってるんだよね」
「俺が? 妙な空気になってんのはそのせいか。何の噂だ」
「んー、言っていいのかなあ」
「さっさと言え」
……東さんと荒船が、この前手を繋いで歩いてたって」

 犬飼がその話題を出した瞬間、声が届く範囲の隊員が一斉に荒船の方へ意識を向けた。後ろを見なくても分かる。隣の人と話しているように見せかけても、耳は荒船と犬飼の方を向いている。
 なるほど、そんな噂を荒船に直接確かめようという隊員はそれほど多くないだろう。耳の早い犬飼だからこその行動だった。

「で、実際どうなの?」

 東が噂を流したとは思えない。そんな面倒事をボーダーに持ち込みたくはなかったはずだ。多分、隊員の誰かに見られていたのだろう。
 しかしこの情報をどう利用するかの判断は荒船には下せない。ボーダーという組織は大きいのだ。十代の若者中心とはいえ、誰がどんなコミュニティを持っているか分からない。ここは東と相談すべきだ。

……さあ、どうだろうな」

 犬飼だけなら情報統制も容易いが、今は周りの耳がある。ならこの場は濁しておくしかない。白黒つけるだけなら後でもできる。東に余計な仕事を増やしてしまうのは気が引けたが、確実な手を打っておきたいと荒船は考えていた。

「大丈夫なの? この手の話題は本人がはっきりさせないとどんどん広がっちゃうよ」
「こっちも色々あってな。ちょっと東さんのところ行ってくる」

 犬飼の心配は尤もだし有り難いが、荒船はそれを振り切って東隊の部屋へ直行した。



「なんか噂になってますね。この前のデート、誰かに見られてたみたいです」
「ああ。まだ出所は分からないが」

 隊室には東しか居なかった。呼び出して別の場所で話そうと思っていたが、そのままこの部屋で話を続ける。噂になっていることは既に東の耳にも届いていて、前置きが無くてもすぐ何の話か分かったようだ。流石にこのタイミングでボーダー関係者にバレるのは想定外だったらしく、困ったように笑っていた。

「どうします? 東さんと相談しようと思ったんで聞かれたことは適当に流してきましたけど……流石にボーダー内でこういう噂が立つのは良くないですよね」

 事の初めにわざわざ荒船を人目につかない場所へ連れて行ったほど慎重だったのだ。やはりボーダー内だけでも噂は払拭しておくべきかと荒船は考えている。
 しかし東は少し考えた後、意外な答えを出した。

「それなんだが、このまま否定せずにいこうと思う」
「え? 大丈夫ですか」
「まあ個人の恋愛だし組織の迷惑にはならないだろ。それより、こういう話はどこから情報が漏れるか分からないからな。今必死に否定すると逆に言い訳っぽくなるし、否定はせずそれらしく流しておけばその内収まると思う」

 人の噂も七十五日、ということらしい。この場合で最も大切なのは真実ではない。噂の一つや二つ、大きな問題が解決してから丁寧に潰していけばいいという考えだ。

「あ、荒船が不本意だったら別の方法を考えるけど」
「いえ、大丈夫です。俺も東さんが嫌だったらどうしようかと思ってただけなんで」

 その返事に東は思わず舌を巻いた。多感な時期にもかかわらず、必要なことだからと割り切れる胆力には驚かされる。同級生で同じことをできる人間が一体どれだけ居るだろうか。

(いや、あの学年は特に大人びてはいるけど……それにしても男前だな)

 荒船との関係が始まってから東は驚くことが多かった。個人として付き合ってみるとその優秀さがよりよく分かったし、そのうえ人間的な魅力にも惹かれる。最近はたまに、本当に荒船が恋人だったら良いだろうなと思うこともあるほど。噂話を放置していいと思ったのも、実は相手が荒船だからこそだった。そこまで言ってしまうと荒船に引かれてしまうだろうから口には出さなかったが。

 二人の決定によって噂話は留まることなく拡散していき、数日後にはボーダー中に知れ渡ることとなった。だが二人は構わない。元々用事がなければ話しかけにくいタイプの人間だということも幸いし、興味本位で近付く隊員は滅多に居なかった。



 二週間後、東の研究室。
 実験がキリの良いところまで進み、残りは各自でデータをまとめるのみとなった。明後日の実験前までに終わればいいことなので、研究室の面々はゆったりと喋りながらパソコンに向かう。普段なら東も残ってデータ整理をしてから帰るところだが、今日は早々に片付けて帰る準備をしていた。

「あれ、今日は早いんですね」
「ちょっと急ぎの用があって」
「東君はほら、あの子の迎えに行きたいんだって」

 どこから漏れたか……おそらくは彼女だろうが……東に高校生の彼氏が居るというのは研究室内の共通認識になっていた。こちらでも東は真偽のほどを聞かれたが、この空間内では肯定するしかない。

「でも、今日って祝日ですよね。塾か何かですか?」
「学校で特別補習があるらしくて」
「げ、さすが六頴館」

 言った覚えはないが学校まで知られている。やれやれと笑って、東は研究室を出た。

……私も、今日は帰ります。宅配便が届くの忘れてました」

 そして少しだけ時間を置いてもう一人、研究室を出ていく影。



「荒船」
「東さん!」

 一人で校門を出る荒船に声をかけた。東の姿を確認すると驚いた顔をしてすぐに走ってくる。その姿がどうにも可愛くて、東は本当に荒船が恋人になったような錯覚に陥った。

「別に迎えに来てもらわなくても……
「今日は実験が早く済んだから。一緒に帰ろう」

 日が短くなってきた。色の濃い夕陽の中を二人並んでゆっくりと歩く。どこへ寄るでもなく、今日あったことをとりとめもなく話すだけだ。ただし、時間を引き延ばすために少し回り道をしながら。

……で、最後に小テストやったんですよ。点数は俺の方が良かったんですけど、俺が解けなかった問題を犬飼が正解してたのがなんか腹立って」
「そういうところあるよな……あれ、そういえば犬飼は?」
「夜間任務があるからって会長と本部に行きました」

 今日の補習は色んな事情で欠席が多かった生徒のためのもので、ボーダーの隊員はもちろん組み込まれている。というか、ボーダー隊員のために行われたようなものだ。他にも入院していた生徒などが参加していた。成績優秀な蔵内や荒船は任意参加でいいと言われていたのだが、しっかり参加するあたりが彼らが優等生たる所以だろう。

「今度それ見せて。俺に付き合わせてる分、勉強見てやるから」
「ほんとですか! じゃあ明日、合同訓練が終わった後にお願いしたいんですけど」
「いいよ。ラウンジで待ってて」

 何の違和感もない、自然な会話。荒船の自宅前までそんな調子で時間は過ぎていく。人通りのほとんどない住宅地はオレンジと黒で塗り分けられていて、ノスタルジックな気分にさせる。

「わざわざ来てくれてありがとうございました。また明日」
「荒船」

 軽く頭を下げて荒船が家に入ろうとしたところを東が呼び止めた。不意に荒船を引き寄せ、頬に手を添え、顔が近付いて……触れる前に止まる。

 これが今日の作戦だ。荒船の時間をできるだけ取らせず一緒に行動している場面を見せようと考えた東は、学校の帰りに会いに行くことを提案した。もちろん、前回のデートと同様に彼女を食いつかせる餌を撒いて。

「なら、別れ際にキスするふりをしてみたらどうでしょうか」

 そう言い出したのは荒船の方だ。思い切った提案に東も驚きつつ、すぐにそれに乗った。

 その結果がこれである。実際には東と荒船の顔はしっかり離れているのだが、角度によっては完全にキスしているようにしか見えない。彼女が居る方向は確認済みなので、作戦は完璧に遂行された。
 東の顔が離れる。荒船はその数秒間なぜか息を止めて、彼女から顔が確認できた時には息を吐いてどこか色っぽい表情をしていた。今が夕方だったことも手伝って二人の顔は赤く見える。

 彼女がこの場を離れたのを確認して、荒船は東に視線で合図を送った。東も頷きを返す。標的が去ったとはいえ今ここで話し合いを始めるのはまずい。彼女はまだ近くに居るだろうし、ただでさえ家の前である。後は携帯のメッセージで連絡すると告げ、東は来た道を歩き出し、荒船は家に入っていった。



 翌朝。東がいつも通り大学の研究室に入ると、例の後輩が一人で座っていた。あと十分もすれば他の学生も来るだろうが、彼女と二人きりというのはたとえ数分間だとしても気まずい。少し憂鬱な気分になった。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」

 簡単に挨拶を済ませ、自席に座る。パソコンの電源を入れながら必要なものを準備していると、彼女が椅子をくるりと回して東の方を向いた。反射的に身構える。

「あの、東さん」
「何?」

 彼女はやけに真剣な表情だ。この様子から考えるに、東が早めに来るのを見越して待っていたのかもしれない。

「私、東さんのこと諦めます」
「!」

 予想外の宣言に、東は何も言葉が出てこなかった。そんな様子に構わず彼女は続ける。

「荒船君とちゃんと付き合ってるんだって分かりました。正直、最初は嘘じゃないかって疑ってましたけど……男の子でも高校生でも、真剣なら仕方ないですから」
「そ、そうか」
「はい!」

 彼女は言いたいことを全て言ってすっきりしたのか、晴れやかな顔で元気よく返事をして再び椅子を回した。東が計画したこととはいえ、こうもあっさりと成果が出ると拍子抜けというか、急に肩の力が抜ける。他人の心の移り様はなかなか予想しにくいものだ。

 ともあれ、これで東は彼女に追い回されずに済むのだ。ボーダー内で噂にはなってしまったが、互いに大したダメージもなく穏便に解決したと言っていいだろう。

 このことを荒船にも伝えてやらなければと東は携帯を取り出し、メッセージを起動して……止めた。

(なんでだろう……まだ言いたくないな)

 伝えてしまえば元の関係に戻ると思うと寂しくなってしまった。こんなことに巻き込んで申し訳ない、早く解放してやらなければと思っているのに、ふと悪魔が囁く。

 言わずにいれば荒船を手放さずに済むぞ、と。

 荒船に話を持ち掛けてから、気付けば一ヶ月以上が過ぎていた。



『もう一度デートしてくれないか』

 そう言われ、荒船は東と二回目のデートに来ている。今日は海沿いの水族館で待ち合わせた。
 キス未遂作戦が行われた日から二週間ほど経った。彼女は東をすっかり諦めている。荒船を恋人と認めて身を引き、今はまた新たな恋を探している最中だ。荒船にはまだそのことを伝えられていない。
 このデートは、ただ東がやりたいからやるだけ。そんな思惑などつゆ知らず荒船は了承した。

「水族館って、東さんベタですね」
「悪かったな」
「いえ、もう何年も来てなかったんで俺は逆に新鮮ですよ」

 なら良かったと笑って、入口に並んで券を買う。これくらい自分で買いますと荒船は主張したが、これも必要経費だからと東が二枚分の支払いをした。

 先へ進むとさっそく大水槽が待ち構えていた。大型のサメやエイ、ウミガメ、小魚の群れ、岩場とサンゴなど、暗い部屋の中に青く美しい世界が広がっている。上から差し込む太陽光が揺れてきらめき、海の中にいるような気分だ。もちろん実際に水に顔をつけているわけではないので荒船も平気である。

「おお、でけえ……
「去年リニューアルして作ったらしいぞ。綺麗だなあ」

 迫力と美しさに圧倒され、二人はしばらく呆然と水槽を眺めた。絶えず姿を変える景色はどれだけ見ていても飽きることがない。ほぼ水槽からの明かりしかない空間は目にも優しく、とても癒される。

「ベタとか言ってすみません……
「えっ、なんだ急に」
「水族館って良いですね。海は嫌いですけど、これは癒されます。デートの定番なのも分かるっつーか」
「まだ入ったばっかりだぞ」

 入場して三分で荒船はすっかりここが気に入った。なんなら年間パスポートでも買おうかと思うほど。それを見て東はここを選んで良かったと思う。

「ちょっと移動するか。混んできた」

 ここが一番の目玉なのだろう。広いスペースを取ってあるが、いかんせん入口のすぐ傍なのでどんどん人が入ってくる。名残惜しみながら二人は次の部屋へ向かった。
 と、東が何の前置きも無く荒船の手を引く。

「え」

 急に手を握られるのは初めてだ。今までは必ず一言くれていたのに。荒船は一瞬驚いたが、振り払うようなことはしなかった。また東の作戦だと信じて疑わない。本当は、そんな心理を利用しているだけなのに。


 熱帯魚の部屋、深海生物の部屋、クラゲだけの水槽、パッと見では何も入っていないように見えて、ものすごく小さな生き物が懸命に泳ぐ水槽など、展示は様々だ。道中に浅瀬の生き物のふれあいコーナーがあったが、そこはスルーした。子供達に交じるのが恥ずかしいとかではなく、水に濡れるリスクがある場所に近付きたくないのだ。

 更に進むと水飛沫の音と歓声が聞こえた。

「何かショーでもやってるのかな」
「あ、イルカショーみたいです」

 荒船が案内板を確認して答える。パンフレットによると今始まったばかりのようだ。楽しそうなので見て行こうという話になり、いそいそと歓声の方に向かう。

 明るいステージと広く深いプール。二人が入った瞬間に二頭のイルカが大きくジャンプして、天井から吊るされているボールを鼻先で弾いた。他の観客と共に二人も思わず拍手する。
 席は九割ほど埋まっているが、後ろの方ならまだ空いていた。中央ブロックの最後列に並んで座る。

 イルカは全部で三頭。立ち泳ぎや輪くぐりなど定番の芸はもちろん、飼育員とキャッチボールをしたり、弾いたボールをバスケットゴールにシュートするという淒技も見せた。しかし何よりも盛り上がったのは、観客にかかろうがお構いなしの派手な水飛沫である。
 水槽の淵ぎりぎりをジャンプしながら泳げば、最前列どころか三列目あたりまで水がかかる。前方席は小さな子供を連れた親子や小中学生が多く、水がかかる度に楽しそうな悲鳴と笑い声を上げていた。

……
「荒船、どうした?」
「あそこには絶対座らねえ……


 ショーが終わり、次の部屋へ移動した。ここからは哺乳類やペンギンなどのエリアらしく、水槽の前はカメラを構えた人が多く見られる。子供が公開されたアザラシと、カワウソが特に人気らしかった。
 落ち着いた雰囲気だった魚の水槽とは違ってここは明るく活気がある。その中でも東は荒船の手を握ったままだ。荒船はすっかり慣れ切ってしまって、特に違和感もないようだ。

「このエリアが最後かな」
「あ、土産屋がありますよ」

 うきうきと東の手を引いていく。その姿がやはり可愛く思えて、東はどうしようもなく自覚した。

「東さん、こういうの好きですか?」
「ああ、好きだよ」

 東は言ってからはっとした。荒船が尋ねているのはまったく別の話だ。その手にイルカのキーホルダーをぶら下げている。鼻先にはボール、尾びれには水飛沫が付いているので、ショーで見たイルカがモデルなのだろう。全てが銀色の金属製で重みがありそうだ。

「じゃあこれにしよう」

 そう言うと荒船は東の手を離してレジへ向かった。東の理解が遅れたが、今持っていたキーホルダーを買いに行ったようだ。そこに東の意見は必要だったのかと首を傾げながらレジの出口で荒船を待つ。

 会計を終えた荒船は、手に入れた物をそのまま東に手渡した。

「はい、どうぞ」
「え」
「流石にこれだけ色々してもらって何も返さないのは悪いんで。東さんの車の鍵、何も付いてなかったの思い出したんですよね」

 大した物じゃないですけど、と荒船は頭を搔く。荒船にとっては大した物でなくても、東にとっては宝物だ。好きになった相手からプレゼントを貰うのはこんなに嬉しいことだったのかと、目から鱗が落ちる気分だった。

「ありがとう。大事に使うよ」

 東は今日、車で来なかったことを大いに後悔した。



 今日も家の前まで東が送っていった。荒船は一人でも大丈夫ですよと言うが、もう少し話がしたいからと東は言う。荒船は知らないのだ。東が今かけている言葉が、全て本心から出ているものだということを。

「じゃあ、また何かあったら連絡してくださいね」

 荒船が一礼して家に入ろうとするのを、東の手が止めた。今日は何の打ち合わせもしていない。だからこれは荒船の想定外で起きたことだった。
 以前されたように顔を近付けられる。だが荒船が思っていたような距離では止まらなかった。本当にキスされると思って荒船がきつく目を閉じる。が、東の親指が二人の間に挟まって終わった。荒船は焦りを隠しきれない顔でそっと目を開け、恨みがましく東を見る。

……やるなら、先に言ってください」
……すまん」

 東が離れて荒船に背を向ける。またなと言って駅の方へ歩いて行った。荒船にはその背中が普段と違って寂しげな気がしたのだが、すぐに角を曲がって見えなくなる。

(それにしても今日はあんまり尾けられてる感じしなかったんだけど……気のせいか?)



 それから数日の間、東は罪悪感に苛まれていた。
 荒船と過ごすのはやはりとても楽しい。それを再確認したが、東は彼のことを騙している。もういい加減、自由にしてやらなければならない。ロスタイムを長く取りすぎてしまった。

 先輩と後輩に戻れば話す機会もぐっと減るだろう。噂によると、荒船は数ヶ月もすれば狙撃手から別のポジションに転向してしまうかもしれないらしい。そうなれば会える回数でさえ格段に減る。

(それは……嫌だな……

 我儘だという自覚はある。今回のことを機に少しは仲良くなれただろうが、それでも同級生のような付き合いはできないし、そもそもそんな付き合い方ではもう満足できそうにない。
 だがそれを荒船に伝えたとして、受け入れてもらえるだろうか? 今も限られた時間の中で渋々付き合ってくれているに過ぎないのに、これを続けてくれと言って頷いてもらえる場面など東にはとても想像できなかった。

 やはり、せめて荒船の足枷にならないよう別れるのが筋だ。大人の我儘に子供を付き合わせてはいけないし、荒船を騙していることに耐えられそうもない。
 自分の胸の声は聞かなかったふりをして、この流れを受け入れよう。東はそう心に決め、荒船に『話がある』とメッセージを送ったのだった。



 任務が終わった後の夜、東は荒船を隊室に呼び出した。本当はどこか離れた場所にしたかったのだが、夜遅くなってしまったのでそれができなかったのだ。
 東が事の顛末を話すと良かったですねと荒船が笑う。それがまた東の心に刺さった。

「もっと長引くかと思いましたけど、あっさり引いてくれて良かったじゃないですか。これで安心して大学を歩けますね」
「ああ。色々と協力してくれてありがとな。本当に助かった」

 これは心からの感謝だ。東一人では彼女を振り切れなかった。荒船が協力してくれなければ東は今でも付きまとわれていただろうし、何もかも諦めて彼女と付き合っていたかもしれない。それはそれでとても面倒なこといなっていただろう。

「じゃ、これで恋人のフリも終わりってことですね」
……
「東さん?」

 言いたいことは山とある。だが言葉にするものは選ばなければ。

「荒船、その……ごめんな。面倒なことに巻き込んで」

 先輩の顔を、大人の顔を崩すな。東はそう言い聞かせて、本当の言葉を押さえつけている。

「まったくですよ。でも、意外と楽しかったです。東さんとこんなに一緒に行動したことなかったし」
「そうか。そう言ってもらえると俺も少しは救われる」

 言ってはいけない。荒船は茶番に付き合ってくれただけで、東を恋愛対象として見てはいないのだ。二ヶ月間も一番近くで見てきたのだから分かる。荒船にとって東はただの先輩に過ぎない。前よりも少し付き合いが深くなっただけ。そう自分に暗示をかけていたのだが。

「二ヶ月くらい一緒に居たから、なんか寂しいですね」

(そんなことを言われたら)

 無意識に腕が伸びて、目の前にあった荒船の手首を掴んでいた。荒船の驚いた顔で東は我に返る。だがもう遅い。湧き上がるものを止められはしない。荒船がほんのわずかな好意を見せただけで、東の仮面は崩れ去った。

「俺と、付き合ってくれないか」

 二ヶ月前と同じ台詞だが、そこに含まれる意味は全く違う。荒船もそれはもちろん分かっていて。

……へ?」
「お前との恋人ごっこが思った以上に楽しくて、本当にお前が恋人だったらいいのにって考えるようになってた。彼女なんて必要ないと思ってたけど、お前と別れるのはすごく……嫌なんだ」

 ダメ元の告白だ。しかし実体験があるからこその重い言葉だった。今ここで言わなければ、ずっと東の中で重石になり続けていたかもしれないほど。それでいいと思っていたのに、もう後戻りできないところまで来てしまった。
 決死の言葉を聞いた荒船はしばらく固まっていて、その十秒間ほどが東には数時間にも感じられた。

「男が好きなんですか?」
……そうじゃないと思ってたんだが、そうだったのかもしれないな」

 返ってきた質問が意外で、東の頭が上手く回らない。こんなことは初めてだった。
 荒船の顔は見れない。東は掴んだ腕を見つめたまま、じっと次の言葉を待つ。告白とはこんなに緊張するものなのか。東は自分から告白したことがないので知らなかった。鼓動が速くなって、全身が固くなる。

「あ……
「あ?」

 声に反応して視線を上げる。荒船は帽子を深く下げ、東の視点からは表情がよく分からない。

「東さんに、キスされそうになったこと、あったじゃないですか」
「あ、ああ」

 キスするふりをしたのは二回だが、おそらく二回目の話だ。思い出すだけでも鳥肌が立った。今思えば、あの時はよく寸前で思い止まったものだ。

「あの時、別にしてくれても良かったのにって思ったんです」
「!」
「これって、そういうことなんでしょうか?」

 荒船が東を見上げる。帽子の下には戸惑いを隠しきれない子供の顔があった。緊張なのか照れなのか分からないが、顔が赤い。
 東の心が傾いて、完全に落ちる音がした。この子が欲しい。偽りでも打算でもなく、愛情でこの子を繋ぎ留めたいと思う。東は掴んだままの腕を引き寄せて荒船の帽子を奪った。

「俺に答えを求めると、俺の都合のいいように解釈するぞ」

 この日、確かに二人の恋人ごっこは終了した。




「結局、噂が本当になっちまいましたね」
「慌てて否定しなくてよかったな」

 後日、二人は休みを合わせてデートに出ていた。昼食を摂って図書館で勉強をして、これから買い物をしてから帰る予定だ。大した移動距離でもないのに東が車を出した理由は言うまでもない。ちなみに、二人とも今では自然に手を繋げるようになっている。
 ボーダー本部内で立った噂はもはや事実として浸透し、荒船が東と二人で居ても疑問を持つ者はいなくなった。嘘から出た実というか、結果オーライである。

 途中に立ち寄った家電量販店で、ドラム型の洗濯機が東の目に飛び込んできた。今使っているものは大学入学時に買ったので、そろそろ買い換え時かもしれない。いや、どうせなら荒船が大学に入るタイミングで一緒に住めばいいのでは。そのためには今から家に呼んで慣れさせておく必要がある。
 東の頭の中でそんな思考回路が組まれていたが、ふと我に返った。目の前の荒船はまだ高校生だ。

「俺、本当に捕まるかも」
「ダメですよ。捕まったら会えなくなりますから」

 東の考えなどまだ知らない荒船は適当に笑って流した。計画を知った時、荒船はどんな顔をするだろうか。今の東は浮かれているので、きっと驚きながらも受け入れてくれるだろうと思っている。

 ただし、それが実現するのはまだ何ヶ月も先の話。


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