@saeki_f
『今日、泊まってもいいか』
土曜日の午後、蔵内から急にそんなメッセージが届いた。大学生になって自由な時間が増え、断りもなく遊びに来て泊まっていく友人もいる中、恋人たる蔵内はいつだって事前の連絡を欠かさない。しかし当日の連絡とは珍しい。
『ええよ、今日はずっと暇しとる』
今日は非番で、他に予定も無い。王子隊は確かシフトが入っており、交代の時間が来たのだろう。蔵内ならば手放しで歓迎である。
『じゃあ今から行く』
これまた急な話だ。そもそも大して物が無い部屋なので急いで片付ける必要も無いが、蔵内相手となると掃除くらいはしておきたい気持ちになる。
「お邪魔します。急に押しかけてすまない」
玄関を開けて、蔵内の顔を見て水上は理由を察した。これは随分と疲れている様子だ。
「いやいや、蔵っちならいつでも歓迎やで」
毎回ちゃんと連絡をくれるのは蔵内くらいだ——と言おうとしたが、その言葉は飲み込んだ。顔にあまり出さないだけで、蔵内は意外と嫉妬もする。こんなに疲れた顔をしているのに、余計なことを言って更にストレスを与えたくなかった。
とりあえず荷物を置いて二人で腰を落ち着ける。夕飯にはまだ少し早い。
「蔵っち、最近忙しかったんとちゃう?」
「ああ……ボーダーの任務はいつも通りだけど、大学の課題がいくつか重なってちょっと疲れが溜まってたかも」
聞いてすぐに弱音を吐くのも珍しいと水上は思った。これは相当だ。
「そういえば他の奴の手伝いもしとらんかった?」
「それは自分のためにもなったから……」
あくまでもこれは自己管理の問題だと言いたいようだ。そんなことをしなくても水上は他人を責めたりしないが、蔵内は優しいので自然と他人を庇ってしまうのだろう。
蔵内は誰にでも優しい。それが水上の心をざわつかせることもままあるが、その優しさは彼の彼たる所以でもあるので余計なことは言わない。
だが、人に与えてばかりの蔵内を誰が癒してやるのか。疲れた時、実家でも他の誰かでもなくこうして水上の家を訪ねてきたのだ。これは水上が頼られていると思っていいのだろう。
「ほな、今日は蔵っちを甘やかしたらんとなあ」
冗談めかして言ったが、水上はちゃんとそのつもりでいる。わざと口に出すことで蔵内に遠慮させないようにする、言わば予防線だ。だが蔵内の反応は意外なものだった。
「甘やかしてもらえるのか?」
いつもの蔵内なら冗談として流すか、真面目に遠慮する場面だ。それだけ疲れているのかもしれないが、これも都合良く受け取っておくとしよう。
「いつも蔵っちに甘やかされてばっかりやしな。何でもやるで」
「甘やかしてるつもりはないんだけどな……なら、一つ頼みがあるんだ」
「おう、なんやなんや」
折り入って蔵内から頼み事をされるなど本当に珍しい。こんなタイミングでなくても、蔵内からの頼みなら水上は大抵のことは聞くし、疲れた彼に何を言われるのか楽しみでさえある。
「夜は水上が作ったものが食べたい」
「え、そんなんでええの?」
「それがいい」
「店で食う方が絶対うまいで?」
夕飯は蔵内の好きなものにしようとは思っていたが、あくまで外食のつもりだった。その方が手軽だし、なにより確実に味が良い。水上も三門に来てから多少の生活力はついたが、料理は得意でも不得意でもないといったところだ。それは蔵内も知っているはず。
「水上の料理、結構好きなんだ。自分の家以外で何か作ってもらう機会ってほとんどないし」
「蔵っちがそう言うんならええけど……何作るにしても材料あんま無いから買いに行かんとあかんな」
「じゃあ、今から行こう」
そう言って蔵内は元気に立ち上がった。先ほどまでの表情が嘘のようだ。
「蔵っち、疲れとるんやなかったんか」
「そこまで疲れ果ててないよ」
頭脳労働しかしていなかったから体を動かしたかったなどと蔵内は理由をつけるが、顔色から察するに寝不足のようだし、そもそも先ほど自分で疲労が溜まっていたと正直に言ったではないか。
それでも水上と買い物に行きたい蔵内の様子を見ると、留守番して寝ていろとは言えない。休ませるばかりが甘やかすということではないだろう。
蔵内に引っ張られるようにして、水上は家の外に出た。
蔵内の好物を作るのは前提として、調理の難易度や材料費から考慮して夕飯は親子丼に決定した。卵が残り少なくなっていたので買い足し、長ネギや鶏肉、ついでに他にも適当に食材を買って帰った。
「あ、米仕掛けてから出たらよかったなあ」
帰り道に気付いてしまい、水上はあーあと声を上げる。家に着いたらすぐ作り始めようと思っていたが、米が炊けるまで四十分ほど待たなくてはならない。
「まだ少し早い時間だし、大丈夫だよ」
「腹減っとらん? 任務終わりやろ」
「減っては……いるけど」
「ほんま正直やな~」
一度は強がったくせに、直球で聞かれると正直に答えてしまうのが蔵内らしい。空腹の恋人を我慢させるのは忍びないが、絶対的に時間がかかってしまうのは仕方がない。
「まあ、待っとる間に昼寝でもしとけばええんちゃう?」
「人の家で昼寝は気が引けるな……」
「そんなん気にせんでええよ」
ここでも「眠くない」とは言わない正直さである。蔵内の眠気を確信し、水上は思わず笑ってしまう。家に蔵内一人を置いて寝ろと言っても聞かないだろうが、水上が居れば別のようだ。
家に戻ってすぐに炊飯器を仕掛け、買ってきた物を片付けた。一通り終えてから水上は蔵内をベッドに押し込む。蔵内は戸惑いを見せたが、掛布団を被せると大人しくなった。
「三十分くらい寝とき。準備できたら起こすで」
「うう……じゃあお言葉に甘えて……」
「ん。おやすみ」
横になると蔵内の瞼が自然と落ちる。空腹だと言っていたが、睡眠欲が優先したようだ。短時間でも寝れば少しは元気になるだろう。
疲労の色を浮かべてもなお整った寝顔を少しだけ眺めてから、水上はしばらく静かに時間を過ごした。
香りを感じて蔵内が目を覚ます。水上はキッチンで鍋の火を止めていた。手際よく調理する後姿は一人暮らしの長さを感じさせる。大学にも実家から通っている蔵内はあまり家事をする機会が無く、何でも一人でできる水上はとても頼もしく映っていた。
「あ、起きとる?」
身じろぎした音に気付いて水上が振り返ると、じっと自分を見つめる視線とぶつかった。
「すまん、うるさかった?」
「全然。何も聞こえなかったよ」
「もうちょいかかるから、まだ寝ててもええで」
「いや、起きるよ」
三十分強の仮眠でも蔵内の顔色は随分と良くなった。すると睡眠で忘れかけていた空腹感が戻ってきて、蔵内の腹がぐうと鳴る。
「蔵っち、意外と欲求に正直やな」
「……腹が減るのは仕方ないだろ」
蔵内は恥ずかしそうに胃の辺りを押さえた。部屋中に親子丼の香りが広がっているのも原因だろう。そう思いつつ水上も空腹を感じてきた。
味噌汁はもう出来ている。親子丼の方も後は卵を流し入れれば完成だ。炊飯器を確認すると、残り五分と表示されていた。
「何か手伝うことはある?」
「ほんならお茶と箸出しといて。もうそろそろ米炊けるからしゃもじも」
「分かった」
食器がどこにあるか、蔵内は大体知っている。グラスと箸を取り出してテーブルに置き、しゃもじを水上に渡し、冷蔵庫からお茶を出してグラスに注いでおいた。
友達がよく遊びに来るこの家だが、水上がキッチンのあれこれを自由に触らせるのは蔵内くらいだ。
「あ、あと味噌汁よそってくれへん?」
「了解」
水上は指示を出しながら仕上げにかかる。後は卵に火が通れば完成だ。鍋の様子を見ていると炊飯器が鳴った。
「炊けたな。ほな自分で食べたい分盛ってええで」
そう言ってどんぶりとしゃもじを渡すと、蔵内の表情がぱっと嬉しそうに輝いた。二十歳近くの人間に抱く感想ではないかもしれないが、時折こんな子供のような目をする恋人が可愛いと思う。
「いいのか?」
「ええよ。腹減ってんねやろ」
三合炊きの小さな炊飯器だがギリギリ足りるはずだ。具の方も普段より多めに作ってある。嬉しそうにご飯をよそう蔵内の横顔はやはり可愛らしい。
外へ食べに出るのももちろん楽しいが、これは家でなければ見られなかった顔だ。家で食事するのも確かにいいものだと実感しながら、二人で食卓に着いた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さん」
二人で食器を片付けて、テレビを見ながら寛ぐ。バラエティー番組では奇しくも名店の親子丼が紹介されていた。三門から遠く離れた場所にあるので実際に行く機会はなさそうだが。
「俺も料理できるようになりたいな」
「実家暮らしやったら別にできんでも困らんやろ」
「それはそうだけど、できて困ることでもないだろう?」
「確かに」
水上の場合は生活に必要だから身につけたことだが、世の中には料理が趣味という人も存在する。蔵内は何でも丁寧に取り組むので、きっと上達も早いだろう。
「なら明日の朝に何か作ってもらおか」
「明日? 急だな」
「善は急げ言うやろ」
これは別に蔵内の料理を我先に食べようとして言っているわけではなく、いきなり家庭向けの大きな調理器具を使うより、一人暮らし用の手軽な器具の方が初心者に向いているという水上の経験に基づいている。
「調理実習くらいしかやったことないけど、頑張ってみるよ」
「いくらでも練習台になったるわ」
朝食であれば何を作るにしても大して難しくなりようがない。水上も横で見るつもりでいるので、とんでもない事態にはならないだろう。
ふと会話が途切れる。すると蔵内が静かに息を吐き、水上の肩に頭を乗せてきた。
「なんや、また眠くなってきたんか」
食欲が満たされて眠くなる気持ちは水上にも分かる。しかし蔵内はその体勢のまま首を横に振った。
「いや、さっき寝たから眠くはないよ」
ではどうしたのか水上が疑問に思っていると、蔵内の腕が腰に回された。おやと気付いた時には力強く引き寄せられ、首筋に蔵内の頭が埋められる。
「あの、蔵っち」
「うん」
言いたいことは概ね理解できた。甘えるように頭を擦りつけてくる蔵内の背中に手を回してそっと抱き締め返す。それを是と受け取ったのか、水上の首筋を蔵内の舌がぬるりと這った。柔らかい感覚に水上の体がびくりと跳ねる。
「! ……疲れとるんやないんか」
「疲れてる。だから水上に癒されたい」
思えば蔵内が忙しそうにしていたので、ここ最近は直接会えていなかった。蔵内のやりたいことは水上のやりたいことでもある。
ただやはり疲労状態が気になって水上がまごついていると、蔵内の顔が耳に寄せられた。
「だって、今日は俺を甘やかしてくれるんだろう?」
そんな声で囁かれたら、休めという建前など全て放り出さざるを得ない。そもそも蔵内が睡眠欲を最優先にしていたのであれば、任務が終わったその足で水上の家に来たりはしなかっただろう。
「ほんなら、まずは風呂にご案内やな」
水上も腹を決め、蔵内の後頭部をくしゃりと撫でた。