@saeki_f
賞味期限(バレンタイン)
『東さん、チョコ欲しいですか?』
年下の恋人からの電話に出て、東が最初に聞いたのがそれだった。急になんだと思ったがすぐに理解する。もうすぐバレンタインだ。しかも、付き合ってから初めての。
要不要を聞かれるというのもおかしな話だが、荒船なりに東の意向に沿おうとしたのだろう。合理的というか、実に荒船らしい。
「ああ。お前からのは欲しい」
『じゃあ好みとかあります?』
荒船の声の向こうに雑踏が聞こえる。車の音は無いので室内だろう。そしてこのタイミングの電話。荒船は今、チョコレートを買える状態にあるのではないだろうか。
「じゃあ、苦くないやつ」
『えっ?』
驚いた声が返ってきて東は笑う。どうやらビターチョコレートを買うところだったようだ。
「意外か?」
『まあ、ちょっとだけ……苦くないやつですね』
了解、と言って荒船は通話を切った。
当日、狙撃手合同訓練の後に合流して東のアパートへ帰る。東は麻雀の誘いを断ったことで男三名から非難を浴びたが何のダメージも無い。好きな相手からチョコレートを貰えると分かっているだけでこんなにも気分が浮かれるものか。
家に着いたらまずコーヒーを淹れる。いつものインスタントではなく、ゆっくり楽しむために買っておいた豆だ。
「でもやっぱ意外でした。甘くないやつって言われると思ってたんで」
そう言いながら荒船が紙袋から箱を取り出した。長細くシンプルな黄土色の箱だ。
「コーヒーと食べるお菓子は甘い方がいいんだ」
淹れたてのコーヒーをマグカップに注いで机に並べる。が、東はそのまま着席せずに自分のデスクへ向かった。
「俺も買ってきたんだ。荒船の分」
似たような紙袋から平たい箱を取り出した。こちらは緑色で重みがある。昨日の夕方、最も混むタイミングになってしまったがなんとか買ってきたのだ。
「流石ですね」
そう言ってにやりと笑うのを見て、あの電話が東にバレンタインの存在を思い出させるためのものだったと気付く。本当によく出来た子供だ。
準備が整ったので早速二人で箱を開けた。東の分はチョコレートコーティングのサブレでジャムやクリームを挟んだものが六個並んでいる。荒船の方は濃さの違う四色のプラリネが四列並んでいる。カカオとナッツの香りがふわりと昇ってきた。
「うまそうだな。何が挟んであるんだ?」
「順番は忘れたんですけど、パッションフルーツの何かとかバニラクリームとか……食べたら分かりますよ」
三分の一で説明を諦めた荒船は既に一つ目に手を伸ばしていた。二番目に色の濃いビタースイートだ。意外と大きな一粒を一口で食べる。
「なんか……高級な味がする」
「はっはっは、普段こんな良いチョコ食べないもんな」
それの一粒あたりの値段を聞いたら説教されてしまうだろうから言わないが、東が選ぶときに一瞬躊躇う程度の値段はした。焼き肉ならともかく、チョコレートにあんな金額を使ったのは初めてである。
「あー、良い香りが残ってる」
珍しく気の抜けた笑顔でコーヒーとの相性を楽しむ様子を見ると、やはり買ってよかったという気分になるのだが。
東も端の一つを手に取るが、なんだか勿体ない気がして半分だけ齧った。
「どうですか?」
荒船はわくわく顔で東の顔を覗き込む。その期待に沿いたいところだが。
「……高級な味がする」
「人の感想パクらないでくださいよ」
そもそも普段からチョコレートをじっくり味わうことがないので、とても良い素材が使われていることくらいしか判別できないのだ。
東は残りの半分も口に入れて、荒船と同じように残り香とコーヒーを楽しんだ。
「今日はこれ食べ切れそうにないですね」
全種類一粒ずつ食べた荒船が呟く。ずっしりとしていたし、一日でひと箱は食べ過ぎだ。
「持って帰るか? ここに置いといてもいいぞ」
「なんで貰ったもんを……」
ここに置いて帰るのか。その意味を考えて言葉を切った。賞味期限は一ヶ月後だ。
「……そうですね、置いて帰ります。勝手に食べちゃダメですよ」
東は頷きながら満足そうに笑うのだった。
夜うらら(春を感じるあずあら)
夜の帰路に風が吹いた。それに乗せられた薄紅の花弁が荒船の視界に入ってくる。
(あー……そういえば行ってねえな、花見)
顔を上げた先には公園に植えられた大きな桜の木。街灯に照らされ、まるで花が光っているかのようだ。それを見て、約束とも言えない程度の会話を思い出した。
あれは二週間ほど前、本部から東と一緒に帰っていた時のことだ。
「もう開花したのか」
ぽつりと呟いた東の声に荒船が反応した。視線の先は家電屋のテレビ、開花前線の北上を知らせるニュース画面だった。
「東さん、桜が咲いたとか気にするタイプだったんですか」
「俺のこと情緒が欠如した人間だと思ってない?」
概ね間違っていない。季節など着る服の違いでしか感じないタイプだと認識していたが、流石にそこまで機械じみてはいなかったようだ。
「花見したいなあと思ってな」
「すればいいじゃないですか。三門なら人が居ない場所も多いですし」
「荒船と一緒にだよ」
あー、と荒船が納得したような声を上げた。東はもとより荒船も大学に入ったばかりで忙しい上、シフトも噛み合わないのでしばらくデートはできないなと話していたところだ。花が咲いている内に時間が取れればいいのだが。
「まあ、行けたらってことで」
その後は別の話題になり、花見の話題は流れたまま二週間が経過した。忙しくて忘れている内に桜は散り始めている。
(今年は仕方ねえかな)
そうは思いつつ、すぐにこの場を離れるのはどこか名残惜しくて公園に足を向けた。
ベンチに座って桜を眺める。上着がなくても過ごしやすくなった気温に穏やかな風が心地良い。ひらひらと落ちる花弁をぼんやり見ているだけでも穏やかな気分になった。宴会ではないが、これも立派な花見だ。
ここに東が居たらと、確かに思う。あの優しい声を聞きたくなって、荒船は携帯を取り出した。
『もしもし、どうした?』
「すみません。特にこれといった用事じゃなくて……今忙しかったですか」
『いや、大丈夫』
今までこんな電話をかけたことはなかった。声が聞けて既に満足したが、これだけで切ってしまうのも勿体ない。
「東さん、花見したいって言ってたじゃないですか」
『ああ、そういえば』
「もう散り始めてたから、いま一人で花見してるんです」
『うん』
とりとめのない話を静かに聞いてくれる。しばらく二人の時間が取れていなかったので余計に恋しさが募った。
「東さんが居たらいいのにって思って、電話かけたら」
『うん』
「なんか顔も見たくなってきました」
ただ思っていることをつらつらと話していたらつい本音が零れた。言ってしまってから言うんじゃなかったと項垂れる。口に出したらもっと会いたくなった。
「じゃあ呼んでくれればよかったのに」
音声はなぜかスピーカーからではなく後ろから聞こえた。携帯を見ると通話が切れている。まさかと思って振り向くと、本当に東が立っていた。
「え⁉」
東はそのまま荒船の方に歩いてベンチに腰を下ろした。幻の類ではないようだ。
「……本当に偶然、この近くに来てたんだ。荒船の家が近いなって思ってたら電話がきて、花見してるって言うから」
荒船の家の近くで桜の木があるのはこの公園だけだと思って急いで来たらしい。荒船は驚きで固まるばかりだ。
「こんなことあるのかよ……」
「あっただろ」
そう言って荒船の手を握った。歩いてきた分だけ今は東の方が体温が高い。その熱に溶かされて荒船も強く手を握り返した。
酒も団子もないが、一番欲しいものは隣にある。人通りの少ない夜の公演で、二人は短い花見を楽しんだ。
見ていたいから(デート)
「東さん、今度のデートで行きたい所があるんですけど」
荒船から届いたメッセージに心踊らせながら集合したのは、市立の美術館だった。
「すみません、どうしてもテスト前に行っとかないといけなくて」
授業でこの美術館の見学があったのだが、荒船だけ任務で行けなかった。しかし中間テストで必ず出すから休日に行ってこいと先生から入場券と課題を渡され、やむを得ず東とデートする予定だった日にねじ込んだのだ。
「いや、誘ってくれて嬉しいよ。キャンセルされるよりずっと良い」
東は笑ってくれたが荒船は申し訳なさでいっぱいだ。というのも、課題に時間がかかりそうなのである。
一つは展示作品から絵画を三点選び、そこに使われている技法を分析するというもの。そしてもう一つは立体作品のデッサンだった。他の生徒も半日ほどかけて行った課題なので、必然的にデート時間も半減する。荒船の足取りは重かった。
「ほら、早く行かないと自由時間も無くなるぞ」
「……そうですね」
早く済めばそれだけ東との時間が取れる。そう考えるようにして渋々ながら入館した。
一つ目の課題はあっさり片付いた。作品の説明に助けられながら三点全てを埋め、写真を撮り終えたら早々に立体の展示室に移る。対象はなんでもいいと言われていたので、適度な大きさの木のオブジェを選んだ。質感をあまり気にしなくていい題材だ。
荒船は静かに鉛筆を動かす。東は隣の部屋を見たりとしばらくうろついていたのだが、やがて飽きて荒船の隣に落ち着いた。何もしなくても結局そこが一番落ち着くのだ。
「結構上手いじゃないか」
「そうですか?」
時折手を止めない程度の短い会話を挟む。荒船はまだ申し訳なく思っていたが、東は別に退屈などしていなかった。恋人の高校生らしい部分をこんなにもじっくりと観察できる機会などなかなか無い。むしろずっと見ていたいくらいだとさえ思っている。
荒船の目はオブジェとクロッキー帳を往復する。真剣な姿がとても凛々しくてつい手を出したくなるが、今は東が入り込む余地がない。荒船も早く終わらせたくて必死なのだ。東との時間のために集中しているのだから、邪魔をしては本末転倒だ。
しかしデッサンに集中して構ってもらえない寂しさから、東の中にちょっとした悪戯心が生まれた。
溜息を吐くと同時にクロッキー帳が閉じられる。荒船は顔を上げて大きく伸びをした。
「お待たせしました。行きましょう」
「もういいのか?」
「はい。写真も撮りましたし、後は家でもできます」
荒船は立ち上がって荷物を片付ける。東もそれに続き、もう用はないとばかりにあっさりと美術館を後にした。
外に出ると十三時を回っていた。開館時間に来たので、三時間ほどで課題を終わらせたことになる。まあまあの好タイムだろう。
「腹減りましたよね。待たせちまったんで、昼は東さんの好きなもの食べましょう」
奢りますと言わないあたりが東という男を心得ている。東が奢る意志を見せると、なぜか東が勝手に会計を済ませてしまったという経験が何度もあるのだ。
「じゃあ天蕎麦がいいな。来る時に蕎麦屋あったし」
「いいですね。行きましょう」
三時間も潰してしまった分、この後はどんな我儘でも聞くつもりでいた。
意気揚々と歩き出す荒船は知らない。実は東が、美術館の中の荒船の写真を何枚も写真に収めていたことを。
ハート(ヤキモチ)
今日は東がやたらとくっついてくる。普段もそうだが、今日は特に酷い。何かあったのかと聞くと、予想外の言葉が返ってきた。
「今日の訓練で心臓撃たれてただろ」
「? はあ」
狙撃手だけで行った訓練の話だ。隠匿と狙撃を繰り返し、撃たれるとマーカーが残るというもの。確かに今日、荒船は正面から胸を撃たれた。トリオン体だから正確には心臓ではないが、ニュアンスは分かる。あの訓練でなければ即緊急脱出していただろう。
「あれ、誰の?」
後ろから抱え込まれているので低い声が耳元で聞こえる。あまり機嫌は良くないようだ。怒らせるようなことはしていないはずだが。
「確か……佐鳥だったかな」
「ふーん、佐鳥か」
東は一層声を低くして、荒船の肩に顔を埋めた。これは苛立ちを抑えるために甘えるときの行動だ。一体何が駄目なのだろう。出した名前が良くなかったのか。
「なんだよ、俺が胸撃たれたのがそんなに気に入らねえのか?」
訓練中でも任務中でもトリオン体が傷つくのは当然だ。荒船としては、まさかそんなはずがないと言外に伝えたつもりだったのだが。
「うん、そうだよ」
しばらく開いた口が塞がらなかった。荒船が友達と喋ったり遊んだりするのは気にしないくせに、誰かに心臓を狙われるのは嫌だと言う。ツボの分からない男だとは思っていたが、改めて認識させられた。
「随分変わったヤキモチだな」
「そうかな」
そこではたと気付く。命中と被弾ならスコア表を見れば分かるが、位置までは本人を観察しないと確認できない。
「つーか、俺がどこ撃たれたとかいちいち確認してんのかよ」
「……バレたか」
ふふ、と笑うものだから首筋がくすぐったい。荒船はどうかと思ったが、対象が自分だけならと特に咎めはしない。もしその視線を他の誰かにも向けていたら、それこそ荒船も妬いてしまっていたかもしれないが。
「お前が誰にどこを撃たれたか、すごく気になる。特に心臓は特別」
そう言って東は手を滑らせ、荒船の胸に乗せた。今は生身だ。思わず息を呑む。
「荒船のハートは俺のだから」
「……おい、からかってんな?」
ここまでくると流石に分かる。東の機嫌はすっかり治ったらしく、荒船の背中で楽しそうに笑っていた。先程までの緊張は吹き飛び、接触はいつも通りのじゃれ合いに変わる。
訓練で手を抜くつもりはないが、こんなことで東の執着心を煽れるのなら悪くない。荒船は東のヤキモチを甘んじて受け入れた。
東の言葉が全て本気だったと知るのは、まだ先のこと。
5個目(スイーツ)
「迅さん、丁度よかった。シュークリーム食べませんか?」
「お?」
迅が本部から戻ってくると、逆に本部へ向かうところだった三雲に呼び止められた。東に頼みがあるとかで手土産を用意したのだが、箱詰めになっていたのが五個からだったので一つ余るというのだ。迅は有り難く貰おうとして手を止める。先ほど本部で視た未来の中に、これと繋がるものがあったような気がした。三雲の顔を見て、未来が確定する。
「いや、そのまま持って行きな」
「え? でも……」
「五個持って行くと良いことがあるって、おれのサイドエフェクトが言ってる」
「東さん、拾いに来たぞ」
時間は進んで二時間後、東隊の部屋に荒船がやってきた。今日は家に遊びに行く約束をしていたので合流するために来たのだが、扉の先はのんびりムードだ。
「あ、荒船くん。シュークリーム食べていかない?」
「うん?」
人見に引っ張られて、荒船は訳の分からないまま席につかされた。東を拾ったらすぐ出るつもりだったが、とりあえず帽子を外す。
「お茶淹れるね。緑茶でいい?」
「いや、それくらい自分で」
「お客さんは座ってなさい」
人見にきっぱりと言われてすごすごと席に戻った。奥寺が冷蔵庫から箱を出し、小荒井が皿を出す。やることが無くぼんやりとしていたら、奥から現れた東が隣に座った。
「東さん、どうしたんだこれ」
「三雲が持ってきてくれたんだ。一個多かったんだけど、迅がそれていいって言ったらしくて」
「へー……」
迅にはこの未来が視えていたのだろう。あまり会わない相手だが、一体どこまで知られているのか。隠しているわけではないにせよ少し気恥ずかしい。
「でも俺が食べていいのか?」
「いいのよ。東さんがいつもお世話になってるから」
背を向けたままそう話す人見は貫禄があり、さながら東の母である。隊員公認なのは助かるがこれもこれで照れるものだ。
「それに、残ったら俺と小荒井と摩子さんで取り合いになるんで」
皿にシュークリームを乗せながら奥寺が言う。奪い合うくらいなら第三者にあげて平和に解決するという考え方らしい。しかし荒船はなんとなく気付いていた。本当は東も残り一個が欲しいのだが、東が言い出すと三人とも譲ってしまうから言い出さないだけだろう。大人とは可哀想な生き物だ。
人見がお茶を運んできて準備が整った。五人で座って手を合わせる。
「いただきます」
端からフォークを入れる。皮が硬く、中のカスタードもしっかりしているタイプだった。食べ進めても崩れにくい。
「うまいな」
「玉狛の手土産はセンス良いって噂でしたもんね」
「選んだのは宇佐美かな」
口々に感想を述べ、玉狛の評価は鰻上りだ。
荒船は別に急ぐわけでもなくゆったりと食べていた。残り半分ほどになったところでふと横を見ると、東の皿が空になっている。東は大抵なんでも美味しそうに食べるが、こんなに早く食べ終わってしまうのは珍しい。よほど気に入ったと見える。ただ、それに気付いたのは荒船だけだった。
全員が食べ終えて、荒船は片付けを手伝ってから東と本部を後にした。当初の予定より帰りは遅くなったが問題ない。
「お前、洋菓子食べる時も緑茶なんだな」
「結構合いますよ?」
「俺はコーヒーがいいなあ」
他愛のない話をしながら東の家に向かう。二人ともまだシュークリームの余韻が抜けていない。非常に満足そうな東の様子を見ると荒船も嬉しくなった。甘い物は人を幸せにする。今日はこの後も楽しい時間になる予感がした。
遠慮してしまう可哀想な大人のため、荒船は後日こっそり三雲に店のことを聞きに行く。そして三雲はそのお礼に、東の時間を確保する裏技を教えてもらったのだった。
裏切らないから(筋トレ)
俺の弟子と恋人はたまに二人で会っている。別に変な意味ではないし、何をしているかも知っている。トレーニングだ。
外でのロードワークや、レイジの持っている器具での筋トレ。荒船は普段から自主的にトレーニングをしているが、定期的にトレーナーに会うような感じなんだろう。
基礎体力を上げてより動ける体を作るというのはまあ、いいことだ。生身の健康面で考えても。ただなんと言うべきか。
「荒船、またちょっと大きくなってないか…?」
「そうですか⁉」
無論太ったという意味ではない。これを言うと荒船は喜ぶんだが、俺が複雑な気持ちでいるのを分かっているのか。
そりゃ荒船はどんな姿でも魅力的だし、女性のような柔らかさも求めてはいない。でも恋人がレイジみたいになると想像するとなんとも言えない気持ちになる。
「お前は何を目指してるんだ」
ぽろっと本音を零したら、それが火をつけてしまったらしい。
「いいですか、俺は何かを目標にしてトレーニングしてるんじゃありません。週刊です」
「はあ」
「筋トレに終わりはないんですよ。東さんだって目標があって毎日歯磨きするわけじゃないでしょう」
「歯磨きと同等か⁉」
体を鍛える人の心理はそれなりに分かっていたつもりだが、もっと遥かに深かったようだ。まるで底が見えない。
「でもなあ……せめて抱き上げられるサイズであってほしい」
可愛げなんかを求めているんじゃない。これは物理的な問題だ。抱き上げる機会なんて滅多にないが、いざという時にできなかったら多分ヘコむ。
「……じゃあ、東さんも筋トレすれば万事解決じゃないですか?」
「……そうきたか」
確かに他人の考えを変えるより自分を変える方が簡単だ。だが筋トレを習慣化するなんて、口で言うほど簡単にできたら苦労しない。
「一緒に筋トレしたら会える時間も長くなりますし」
それを言うのは卑怯じゃないか? たった一言で気持ちが揺らぐ。結局のところ、俺は荒船に構ってもらえるならなんでもいいのか。我ながら単純すぎる。
分かった、俺の負けだ。付き合おう。とりあえず一回だけ。一回だけだからな。
危ない買い物(通販)
「あ、タバコ買うの忘れた。悪いけどちょっと待ってて」
「分かった」
コンビニに寄ってから東の家に来て、家に着いた途端に東だけ引き返す。荒船は勝手知ったるという様子で部屋に上がり、自分の部屋のように寛ぎ始めた。
それから五分もしない内にチャイムが鳴った。コンビニまでは歩いて片道三、四分はかかるが、全力疾走でもしたのか。それになぜわざわざチャイムを鳴らすのか。色々と疑問に思いながらドアを開けると、それは東ではなかった。
「東さん、宅配です。こちらにサインお願いします」
「あ、はい」
ここ、と示されたのは大きな箱に貼られた伝票だった。一瞬だけ迷ってから「東」と書き、業者を見送る。東の家なのだから正しい対応のはずだ。
さて玄関には大きな箱が残された。荒船が両腕でやっと抱えられるくらいのサイズだ。タイミングが絶妙というか、荒船が居てよかった。これを再配達してもらうのは申し訳ない。抱え上げてみると意外と軽かったので、そのままリビングまで運んでおいた。中身は気になるが、家主はもうすぐ帰ってくる。
「ただいま……えっ、何だこれ」
数分後、帰ってきた東は部屋の中央に鎮座する段ボールを見て固まる。確かに存在だけで人を驚かせるには十分な大きさだ。
「おかえり。東さんが頼んだんだろ」
「いや、こんなでかい物頼んだっけ……?」
東は身に覚えがないとばかりに首を傾げたが、宛先は合っている。代引きではなかったので詐欺でもないだろう。こんな大物、注文したら忘れそうにはないが。
「とりあえず開けてみようぜ」
荒船がカッターで封を切り、箱を開いてみる。中には茶色の大型クッションが綺麗に収まっていた。
「なんだこれ」
中身を見てもまだピンとこないようだ。ただのクッションにしては大きすぎる。しかし荒船はこれが何か知っていた。
「アレじゃねえか、人をダメにするソファ」
「人を……あ!」
そのワードで東の記憶が蘇る。
二週間ほど前、東は冬島や諏訪らと麻雀をしながら酒を飲んでいた。その際に冬島のデスク周りの話をしたのだ。
「最近なんか冬島隊の部屋にでけえクッション増えましたよね」
「あれな、人をダメにするソファって有名なんだと。ウチの隊員共が欲しいって言うから椅子代わりに一つ置いてみたんだが……ありゃやべえ」
「何がですか」
「アレに座ると動けなくなるんだよ。今はもう三人で奪い合い」
三人でと言うが、冬島隊の実権を握っているのは真木なのでおそらく真木の一人勝ちだろう。
「でも仕事場に置くもんじゃねえな。東も家に一つ買ってみたらどうだ?」
酔った勢いもあり、ソファが意外と手頃な値段だったことも後押しして、東はその場で注文したのだった。次の日には忘れていたので思い出すのに時間がかかってしまった。
「通販って怖いな……」
ボタン一つでこんなものまで届いてしまう。酔った時の買い物には今後注意しなければと、東は心中で密かに反省した。
「まあ、酔った勢いにしてはいい買い物なんじゃねえか?」
荒船はいそいそとソファを取り出し、早速座ってみる。家主より先に座るのもどうかという話だが、そこは荒船にのみ許される特権だ。
「うわっ、なんだこれ!」
「快適か?」
荒船は驚きつつも楽しそうである。それを見ると東も試したくなってきた。
「どんな体勢でも体にフィットしてくる……しかも低い位置で体が沈むから起き上がりにくい」
「つまり?」
「ダメにされちまう……」
座って一分でもう動けなくなってしまった。仰向けで無力感さえある表情を浮かべている。あのストイックな荒船もそうなるのだから、これは相当だ。
と、この光景を見て東の中で打算が働いた。これがあれば荒船はこの家から離れがたくなるのでは? 沈んで動きにくくなるということは、色々と使い道があるのでは?
荒船もいたく気に入った様子だし、そう考えるとこの衝動買いも大正解のように思えてくるのだった。
吸血鬼の僕(主従+荒船に弱い東さん)
吸血鬼の僕〈しもべ〉とは、純血の吸血鬼から血を分け与えられた人間を指す。僕を作るのは禁止されたために今ではほとんど残っていないが、荒船はそんな希少な存在の一人だった。
日が沈むと主たる東の一日が始まる。目覚ましは荒船の仕事だ。
「東さん! 起きろ! さっさとメシ食え!」
ただ僕とはいえ、大衆のイメージ通りにしおらしく謙虚であるとは限らないのだが。
東が食事を終えて仕事を始めると、荒船もその後ろをついて回る。日中は人間としての仕事をして、夜は東の補佐として仕事を手伝うのだ。
「これとこれはもう送っていいから封しておいて。こっちは急ぎだから二宮か加古が来たら渡して。あとこの辺りの書類に目を通して、俺の印が要るのと要らないのに分けて」
「はい」
次々に渡される紙の束を荒船はてきぱきと捌いていく。荒船が手伝っていられる時間は短いので、手際の良さは重要である。
仕分けた書類を渡すと、東のチェックに時間がかかるから風呂にでも入ってくるよう言われた。家で仕事ができるのは便利だ。
再び東の部屋に戻ると書類のチェックは終わっていた。東は机の上に本を山と積んで、少し読んでは次の本を開いてを繰り返している。
「東さん、次の仕事は?」
「今日はもう終わり」
どう見てもそうは見えない。多分、今日はもう寝ろと言われるのだろう。確かにそれなりの時間だが、まだ起きていられる。
「この本の山は?」
「ちょっと調べ物。来週までに返事すればいいから急がないよ」
内容を教えてくれないあたり徹底しているが、科学に関することを調べているらしいとは背表紙から予想できた。
「それくらい俺がやるのに」
二百歳を超える東には及ばないだろうが、荒船にも学はある。本の中から必要な情報を拾うくらい簡単だ。というか、そういう雑事こそやらせてほしいと荒船は思っている。
「ダメ。お前は今日朝から起きてるだろ。早く寝なさい」
東の食糧である血液が荒船から提供されていることもあり、荒船の健康管理にはうるさい。血を与えられて以来そう簡単に体調を崩したりはしないのだが、この様子だといくら待っても仕事は与えられないだろう。きっぱりと言われ、荒船は仕事獲得を諦める。
「あ、ちょっと」
「ん?」
寝ろと言われたので仕方なく自室に戻ろうとすると、東に呼び止められた。
「誰が自分の部屋に戻れって言った?」
「あ? 何言ってんだ」
荒船のベッドは荒船の部屋にある。東の言っていることはどう考えても矛盾しているのだが。
「ここで寝て」
納得はしたが、意味は分からない。
「なんでわざわざアンタのベッドで……」
『ここで寝ろ』
東の声が荒船の頭の中で反響した。これは「逆らえない命令」だ。荒船の意志とは関係なく主の声に従ってしまう。
「ずりーぞ! ろくでもねえ命令ばっかりしやがって!」
とは言いつつ体は逆らえず、素直に布団に収まった。東が寝る頃に荒船が起きだすので別に一緒に寝るわけではない。ただ荒船が東の目の届く範囲に居ることが重要なのだ。
東は主のくせに僕と離れるのが好きではない。僕が主のベッドで寝て主が働いているというこの状況も東は一向に構わないし、むしろ嬉しいと感じている。荒船が望むなら何だって与え、危険からはひたすら遠ざける。これではどちらが主か分からない。
「また明日、別の仕事をお願いするから」
「本当だな?」
「お前に嘘はつかないよ」
不服そうだった荒船はあっという間に機嫌を治した。荒船にとっては東からの頼み事が至上の喜びなのだ。それは僕の本能だが、二人の信頼関係に依るところもある。
苛立ちが治まったので荒船は明日を楽しみにして目を閉じた。
「おやすみ、荒船」
本当はもう少し話していたいが、それを言い出すと際限がなくなるので、東はせめて寝顔を見て我慢するのだった。
特別な通知(メッセージアプリ)
「絶対おかしい」
犬飼は携帯を睨みつけながら呟いた。向かいに座った穂刈は特に反応を返さない。というのも、ここはスルーしておいた方が後々自分のためになるからだ。犬飼が手にしているのは荒船の端末。持ち主が少し席を離れた隙に、東とどんなやり取りをしているか覗いてやろうとしていた。
ところが、探せども探せども東とのメッセージ記録だけが見つからない。それで絶対におかしいと躍起になっているのだ。
「ちゃんと叱られるんだぞ、後で」
「まあそれはそれとして」
履歴を逐一消すなんて面倒なことはしないだろうし、今時メッセージ機能を使わずにコミュニケーションを取っているとも思えない。ちなみに、通話履歴には東の名前を発見済みだ。
「なに勝手に人の携帯見てんだ」
「うっ」
ごつりと良い音を立てて犬飼がうめき声を上げ、携帯は持ち主の手に戻った。
「人の会話を覗き見とはいい趣味してんじゃねえか」
起動していたアプリで何をやっていたかも一目瞭然だ。犬飼が言い訳をする前に穂刈が「止めたぞ、俺は」と一言挿む。止めたのは最初だけで、その後は放置していたのだが。裏切り者である。
「気になるもんでもあったかよ」
「いや、無い。無さすぎて気になる」
「あ?」
頭を押さえて机に項垂れていた犬飼が顔を起こした。不満いっぱいの表情だ。
「東さん! 友達リストにも居ないとかおかしいでしょ! 逆に心配なんだけど!」
「ああ……そっちにはな」
「「そっち?」」
穂刈も犬飼も並んで首を傾げた。「そっち」があるなら「こっち」があるはずだ。
「東さんとの連絡は別のアプリ使ってんだよ」
これ、と荒船が指し示したのは見慣れないマイナーアプリだ。犬飼も穂刈も初めて見る。アイコンだけ見るとメッセージアプリだということも分かりにくい。犬飼が先ほど開いていたのは国内シェア圧倒的一位のアプリだ。
「カモフラージュ?」
「ちげーよ。まあ今回はカモフラージュになったけど」
「じゃあ何? アレかな? 見られたら困る写真とか……」
「どんな写真だ」
「そりゃあ「言うんじゃねえバカ!」
人の行き交うラウンジでとんでもないことを言いそうだったので反射的に穂刈と荒船が口を塞いだ。それで少し注目を集めてしまったが、最悪の事態は避けられたようだ。
「んなもんねーよ」
「じゃあ何なんだよ〜!」
犬飼があまりにも理由を聞きたがるので、面倒になった荒船は遂に溜息を吐いた。
「通知が……それだけ違うだろ」
「うん?」
急に何を話し始めたのかと犬飼が視線を上げると、帽子で隠した荒船の顔がほのかに紅くなっている気がする。
「東さんからの連絡だって、すぐ分かんだろ」
「へ、へえ〜」
下世話な想像をしていた自分を殴りたくなるほど可愛らしく純粋な理由を聞かされ、犬飼は逆に引いた。荒船という人間はこんなことをするタイプだっただろうか。
「自分から聞いといて引くんじゃねえよ!」
トーク部屋が流れなくて便利だとか、むしろ東のメッセージを後回しにすることもあるのだとか荒船は色々と言い訳するが、既に手遅れである。
「ちなみにそれ、言い出したのは……」
「東さん」
二人ともそんな気はしていた。荒船はわざわざ連絡方法を分けるという発想さえ無さそうなタイプだ。東の分かりやすい特別扱いを見て犬飼が感嘆の息を漏らす。
「なんだよ。まだ中身が気になんのか? 大した話はしてねえぞ」
「いやー、もう見なくても分かるっていうか、ご馳走さまです」
映らないもの(鏡)
荒船が東の家に遊びに来た。手を洗うと言って洗面所に向かい、その後しばらくしても戻ってこない。東が様子を見に行くと、鏡の前で何か考え込んでいるようだった。
東に気付くと振り返って、少し悩んでから口を開く。
「東さん、俺はイケメンか?」
「?」
何の脈絡もない質問に首を捻るが、荒船は真剣だった。
「それは、どういう意味で……」
「外見だけの話」
鏡を見ながら、腕を組んでまた考え始めた。それほど悩むだけの何かがあったのだろうか。
「奈良坂とか烏丸ほど整ってるわけでもねえし、人並みだと思うんだけど」
東はできるだけフラットな視線を意識して荒船を観察した。顔の美醜の評価など求められたのは初めてだ。
切れ長で涼しげな目に、よく不敵に歪む口元。なるほど先に挙げられたような「大衆が認めるイケメン」ではないかもしれないが、整った外見だと感じる人は決して少なくないだろう。思ったままを伝えた後、東は付け加えた。
「けど、俺は荒船が何をしてても格好よく見えるからなあ」
荒船の目つきが悪かろうが真顔が威圧的だろうが東には全て美点に見えるし、時には可愛らしく見えることさえある。何より東はその中身に惚れているので、そこでかかるフィルターを取り除くのは難しい。
「そっか」
それならいいやと鏡から視線を外した。荒船の中では解決したらしい。
「誰かに何か言われた?」
今までそんなことを気にするタイプではなかったので、もうこの話を終わろうとしているのは承知で引き止めた。可愛い恋人の悩みはちゃんと解きほぐしておきたいものだ。
「……学校の奴に、俺が年上の男と付き合ってるってバレてさ。まあそれはいいんだけど、イケメンなのに勿体ないとかなんとか」
「はは、そういうことか」
意味が分からないとばかりに荒船は溜息を吐く。顔が良ければ綺麗な女性と付き合わなければならないなんて、そんな道理は無い。
「ボーダーだと逆なんだけどな。東さんみてえなすごい人と付き合うのが俺で勿体ないとか思われてそうで」
「褒めてくれてる?」
「当然」
東は知っていた。東をすごいと思うのは大体が年齢によるところが大きく、子供達もこれくらいの歳になればそれなりの知識や技量は身につけられる。勿体なく思われる要素なんて本当は無い。じわじわと差を縮められ、いつか追い越されはしないかとただ恐れているのだ。荒船もきっと薄々は気付いている。
これが鏡に映るくらいの単純な話ならまだ良かった。それでもなおこの子供から離れるという選択肢が出てこないのだから重症だ。
「ま、結局外野が何を言おうと関係ないよな」
荒船はそう言って東の背を押し、二人で洗面所を後にした。