@saeki_f
信じることは、ときとして愛することよりも難しい。
愛する人ならば無条件に信じるられるか? そう問われて即座に肯定できる者は少ないだろう。誰しも知っているのだ。信頼を得るというのがいかに難しいことかを。
信頼とは往々にして、ただの一度も裏切らず、地道に長い時間をかけて互いに築くものである。そして、とても壊れやすい。
出会ったばかりで何も知らない人のことを信じるなど、どだい無茶な話なのだ。
先の裁判で依頼人に裏切られたという現実は、龍ノ介の両肩に重くのしかかり彼を圧迫している。信念を曲げず真実を暴き出したものの、それらは全て正しかったのか。幾度となく自問している。そこへ弁護士資格の停止処分が重なった。法廷に立つことを禁じられ、当面はひたすら勉強のみの日々が決定されたというのに、ことは更に重大であった。
御琴羽寿沙都が帰国した。父親の病気という緊急事態、仕方のないことだ。しかし龍ノ介は、信頼できる法務助士を失ってしまった。まだ法律を勉強し始めたばかりの身で、これから助士の力を借りずにやっていかなければならない。
身近に師が居ないというのは何とも心許ないが、法に明るく頼れる知り合いなど龍ノ介には……いや、実は居る。しかし何しろその人物を頼るのは大いに憚られるものがあり、ただただ頭を抱えるばかりなのであった。
男児たるもの独力で解決すべしと、龍ノ介は中央刑務裁判所の資料室に来た。昨日は図書館に行ってみたものの、必要な本が見つからなかったのだ。
この資料室、法律に関する多様な本が保管されているのは良いが、裁判所外への持ち出しは禁じられている。もちろん裁判所の開いている時間しか滞在できないため、手早く見つけなければならない。ただ今回は龍ノ介の迂闊なところが出てしまい、探すべき本の題名がうろ覚えなのだ。確かCから始まっているはず、と該当の棚を細かく見て歩く。
二、三度往復してそれらしきものを何冊か開いてはみたが、どうにも求めているものとは違うようで龍ノ介は首を傾げる。資料室には必ずあるはずだ。ちょうど誰かが閲覧しているのか、龍ノ介が題名を間違えて覚えているのか。どちらにしろ厄介なことだ。
考えながら棚を凝視していたせいか、自らの後ろを人が通ることに気付かなかった。屈んでいた足にとても硬い何かがぶつかる感覚で、急に現実へ引き戻される。
「わっ、失礼しました」
「こちらもよく見ていなかった……ああ、貴公か」
黒目の見上げた先には、倫敦の数少ない知り合いが立っていた。龍ノ介が立ち上がってなお見上げるほどの長身に、厳めしい衣装といかにも厳格そうな雰囲気を纏った英国紳士。なるほど龍ノ介が足をぶつけたのは〝鋼鉄の踵〟であったらしい。
「バンジークス検事」
「黒く小さなもので気付かなかった。お許し願いたい」
「ぐっ」
バンジークスは至極真面目な顔をしているが、口角が僅かに上がっている。からかっているのだ。龍ノ介もそれに気付いて苦笑いするが、バンジークスとの間にあった溝が少し浅くなったように感じて不思議と嫌ではなかった。
「探し物か」
「ええ。情けないことに、題名がうろ覚えでなかなか見つからないのですが」
龍ノ介は何の気なしに言ったつもりだった。そのままこの場を離れると思った検事はしかし、踵を返す様子もなく龍ノ介を見つめている。
「どのような内容のものだ」
返ってきたのは思いもよらない言葉。死神バンジークスが、龍ノ介の探し物の手伝いを申し出ているのだ。どういう風の吹き回しか。検事席から弁護士を睨みつけていた彼とは思えず、驚いた龍ノ介が咄嗟に出した結論は素直に質問に答えることだった。
「ええと、欧州で起きた重大事件とその量刑について詳しく記述されている本で……確か『重大刑事事件の量刑比較』という題名だったような」
「なるほど、おそらく探すべき棚はここではない」
「えっ」
言い終わると同時にバンジークスは歩き出した。状況を咀嚼しきれぬ龍ノ介もとりあえず付いて行く。向かったのはRの棚。そこで立ち止まり少し蔵書を眺めた後、背表紙が日に焼けた分厚い本を一冊取り出した。
「『重大刑事事件の量刑記録』ではないか?」
龍ノ介は渡された本の頁を数枚めくり、中身を確かめる。どうやら求めていた情報が記載されているようだ。
「ああ! これです! 助かりました」
「それにしても、随分と古い資料を見るのだな」
「ぼくの持っている本に記載されていた事件が気になりまして。独逸や仏蘭西の事件が詳しく載っている英語の本はあまり多くないですから」
「……一度、貴公の法典を見てみたいと思っていた」
無論、英国紳士の皮肉だろう。龍ノ介が初めて倫敦の法廷に立ったときから古いことを指摘されてはいたが、言われてみればこの法典を誰かに見せたことはなかった。というより、見せてもあまり意味がないのだ。
「ええと、今持っているこれは日本語で書いてあるのですが」
いくら知識の豊富なバンジークスといえど、流石に東洋の島国でしか使われていない文字は読めまい。龍ノ介はこれで話を終わるべく本を引っ込めようとしたのだが。
「では貴公に読んでもらうとしよう」
「えっ、ええっ」
まさか死神がそんな事を言い出すとは。ただの皮肉ではなかったらしい。それほどこの本を見たいのならと、龍ノ介も意外に思いながら承諾する。
先の本を持って閲覧用の机へ移動し、該当の事件の頁を開いた。龍ノ介の必要な情報はバンジークスが探し、バンジークスが知りたい部分は龍ノ介が読んで説明する。その姿は共に助け合う学友のようでもあり、その場に居合わせた者は開いた口が塞がらなかったとか。
「……流石は最終弁論を持ち出してくる弁護士だ。こんな化石のような法典を使用していたとは……」
バンジークスは深く深く溜息を吐いた。呆れるどころか、嘆いているようにさえ見える。
龍ノ介の法典は寿沙都が置いていってくれたものだ。帝都勇盟大学教授の娘の持ち物であり、大日本帝国においては新しい文献のはず。随分な言われ様だが、世界の最先端を進む国からすれば仕方のないことではある。
「そんなに古いのですか」
「軽く十年は前のもののようだな。その頃に改訂された条文が修正前のものになっている」
「日本へ渡って翻訳までされているとなると、発行までで既に数年はかかっていそうですから……それくらいのものでもおかしくはありませんね」
「法は不変ではない。時代に合わせて形が変わるものだ。だから法を扱う者は、常に新しい法典に触れるべきであろう」
確かにもっともな意見だ。しかし、日本人には日本人なりの理由がある。
「ぼくなどは英語を専攻していたので洋書に触れる機会もあったのですが、日本にはまだ数が少ないですし、翻訳ができる人も限られておりますから……世界で最先端の専門書など、大学でもなかなか手に入りません」
「英国へは勉学のために来たのだろう。こちらで揃えた本などは?」
「無いこともないのですが、依頼の少ない弁護士は生活だけでも精一杯でして。こうして資料室に来るか、図書館で調べるかしています」
どちらも蔵書が多すぎて、今回のように一冊の本を探し回ることもしばしば、というわけだ。英語を勉強した身とはいえ、母国語でない言葉でずらりと並んだ背表紙から必要なものを引き当てるのはなかなか難しい。似たような題のものもあるため、一つずつ中身を確認しなければならない。ときには新しい知識も得られることもあり、決して全てが無駄な時間というわけではない。しかし効率は悪いと龍ノ介も思っていた。
「貴公、この後に予定はあるのか」
「? いえ、ございませんが」
「ならばついて来い」
バンジークスは急に立ち上がり、本を司書に渡すと足早に出口へ向かった。龍ノ介はいきなりのことに出遅れながらも、見失わないように後を追う。
(突然どうなさったのだろう?)
検事に続いて建物の外に出ると、龍ノ介の見慣れない馬車が停まっていた。乗合馬車ではなさそうだ。二頭の美しい黒毛馬が引いている。装飾はあまり無く大型でもないが、とても綺麗に使われていて高級感がある。バンジークス個人の馬車であった。
「これに乗るのですか?」
「不満なら馬車の後を走って追うのだな」
乗らなければ本当に走らされそうな語気を感じ取り、龍ノ介は言われるがまま馬車の中へ。個人用のものに乗るのは初めてだったが、静かな狭い空間に二人きりというのが何とも落ち着かなくてそれどころではなかった。
車内はただ無言だった。バンジークスはこれから龍ノ介をどこへ連れて行くつもりなのか、何をしに行くのか。ただ気まずくても不安ではなかった。彼が悪い人でないことはよく知っている。
三町ほど進んだところで馬が止まる。車内に二人きりの気まずさからは助かったが、こんなに短い距離だとは龍ノ介も思わなかった。
「検事は短い距離でも馬車を使用なさるのですね」
「……私が街を歩いていると、人目につくからな」
降りた場所は大きなお屋敷だった。門があり、庭があり、煉瓦造りの邸宅がある。検事個人の馬車に乗った時点で気付いてもいい結論だ。
「もしやここは……」
「私の自宅だ」
誘われる通り中へ入ると、女中が二人を出迎えた。家主と二言三言会話したあと、龍ノ介に一礼して下がる。本物の……と言うとガリデブ夫妻は怒るかもしれないが……女中が働いている姿から、龍ノ介はバンジークスの暮らしぶりを垣間見た。
(なんというか……本当に検事の家にお邪魔しているのだなあ)
急展開であったというのもあるが、そもそもバンジークス邸に入ること自体に現実感がないのだ。一生の内に訪れる機会があるとは想像すらしていなかった。龍ノ介の空想の中では、彼はどこか遠くの土地で夢のように大きな城で暮らし、葡萄酒のみを口にして生きていた。無論そんな訳がないことも分かっていたが、実際のところその空想よりずっと人間らしい生活をしているようで、彼も人間なのだという至極当たり前のことを思った。
思えば英国に来て以来、龍ノ介が捜査以外で人の家に入るのは初めてだ。とはいえ歓待されるわけはなく、真っ直ぐに通されたのはこぢんまりとした部屋だった。本棚に囲まれ、机と椅子が置いてあるだけの四角い部屋。書斎であった。壁に並ぶ本は法に関わるものばかりかと思いきや、そうでないものも並んでいる。検事の私的な空間を覗いて龍ノ介は少しそわそわした。
部屋を眺める間、バンジークスは一面の本から次々と選んでは取り出して机の上へ重ねていく。あっという間に十冊ほどの塔が出来た。そして終わったとばかりにその一番上へ手を乗せ、龍ノ介の方を向く。
「検事、これは」
「貴公の読むべき本だ。他にも必要なものがあれば持ち帰るがいい」
言葉もないとは正にこのこと。どうやらこの紳士は何を思ったか、留学生の勉強に役立つ本を見繕ってくれたようだ。急なことに驚きおろおろと落ち着かない龍ノ介に、バンジークスは溜息を吐いて語る。
「図書館に専門書は多くない、資料室の本は持ち出せない。あまりに不便であろう。私の蔵書であれば好きに使って構わぬ」
「で、でも、検事も使用されるのでは」
「私物には一通り目を通してあるし、内容も頭に入っている。さほど問題はない」
もちろん、龍ノ介は迷惑だなどとは塵ほども思っていない。ただひたすらに申し訳ないのだ。それでつい固辞しようとしてしまう。
「ここまでしていただく理由がありません」
「貴公は国が受け入れた留学生だ。その国の人間として、多くを学べるよう協力するのは不思議ではなかろう?」
「ぼくが……日本人がお嫌いではないのですか」
「個人的な事情だ。それに貴公を見て少し考えを改めるところがあった。それだけのこと」
不意打ちのありがたい言葉に気付き、龍ノ介の思考は一瞬止まってしまった。日本人への敵意を滲ませていたあのバンジークスが、少しでも考えを改めたと。裁判で議論を交わして、少しは誠意が通じていたのだろうか。そうであれば喜ばしいことだと龍ノ介は思う。
彼もなかなか頑固なもので、一度決めてしまうとひっくり返すのは至難の業だ。龍ノ介もそれは幾度かの裁判で思い知っている。相手がバンジークス検事だと思うから恐縮してしまうのだ。知り合いから本を借りる。それだけのことと思えば少しは気持ちも楽になる。せっかくの厚意を無下にすることもないだろう。龍ノ介はそう考え、バンジークスの行動を受け入れることにした。
「それでは、いつお返しすれば良いでしょうか」
「好きなだけ持っていて構わぬ。帰国前に返せばな」
「帰国の予定はきっとお借りしたことを忘れてしまうほど先なのですが……」
バンジークスは本当に気にしないといった様子だが、龍ノ介が気にしないはずがない。ものを借りるというのは気を遣うし、ほんの僅かでも信頼を得られたのなら気持ちには誠実に応えたいと思うのだ。
「返すのであれば、日曜日に来るがいい」
「日曜日ですか」
「知っているだろうが、この国において日曜日は安息日だ。誰も働かぬし、私も在宅していることが多い。質問があれば聞いてやることもできる」
なぜこんなにも急に検事が気を回してくれるのか分からないが、断るにはあまりにも惜しい申し出だ。しかし龍ノ介は根っからの日本人で、最高の環境に手放しで飛びつくことができないでいた。本を借りるだけならまだしも、休みの時間を奪ってしまうのは如何なものか。そんな様子を見てか、検事が背中を押した。
「厚意は素直に受け取るものだ。貴公ら日本人が控えめであることを美徳だとしていてもな。それに謹慎中も報告書の作成は義務であると聞いた」
証拠品なき弁舌においてはまだまだ敵わない。そこまで言われてしまっては、日本人であっても受け取らぬわけにはいかないだろう。せめて検事に無駄な時間を作ってしまわぬようしっかり勉強しなければと、龍ノ介は気を引き締めた。
「それでは、お言葉に甘えて」
いつ解けるとも分からぬ謹慎ではあるが、勉強の成果を見せれば司法局の反応が変わる可能性もある。そしてその内容は、決して無駄になることはないだろう。優秀な法律家の協力があれば勉強も更に捗るというものだ。
こうしてたまの日曜日に、龍ノ介はバンジークス邸を訪れる運びとなったのだった。
「な、難解だ……」
その晩のこと。持ち帰った本を開くなり、龍ノ介は頭を抱えた。ある程度の予想はしていたが、バンジークスから借りた本は高等な専門用語の洪水で、読み進めるのに難儀する。いくら英語が堪能だからとて、日本語であっても理解に時間がかかる文章をすらすらと読めるはずがない。
(言葉って、本当にただの道具に過ぎないのだな……)
机に項垂れて、至近距離で専門書と睨めっこをする。英文科を選んだことは後悔していないが、その先の段階を見てしまえば親友の志がいかに高かったかを思い知る。
ともあれ、これを読めるようにならなければ話にならない。同居人たちは軒並み天才ではあるが、法律の専門家ではない。調べられる限りは自分で調べ、その他はやはりバンジークスに聞くほかないのだろう。龍ノ介はにわかに起き上がって分からない箇所を手記に書き出していった。
(そういえば、ぼくの勉強を見るというのは労働にあたらないのかしら?)
龍ノ介は基督教信者ではない。安息日は休むべしという教えがあることは知っているが、何を以て労働とし、どの程度厳しい戒律なのかは分からない。もし機会があればバンジークスに聞いてみようと結論付け、頭の中の引き出しにそっとしまった。
本を借りて読み終わっては返すというやりとりを何度か行い、龍ノ介が初めてバンジークス邸を訪れてから数週間が経った。緊張していた訪問も何度か繰り返せば慣れたもので、今では屋敷の呼び鈴を鳴らすのも躊躇わないほどだ。
龍ノ介がかの死神とこれほど懇意になろうとは、倫敦中の誰もが想像し得なかっただろう。ただ「懇意」といっても、その指導は裁判の気迫にも引けを取らぬほど厳しいのだが。
龍ノ介は今日も借りたばかりの本を開く。何か考え込んでは手記に書き込んだり、報告書のために情報をまとめる。検事の指導が入るようになってから、ヴォルテックス主席判事への定期報告の内容は目に見えて充実した。自分の急成長に驚きつつも、心強い先達に龍ノ介は感謝しかない。勉強にも一層の気合が入るというものだ。
時間を忘れて集中し、次に意識を外へ向けたのは階下の扉が開いた音を聞いた時だった。ホームズ達が帰宅したのだ。しばらく机にかじりついていたため、龍ノ介の背中はぎしぎしと軋む。体を解す意味も込めて、伸びをしながら階段を降りて出迎えに行った。
「ホームズさん、アイリスちゃん、おかえりなさい」
「なるほどくん、ただいまなの!」
「やあただいま、ミスター・ナルホドー」
いつもの装いで上機嫌に帰宅したホームズとアイリス。そして彼らに続いて見知らぬ英国紳士が入ってきた。その風貌はどう見ても警察官のもので、龍ノ介はぎょっとする。
「ええと、事件ですか?」
「ボクの依頼人だよ。面倒な事件を抱えてしまったと言われてね。なに、この名探偵にかかれば即解決さ。具体的には月末までにね!」
いつものように格好つけてひとしきり軽快に笑ってから、ホームズは依頼人との話を始めた。ぽかんと口を開ける龍ノ介に、アイリスが囁く。
「ホームズくん、また無駄遣いして、先月分の家賃をまとめて今月支払うって言っちゃったの。ほんと、困っちゃうよねー」
まだ今月は始まったばかりだというのに、今から月末の心配をしなければならないようだ。即解決と言ってみせた割には随分と時間に猶予を持たせているが、どの程度の事件なのかは話を聞いてみないことには分からないだろう。
アイリスの提案で、龍ノ介は一度休憩を挟むことにした。部屋が繋がっているものだから、どうしても向こうの話が筒抜けになる。どうやら依頼人は何か大切なものを失くしてしまったのだと分かった。そそっかしい警官もいたものだと、龍ノ介は自分のことを棚に上げて香茶を啜った。
「なるほどくん、おつかいをお願したいの」
そう言うアイリスから龍ノ介が受け取った紙片には、薬品と思しき名前が並んでいた。一緒に地図が付けてある。龍ノ介は行ったことがない地域のものだ。
「ごめんね、こんな日に」
今日は重い雨が降っている。倫敦の雨は大体すぐに止むものだが、珍しいことに今日の雲は非常に厚く、しばらくは止みそうにない。窓の外を見れば人出もほとんどなく、それでも頼まれるということは何か急ぎの用件なのだろう。
「私は出版社に行かなきゃいけないの。ホームズくんが帰ってくるまでに買っておいてって言われたんだけど、そのお店、日曜日はお休みだから今日しか行けないの……」
本当にごめんね、とアイリスは申し訳なさそうにする。しかし龍ノ介が普段彼女に助けてもらっていることを思えば、雨の中の買い物など軽いものだ。とはいえ流石にこの中を歩くなら傘が必要だ。自分のものを持たない龍ノ介は、ホームズの傘を借りることにした。月曜日まで帰ってこないのであれば問題ないだろう。
貰った地図と買い物の覚書を懐に入れて、龍ノ介は水音響く街中へ歩き出した。
店に着いて目的のものを買い、建物を出たところまでは良かった。知らない場所を歩くとき、行きと帰りで景色が違って見えることがある。どうやらどこかで曲がる道を一本間違えてしまったらしい。
一本前に戻ってみても、元の場所に戻れない。龍ノ介は自分が地図のどこに居るかも分からず、完全に迷ってしまった。こうなればどこかの大通りまで出るか、人に聞くかすべきだろう。しかしこの辺りは住宅街のようで、加えてこの雨だ。出歩く人は見当たらない。せめて馬車が通る道まで出れば自分の居場所くらいは掴めようと、龍ノ介は入り組んだ細い道を進むことにした。
異国の人間が一人できょろきょろと歩いていたのがいけなかった。後ろから音もなく近付いてきた輩が龍ノ介にぶつかったかと思えば、途端に走り出した。いくら英国人が傘を持たぬからと言っても、この土砂降りの中で傘も差さずに。怪しい男。そして龍ノ介は腰の左側に違和感を覚えた。はっとぶつかられた所を確認する。
狩魔がない。
気付いた瞬間に龍ノ介も駆け出していた。邪魔な傘は畳んで手に持つ。相手は日本刀を奪っていったのだ、丸腰よりはマシだろう。何とか見失わないように追いかけるが、相手もなかなか足が速い。しかし龍ノ介は、狩魔だけは諦めるわけにいかないのだ。
ついに引き離されそうになった曲がり角、男が急に足を滑らせ失速した。龍ノ介はその好機を見逃さず、はずむ息もそのまま一気に距離を詰め、壁際に追い込んだ。
「返すんだ。それはお前が持っていいものじゃない」
それは叫びに近かった。切れ切れの声が雨音に消されないように。そうは言っても龍ノ介が携えているのは傘である。当人らは至って真剣なのだが、傍から見ればやや滑稽だ。
袋小路ではないにせよ、ここまで距離を詰めれば捕まえるのはさほど難しくないだろう。となれば盗人が抵抗する方法は一つだった。抜身の狩魔が龍ノ介へ向けられる。相手がどんな使い手であれ日本刀だ。龍ノ介が大切に保管していたため、切れ味は抜群。少し掠めただけでも大怪我になる。
息を整える暇もなく、次々に襲い来る刃を避けなければならない。ほぼ丸腰の人間が抜刀した相手から武器を奪うなど、よっぽどの武術の達人でなければ無理だ。せめて助けが居ればどうにかなる可能性もあるが、ここでもやはり人の姿など見えなかった。
日本刀は西洋の剣より重く、自由に扱えるようになるには長い鍛錬が必要だ。あの親友のように。この盗人がたまたま剣の達人でなくて良かったと龍ノ介は思う。その重さに振り回され、かなりもたついている。刀を避けること自体はそう難しくない。ただ素人ゆえに型がなく、妙な方向から攻撃してくるのが難点だ。
龍ノ介が片足で立った瞬間を見抜かれ、払うように刃が走る。身を引いて避けはしたが、そこで体勢を崩してしまった。
平らな石畳は雨で濡れて滑りやすい。崩れる体を支えるはずだった右足は地面に留まれず、龍ノ介は片膝をついた。男もその機を逃さず、上から大きく振りかぶってきた。避けるのは間に合わない、咄嗟に傘で受け止めようとする。文字通り一刀両断にされるとしても、多少勢いは殺せるだろうと思っての行動だったのだが。
がきんと金属音がして、手が痺れるような衝撃。しかし刃は龍ノ介の体まで届かなかった。どうやら棒の部分が強い金属で出来ていたようで、狩魔をしっかりと止めていた。相手も驚いた表情をしているが、一番驚いているのは龍ノ介だ。
傘が思いのほか役に立ったと言っても、形勢は圧倒的に不利なままだ。相手は上から体重をかけ、一度は止まった刃がじりじりと龍ノ介の顔に近付く。このままでは血を見るまでさほど時間はかからないだろう。
(親友の刀で人を傷つけさせるわけにはいかない。そしてぼくは、こんな所で倒れるわけにはいかないんだ)
一層の力が込められた瞬間。突然横から何かが飛んできて、男の頭にぶつかった。男は衝撃で転がり、飛来物は地面に落ちて割れる音がした。二人とも何が起きたか全く理解できていない。
刀の重圧から解放されて、龍ノ介はひとまずの危機から脱した。男は倒れてはいるものの完全に気を失ってはいないようで、狩魔はまだ手に握られている。何が飛んできたのかと、助けてくれたものの正体を確認する。陽の光を通さない緑色の硝子片に、濃い赤紫の液体。明らかに葡萄酒の瓶であった。雨に半分流されながら、その場に酒の香りが漂う。
瓶が飛んできた方向を見やれば、五、六人の制服姿が駆けてきていた。
「動くな! 武器を捨てろ!」
優秀なる倫敦警視庁の面々、龍ノ介は今日ほど彼らの声を心強いと思ったことはなかった。おそらく誰かが通報してくれたのだろう。警官らによって盗人は取り押さえられ、狩魔も回収された。龍ノ介は今になって自分が震えていたことに気付く。雨で体が濡れたからだろうか。
呆然と座り込むその頭上に、大きな影が現れた。龍ノ介の上だけ雨が止む。
「けっ、検事!?」
見上げた先にはバンジークスが立っていた。大きな黒い外套で龍ノ介を覆うようにしている。こんな雨の中、傘も差さずに。雨に濡れた瞳が気遣わしげに龍ノ介に向けられていた。彼のそんな顔を見たのは初めてである。
バンジークスがここに居ることで、龍ノ介は先ほどの飛来物が〝神の瓶〟だったと知る。法廷でしばしば傍聴席に投げ入れられる瓶だが、あれがよりにもよって頭に当たるとは。龍ノ介は心中で犯人に合掌した。
「怪我は」
「あ……ありません、幸いにも」
検事にずっと雨避けをさせるわけにはいかないとは思うものの、龍ノ介は安心感からか力が抜けて立ち上がれない。バンジークスもそれに気付いたのか、腕を引いて立ち上がらせてやった。情けないやら申し訳ないやらで、龍ノ介は頭を掻く。
現行犯逮捕という分かりやすい形であれ、この後は取り調べが行われるだろう。しかしまだ起訴もされていないのに検事が現場へ駆けつけるなど、いくらなんでも現れるのが早すぎる。
「検事はなぜここへ?」
「……家の裏で騒ぎが起きれば嫌でも気付くものだ」
「家の裏?」
そう言われて初めて、龍ノ介は目の前の屋敷を見た。大きさや色、雰囲気。確かに見覚えのあるものであった。夢中で追いかけていたとはいえ、こんな所まで来てしまっていたことに驚く。そしてバンジークス邸の裏ということはつまり、通報したのは彼なのだろう。そう考えればこの対応の速さも納得できた。
(それにしても、ぼくも運が良いのだか悪いのだか……不幸中の幸いと思っておこう)
それから最寄りの詰所へ移動し、龍ノ介は事情聴取を受けることになった。
署では意外にも丁寧な扱いを受けることができた。バンジークスの効果でなくとも、ただでさえ今の龍ノ介は弁護士ではなく濡れ鼠の被害者で、可哀相に思われたのだろう。一人の警官が手伝いを申し出たので、龍ノ介はアイリスへ荷物を渡すついでに帰りが遅くなりそうだと伝えてもらうことにした。
狩魔を受け止めてだめになってしまった傘は、犯人の攻撃を受けた証拠品として警察が保管している。解決後には返還されるとのことだ。壊れたものを持ち帰るのもどうかと龍ノ介は思ったが、一応はホームズの持ち物だ。きちんと返して謝っておかなければなるまいと、警察には返還を頼んでおいた。
龍ノ介はずぶ濡れの上着の代わりに仮眠用毛布にくるまれ、聴取を行う個室で待たされている。雨の中を走り回って、体力も体温もすっかり奪われてしまっていた。毛布はごわごわとしていたが、冷え切った龍ノ介の体を温めるには充分だ。
しばらくして現れたのはやはりバンジークスであり、見知った顔に安堵する。
「この事件、バンジークス卿が担当されるのですか?」
「実に小さな事件だが、乗りかかった舟だ。執行猶予無しで七年は禁錮処分にしてくれる」
「スリにしては重い求刑ですね」
「警察によると常習犯のようだからな。それに奴は武器を盗んだのだ。更に抜刀していたとあれば、傷害事件に発展してもおかしくはなかった。どんなに甘い検事でも五年は固い」
説明されてみれば納得の意見だ。一言に盗みと言っても色々で、多くの要素から即座に適切な判断を下せる手腕に龍ノ介は感服した。まだまだ法律家としての経験は遠く及ばない。
それからは被害に遭った場所の確認(その点、龍ノ介はあまり役に立たなかった)や、当時の状況説明を行った。日本刀の一撃を傘で止めたという証言に関して、検事の眉間に皺が寄る。疑わしくても事実である。
「念のため確かめておくが、それは本当に傘なのだろうな?」
「ええ、犯人を追いかける直前までは差して使っていました。といっても、これは借り物なのですが」
「借り物?」
借り物と聞くや、バンジークスの目の色が変わった。何かまずいことでも言ってしまったかと龍ノ介は目を泳がせるが、検事はすぐに納得したような、しかし忌々しげに眉根を寄せた顔に変わった。
「ああ、分かった。あの探偵……どうせろくでもない仕掛けがあるに違いない」
なぜホームズのものと分かったのか。聞こうとして止めた。龍ノ介の周りに、男性用の傘を貸す人など彼くらいのものである。それよりも、ろくでもない仕掛けという言葉が引っかかった。どうにも嫌な予感がするのだ。
「が、貴公が傘だというのなら〝そういうこと〟なのだろう。命拾いしたな」
「はあ」
しかし意外にもそれ以上追及されることはない。肩透かしをくらった龍ノ介は、気の抜けた返事しかできなかった。
その後龍ノ介は警察との書類作りが始まり、検事は犯人の聴取へ移っていった。全てが終わった頃には雨も止んでいた。龍ノ介は証人として裁判に出廷するため、その日程が決まれば連絡が来るという。被告人と弁護人の立場は経験済みでも、被害者側に立つのは初めてのことだ。
警察からは帰って良いと言われたものの、龍ノ介はずぶ濡れだった上着がもう少し乾くまで待つことにした。夏も近いとはいえ、濡れた服で出歩いては風邪をひいてしまう……というのは単なる口実で、本当はバンジークスを待ちたかったのだ。今日の礼を伝えるために。
鉄格子のついた小さな窓から外を眺めると、煉瓦の建物や石畳で出来た道が並んでいる。帝都に建つ洋風の建物は、このような欧州の街を真似て作られていると龍ノ介は聞いたことがある。どこまでも続く冷たい石の街。いつもはどんよりと曇った空も、今日ばかりは雨が全て洗い流したかのように晴れ渡っている。
今の時期、倫敦の日の入りは帝都東京と比べて大変遅く、外はまだ明るい。それもまた、龍ノ介が異国の地に立っている証明なのであった。
「まだ居たのか」
感傷を打ち切るかのように、扉が開く音がしてバンジークスが再び入ってきた。手には資料をまとめたらしき封筒。犯人の聴取は終わったようだった。
(ぼくを見つけてわざわざ声を掛けてくださったのかな、なんて)
部屋の扉には硝子の小窓がついており、外からでも中を確認できる。聴取が終わったのであれば検事の仕事は終わったはずだ。そのまま素通りすれば良いものを、こうして声を掛けてくれたのだ。体はまだ冷たいが、心には何か温かいものが広がった。しかし仮にバンジークスが素通りしていたら、龍ノ介の目的は達成されないところだった。
「この後はここを使わないと言われまして。上着が乾くのと検事を待っていたのです」
「私を?」
「助けていただいたお礼をまだお伝えしていませんでしたので……今日は本当にありがとうございました」
龍ノ介は深々と頭を下げた。事件を見て通報してくれたことはもちろん、少々荒っぽいやり方ではあったにせよ、あの瓶が飛んでこなければ袈裟切りにされていたかもしれない。命の恩人と言っていい。
「礼を言うために待っていたとは律儀なものだ。気にするな、犯罪者は捕らえる。当然のことをしたまで」
「それでも、今こうして怪我なくいられるのは検事のお陰です」
顔を上げれば、検事は少しだけ微笑んでいる。龍ノ介にはそれがとても嬉しかった。
さて目的は果たされ、あとは帰るだけのはず。しかし龍ノ介はもう少しだけここに居たいと思ってしまう。不意に、初めてバンジークスの馬車に乗った日のことを思い出した。あの時と同じ、しかし少しだけ広い空間に二人きり。龍ノ介は自分の体温がいつもより高いことに気付いた。だからだろうか、ずっと聞けなかったことを聞いてみようという気になったのだ。
「あの……検事はなぜ、ぼくを助けてくださるのでしょうか」
今日の事件、通報だけして後は警察に任せればどうにか解決していただろう。伝説の検事がたかだかスリの、しかも現行犯逮捕の裁判に携わるなど、普通でないことは龍ノ介にも分かる。それだけではない、勉強の指導にしたって大変な労力だ。龍ノ介が一人前になったところで検事に別段得はないというのに。
「迷惑であったか」
「迷惑などとんでもありません! ただ……」
「?」
適切な言葉が見つからない。日本語でさえ何と表現したらいいか分からない言葉を、英語の中から必死で探す。助けてくれるのは嬉しい。しかしそれがどういう意図のもとに行われているか、知るのは少し怖かった。
「ぼくは勘違いをしてしまいそうなのです」
「ほう、どのような?」
バンジークスは適切な理由を提示するが、龍ノ介の頭は都合の良いように出来ていて、そこに感情が隠れているのではと思ってしまう。
「検事が、ぼくを好意的に思ってくださっているのではないかと……突拍子もない話ですが、そうとでも考えなければ検事のなさることに納得がいかなくて」
そうであれば嬉しいと思ったことまでは流石に口にしなかった。龍ノ介の中にあるその感情は決して無色透明なものではなく、言葉にしてしまえばあっという間に成長してしまうと分かっていたからだ。しかし龍ノ介は確信に近いものを持っていた。そうでなければ黙っていたに違いない。
「本当に、その答えを知りたいか」
静かに、ゆっくりと頷く。どんな形だって構わなかった。バンジークスの心が知りたい、龍ノ介の願いはただそれだけだ。
「私はおそらく貴公が思うより単純な考えで行動している。貴公が感じ取ったことは、率直に私の感情だと思ってくれて構わぬ」
「それは、つまり」
バンジークスが龍ノ介を好ましく思っているということ。少しずつではあったが、受け取っていた気持ちは勘違いではなかった。
(どうしよう、思ったよりずっと嬉しい。ぼく、いま変な顔をしていないかしら)
嬉しさと、動揺と、一言では表せない感情が渦巻いている。思ったことは全て顔に出てしまう龍ノ介だ、今の自分がどんな表情をしているか想像もできない。
「……こういうことだ」
不意に検事の手が伸びて、龍ノ介の頬を捉えた。
「っえ、あ」
眼前に青い眼が迫り、顔を寄せられていると知る。氷のような瞳に龍ノ介だけが映っている。もう少しで鼻がぶつかってしまいそうな距離。しかしそれ以上は近付こうとしなかった。至近距離に真意を見る。
(ああ、〝こういうこと〟だったのか)
触れられた頬は熱く、血が沸き立つようだ。言葉にするまでもなく既に結論は出ていた。顔を寄せているだけなのに、想いに気付いただけでこんなにも恋しい。あまりに血の巡りが速いから頭がぼんやりしていて、冷静になど考えていられない。これは夢ではないかと疑うほどの幸福だった。
龍ノ介が呆けている間にバンジークスは離れてしまう。ほんの十数秒の出来事。
「これ以上を知りたいと望むなら、相応の覚悟を以て踏み込むことだ。貴公の勘違いで済まされなくなってからでは遅い」
バンジークスは龍ノ介から目を逸らしてしまった。あの熱い視線が隠されてしまった。しかし先の出来事を幻だとは思いたくなくて、龍ノ介は必死に名残を追う。全て見逃さないように。
眼前に迫った蒼い炎と、触れそうになった温度を、龍ノ介はまだその肌に感じている。
(くちづけ、してくださると思ったのだけど)
あのようなことをしてなお逃げ道を残しておくとは、優しいのだかずるいのだか。
確かに龍ノ介は勘違いをしていた。バンジークスが向ける眼差しにあんな熱が秘められていたなど、近くで見るまで分からなかった。しかしそれは嬉しい誤算であったのだ。おそらく、互いに。
「ぼくを見てください」
今ここで伝えなければ。今を逃してしまったらきっと全て無かったことになってしまうと龍ノ介は思った。彼を引き止められる間に、この熱を忘れてしまう前に。
「ええと、たった今自覚したばかりなのですが」
龍ノ介の胸は熱い。こんな感覚は初めてだった。こういう場面では何と言えば良いのか。今まで言ったことなどないはずなのに、気持ちは勝手に声になって零れ落ちた。
「ぼくはあなたが好きです」
言ってしまった。龍ノ介は今更になって恥ずかしくなり俯いた。バンジークスが今どんな表情をしているのか、龍ノ介はそれが怖くて顔をまともに見られない。
「目を」
「え?」
掛けられた言葉はあまりに短かった。龍ノ介が聞き直そうと顔を上げると、すぐに視界が黒く塗り潰される。
布越しの温かい感触。検事の手で目を覆われているのだと分かった。そして額に温かいものが当たる。これの正体は分からない。考える間もなく視界が晴れる。龍ノ介はようやくバンジークスと目を合わせることができた。いつもと同じ仏頂面のようで全く違う。見たことのない、柔らかな空気を纏っている。彼がこんな表情をするとは。そしてそれが自分に向けられているのだと思うと、龍ノ介は嬉しさで倒れてしまいそうになった。
徐に、白い手袋の右手が差し出される。
「私はこれから帰宅するが……来るか?」
気付いた時には差し出された手を取っていた。それはほとんど衝動的に。龍ノ介の肩からするりと毛布が落ちる。服はまだしっとりとしているが、もう寒くはない。バンジークスは少し難しい顔をして、しかし一回り小さな手を固く握って問う。
「この手を取る意味、貴公は分かっているのか」
薄紙でできた本をそっとめくるように、一つ一つ丁寧に。誘っておいてなお確かめるとは、どこまでも慎重な男だ。しかしバンジークスが心配するようなことは何もない。これから龍ノ介がそれを証明するのだから。
「はい」
相手のことを知りたい。そして自分のことを知ってほしい。言葉の刃こそ幾度となく交わしたが、二人はあまりに互いを知らなすぎた。
件の裁判が終わり、被告人はバンジークスの求刑通りに禁錮刑となった。全ての証拠品は記録された上で持ち主に返還され、龍ノ介はそれを持ってベーカー街へと帰還する。気は重いが、謝罪はしなければ。
「ごめんなさいホームズさん、傘をだめにしてしまいました」
「傘? ああ、この前の雨か。そっちは滅多に使わないから構わないよ」
パイプをふかしながら、ホームズは事もなげに返事をした。どうやら、彼を困らせるような結果にはならなかったようだ。
「そっち?」
「ボクの傘は二本あるのさ。キミが壊したのは非常用……というか、それは傘として使うことが目的ではない」
「??」
「気付かなかったのかい? それ、中に剣を仕込んであるんだ。重かっただろう」
黒い傘をよく見ると、持ち手の所に薄く切れ目が入っている。少し回せばそれは外れ、中から銀色の刃が現れた。仕込み杖とはいえ、なかなかにしっかりした造りの剣である。流石は名探偵というべきか、なんというものを持っているのかと龍ノ介はぎょっとした。
「よくもまあこんな物騒なものを……」
「キミの国だってよくやっているだろう。煙管の中に鉄砲を仕込んだりさ」
物騒と言ってもこの傘に助けられたのは事実で、ある意味ホームズも命の恩人と言えよう。しかしこれが剣だと分かっていたら、あのときの龍ノ介はきっと抜いていた。ともすれば、正当防衛とはいえ龍ノ介も人を傷付けてしまっていたかもしれないのだ。今となっては知らなくて良かったと思う。
バンジークスは果たしてこれが仕込み傘だと気付いていたのか。その疑問は次の日曜日に持ち越されることとなった。
この勉強会を会いに行く口実にして良いものか。それとこれとは話が違うような気がして、龍ノ介は躊躇っていた。最近では用語の難解な本でも少しは読めるようになり、質問も手記を何頁も埋め尽くすほどではなくなった。新しく借りた二冊の本も、まだ完全に読み終わったわけではない。だのに日曜日になると足はいそいそとあの屋敷へ向かおうとしてしまうのだから、自分のことながら呆れ返る。
(ムジュンしている……いや、フジュンと言う方が正しいかな)
自分でもなかなか上手いことを言ったなどと笑っている場合ではない。浮かれている。自覚はある。人と想いを通わせるのはこんなにも幸せなことなのだと、久し振りに思い出したのだ。
(ダメだダメだ! 公私は切り離さなくては! 恋にうつつを抜かして勉強に身が入らないだなんて笑えないぞ!)
部屋をうろつく足がぴたりと止まる。ふと気が付いたのだ、龍ノ介がバンジークスと想い合うことの意味に。
現代の英国において、同性愛は重罪だ。ことが公になれば検事の立場を危うくしてしまうのは明白。もちろんバンジークス自身も知らぬはずがない。それでも想いを通わせることが叶ったのは奇跡というほかないだろう。
(冷静にならなければ。あの方に迷惑をかけるわけにはいかない)
熱くなる心に冷水を浴びせ、龍ノ介は静かに着席した。借りた本を見つめれば脳裏に彼の顔が浮かぶ。もとより親切心から龍ノ介に本を貸してくれているのだ。その厚意に対し、真摯に応えようと決めたではないか。初心に戻り、今度こそ精神を落ち着ける。龍ノ介はよし、と気合を入れ直し、本の続きを開いた。
それからちょうど七日目の朝。しっかりと読み込んだ本を携え、龍ノ介はバンジークス邸の扉を叩いた。
いつものように女中が出迎え、屋敷の主人を呼ぶ。日曜日のバンジークスは、安息日と呼ぶに相応しい軽装である。龍ノ介も最初はその姿に驚いたものだが、今ではすっかり見慣れてしまった。逆に龍ノ介は普段と変わらず学生服なので、それはそれでバンジークスに驚かれたりもした。
書斎へ入り、勉強の体勢をとる。バンジークスの様子が普段とは少しだけ違うことに、龍ノ介はまだ気付いていなかった。
「今日は前回お借りした本の内容と合わせて確認したいことがあるのですが、もう一度見せていただいてもよろしいですか?」
「ああ、構わぬ」
復習したい箇所を開いて、龍ノ介は次々と質問を投げた。なるほど本はよく読み込んできたようで、バンジークスの志気も上がる。生来、真面目な人間には丁寧に対応する性質だ。集中し始めた二人の周りには、瞬く間に本と覚書の紙が散らばっていった。
そうこうしている内に、勉強を始めてから三時間ほどが経とうとしていた。一区切りついたところで龍ノ介からうめき声が上がる。
「うぐぐ……少し頭を整理してもよろしいですか」
「ああ、こんな時間か。待っていろ」
首を傾げる龍ノ介をよそにバンジークスは席を立ち、廊下へ出ていってしまった。もう頭には何も詰め込めない状態であったため、本を閉じて伸びをする。ふと見渡せば身の周りは開いたままの本が何冊も重なっていて、こんなにも夢中になっていたのかと苦笑した。
龍ノ介が日曜日にこの屋敷を訪ねると、いつも真っ直ぐこの書斎へ来る。一度だけ違うことが起きたが、それきりだ。教えを乞いに来ているのだから当然のことではあるが、これが恋人同士の逢瀬だと誰が思うだろうか。
もちろん、これを口実にするつもりはない。それは先日固く心に決めたことだ。しかし二人の関係に呼び名ができたことは幻ではないはず。経験のない龍ノ介は、どうすれば良いか分からないでいた。
緊張感の解けた龍ノ介が眠気を感じ始めた頃、バンジークスが応接室へと呼んだ。これは初めてのことだ。驚きつつも、呼ばれた先に何が待っているか考えるほど思考力に余裕はなく、案内される通りに部屋を出た。
応接室の扉を開けると、午後の穏やかな光が大きな窓から差し込んでいた。いつもの書斎にも窓はあるが、本が日焼けしないようあまり大きくはない。倫敦は相変わらずの曇天にもかかわらず、重かった頭も冴えるような明るさを感じた。
低い机の上には、邸の女中によってお茶とお菓子が用意されている。夕陽を注いだような紅茶と、口の中でほろりと崩れる黄金色のお菓子だ。このお菓子はアイリスがたまに作ってくれるので、龍ノ介も何度か食べたことがある。バンジークスに促され龍ノ介も着席した。焼き菓子を口に運べば疲労した頭に甘さが染み渡り、自然と笑みがこぼれる。
「おいしいです。女中さんが作られたのですか?」
「ああ、彼女は菓子作りが趣味なのだが、私はあまり食べぬからな。貴公が食べれば彼女も喜ぶ」
それを聞いて、龍ノ介はすれ違いに応接室を出た女中のことを思い出した。随分と機嫌が良さそうだったのはこのためだったようだ。
思えば、お茶を出されるほど龍ノ介が長居したのは初めてだった。長い休憩は取らず限界まで集中して、日の高い内に復習をしながらふらふらと帰るのが常だ。それが今日はどうしたことか、休憩時間にお茶菓子まで出るとは。思いがけぬもてなしを不思議に思いながらも享受していると、バンジークスが重い口を開いた。
「……邸の者に言われたのだ。客人に茶のひとつも出さずに帰すとは何事かと」
「いえ、そんな、お構いなく! ぼくは勉強を教わりに来ているのですから!」
「それでも、だ。私も分かってはいたのだが……長く引き留めることになっても悪いと思い、言いあぐねていた。失礼をお許し願いたい」
向かいに座るバンジークスが軽く頭を下げる。龍ノ介には、それだけでも彼が随分と悩んでいたことが伝わった。傍から見れば小さなことだろう。しかしこの二人にしてみれば、この休憩時間は大きな意味を持つのだ。
「本当に、お気になさらないでください。ああ、でも」
「?」
「勉強以外のことをお話しできる時間があればいいなとは、思っていました」
紅茶を一口飲むと、柔らかな香りが鼻を抜けほんのりと渋味が広がる。甘い焼き菓子にとても良く合い、アイリスの香茶とはまた異なる趣であった。きっと高級な茶葉を使用しているのだろう。
休憩を取ってもらったは良いが、ずっと沈黙しているわけにもいくまい。さて何を話したものか。そこで龍ノ介は、バンジークスに聞いておきたいことがあったのを思い出した。せっかくの機会だ。龍ノ介は湯呑を置き、それを口に出した。
「そういえばお聞きしようと思っていたのですが、あの事件の時にぼくが使っていた傘、仕掛けについて検事はご存知だったのですか?」
「あれか。事情聴取の時点では知らなかったが、その後の調査で分かった。中に剣が仕込まれていたようだな」
「では……」
「〝なぜ裁判でそこに一切触れられなかったか〟?」
傘が剣だと知ってからずっと疑問に思っていたことだ。龍ノ介は断じてあれを剣として使用してはいないが、もし裁判でそれを問われていたら無実を証明することはできなかった。
「はい。検事が裁判より前にご存知だったのなら、何か聞かれてもおかしくはなかったと」
「関係がないからだ。貴公は聴取の時点であれが剣だと知らなかったのだろう」
らしくない。龍ノ介は反射的にそう思った。法廷で龍ノ介と向かい合っている彼は常に、あらゆる可能性について検討する人間だ。たとえそれが検察側にとって不利になる可能性であっても。被害者といえど凶器を持っていたと分かっていれば、法廷から追及は免れなかったはずなのだ。
「確かにそうですが、仮にぼくがそれを知っていて、警察が見ていないところで抜刀していたとしたらどうするのですか」
「そして素知らぬふりで裁判に臨んだと?」
「可能性はあるでしょう」
検事はふん、と鼻で笑う。今度はバンジークスが「らしくない」と思う番だった。ジーナ・レストレードの裁判で分かった通り、彼の知る龍ノ介は自分の間違いをであろうと必要であれば全て明らかにする人間だ。加えて、この愚直な性格である。もしそれを知っていれば、証言のどこかしらで口をついて出てきた可能性は非常に高い。
しかしそれらの理由を抜きにしても、バンジークスは決定的な証拠を握っていた。
「その可能性は無い」
「なぜそう言い切れるのですか」
「大きな見落としだ、弁護士よ。仮に貴公が抜刀していたとしたら、必ずそれを証言する者が居るだろう」
龍ノ介は考える。あの場に警察が現れるまで、目撃者は無かった。龍ノ介が剣を犯人に向けていて、それを見たと言うことで得をする人物。それができる人物。
「あ、犯人……! ぼくが抜刀していれば、犯人は正当防衛を主張して減刑を図ることができます!」
「まさしく。しかし奴の聴取や裁判の証言でそのような発言は無かった。即ち貴公の証言通り、あの場において件の傘は〝ただの丈夫な傘〟であったことが裏付けられたのだ。だから追及しなかった」
言われてみれば、至極単純な話であった。知らなかったことを証明するのは難しく、龍ノ介も自力では不可能だと思っていた。しかし「証言がない」ことも証明に繋がるのだと、このとき身をもって知る。
「納得したか?」
「ええ、これですっきりしました。確かに大きな見落としでしたね」
疑問が解け、喉につかえていたものも取れた。論理と証言、龍ノ介も幾度となく法廷で使ってきたものだが、いざ立場が変わるとつい見えなくなる部分もあるものだ。この反省は謹慎が解けるまで覚えておいた方が良いだろう。
龍ノ介は四角い焼き菓子をもう一つつまむ。少し塩がきいたそれは、あっという間に舌の上でほどけた。
「休憩中にも法廷の話とは。貴公の生真面目さには恐れ入る」
口元にからかうような笑みを浮かべて、バンジークスはそう評した。二人にとって、私的な時間は貴重だ。
「はは、すみません……正直に申し上げますと、何を話せばいいか分からなくなってしまうのです。緊張して」
バンジークスの眉間に皴が寄ったのを見て、いくらなんでも正直に言い過ぎたか、と心中で謝った。彼の前で何か取り繕ったり、誤魔化すことは通用しない。龍ノ介は元より何でも(馬鹿がつくほど)素直に話してしまう性質であるが、それはそれで問題が無いわけではないのだった。
「そうか、貴公も」
「へ?」
検事の声は意外にも穏やかなものだった。龍ノ介が少し俯きがちな顔を覗き込むと、いつもより血色が良いことに気付く。
「貴公と私的な時間を過ごすのは、正直に言って私も落ち着かぬ。話したいことは山とあるはずなのだが、顔を見ると忘れてしまう」
表情からはとても読み取りにくいが、照れているのだ。その事実に龍ノ介は感動すら覚えた。あのバンジークス卿が、東洋の若者一人の前で落ち着かないなどと。一体誰が想像できただろうか? 龍ノ介は急に親近感が湧いてきて、心の距離がまた少し近付いたように感じた。
龍ノ介には決してそんなつもりはなかったのだが、バンジークスは困ったように指摘する。
「笑ってくれるな」
「あれ、ぼく、笑ってました?」
「満面でな」
弁護席で気合を入れるときのように顔を二、三度叩いてみるも、龍ノ介の表情筋は勝手に笑顔を作ってしまう。
「す、すみません。検事も同じなのかと思うと、なんだか嬉しくなってしまって」
惚れた弱みか天性の愛嬌か、龍ノ介の言動は時折急激に人を惹き付ける。バンジークスにとっては今が正にその瞬間であった。
ただでさえ愛しい恋人が自分の家の中、手の届く範囲に居るのだ。長居してほしくないはずがない。ただバンジークスも自分で言った通り、龍ノ介の時間を取り過ぎるのはいかがなものかと考えて引き留めなかった。確かにこれは勉強会だが、始めた時と今とでは二人の関係が変わった。これを恋人に会うための口実として良いものか、バンジークスも悩んでいたのだ。
本来の目的は変わらない。だがこうして私的な時間を過ごす機会くらいは許されたい。裁判所の外で二人が会う理由はこれくらいしかないのだ。
「そういえば、もう一つお聞きしたかったことがあるのです」
バンジークスが掛けようとした言葉は、音になる前に飲み込まれる。仕草が巧みに隠されていたお陰で龍ノ介がそれに気付くことはなかった。
「ぼくの勉強を見てくださるのは、労働にあたらないのですか?」
「ふむ……言われてみれば」
検事が日曜日を提案したのは、単純に仕事が休みで都合が良かったからだ。安息日は休むべしという教えの根付いた土地ではあるが、科学の進歩目覚ましい倫敦においては昔よりその考えも薄まってきている。そもそもバンジークスは、これを労働とは考えたこともなかった。見る者が見れば労働と捉えられるかもしれないが。
「自宅に居る間は私人だ。問題なかろう」
「思ったより自由なのですね」
「そもそも恋人と過ごしているのだから、私は充分に休んでいるつもりだ」
「あ……そ、そう、でしたか」
龍ノ介にとって勉強中の指導は「休まっている」などとはとても言い難い。しかし今はそんなことを考えている場合ではなかった。
恋人、と。バンジークスの口から初めてそう言われたのだ。一週間前にあれだけ自分を律したはずなのに、いざ言葉にされてしまうと龍ノ介の心はふわふわと浮かれる。足が地面から離れてしまったような感覚だった。嬉しいやら気恥ずかしいやら、それらを飲み込むために龍ノ介は再び湯呑に口をつける。
「……目の前で展開する裁判に比べれば、過去の判例など簡単なものだ」
バンジークスも自分で何を言ったのか理解したらしく、取り繕うような言葉を並べてみせたが既に遅い。龍ノ介の表情筋はもはや緩みきってしまい、バンジークスの耳は薄く朱に染まっている。二人は無言だが、その間に流れる空気は至極穏やかで、甘ささえ感じられる。ほんの少しだけ、しかし確実に互いの距離は近付いた。おそらく今後もこの休憩時間は用意されることだろう。
さてそろそろ勉強を再開しなければ。いつまでもこのむず痒い空気の中でじっとしていられる二人ではないのだ。
龍ノ介がバンジークス邸を後にしてすぐ、一人の英国紳士に出くわした。その顔には見覚えがあったために、ひとつ会釈を送ってみる。すると男性の方から近付いてきた。
「君はたしか、ホームズ氏の家の学生さんですね」
つい二週間ほど前、ホームズに相談をしていた依頼人だ。制服を着ていないことから非番であることが窺えた。
「随分ご機嫌のようだ。何か良いことでも?」
「ええ、そんなところです。そうだ、ホームズさんの調査は順調ですか?」
「それがまだ良いご報告を頂けておりませんで。色々と調べてくださっているようなのですがね」
差し迫る家賃の支払い期限を考えれば、探偵が無駄な時間を過ごしているとは考えにくい。そもそも物を落としただけであれば、探偵の力を求めたりはしないだろう。この案件は単なる遺失物探しより厄介なのかもしれない。何か手伝えることがないか、龍ノ介は帰宅したらホームズに聞いてみることに決めた。
龍ノ介の思案を他所に、依頼人は更なる問いを投げかける。
「もしや君、バンジークス邸から出てきたのですか」
「えっと、まあ、はい。ちょっと指導をお願いしていまして。なぜ分かったのです?」
「門から出てくるのがちらっと見えたのですよ。死神の屋敷はここらでは有名ですから。それにしてもあの検事が指導を? なかなか勇気がおありのようだ」
「確かに厳しいですが、悪い方ではないですよ」
バンジークスは厳しく迫力もあるが、罪もない人に危害を加えるような恐ろしい存在と勘違いされるのは龍ノ介としても本意ではない。誤解があるなら解いておきたいと思って言った言葉だったが、依頼人はそれを聞くとなぜか満足そうに笑って、適当な挨拶と共に去っていった。
とある夜の検事局。バンジークスの執務室には一人の客人が来ていた。倫敦警視庁の制服を着た男だ。男は検事と二つ三つ言葉を交わした後、封筒に入れられた書類を机に置いた。
「重要な証拠品を紛失してしまうとは面目ない」
「全くだ。おかげで調査計画に甚大な影響が出た。警察は相応の処分を覚悟しておくのだな」
バンジークスの担当する事件で、困ったことが起きていた。事件は殺人。発覚から調査までは問題なく進んだ。調査の中で決定的な証拠品が見つかり、犯人は難なく突き止められた。その時点で担当検事がバンジークスに決定したが、直後にその証拠品が忽然と消えてしまった。
とんでもない異例の事態だ。他に手掛かりはなく証拠不十分として、検事局は犯人が分かっているのに、その人物を裁判へ引きずり出すことができなくなってしまっていた。
現在、警察が総力を挙げて秘密裏に捜索を行っている。警察官はその経過報告に来たのだった。
「ところで。先日、貴殿のお屋敷の近くを通りがかったのですが、そこから日本人が出てきましてね。私の見間違いでなければ、あれはジーナ・レストレードの裁判で弁護をしていた男性ではないでしょうか」
「ああ、確かにそうだ。それが何か?」
「いや、貴殿は日本人嫌いと噂で聞いておりますし、しかも検事が弁護士を家に招いたというのが意外でして。不躾を承知で伺いますが、どういったご用件だったのです?」
私事に口を出すなど、全く不躾なことだ。しかしあえてそう前置きして聞くからにはそれなりの理由があるのだろう。バンジークスもその理由は容易に想像できるため、警戒心を強めて返答する。
「あれはただの弁護士ではない、我が国が受け入れた留学生だ。法律家の先達としてたまに本を貸してやっている。奴はそれを返しに来て、時折質問を持ち込んでいるだけだ」
「ほう、流石は高潔な貴族でいらっしゃる。安息日にまで面倒を見てやるとは……ただならぬ仲を疑わずにいられませんな」
「くだらぬ戯言に付き合う暇はない。用が済んだならお引き取り願おう」
慇懃無礼な態度も詮索するような物言いも、何もかもバンジークスの気に障る。苛立ちも露わに一蹴すると、警察官は肩をすくめ「これは失礼」と小さく謝罪して執務室を出て行く。その口元に嫌な笑みが浮かんでいたのをバンジークスは見逃さなかった。
一人になった部屋の中で報告書類に目を通しながら、先のやり取りがバンジークスの頭から離れないでいた。
(仕事ができぬ割に、こういった事には目敏いらしい)
自然と思い出されるのは、黒く小さな日本人。勉強を見てやることにしたのは決して下心からではない。バンジークスが龍ノ介に可能性を感じていたのは確かだ。その龍ノ介が謹慎処分を受けたと聞き、それでも律儀に勉強に励む姿をその目で見て、現場復帰のため協力してやりたいと彼なりに考えたのである。
根底に龍ノ介への好意が無かったとは言い切れない。しかし少なくともそう決めた時点では、まさか恋人になろうとは夢にも思っていなかった。
(我が身に降る火の粉なら払えば良いが、弁護士に危害が及ぶのであれば……注意しておかねば)
あの警官が何かしらの悪意を持っていることはバンジークスも自覚している。自分に対してのみならば自力で対処できるだろう。しかしその悪意が周りの人間、特に大事にしている者に向くのなら、大人しく黙っているわけにはいかないのだった。
次の訪問の機会は、龍ノ介の想像より早く訪れた。ヴォルテックスへの報告を済ませて帰ろうとしていたところをバンジークスに捕まり、次の日曜日に来るよう言われたのだ。その様子が深刻そうなもので、龍ノ介も心配になる。
「何かあったのですか」
「ここでは言えぬ。とにかく次の日曜日に」
「え、ええ。分かりました」
有無を言わさぬ真剣さについ首を縦に振った龍ノ介だったが、思い返すほどに不安は大きくなる。外で話せぬ事情とは何なのか、検事が何か危ないことに巻き込まれているのではないか? 考えは尽きないが、結局は実際に会って話をするまで分からないのだと腹を括って、龍ノ介は屋敷の呼び鈴を鳴らした。
出迎えたバンジークスはやはり警戒した面持ちで、龍ノ介の緊張は未だ解けない。
「急な呼び出し、失礼した」
「いえ、ぼくは構わないのですが……」
「分かっている。不穏な言い方をしてしまった」
龍ノ介が通されたのはいつもの書斎だったが、今日ばかりは勉強をしに来たわけではない。心なしか音量を抑えた声で話し始めた。
「一人、妙に嗅ぎ回っている者がいる」
「え、な、何を?」
「……我々の関係を、だ」
バンジークスがこの部屋を選んだのには理由があった。書斎は、この屋敷の中で一番窓が少ない部屋だ。
龍ノ介は、自分の心臓がひとりでに飛び跳ねたのではないかと思った。今までの自分の行動を振り返る限り、人目がある場で疑われるようなことは何一つ無かったはずだ。一体どこから漏れたのか、龍ノ介には見当さえつけることができない。
この国でこの関係が露呈することの恐ろしさを、龍ノ介は今初めてその背中に感じた。
「どこで見ているか分からぬ。普段通りにしていれば問題ないとは思うが、貴公も気を付けておけ」
「は、はい……」
由々しき事態である。一見ただの検事と弁護士として過ごしているようでも、疑いの目で見られればどんな情報を拾われてしまうか分からない。
だが一方で、龍ノ介はどこか安堵していた。彼は話を聞くまでバンジークスがどのような困難に巻き込まれているのかとあれこれ想像を巡らせていたのだ。そういう意味では緊張が解け、ほっと息を吐く。
「ああ、でも検事が何か危ない目に遭っているのではないのですね」
「安心している場合か。ことが公になれば、弁護士の資格を剥奪される可能性もあるのだぞ」
「そっ、それは困ります! でもそれは検事も同じことなのでは」
「それもそうだが、貴公はただでさえ謹慎中の身であろう。余計な波風は立てぬ方が良い」
この二人、互いに相手を第一に案じているあまり、自分のことは後回しらしい。結局、龍ノ介は外出時特に気を付けるようバンジークスから念を押され、それを了承するほかに無かった。
龍ノ介とてバンジークスになるべく危ないことはしないでほしいと言いたかった。言えるわけがない。立場が違うのだから。
しかし彼らは知らない。問題が解決するときは、もうすぐそこまで迫っている。
「……ホームズさん、調査の進捗が思わしくないのですか?」
清々しい朝、ホームズの顔は決して上機嫌には見えなかった。質屋で楽器を取り違えた時ほどの落ち込みようではないにせよ、渋い顔をして目を瞑り、起き上がることさえ嫌だとでも言うように長椅子にもたれかかってている。三週間ほど前に受けた依頼はまだ解決していないらしく、さしもの名探偵も今度ばかりは行き詰まったか。龍ノ介はそろりと声を掛ける。
「いいや、今日の内に解決するさ。今回の事件も、しばらく解決しなかった問題も全部ね」
今回の件以外に解ける謎があるというのは龍ノ介も気になったが、とにかく解決の目処が立っているならば余計にこの様子は疑問である。事件が解決すれば家賃のことで頭を悩ませる必要もなくなるはずなのに、一体どうしたというのか。考えられるのは、ホームズが真実の向こう側に何か厄介なものを発見してしまった可能性だ。それが何なのか、龍ノ介には見通しも立たないが。
何度目かの溜息の後、ホームズはゆっくりと立ち上がっていつもの鹿撃ち帽を被った。
「事件を解決するには現場に行かなくてはね。キミも来たまえ、ミスター・ナルホドー。どうせ今日も暇なんだろう?」
「全くその通りですが、あえてそう言われると否定したくなりますね……」
龍ノ介にこれといって予定はなく、そもそも何か手伝うことがあればと思ってホームズに声を掛けたのだった。それでも暇人扱いされると手伝う気も幾分か削がれてしまうのだから、人間とは不思議なものだ。
ようやく気が乗ったらしいホームズに連れられ、龍ノ介は街へと歩き出した。その目的地も知らずに。
二人が足を止めた場所は中央刑務裁判所であった。今日はヴォルテックスへの報告もなく、当然裁判のために来たわけでもない。龍ノ介がなぜと問うより前に、ホームズはすたすたと歩いてしまう。しかしその足が向かう先は入口ではなかった。
「あれ、中に入らないのですか?」
「いいから。こっちだ、ミスター・ナルホドー」
二人は裁判所の横手、馬車を停留させるための場所へ出た。ホームズはそこに停まっている馬車を一通り見渡してから、迷わずその中の一台に向かって歩き出す。黒い車体に美しい黒毛の馬が二頭。近付いてようやく気付いたが、間違いなく龍ノ介も乗ったことがあるそれだ。
馬は繋がれており、御者は離れているようだった。
「えっ、それはバンジークス卿の」
龍ノ介が全て言い終わる前に、ホームズはその扉を躊躇うことなく開いた。勝手に個人の馬車を検めるなど、探偵といえど許されないのでは。色々と言いたいことはあったが、龍ノ介も恐る恐るその中を覗く。無人だと思われたそこには、一人の男が驚愕の表情でうずくまっていた。
その顔、龍ノ介にも見覚えがあった。ホームズの依頼人である警官だ。今日は制服を着ている。
「や、やあホームズ氏。これはその」
「うんうん、説明は不要だ。アナタが今何をしているか? それを推理したからこそ我々はここへ来たのですよ。見たところ、どうやら間に合ったようだ」
何に間に合ったのか龍ノ介には分からない。目の前の男が気まずそうにしているのを見る限り、ここで何かをしようとしていたのは明らかだ。他人の、よりにもよって死神の馬車に侵入してまでやらなければならないこととは何か。もちろんあまり良い予感はしない。
「とにかく、そのまま馬車から降りたまえ」
いつものように話しているはずだが、ホームズにはどこか有無を言わせぬ気迫があった。警官は少し躊躇ったが、結局は大人しくそれに従う。
なぜバンジークスの馬車にこの警官が。理由はともあれ、ここで彼に会うことこそが依頼を解決するために必要な点だったのだろう。龍ノ介には、この案件を解決することが依頼人の不利益になる気がした。
「ではボクの推理を披露する前に、まずアナタがこれから何を弁明するかを当ててご覧に入れよう」
やはり今日のホームズの言動は刺々しい。彼が何を見通しているのか、それはこれから明らかになるのだろう。
「アナタが失くしてしまったモノ、それはひと月ほど前に起こった殺人事件の証拠品でしたね。血痕のついた懐中時計……聞けば被害者と争った際に壊れてしまって、犯行時刻を示したままだとか。名前が彫ってあるがそれは被害者のものではない。どう考えても犯人を示す決定的な証拠だ。それが消えてしまったせいで、警察も検察も次の行動を起こせないでいるそうですね」
龍ノ介が依頼の詳細を聞いたのはこれが初めてだ。警官個人の探し物だと思っていたため、ことが予想外に大きく目を剥く。そんな事態では警察も検察も面子が丸潰れである。そのため表沙汰に捜査できず、苦肉の策でホームズを頼ったのだった。
「担当検事はバンジークス卿で、証拠品が消えたのは彼が担当と決まってすぐだ。アナタは彼こそが証拠隠滅を図ったのではないかと疑い、違法と分かっていながら検事の身辺を洗い始めた」
探偵が何かとんでもないことを言い始めて、龍ノ介は思わずその顔を凝視した。ホームズは意に介さないといった様子で、警官の方を向いて目を閉じたままだ。
警官の方はというと、先ほどまでの表情が嘘のように目を輝かせてその身を乗り出す。
「そう! その通りなのです!」
「でも、〝何も見つからなかった〟」
探偵が閉じていた瞼を開いた瞬間。龍ノ介はその横に居ながら、空気が凍ったような感覚を覚えた。それは目の前の警察官も同じだったようで、何か言おうとしていた口を噤む。
「それ、は……」
「もう一度言おう。〝何も見つからなかった〟んだ。違いますか?」
「う、ぐ」
一時は生き生きとしていた警官だが、今度はいよいよ窮したらしく続く言葉は無い。ホームズは口を開かず、龍ノ介は状況が正確に理解できていない。この場は一時的に膠着状態に陥った。
次に話を続けられるのはホームズ一人だ。しかし龍ノ介には、彼が何かを待っているように見えた。そしてそれを裏付けるかのように、沈黙を破る第三者が現れる。
「人の馬車の前で何をしている?」
馬車の持ち主、バンジークス卿がちょうど裁判所から出てきたのだ。ホームズは待っていましたとばかりに検事を手招きする。バンジークスは嫌そうな顔をしながらも歩み寄ってきた。どちらにせよ、三人の後ろにある馬車に乗らなければこの場を去ることはできない。彼は探偵の周りに居る人間を確認すると、途端に鋭い視線を向けた。
「探偵……なぜ弁護士を連れてきた」
「まあまあ、そう睨むなよ。暇そうだったし、彼を連れてきた方が話が早いと思ってね」
バンジークスの忌々しげな視線の原因は、龍ノ介にもあったようだ。法廷外の公的な場所では極力会わないよう互いに避けているが、偶々会ったとしてもここまで嫌そうな顔をされたことはない。龍ノ介に思い当たる節も無く、検事の口ぶりから自分がこの場に居ること自体に不満があるのだろうと想像することしかできなかった。理由は変わらず不明のままだが。
ホームズはそれも構わず話を再開する。
「役者が全員揃ったところで……ちょっといいですか? お巡りさん」
今にも走って逃げ出してしまいそうな警官を牽制するかのように。
「ボクはアナタの他にもいくつか事件を追っていましてね。ひとつ興味深い話があるのです」
「わ、私は忙しいので、あなたのお仕事の話を聞いている場合では」
「まあまあ、ぜひお聞きいただきたい。それに今アナタは忙しくないはずだ。なぜなら今日は非番なのだから」
龍ノ介とバンジークスは目を剥いた。ホームズの言葉が本当ならば、この警官は非番の日にわざわざ制服を着てバンジークスの馬車に侵入したことになる。龍ノ介にはこの状況がますます分からなくなった。
「とある犯罪組織の話です」
この街に巣食う闇の一つに、その組織は存在する。主に詐欺を働き、ときには暴力にものを言わせることもある。人数はさほど多くないが資金がそこそこ潤沢で、小さな火種なら金で揉み消すのが常套手段。街の権力ある人間に賄賂を贈っているという話もある。
ホームズの調査によれば、組織は倫敦警視庁の警官を買収しているとのことだ。その組織が関わる事件や組織自体に調査の手が伸びれば、証拠の隠滅や捜査の攪乱を行って密かに邪魔をするという段取りだ。警察はこれに酷く手を焼いており、何度も苦い思いをさせられているという。
「その件ならば私も把握している。目下調査中だが、芳しい報告は上がっていないな」
バンジークスが口を挟んだ。警察だけでなく、検察にとっても見逃せない案件なのだ。身内に内通者が居るというのは、それだけで組織の根幹を揺るがしてしまうほどの危険がある。
「それなら、ボクがキミに報告してあげよう。ユダ探しは今日で終わりだとね」
ホームズは綺麗に片目を瞑ってみせ、滝のように冷や汗を流す警官に向き直った。
「それが私だというのですか? 証拠があるなら見せてほしいものですね」
「ボクは証拠を持っていない。今は、ね」
そう言い終わると同時に、ホームズが龍ノ介の視界から姿を消す。次の瞬間には、既に警官の腕が捻り上げられていた。
「ミスター・ナルホドー、ボクの代わりに彼の服を探ってくれないか?裏地まで丁寧に調べてくれたまえ」
「なっ、何を!」
警官は抵抗するが、探偵によってすっかり動きを封じられているため、服を改めるくらいのことは十分できる。傍から見ればホームズ達が犯罪を行っているかのようだ。
龍ノ介が制服の上着を念入りに調べると、胸の衣嚢の裏地に妙な隙間が空いている。裏側から手を差し入れると、どうやらそこには掌に収まるほどの硬いものがあるようだった。龍ノ介はそれを取り出して、ホームズの目の前に差し出す。
それは薄い布きれに包まれていた。龍ノ介が包みを開くと、そこから予想と一切違わぬものが現れる。
「机を物色しても鞄を失敬しても見つからないはずだ。肌身離さず持ち歩いていたとはね」
蓋が少しへこんだ懐中時計。その縁にははっきりと血痕が乗っている。ホームズが探していた証拠品にまず間違いないだろう。
「この名前、アナタの〝後ろ盾〟のものだ。やっと尻尾を掴めたよ」
蓋の裏に刻まれた名前を確認してホームズは確信を得た。彼は依頼を受けてから今日までの間に、殺人事件の犯人と警官の関係まで調査していたのだ。この品さえ掴んでしまえば、後は全て芋づる式に追及できるだろう。「隙を見つけてこれをバンジークス卿に押し付け、ボクに見つけさせようとしたのだろう? だがこの世紀の大探偵に依頼したのが間違いだったね。真実など、最初からお見通しだったのだよ!」
警官は何も答えなかった。もっとも返事など聞かずとも、その蒼い顔を見れば答えは明白だが。
「検事室にでも忍ばせようとしたけど、侵入が難しかったのだろうね。かといって彼の自宅は常に使用人が居る。そこで馬車に隠すことを思いついたのさ。御者さえ離れていれば、犯行を目撃するのは馬だけだからね」
「な、何の根拠があってそんなことを!」
「消えた証拠品をあんな所に隠し持って、彼の馬車に侵入していたところを捕まえたんだ。状況証拠にしたって充分すぎるほどだと思うがね」
警官は遂に項垂れる。もはや疑いの余地はなく、この男が逮捕されるのを待つばかり。しかしその炎は完全に消えてはおらず、男はキッとバンジークスを睨みつける。
「し……しかし、死神がこの日本人と密会を重ねていたのは間違いないのだ! そんなことをするのはこの二人が恋人同士だからに他ならない! 私が罪を犯したことは認めるが、死神だって罪人なのだ!」
その時、龍ノ介の中でようやく全てが繋がった。バンジークスが注意しろと言っていた警官は正にこの男で、犯罪組織からの命令で検事を陥れるために付きまとっていたのだ。
非常にまずい状況だった。バンジークスにあらぬ疑いがかけられることは回避できたが、二人が恋仲であることは紛れもない事実である。龍ノ介は言葉に詰まって横目でバンジークスを見やる。表情こそ変わっていないが、彼も口を開こうとはしていなかった。
その隙に男は話を続ける。
「同性愛は重罪だ。今回の計画は失敗したが、私が居なくても仲間がじきに証拠を」
「ああ、それのことか」
呪いのような声を遮ったのは当人であるバンジークスでも龍ノ介でもない。
推理する名探偵は、喋ることを止めない。
「彼は何かと忙しいボクの使いっ走りでね。バンジークス卿が狙われていると分かって、密かに使いを出していたのだよ! そりゃ密会にも見えるというものさ」
「なんだと!?」
当然、龍ノ介は初耳である。そんなことを頼まれた覚えもなければ、何かを預かったりなどもしていない。驚いて思わず声を上げてしまうところだったが、なんとか堪えた。
ホームズは龍ノ介とバンジークスの方へ片目を瞑って合図する。つまり彼は、それらしい嘘で二人を庇っているのだ。その機転の邪魔をしないよう、二人は静観を決め込む。
「まあボクは死神クンに嫌われているし、自ら動いたらアナタに知られてしまうだろう? バンジークス卿に勉強を教わっている彼にはうってつけの仕事さ」
探偵の舌のよく回ること。シャーロック・ホームズが味方で良かったと、龍ノ介は心から思った。
男は信じられないという顔でまだ反論もありそうだったが、有無を言わさず畳み掛ける。
「さて、そろそろ話は終わりにして良いかな? 何せアナタはこれから忙しくなるのだからね」
これから、の部分を殊更に強調して、探偵は犯人の未来を語る。
「警察には連絡済みだ。もうすぐここへ到着するだろう。まずは殺人事件の犯人確保かな。アナタは証拠品を盗んだことや不法侵入の罪に問われる。それからアナタの後ろにいる組織は引きずり出して一網打尽にしてくれるさ。そこの検事クンがね!」
「……無論だ」
(検事、いま気を抜いていたな……)
探偵の華麗なる推理に、弁護士も検事も呆気にとられている。かつてないほど手際よく、そして無駄なく導かれた結論に感動を禁じ得ない。
今度こそ犯人は完全に打ちのめされ、探偵に押さえられずともその場に崩れて動くことは無かった。
ホームズの予言通り、やがて倫敦警視庁の刑事が駆け付けて男を連行していった。かくして事件は大事になる前に解決を迎えた。ホームズはこの件について話を聞かせてほしいと刑事に頼まれたが、後で行くと約束してこの場に残っている。ここでまだやることがあるようだ。バンジークスも同様である。
一騒ぎ終えて、探偵は二人へ振り返った。
「さて、質問はあるかな? 諸君」
「……たくさんありますとも」
事件の概要を知らないところから急に解決の場面に立ち会ったのだ。感動はしたものの、龍ノ介の理解が追いついていない点がいくつかあった。
「なぜ今日、ここであの男を捕らえられると分かったのですか?」
「それはボクの入念な下調べの成果と言うべきかな。行動を分析して、非番の日時を調べて、ときどき尾行したりして……探偵らしいといえばそうかもしれないが、ボクにとっては死ぬほどつまらない日々だったよ全く!」
例の雨の日もその後の裁判の日も、ホームズはずっとあの男の行動分析と身辺調査に時間を割いていたのだった。やけに時間がかかっていたのは行動規則を探るため。そして途中までは証拠品を探し出すための調査を行っていたのも大きな理由だとか。結局そちらの道は諦め、男が確実に証拠品を持って現れる時機を待つことになったのだ。
ホームズが目星をつけたとはいえ、あの男は証拠品を盗む以外に犯罪を起こしていたのでもなく、ましてや警察官だ。直接的な証拠もなく身体検査などとてもできなかった。今日ここで不法侵入を働いていた現場が唯一にして絶対の機会だったというわけだ。これを逃していたらどうなっていたか、想像するだに恐ろしい。
次にバンジークスが口を開いた。
「そもそも、なぜあの警官が証拠品を隠した本人だと気付いた?」
「愚問だね。犯人も捕まっていない内から事件の証拠品を盗み出せるのは関係者だけだ。それに担当がキミと決まってすぐ無くなったというのも、いかにもキミを狙っていますと言わんばかりだ。それで妙な動きをしている人がいないかしばらく調べていたのさ。疑えば推理は簡単だったよ」
失われた証拠品の捜索のために探偵が駆り出されることは最初から織り込み済みだったらしい。ホームズに依頼しようと言い出したのは例の警官で、それに関してはやけに熱心だったということが調査で分かったのだ。全ては組織が引き起こした犯罪を利用した、自作自演の罠であった。
今までに起きたことを振り返り、龍ノ介はふと思い出したことがあった。
「そういえばあの人、ぼくが検事のお宅へ伺ったときに会ったのですけど」
「キミも知っての通り、アイツは証拠品の隠し場所を探していたと同時に、死神クンの弱みを探っていた。キミはその隠密行動中に出くわしたのさ。ま、それに関しては偶然だよ」
疑問もすっかり解消され、龍ノ介は改めて今回の推理に感嘆の溜息を吐いた。
「なんだか、今日のホームズさんはズバリと真相を暴いてしまって格好良かったです」
「何を言ってるんだい! ボクはいつもそうだろう!」
毎度そうとは限らないから褒めたのだが。龍ノ介には、ホームズが何かを隠しているように感じられた。特に重大なことというわけではなく、どこか格好つけている気がしたのだ。
ホームズも誤魔化しは効かないと諦めたのか、大きく広げた腕を下ろして佇まいを直す。いつになく真剣な顔をしたものだから、龍ノ介はつい身構えた。
「ああ、まあいつもより容赦がなかったのは認めよう……腹が立ったんだよ! あんな小悪党に、この大探偵たるボクを出し抜けるなんて思われていたことにさ!」
心底悔しそうな顔で地団太を踏む姿はいつものホームズであった。想像以上に子供じみた言い草に龍ノ介は少し拍子抜けしたが、らしいといえばらしい動機であった。
ときにはどうしようもない一面を見せることもあるが、やはり世界一の探偵は誇り高く、最高に頼りになる男であった。
そして龍ノ介は遂に、一番気になっている、一番聞きたくない質問をすることにした。龍ノ介とバンジークスの関係だ。あの警官に疑われていたところを庇われたことからもう大方の予想はついているが、それでも実際聞かずにはいられなかった。
「ホームズさんは、気付いていたのですか」
龍ノ介が掛けた言葉はそれだけだったが、ホームズには十分伝わったらしい。
「キミもだ、ミスター・ナルホドー。名探偵に隠し事をするなんて不可能だと悟るべきだね」
やはり探偵には全て分かっていたのだ。龍ノ介は気恥ずかしさを拭い切れないが、知れてしまっているのでは仕方がない。彼の洞察力を前にして、隠し事はよしておこうと決めた。
しばらく黙っていたバンジークスが一歩前に出て、ホームズに相対する。文句のひとつでも言うのではと龍ノ介は心配したが、それは全くの杞憂であった。
「貴公に貸しを作るのは不本意だが……感謝する」
「礼には及ばない。と言いたいところだけど、依頼人から報酬を貰えなくなってしまってね。二ヶ月分の家賃の支払いを前に、タダ働きなどしている場合ではないのだけど」
朝のホームズを憂鬱にしていた原因はこれであった。結局今回の依頼は自作自演であった上に、依頼人は警察へ連行されてしまった。事件を解決しても報酬が入らず、目前に差し迫った支払いをどうすべきか悩んでいたのだ。
ホームズは大いなる期待を胸に、最高の笑顔をバンジークスに向けた。どんな淑女も頬を染める美貌の笑みは、果たして死神に通用するのか。
「……確かに、戻ってきた証拠品のお陰で、奴の後ろ盾を引きずり出せる。いつも余計なことしかせぬ探偵にしては過分な働きだ。後で謝礼を運ばせよう」
「さすが、話が分かるね」
バンジークスが感謝していることは他にもあるはずだが、それを口に出すのは野暮というものだろう。ホームズもちゃんと分かっているのだ。大事な恋人を守ることが、彼にとって今回の最重要事項だったのだと。おそらく謝礼にはその分が上乗せされることだろう。これで家賃の心配どころか、当面の実験材料費にも困らないはずだ。ホームズも上機嫌になるというもの。そうと知らず龍ノ介はホームズに話し掛ける。
「ホームズさん、ぼくからも何かお礼させてください」
「バンジークス卿のお陰で、謹慎中の学生からお金を巻き上げるような真似をしなくて済みそうだ。ということで、ボクがさっき言ったことを現実にしてもらおうか」
「と、いうと?」
「キミにはしばらくボクの使いっ走りをしてもらうよ、ミスター・ナルホドー! あちこち走り回ってもらうから覚悟したまえ!」
楽しそうに探偵は笑う。そういう返礼の仕方とは思わなかった龍ノ介は、若干脱力してホームズを見やる。
「異議は……認められないようですね……」
「何を言っているんだい。勉強以外で彼の屋敷に出かける良い口実を作ってあげたんじゃないか。感謝してほしいくらいだねボクとしては!」
「!」
つまり龍ノ介がバンジークスと二人で会話していても、周囲からはホームズの連絡係とみなされるということだ。絶対的な守りとまではいかないものの、人目を多少欺くくらいにはなる。そして何より探偵の存在は弁明になる。何か疑われても、秘密の捜査で密会を行っていたとでも言えば良いのだ。
実際のところ今後の龍ノ介は、ホームズの言う通り方々を走り回ることになるのだろう。しかしそれが龍ノ介の言葉に更なる真実味を持たせることになる。使い走りであれ何であれ、龍ノ介は最上の心遣いに応えようと決めた。
「まあ、そんな暇があるかどうか分からないけどね。アッハッハッハ!」
龍ノ介がそう決めた矢先に不安になるようなことを言うのも、また彼なのだが。
じゃあ後はごゆっくり、などと余計な一言を残して、ホームズは去っていった。警視庁へ向かったのだろう。
バンジークスと龍ノ介はたった二人残され、顔を見合わせる。嵐のような男がようやく立ち去ったことで、検事の眉間の皺は少しだけ浅くなっていた。一方の弁護士は、何とも言い難い複雑な顔をしている。
現場へ来てほんの一時間ほどにしかならないが、実に目まぐるしい展開であった。この間に遺失物は見つかり、警察が追っていた犯罪組織は捕縛も間近、バンジークスは冤罪を免れ、ホームズは部屋を追い出されずに済んだ。そして、男同士の恋人という絶対的な秘密も守られた。
その全てが龍ノ介の手の届かない場所で行われていたこと、むしろ敵に情報を流し足を引っ張っていた可能性があることを自覚し、苦いものを感じているのだ。
「やはり、もっと慎重にならなければ検事に迷惑をかけてしまいますね」
今回はホームズが見事に助けてくれた。しかし次はどうか。考えていることが全て顔に出てしまう龍ノ介には、そもそも隠し事自体が不向きである。自分の行動がバンジークスの不利益になりはしないか。龍ノ介はただただそれを心配していた。
「迷惑などと思ったことはない」
バンジークスはあっさりと言い放ったが、その言葉がどれほど龍ノ介の心を熱くしたことか。だが手放しに喜ぶわけにもいかなかった。バンジークスがどう感じようと、彼の立場を危うくしてしまったら龍ノ介は後悔してもしきれない。本を借りるのと同じだ。「相手がどう感じるか」より、「自分がどうすべきか」で行動を決めている。
何も言おうとしない龍ノ介に、バンジークスは問う。
「では聞くが、貴公……その程度の覚悟で我が手を取ったというのか?」
万に一つでも関係が露呈した場合に罰を受ける覚悟か。そんな危険を冒してでも目の前の男を愛する覚悟か。バンジークスが言うのは、おそらくその両方だ。
「そんな、まさか」
「ならばそれを貫き通してみせよ。私はとうに覚悟している。貴公の告白を受け入れた時から」
もちろん覚悟はある。龍ノ介が案じるのは、ただ恋人の身ひとつだ。龍ノ介は留学生であるから、いざとなれば祖国へ逃げることもできよう。しかしバンジークスは違う。自分のために彼が罪人になるなどあってはならないと龍ノ介は考えている。その原因になってしまうなどもっての外なのだ。だというのに。
「ぼくは守っていただいてばかりです。今回の件など、ぼくが不用意にあの人と喋らなければ」
「貴公がそうしておらずとも、結果は変わらなかった。私はいずれ犯人を追い詰めるつもりであったし、たまたま探偵が役に立ってそれが早まっただけだ」
そうかもしれない。しかし龍ノ介は、自分だけが何も知らず守られていたことが歯痒くてならないのだ。バンジークスも、おそらくはホームズもそれで良いと思っているかもしれないが、龍ノ介だって一介の男児なのだ。自分の未熟さが悔しくて、自然と視線は落ちた。
「……棘のある言い方をしてしまった。率直に言えば、巻き込みたくなかったのだ。恋人を危険から遠ざけたい気持ちは理解してもらいたい」
龍ノ介はそれ以上深追いすることができなかった。バンジークスの気持ちは理解できる。理解できるからこそ、龍ノ介も同じように考えていた。今回など、龍ノ介よりバンジークスの方がよっぽど危険に晒されていたはず。彼が危機に瀕するのであれば、助けになりたいと思うのだ。しかし彼はそれを良しとしないだろう。
愛しているから? それも理由の一つだが、そこにはもっと大きな理由がある。龍ノ介はそれに気付いていた。
「ええ、分かっている……つもりです」
この話題はこれで終わりにした方が賢明だろう。龍ノ介がいくら頼ってほしいと主張しても、今のバンジークスは考えを変えないと分かっているからだ。やはり悔しく思ったが、それはぐっと飲み込んだ。
少々無理があるのは承知の上で、龍ノ介は別の話題を切り出すことにした。
「でも今日はホームズさんが間に合わなければ、証拠隠蔽の濡れ衣を着せられるところでしたね」
「ああ、そうなるな」
数秒の沈黙。龍ノ介は次の言葉を待った。言外に問うているのだ。なぜあの警察官、そしてその後ろにいる組織がバンジークスを狙ったのかと。
龍ノ介がホームズに聞くこともできた。だがそれはあまりにも無遠慮な行動だ。聞くのであれば本人の口から答えを貰うべき質問だと思い、二人だけになるまで黙っていたのだ。
バンジークスは静寂の間に察し、その重い口を開いた。
「私を恨む者は多い。この近代社会に、本物の死神だと思っている者さえ居る。見えざる力を持っているとな」
死神の存在が倫敦の犯罪を激減させた。龍ノ介はそんな話を聞いたことがある。確かに呪いを恐れて〝仕事〟ができない犯罪者からすれば、彼は疎ましい存在だろう。しかし。
「検事は人間ではないですか。まあ、確かに雰囲気はありますが」
「一言余計だ」
つい漏れた龍ノ介の本音は、少しだけ二人の間の空気を砕けたものにした。だから次に言おうと喉まで出かかった言葉は、声になることなく飲み込まれた。
(こんな風に陥れられたり、狙われたりすることはよくあるのですか)
聞きたいけれど、聞いてはいけない気がしたのだ。きっと今はまだその時ではない。やっと緊張が解けた空気を壊すのも龍ノ介には憚られた。だから代わりに、決意を伝えることにした。
「もしあなたが罠にかかって被告人になるようなことがあったら、そのときはぼくが弁護します」
「貴公が? フッ、結構だ」
「な、なぜですか!」
「そう易々と罠にかかるつもりはない。それに、ヒヨッコに弁護してもらうほど弁護士に困ってもいない」
弁護士としての信頼はまだ不十分らしい。これこそバンジークスが龍ノ介を頼らない理由だ。愛されているからといって、全幅の信頼を寄せられるわけではない。分かっていても、龍ノ介はやはり落ち込む。幾度かの裁判で少しは認められたと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだ。
今は弁護席に立つことさえ許されぬ身で、知らず危険から遠ざけられ、守られてばかりの自分。言葉で表さずとも、未熟だと言われているのと変わらない。
(それでも、いつか)
龍ノ介は唇を噛んだが、もう下を向くことはなかった。
いつか信頼を置いてもらえる人間になろうと龍ノ介は思う。そして一方では、バンジークスが被告人となる日など永遠に来ないでほしいとも。しかし祈るだけでは悪党は去ってくれないだろうから、今は力をつけるのだ。いつの日か彼を守れるように。
信頼とは、一歩ずつ階段を上るように積み重ねていくもの。先は長い。しかし届かない高さではない。龍ノ介がこの地を去る日まで、果たしてどれほど上れるかは分からないが、歩みを止めなければきっと成し遂げられる。ひとまずは、弁護の資格を取り戻すところから。
今日の予定は空いてしまった。ホームズの事件も、もう龍ノ介が手伝えることは残っていないだろう。ならばやることは一つ。
検事は警視庁へ、弁護士はベーカー街へ。次の日曜日も訪問すると約束して、二人はそれぞれ歩き出した。