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大人と子供の間で

全体公開 1 40782文字
2022-06-02 09:27:35

あずあら 2021年5月5日投稿
web再録

Posted by @saeki_f

Don't catch me

 別に何かはっきりしたきっかけがあったわけではない。少なくとも荒船には思い当たることなど何も無かった。だが今日、はっきりと自覚した。
 東は荒船を明確に避けている。



 つい数ヶ月前まで、荒船は狙撃手だった。その頃は顔を合わせる機会が多かったし、それに比例して話す頻度も高い方だった。東と話さなくなったのは荒船が銃手に転向したというのが大きな理由だと思っていたが、どうやらそれだけで済む話ではなさそうだ。

 この事態に気付いたきっかけは村上との会話だった。その日の荒船は事務連絡で東を探していたが見つからず、仕方なく攻撃手の訓練場へ行って奥寺へ託けた。そこへ村上がやって来て、いつも東が捕まらない、忙しいのだろうと雑談の中で零したところ、二人の間で認識に齟齬があるらしいことが分かったのだ。
 村上は攻撃手である上に本部所属でないにもかかわらず、東が捕まらないと感じたことはないと言う。現に本部へ来てすぐ別役が東を見つけて、色々と話していたのを見たばかりだそうだ。
 その直後、ちょうど村上を探しに来た別役が現れる。念のため別役にも同じようなことを言ってみると、やはり同じように返された。それどころか、「東さんは忙しい人ですけど、隊室に行けば大体会えるし一日中捕まらないなんて滅多にないですよ。荒船先輩、東さんに避けられてんじゃないですか?」とまで言われてしまう。
 相変わらず歯に衣着せぬ言い方を村上が窘めたが、口から出てしまったものは消えない。荒船が東に避けられているのではないか。純粋な言葉だからこそ胸に真っ直ぐに刺さり、荒船の頭をぐるぐると回る。

 荒船は一度気になったことを確かめずにはいられない性分である。事が事ゆえに思い違いであってほしいが、それから検証と観察を始めた。
 まずは単純に、荒船が自然に生活しながら適当な用事で東を呼び止めることを試みる。用件は何でもいい。東が相手ならば質問などいくらでも用意できる。一週間続けてみて、四回成功すれば避けられていないと勝手に判断することにした。

 そして一週間後。結論から言えば全敗ではない。ただ、成果は荒船の顔を見れば一目瞭然である。
……加賀美先輩。どうしたんすか、隊長」
「今日ずっとああなのよね。何があったか聞いても「悪い、個人的なことだ」って教えてくれないの」
 加賀美が荒船の真似をするのを見て、半崎は半笑いでふーんとだけ返した。正直なところ荒船本人も少し似ていると思っていたが、今はそれどころではない。
 朝一番に穂刈、次に加賀美、そして半崎にまで言われるほど、荒船は不機嫌を露わにしていた。
 七日間、十回以上は東に突撃を仕掛けてみたが、まともに話ができたのはたった二回だったのである。しかも一回は話している途中で呼び出しが入って切り上げられてしまい、もう一回はまた苦労して捕まえてその話の続きをしただけ。実質一回と言っても過言ではない。
 今週の東は大して忙しくなかったはずだ。本部に居る時間が多かったので大学の方も落ち着いていたはず。つまり、やはり荒船が避けられているという可能性は非常に高いと言える。

 もう少し証拠を集めたいところだがそろそろ東隊の隊員に不審がられそうなので、隊室直撃は控えておいた方が良さそうだ。それに、一人で出来ることには限りがある。よって荒船は新たな検証方法を考えた。

 とある日の夕方、冬島と当真が隊室の前で話しているところへ東が歩いてくる。二人はこれから帰るのか、荷物を持って生身で談笑していた。
「あ、東さーん。いいとこに来ましたね」
「?」
 呼ばれて東は足を止める。当真は上機嫌だ。
「隊長がメシ奢ってくれるって言ってるんですけど、東さんもどうですか?」
 冬島の許可を取る前に当真が勝手に話を進める。それでいいのかと東は物言いたげだったが、冬島も特に異存は無さそうだ。
 東もちょうど任務が終わり、これから隊室に荷物を取りに行くところだった。話に乗ろうかとしていた時、東の背後から影が近付く。
「あれ、どうしたんですか。こんな所に集まって」
「荒船」
 こちらも帰り支度をした荒船だった。いつもは隊員と一緒にいることが多いのだが、今日は一人だ。名前を聞いた東が一瞬だけ動きを止める。
「荒船も来るか? 隊長の奢りメシ」
「おい当真、どんどん増やすな」
「おっ、いいな。俺も行く」
 話を聞かない子供たちに冬島はやれやれといった表情を見せた。そしてまた東の方を向いてお前はどうする、と視線で尋ねる。
……悪い当真、今日はちょっと。また奢ってください、冬島さん」
「サシだったら奢らねえからな!」
 冬島の声を聞きながら東は去っていく。帰り支度を済ませていた三人も、ならこのメンバーで行くかとボーダー本部を後にした。



……というわけですよ」
 三人でテーブルを囲み、着席するなり荒船は徐にそう切り出した。
 最初から全て仕込みだった。比較的東に近く荒船も相談しやすい冬島と当真に事情を説明し、一芝居うってもらったのだ。
 東が冬島隊の部屋の前を通ることは予め分かっていたし、今日の夜は東の予定が空いていることも調べてあった。食事に誘えばまず間違いなく乗ってくるタイミングで、実際その素振りは見えていたのに。
「お前が来るまでは結構乗り気な顔してたからなー」
 荒船が行くと言うと東は態度を変え、そそくさと帰ってしまった。これはもう決定打だ。外野から見ても明らかなほど、荒船は東から避けられている。疑念が確信に変わった瞬間だった。
「隊長、なんか知らねえ? わりと仲良いだろ」
「知らねえなあ。俺も荒船に言われて初めて気付いた」
「冬島さんでも分かんねえか……
 後はもう本人を締め上げるしかないが、肝心の本人が捕まえにくいのだから困ったもの。そして今日の芝居も東にバレてしまった可能性がある。となると警戒度を上げて更に捕まえにくくなるだろう。

 別に東に避けられているからといってものすごく困るわけではない。任務は問題なく行われるし、業務連絡なら他の隊員を通せばいい。荒船個人がどうしても東に直接話さなければならないことなどほぼ皆無だ。現に今も特段困ることなく日常を過ごせている。
 だが単純に気分が悪い。一体、荒船が何をしたというのか。知らない内に何かしてしまったのなら訳を聞いて謝るべきだし、小さなことが積み重なっていったのなら改めたい。好かれているとまでは思っていなかったが、こうも嫌われていると自覚させられてしまうと。

 とにかく理由を尋ねるなら直接仕掛けるしかないのだから、今は機会を窺おう。そう心に決めて、荒船は運ばれてきた料理に手をつけた。

「お前、荒船のこと苦手なの?」
 東が一人休んでいた喫煙所に現れた冬島は、開口一番その質問を投げた。昨日の今日だ。何の前振りが無くても東にはそれだけで話が通じる。
「そういうのじゃ……うーん、いや、ある意味そうですね」
 歯切れが悪いというか、肝心なことは何も言おうとしない。これは掘り下げても無駄かもしれないと冬島は諦めかけたが、昨日の荒船の様子を思い出すとやはり少しは協力してやりたいとも思う。
 それに数年の付き合いの中、冬島があんな態度の東を見たのは初めてのことだった。優等生な少年の何が東をこうさせるのか興味はある。
「あんな欠点の無さそうな子供がねえ。もしかして同族嫌悪か?」
「同族嫌悪というか、むしろ……
 東は頭を掻いた。何か言おうとしているのだろうが、上手い言葉が見つからないといった様子だ。持っていた煙草を吸って、吐いて。少し唸ってからやっと口を開く。
「今の言葉、やっぱり忘れてください。あんまり広がっても困る話なんで」
 東は薄く笑って煙草の火を消した。それ以上は何も言わず喫煙所を出ていく。
 つまり「この件に首を突っ込むな、そして誰にも言うな」という意味だ。口元はかろうじて笑っていたが目が本気だった。子供たちには決して見せない顔。
 冬島は苦笑いしかできなかった。ほとんどの隊員は知らないだろうが、東は怒らせると怖い。興味本位で下手につつくと何が出るか分からない。

(悪いな、荒船。これ以上は協力できそうにねえや)
 東の去った喫煙所、冬島は心中で荒船に謝罪する。年下に睨まれて怯むとはなんとも情けないと思うものの、今回は相手が悪い。むしろこれからあれに挑もうとしている荒船は、冬島からしてみればとんでもない勇者なのである。

 東を捕まえるチャンスは意外にもすぐに訪れた。件の芝居から一週間後、荒船が狙撃の勘を取り戻すために夜の自主練をしているところへ東が現れたのだ。
 二人の他には正隊員が二組だけ。離れた場所で淡々と練習している者が一人と、話し合ってアドバイスを受けながら練習している者が二人。よほど大声で話さなければどちらにも声は届かないだろう。
 自主練は今に始まったことではないが流石に少し油断していたと見え、東が荒船の存在に気付いたのは部屋に入って五分ほど経ってからだった。
 荒船は逃げられる前に終わりかけだったノルマを急いで済ませる。そしてなるべく悠然と、これから帰るんですよと言わんばかりの支度を整えて出口へ向かう……振りをして東に近付いた。

 チャンスが来た時にかける言葉は、既に決めている。
「東さんって、俺のこと避けてますよね」
 東相手に長期戦を挑むほど荒船も馬鹿ではない。単刀直入に切り込んだ。
「いや、そんなことないぞ」
(嘘つけ!)
 貼り付けたような笑顔に嘘ですと書いてあるくせに、そう簡単にはこのスタンスを崩さないつもりらしい。
「荒船が狙撃手から転向してからは確かに話す機会も減ったなあ。またメシでも行くか」
 白々しいとはこういうことを言うのだろう。まさか自分がつい先日何をしたか、忘れたわけでもあるまい。
 それに荒船は知っているのだ。東は色んな後輩を食事に連れて行くが、荒船との約束だけは果たすつもりが無いことを。
……先週、冬島さん達とのメシに来なかったのは?」
「ああ、実家でちょっとな」
 人に立ち入らせないようにするのが実に上手い。普通の人間はここで引き下がるものだし、万が一更に踏み込まれても理由をつけて退けやすい。怯んだ荒船に東が畳み掛けた。
「それに、お前を避けてるなら今こうして話したりもしてないんじゃないか?」
 違うのだ。今の東はただ荒船をいなしているだけ。嫌々という態度こそ出さないが、手っ取り早く丸め込もうとしていることくらい分かる。
 荒船には絶対に避けられているという確信があるにもかかわらず、決定打となった出来事を後ろ手に隠されてしまっては今ひとつ攻めきれない。この場で声を荒げるわけにもいかないし、東の圧を押しのけるだけの上手い返しも思いつかない。
……ソウデスネ」
 結局、荒船は白旗を上げて訓練場を去るほかにないのだった。

(言い包められてんじゃねえよ!)
 自分への苛立ちから、荒船は廊下の壁を殴る。
 分かっていた。東が自分より何枚も上手なことくらい。あんな軽い小手調べではぴくりとも動かせない。ストレスは溜まるばかりだ。
 正面を切って問い詰めても認めないとなると、これは荒船が想像していたより根が深い問題らしい。

 嫌われているなら放っておけばいい。その方が荒船の精神衛生にも良いはずだ。同じ団体に所属しているとはいえ、これだけ人数が集まれば馬の合わない相手の一人や二人居たって何もおかしいことはない。
 理解はしているのに追い続けることを止められないのは、荒船が白黒決着を求める人間だからだろう。灰色のまま放っておけるほど、荒船は大人ではないのだ。それこそ東くらいの年齢になっていれば丸めて呑み込めていたかもしれないが。


 不機嫌と不審な行動で、そろそろ自隊の隊員たちにも本気で心配をかけてしまいそうだ。一旦、東のことは努めて考えないように過ごすことにした。来期のランク戦に向けて作戦を練ったりそれを実践したり、大学の試験準備、銃手の個人ランク戦。やることはいくらでもある。
 何かに集中していれば個人の悩みを忘れていられた。一週間も続けていれば苛々していた気持ちも随分と軽くなり、元の荒船に戻りつつある。
 しかし、根本的な解決をしない限りその淀みは完全に消えることがない。荒船はそれをすぐに思い知ることになる。



 その日、荒船は犬飼の試験勉強を手伝っていた。当然タダではない。銃手の戦い方について教わったお礼である。
 休憩中、犬飼がしみじみと口を開いた。
「荒船もすっかり銃手だねえ。パーフェクトオールラウンダーも目前かな」
「ポイントだけならな。レイジさんには程遠い」
 攻撃手としても狙撃手としてもマスタークラスに到達して、銃手のポイントも伸びてきたところだ。防衛任務での実践を積み、来期のランク戦で磨きをかけたら今度は射手に転向するつもりでいる。
 自身がパーフェクトオールラウンダーになるという目標の一つはひとまず達成となるが、荒船はそれだけで満足というわけにはいかない。名目だけではなく、実戦で的確に動けて初めて完遂するという認識なのだ。
「木崎さんみたいになることだけが目標じゃないんでしょ。俺は楽しみだよ、荒船の理論。確立したら楽になる人は多いだろうし」
 いつの間にやら荒船の目標は同級生に知れ渡っていて、時々あれやこれやと口を挟んでくるまでになった。優秀な隊員が多いのでありがたくはあるが、稀にやかましいと感じるほどである。
「荒船の教えと東さんの教えがあれば、理論上は優秀な隊員が量産できるんじゃない?」
 お茶を飲んでいた荒船の動きが止まった。グラスを置いて、つい視線が虚空を彷徨う。
(ここでも東さんかよ……
 忘れようと努力していた名前をぽんと出されて、忘れかけていたはずのあれこれが蘇る。今思い出すだけでも気が重くなった。
「まあ、理論上はな。動ける体を作るのが俺の仕事で、頭を作るのが東さんの仕事だし」
 返答としては間違っていないはずだった。が、話は進んでほしくない方向へ進んでしまう。
「荒船は東さんが苦手なの?」
 これだから犬飼は怖い。荒船のほんの僅かな躊躇いを読み取ったか、あるいは最初からこの話に運ぶつもりだったか。犬飼ならば後者も有り得る。
「いや……
「嘘が下手なんだからもー」
「嘘じゃねえ。俺が苦手なんじゃなくて、東さんが俺を嫌いなんだよ。分かりやすく避けられてる」
……んん?」
 犬飼が首を傾げた。荒船はその意味を測りかねる。何か言いたそうだったので、なんだよと次の言葉を促した。
「東さんてそんなに露骨な態度とる人だっけ?」
 荒船だってそう思う。だが意識してみればかなり露骨な態度であった。まるで、避けている事実をいつかは荒船に気付いてもらうためにやっていたかのような。いや、そんなまさか。嫌っているのを本人に伝えるデメリットが分からないような人間ではないはずだ。
「どんな人格者にも嫌いな人間の一人や二人いるだろ。任務中は問題なくコミュニケーション取れるから防衛任務に支障は無いしな。クソ、考えないようにしてたのに」
 お前のせいで思い出したと荒船が目で訴えたが、犬飼は別のことを考えているようだった。
「それってさあ、東さんに直接言われたの?」
「嫌いとか言われたわけじゃねえけど、人を避けるのに嫌い以外の理由があんのかよ」
「あると思うけどなあ……
 ならば教えてくれればいいものを、犬飼は荒船に何も教えようとしない。自分で考えろということか。
「直接言われたんじゃないなら、もう一回確かめてみればいいんじゃない?」
 なんかもやもやしてるみたいだしさ、と付け加えられた。

 犬飼の言うことも一理ある。前回は一応人目もあったし、結局本音を少しも引き出せなかった。それに、面と向かって嫌いだと言われたわけでもない。全ては荒船が状況証拠から導き出した結論に過ぎないのだ。
 問い詰めたところで結局同じ結果になるのではないかという予感もある。しかしそれならそれでも構わない。何の情報も与えられず、苛立ちを溜めこむばかりの現状が変わるのならなんでも。

それはそうと、些か休憩時間が長くなりすぎたようだ。犬飼はまだ話をしたそうだが、今は試験勉強である。この件は頭の隅に追いやって、荒船は再びテキストを開いた。



 東を観察する内に、荒船は東を見つけるのが上手くなっていた。一月前ほどの苦労もなくあっさりと捕まえる。既に東隊の隊員に聞いて、時間があることも確認済みだ。

 荒船隊の部屋に連行し、立ったまま話をする。他の隊員にはしばらく近付かないよう言ってある。
「俺が何かしました? もしそうなら言ってください」
……荒船」
「東さんを捕まえようとしても俺だけが捕まえられない。俺が居る場所に近寄ろうとしないし、俺が居たら他の奴に誘われても来ない。話はすぐに切り上げようとする。流石に「そんなことない」は通用しませんよ」
 もう前回のようなドジは踏まない。問い詰めるなら理由からだ。荒船を見る東も今回ばかりはあの薄い笑みを浮かべてはいなかった。
「お前は何もしてないよ。本当に」
「じゃあなんで避けるんですか?」
……悪い」
 東が一歩下がった。逃げるつもりだ。このまま逃げられてたまるかと荒船が二歩前に出る。謝らなければならないようなことをしている自覚はあるのか。しかし荒船が何に怒っているのか、東はちゃんと分かっているのだろうか。
「ごめん、近寄らないで」
……そうかよ」
 今度こそ面と向かってはっきりと拒絶された。それはそれでショックだったが、同時にどうしようもなく怒りがこみ上げてくる。気付けば荒船は東の腕を掴んでいた。反射神経は若い荒船に軍配が上がる。東は咄嗟に振り払おうとしたが、易々と逃がすほど荒船の力は弱くはない。
「やっぱり俺は納得できねえ。俺が何をしたってんですか。理由もなく避けられるのはこっちもきついんですよ。俺が嫌いならそれでもいいけど、せめて理由は聞かせてくれませんか?」
「荒船、離してくれ」
 東はやや下を向いて静かに言う。これだけ近いのに目を合わせようとしないのが荒船の癪に障った。
「離さねえよ。離したらまた逃げるだろ」
……もういい」
 にべもない。突き放すような言葉に荒船は俯いた。理由も教えてもらえないのに理不尽だ。そうは思っても、ここまで拒絶されるのならもう東には近寄らないようにするしかない。

 東の腕を掴んでいた手を離そうとした時、何かが強く荒船の背中を押した。そのまま東の胸に倒れ込む。何が起きたか理解できず離れようとしたが、そこで初めて東の腕が自分の背中に回っていることに気が付いた。
(はあ?)
 意味が分からず荒船の思考回路は停止し、代わりに体が動いた。腕を上げ、僅かに空いた隙間から目の前の胸倉を掴む。そのまま勢いよく、荒船は東を投げた。
「!!」
 鈍い音と共に東が地に背を付けた。流石に荒船にも思考が戻り、まずいという顔になる。突然のこととはいえほぼ上司に近い大先輩を投げるなど。とにかく互いにトリオン体であったのは唯一の救いだ。これが戦闘行為に含まれないことを祈るばかり。
 床の上で受け身を取っていた東は、一呼吸ほど置いてゆっくりと立ち上がった。
「やっぱりな」
 意外にも東はそれほど驚いていないようで、先ほどと同じような冷たい声色で言う。何がしたいのか、荒船にはやはりまるで分からない。
「自分の中だけで話を完結させんじゃねえ! こっちは説明を求めてんだよ!」
 荒船の苛立ちが遂に爆発した。立ち上がった東の両腕を掴んで語気を荒げる。東は相変わらず落ち着き払っていて、それが更に荒船の怒りのボルテージを上げた。
「荒船は、俺に嫌われてると思った?」
 抵抗せず、静かにそれだけ問う。やっと対話する気になったらしいことを察して荒船は手の力を僅かに緩めた。
「あれだけ避けられたら当たり前だろ」
「違う。逆だよ。俺はお前が好きなんだ」
 東の顔を見て、荒船はそれが「人として好き」だとかそんな生易しい感情でないことを察した。影浦でなくても分かる。これはもっと温度が高くて、鉛のように重くて、鈍い色をしたものだ。
 しかしいよいよ訳が分からない。あれが好きな相手に対する態度だろうか。なんといっても東春秋だ。少年が好きな子につい意地悪をしてしまうような、可愛げのある行動だとも思えない。
「じゃあ……なんで逃げたんですか」
「お前は俺を好きにならないだろうから、それならいっそ避けた方が楽だと思った」
 きっと一般的な考え方を東に当てはめる方が無茶なのだ。何手も先を読んで、被害を最小限に抑えるための行動なのだろうが。
「言うつもりなんてなかったのに……お前だって気持ち悪いだろ? 男なんかから好かれたりして」
 好かれたことに対する感情は今は置いておく。それよりも、東が荒船の反応を勝手に想像していることに腹が立つ。
 見くびらないでほしい。十八とはいえ、自分で考える頭くらい持っている。
……少なくとも、意味も分からないまま避けられ続ける方が俺にとっては気持ち悪いです」
 男なんかとか、気持ち悪いとか、そんな風に言ってほしくなかった。それを決めるのは荒船だ。思い込みもいい加減にしろと、荒船は東を睨みつける。
「勝手に人の感情まで決めつけるなよ。俺はあんたが思ってるほど不寛容な人間じゃない。向けられた好意くらい、相手が誰だろうと真剣に受け止める」
「じゃあ荒船は俺と付き合える? 期待させても結局ダメなら、そんな言葉は俺を傷つけるだけだぞ」
 良い大人、模範的なボーダー隊員の皮を捨てて、個人の感情だけで喋る。目の前に居るのはどうやら荒船の知っている東ではない。
「東さんもそんなこと言うんですね」
 結果が同じなら過程は関係ないなど、何人もの弟子を育てている人間から出た言葉だとは思えない。
「集団の戦闘訓練と個人の恋愛は別だろ」
 そんな風に全て切り分けて考えられる人はごく少数だ。とにかく今の東は荒船に白か黒かを求めていて、絶対に黒だと思い込んでいる。荒船の言葉など一度も聞いたことがないくせに。
(諦めきったような顔すんじゃねえ)
 東の態度がとにかく気に食わなかった。何もかも予想通りに動いているとでも言いたげな遠い目が。
 あの迅でさえ未来は変わるものだと言っているのに、何を決めつけてくれるのか。今はただ東の意表をついてやりたくて仕方がない。
 だから荒船は、東に抱きついた。
「えっ……えっ!?」
 流石にこれは予想できなかったのだろう。慌てているが、荒船が両腕ごとがっちりホールドしているので動くこともできず固まっている。帽子の鍔がちょうど東の肩に乗る。できることなら顔を見てからかってやりたかったのだが。
「いいですよ。付き合いましょう、東さん」
 東の肩に顔を埋めたまま言う。荒船と比べて東の身長が高いことが、今は無性に腹立たしかった。
「いや……そういうことじゃ……
「何言ってんですか? 東さんが告白して、俺がそれをオッケーした。それだけのことですよ」
 告白された方に特別な思い入れがなくてもとりあず付き合う、なんてことは世間でもよくある。今回もそうだ。別に何の問題も無い。
「言っておきますけど、同情なんかじゃないです。くだらねえ理由で避けられるより、付き合ってちゃんと話を聞かせてほしいし、俺のこと好きならそう教えてください」
 東の言いそうなことは先に潰しておくに限る。荒船は本気だ。その場の勢いだけで男と付き合いますだなどと言えるものか。
 この言葉が全てだった。言いたいことを言った。これでもまだ東が正直にならないのならもうどうしようもない。荒船は不安を隠すように、抱きつく腕に力を込めた。
……荒船。腕、離して」
 やっと出てきた言葉にショックを受ける。やはり駄目なのか。どうしたらこの男の本音に辿り着けるのだろう。力及ばない自分が情けなくて、荒船は俯いたまま腕を緩めた。
 東はしかし、荒船の帽子を奪って再び長い腕で抱き締める。
「!」
……俺はお前が思うほど出来た人間じゃないし、たぶん荒船が想像もしないようなことをしでかすと思うけど、それでもいい?」
 荒船が理解するまでに時間が必要だった。東の心臓の音が聞こえる。大きく早く脈打つそれは、どうやら喜んでいるらしい。ようやく捕まえた。荒船が追い始めてから一ヶ月もかかってしまうとは。東は本当に手強く、流石は狙撃手の祖としか言いようがない。
 東が出来た人間でないことはこの一ヶ月で嫌と言うほど思い知った。これほど好きな相手をとことん避けるような、妙な思考の持ち主が今更何を。
「そりゃその時になってみないと分かんねえなあ」
……
「でも最初から諦めないでくださいよ。男と付き合うって時点で色々と想定外なんですから、思ったことは伝えてください」
……うん」
 うるさいほどだった東の心音が次第に落ち着く。多分、安心しているのだと荒船は思う。
 思えば東は、拒絶されるのが嫌でずっと逃げていたのだ。荒船に受け入れられたことを今ようやく実感できたらしい。近界へ遠征にさえ行ったことがあるくせに、たかだか人間一人相手にここまで心を乱すのは意外で、少し優越感がある。
「とりあえず、一つお願いがある」
「なんですか?」
「生身で抱き締めても良い?」
 随分と控えめなお願いに、荒船は思わず笑ってしまう。もっと色々と想像していたのだが。
「ははっ、どうぞ。ほら」
 体を離して荒船は換装を解いた。少し遅れて東も生身に戻る。東は少し躊躇ってからそろりと荒船の腕に触れ、今度は優しく抱き締めた。お互いの体温を感じて、胸の内側から温かくなる。

 ふと荒船の悪戯心が顔を出した。東の背中を軽く叩いて顔を上げる。
「東さん、ちょっと」
 呼ばれて東が荒船の方を見た。自然と顔が下を向いて、長い髪が落ちる。その隙を狙って荒船はぐっと顔を引き寄せた。生身の唇同士が重なる。
「うん、イケるもんだな」
 触れるだけのキスだった。荒船はすぐに顔を離し、無邪気にぺろりと自分の唇を舐める。
「あ、荒船、だめ」
「は?」
 東は片手で顔を覆った。荒船としてはこれ以上ないほどのサービスだったつもりなのだが、一体何が駄目だというのか。
「急にそういうのは……心の準備が」
 この男は本当に二十五歳の東春秋なのだろうか。まさか初めてでもなかろうに、この反応はなんだ。
(意外とどころか……
 七歳も年上で身長も遥かに高いこの成人男性を、不覚にも可愛いと思ってしまった。キスひとつでこんなに照れるほど荒船のことが好きなのだ。
 この状況はなかなか面白いかもしれない。東をこんな風にできる人間など今まで見たことがなかったので、きっと荒船が知る範囲では他に居ないと思われる。
 これは今後が楽しみだと、荒船は東に見えないところでにやりと笑った。

 翌日、荒船は冬島隊の部屋を訪れた。東との件は解決したという報告と、協力に対する礼である。手土産としてバナナと酒のつまみになりそうなものを持って。
「なに? 仲直りしたの?」
「仲直りっつーか、誤解が解けたみたいな……まあ、協力ありがとな」
 付き合うことなったとは流石に言えなかった。いずれはバレるだろうが、それは今ではない。
「いーってことよ」
 冬島も良かったなと笑った。トラブル解決とは別に、東の地雷を暴発させずに済んだことでほっとしていたのである。冬島は当然その正体をなんとなく察していた。荒船の様子を見るに、東と上手くいったことも。
 これを揶揄ったら、物凄く怒られるか延々と惚気られるかの二択だろう。前者はもちろん嫌だが後者もなかなか面倒である。よって冬島は、東から言い出さない限りは誰にも言わず黙っておくことに決めた。


 所変わって本部ラウンジ。個人ランク戦を終えて一人で座っていた荒船の横に犬飼が座った。
「昨日、東さんと話してきた」
 犬飼が報告待ちのわくわく顔をしていたので、隠す必要もないかと荒船は早々に切り出す。
「どうだった? やっぱ嫌われてなかったでしょ?」
……おう」
 結果を聞く前から犬飼には分かり切っていたようだ。なぜそこまで自信満々なのか、荒船には皆目見当がつかなかった。事態が好転したのは荒船がしつこく食い下がったのと、思い切った行動が功を奏した結果だ。
「ほらね! っていうか俺知ってたし」
「何をだ」
「東さんが荒船好きなこと」
「は?」
 荒船は手に持っていた端末を落としそうになった。好きとはもちろん、東が昨日荒船に伝えたような「好き」だろう。それを知っていたというのなら話は別である。しかし、傍からは誰がどう見ても東が荒船を嫌っているようにしか見えなかったはずだ。
「いつだったかなー、たまたま見ちゃったんだよね。東さんの携帯の画像フォルダに隠し撮りっぽい荒船がいたの」
 疲れた顔の東が、その写真をそれはそれは大切そうに見ていた場面を犬飼が見かけたらしい。そんな様子を見れば、確かに東が荒船のことを好きなのは明らかだ。
……はあ!? 先に言え!」
「こういうのは他人が口出す話じゃないでしょ~」
「いやそれにしたって……俺の一ヶ月を返せよ……
 写真についてはこれから東を問い詰めるとして。それを最初から言ってくれれば余計な回り道をせずに済んだものを。
「それでさあ、さっき東さん見かけたんだけど、やけに機嫌が良かったんだよね」
「!」
 全部察しているくせにわざわざ荒船の口から言わせようとするのか。犬飼はにやにやと荒船の言葉を待っている。どうせ黙っていても追い詰められるだけだ。色々と諦めて、荒船は帽子で顔を隠しながら小声で喋る。
「東さんとつ……付き合うことに、なった……けど、言いふらすなよ」
「そんなことしないよ~」
 犬飼はへらりと笑った。面白い話ではあるが、こういう話題を言いふらすほど子供ではないし、収まるところに収まって良かったと思っている。
 しかしあの東が感情を向ける相手だ。どれほど過保護に愛されるかを考えると犬飼は今から砂を吐きそうである。
 今後は荒船を性質悪く揶揄うとバックの東が出てくるようになるに違いない。事情を知る犬飼は良いが、これからは余計な被害が出ないよう周囲を見ておく必要があるかな、と無駄に先の心配をしていた。




 告白から数日後。荒船は東に誘われて一緒に夕飯を食べていた。繁華街からは少し外れた場所にある和食屋で、小さく静かな店だ。ボーダー関係者があまり知らない場所を選んでくれたらしい。言うなれば初デートである。

「東さんはなんで俺のこと好きになったんですか」
「えっ」
 車で来たので東は酒を飲まない。今日がチャンスだと荒船は思った。今となっては理由などあってもなくても恋人である事実に変わりないが、気になるものは気になる。
「思い当たることも無いし、全然気付かなかったんですよね。だからなんでかなって」
 東が気付かれないようにしていたので当然ではある。気になり始めたきっかけも、荒船本人は覚えていないだろう。
 少し長くなるぞと前置きをして、東は話を始めた。
「お前が狙撃手に転向した頃、ちょっと話したの覚えてるか?」
「何度か話したことはなんとなく……どれのことですか?」
「攻撃手からいきなり狙撃手は大変だろうから、俺で良ければ教えるぞって言ったら、お前断っただろ」
「えっ、そんなことありましたっけ!?」
荒船が転向したばかりだったとはいえ東の凄さはよく知っていたし、誰であろうと先輩に向かって失礼なことを言った記憶は無い。無意識に何かしてしまったのかと焦る。
「あったよ。今はやりたいことが多過ぎていっぱいいっぱいだから余裕ないって」
「ああ、そんなことなら言った気が……
 断ったというより、丁重に辞退したという方が正しい。荒船の記憶が正しければ、忙しそうな東に無駄なことは頼めないから、考えがまとまったら聞きに行くというニュアンスの内容を伝えた気がする。
「これでも弟子は多いし、そんなことを言われたのは初めてでな。面白そうだったから様子見てたんだ。ほとんど自力で上手くなっていくのを見て、格好良い奴だなと思った」
 遠回しにせよ東の申し出を断って、自分の目的を果たそうとする隊員は珍しかったに違いない。東は必ずしも捕まるとは限らなかったし、優秀な弟子がそこらに何人も居たので、結局荒船が東に直接助言を求めたのは数えられるほどだった。
 決して全てが自力だったわけではない。しかし努力を褒められるのは単純に嬉しい。
「お前が遠大な計画立ててるってのも聞いたことがあったから、目標に向かって試行錯誤してるのも分かったし、眩しかった。それで気付いたらもっと近付きたいと思うようになってたんだ」
 そこまで話すと、東は照れが入ったのか赤くなってきた。本当に、荒船のこととなると面白いほど表情を崩す。
「避けようと思う前は、むしろ積極的に近付こうとしてたんだぞ」
「えっ?」
「C級の指導とかな。打ち合わせなんかはもう佐鳥に丸投げしてやろうかと思ってたんだけど、お前が来ることになったから全部対応したし」
 東が何かを変えたわけではなく、荒船が近付いたからそこを動かなかっただけ。それは気付かないはずだ。自然過ぎて分からない行動は他にもあったと思われる。
「お前は魅力的だから、知る度に好きになっていくよ。今も」
……は」
 今のは完全に不意打ちだ。正面からまともに喰らって、荒船は頭を抱えて俯いた。東は言うだけ言ってすっきりした顔をしている。
「じゃあ、俺からも一つ質問」
 髪に埋もれた左手を、東の右手が引いていく。荒船はそれを目で追った。
「俺は将来的にお前を抱きたいと思ってるけど、それでもいいのか?」
「だっ……俺が抱かれる側ですか」
 そういう問題ではないが、今の荒船の頭は混乱している。
「え? お前……俺のこと抱けるの?」
「そんなのやってみなきゃ分かんないでしょう」
 なぜか荒船はやたらと強気だ。意外な答えに東は驚いた。そもそも、「やってみる」までが一番のハードルだと思っていたのだが。
 少し想像してみて、東は首を横に振る。
「うーん、でも駄目」
「なんでですか」
「お前に教えたいことがたくさんあるからね」
 掴んだままの左手に東の手が絡む。荒船の背中にぞわりとした何かが走った。何か返答を誤ったのでは? そう思った時には既に遅い。
「まあ、そういうのは、おいおいで」
 視線を逸らして荒船が呟いた。ついでに手を引っ込める。東に触られているとなんだか妙な気分になってくるのだ。
(これは案外、本当にいけるかもな)
 可能性としてちゃんと考えられるというのは大きい。人間、想像さえできないことは実践などできないものだ。今はまだぎこちない距離に居るが、お互いに慣れたら少しずつ試してみたい。東の心に小さく火が灯った。
「荒船が俺を捕まえたんだから、責任とってくれよ」
「大人げねえな……
 東がふっと笑い、荒船が小さく呆れた。

 後に荒船は本当に人生をかけて責任をとることになるのだが、それはまだ二人とも知らない。

連れて行きたい

 へえ、と。荒船の感想はそれだけだった。他にもっとないのかと東が言うと、けろりとした顔で答える。
「だってボーダー辞めるわけじゃないんですよね」
「ああ。これからはボーダーでの研究中心で、遠征の計画を立てたりスカウトに行ったりもする。余裕があれば人材育成も続けたいな」
 結局は隊員と関わる機会が多い仕事だ。今まで戦闘員だったのだから、開発部門との良い橋渡しになるだろう。
「で、なんでそれを俺に報告するんですか?」
「お前が欲しいから」
……はあ?」
「俺と一緒に来て、俺の右腕になってくれないか」


 東春秋が、前線を退くという。

 この三月に博士課程を修了したら、東はボーダーに就職することになった。奥寺と小荒井はつい先月のランク戦を最後に東から独立し、人見もそれに付き合うと荒船は聞いている。東にとっては良い節目だろう。
 一般企業に就職することや研究者になることも考えたそうだが、環境やその他諸々の条件を鑑みて結局ボーダーを選んだ。

 荒船は二十歳になっていた。誕生日を迎える前にパーフェクトオールラウンダーの称号を手に入れ、今は隊としての活動をしつつ後続の育成に最も力を入れている。指導員的な立場の人間として、東とはそこそこ長く付き合いを続けてきた。
 とはいえ、である。
「東さんの右腕ならもっと相応しい人が居るんじゃないですかね。俺、別に優秀な隊員じゃないですよ」
「それは過小評価だろう。お前は優秀だよ」
 優れた人間からの評価は単純に嬉しいが、荒船は納得していない。最初から開発部に進んだ人の方が明晰な頭脳を持っていることを知っているし、どのポジションにも荒船より優秀な戦闘員がいくらでも居る。東がわざわざ荒船を選ぶ理由としては弱い。
「けどまあ、お前が言う〝優秀〟ってのはイメージが少し違うのかもな。俺が隣に居てほしいと思うのは天才じゃない。秀才だよ」
(なるほどな)
 自分を秀才だと思うほど自惚れてはいないが、東の言いたいことは理解できた。何か一つに突出した天才と、全体的に何でもバランスよくこなす秀才。荒船はどちらかといえば圧倒的に後者タイプだという自覚はある。なんといっても木崎以来の二代目パーフェクトオールラウンダーなのだから。
「一緒に来いって、要するに俺にも戦闘員やめろってことですよね」
「ああ」
 今や二十歳を超えても現役を続ける隊員は多い。というか、単純に歴の長い隊員がそのまま歳を取っている。荒船の同級生たちも、事情のある者を除いては最前線に立ち続けているし、まだまだ退く様子はない。
 穂刈と半崎にはいつでも独立していいと伝えているが、なんだかんだとまだ組み続けている。加賀美もそうだ。そんな中で荒船だけが急に抜けることが想像できなくて、返答に困る。
「東さんの言いたいことは大体分かりました。ちょっと考えさせてください」
「ああ。返事はいつでもいいから」


 そう言ってその場は別れた。隊室に戻りながら、荒船は言われたことを反芻する。
(お前が欲しい、ねえ……なかなか情熱的な誘い文句だな)
 評価され、求められるのは心地良い。東春秋相手なら尚のこと。何事にも淡白なあの男があそこまで言うのは、結構な一大事なのではないだろうか。荒船は場を離れて初めてそれに気付き、嬉しいやら焦るやらで感情が忙しい。
 確かに、それなりの成果は出してきたつもりだ。村上は自分の上達が荒船の功績だと未だに自慢しているし、どのポジションでも数多くのC級が荒船の指導を受けて成長している。最近では荒船を目標にオールラウンダーを目指そうとする隊員も出てくるほど。
 自分で色々と考えるのは好きだし、全ポジションの経験を活かしてトリガー開発ができるかもしれないと考えるだけでわくわくしてくる。率直に言って荒船に向いている仕事で、期待感もあってかなり心は東の誘いに傾いていた。

 とはいっても、現在の荒船が抱えているものを即座に放り出すわけにもいかないだろう。何せ荒船は隊長である。隊員と話し、彼らの意見を聞くまで答えは出せない。相談をするなら早いに越したことはないので、近い内に隊員が揃ったら話しておこうと決めて自隊の部屋へと向かった。

「全員に話しておきたいことがある」
 任務のない休日、隊員が部屋で好きに過ごしているタイミングで荒船が切り出した。
「俺が引退するって言ったら、お前らはどうする?」
「「「えっ」」」
 声は同時だったが、驚き方は三者三様だった。加賀美は丸めていた粘土を潰し、穂刈はダンベルを上げた状態で固まり、仰向けに寝転がってゲームをしていた半崎は端末を顔に落とした。
 どういうことだと全員がぞろぞろ集まってきたので、荒船も詳しい話を始める。
「引退って、ボーダー辞めるってことっすか?」
「いや、辞めるわけじゃねえ。研究とか開発の方に行く可能性がある」
「戦闘員ではなくなるのね」
「ああ。正直そっちも興味あるし、今は迷ってる」
「隊は一度解散か。荒船が抜けるなら……
 三人とも黙り込む。流石に話が急すぎたかと荒船が思った時、穂刈が顔を上げた。
「どうとでもするさ、オレは」
 短い言葉だった。しかしそれは自信と荒船への信頼に満ちていた。穂刈は、荒船が好きなようにすればいいし、自分の意見に左右される必要はないと思っている。それが十分に伝わってきた。
 そう言ってくれる人間が居ると、荒船が隊を離れるとしても安心できる。
「私は穂刈君と半崎君が新しい隊を組むならそこに入ろうかしら。二人がどこかに吸収されるならオペは必要ないだろうし、私も引退するわ」
 加賀美は冷静に、この先ありそうな可能性を考えていた。状況判断の速さは流石オペレーターといったところだろう。あっさり自分の引退すら決められるのが潔い。

……
 そして半崎は黙っていた。二人のように、自分の身の振り方をすぐには提示できない。
 独立してもいいとは言われていた。しかしそんなことは考えずに過ごしてきたのだ。すると今度は逆に荒船が抜けるかもしれないと言う。できることならずっとぶつかりたくない問題だった。
「半崎はどうだ?」
 困っていると分かっても、荒船は聞いた。穂刈も加賀美も答えを出したのだ。半崎だけ無言を通させるわけにはいかない。
「オレは……嫌っす。隊長がいなくなるとか」
「ボーダーを辞めるんじゃなくてもか」
「隊を組めないなら同じことっす」
 ここまではっきり感情を出して否と言う半崎は珍しい。荒船もそれを真剣に受け止めた。
……まあ、まだ俺も引退すると決めたわけじゃねえ。でも今のところ五分五分だ。来週また話そう。もう少し考えといてくれ」
 それでこの話は打ち切られた。加賀美は潰した粘土をまた丸め始め、穂刈はダンベルを拾う。半崎はそれに少し遅れてゲーム機を手に取った。



 話を持ち掛けられた時よりも荒船の頭は幾分か冷静になっていて、また迷い始めている。戦闘員としての自分の目標は達成した。人材育成だけなら引退してもできるし、忍田本部長のようにいざという時のための戦闘用トリガーを持たせてもらうことも可能だろう。大きな問題は荒船隊の存続だけだ。
 半崎はもっとあっさりした人間だと思っていた。穂刈や加賀美は大方荒船の予想通りだったが、半崎だけが違った。それほど今の隊が好きでいてくれたのかと思うと、隊長としてはもちろん嬉しい。そして、それを自分の都合で壊そうとしているのがとても心苦しい。
(よりによって半崎に裾引かれるとはな……
 普段ドライな後輩が見せた可愛い一面につい口元が緩む。笑っている場合ではないのだが。

 東から期限は伝えられなかったが、結論を出すなら四月が来るまでにした方がいいだろう。つまり、あと二週間ほどしか残っていない。
 隊員を説得して東についていくか、東の誘いを断って今の活動を続けるか。どちらに転んでも荒船の悪いようにはならないから余計に悩む。
 現状維持は荒船の性に合わない。自分に出来ることがある限り挑戦を続けたいと思う。研究はもちろん魅力的だが、後続の育成に関してはまだもう少し自分の実戦経験が欲しいというのも否めない。仮想空間で訓練はできるが、実際の近界民を相手にする経験は重要だ。戦闘員でなくなればその機会は格段に減る。

 とにかく今はもう少し隊員の意見を聞いておきたい。可愛い後輩にまだ隊長でいてくれと言われるならそれを無下にはできない。ちゃんと時間をかけて考えてやらなければ。
 来週また相談する時まで、この話は荒船の中で保留にされるのだった。

 それから数日後。狙撃手の合同訓練が終わったとほぼ同時に、半崎が東を捕まえた。話があるからこの後東隊の部屋に行っていいかと言う半崎の表情には、どこか有無を言わさない迫力がある。東はそれを承諾し、二人は応接用の椅子に向かい合って座った。
 奥寺と小荒井は攻撃手の個人ランク戦中で、部屋には人見が居た。珍しい組み合わせが入ってきたのを見た人見は何かを察したらしく、話が始まる前にさりげなく隊室を出ていった。

「東さんですね。うちの隊長を誑かしてんの」
「誑かすってお前……
 半崎の口ぶりから、荒船が東から声をかけられたことは隊員に話していないと悟る。ならばなぜそれが東だと分かったのか気になった。
「まあ研究に誘ったのは確かに俺だけど。どうして分かったんだ?」
 穂刈も半崎も独立していいという話はしてあると、以前に荒船から聞いていた。荒船が自分の意志で選んだ可能性もあったはずだ。そこで急に東に目を付けるのは見通しが良すぎる。
「昔から色々急に言い出す人ではありましたけど、引退となるとちょっと話が違うじゃないですか。まだ全然現役でいけるのに」
 不満そうな様子から、半崎がこの提案を快く思っていないことは東にも分かった。それで抗議に来たのだろうか。半崎の真意はまだ掴みきれない。
「だから誰かに誘われたんだと思ったんす。それに、そういう話を隊長に持ち掛けるのは東さんくらいなんで」
「よく見てるなあ」
 荒船のことも、東のことも。どういう言葉がその人を動かすかをよく知っていないとできない芸当だ。流石はあの荒船の後輩と言うべきか。
 東は半崎から怒られるのではないかと想像していた。大事な隊長を連れて行くなとか、何を考えているんだとか、その程度は覚悟している。しかし半崎は声を荒げることもなく淡々と続けた。
……隊長、優秀ですもんね。頭良いし、人望もあるし、何でもできるし」
「うん」
「でも東さんが声かけたの、ぶっちゃけ下心ですよね」
「⁉」
 東が口に入れたコーヒーを噴き出しそうになる。なんとか飲み下し、咽る喉から絞り出すように声を出した。
「な、なんで」
「秘密っす。とある筋からの情報ってことだけ」
 荒船本人にはもちろん、誰にも好意を悟られないよう細心の注意を払っていたつもりだった。どこかで油断したのかもしれない。
 異動の話を持ち掛けたのが東だと見通されたのも、おそらく根底にこれがあったからだ。とある筋というのが誰なのか非常に気になるところだが、半崎は揺さぶっても口を割るタイプではないだろう。
 なんにせよ、そこまで見通されてしまっているのなら観念するしかないのだ。東は細く長く溜息を吐いた。
「どっちも正解だよ。荒船が優秀だから研究を手伝ってほしいし、傍に居てほしいから連れて行きたい」
「振られても?」
「まあね」
 そうは言うが、東は最初から振られることをあまり考えていないように見える。きっと自信があるのだ。そういうところもなんだかムカつくと半崎は思う。
「半崎は、俺が荒船を連れて行くのが嫌?」
「そっすね」
 ばっさりと即答されると流石の東も少し傷つく。入隊から今まで、狙撃手としての付き合いもそろそろ四年ほどになるというのに。
「東さんみたいなずるい大人に、あの男前な隊長が持っていかれんのは気に食わないっす」
「ははは。まあ、そこは荒船次第だろ」
 まだ荒船が東についていくと決めたわけではない。だが今度は半崎が深く溜息を吐いた。
「そこなんすよ」
「?」
「隊長は多分、東さんについていきます。オレが駄々こねない限り」
(逆に駄々をこねたら残ってくれる自信があるのか)
 それはそれで、東には羨ましい。そんなのは荒船が可愛がっている後輩にしかできないことだ。東がごねたところで一蹴されて終わりだろう。
「でもそんなウザいことしたくねえし……その辺も合わせて気に食わないんすよ」
「なるほど」
 東は苦笑いをしてコーヒーを一口飲む。半崎が今日、何をしにここへ来たのか東にもやっと分かった。
「だから、隊長のこと大事にしないと許しません。少しでもつまんなそうにしてたら全力で復帰させるんで」
 荒船の先輩と後輩。東と半崎は、相手が絶対に手に入れられない立場を持っている。荒船は優しく義理堅いので、こちらに来てくれと声を上げればきっと駆け付ける。それを今回、半崎は一番大事な局面で東に譲ってくれると言う。その条件を提示しに来たのだ。
「肝に銘じておくよ」
 東がまだ少し不機嫌な半崎の頭を撫でた。荒船とお揃いの帽子。滅多に言葉にはしないが、半崎は荒船が大好きで、尊敬しているのだ。確かに、こんな可愛い後輩から行かないでと言われたらあの荒船だって思い止まるだろう。
(良い後輩を持ったな、荒船)

 用を済ませたとばかりに半崎は立ち上がった。しかし東はまだ聞きたいことが残っている。
「なあ、一つ聞かせてくれ。どうして荒船が俺のところに来ると思うんだ?」
 可能性は半々だと思っているが、半崎はそうではないらしい。その根拠が知りたかった。
「隊長はずっと何かに挑戦してたい人ですから。口ではまだ五分五分とか言ってましたけど、東さんのとこに行きたいのバレバレでした。オレらの心配さえなくなれば断る理由なんて無いっすよ」
 じゃ、と言って半崎は部屋を出ていった。
 本当によく見ている。やはり荒船の後輩だと、既に去った背中を思いながら東は感心した。
 おそらくこれから荒船に会って話をするのだろう。となると、四月を迎える前に荒船からの返事を聞けるものと思われる。

 半崎に言われて東は自信がついた。荒船はきっと東を選んでくれる。欲しいと思いながらずっと我慢していたのだ。最初から躓くわけにはいかないだろう。
 まず荒船を手の届く所に置くまでは成功しそうだ。これからどうやって振り向かせるか。そう考えるだけで東は楽しくなってくる。


 半崎が荒船隊の隊室に戻ると穂刈が座って待っていた。他の隊員はまだ居ない。
「どうだった?」
「大体は先輩の予想通りだったっす」
「両方か、やっぱり」
 最初に気付いたのは穂刈だった。荒船の一番近くに居たためか、穂刈はいつからか東の好意を察知していた。それで今回の脱退の話だ。東が下心で荒船を引き抜こうとしていることは容易に考えが及んだ。
 それを荒船に伝えることはせず、半崎だけに伝えた。そして確認と忠告のために半崎を派遣したのだ。半崎が納得する良い機会になると思ったし、きっとその方が東にも効果があると踏んでの行動だった。
「あー、あの隊長が東さんのものになんのか……
「本人が決めることだ」
 荒船は東の好意をまだ知らない。二人もそこまで首を突っ込むほど野暮ではないのだ。荒船は嫌なら嫌と言うし、その辺りは心配していない。本当に困った時はきっと友人を頼ってくれるだろう。
 それよりも、問題はこれからの荒船隊員である。
「で、どうする? 今後は」
「自分の隊作ります。ダルいけど」
「そうしようと思っていた。俺も」
 東に話をしに行く時点で腹は決まっていた。残った三人で組み続けるのも良いが、荒船が大きなことに挑戦するのを見ると、自分達だけ留まってばかりはいられないという気持ちになってくる。隊長は最後まで隊長だ。
「ならメンバー探しだな、まずは。お前も頑張れ。オペレーターまで探すのは大変だろうが」
 穂刈の言葉で半崎が眉間に皺を寄せた。加賀美は二人が隊を組むならそこに入ると言っていたが、どちらに入るとはまだ言っていない。
「は? なんで先輩が加賀美先輩と組むことになってんすか?」
「当然だろう。同級生だからな」
「いや、意味分かんないっす。そこは後輩に譲るところでしょ」
「年功序列だ」

 穂刈と半崎の争いは、数分後に荒船が部屋へ入ってくるまで続いたのだった。

so long, so far

 おめでとうとか、流石ですねとか、そんな言葉を求めていたわけではない。ただ一言、東が求めていた言葉を荒船はなかなか与えてくれない。

「遠征メンバーに選ばれた」
 東がそう言うと、恋人たる荒船は特に驚きもせず腕を組んだ。
「まあ当然ですよね」
 遠征の経験があり、統率力も実力もある年長者として東が抜擢されることは誰の目から見ても納得である。今度の遠征の引率者は忍田本部長とのことなので、東はその補佐にでもなるのだろう。
……他には?」
「お気をつけて」
 そのセリフはいくらなんでも早すぎる。まだ選抜メンバーが発表されただけだ。肩に力が入っていた東も流石に脱力した。
「遠征中はずっと連絡取れなくなるから……
「知ってます」
 クールなのは荒船の魅力の一つだが、ここまで冷ややかだと東には少し酷である。東はただ一言、「寂しい」と言ってもらいたいだけなのだが。

 メンバーが発表されて以降、荒船が本部で東に会える時間が極端に減った。もちろん東だけではない。遠征メンバー全員が訓練と研修を開始したのだ。
 今度の遠征は期間が長い上、初参加の隊員も複数居る。東はどちらかというと指導者側の立場で訓練に参加しているらしい。
 らしい、というのは、荒船が犬飼経由で聞いた話だからである。

「ふーん」
「あれ、意外と反応薄い」
 どうやら犬飼は、東と過ごす時間が少ないということを見越して荒船の反応を楽しむつもりだったらしい。が、別に羨ましいとは思っていない。確かに本部では会えないが、時間が合うときは直接東の家に行くので全く問題ないのだ。
「そもそもうちの隊は遠征狙ってねえからな……それより、ちゃんと持ってきたのか? 休みの書類」
「もちろん。今日はそのために来たからね」
「授業を受けに来い」
 二宮隊もメンバーに選ばれている。遠征の間、当然ながら学生は学校を休むことになるので、犬飼はボーダーが用意した書類を大学に提出しなければならない。
 通常ならばただの欠席扱いにされるところだが、流石に地球の防衛任務とあってはそちらが優先である。欠席数は加味されず、補修を受けるか試験で既定の点数を取るかすれば単位は出ることになっているそうだ。
「休みの間の資料とノート、よろしくね」
 犬飼はにっこりと荒船に微笑みかける。荒船はにやりと笑い返した。
「俺にノート借りるなら、絶対に単位落とすなよ」
「わお。スパルタ!」
 微笑みは苦笑いに変わった。しかし荒船も鬼ではない。試験期間になったらちゃんと手伝ってやろうと思っている。犬飼だってそこそこ勉強はできるのだから、むしろ遠征で単位を落としてしまうなど勿体ない。
「あ、そうだ。会長にも頼んどかなきゃ」
「あんまり会長に迷惑かけんなよ」
「分かってるって。じゃ、また本部でね~」
 へらりと笑って犬飼は食堂を後にした。またお得意のおねだりスマイルで蔵内にノートを頼むのだろう。被っている授業は二つと言っていたので、荒船よりは負担が少ないはずだ。
 蔵内に迷惑をかけるなと荒船が言ったのは、蔵内が必修授業の多く忙しい学科に所属しているからだ。進級に必要な単位は同じなのに、蔵内は実験などもあって四月から忙しそうであった。遠征では仕方ないとはいえ、あまりあれこれと頼むのは可哀相だ。

 準備を進める犬飼の姿を見ると、こちらに残る荒船も遠征が始まることを実感する。度々遠征に行っているA級隊員だけではない。同級生や東を含めたB級隊員も不在になる。そんなことは荒船がボーダーに入って以来初めてだ。
 今まではあまり現実味が無かったが、次第に荒船の中でも形と質量を持ったものになりつつある。遠征というものとの距離が今までよりずっと近い。
 東がたまに情報を漏らすのも原因の一つだった。うっかりなのか意図的なのか測りかねるが、後者の可能性が高い。どこの国を経由してどこの国を目指す予定だとか、遠征艇の装備だとか。東が自然に言うものだからどこからどこまでが機密情報なのか分からないくらいだ。

 このまま滞りなく準備が進めば、あと三週間ほどで出発の日を迎える。この現実味は段々と濃くなっていくのだろう。荒船もそれに合わせて切り替えていかなければ。東や他の隊員たちをちゃんと送り出せるように。

 出発の前夜、荒船が東の家に泊まりに来た。荒船は合鍵を貰っているのでいつでも自由に出入りできる。大家にはしばらく不在になることと荒船が勝手に出入りすることは伝えておいた。

「寂しかったら俺の部屋に入っていいから」
「言われなくてもあんたが居ない間に綺麗にしときますよ。どうせ冷蔵庫の中身もちゃんと消費しきれてないでしょうし」
「うっ」
 図星だった。二日ほど前に気付いて慌てて消費しようとしたのだが、少々遅すぎたようだ。明日から代わりに荒船が消費してくれるという。本当に東のことをよく分かっている恋人だ。
「今日、一緒に寝てくれないか」
「嫌だって言ってもそうするくせに」
……嫌なのか」
 分かりやすくしょんぼりとしてしまった。あまり揶揄い過ぎるのも良くない。荒船は東の後ろから抱きつく。シャツ越しに石鹸の香りがした。
「んなわけないでしょう。今日は何でもしてあげますよ」
 親愛を示すように荒船は頭を背中に擦りつける。東から見えない場所ではたまにこういう仕草をして、大人を巧みに惑わせるのだ。
 東は腰に回った腕に手を重ねた。風呂から出たばかりの荒船の体は温かく、触れているととても安心する。
「そう言われるともっと触りたくなる」
「それはダメです」
 荒船も意地悪で言っているのではない。単純に明日の朝が早いのだ。それに生身の体力は少しでも温存すべきだという荒船の主張により、今日のところはお預けという話で双方合意したはず。
 やはり駄目かと短く息を吐き、東は荒船を抱きつかせたままベッドに歩みを進めた。
「じゃあもう寝ようかな」
「え、もう?」
 今は九時。明日は五時に起きる予定だが、どれだけ寝るつもりなのだろうか。東は普段それほど長く眠らない人間だったはずだが。
「寝たら荒船にずっと触っていられる」
「ああ、そういう……
 荒船は呆れ混じりに笑い、抱きつく腕に力を込めた。





 翌朝。支度を済ませて、東が家を出るのを荒船が見送る。どうせ遠征艇が出るところまでは見送れないのでここでいいと東が言ったのだ。
……荒船」
 玄関先で靴を履いてもなお東は食い下がった。こんな直前に迫ってもまだ言ってくれない。東は痺れを切らして荒船の服の裾を掴んだ。荒船はそれを見て、仕方ないなという顔をする。何を欲しがっていたかは分かっていたのだ。ただ、ほんの少し照れがあっただけ。
「はいはい、寂しいですよ俺も」
 言い方は少々雑だが、東はそれで満足したようだ。嬉しそうな顔をして荒船に抱きついた。昨日からあれだけ触っているというのに、まだ飽きないのかと荒船は笑う。無論、お互いさまである。
「あんた時々ベタな言葉欲しがるよな」
「いいだろ、たまには」
 荒船が広い背中をぽんぽんと叩く。これは愛情と信頼の証だ。
「ちゃんと心配しといてやるから、全員無事に連れて帰れよな」
「ああ」
 こちらに残る隊員として、そして恋人としての言葉である。〝全員〟の中にはもちろん東も含まれる。成果はもちろん大切だが、何より全員で無事に帰還することが大前提だ。
 東はそれができる人間だ。荒船はそう信じている。

「そうだ、一つだけ」
「ん?」
 ドアを出て東が振り返った。まだ何かあるのかと待っていると、荒船の頭に大きな手が乗せられる。
「帰ったらたくさん充電させてくれ」
 東は顔を寄せて目を瞑る。これは誓いのようなもの。荒船はそれに応えるように東の顔をそっと包み込んだ。
「ああ、いくらでもどうぞ」
 昨日我慢した分まで上乗せしたっていい。無事に帰ってきたら、それこそ荒船は何でもしてあげるつもりだ。人間、ご褒美が無ければやっていられない。
 東はそれで完全に元気になった。頭を撫でていた手をひらりと振って、荒船から見えなくなるまで一度も振り返らずに歩いていった。

 遠征艇が出発した翌週の大学。荒船は次の講義が始まる前に、教室で課題をしていた。遠征チームが居ない分を他の隊で補わなければならないので平常時よりもシフトが多く、あまり自分の時間が取れないのだ。
 いつもなにかと話しかけてくる犬飼は、今は居ない。ときには鬱陶しささえ感じる彼の不在は思ったよりも大きい。決して本人には言ってやらないが。

 荒船の手元がふと陰り、控えめに声がかけられる。
「荒船」
「ああ、どうした会長」
「もう会長じゃないんだが……
 現れたのは蔵内だった。犬飼と蔵内は一つ前の講義を隣の部屋で受けていて、休憩時間にはたまに遊びに来る。今日はもちろん一人だ。
「いや、実は犬飼から「おれが居ない間、きっと荒船が寂しい思いしてるだろうから構ってあげてね」と言われていて」
「真面目か!」
 犬飼の言葉を真に受けるところや、それで用もないのに律儀に荒船に会いに来るところなど、突っ込み始めたらキリがない。荒船からすれば犬飼の〝思いやり〟は正直に言って余計なお世話だが、蔵内の純粋な優しさは素直に嬉しかった。
 しかし、蔵内は用もないのにここへ来たわけではないのだった。
「あと、「おれだけならまだしも東さんまで居なくて人肌恋しいだろうから、これも渡しておいて」と」
 そう言って紙袋を差し出した。蔵内は中身を見ないよう言われたらしい。あらゆる要素で嫌な予感しかしないが、わざわざ預かってくれた蔵内にも悪いのでとりあえず受け取る。荒船は袋の口を開き、そっと中身を覗き、すぐに閉じた。人の少ない教室に咆哮が響き渡る。
「あの野郎、帰ってきたらぶっ飛ばしてやる!」
 荒船は紙袋を握り潰す。その豹変ぶりに蔵内は戸惑うばかりだ。荒船をそれほど怒らせる物が何だったのか気になるが、たぶん聞いても教えてくれないか、更に怒らせてしまうかだろう。
 蔵内が引いているのに気付き、荒船は平常心を取り戻した。彼に当たっても仕方がない。
「わざわざ悪いな、会長。そんなに心配してもらわなくても俺は大丈夫だから」
 穏やかに笑って話す荒船がいっそ怖いくらいだが、蔵内にはこれ以上突っ込めない。それに、あれだけ元気な姿を見れば確かに心配は不要そうである。
 また本部で会おうと言って、二人は別れた。

……結局何だったんだろうか、中身)



 また別の日。本部に入って一分と経たない内に、荒船に駆け寄る影があった。
「荒船~!」
 どこからか現れた水上に捕獲される。水上がこんなに積極的な行動を取るのは珍しく、荒船は一瞬誰に捕まったのか分からなかった。
 肩を組まれ、ぐいぐいと引っ張られていく。
「今日ヒマか? ヒマやんな?」
「な、なんだよ」
 いきなり呼び止めておいて暇人扱いはいかがなものかと思うが、実際荒船は珍しく時間があった。今日は非番で訓練もないし、本部に来てからやることを決めようと思っていたくらいだ。
 水上はにやりと笑って人差し指を立てた。
「一局、付き合うてくれへん?」


 生駒隊の隊室、二人で将棋盤を挟む。他の隊員は居なかった。
「今日はオフやし、うちの隊は誰もおらんのや。相手してくれて助かったわ」
 水上も犬飼の刺客かと一瞬身構えたが、すぐに考えを改めた。この男は単純に将棋を指したかっただけである。
 今までもたまにこうして水上から対局を挑まれることがあった。気分転換をしたいときや、頭を動かしたいときなどに誰かが巻き込まれる。大抵は生駒隊の隊員のようだが、こういう日には同級生が呼び出されるのだ。
 水上はハンデをつけてくれるが手加減はしない。素人同然の同級生たちも付き合いはするもののすぐコテンパンにされてしまうので、最近では誘われて嬉しそうな顔をするのが村上くらいになってしまった。荒船も、今日が本当に暇でなければ適当な理由をつけて断っていただろう。

 人の居ない部屋でただ駒の音しか聞こえないのも空しく、荒船が口を開いた。
「お前色んな人と対局してるけど、負けたことあるのか?」
「いや、ボーダーの中では今のところ無いで」
 はっきりと言い切った。確かに荒船は、将棋を嗜んでいる隊員を水上以外に知らない。もし隠れた将棋好きが居たら頻繁に水上と対局しているはずだから、少なくとも今のところは戦闘員には居ないのだろう。
「誰がどれくらい強いんだ?」
「せやなあ……うちの隊員は俺が鍛えて少しは出来るようになったかな。まあ素人に毛が生えた程度やけど」
 生駒や隠岐や細井なら分からないでもないが、あの南沢が将棋をしている図というのが荒船には想像しにくい。直感で駒を動かしていそうである。
「王子はチェスならええ勝負やった。勝ったけど」
「チェスも出来るんだな」
「おん。そこそこ強いで」
 水上の言う〝そこそこ〟は、きっと一般人の思うそれとは違う。王子に勝てるのなら、水上はチェスでもボーダーでは負け知らずだろう。
「他の同級生やったら、最近は鋼やな。対局する度に強なっとる」
「そりゃそうだろうな」
 学習に適した副作用は将棋にも有効らしい。だがまだまだ負ける気はしないと水上は言う。そもそも将棋に必勝法など存在しない。プロの世界でも同じ相手に勝ったり負けたりするものだし、レベルが高くなればなるほど知識だけでは太刀打ちできなくなるのだと。
「ああ、東さんとの勝負は結構おもろかったわ。ハンデ小さくても良かったかもしれん」
「! 指したことあるのか」
「一回だけな」
 荒船も初耳だ。先ほど水上は、ボーダーの中では負けたことがないと言った。つまり東に勝ったのだ。荒船はあの東に頭脳戦で勝てる人間を初めて見た。
「なんや、彼氏のこと気になるんか」
 にやにやと冷やかすように笑うのが気に入らなくて、荒船は机の下の足を軽く蹴る。
「そんなんじゃねえ。頭脳戦で東さんに勝つのがすげえと思って」
「まあ、東さんも将棋に関しては素人やしな。流石に負けられへんし、ちょっと本気になったわ」
 水上が中学生までは本気でプロ棋士を目指していたことは知っている。今まではそれがどれくらいすごいのかピンときていなかったが、身近で非常に頭の良い人間を圧倒するレベルとなると分かりやすい。
 というか東に勝ったのなら水上の評判が盛り上がりそうなものだが、そんな気配が全く無いどころか対局したことすら知らなかった。今日のように観客が居なかったのだろうか。
「またやりたいんやけど、あの人忙しいやん。荒船から頼んでもらえへん?」
「なんで俺が……
「自分、東さんの彼氏やろ」
 言われるとは思ったが、本当に言われるとなんだかむず痒くなる。相手が犬飼だったら迷いなく締め上げているところだ。
「自分で頼めよ。あ、そういえば」
「?」
「遠征から帰ったら長めの休暇貰えるって言ってたから、その時に頼めばいいんじゃねえか?」
 休暇といっても、別にボーダーへ顔を出すことを禁じられているわけではない。東の性格から考えても数日は本部に出ると荒船は予想している。
「ええんか? せっかくの休み邪魔して」
「一日くらいくれてやる」
「男前やなあ。はい王手」
 水上は笑いながら駒を動かした。気付かない内に水上の思い通り動かされていたようで、玉がすっかり包囲されている。詰みだ。
「くっ、参りました……
「相手してくれておおきに」
 時間制限なしで喋りながらゆったり指していたとはいえ、一時間ほどで投了である。レベルに差があり過ぎるのだ。それでも水上にはいい気分転換になったらしく、満足そうな顔をしている。

「今日は荒船隊も任務ないやろ? ランク戦やるなら付き合うで」
「水上相手か……よし、やろうぜ」
 将棋のお礼のつもりなのだろう。水上はサポート向きの戦闘員だが、個人で戦ってもなかなか手強い相手だ。
「今日こそ嘘つき弾を見破ってやる」
「そないなこと言うとる内は見破れへんで~」
 水上の口先には荒船も何度騙されたことか。ボーダー内でしか通用しないのが悲しいところだが、逆に言えばボーダー隊員には効果絶大である。
 チームランク戦の備えにもなるし、何より水上は賢い。学ぶことはいくらでもある。荒船が射手に転向したら教えを乞いにいこうと思っている内の一人だ。早く戦いたくて、荒船はそわそわしながら駒を片付ける。

 将棋盤を片付けながら水上がぽつりと呟いた。
「皆、無事に帰ってくるとええなあ」
……ああ」
 同級生たちも、東も、全員。
 大掛かりな任務だと聞いている。きっと危険度も高いのだろう。ボーダーの人間、誰もが心配している。
 荒船は水上に、気を遣ってくれたのかと聞いた。すると、ただの気分転換や、と返されたのだった。

 時間が経つほど荒船の足は東の家から遠のいた。部屋は綺麗に掃除してあるし、冷蔵庫の中身も調味料くらいしか残っていない。単に行く必要がないのだが、足が向かない理由は別にあった。

(寂しかったら来ていいとか言ってたけど、あの部屋に一人で居たら余計ダメになりそうだ)
 今はまだ平気だ。大学の授業も始まったばかりで、今は寂しさを感じる余裕もないほど忙しい。だがふと気が緩んだ瞬間、心の隅に追いやったはずの不安がじわじわと広がるのだ。
 アフトクラトルへ、あの非常に手強い角付きが居る国へ行くのだと東がこっそり荒船に教えてくれた。こちらが精鋭を派遣するのを同じように、向こうから来たメンバーとて精鋭だったのだろう。ボーダーは彼らを退けた。しかし今度はホームではない。
 こちらの目的が攫われた人間の奪取である以上、向こうもはいそうですかと素直に調査させてくれるとは考えにくい。やはり戦闘が起きる確率は非常に高いのだろう。

 もし彼らが負けたらどうなる。どうも近界は常に人材不足のようだから、優秀な兵隊をすぐに殺すことは考えにくい。しかし万が一もある。命までは奪われなかったとしても、嫌な可能性ばかりが無数に浮かんできた。

 自分の家でさえそうなるのだ。東の家になど行けば、東のことばかり考えてしまうだろう。だから荒船は行かない。少なくとも、遠征艇が帰って来るまでは。

(ダメだな。これくらいの期間、なんてことないと思ってたのに)
 時間が合わずに一ヶ月デートができないのとは訳が違う。物理的な距離というのは、こうも人を不安にさせるものか。世の遠距離恋愛が長続きしないのも納得だ。とはいえ荒船が心配なのは東の気持ちではなく身の安全なのだが。
 それにしても、東や友人達がどれほど荒船を精神的に支えてくれていたかを痛感する。彼らもそう感じているだろうか。あるいは、そんな余裕もないほど忙しいかもしれない。
(そうだ。待ってる人間のことを考える時間なんて、帰りの艇の中だけでいい)
 今は自分たちのことを心配などしなくていい。しっかりと務めを果たし、ちゃんと帰ってくるのなら。

 不安は尽きない。今はただ信じて待つ。彼らが帰ってきた時に、安全な街で迎えてやれるよう最善を尽くすのみだ。

 忙しく過ごす間に時は過ぎ、遠征艇の帰還予定日が明日に迫っていた。
 荒船隊はいつも通り任務を終えて帰る準備をする。夜遅くなってしまったので、半崎が加賀美を送ることになった。荒船と穂刈が最後に部屋を出て、本部を後にする。

「この臨時シフトからももうすぐ解放だな」
「ああ。長かった」
 大学生たちは特にこき使われた。トリオン体に疲労は溜まらないが、時間が止まるわけではない。通常であれば自由に使える時間を任務に費やしたことで、日常生活にちょっとした皺寄せがきていた。
 しかし、明日から通常シフトというわけにもいかない。長期の重要任務に就いた隊員には、それなりの休暇が与えられる。臨時シフトはそれが終わるまで続くのだ。
「まあでもあいつらは四六時中任務が続いてたんだし、ちゃんと休んでもらわねえとな」
「ちゃんと休むだろうか、忍田さんとか」
……休んでもらわねえとなあ……
 休みそうもない本部長の顔を思い浮かべながら、二人で天を仰いだ。今日は星が綺麗に見える。
「帰ってくるんだな」
……ああ」
 返事が予想よりもあっさりしていて、穂刈は横目に荒船の表情を盗み見る。少なくとも、期待でわくわくしているような顔ではなかった。
「嬉しくないのか?」
「全員の無事を確認するまでは安心できねえよ。それに、予定通り帰ってくるかどうかもまだ分かんねえし」
「やれやれ。心配性だな、お前は」
「現実を見てんだよ」
 穂刈は察した。これは予防線だ。もし何か予定外の事態が起こっていた場合、期待していた分だけ落胆することになるだろう。そうならないための自己防衛。
「大丈夫だ、精鋭揃いだからな」
 あのメンバーで対処できない事態などそうは起こらない。大半が遠征に慣れた隊員で、戦闘の腕だけではなく対応力にも長けた者達だ。
 荒船も彼らを信じている。心配や期待や、色んな感情を落ち着かせるために深呼吸をした。
……到着予定時間は早朝だったか」
「午前四時だな。連絡網によると」
 時間通りに問題なく帰還したとして、成果報告してから帰宅すると六時か七時くらいになるだろう。その時間なら大抵のメンバーは本部に残って仮眠などするだろうが、彼はおそらく家に帰ってくる。荒船にはそんな予感があった。

「悪い、穂刈。俺今日はあっちに帰る」
「だろうな」
 穂刈はふっと笑って荒船を見送る。もし真っ直ぐ自宅に帰ろうとしていたら、穂刈が縛ってでも東の家に届けるつもりでいた。

 荒船は走る。今急いだって東が帰る時間は変わらないと分かっていても、走らずにはいられない。
(ああ、そうだよ。最初から寂しかったよ)
 ずっと一緒に居る人間が何人も居なくなれば寂しいに決まっている。特に東に対しては安心してもらうために余裕ぶっていたが、そろそろ仮面も剥がれそうだ。
(早く会いてえな)
 本部で待つこともできるが、本部は色々と気を遣う。任務から解放され、スイッチの切れた東を出迎えてやるのだ。迷惑じゃないだろうかとか、そんなことを考えるのは止めた。荒船がしたいからそうするのだ。
 荒船の頭の中は決壊した川の水のように想いが溢れて止まらない。体の中のエネルギーを持て余して、走り続けなければ爆発してしまいそうなほど。
 東も同じ気持ちだろうか。急ぐこともできない帰路を、遠征艇の中でそわそわと過ごしているのだろうか。そう考えると焦っていた気持ちがどこかほっとして、頭が少しクリアになる。
 出発前でさえあれだけ寂しがっていたのだ。今頃は言うまでもないだろう。帰ってきたらしっかり労ってあげて、たくさん甘やかしてあげて、そして甘やかしてもらおう。遠征の話はいずれ聞くとして、今はただ一言が聞きたい。



 翌朝、荒船は玄関の鍵が開く音で目を覚ました。

真夜中のフクロウ 夜明けのオオカミ

 フクロウのような人だと思う。知的で、獲物を狩るのが上手く、静かに立ち回る姿は何度見ても鮮烈だ。
 しかし荒船がそう思う理由は他にもあった。



 夜が明ける。窓の外が明るくなったのを感じて、荒船は薄目を開けた。アラームが鳴るまであと三十分ほど。もう一度眠るのも良いが、せっかくなので目の前で眠る人を観察することにした。
 顔にかかる長い黒髪をどかせてよく顔を見る。いつも眠たげな眼は完全に閉じ、寝息さえほとんど聞こえないほど静かだ。
 この時間帯の東はアラームが鳴るまで決して目覚めない。起きている間はどんな視線も目敏く拾うのに、今は穴が開きそうなほど見つめてもまるで気付かない。だから荒船はこの時間が好きだった。

 東は夜型で朝が弱いと知ったのは付き合う前だった。夜間任務後に東が仮眠室で寝ていた翌朝、荒船が呼びに行ったことがある。名前を呼んでも起きないものだから、最終的に少々手荒な方法を取らせてもらった。不機嫌な東という非常に珍しいものを見た時の衝撃を今でも覚えている。
 しかし東も大人なのでアラームさえ鳴ればちゃんと起きるし、起きてから短時間で活動を始められるようになる。だからこんな東を誰も知らない。
 これは、荒船だけの特権。

(今日はクマ濃いな)
 なにかと忙しい身であることはよく知っている。トリオン体であるのをいいことに徹夜したり、生身でも遅くまで起きたりしていることなど。だから荒船と過ごす間くらいはちゃんと寝かせようとするのだが、成功した例はあまりない。昨夜だって、もう終わりだと言ってから何度「もう少しだけ」と言われただろうか。
 それでも断れないから困るのだ。あの東があんな風に甘えてくるのは、きっと荒船だけだから。荒船も大概、東に甘い。



 東が目を覚ますと荒船はベッドを抜けていた。代わりにコーヒーの香りが部屋に広がっていて、頭がはっきりしてくる。鳴り響く携帯を止めると、荒船がキッチンから戻ってきた。
「おはようございます」
「おはよう……
 頭は動いても体は重い。長い手足で目一杯伸びをして、体に血を巡らせようとする。が、なかなか起き上がれない。
「あらふね」
「はい?」
「起こして」
 そう言って片手を伸ばす。荒船に起こしてもらえたらちゃんと起きるから、と東が目で訴えると、やれやれといった顔で腕を掴んだ。
「動画でも撮って弟子達に見せてやりてえよ」
「がっかりされるかな」
 くすくすと笑いながら起き上がり、荒船の頬に軽くキスをする。やっと体も起きてきた。コーヒーの香り漂うキッチンを抜けて、東は洗面所に向かった。



 今日は何も予定を入れていない。荒船が東の家に泊まるときは大体そうだ。でなければ昨夜のような無理はできない。
 朝食を終えるといつも通り、まずは洗濯を回しながら二人で片付けから始める。東の部屋は放っておくと度々物置のような状態になってしまう。荒船が泊まりに来る理由の半分はこのためでもあった。昨夜は家に入るなりベッドに引きずり込まれてしまったので何もできなかったのだが。
「先月来たばっかりなのに、なんでこうなるんですかね」
 荒船はデスクの半径一メートルに散乱する資料を集めながら溜息を吐いた。パソコンの周りなどもっと酷いが、そちらは頻繁に使うからと東に懇願されたため手をつけないようにしている。
「今月は特に色々あったからなあ。実験が上手くいかない原因を探したり、同級生の論文発表の手伝いしたり」
 なかなかハードに忙しかったということは荒船も知っている。なにせ二人きりで会うのは先月の頭にここへ来たのが最後で、それ以降は今日に至るまでデートの時間などとても取れなかったのだ。
「使った資料を本棚に戻すだけで少しはマシになると思うんですけどね」
「ははは」
 笑って誤魔化されたので、荒船は持っていた本の面で東の頭を軽く叩いた。

 床の上が空いたら掃除機をかけて、掃除が終わる頃に洗濯が完了した音が鳴った。今日は天気が良いからシーツ類を洗って、更にマットも洗うつもりだ。荒船が布団からカバーを外す間に東は服を干しに行った。
 全て干し終わる頃には昼食の時間になっているだろう。いつもなら外食する場面だが、たまには家で食べても……というか、いくらボーダーや大学の食堂がしっかりしているといっても心配になることはある。別に、東は料理ができないわけではないのだ。荒船は東の料理が好きであったし、「昨夜」のお詫びに作ってくれとねだってみようかなどと考えていた。


「昼メシか。何か材料あったかな」
「冷蔵庫だけは毎日確認しろって言ったよな」
「いやー、見てはいるんだけど」
 こまめに食材を買いに行ったり消費したりできないのは東自身も承知の上。なるべく長持ちするものをストックしておき、いざという時でもそれなりの食事が摂れるような状態にしてある。
 東は本当は生活力があるのだが、ただただ時間が無くて余裕のある生活ができない。荒船は時々それを思い出させる役目を担っているのだ。

 冷蔵庫に入っていた材料で出来上がったのは親子丼だった。乾燥ワカメで作った味噌汁も付いている。
「久し振りに料理したから上手くいったかどうか」
「うまそうですよ。いただきます」
「いただきます」
 東が心配するほど腕は落ちていなかった。特段何かに凝っているわけでもない、普通の家庭料理。だが荒船はそれが好きなのだ。生活感のない東がこういった普通の食事を作ってくれることに意味がある。
「午後はどうする?」
「んー……あ、そうだ。前言ってたお薦めしたい映画観ませんか? 来月新作が公開されるんですよ」
「ああ、いいよ」
 本当は東と行こうとしていたのだが、多忙により荒船一人で映画館に行った作品だ。アクションがメインだが知略を巡らせるストーリーが人気で、きっと東も気に入ると思っていた。
「二本なら今日中に観終わりますね。食べ終わったらすぐ行きましょう」
 東は特別映画が好きというわけではなかった。しかし荒船と付き合ってからはそこそこ詳しくなったように思う。なかなか時間は合わせられないが、同じものを見て意見を共有するのは面白いし、何より荒船の楽しそうな顔を見るのが好きだった。

 昼食の片付けをして出かける準備をしていると、荒船が携帯を見て声を上げた。
「東さん、この辺のレンタル屋はダメです。軒並み在庫切れ」
 前にも似たような目に遭ったことがあるので、荒船はまず目的の映画の在庫があるかどうか先にネットで調べるようにしている。新作が出る前に見直しておこうと考えるのは皆同じようで、この家から歩いて行ける範囲の店はどこもレンタルされてしまっているらしい。
「どうする? 何か別の借りるか?」
「いや、ちょっと足伸ばして本部の近くまで行きます。穴場のレンタル屋があるんで」
 曰く、警戒区域のすぐ近くに商売する気があるのか分からない店があるという。一般人はほとんど近寄らないのでいつ行っても在庫が豊富で、荒船を始めとした一部のボーダー隊員が重宝している。
 こういうとき、東は荒船の指示に素直に従う。いつもは東の予定が合わず振り回してしまうことが多いので、荒船が「こうしたい」と主張したときは余程のことがない限りそれを尊重するのである。



 いつもの電車に乗って本部の最寄り駅で降りた。最寄りと言っても安全のため当然警戒区域からは離れた位置にあるため、電車を使うとそこそこの距離を歩く羽目になる。大学生にもなったことだしお金を貯めてバイクを買いたいと荒船は思っていたが、はたして東がそれを許すかどうか。

 目的地が見えてきた時のことだった。ボーダー本部からサイレンが響く。門が開いたようだ。二人が今立っている場所からは見えないので、反対側なのだろう。
「今の時間の担当って誰でしたっけ」
「王子隊と諏訪隊と、後は混成部隊だったかな」
 すぐに戦闘の音が聞こえ始めた。今日は規模が少し大きそうだ。
 二チームとも安定した強さを持つ隊で、他のメンバーも現場に慣れている者ばかり。本部内にも隊員が居るし、少々数が多いくらいで揺らぐことはないだろう。
 そのまま去ろうとしたが、二人は再び足を止めることになる。前方三百メートルほど先に新たな門が開くのが見えた。出てこようとしているのは何の変哲もないモールモッド二体。
 更に振り返ると後方八百メートルあたり、また別の門が開いている。この様子だと他の場所でも開いているかもしれない。サイレンが鳴り続ける。
……どうします?」
 どうやら複数の門が時間差で開いてしまったようだ。目の前に開いた門は警戒区域ギリギリの位置で、どう考えても一番近い場所に居る隊員は東と荒船である。そして今の担当には狙撃手が少ない。通常なら本部内に居る隊員が出動してもいいような場面だが、二人で片付ける方が手っ取り早そうだ。その辺りまで考えた上での質問だった。
「冬島さんのワープ……あ、今日あの人休みだ」
「えっ、珍しい」
「そんな日もあるよ」
 話しながら二人とも換装した。非番だが戦闘行為は許されているし、少ないながらも一般市民が居るのなら放置するのは信念に反する。
「ま、ここで駆け付けなきゃボーダー隊員じゃないでしょう」
「はは、そうだな」
 二人は既に駆け出していた。荒船が市民の避難誘導を行い、東は通信室に呼びかける。沢村に連絡して、当番の隊員たちには他の門に回ってほしい旨を伝えてもらった。
『俺が寄ってから広めの場所まで誘うんで、止めは頼みます』
『うん、了解』
 相手は二体で動きも単純。しかしこちらは市民と街を守るのが優先である。荒船が弧月で寄って敵を誘導し、一般人から十分な距離をとった辺りで東に止めを刺してもらう作戦だ。東も異存ないと高い場所へ向かった。

 門の近くに居た市民は三人。荒船が駆け付けた時点で誰も怪我はしていなかった。それだけで気持ちはかなり楽になる。先頭を走っていた男性にボーダーのエンブレムを見せて話しかけた。
「ボーダー隊員です。皆さんは西の方向へ逃げてください。他に逃げ遅れた人は見ていませんか?」
「いや、これで全員だ。ありがとう!」
 警戒区域の近くを通る人が少ないことに加え、今は年配の人が含まれていないのも運が良かった。荒船は弧月を抜き、市民を追おうとするモールモッドの脚を一本落とす。それによって近界民の標的は完全に荒船に切り替わった。後は出来る限り警戒区域内部に連れて行くだけだ。

『この辺まで来たら大丈夫か。東さん、いけます?』
『ああ、さっきポイントに着いた』
『脚が無い方はもう落とせるんで、元気な方を狙ってください』
 市民の安全が確保されたのなら気負うものは無い。射線の通る場所を目指しつつ敵を削るくらいの余裕はあった。
 宣言通り、東に通信を送るや否や弧月が近界民の心臓部を貫く。攻撃手から離れたとはいえ腕は健在だな、とスコープ越しに東は舌を巻いた。荒船がもう一体から距離を取ったタイミングでアイビスの引き金を引く。
 二体とも完全に沈黙したことを確認し、東は荒船と合流した。そこで沢村から通信が入る。
『東君、荒船君、そっち側にはもう反応が無いわ。任務完了よ。一応報告に寄ってもらえるかしら』
『東了解』
『荒船了解』


 本部に入ると沢村が待っていた。本部長同様、彼女もいつ休んでいるのかと荒船は心配になる。
「休みの日なのに ありがとう、二人とも」
「いえ、たまたま近かったんで。怪我人も出なくて良かったです」
 先に開いた門の方も大きな被害なく片付いたとのことだ。まだ任務の交代時間になっていないので王子隊も諏訪隊も戻ってきていないが、礼を言っていたと伝えられた。
「あの門、小さかったとはいえかなり警戒区域外に近かったみたいだが……
「そうなの。他の門も遠い場所に開いて、シフト中の部隊が振り回されちゃって。今エンジニアに原因解析してもらってるところ。とにかく後はちゃんと本部内の隊員に動いてもらうから、もう帰って大丈夫よ。お疲れ様」



 思わぬ寄り道をしてしまったが、その後無事にレンタル屋に寄って目的のものは手に入れた。まだ映画を観るだけの時間も残っている。軽く体も動かせて荒船はご機嫌だ。
「今日も泊まっていくだろ?」
「そのつもりですけど」
「じゃあ、ちょっとスーパー寄って帰ろう。夜も俺が作るよ」
「やった」
 年相応の笑顔を見せて、荒船の足取りは更に軽くなった。こんなに機嫌の良い荒船は久し振りで、東の気分も上向く。この一ヶ月半もの間、全くと言っていいほどまともに構えなかったのだ。荒船が喜ぶなら、東は当然のように何だってやる。

 スーパーで適度に食材を揃えて帰宅した。買ってきた物を冷蔵庫に片付けたら、荒船が上映の準備をして東がお茶を入れる。ついでにと買ってきたポップコーンも開けてテーブルに置いた。映画の準備はいつもこうだ。
「吹き替えと字幕、どっちで観ます?」
「荒船のお薦めは?」
「んー、初見なら吹き替え」
「じゃあそっちで」
 音声を切り替えて再生開始。東と荒船は、いつもソファに並んで映画を観る。


 一本観終わる頃には十七時を回っていた。これからもう一本観るには微妙な時間だということで、休憩がてら夕食を作ることにする。
 荒船も手伝うべく立ち上がった。実家暮らしで任務もあるので料理はあまりしないが、指示通りに動くくらいのことはできる。こうしていると、ときどき一人暮らしをしてみたいと思うものだ。
「荒船、冷蔵庫からバター出して。あと牛乳一カップ半計って置いといて」
 肉や野菜を切りながら、東は次々に指示を出す。そういえば荒船は、東が何を作ろうとしているのか知らない。まな板の上には玉ねぎとしめじと鶏肉。周りには小麦粉が置いてある。シチューにしては具材が少ないような。
「これ、何作ってるんですか?」
「ん、これ」
 キッチンの下の棚から東が取り出したのはマカロニだった。この家に来るようになってしばらく経つが、そんなものがあったとは。荒船も驚きだ。
「あ、グラタンですか」
「うん。今日は時間があるからな」
 寒くなってきたのもあって嬉しいメニューである。荒船はうきうきしながら東が調理していくのを見ていた。時間のかかる料理だが、こんなに楽しみにしてもらえるなら悪くないと東も思う。
 チーズを乗せてオーブンに入れたらしばらくやることはない。洗い物を先に済ませて、焼き上がるまでまた休憩だ。


「これ、ものすごく綺麗な終わり方したけど、本当に続編が作れたのか?」
 東がデッキからディスクを取り出しながら言う。先ほど観た一作目で謎も伏線も全て綺麗に回収され、悪は完全に倒された。次に繋がるような要素があまり見出せず、ちゃんと続いているのか思わず疑ってしまう。
「一作目が人気出てから続編の制作が決まったんで、次は……まあ見ててくださいよ」
 荒船はもちろん内容を知っているのでにやにやするばかりだ。なるべくネタバレを踏まず新鮮な気持ちで観てほしいという気遣いでもある。
「そういや、東さんって映画観ながら戦術のこととか考えたりするんですか?」
 ふと荒船は気になる。あれだけ駒の扱いが上手い東だ。映画でもよく少人数チームで潜入したり敵を倒したりする場面があるが、東から見ると非現実的な策なのだろうかと。
「いやいや、流石にそんな野暮なことしないぞ。映画は観客から見えない要素も多いし、考える意味はあんまりないな」
「ふーん」
 あくまでフィクションはフィクションという考えらしい。ものによってはしっかりと組み立てられた話もあるので、少しくらい考えるものかと思っていた。
「まあ、俺だったらどうするかって考えることくらいはあるけどな。それって誰でもやるだろ?」
「確かにそっすね」
 東が指揮官で、映画に出てくるような精鋭が揃っていたら。それはもう最強だろう。荒船はにやりとしてしまった。
「じゃあ、荒船は映画のアクションを戦闘に取り入れたりするのか?」
 お返しとばかりに質問が飛んできた。ログを見ていれば分かることだ。これはちょっとした意趣返しである。
「いくらトリオン体が動けるからって、あんな派手なアクションはやらないです。武器も動き方も結構違いますからね。でも……
「?」
 確かに実践でスパイのような動きをしたり、陸軍兵士のような戦い方をしたりすることはない。トリオン体での戦闘中は体術を使う機会などまずないし、映画によく出てくるような拳銃のトリガーも無い。
 だが、取り入れていないだけでやったことがないとは言っていない。
「練習してみたことは、あります」
 少し恥ずかしそうに荒船は言う。同級生と集まって、訓練室で試し撃ちと称して色々と遊んだことがあるのだ。二組に分かれ、ハンドガンを拳銃に見立ててギャングの抗争めいたことをしてみたり、格好つけてパルクールの真似をしてみたり、他にも色々と。戦闘に取り入れるような要素は何も生まれなかったが、遊びとしてはこの上なく楽しかった。
 荒船は同級生達と仲が良い。戦闘員に同世代が少ない東は羨ましいくらいだ。十代の若者らしくはしゃぎ回る姿は東の前では滅多に出さないが、想像するのは難しくない。東もつい口元を緩ませる。
「俺も今度ビルから派手に飛び降りてみるかな」
「当真あたりにからかわれんのがオチですよ」

 と、レンジから焼き上がりを知らせる音が鳴った。ちょうど二人の空腹もピークに差し掛かるところだ。美味しそうな香りにわくわくしながら、熱い皿を食卓に並べる。
「東さん、こんだけ料理できるのにあんまりやらないから勿体ないですね」
「はは、ボーダー辞めたら毎日作れると思うけど」
「冗談きついです」
 二人で手を合わせて、さっそく食べ始める。
 東がボーダーから離れる日。想像はできないがいつかは来るのだろう。その日ができるだけ遠ければいいなどと思いながら食べていると、舌の上を火傷した。


 食べ終わって片付けをしたら、さっそく次のディスクを再生する。
 東が心配していた続編は、主人公の代替わりによって全く新しい話となっていた。少し未熟な主人公と、前作では無かった相棒の存在、新たな敵の出現、そして時折挟まれる前作のオマージュ。アクションも見ごたえがあり、大満足の続編として出来上がっていた。

「面白かった。新しい要素満載だけど、しっかり続編だったな」
「でしょう。新作は再来週公開なんで、休み合わせて行きませんか」
「ああ。でも二週間もお預けかあ」
 想像以上に楽しんでもらえたようで、荒船は心の中でガッツポーズである。今回は特に当たりだ。
 荒船も毎回東と映画を観るわけではない。万人受けしそうなものや東が好きそうなものを選んで薦めて、気に入った様子なら一緒に行く。映画だけに集中したい日もあるし、適度な頻度である。
 できれば一日休みの日がいい。午前の上映を観て、昼食を摂って、そのままどこかに遊びに行きたい。シフトを見るまでは楽しい想像を広げたって構わないだろう。



 荒船が風呂から上がると、先に上がっていた東がお茶を用意して待っていた。隣においでという意思表示らしい。
 大人しく隣に座ると満足そうに荒船の髪を拭いた。しばらくわしわしと続けていたが、ふと手を止めて頭に顔を寄せる。荒船から洗いたての良い香りがするのが東のお気に入りらしい。

「荒船」
 東の好きにさせていると、長い指が荒船の手を捕らえる。これは誘う時の指の絡め方。駄目だ。今ここで捕まったら明日に支障が出る。
「明日は授業あるんで……東さんも任務でしょう」
 重なった手を振り払うのは心苦しいが、二日連続は流石に堪える。本当は午前の授業が休講になったので時間的な問題はない。だが今日こそ早く寝てもらわなければ。そう思っていたのに。
「授業は午後からだろ? 俺は換装するから別に」
 なぜ東は休講のことを知っているのだろう。更に詰め寄るように東が顔を近付ける。キスされると思って荒船は身構えたが、揶揄うように額を合わせるだけであった。
「ダメ?」
 荒船が東の優しい声に弱いことを知っているに違いない。そんな風に言われたら、駄目だなどとは言えなくなってしまう。
……一回だけなら」
「そうこなくちゃな」
 嬉しそうな顔を見ると荒船もつい絆される。本当に、荒船は東に甘い。
 東はまだ湿気の残る頭を引き寄せ、優しく食むようなキスをした。唇を舐めると荒船も口を開いて東を受け入れる。
「!」
 しかし荒船が反射的に舌を引っ込めた。擦った時に違和感があったのだ。そして思い出す。
「グラタンで火傷した?」
……なんでそんなすぐ分かるんですか」
 しかし東は、逃げようとする荒船の顔を掴んで再び深く口付ける。奥に引っ込んでいる舌を引きずり出し、わざと火傷している部分に絡ませた。
「ふ、ぁ」
 執拗に舌を刺激され続け、荒船が涙目になってきた頃にようやく解放される。
「火傷してるってのに……
「荒船が逃げようとするからだよ」
 こういうときの東は、珍しく本当に楽しそうだ。
(サディストめ!)
 しかしそんな東を受け入れている荒船も荒船なのである。



 オオカミのような子だと思う。賢く、仲間との連携に長け、しなやかに駆け回る姿はいつ見ても美しい。本人は犬が嫌いだから伝えても喜ばないだろうが。
 東がそう思う理由は他にもある。

「荒船、噛みすぎ」
 事を終えて、東は鏡の前で自分の姿を確認した。首筋から肩を中心に、いくつも歯形が残っている。
 どうやら荒船には噛み癖があるらしいと気付いたのは、この行為を初めて何度目かのことだった。
 盛り上がって気持ち良くなってきた頃に東が腕や肩を無防備に晒していると、荒船はまず間違いなく目の前の肌に歯を立てる。もちろん本気ではなく甘噛みだが、テンションが上がると少し強くなってしまうこともあった。
 なぜ噛むのかと東が聞いてみたら、自分ではよく分からないがとにかくそうしたくなるのだという。調べてみると哺乳類に備わっている行動の一つらしく、相手を可愛いと思うほど衝動が強くなるとのことだ。
 言葉よりも行動で愛情を示すのが動物的で、愛おしい。

 東はベッドに戻り、横になって休んでいる荒船の体を優しく撫でる。一回だけと言われたから、ついしつこくしてしまった。だが一回は一回だ。
「なあ荒船、もう一緒に住まないか」
「はあ?」
 かけられた言葉はあまりに突飛で、荒船は東の意図を計りかねる。
「お前が居てくれたら、俺はすごく嬉しい」
 東がにこりと笑う。また何かろくでもないことを考えているような気がして、荒船は眉間に皺を寄せた。
「なあ、どうだ?」
 体を撫でていた手が荒船の頬に添えられる。
「か……考えとく」
……そうか」
 少し寂しそうに笑って、東はすっかり乾いた髪を撫でた。きっと受け入れてほしかったのだと荒船は思う。だったらこんなタイミングよりも平常時に言ってほしいものだが。
 荒船としても同棲が嫌なわけではないし、むしろとても嬉しい。ただ勢いで即答する話でもないだろう。東がどう受け取ったかは分からないが、本当にちゃんと考えるつもりでいる。親への相談や諸々を済ませたら、そう遠くない内に良い返事を出せるはずだ。
 ただ、今の荒船はそれを考えるにはあまりにも眠すぎたのだ。


 東は横になって時間を確認する。二十三時を回ったところだ。まだ眠くはないが、朝型の荒船はいつの間にか眠ってしまった。いつもならもう少し起きていられるのだが、あれだけ疲れることをしたのだから別に不思議ではない。

 荒船はよく東にちゃんと寝るよう言ってくる。それは多分、東が荒船より先に寝たことがないからだ。本人としては一応必要な睡眠を摂っているつもりではあるのだが、夜はつい起きてしまうので荒船に心配をかけることになっているのだろう。
 たぶん荒船が思っているよりも東は休んでいる。人から見えない所でひっそりと。昼間、木の上で静かに眠る梟のように。
 立場上、あまり弱い面は見せられない。まだ学生とはいえ、ボーダーの中では立派な大人だ。年若い後輩たちにとって理想の人間でいる必要がある。

 真夜中を生きる梟と、夜明けと共に動き出す狼。一緒に居られる時間はとても貴重で、一分たりとも無駄にしたくはない。

 似ているようで似ていない二人。だが共通しているところもある。
 梟も狼も、自分の伴侶をとても大切にするのだ。


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