@saeki_f
地面を凍らせていた雪は解けきり、芽吹いた緑が大きくなり始める季節がやってきた。空気は温かく、街行く人は皆上機嫌で歩く。
そんな麗らかな日和、龍ノ介らは英国警視庁で暇を持て余していた。ホームズがグレグソン刑事に用があるからと立ち寄ったのだが、今は捜査に出ていて三十分ほどで戻ってくるそうだ。約束していたわけでもないのだから仕方がない。それならばと署内の空き部屋で待たせてもらっているのだが、待ち始めて二分で最年長の男が音を上げた。
「まだ帰ってこないのかい!」
「いや、三十分ほどかかると言われたでしょう」
捕らえた犯人を一時的に閉じ込めておくための部屋なのか、ここには窓すらない。机と椅子と、せいぜい屑籠があるだけの狭い部屋。確かに退屈である。
「キミ、新聞でも持ってきてくれないか」
「分かりました」
若い職員に声をかけると、すぐに今日の新聞を二冊ほど持ってきてくれた。これでしばらく大人しくなるかと思われたホームズだが、それらを広げるなりすぐに閉じて、この世の終わりのような顔で項垂れる。
「えっ、どうしたんですか」
「これはもう読んだ……」
面白い事件はないかと日々新聞を眺めている探偵にとって、何社分か買い集めるのは当然である。今回渡された新聞は、今朝読んだものとたまたま出版社が被っていたのだった。
ホームズが職員に返そうとした時、寿沙都が間に入る。
「お待ちください。必要のない新聞でしたら、私が頂いてもよろしいでしょうか」
「ええ、構いませんよ」
そろそろ夕刊が届いてもいい時間だ。朝刊はもう要らないのだろう。読み始めるのかと思いきや、机の上に大きく広げて一枚を剥がし取る。
「どうするんですか? これ」
「ふふ、成歩堂さまには懐かしいかもしれませんね」
寿沙都は新聞紙を折り始めた。次第に形を成していくそれを静かに眺める。どんよりしていたホームズもいつの間にか起き上がり、興味深そうに見入っていた。
そしてものの数分で、飾りのついた三角形が出来上がる。
「ああ、確かに懐かしいですね」
それは子供の頭くらいならちょうど収まりそうな大きさの兜だった。龍ノ介も日本の新聞でよく作ったものだ。
「なるほどくん、すさとちゃん、これなあに?」
「兜でございます。今日は端午の節句ですから」
「そういえば、もう五月ですか」
「タンゴ……?」
ホームズとアイリスが同時に首を傾げた。博識な親子といえど、島国の独特な文化までは知らないようだ。
「日本では、五月五日に男児の健康と成長を願って兜や甲冑を飾る風習があるのです。こちらには日本の兜などございませんから、折り紙で」
「へえ、キミ達は紙で何でも作っちまうなあ」
ただの四角い紙が立体的な帽子のようになって、ホームズも感心していた。西洋には紙で遊ぶ文化があまりないらしい。
「なるほどくんも作れる?」
「作れるよ。小学校で習ったからね」
小学校では折り紙の授業があるし、そうでなくても日本人の子供ならば誰でも一度は教えてもらうものだ。随分前のことではあるが、おそらく忘れてはいないだろう。先ほどの寿沙都の様子を思い出しながら、龍ノ介は新聞紙をもう一枚剥がし取った。
「……あれ?」
意気揚々と折り始めたのは良かったが、完成までやけに時間がかかっている。口には出さなくても、「途中から分からなくなりました」と顔に書いてある。
「あの、成歩堂さま。よろしければ私が……」
「いえ、寿沙都さんに手伝っていただくわけにはいきません!」
(妙なところで頑固でございますね……)
できると言った手前、引き下がるわけにはいかない。習ったのは確かなのだ。折り方が思い出せないだけ。実際にやってみれば思い出せると踏んでいたが、現実はそう上手くはいかないらしい。
「確かここはこう……山折りで……」
(そこは谷折りでございます……)
集中した龍ノ介は、頭に兜を乗せられても気付かない。寿沙都は口を挟みたいのをぐっと我慢し、ホームズとアイリスは龍ノ介の応援に回った。
ああでもないこうでもないと盛り上がっているところ、不意に入口の扉が開く。
「騒がしいと思ったら……何かの儀式か?」
入ってきたのはバンジークスだった。中に居る面々とその様子を見て怪訝な顔をしている。
儀式と言われるのも無理はない。今彼に見えているのは、頭に珍妙な飾りを乗せ、新聞を読むでもなく色んな方向に折り曲げている日本人の姿。英国人の感覚では何をしているのか分かるはずもない。
「いや、違います……」
龍ノ介はそこで初めて頭に兜が乗っていることに気付いた。
バンジークスもグレグソンに会いに来たらしい。順番に待たせるためにこの部屋へ案内されたのだろう。
「グレグソンくんなら、あと十五分くらいで戻ってくるの」
「そうか。では」
くるりと振り返って部屋を出ようとしたが、ホームズが素早く扉の前に立つ。バンジークスがあからさまに嫌な顔をした。
「キミもここで待てばいいじゃないか」
「断る。なぜ貴公らと同じ部屋で待たねばならぬのだ」
「まあまあ。もう少しでミスター・ナルホドーの兜が完成しそうなんだ」
「は……?」
訳の分からない理屈を押し通され、結局バンジークスも端の椅子に腰を下ろす。手持ち無沙汰で新聞の一つでも読みたいだろうが、残念ながら新聞は四人の輪の中心にあるのだった。
それから約十分、龍ノ介の朧げな記憶と寿沙都のさりげない手助けにより、些か余計な折り目の多い兜が完成した。
「で、できた!」
「やったね! なるほどくん!」
「一時はどうなるかと思ったよ」
「成歩堂さまならできると信じておりました!」
折り紙ひとつ出来ただけで勝訴のごとき祝い様である。
輪の外に居るバンジークスも流石にその騒ぎは無視できなかったのか、横目で見ながら口を挟んだ。
「……で、それは何だ」
必死で作っていたのは分かったが、何のためにこんなことをしているのかバンジークスは未だ理解に苦しんでいた。話の流れを知らないのだから当然である。どうしても知りたいというほどでもないが、よく分からないことで盛り上がっているのを見るのはどこか居心地が悪い。
「兜です。日本では五月五日によく作るのですよ」
「……」
龍ノ介が説明を簡略化したせいでバンジークスの描く日本像が間違ったものになってしまったが、ひとまずそれは置いておく。
彼らが一枚の紙からこの兜を作る工程を、バンジークスは横目に見ていた。何をやっているのか分からなくても、何かが出来上がっていく様子は面白いものだ。
精密さや美しさはともかく、手に取って少々触ってみても簡単には崩れない構造になっている。手先の器用なバンジークスにとってもなかなか興味深い技術であった。
頑張って作ったものの、龍ノ介は兜を持て余していた。捨てて帰ればいいのだろうが、なんとなくそれも忍びない。そう思っていたところにちょうどバンジークスが話題を振ってきたものだから。
「そうだ、これは検事に差し上げます」
「! いらぬ!」
「まあそう仰らず」
龍ノ介が兜を付き返そうとするバンジークスから逃げ出したところで、扉を叩く音がした。職員が明るい顔で入ってくる。
「皆さん、お待たせしました。グレグソン刑事が戻って来られたので順番にご案内します」
全員、そこでやっと本題を思い出した。暇潰しにしては意外と楽しい時間を過ごせたのではないだろうか。
ホームズが立ち上がり、職員の後へ続く。
「それじゃあ行こうか。またね、死神クン」
「お先に失礼します」
「ま、待て! これを押し付けていくな!」
バンジークスの抗議も空しく、四人はにこやかに出て行ってしまった。一人部屋に残され、手には折り紙の兜。行き場のない手を下ろし、それを屑籠に捨てようとして……止めた。
(捨てづらい……)
人が手作りしたものは、どうしてこうも捨てにくいのか。たかだか一枚の朝刊。折ってさえいなければ何も意識せず屑籠に入れてしまえるのに。
仕方なく、バンジークスはそれを一度懐へ収めた。
(……時間のある時にでも分解してみるか)
実のところ、どのような構造になっているのか気にはなっていた。どうせいずれは捨てることになるのならば、分解してみてからでも良いだろう。
この日以降、バンジークス邸に紙の兜がいくつも転がるようになることを龍ノ介は知らない。