@saeki_f
珍しい事件があると主席判事から話を持ち掛けられたのが三日前の話。後学のために傍聴を勧められ、龍ノ介は中央刑事裁判所の法廷を訪れていた。寿沙都は先日帰国してしまったばかり。一人でこの裁判所へ来たのは今回が初めてだ。
龍ノ介が入った時、既に傍聴席はほぼ満席であった。じきに審理が始まってしまうのであまり空席を探す余裕はない。ぐるりと辺りを見回すと、一部だけ不自然に席が空いている部分があった。誰かが離席中なのかと思ったが、近付いてみるとそうではないと分かる。
空いた席の中心に座る男。それは龍ノ介もよく知る後ろ姿だった。
「バンジークス検事。お隣、よろしいですか」
中央刑事裁判所の死神と呼ばれる男は、傍聴席の狭い椅子に体を納めて腕を組んでいた。誰もが彼を恐れて隣に座ろうとしないのだ。
龍ノ介が声をかけると、バンジークスは一瞥してすぐに視線を法廷に戻す。
「構わぬ」
返事は素っ気ないが許可は出た。龍ノ介はバンジークスの隣に座り、椅子に背を預ける。
二人の周囲がにわかにざわつきだした。
(あの外国人、死神を知らないのか)
(命知らずな……)
(普通の者は彼の隣に座るくらいなら傍聴を諦めるだろうに)
本人らには聞こえないつもりのようだが、しっかり耳に届いている。かといってバンジークスも龍ノ介も気にしてはいない。
「検事もヴォルテックス卿に勧められたのですか?」
「いや、私は自主的に来た。卿が傍聴を勧めていたのか?」
「ええ。後学のためにと」
裁判の時よりも気安く話をしていると、裁判長と陪審員達が入廷する。木槌が鳴り、厳粛な空気と共に開廷が告げられた。
まずは担当検事による冒頭陳述が始まる。龍ノ介はヴォルテックスからろくな説明も受けないまま傍聴に来たので、裁判の内容を何も知らない。
被告は殺人罪に問われている。被害者は刃物で刺され、そのすぐ傍で倒れていた被告が駆け付けた警官によって逮捕された。被告は犯行が行われた頃のことをよく覚えておらず、凶器は見つかっていない。
担当検事の話をまとめて手記に書いていると、バンジークスから「何の情報も無しに来たのか」と溜息を吐かれた。
「本人が覚えていなくて凶器も見つかっていないのに、よく逮捕しましたね」
「話は最後まで聞くものだ」
検事は動機の話に移る。被告は被害者に借金をしており、事件当日はその返済日だった。しかし金の用立てができなかったために延期を申し出るために被害者の下へ行った。検事の言い分では、被害者がそれを断ったために被告が殺害に及んだとのことだ。
「なんだか、ところどころ似ていますね。ぼくが最後に担当した事件と」
「だから卿が勧めたのだろう」
無論、あれとこれとは別の話だ。この事件は本当に被告が犯人なのかもしれないし、裁判を行う間に何から何まで真実が全て明らかになるとは限らない。
弁護士の反論が始まると龍ノ介の手が止まった。議論はある程度情報がまとまってから書き留めるつもりだ。
すると不意にバンジークスの手が龍ノ介の手に重なる。
「!」
バンジークスは法廷に目を向けたままだ。あまりに堂々とした行動で、周りの人が気付く様子はない。人の多い中で思い切り振り解くわけにもいかず、龍ノ介はそっと逃げようとする。が、無駄だった。すぐにまた捕らわれて今度は逃げられないように指を絡められる。
「……あの」
まるで裁判に集中できないので、流石に龍ノ介も小さく声を上げた。
「静かに」
バンジークスは変わらず龍ノ介の方を見ない。誰のせいで口を開く羽目になっているのだと軽く項垂れた。
龍ノ介とバンジークスは恋人同士である。無論、秘密の関係だ。他人の目がある外で触れ合うなどもっての外だったはずなのだが。
バンジークスの指先が龍ノ介の指の付け根を擦る。龍ノ介の背筋にぴりぴりと弱い電気が走った。
「っ!」
強い刺激ではなかった。しかし驚いてしまって裁判の声はもう聞こえない。席で暴れるわけにもいかないので龍ノ介はただじっと耐える。それをいいことにバンジークスの手は更にエスカレートしていった。
指の間から侵入し、掌をくすぐる。根元から先の方に向かってゆっくりとなぞる。手袋越しに温い体温が伝わってきて、妙な気分にさせられた。
「だめ、ですって……!」
証人が話している。当日の早朝に現場から立ち去る被告を見たとか、酒の匂いがしたとか言っているが、今の龍ノ介は情報を頭の中でまとめられずにばらばらと崩れていくばかり。
やられてばかりというのも癪で、龍ノ介は仕返しとばかりに好き放題する大きな手を捕らえた。あまり自由の利かない指で爪の付け根あたりを軽く引っかく。隣からふっと鼻で笑うような音が聞こえた。その余裕が腹立たしい。
バンジークスは龍ノ介の右手全体を包み込むように握った後、手首の方まで移動する。袖の隙間から指を滑り込ませ、皮膚の薄い場所をくすぐると、龍ノ介は思わず前の座席を蹴り上げてしまいそうになった。弱い部分は全て知られている。それをよりにもよって今ここで思い知らされるとは。
基本的に優しく紳士的な恋人だが、稀に見せる意地悪な一面には困りものである。
弱い快楽に耐えるのはもどかしく、ほんの数分が何時間にも感じられる。この手はいつになったら解放されるのか。そう思うと早く裁判が終わらないかなどと考えてしまう。傍聴席の様子を見るにどうやら弁護側の雲行きが怪しくなり始めたらしく、それほど先は長くないようだった。
結局、裁判は被告の有罪ということで完結した。龍ノ介からすれば気付いたら終わっていたという感じで、傍聴に来た意味がまるでない。もっと事件の詳細を聞いて自分で検討してみたかったのだが。
「検事のせいで何も話が入ってきませんでした」
傍聴席を出て、むすっとした顔で龍ノ介が言った。勉強のために来たはずなのに、何の成果も得られなかったのだから当然だ。
死神検事と並んで裁判所内を歩く龍ノ介を見て周囲の人間はまたひそひそとあることないことを話し始めるが、そんなものはもはや二人の耳に届かない。
「集中力の問題では?」
「よくもまあそんな白々しく……」
しれっとした態度に龍ノ介の機嫌が一層悪くなる。少しやり過ぎたと思ったのか、バンジークスが軽く一礼した。
「失礼。しかし思ったよりもつまらぬ裁判であったのでな」
「え、そうでしたか?」
思い切り傍聴の邪魔をされたので龍ノ介にはその判断すらできないのだが。バンジークスは途中から飽きてきて、そのせいであのような暴挙に出たらしい。
「被告が犯人なのは明らかだ。半分も聞けば後はそれを裏付けるだけであった。期待したほどではない」
弁護士も最初は奮闘したが、途中からはいかに罪を軽くするかに方向転換したという。被告も少しだけ当時の状況を思い出し、判決を素直に受け入れていた。
例えば龍ノ介が被告を弁護していたら結果は変わったのだろうかと考える。どれだけ信じていたところで、本人が本当に罪を犯したことが真実ならば無罪など到底受け入れられない。龍ノ介はそれをよくよく知っている。自分ならばどうするか。もう少し深く考えたいところだった。
難しい顔で考え込んでいると、バンジークスが龍ノ介の肩に手を置いた。
「この後が空いているなら我が家にて検討でもするか。アフタヌーンティーも用意しよう」
ちらりと意味深な視線が送られる。不機嫌だった龍ノ介の心がぐらりと傾いた。
「……食べ物で釣るなんてずるいですよ」
どちらの話も魅力的だ。ちょうど小腹も空いてきた。その上あの場であんなことをされて、龍ノ介の中には燻るものが残っている。お茶だけで済むはずがない。こういった誘い方をされるときはいつもそうだ。龍ノ介も毎回ほいほいとそれに乗ってしまうのだが。
誘われたのなら仕方がない。バンジークスの馬車に乗り込む前に、龍ノ介は今夜戻らないことをベーカー街に連絡しに行くのだった。