@saeki_f
目次(*は書き下ろし)
*夏 2≫
*誕生日・荒船 3≫
*秋 4≫
*冬 5≫
*誕生日・東 6≫
バレンタイン 7≫
春 8≫
*欲しいもの 9≫
*雨 10≫
デート 11≫
ヤキモチ 12≫
*いい子 13≫
惚気話・荒船 14≫
惚気話・東 15≫
スイーツ 16≫
通販 17≫
メッセージアプリ 18≫
*喧嘩 19≫
鏡 20≫
冷蔵庫 21≫
*スーツ 22≫
*眼鏡 23≫
*彼シャツ 24≫
筋トレ 25≫
酔っ払い 26≫
*俺の 27≫
*翌朝 28≫
*依存 29≫
以下パロディ
主×従 30≫
*従×主 31≫
*作曲家×演奏家 32≫
*生徒×先生 33≫
*犬×猫 34≫
*稲荷×神職見習い 35≫
寄り道(夏)
夏休みに入ってすぐのこと。荒船が東に告白し、二人は付き合うことになった。念願叶った喜びでその日の記憶はあまり残っていない。
そしてその翌日、本部の廊下で荒船隊の戦闘員三人と東がすれ違った。東と目が合った瞬間、どんな顔をすればいいか分からなくなって荒船はつい視線を下げる。
「荒船隊、これから任務か?」
それに気付いているのかいないのか、東は足を止めて話しかけてきた。話し方も声色も至って普通だ。
「はい」
「夏休みは中高生も昼間シフトに入ってくれて助かるよ。いってらっしゃい」
「失礼します」
短い会話だ。いつも通りのつもりだが、素っ気なさすぎたかもしれない。昨日と今日で態度が違うのも不自然だろうか。この一日で東と荒船の関係が変わったとはいえ、人前でどんな風に話していたか思い出せない。
任務が終わった後、東からメッセージが届いていた。
『一緒に帰らないか?』
もちろん断る理由など無い。はいと返信し、穂刈から帰らないのかと聞かれても誤魔化して約束の時間を待つ。
外はまだ明るく、一日で最も暑い時間帯。待ち合わせ場所は裏口だった。関係がばれないよう気を遣っているのかと思ったが、すぐにそうではないと分かる。本部裏手に車が置いてあるのだ。
東の車に乗ったことはなかった。成人隊員については知らないが、同世代で乗ったことのある人間は少ないのではないだろうか。車体はコンパクトで、助手席に乗ると東との距離が近くて荒船は少し緊張した。
「今日、任務の前にすれ違ったじゃないですか」
「ああ」
エンジンをかけるとエアコンが強めにかかった。外に置いてあった車の中はどこを触っても熱く、せめて空気が冷えるまでと一分ほど発進しないでいる。
「いつもどうやって東さんと話してたか分かんなくなって焦りました」
「そう? 普段通りだなと思ったけど」
どうやら東は気付いていなかったらしい。つまり、今まで荒船の東に対する態度はあんなものだったということか。それもそれでどうなのかと自覚したので、今後はもう少し好意を見せていった方がいいかもしれないと荒船は結論付けた。
車は最短距離で家の方に向かうルートを走っている。このままいけば荒船の家まであと十五分といったところか。ただ一緒に帰るだけではあるが、なんだか勿体ないような気がした。せっかく積年の想いを伝えて付き合えることになったのだ。少しでも長く一緒に居たいと思うのはごく自然だろう。
「このまま真っ直ぐ帰るんですか?」
まだ時間はある。肯定されても自分へのダメージが少ない聞き方で予防線を張って、荒船は静かに質問をした。
「……ちょっと寄り道しようか」
「寄り道ってコンビニじゃねーか」
車を停めたのが道中のコンビニだったので、荒船は思わず噴き出した。もちろん不満など無い。好きな相手と出かけているのだから、場所などどこでもいい。ただ若干拍子抜けして、無駄な力がふっと抜けた。
「この辺あんまり店とか無いからなあ」
東としてももう少し洒落た場所に連れて行きたかったのだが、場所が場所だけに選択肢が少ない。中学生みたいだと二人で笑って店内に入った。エアコンがよく効いてとても快適だ。
「何買います?」
「そんなのアイスに決まってるだろ。買ってあげるから好きなの選んでいいぞ」
理由もなく何かを奢ってもらうのは荒船の性に合わないが、アイス一つくらいであれこれ言うのも憚られた。ここは素直に好きなものを選んでおくべきだろう。
荒船はソーダ味のシャーベットアイスを選んだ。一番安い価格帯だが、これが今一番食べたいのだ。
「遠慮しなくていいのに」
「東さんだって安いやつじゃないですか」
東が手に持っているのはみかん味のシャーベットアイスである。荒船のアイスと値段は大して変わらない。そして、東がそれを選んだ理由はきっと荒船と同じだ。
「それに、こんな暑い日に脂肪分高いアイス食べたくないでしょう」
「確かに」
コンビニで安いアイスを買って一緒に食べるなど、本当に中学生のデートのようだ。唯一違うのは、二人がそれを車の中で食べるという点である。
「今日三十五度だって」
「あー、あちいわけだ……」
今はまだ車内も冷房の名残があるので平気だが、外はサウナの中のようで日差しも厳しい。じきに車内も蒸し器になるだろう。冷たいアイスが一層おいしい。
荒船が先に食べ終わり、ごみを袋に入れる。と、まだアイスを齧っている東の横顔が目に入った。汗で長髪が張り付いてなんとも言えない色気を感じる。
「ん? 一口欲しい?」
視線に気付いて東が荒船の方を向いたので、思わず目を逸らした。付き合い始めて以降、どうにも正面から東の顔を見られないでいる。
「いや、そういうわけじゃ」
だから荒船は、東の口元が意地悪に歪んだことには気付かなかった。
「じゃあこっちかな」
東はそう言うと荒船の帽子を奪い去り、驚き半分開かれた唇を塞ぐ。
二人の唇は冷たい。荒船の舌に残るソーダの味に、東が食べていたみかんシャーベットの味が混ざった。爽やかな香りで、とても甘い。
「コンビニデートも悪くないだろ」
二人の顔が離れ、帽子が荒船の頭に戻った。東が見せつけるように自分の唇を舐めると、荒船もようやく何をしていたか実感が湧いてくる。
「……一言くらい下さいよ……」
「すまんすまん」
東は笑って最後の一口を放り込んだ。ごみを捨て、エンジンをかける。エアコンから涼しい空気が出始めたが、荒船の顔は家に着くまで熱いままだった。
いつでも一緒(誕生日・荒船)
東は焦っていた。九月九日が近付いてきている。自分がそうであった時のことなどすっかり忘れてしまったため、今時の男子高校生が欲しい物など何も思い浮かばない。東は困り果てた末、麻雀仲間に悩みを零した。
「なんでオレらに……」
諏訪の言うことも尤もだが、東も考えなしに相談を持ち掛けたわけではない。
「お前らだって年の離れた隊員にプレゼントすることあるだろ」
「確かに~」
三人ともそれぞれ出水、当真、笹森の誕生日はプレゼントを贈った経験があるはずだ。性格もポジションも違う後輩達だが、何かヒントくらいは得られるだろう。
「でもそれ言ったら、小荒井とか奥寺にもやってんじゃないすか?」
「ああ……うちの隊、俺からのプレゼントは事前申告制なんだ」
「?」
奥寺はともかく小荒井が冗談でとんでもない物を欲しいと言い出しかねないこと、そして放っておくと東が高価な物を買いかねないことから、人見によってルールが制定されたのだという。
「父親みたいですね」
「バカ太刀川! 東も気にしてんだぞ!」
太刀川の言葉も刺さったが冬島も大概だ。気を取り直して話は続く。
「まあそういう訳で、男子高校生にメシを奢る以外のプレゼントをしばらくしていないんだ」
好きな焼肉の部位なら弟子プラスアルファの範囲で知っているのだが、欲しい物となると話は別だ。しかも相手は付き合って半年も経っていない可愛い恋人。絶対に失敗など許されない。
「つってもアイツ、東さんからなら何でも喜びそうだけどなあ」
「諏訪、議論を放棄するな」
「太刀川、お前二年前まで高校生だったろ。何かないのか?」
「えー、俺大学に入るまで誕生日にロクな思い出無いんですよね」
太刀川の誕生日は毎年夏休みの宿題で潰れていた。誕生日プレゼントは宿題が終わったら貰える約束で、大抵へとへとになった夜に受け取ることになる。十二年間もよく懲りずに同じことができたものだ。
「そりゃ自業自得だろーが。貰って嬉しかったもんとかねえのかよ」
「七輪とか?」
「ダメだ。コイツに聞くのは止めよう」
今日のメンバーが太刀川でなく堤だったらもう少しまともな意見を聞けたかもしれないと東は思ったが、ぎりぎりのところで口には出さなかった。
「何が欲しいんだろうな。俺も奴らの誕生日が近付くたびに悩むわ」
冬島など東よりも隊員と年が離れているので、毎年二週間以上前から考えるようにしているという。前回は食事で手を打ったらしいが、毎回同じというわけにもいかない。
「荒船なあ……なんかたまにレイジとトレーニングしてるし、筋トレグッズとかどうですか」
「結構アリだな。諏訪に五点」
「何のポイント?」
「俺の心証」
くだらない会話をしながら東は携帯で筋トレグッズを検索してみる。プロテインからウェアやシューズ、筋力アップに使う小型のトレーニングアイテムなど選択肢も多い。
「でもなんか色気なくないですか? 恋人へのプレゼントなんでしょ」
「七輪野郎がまともなこと言ってやがる」
「まあ一理あるな」
まさか太刀川に色気を問われるとは思っていなかったが、その言い分も分かる。東としては荒船が喜んでくれるのが一番ではあるものの、例えば自分の見えるところで使ってほしいなどという願望が無いでもない。
「身に着けられる物とか定番だと思いますけど」
「アクセサリーとか絶対着けないだろ」
「帽子……はこだわりありそうだからなあ。服?」
となるとやはりトレーニング用のウェアか靴が無難か、と考えていると、冬島が声を上げた。
「東、いいの思いついたぞ。こういうのどうだ? 値段はピンキリなんだけどよ……」
話を聞きながら何か調べていたようで、携帯の画面を見せてくる。実用的かつ普段から身に着けられ、しかも荒船が必要としていそうな物。求めていた正解が画面に映っていた。
「冬島さん、十点あげます」
「いらねーよ!」
荒船の誕生日当日、東は一緒に帰ろうと約束して荒船隊の部屋を訪ねた。他の三人は既に帰っていたが、部屋の中は祝われた痕跡がそこら中に残っている。
「盛大に祝ってもらったみたいだな」
「お陰で今日やろうと思ってたことの半分も終わりませんでしたよ」
そうは言うが、荒船も満更ではなさそうだ。自分の仕事はきっちりこなす男だが、年に一度の誕生日くらいはいいだろう。
「俺からも、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。メッセージでも祝ってくれたのに」
「何度言ってもいいだろ」
東は準備しておいた紙袋を渡し、荒船は早速包みを開く。中からスタイリッシュなデザインの箱が出てきた。
「イヤホン?」
「ワイヤレスのな。お前、ランニング中に曲流すって言ってただろ。これならコードが邪魔にならないし、防水だから汗も平気なんだって」
「うわ、ちょうど欲しいと思ってたんです。でもどれが良いか悩んでたところで」
荒船は嬉しそうに箱を開ける。本体と充電ケースとケーブルのセットで、色はブルーグレー。荒船の持ち物にもよく馴染む色だ。
「冬島さんに色々聞いて選んだから間違いないと思うよ」
メーカーの特徴、防水レベル、操作性や機能について教えてもらい、それらと値段を熟考して選んだ。主に運動しながら使う想定なので、音にこだわるよりも防水やフィット感を重視している。
携帯との同期は思ったよりも簡単で、すぐに使えるようになった。荒船は早速装着してみる。
「どうだ?」
「うーん、なんかすぐ落ちそうで……イヤーピースが大きすぎるかも」
デフォルトはMサイズだと書いてある。ワンサイズ下げてみると、ちょうど良く嵌りはしたが今度は角度がしっくりこないという。
「これどうやって着けるのが正解なんですかね。自分からだと見えないんですけど」
「ちょっと触るぞ」
箱の装着モデルを見ながらイヤホンを回転させる。トリオン体にも通信機は付いているが、あれは自分で脱着するものではないのでこういった物を触るのは初めてだ。形がシンプルなだけに、収まりの良い角度を探して荒船の耳を弄り倒した。
「これでどう?」
すっぽりと収まるポイントを見つけたので確認したのだが、荒船の様子が少し妙だ。
「い……イヤホンはちゃんと嵌ったんですけど……東さんに耳触られるのがくすぐったくて」
本人の様子も気にせず触りまくっていたので、荒船の耳が赤く熱くなっていたことに気付かなかった。照れくさそうにする荒船を見て急に愛しさが溢れ、そのまま抱き締めて頭を撫でる。
「うわっ、なんですか」
「……プレゼントを身に着けてもらうって良いなと思って」
太刀川の言い分が完全に理解できた。色気のあるプレゼントとはこういうことだったのだ。身に着けているところを見られるプレゼントにして本当に良かった。
東はまだイヤホンをしていない方の耳に唇を寄せる。
「大事に使ってくれよ」
荒船は返事をする代わりに、東の背中を抱き締め返すのだった。
お誘い(秋)
付き合い始めて約三ヶ月。あの頃の暑さはすっかりどこかへ消え、肌寒ささえ感じる季節になった。東は忙しいなりに荒船との時間を作るようにするし、荒船は余程のことがない限りそれに応じる。受験生といってもデートの頻度はそれほど高くないので問題は無い。二人はいたって普通の恋人関係を続けている。
ある日、荒船の携帯に東からメッセージが届いた。
『来週の祝日、そっちも休みだよな? もし予定空いてたら会えないかなと思って』
ちょうど荒船も同じようなことを考えていた。断る理由など無い。もちろんだと返事をして、どこに行こうかと考えている間に東から返信が来た。
『じゃあ、うちに来ないか』
それから丸一日、荒船は返事を出せないでいる。
(一日既読スルーは気まずすぎんだろ……でも東さん何も言ってこねえし……)
東の真意を知りたいが何と言えばいいか分からずあっという間に放課後。今日は本部に行こうと思っていたのだが、東と鉢合わせる可能性を考えるとどうにも腰が上がらない。やはり止めておこうかと携帯を睨みつけていると、不意に視界が塞がれた。
「だ~れ「犬飼」
「いやせめて最後まで聞いてよ……」
遊びに付き合ってくれず寂しそうな犬飼が荒船の正面に座った。まだ帰っていなかったのかと聞くと、今日は日直で先ほど日誌を職員室に出してきたのだという。
「荒船こそなんで残ってんの? 今日本部行くって言ってなかったっけ」
「あー……やっぱ行くの止めようかと思って」
そこまで言って荒船は後悔した。わざわざ絡んできたということは、犬飼は今日暇なのだ。荒船が悩んでいる様子を見て余計な首を突っ込んでくるに違いない。思った時には既に遅く、犬飼はにっこりと微笑んだ。
「東さんと喧嘩でもしたかな?」
そしてこういう時の犬飼はやたらと鋭い。当たらずとも遠からず、東と顔を合わせにくいことに変わりはない。
犬飼に聞くべき問題か判断がつかないが、いい加減何かしらの返事を出さなければ。どうせ暇そうなのだからと、荒船は仕方なく目の前の男に付き合ってもらうことにした。
「お前だったら、下心無しで彼女を家に呼んだりするか?」
「はあ~……なるほどねえ」
それだけで何が起きているかを理解したらしい。どこまでも読解力の高い人間である。
「荒船は家に誘われて、何て言ったの?」
「……何も」
「は?」
「何も言ってねえ。まだ既読スルーしてる」
急に犬飼の表情が真剣なものに変わった。荒船だって今の状況がまずいことくらい分かっている。だから人に相談しているのだ。
「……どれくらい?」
「丸一日……」
「うわっ、東さんかわいそー!」
嘆きのあまり犬飼が天を仰いだ。比べて荒船は俯いている。そう、可哀想なことをしているのだ。言葉にされると一層申し訳なくなってきた。
「うーん、最初の質問に戻るけどさあ。まあ下心ゼロで家に誘うってことはほぼ無いね。あ、おれの場合の話」
ばっさりと切り捨てられ、荒船は言葉に詰まる。予想はしていたが、やはりそうなのかと緊張が高まってしまう。
「でも相手があの東さんってところが未知数なんだよね。おれから見たら本当にそんな気ゼロで誘ってる可能性も無いとは言い切れないよ。そこは荒船の方が詳しいでしょ」
「それは、まあ、確かに」
犬飼は東と親しいわけではない。東が何を考えているかなんて、荒船の方がよっぽど理解しているだろう。その上で、荒船も東にそんなつもりが全く無いとは思えないのだ。東は手を繋いだりキスをしたり、荒船に接触するのが好きなように見える。もっと色々したいと思っていても全く不思議ではない。
「後は荒船の問題。そもそもさ、東さんにどうこうされるの……いや荒船がする方かもしれないけど、嫌なの?」
「俺が嫌かどうか……?」
自分がどう思っているか、荒船は考えていなかった。東のことはもちろん好きだ。では荒船が東の家に行くのを躊躇う理由はどこにあるのか。自分の心理分析が追い付いていないのだ。
「当たり前じゃん。一人でするわけじゃないんだから荒船の意思だって重要でしょ。しかももう一回言うけど、あの東さんだよ?」
東は優しい。荒船が嫌だと言ったことを無理に押し通すとは思えない。相手は機械でもあるまいし、言葉にして話をすれば納得のいく結論が得られる可能性は十分ある。
「お前、カウンセラーに向いてんじゃねえの」
「それ褒めてる?」
「大絶賛だよ」
なら良かったと犬飼は笑った。荒船も今日このタイミングで絡まれたのがこの男で良かったと思う。人間、自分のこととなるとつい視野が狭くなりがちだ。犬飼は人の思考を読むのが上手いし、その人にとって何がベストかを考えつつ押し付けはしない。時々それを利用して厄介な誘導をしてくることはあるが、根は柔らかく頼りになる人間だと荒船は思っている。
「じゃ、おれは帰るね!」
何か答えを得た表情の荒船を見て犬飼は席を立った。ここから後は荒船一人の仕事だ。自分がどうしたいか、東にどうしてほしいのか。携帯を取り出して例のメッセージをもう一度眺める。
メッセージのやり取りだけでは東の考えが読み取れそうにない。やはり直接会って話をした方がいいだろう。そうと決まれば今日は本部に直行だ。荒船は鞄を掴み、急いで校舎を後にした。
「東さん!」
「! 荒船」
自動販売機の前で休んでいる東を発見し、反射的に呼び止めた。東もそれに反応して勢いよく立ち上がる。荒船の顔を見て用件に気付いた東は、場所を変えようと空き会議室に移動した。
「メッセージ、すみません。ずっと放置して」
「いや……俺も後になってからあれは無いなと思った」
東は口に手を当て、伏し目がちに荒船の方を見る。向こうは向こうで気まずさを感じていたと分かり、荒船は緊張を少しだけ緩めた。
「先に言い訳させてくれ。あれを送ったのは理由がある」
「?」
「先週、後輩からホームシアターセットを貰ったんだ。で、テンション上がったままうちに来ないかって誘ったんだけど……しばらく返事が無いのを見てやっとマズい聞き方をしたと気付いて……でもそこからホームシアターの話を持ち出したら余計に言い訳っぽくなるからどうしようかと」
悩んでいる内に荒船の方からやってきたというわけだ。荒船はこれほど必死に釈明する東を初めて見た。慌てているのは申し訳なく思っているから。それだけ荒船の気持ちを考えてくれていたのだろう。
「なんだ、そんなことだったんですか……」
「恥ずかしい話、年甲斐もなくはしゃいでたんだ。荒船が喜んでくれるだろうと思って」
東の言葉を額面通り受け取っていいのか、実は荒船は少し迷っていた。しかし恥ずかしそうに笑う様子を見ると、もし裏に何か隠しているとしてもきっかけは本当にそうなのだろうと思える。それに東は荒船に隠し事こそすれ、嘘は吐かない。
「ちなみに正直に言うと、下心はある」
「えっ」
急に切り出されて流石にどきりとした。なんだかんだと言っても隠し通すつもりかと思っていたのに、こんなに馬鹿正直に告白されるとは。
思わず身構えた荒船に対し、東は素早くフォローする。
「でも高校生に手を出すつもりはないし、荒船が嫌がることもしない。それは信じてほしい」
高校生。それもそうだ。すっかり頭から抜けていたが、東は大人で荒船は高校生。性別云々の前に、付き合うには色々と制限がある。
「そう、ですか」
安心したような、どこか残念なような。どちらにせよ拍子抜けである。卒業するまでは安全が確保されていると思えばいいのだろう。
「ただ、その……家の方が周りの目を気にしなくてもいいかなとも思ってる」
「!」
窺うような東の視線。そこに込められた熱を知っている。元からスキンシップを取るのは好きなのだが、互いに人目がある場所では控えめだった。物足りないと思っていても、今まではそれを伝えられていなかったのではないか。今日は気付くことがいっぱいだ。それくらいの「下心」なら荒船だって持っている。
「最寄りどこですか? 東さん家」
「えっ」
「着く頃に連絡しますから、駅までは迎えに来てくださいね。一緒に観たい映画いくつか持って行きます」
どこを見渡しても誘いを断る理由など見当たらない。今も人目が無いついでに、思い切って東に抱きついた。荒船なりの意思表示である。
東は急な行動に驚いた上、嬉しさのあまり動けなくなっていた。随分と格好悪いところを見せてしまったが、それで正解だったのだ。荒船はいつもクールかつスマートで、接触するのは東からであることが多い。今回の誘いもさほど興味を示されないかもしれないと思っていたが、それは違うとたった今分かった。
二人に必要なのはもっと言葉を尽くすことなのだろう。人肌恋しくなる季節、それを思い知る一日だった。
約束(冬)
十二月に入り世の中はどことなく浮かれたムードに包まれているが、荒船はそうも言っていられない。大学入試の一次試験まで約一ヶ月である。
「あー! もうやだ! なんでおれらだけ追加で課題やんなきゃいけないの!」
犬飼が天に吠え、他の二人の集中も切れた。今は冬休み二日目。ここは荒船の部屋で、蔵内と犬飼との三人で課題を片付けていた。
「ボーダーの任務で開けた穴の補填だな」
愚痴に対して蔵内が真面目に答えるものだから、犬飼は現状を再認識して更に凹んだ。
「これでも減らしてもらったんだから文句言うんじゃねえ」
三人の学校では夏休みにも同じことがあったので、課題が出るのは分かっていた。ただ今回は二学期の期末テストで一定の点数を取れば量を減らしてやると言われ、三人とも必死で結果を出したのだ。お陰で一日あれば終わりそうな量で済み、こうして集中して取り組むことにした。
「おれらが男だけで集まって課題をやってる間も他の皆は冬休みをエンジョイしてるんでしょ……」
「いや、同級生は今頃塾で冬期講習だろう」
「会長、さっきからマジレスが辛い」
指定校推薦でもない限り、これからが受験前の追い込み期間である。同級生の多くは冬休みのほとんどを塾で過ごすらしく、とてもではないが「楽しく」過ごせる状態ではない。
「本部の方がよっぽど浮かれてるからな。課題終わらせずに行くとダメージ食らうぞ」
「荒船は昨日行ったんだったか」
「ああ。ずっと日曜みてえな感じだった」
昨日、荒船は任務で本部に顔を出してきた。冬休み初日とあって普段より人口密度が高く、おそらく正月まではあれが続くのだろう。活発に活動するのは良いが、やれ旅行の予定だのやれクリスマスプレゼントだの、聞こえてくる話題と自分の状況との乖離が激しくて気疲れした。
「そういえばさ、荒船は東さんと会う予定とかあるの?」
「なんだ急に」
いきなり恋人の名前を出されて荒船は身構える。
「付き合って初めてのクリスマスなのに、勉強だけで潰していいのかなって」
無論、意識していないわけではない。一緒に過ごせたら楽しいだろうとも思う。しかし、今年ばかりはそういうわけにはいかない。きっと東も同じことを考えるはずだ。
「受験は今年頑張りゃ終わるけど、クリスマスは来年もあるだろ」
「正論パンチ……」
犬飼が撃沈したところで、三人は課題を再開した。
数日後、荒船は東と一緒に本部から帰っていた。直接顔を合わせたのは一週間ぶりだ。
「冬休みは何か予定あるのか?」
コンビニで買った肉まんを食べながら東が聞く。大学院生は忙しいのだろうが、こういったプレッシャーは無さそうで荒船は羨ましい限りである。
「補習と自宅学習ですかね」
「あ、そうか。受験生だったな」
東はときどき忘れてしまうようで、このやり取りは何度かしたことがあった。恋人の学年くらい覚えていてほしいものだが、荒船は既に諦めている。
「まあ、荒船なら心配ないだろうが」
「やってもやっても心配が無くなりませんよ」
勉強とはそういうものだと分かってはいても、終わりが見えないのは消耗する。だからこそただ一緒に帰るだけでも荒船にはこの時間がとても大事なのだ。
「じゃあ休みでもあんまり会えないな」
仕方ないとはいえ東は少し寂しそうな顔をした。荒船も同じだ。早いところ試験を終わらせてしまって好きなことをしたい。しかし試験の日程はどれだけ足掻いても変わらないので、荒船は一つ考えていたことを伝える。
「あの、一日だけなら大丈夫だと思うんです、けど」
「え」
荒船は思い切って東の手を握り、東が驚いて立ち止まった。
「勉強は他の日に頑張るんで、一日だけ貰えませんか。東さんの時間」
この場合、時間を貰うのは東の方ではないかという突っ込みは無しだ。恋人からこんな風に頼まれては断る選択肢など有り得ない。
「もちろん。いつがいい? 年内なら……」
「いや、年内じゃなくて年明けてからでお願いします」
東はてっきりクリスマスを一緒に過ごすのかと思っていたので、荒船が食い気味に年明けでと言ったのは少し意外だった。しかしそれでふと気付く。忘れていたが、年明けすぐには別のイベントがあるではないか。
「もしかして……」
「三日、空けといてください」
荒船の耳が赤いのは寒さのせいだけではないのだろう。まだしばらくゆっくりとは過ごせないが、約束があれば二人とも頑張れる。二週間後の予定を楽しみに、少しばかりの寄り道をしながら家路を歩いた。
おそろい(誕生日・東)
年末に交わした約束通り、荒船は一月三日に東の家を訪れた。携帯でやりとりはしていたが、直接会うのは何日ぶりだろうか。東は正月を実家で過ごし、今朝この家に戻ってきたばかりだった。
「誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
家に上がると、東は荒船の方へ手を伸ばす。
「あ、イヤホン使ってくれてるんだな」
東の手は耳にかかる髪をよけただけだったが、久し振りの接触で荒船は必要以上にどきりとした。
「当たり前でしょう。すごい便利なんで、どこでも使ってます」
イヤホンは荒船の誕生日に東が贈ったものだ。今やすっかり耳に馴染み、トレーニングでもランニングでも通学でも使っている。実を言うと荒船はできるだけ東の前で着けているとアピールしているし、東はそれを見るととても嬉しくなる。お互いの意図こそ知らないが一挙両得の行動なのであった。
「試験前なのにありがとな」
「思い出させないでくださいよ。今日一日だけは自由に過ごすって決めてるんですから」
その貴重な一日を東にくれるというのだから大事にしなければ。
部屋に入って上着を脱いですぐ、荒船は待ちきれないとばかりに抱えていた袋を差し出した。
「はい、誕生日プレゼントです」
荒船から渡された袋には、袋と箱が一つずつ入っていた。プレゼントは一種類ではないらしい。東はまず袋の方を取り出してみる。
「あ、コーヒー豆?」
包みを開けた瞬間から優しく香ばしい香りが広がった。東は見慣れないラベルのもので、なにやらお洒落なロゴが入っている。
「専門店ができたって聞いたんで買ってみたんです。豆はどんなのが好きか分かんなかったから、俺がいい香りだと思ったやつですけど」
パッケージにはブラジル産と書いてあった。苦みが強めで酸味は控えめ、ほのかに甘さを感じる香りが特徴的で、豆を嗅ぐだけでも気分が安らぐ。
「ありがとう。そろそろストックが尽きそうだったんだ」
東が豆でコーヒーを淹れるのは時間に余裕がある時だけである。荒船からプレゼントされたのは、寛げる時間を取れという意味もあるのだろう。
「まあこれは前座で、本命はもう一つの方ですけど」
「そんなに貰っていいのかな」
と言いつつ、東はもう一つの箱を取り出して開けてみる。中から出てきたのは黒いマグカップだった。ステンレス製で蓋も付いている。
「お、保温できるやつか」
「はい。東さんよく何かに没頭してコーヒー冷ますじゃないですか」
「……よく見てるなあ」
家でもボーダーでも東はしょっちゅう冷たいコーヒーを飲む。その度に渋い思いをしていたのだが、荒船に気付かれていたのは少し恥ずかしい。それと同時に温かい心遣いが嬉しくもある。
「ありがとう。大事に使うよ」
すべすべとした表面は手触りも良い。うっかり落として割ることもない。持ち歩いて使おうかなどと思っていたら、荒船がまだ何か言いたげにしていることに気付いた。
「……一つお願いがあるんですけど」
「?」
「それ、本部で使ってもらえませんか」
東が自前のマグカップを使う場所は三つ。自宅、大学の研究室、そしてボーダー本部だ。使用場所を指定されるとは東も思っていなかったが、荒船にも何か意図があることはなんとなく分かった。それを少し掘り下げてみたい気持ちになる。
「いいけど、どうして?」
「……それの色違い、俺も持ってて……本部に置いてあるんで……おそろい……」
語尾は消え入りそうだったが東の耳にはちゃんと届いた。自分で言って恥ずかしくなってきたらしく、荒船は目元を手で覆ってしまう。帽子を外しているからその代わりなのだろうか。何から何まで愛しさ満点の言動に衝き動かされ、東は思いきり荒船に抱きついた。勢いがつきすぎて荒船もろとも倒れこむが、頭は東の手が守っていたので無事である。
「うわっ、なっ」
「ごめん。でも荒船が可愛いこと言うのが悪い」
「うっ……」
心理としては東が荒船にイヤホンを着けさせて喜ぶのと同じだ。普段使う物をあげて、相手がそれを使っているのを見てちょっとした優越感に浸る。自分も同じ物を持ってアピールしたいだなんて、なんとも可愛らしい執着心ではないか。
荒船は男前で格好いい人間だが、東だけに時折見せてくれる繊細で柔らかい部分も好きだった。付き合って約半年。まだ少し手探りなところはあるものの、確実に愛情は深くなっているのを感じる。
東が満足するまで、しばらく二人は倒れたままでいた。
賞味期限(バレンタイン)
『東さん、チョコ欲しいですか?』
年下の恋人からの電話に出て、東が最初に聞いたのがそれだった。急になんだと思ったがすぐに理解する。もうすぐバレンタインだ。しかも、付き合ってから初めての。
要不要を聞かれるというのもおかしな話だが、荒船なりに東の意向に沿おうとしたのだろう。合理的というか、実に荒船らしい。
「ああ。お前からのは欲しい」
『じゃあ好みとかあります?』
荒船の声の向こうに雑踏が聞こえる。車の音は無いので室内だろう。そしてこのタイミングの電話。荒船は今、チョコレートを変える状態にあるのではないだろうか。
「じゃあ、苦くないやつ」
『えっ?』
驚いた声が返ってきて東は笑う。どうやらビターチョコレートを買うところだったようだ。
「意外か?」
『まあ、ちょっとだけ……苦くないやつですね』
了解、と言って荒船は通話を切った。
当日、狙撃手合同訓練の後に合流して東のアパートへ帰る。東は麻雀の誘いを断ったことで男三名から非難を浴びたが何のダメージも無い。好きな相手からチョコレートを貰えると分かっているだけでこんなにも気分が浮かれるものか。
家に着いたらまずコーヒーを淹れる。いつものインスタントではなく、誕生日に荒船がくれた豆。お陰様でもう半分ほど消費してしまった。
「でもやっぱちょっと意外でした。甘くないやつって言われると思ってたんで」
そう言いながら荒船が紙袋から箱を取り出した。長細くシンプルな黄土色の箱だ。
「コーヒーと食べるお菓子は甘い方がいいんだ」
淹れたてのコーヒーをマグカップに注いで机に並べる。が、東はそのまま着席せずに自分のデスクへ向かった。
「俺も買ってきたんだ。荒船の分」
似たような紙袋から平たい箱を取り出した。こちらは緑色で重みがある。昨日の夕方、最も混むタイミングになってしまったがなんとか買ってきたのだ。
「流石ですね」
そう言ってにやりと笑うのを見て、あの電話が東にバレンタインの存在を思い出させるためのものだったと気付く。本当によく出来た子供だ。
準備が整ったので早速二人で箱を開けた。東の分はチョコレートコーティングのサブレでジャムやクリームを挟んだものが六個並んでいる。荒船の方は濃さの違う四色のプラリネが四つずつ並んでいる。カカオとナッツの香りがふわりと昇ってきた。
「うまそうだな。何が挟んであるんだ?」
「順番は忘れたんですけど、パッションフルーツの何かとかバニラクリームとか……食べたら分かりますよ」
三分の一で説明を諦めた荒船は既に一つ目に手を伸ばしていた。二番目に色の濃いビタースイートだ。意外と大きな一粒を一口で食べる。
「なんか……高級な味がする」
「はっはっは、普段こんな良いチョコ食べないもんな」
それの一粒あたりの値段を聞いたら説教されてしまうだろうから言わないが、東が選ぶときに一瞬躊躇う程度の値段はした。焼き肉ならともかく、チョコレートにあんな金額を使ったのは初めてである。
「あー、良い香りが残ってる」
珍しく気の抜けた笑顔でコーヒーとの相性を楽しむ様子を見ると、やはり買ってよかったという気分になるのだが。
東も端の一つを手に取るが、なんだか勿体ない気がして半分だけ齧った。
「どうですか?」
荒船はわくわく顔で東の顔を覗き込む。その期待に沿いたいところだが。
「……高級な味がする」
「人の感想パクらないでくださいよ」
そもそも普段からチョコレートをじっくり味わうことがないので、とても良い素材が使われていることくらいしか判別できないのだ。
東は残りの半分も口に入れて、荒船と同じように残り香とコーヒーを楽しんだ。
「今日はこれ食べ切れそうにないですね」
全種類一粒ずつ食べた荒船が呟く。ずっしりとしていたし、一日で一箱は食べ過ぎだ。
「持って帰るか? ここに置いといてもいいぞ」
「なんで貰ったもんを……」
ここに置いて帰るのか。その意味を考えて言葉を切った。賞味期限は一ヶ月後だ。その頃には受験も終わり、合否まで出ている。
「……そうですね、置いて帰ります。勝手に食べちゃダメですよ」
東は頷きながら満足そうに笑うのだった。
夜うらら(春)
夜の帰路に風が吹いた。それに乗せられた薄紅の花弁が荒船の視界に入ってくる。
(あー……そういえば行ってねえな、花見)
顔を上げた先には公園に植えられた大きな桜の木。街灯に照らされ、まるで花が光っているかのようだ。それを見て、約束とも言えない程度の会話を思い出した。
あれは二週間ほど前、本部から東と一緒に帰っていた時のことだ。
「もう開花したのか」
ぽつりと呟いた東の声に荒船が反応した。視線の先は家電屋のテレビ画面、開花前線の北上を知らせるニュースが流れていた。
「東さん、桜が咲いたとか気にするタイプだったんですか」
「俺のこと情緒が欠如した人間だと思ってない?」
概ね間違っていない。季節など着る服の違いでしか感じないタイプだと認識していたが、流石にそこまで機械じみてはいなかったようだ。
「花見したいなあと思ってな」
「すればいいじゃないですか。三門なら人が居ない場所も多いですし」
「荒船と一緒にだよ」
あー、と荒船が納得したような声を上げた。東はもとより荒船も大学に入ったばかりで忙しい上、シフトも噛み合わないのでしばらくデートはできないなと話していたところだ。花が咲いている内に時間が取れればいいのだが。
「まあ、行けたらってことで」
その後は別の話題になり、花見の話題は流れたまま二週間が経過した。忙しくて忘れている内に桜は散り始めている。
(今年は仕方ねえかな)
そうは思いつつ、すぐにこの場を離れるのはどこか名残惜しくて公園に足を向けた。
ベンチに座って桜を眺める。上着がなくても過ごしやすくなった気温に穏やかな風が心地良い。ひらひらと落ちる花弁をぼんやり見ているだけでも心安らいだ。宴会ではないが、これも立派な花見だ。
ここに東が居たらと、確かに思う。あの優しい声を聞きたくなって、荒船は携帯を取り出した。電話の声が合成音声だなんて野暮な話は、今は忘れることにする。
『もしもし、どうした?』
「すみません。特にこれといった用事じゃなくて……今忙しかったですか」
『いや、大丈夫』
今までこんな電話をかけたことはなかった。声が聞けて既に満足したが、これだけで切ってしまうのも勿体ない。
「東さん、花見したいって言ってたじゃないですか」
『ああ、そういえば』
「もう散り始めてたから、いま一人で花見してるんです」
『うん』
「ぼーっとしてるだけですけど、すごく綺麗ですよ」
とりとめのない話を静かに聞いてくれる。しばらく二人の時間が取れていなかったので余計に恋しさが募った。
「東さんが居たらいいのにって思って、電話かけたら」
『うん』
「なんか顔も見たくなってきました」
ただ思っていることをつらつらと話していたらつい本音が零れた。言ってしまってから言うんじゃなかったと項垂れる。口に出したらもっと会いたくなった。
「じゃあ呼んでくれればよかったのに」
音声はなぜかスピーカーからではなく後ろから聞こえた。携帯を見ると通話が切れている。まさかと思って振り向くと、本当に東が立っていた。
「え⁉」
東はそのまま荒船の方に歩いてベンチに腰を下ろした。幻の類ではないようだ。
「……本当に偶然、この近くに来てたんだ。荒船の家が近いなって思ってたら電話がきて、花見してるって言うから」
荒船の家の近くで、桜の木があるのはこの公園だけだと思って急いで来たらしい。荒船は驚きで固まるばかりだ。
「こんなことあるのかよ……」
「あっただろ」
そう言って荒船の手を握った。歩いてきた分だけ今は東の方が体温が高い。その熱に溶かされて荒船も強く手を握り返した。
酒も団子もないが、一番欲しいものは隣にある。人通りの少ない夜の公演で、二人は短い花見を楽しんだ。
ジンクスはもう信じない(欲しいもの)
昔から、欲しいという思いが強いものほど手に入らない傾向があった。買い物に行けばたまたま店が閉まっていたり、食堂では食べたいメニューがあるときに限って売り切れていたり、可愛いと思った女の子には直後に彼氏ができたり。自分の努力の及ばない範囲で起こることがほとんどだ。運が絡む要素が少ないものは手に入るし、別に人生に不自由するほどではない。
単に運が悪いだけかもしれない。高校に上がる頃にはそういうことが起きても「またか」と思うようになって、次第に欲しいものは妥協するか諦めることに慣れてしまった。だから代わりに勉強や体力づくりや、とにかく自分の身について失わないものに力を注ぐようになった。
強く望まなければ期待を裏切られることもない。平穏に、禁欲的に。そうやって生きてきた。ボーダーに入ってからはむしろ何かを特別扱いすべきではない立場になって、生きやすくなったと思っている。ここは自分に合った場所だ。
「荒船先輩、狙撃手に転向したんだって」
誰かの噂話、そこだけがやけにはっきりと自分の耳へ飛び込んできた。
B級に上がってからポジションを変更した隊員は今までも何人か見てきた。数は多くないが、珍しいことでもない。まあ、攻撃手からいきなり狙撃手というのはちょっと珍しいかもしれない。
その子たちによれば、荒船は弟子に負けて転向することになったらしい。鈴鳴支部の村上。確かに技術向上に向いたサイドエフェクトを持っているし、師匠を追い抜くというのも納得できる。ただしその辺りは話している子らも曖昧なようで、「だと思う」とか「多分」とか、想像や憶測に基づいたストーリーが展開されている。噂話なんてそんなものか。
ともあれ、狙撃手になるなら今後は接触や連携の機会があるだろう。どんな子なのか少し見てみよう。その時は何となくそう思った。
弟子に負けてポジションを変えるくらいなら、どんな負けず嫌いな目つきをしているのかと思いきや。あの噂は大半が想像によるものだとすぐに分かった。負けず嫌いなのは確かにそうだったが、荒船は常に自己分析を怠らず冷静さを失わない。高校三年生にしてはかなり大人びている印象だ。
貪欲という単語が似合うほど勉強熱心だとも分かった。先輩後輩問わず色んな人に質問しているのをよく見かけるし、俺も何度か声を掛けられた。
「東さんは、木崎さんの師匠なんですよね?」
荒船が狙撃手の一員となって、初めて掛けられた言葉がそれだ。やたらとキラキラした視線だったのを覚えている。
「まあ、狙撃に関しては」
「俺、全ポジションでマスタークラス獲りたいんです」
そこから木崎に憧れていることを知り、荒船の考えていることを知った。面白いと思ったし、やれるとことまで頑張ればいい。知識が必要なら協力もしよう。求めるのは諦めている自分でも、与えることならできる。そういう気持ちで荒船との交流が始まった。
狙撃手に転向して数ヶ月で、荒船は新人の指導をするまでになった。
狙撃の腕もなかなか上達が早かったが、実力だけなら当真や同じ隊の半崎の方が正直に言って上だ。荒船が選ばれたのは、頭の良さや指導の上手さ、何より面倒見の良さが大きな要因だろう。ああ見えて他人をよく見ている子だから。
合同訓練、任務、ランク戦、新人指導。いつの間にか他の隊員よりも荒船と顔を合わせる機会が多くなった。となれば自然と会話も増える。
良くない兆候だと自分でも分かっていた。だが一方で、あんな魅力的な人間を好きになるなという方が無理な話だ。
自覚を強くすればきっと荒船は離れていってしまう。だからできるだけその気持ちには気付かないふりをして過ごしていた。なのに。
「東さんてホラー苦手なんですね」
「……誰からそれを」
「人見が今日、東さんに悪いことしたなって反省してて」
昨日の夜、忘れ物を取りに隊室に戻った時の話だ。部屋は真っ暗で電気を点けようとしたのだが、何か不吉な音楽が聞こえてくることに気付いた。おそるおそる音の方を向くと、モニターに大きく映し出された怨霊の顔。その上画面の灯りに照らされながら人見が笑い出したものだから、驚いて椅子にぶつかり転倒してしまったのだ。思い出すのも恥ずかしい。人見にはせめて電気を点けるようにお願いした。
「暗闇の中でホラー映画観ながら笑ってたら誰だって驚くだろ」
「はは、確かに。でも意外と可愛いとこあってなんか安心しました」
「安心?」
「東さん歳も離れてるし全然隙ねえなって思ってましたけど、新たな一面を知れて嬉しいっつーか」
そういうことは好きな相手に言うものじゃないのか。二人きりの時に言われたら勘違いしそうになる。
「……そんな歳の離れた男のこと知って楽しい?」
「俺は東さんと話したりするの結構好きですよ。東さんはこんな子供と居てもつまんないかもしれませんけど」
ああ駄目だ。そんな風に言われたら本当に期待してしまう。もし荒船の方から手を伸ばしてくれるのだとしたら、ジンクスなんて関係ないんじゃないかと。
「そんなことないよ。俺も荒船と話すの好きだし」
お前自身も。今はそう言えるほどの勇気が無かった。
「荒船、今期のランク戦が終わったら射手か銃手に転向すんじゃねーの? 狙撃手でもマスタークラスまでいったもんな」
同級生で集まっている数人の中から聞こえた、当真の何気ない言葉。「またか」と思った。同時に絶望を感じる。やはりジンクスからは逃れられなかった。俺が欲しいと思ってしまったから、荒船は手の届く範囲から出ていってしまうんだ。
今までもよくあった。今更嘆くことじゃない。そう自分に言い聞かせるものの、今までとは違うもやもやとした感情が存在している。諦めれば済む話なのにどうしても諦めきれない。
憂鬱な気分を抱えて任務をこなしていたら、よりによってその原因に気付かれてしまった。
「東さん、最近ちょっと疲れ気味ですか?」
顔や態度に出ていただろうか。なるべく普段通りにしていたつもりだったんだが、俺もまだまだだ。確かに最近はそのことばかり考えすぎていたかもしれない。
「あ、いや……疲れてるというか、個人的な悩みで」
「俺で良ければ話聞きましょうか」
年下に悩み相談なんて嫌かもしれませんけど、と荒船は言う。歳は関係ないが、本人に関する内容で悩んでいるとは流石に言えなかった。
「欲しいと思ったものが手に入らないとき、荒船はどうする?」
「欲しいもの、ですか」
こんな質問自体が馬鹿げているんだろう。一般的には欲しいものがあれば手に入るよう努力するものだ。俺だってそれで手に入るならこんな人生は歩んでいない。
「俺は何かが欲しいと思うほど手に入らないことが多くて、妥協したり諦めたりするのに慣れてたんだ。でも今、どうしても諦めきれないものがある。ここまで執着するのは初めてで……どうすればいいのか分からない」
荒船は少し困った顔をする。それもそうだ。こんな感覚、普通は知らないだろう。追いかけたいと思ったらすぐに走り出せる人間に、足の動かし方を忘れた人間の気持ちは分からない。
やはり聞かなかったことにしてくれと言いかけた時、荒船が口を開いた。
「ツイてない時って確かにありますけど、今回ダメだったからって次もダメかどうかは分かんないじゃないですか」
けろりと返ってきた反応に今度はこっちが戸惑う。今回だとか次だとか考えたことがなかった。いつも諦めていたから、その時に無理ならそれきりだと思っていた。俺も「次」を望んでいいのか。
「ダメな可能性の方が高くてもか?」
「ダメかどうかは追いかけてみないと分からないじゃないですか。いつか手に入る可能性の方が高くなる時が来るかもしれません。諦めきれないって分かってるなら、徹底的に追いかけてみた方が後悔も少ないと思いますよ」
荒船の言葉はとても真っ直ぐで、好きな相手からの言葉だからこそ余計に響いた。
未来への期待を捨てて勝手に立ち止まっていたのは自分の方だ。まだ足の動かし方は分からないが、後ろから背中を押されれば勝手に動き出す。とりあえず一歩、前に踏み出せた。
「……ありがとう。なんか目が覚めたよ」
久し振りに前向きになれた気がした。考えてみれば、荒船はボーダーを辞めるわけじゃない。そもそもポジションを変えるという話も当真が言っていただけで、本人からは聞いていない。荒船の目標を考えれば確かにいつかは転向するだろうが、恋人が出来たというわけでもないのに何をこんなに弱気になっていたんだろう。
「でも、東さんが諦めきれないくらい欲しいものって何ですか? 全然想像できないんですけど」
お前だよとは言えなくて、つい曖昧に笑った。
「秘密。その内分かるかもしれないよ」
「?」
今はぼかした言い方しかできないけど、いずれ必ず理解してもらう。不運や運命みたいな実体のないものに振り回されるのはもう御免だ。絶対に無理な状況にならない限り諦めないから、覚悟しておいてほしい。
口実(雨)
荒船が本部から出ようとしたところ、かなり重めの雨が降っていた。今日は傘を持っていない。走って帰ろうとすると、後ろから肩を掴まれた。
「おい、この雨の中走るつもりか」
引き留めたのは東だ。彼も帰るところらしく、私服で大きな傘を持っている。
「換装していけばよくないですか?」
「トリガーを便利道具みたいに使うんじゃありません」
(東さんがそれ言うか……)
寝ずに働いたり麻雀をしたりするために東が換装しているのを荒船は知っている。それよりは余程まともな使い方だと思うのだが。
「駅から家も歩きだろ? どうせ途中まで方向は同じだし、乗せてってやるよ」
「え、別に大丈夫ですけど」
「いいからいいから。ちょっと聞きたいこともあったし」
ついでだからと言われ、荒船は大人しく傘に入り車に乗せてもらった。ライトとワイパーを作動させてから発進する。東の車に乗せてもらったのは初めてで、少し煙草の匂いがした。
「で、聞きたいことって何ですか?」
ワイパーを絶え間なく動かし続けなければ前が見えないほどの雨。立ち入り禁止区域を出ても外の人はまばらだ。
「来期は入隊する子がかなり多いだろ。例の記者会見効果で」
「ああ、そうですね」
「狙撃手はもう一人か二人くらい指導員を増やしてローテを回したいんだが、誰がいいと思う?」
「うーん……」
それこそ東が選ぶのが最も確実だと思うが、他の意見も聞きたいのだろう。A級から順番に狙撃手の顔を思い浮かべ、結論を四人に絞る。
「A級なら奈良坂か古寺、B級なら穂刈か隠岐あたりですかね」
「そうか。やっぱりそうなるよなあ」
「誰に聞いても似たような返事になるんじゃないですか」
東も同じことを考えていたらしい。荒船は他の面々を思い浮かべて首を振る。当真を筆頭に、狙撃の腕は確かだが案外人にものを教えるのが苦手そうな人材が多い。外岡や絵馬、半崎などはもう少し積極性があればと思うのだが。
「ていうか、東さんの存在がデカすぎるんですよ」
「ははは、否定はしない」
上っ面だけでもいいから否定しろと思わないでもないが事実である。戦闘における功績だけでなくボーダーの力の底上げに対する貢献度があまりにも高い。この水準に慣れてしまうと後釜に対するハードルも上がってしまう。
「俺もそう遠くない内に前線からは退くつもりだし、一人だけに頼らないようにしていかないとさ」
「俺がボーダー入った頃も似たようなこと言ってましたけど。まあ、俺ももうすぐ狙撃手じゃなくなりますしね。指導できる人間は育てておくべきでしょう」
信号が赤になり、東が荒船の方を向いた。
「やっぱり、もうすぐ転向するのか」
「はい。八千ポイント超えたんで」
どこかキリの良いタイミングで転向するつもりでいる。穂刈と半崎と加賀美には既に伝えてあった。荒船が指導していたC級隊員も順調に育っている。理論が通用すると証明できたらそれで満足だ。ポジションを変えたからといって狙撃手の訓練に全く顔を出せなくなるわけではないが、そちらにばかり時間を取られるわけにもいかない。
東はそうか、と小さく呟く。
「じゃあこれも早めに言っておこう」
「?」
「俺と付き合ってくれない?」
急に全く関係ない話が飛んできた。一体なにが「じゃあ」なのだろう。
「……なんで?」
「荒船が好きだからに決まってるだろ」
「いや、なんで今」
「転向したら会える機会が減りそうだし」
なんだか上手く誘導された気がしてきて頭を抱えた。荒船は今日の東との会話を巻き戻す。
「……これ言うために車に乗せましたね」
「それはどうかな」
窓の外はまだ強い雨が降っている。この雨と荒船が傘を持っていなかったのは偶然だろうが、いずれ近い内にこうなっていたのだと思う。
「返事は車を降りるまでに聞きたいんだけど」
「急だなオイ……」
荒船の家まであと十分ほどだろうか。東は前を向いてハンドルを握ったまま楽しそうに笑っている。視線を外に向け、荒船は悩み始めた。
東は狙撃手だ。無駄撃ちはしないし、絶対に勝てないと分かっている勝負はしない。荒船が悩んでいる時点で東の勝ちはほぼ決まっていた。
見ていたいから(デート)
「東さん、今度のデートで行きたい所があるんですけど」
荒船から届いたメッセージに心踊らせながら集合したのは、市立の美術館だった。
「すみません、どうしてもテスト前に行っとかないといけなくて」
授業でこの美術館の見学があったのだが、荒船だけ任務で行けなかった。しかし中間テストで必ず出すから休日に行ってこいと先生から入場券と課題を渡され、やむを得ず東とデートする予定だった日にねじ込んだのだ。
「いや、誘ってくれて嬉しいよ。キャンセルされるよりもずっと良い」
東は笑ってくれたが荒船は申し訳なさでいっぱいだ。というのも、課題に時間がかかりそうなのである。
一つは展示作品から絵画を三点選び、そこに使われている技法を分析するというもの。そしてもう一つは立体作品のデッサンだった。他の生徒も半日ほどかけて行った課題なので、必然的にデート時間も半減する。荒船の足取りは重かった。
「ほら、早く行かないと自由時間も無くなるぞ」
「……そうですね」
早く済めばそれだけ東との時間が取れる。そう考えるようにして渋々ながら入館した。
一つ目の課題はあっさり片付いた。作品の説明に助けられながら三点全てを埋め、写真を撮り終えたら早々に立体の展示室に移る。対象はなんでもいいと言われていたので、適度な大きさの木のオブジェを選んだ。質感をあまり気にしなくていい題材だ。
荒船は静かに鉛筆を動かす。東は隣の部屋を見たり外の様子を見たりとしばらくうろついていたのだが、やがて飽きて荒船の隣に落ち着いた。何もしなくても結局そこが一番落ち着くのだ。
「結構上手いじゃないか」
「そうですか?」
時折手を止めない程度の短い会話を挟む。荒船はまだ申し訳なく思っていたが、東は別に退屈などしていなかった。恋人の高校生らしい部分をこんなにもじっくりと観察できる機会などなかなか無い。むしろずっと見ていたいくらいだとさえ思っている。
荒船の目はオブジェとクロッキー帳を往復する。真剣な姿がとても凛々しくてつい手を出したくなるが、今は東が入り込む余地がない。荒船も早く終わらせたくて必死なのだ。東との時間のために集中しているのだから、邪魔をしては本末転倒だ。
しかしデッサンに集中して構ってもらえない寂しさから、東の中にちょっとした悪戯心が生まれた。
溜息を吐くと同時にクロッキー帳が閉じられる。荒船は顔を上げて大きく伸びをした。
「お待たせしました。行きましょう」
「もういいのか?」
「はい。写真も撮りましたし、後は家でもできます」
荒船は立ち上がって荷物を片付ける。東もそれに続き、もう用はないとばかりにあっさりと美術館を後にした。
外に出ると十三時を回っていた。開館時間に来たので、三時間ほどで課題を終わらせたことになる。まあまあの好タイムだろう。
「腹減りましたよね。待たせちまったんで、昼は東さんの好きなもの食べましょう」
奢りますと言わないあたりが東という男を心得ている。東が奢る意志を見せると、なぜか東が勝手に会計を済ませてしまったという経験が何度もあるのだ。
「じゃあ天蕎麦がいいな。来る時に蕎麦屋あったし」
「いいですね。行きましょう」
三時間も潰してしまった分、この後はどんな我儘でも聞くつもりでいた。
意気揚々と歩き出す荒船は知らない。実は東が、美術館の中の荒船の写真を何枚も写真に収めていたことを。
ハート(ヤキモチ)
今日は東がやたらとくっついてくる。普段もそうだが、今日は特に酷い。何かあったのかと聞くと、予想外の言葉が返ってきた。
「今日の訓練で心臓撃たれてただろ」
「? はあ」
狙撃手だけで行った訓練の話だ。隠匿と狙撃を繰り返し、撃たれるとマーカーが残るというもの。確かに今日、荒船は正面から胸を撃たれた。トリオン体だから正確には心臓ではないが、ニュアンスは分かる。あの訓練でなければ即緊急脱出していただろう。
「あれ、誰の?」
後ろから抱え込まれているので低い声が耳元で聞こえる。あまり機嫌は良くないようだ。怒らせるようなことはしていないはずだが。
「確か……佐鳥だったかな」
「ふーん、佐鳥か」
東は一層声を低くして、荒船の肩に顔を埋めた。これは苛立ちを抑えるために甘えるときの行動だ。一体何が駄目なのだろう。出した名前が良くなかったのか。
「なんだよ、俺が胸撃たれたのがそんなに気に入らねえのか?」
訓練中でも任務中でもトリオン体が傷つくのは当然だ。腕の良い狙撃手ほど頭や胸を正確に狙ってくるし、東自身だってそうする。荒船としては、まさかその程度の理由ではないだろうと言外に伝えたつもりだったのだが。
「うん、そうだよ」
しばらく開いた口が塞がらなかった。荒船が友達と喋ったり遊んだりするのは気にしないくせに、誰かに心臓を狙われるのは嫌だと言う。ツボの分からない男だとは思っていたが、改めて認識させられた。
「随分変わったヤキモチだな」
「そうかな」
そこではたと気付く。命中と被弾ならスコア表を見れば分かるが、位置までは本人を観察しないと確認できない。
「つーか、俺がどこ撃たれたとかいちいち確認してんのかよ」
「……バレたか」
ふふ、と笑うものだから首筋がくすぐったい。荒船はどうかと思ったが、対象が自分だけならと特に咎めはしない。もしその視線を他の誰かにも向けていたら、それこそ荒船も妬いてしまっていたかもしれないが。
「お前が誰にどこを撃たれたか、すごく気になる。特に心臓は特別」
そう言って東は手を滑らせ、荒船の胸に乗せた。今は生身だ。思わず息を呑む。
「荒船のハートは俺のだから」
「……おい、からかってんな?」
ここまでくると流石に分かる。東の機嫌はすっかり治ったらしく、荒船の背中で楽しそうに笑っていた。先程までの緊張は吹き飛び、接触はいつも通りのじゃれ合いに変わる。
訓練で手を抜くつもりはないが、こんなことで東の執着心を煽れるのなら悪くない。荒船は東のヤキモチを甘んじて受け入れた。
荒船はまだ知らないが、東は全て本気で言っている。訓練でどこを斬られたり撃たれたりするかいつも見ているし、荒船のハートは自分のものだと思っている。逆に東のハートは荒船のものだとも。
トリオン体だろうが生身だろうが関係ない。東は荒船の心臓を守るために生きている。
掌の上で(いい子)
「荒船はいい子だね」
その言葉を聞いて、荒船がキレた。
今日、荒船は東の作業を手伝っている。ボーダーとは直接関係のない簡単なリサーチで、正隊員程度の知識があれば中学生でもできる内容だ。そして一通り作業が済んだ後、東が急にそんなことを言い出した。この相手が荒船以外であれば一笑に付して終わりだっただろうが、荒船だけはどうしてもこれをスルーできない。
「俺がアンタを好きだって知ってて利用してるくせに、よくそんなこと言えますね」
荒船は東が好きだった。ダメ元で告白したこともある。その時は予想通り「今は誰とも付き合う気はない」と振られてしまったが、以降もボーダーの仲間としては普通に付き合ってきた。
東は荒船の好意を知り、それを利用している。ちょっとした手伝いも、面倒な頼み事も、荒船なら聞いてくれるだろうと色々押し付けた。荒船もそれを理解した上で、それでも断れなくてほぼ全てを引き受けている。だというのにこの男ときたら「いい子」などと宣うものだから、流石の荒船も我慢ならなかったのだ。
「俺がいい子だから手伝ってるとか、そんなわけないって分かってんでしょう」
そんなことは冗談でも東の口から聞きたくなかった。好意を受け入れてくれなくても、利用しているだけだとしても、それを口に出すことだけはしてほしくなかったのだ。思うだけならいい。言葉にされると否が応でも認めなければならなくなる。
「いや、荒船はいい子だよ」
まだ言うのか。薄い笑みを浮かべる東に苛立つ。いい加減殴ってやろうかと思ったが、次の言葉で動きが止まった。
「だってずっと待ってくれてたんだろ?」
「待つって、何を」
「俺のことだよ」
「?」
会話が噛み合っていない気がする。どうも荒船と東の言う「いい子」には齟齬があるらしい。荒船が東を待っていたというのも意味が分からず、頭の整理が追い付かない。しかし東は荒船の理解など待ってくれないのだった。
「いい子にはご褒美をあげよう」
「はあ?」
東が荒船に近付いてくる。何か良くないことが起こると分かっているのに逃げられない。なぜなら荒船は東が好きだから。
頭を撫でられるだけで心は勝手に輪郭を失くし、体は歓喜に呑まれる。なぜこんな男を好きになってしまったのかと思うのに、肌に触れられると理由などどうでも良くなってしまう。そのまま東の顔が近付き、唇が重なった。
「⁉」
これは夢ではないのか。東はかつて荒船を一度振ったではないか。距離は保ちつつも未練がましく想っていたのは荒船のはずなのに、なぜ東の方から荒船にキスしているのだろう。荒船には何も分からないが、東の唇の感触が心地いいことは分かる。
荒船が大人しくしていると、東の舌がするりと割れ目をなぞった。開けろと言われているのだ。おそるおそる口を開くと、今度は急かすように唇を噛まれた。舌の動きはみるみるエスカレートして、荒船の口内を好き放題に味わい尽くす。軽い気持ちでするキスではない。
(なんで、こんなの)
まだ揶揄われているのだろうか。だとしたら本当に性質が悪い。人の気持ちを弄ぶような最低男に惚れた覚えはない。突き放したいのに、キスは気持ち良くて離れられないから困る。
「これだけされても怒らないのは、やっぱり俺が好きだからだろ?」
やっと離れたと思ったらまた神経を逆撫ですることを言う。しかし今の荒船はすっかり毒気を抜かれてしまい、怒りをぶちまけるほどの元気は無かった。
「俺も好きだよ」
「⁉」
聞こえてきた言葉に耳を疑う。荒船はキスの余韻で潤んだままの瞳で東を見上げた。いつも何を考えているか分からない顔が、今は熱っぽく荒船を見つめている。
「俺と付き合わない?」
やはりこれは夢なのかもしれない。荒船は一度冷静になるために東から離れようとしたが、いつの間にか腰に腕を回されていて逃げられなかった。この感触は本物だ。ということは、東は荒船のことが好きで、交際をしようと持ち掛けているこの現状は現実である。
「だって、誰とも付き合う気は無いって……」
「〝今は〟って言っただろ。人間なんだから気も変わるさ」
告白されて断ったが気が変わったから付き合おうだなんて、簡単な説明にまとめると本当にどうしようもない言い分だ。荒船も別に東の気が変わるのを期待して待っていたわけではない。馬鹿にするなと殴り倒して、今後の接触を最低限に保つことだってやろうと思えばできる。
しかし一番どうしようもないのは、それでもなお嬉しいと思ってしまう荒船自身だった。
弟子の心配(惚気話・荒船)
「荒船は、東さんのどこが好きなんだ?」
荒船が本部に来ていた村上と二人で食事に行ったところ、そんな質問が飛び出した。村上らしからぬ質問に荒船は他の誰かの差し金かと構えたが、どうもそうではないようだ。
「あ、もちろん東さんの良いところは俺も知ってる。優しいし、頭もいいし、荒船を大事にしてくれると思う。でもそれは外野の意見だから、荒船から見てどうなのかなって」
荒船は東との話をあまりしない。本部の同級生ですら聞けないのだから、普段は鈴鳴に居る村上に入る情報など皆無に等しかった。
「急に付き合うことになったとだけ聞いたから気になったんだ。お前が幸せならそれで良いんだけど」
村上はただ単に荒船を気にかけているのだ。そういうことなら話は別である。信頼できる弟子だからこそ荒船は口を開いた。
「どこが好き、か……俺の意思を尊重してくれるとことか、本部では一切特別扱いしないとことか」
「あ、それは良いんだな」
「当然だろ。この前も危うく頭撃ち抜かれそうになったぜ」
頭はなんとか避けたが腕は持っていかれたし、結局それが原因で緊急脱出する羽目になったのだが。
恋人だからと勝負で手を抜かれるなど荒船が最も嫌うところだ。むしろ心理を読まれ、隠れている時に狙われる回数が増えたくらいだった。
その他の場面でも特に一緒に行動することは多くない。せいぜい一緒に帰るか、時間が合った時に食事をする程度。傍から見れば弟子を始めとした他の隊員の方がよく一緒に確認されるくらいだ。それもこれも二人がドライなのではなく、荒船の意向に沿っているらしい。
「それと、自分で何でもできるくせに俺がやってやるとすげえ喜ぶのが可愛い」
東に対して「可愛い」と評する人間など、ボーダー広しといえど荒船だけだろう。
「例えば?」
「この前はお好み焼きを焼いてやった」
それは荒船が焼きたいだけでは……と村上は思ったが、口には出さないでおいた。東も喜んだようだし、双方楽しいならそれで十分だ。
「逆に嫌なところは無いのか?」
「あー、俺の世話焼こうとしてくるのはちょっとうぜえ」
大抵のことは自分でできる故に、荒船は子供扱いされるのを嫌う。七歳も差があれば仕方ないような気もするが、東のそれは子供扱いというよりも。
「荒船に甘えてほしいんだろ」
「でもあの人隙あらば奢ろうとしてくるぞ。勝手に会計済ませとくのはマジでどうかと思う」
一緒に外食する機会が他の隊員より段違いに多いのだろう。払う払わせないの衝突は一度や二度ではなさそうだ。
年上だからと言われてもちゃんと自分で払いたい気持ちは村上にも少し分かる。いつも来馬の世話になりっぱなしで申し訳なく思うが、大人はなかなかそこを譲ってくれない。
「でもそれだけなんだな、嫌いなところ。上手くいってるなら良かった」
そもそもあの東とこの荒船である。諍いを起こすところ自体が想像しにくいし、お互いの気持ちがあるなら何の問題もない。ただ、この二人だからこそ外野からはその想いの大きさが見えにくいのだが。
「小せえことは色々あるけど、上手くいってるのはやっぱアレだな……」
「アレ?」
村上が首を傾げる。荒船は言い出しにくそうにもごもごと考えていたが、紅い顔と小さな声で呟いた。
「東さん、俺のことめちゃくちゃ好きだからな」
照れながらも幸せそうな師匠を見て、弟子は彼らの心配など二度としてやるまいと思うのだった。
傾いた天秤(惚気話・東)
「東さん、一緒にメシ食いませんか」
「ああ、いいよ」
思えば当真の誘いを軽々しく受けてしまったのがまず迂闊だった。
席とってあるんで、と連れて行かれた先には穂刈、犬飼、そして半崎が既に座っていた。この時点では珍しい組み合わせだとしか思っておらず、特に警戒心は抱いていない。
それぞれ食事を摂りながら雑談する。このメンバーだと狙撃手関連の話題が多く、各自繋がりの深い荒船にスポットが当たることもしばしばあった。というか、誘導されていたのだ。
「ところで東さん、荒船のことちゃんと好きなんですか?」
犬飼の言葉でようやく自分が嵌められたと気付いた。ここは東にこれを聞くために用意されていた席だ。彼らから何か疑われているようだが、荒船からは付き合いに関して無闇に喋るなと言われている手前どう答えたものか。周りを固められて逃げることもできそうにない。論戦なら東に負ける要素は無いが、荒船が絡むと一気に弱体化する。
「……荒船に何か聞いた?」
「いやいや、オレらが聞いたのは付き合うことになったって話だけ」
「話してるところも見ないから、本当に付き合ってるのかなって」
にこにこと言葉で追い詰めてくる二人もまあまあ怖いが、それより遥かに恐ろしいのは黙って東を見ている荒船隊の隊員だ。せめて何か言ってほしい。
今回の首謀者は穂刈と半崎、当真は東を捕まえる係、犬飼は野次馬である。
「付き合ってはいるけど、無闇に喋るなって言われてるからなあ」
荒船が何も言っていないのなら東が勝手に言うべきではないのでは。東が躊躇う様子を見せると、穂刈が口を開いた。
「心配なんですよ、オレ達は」
言葉にやたらと重みがあり、東の肩にずしりと乗る。穂刈は東よりも長く荒船と付き合いがあるのだ。この心配も当然のこと。
「隊長を何かに利用したり、圧力かけたりしてるわけじゃないですよね?」
「俺のイメージどうなってるんだ……?」
穂刈も半崎も弟子でないにせよ悪い印象を持たれているわけではないと思っていたのだが、今の二人が東を見る目は疑いの色が濃い。
怪訝な視線を送る二人とたじろぐ東の間に当真が割って入った。
「まー東さんがいい人だとは思ってますけど、自分とこの隊長が急に成人男性と付き合うって聞いたコイツらの気持ちも察してやってほしいんですよね」
東も自分だったらと想像してみる。頼りになる未成年の隊長が何の前触れも無く七歳上の同性と付き合うと言い出したら、確かに何かあったのかと心配になるだろう。プライベートな話であるだけに本人にも聞きづらそうだ。
「急な話で悪かった。でも俺はちゃんと荒船が好きだし、そこは疑わないでほしい」
「じゃあ具体的にどこが好きか聞いていいですか!」
こういうところで切り込むのは野次馬の役目である。彼らに話すと後で荒船に怒られるかもしれないが、この際仕方がない。
「すごく格好良いところかな。真面目で誠実で芯がしっかりしてるし、時々俺もときめくくらい男前なこと言うんだよ。大人びてるけど年相応に笑うギャップも良い。あと口調が荒いのは可愛いよな。好きだって自覚してから顔も綺麗だと気付いたし、知れば知るほど好きになるというか」
語る東は至って真剣で、実に幸せそうだ。四人とも話を聞いて東が荒船をどれだけ好きかは理解できたが、今度は逆に東が愛されているのか心配になってきた。ちゃんと釣り合いは取れているのだろうか。
つらつらと話すと止まらなくなる。東はまだまだ話せるが、そろそろまずい気がして一度ブレーキを踏んだ。
「まだ話した方がいい?」
「いや……疑ってすみませんでした……」
他人に喋ってしまえば四人も荒船に怒られるのだろうが、言いふらす気にもならないほどお腹いっぱいなのだった。
五個目(スイーツ)
「迅さん、丁度よかった。シュークリーム食べませんか?」
「お?」
迅が本部から戻ってくると、逆に本部へ向かおうとしていた三雲に呼び止められた。東に頼みがあるとかで手土産を用意したのだが、箱詰めになっていたのが五個からだったので一つ余るというのだ。迅は有り難く貰おうとして手を止める。先ほど本部で視た未来の中に、これと繋がるものがあったような気がした。三雲の顔を見て、未来が確定する。
「いや、そのまま持って行きな」
「え? でも……」
「五個持って行くと良いことがあるって、おれのサイドエフェクトが言ってる」
「東さん、拾いに来たぞ」
時間は進んで二時間後、東隊の部屋に荒船がやってきた。今日は家に遊びに行く約束をしていたので合流するために来たのだが、扉の先はのんびりムードだ。
「あ、荒船くん。シュークリーム食べていかない?」
「うん?」
人見に引っ張られて、荒船は訳の分からないまま席につかされた。東を拾ったらすぐ出るつもりだったが、とりあえず帽子を外す。
「お茶淹れるね。緑茶でいい?」
「いや、それくらい自分で」
「お客さんは座ってなさい」
人見にきっぱりと言われてすごすごと席に戻った。奥寺が冷蔵庫から箱を出し、小荒井が皿を出す。やることが無くぼんやりとしていたら、奥から現れた東が隣に座った。
「東さん、どうしたんだこれ」
「三雲が持ってきてくれたんだ。一個多かったんだけど、迅がそれていいって言ったらしくて」
「へー……」
迅にはこの未来が視えていたのだろう。あまり会わない相手だが、一体どこまで知られているのか。隠しているわけではないにせよ少し気恥ずかしい。
「でも俺が食べていいのか?」
「いいのよ。東さんがいつもお世話になってるから」
背を向けたままそう話す人見は貫禄があり、さながら東の母である。隊員公認なのは助かるがこれもこれで照れるものだ。
「それに、残ったら俺と小荒井と摩子さんで取り合いになるんで」
更にシュークリームを乗せながら奥寺が言う。奪い合うくらいなら第三者にあげて平和に解決するという考え方らしい。しかし荒船はなんとなく気付いていた。本当は東も残り一個が欲しいのだが、東が言い出すと三人とも譲ってしまうから言い出さないだけだろう。大人とは可哀想な生き物だ。
人見がお茶を運んできて準備が整った。五人で座って手を合わせる。
「いただきます」
端からフォークを入れる。皮が硬く、中のカスタードもしっかりしているタイプだった。食べ進めても崩れにくい。
「うまいな」
「玉狛の手土産はセンス良いって噂でしたもんね」
「選んだのは宇佐美かな」
口々に感想を述べ、玉狛の評価は鰻上りだ。
荒船は別に急ぐわけでもなくゆったりと食べていた。残り半分ほどになったところでふと横を見ると、東の皿が空になっている。東は大抵なんでも美味しそうに食べるが、こんなに早く食べ終わってしまうのは珍しい。よほど気に入ったと見える。ただ、それに気付いたのは荒船だけだった。
全員が食べ終えて、荒船は片付けを手伝ってから東と本部を後にした。当初の予定より帰りは遅くなったが問題ない。
「お前、洋菓子食べる時も緑茶なんだな」
「結構合いますよ?」
「俺はコーヒーがいいなあ」
他愛のない話をしながら東の家に向かう。二人ともまだシュークリームの余韻が抜けていない。非常に満足そうな東の様子を見ると荒船も嬉しくなった。甘い物は人を幸せにする。今日はこの後も楽しい時間になる予感がした。
遠慮してしまう可哀想な大人のため、荒船は後日こっそり三雲に店のことを聞きに行く。そして三雲はそのお礼に、東お気に入りのケーキ屋の情報を得たのだった。
危ない買い物(通販)
「あ、タバコ買うの忘れた。悪いけどちょっと待ってて」
「分かった」
コンビニに寄ってから東の家に来て、家に着いた途端に東だけ引き返す。荒船は勝手知ったるという様子で部屋に上がり、自分の部屋のように寛ぎ始めた。
それから五分もしない内にチャイムが鳴った。コンビニまでは歩いて片道三、四分はかかるが、全力疾走でもしたのか。それになぜわざわざチャイムを鳴らすのか。色々と疑問に思いながらドアを開けると、それは東ではなかった。
「東さん、宅配です。こちらにサインお願いします」
「あ、はい」
ここ、と示されたのは大きな箱に貼られた伝票だった。一瞬だけ迷ってから「東」と書き、業者を見送る。東の家なのだから正しい対応のはずだ。
さて玄関には大きな箱が残された。荒船が両腕でやっと抱えられるくらいのサイズだ。タイミングが絶妙というか、荒船が居てよかった。これを再配達してもらうのは申し訳ない。抱え上げてみると意外と軽かったので、そのままリビングまで運んでおいた。中身は気になるが、家主はもうすぐ帰ってくる。
「ただいま……えっ、何だこれ」
数分後、帰ってきた東は部屋の中央に鎮座する段ボールを見て固まる。確かに存在だけで人を驚かせるには十分な大きさだ。
「おかえり。東さんが頼んだんだろ」
「いや、こんなでかい物頼んだっけ……?」
東は身に覚えがないとばかりに首を傾げたが、宛先は正しい。代引きではなかったので詐欺でもないだろう。こんな大物、注文したら忘れそうにはないが。
「とりあえず開けてみようぜ」
荒船がカッターで封を切り、箱を開いてみる。中には茶色の大型クッションが綺麗に収まっていた。
「なんだこれ」
中身を見てもまだピンとこないようだ。ただのクッションにしては大きすぎる。しかし荒船はこれが何か知っていた。
「アレじゃねえか、人をダメにするソファ」
「人を……あ!」
そのワードで東の記憶が蘇る。
二週間ほど前、東は冬島や諏訪らと麻雀をしながら酒を飲んでいた。その際に冬島のデスク周りの話をしたのだ。
「最近なんか冬島隊の部屋にでけえクッション増えましたよね」
「あれな、人をダメにするソファって有名なんだと。ウチの隊員共が欲しいって言うから椅子代わりに一つ置いてみたんだが……ありゃやべえ」
「何がですか」
「アレに座ると動けなくなるんだよ。今はもう三人で奪い合い」
三人でと言うが、冬島隊の実権を握っているのは真木なのでおそらく真木の一人勝ちだろう。
「でも仕事場に置くもんじゃねえな。東も家に一つ買ってみたらどうだ?」
酔った勢いもあり、ソファが意外と手頃な値段だったことも後押しして、東はその場で注文したのだった。次の日には忘れていたので思い出すのに時間がかかってしまった。
「通販って怖いな……」
ボタン一つでこんなものまで届いてしまう。酔った時の買い物には今後注意しなければと、東は心中で密かに反省した。
「まあ、酔った勢いにしてはいい買い物なんじゃねえか?」
荒船はいそいそとソファを取り出し、早速座ってみる。家主より先に座るのもどうかという話だが、そこは荒船にのみ許される特権だ。
「うわっ、なんだこれ!」
「快適か?」
荒船は驚きつつも楽しそうである。それを見ると東も試したくなってきた。
「どんな体勢でも体にフィットしてくる……しかも低い位置で体が沈むから起き上がりにくい」
「つまり?」
「ダメにされちまう……」
座って一分でもう動けなくなってしまった。仰向けで無力感さえある表情を浮かべている。あのストイックな荒船もそうなるのだから、これは相当だ。
と、この光景を見て東の中で打算が働いた。これがあれば荒船はこの家から離れがたくなるのでは? 沈んで動きにくくなるということは、色々と使い道があるのでは?
荒船もいたく気に入った様子だし、そう考えるとこの衝動買いも大正解のように思えてくるのだった。
特別な通知(メッセージアプリ)
「絶対おかしい」
犬飼は携帯を睨みつけながら呟いた。向かいに座った穂刈は特に反応を返さない。というのも、ここはスルーしておいた方が後々自分のためになるからだ。犬飼が手にしているのは荒船の端末。持ち主が少し席を離れた隙に、東とどんなやり取りをしているか覗いてやろうとしていた。
ところが、探せども探せども東とのメッセージ記録だけが見つからない。それで絶対におかしいと躍起になっているのだ。
「ちゃんと叱られるんだぞ、後で」
「まあそれはそれとして」
履歴を逐一消すなんて面倒なことはしないだろうし、今時メッセージ機能を使わずにコミュニケーションを取っているとも思えない。ちなみに、通話履歴には東の名前を発見済みだ。
「なに勝手に人の携帯見てんだ」
「うっ」
ごつりと良い音を立てて犬飼が呻き声を上げ、携帯は持ち主の手に戻った。
「人の会話を覗き見とはいい趣味してんじゃねえか」
起動していたアプリで何をやっていたかも一目瞭然だ。犬飼が言い訳をする前に穂刈が「止めたぞ、俺は」と一言挿む。止めたのは最初だけで、その後は放置していたのだが。裏切り者である。
「気になるもんでもあったかよ」
「いや、無い。無さすぎて気になる」
「あ?」
頭を押さえて机に項垂れていた犬飼が顔を起こした。不満いっぱいの表情だ。
「東さん! 友達リストにも居ないとかおかしいでしょ! 逆に心配なんだけど!」
「ああ……そっちにはな」
「「そっち?」」
あっさりと返す荒船に、穂刈も犬飼も並んで首を傾げた。「そっち」があるなら「こっち」があるはずだ。
「東さんとの連絡は別のアプリ使ってんだよ」
これ、と荒船が指し示したのは見慣れないマイナーアプリだ。犬飼も穂刈も初めて見る。アイコンだけ見るとメッセージアプリだということも分かりにくい。犬飼が先ほど開いていたのは国内シェア圧倒的一位のアプリだ。一般的にはそれ以外のアプリが入っているという発想を持つこと自体がほとんどない。
「カモフラージュ?」
「ちげーよ。まあ今回はカモフラージュになったけど」
「じゃあ何? アレかな? 見られたら困る写真とか……」
「どんな写真だ」
「そりゃあ「言うんじゃねえバカ!」
人の行き交うラウンジでとんでもないことを言い出しそうだったので反射的に穂刈と荒船が口を塞いだ。それで少し注目を集めてしまったが、最悪の事態は避けられたようだ。
「んなもんねーよ」
「じゃあ何なんだよ〜!」
犬飼があまりにも理由を聞きたがるので、面倒になった荒船は遂に溜息を吐いた。
「通知が……それだけ違うだろ」
「うん?」
急に何を話し始めたのかと犬飼が視線を上げると、帽子で隠した荒船の顔がほのかに紅くなっている気がする。
「東さんからの連絡だって、すぐ分かんだろ」
「へ、へえ〜」
下世話な想像をしていた自分を殴りたくなるほど可愛らしく純粋な理由を聞かされ、犬飼は逆に引いた。荒船という人間はこんなことをするタイプだっただろうか。穂刈の反応も気になってそちらを向いてみると、彼は彼で頭を抱えていた。心中察するに余りある。
「自分から聞いといて引くんじゃねえよ!」
他の人との会話が無いからトーク部屋が流れなくて便利だとか、むしろ東のメッセージを後回しにすることもあるのだとか荒船は色々と言い訳するが、既に手遅れである。
「ちなみにそれ、言い出したのは……」
「東さん」
二人ともそんな気はしていた。荒船はわざわざ連絡方法を分けるという発想さえ無さそうなタイプだ。東の分かりやすい特別扱いを見て犬飼が感嘆の息を漏らす。
「なんだよ。まだ中身が気になんのか? 大した話はしてねえぞ」
「いやー、もう見なくても分かるっていうか、ご馳走さまです」
時は金なり(喧嘩)
任務を終えて一度東隊の部屋に集合し、そろそろ帰ろうと東が腰を上げた時、小荒井がふと気付いたように言う。
「そういえば、今週は荒船さん迎えに来ませんね」
それを聞いて東は固まる。今できれば一番聞きたくない名前を出され、しかし小荒井には罪が無いのでただ唸ることしかできない。
東と荒船は付き合っている。毎日とは言わないが、週に一度か二度くらいは一緒に帰るために荒船が東隊の部屋を訪れるのが常だった。今週は一度も来ていないので、疑問が口に出るのも当然だろう。
これがたまたまだったらどれだけ良かったかと東も思うが、残念ながらはっきりとした理由がある。
「あー……今、喧嘩中でな」
「「「え⁉」」」
東の言葉に奥寺も人見も思わず振り返った。流石にそこまで驚かれるとは思っていなかったので東もびくりと体が跳ねる。
「け……喧嘩とかするんですね……」
「まあ、たまにはな」
小荒井が申し訳なさそうにするが、彼は別に悪くないのだ。今回は何もかも、全面的に東が悪い。
遡ることちょうど一週間。
その日、荒船は東の家に来る約束をしていた。六時くらいには帰れるから待っていてくれと伝え、東は大学で実験を行う。
四時頃まではちゃんと覚えていたのだ。まだ時間は大丈夫だと思っていた。しかしそこからちょっとしたエラーが起こり、東も他の学生も対応に追われる。時間があるからとそれに没頭して、気付けば七時をとっくに過ぎていた。
当然そこで荒船との約束を思い出す。何時間も触っていなかった携帯を見ると、メッセージが数件と着信が三回ほど入っていた。実験も終了したので真っ青になって研究室を飛び出る。同時に慌てて電話をかけたが荒船は応答しなかった。
季節は冬になろうとしている。こんな中、もしかしたら外でずっと待っているのかもしれない。時間が経つほど罪悪感も深くなり、東はただ家路を急いだ。
案の定、荒船は部屋の前で座っていた。東が家に着いたのは八時頃。二時間も待たせていたことになる。荒船は東を見ると無表情で立ち上がった。
「荒船、ごめん! 寒かっただろ。とにかく中に入って」
東は急いで家の鍵を開ける。荒船の足取りは重く、東が肩を抱いて促したがその手はやんわりと外された。とても些細な動作だが、東にはそれがひどくショックだった。
部屋に入って電気を点け、暖房の電源を入れる。荒船は上着を脱ごうとしなかった。
「帰ろうとは……思わなかったのか」
違う。こんなことを言いたいのではない。もっと他に言うべきことがあるはずなのに、東も慌てているせいで言葉の優先度がめちゃくちゃだ。
「何度か思いましたけど、やっぱり直接言っとかないと気が済まないので」
ものすごく怒っている。当然だ。実は東は前にも似たようなことをしてしまった経験があった。約束をしていたのに本部で急に招集され、連絡せずに荒船を長時間待たせた。その時は呼び出されたことを荒船が他の人から聞いていたので大事には至らなかったが、後から「一言下さい」と釘を刺されたのは覚えている。覚えているのに、またやってしまった。
「別に俺を最優先にしろとか言いません。多少遅れるのも連絡があればいいんです。でも連絡も無く約束を破るのはダメです」
「本当に悪かった。端末が手元に無くて」
こんな言い訳がましいことを言いたかったわけではないが、なんとか弁明しようと東は必死だった。しかし荒船はただ静かに怒る。
「できない約束ならしない方がマシです」
いつもはこうではない。遅れそうだったり、会うこと自体が難しそうだったりすればちゃんと連絡する。だが稀に、運の悪さと東の若干の無理が重なってこのような摩擦が起こってしまうのだった。
「初犯ならすぐ許せますけど、もう三回目なんで時間が必要です。しばらく連絡しないでください」
「あ、荒船!」
東の呼びかけに振り返ることもなく、荒船は部屋を出ていった。ようやく温まってきた部屋の空気が空しい。
荒船は短気な方だが、それは怒りの芽が小さい内に潰しているということ。今回のように溜め込んでしまう事態はあまり起こらない。やはり東が相手だと我慢する機会が多いのだろう。きっとこれが年の近い相手ならこうはならなかった。
余計なストレスを与えていたと自覚して東は深く反省している。自分の意向を伝えたいとは思うのだが、荒船から許しが出るまで連絡ができないのが悲しい。荒船の言う通り、初犯ならまだしももう三回目だ。これで愛想を尽かされてしまったらと思うと悔やんでも悔やみきれない。もどかしく思いつつ、東は荒船からの連絡をただ待っている。
そして遂に今日、荒船から呼び出しがあった。今から荒船隊の部屋に来られるかと聞かれ、東は返事をしながら部屋に向かう。到着するとあまりの早さに驚かれたくらいである。
他の隊員は帰った後だった。荒船は椅子に座っていたが、東は立ったまま話を聞く。
「反省はしましたか?」
「それはもう……」
反省ならば嫌というほどした。荒船が望むならば謝罪の言葉と共にその内容を列挙できるが、そんなことを聞くつもりは毛頭無いようだ。
「色々考えたんですけど……一つお願いがあります」
どきりと東の心臓が大きく跳ねた。次の言葉を聞くのが怖い。別れてくれだなんて言われたら東は生きていられない。東が悪いのも、そうなる前にどうにかすべきだったことも分かっている。だが別れるのだけは嫌だ。
東は荒船が何か言う前に強く抱き締めてその口を顔もろとも塞いだ。
「別れたくない。ダメなところは直すから、なんでもするから……捨てないで」
荒船は顔全体を東の腹に押し付けられて苦しそうにしているが、東は必死で気付かない。もがきながら声を上げ、東の腕を叩く。しかしそれでも反応しないので遂に脇腹に重めの一発をお見舞いした。
「うっ」
流石にこれは効いたらしく、抱き締める腕が緩む。荒船はその隙に抜け出して立ち上がり、東の胸倉を掴んだ。
「話ができねえだろうが!」
「すみません……」
そもそもここには荒船の話を聞きに来た。彼の口を塞いでしまっては本末転倒だ。東が話を聞く態勢になったのを見て、荒船は服を掴んでいた手を離した。
「まず、別れたいわけじゃないんで心配しないでください。話ってのはお願いっつーか、提案ですね」
その言葉に東はひとまず胸を撫で下ろす。別れ話以外ならどんな内容でも受け入れる覚悟はあった。
「俺もちょっと一方的に怒りすぎたと思うんで……東さんが忙しいのは分かります。それは今後も変わらないでしょう。でも俺は時間を無駄にするのが嫌いです。だから、予定が怪しいときは予備のプランも考えておきませんか」
「予備の……」
待ち合わせで一定の時間まで連絡が来なければ解散するとか、家を出る前に連絡して確認が取れなければ出かけないとか、そのような提案だった。お互いのストレスが減るようにちゃんと考えてくれているのを感じる。
「そうだな。それがいい。ああ、一つだけ追加させてくれ」
東はポケットに入れておいた物を荒船に手渡す。キーホルダーも何も付いていない鍵だ。
「家の前で待たせたのがずっと申し訳なくて作ったんだ。荒船なら勝手に出入りしていいから」
「! ありがとうございます」
(笑った!)
仏頂面が解けて嬉しそうに笑うのを見て、ようやく東は心から安心できた。鍵を喜んで受け取ってくれたのなら嫌われてしまったわけではないのだろう。
「良かった、別れ話じゃなくて」
「俺だって怒りに任せて別れたくないですから。ちょっと考える時間を貰ったんですよ」
「もう口も利きたくないって意味だったら本当にどうしようかと……」
荒船が頭を冷やす間、東の中ではあらゆる方向で最悪の可能性が浮かんでは消えを繰り返していた。そんなことを言われた日には二度と立ち直れそうにない。
「まあ、もうちょっと約束を大事にしてもらえればいいんですけど。あと今回の埋め合わせも」
「もちろん」
荒船は東に対して理解があり思慮もある方だが、気が長い方ではない。口だけではないことを証明しなければ、いつか本当に愛想を尽かされてしまう。ぞんざいに扱っていい相手ではないのだ。
東の精神は荒船に支えられている。出会う前がどうだったか、今ではもう思い出せない。今日のところはとにかく先週の埋め合わせをさせてもらおう。そして今後はもっとしっかり時間と向き合うことを心に誓った。
映らないもの(鏡)
「東さん、洗面所借りるな」
「どうぞ」
荒船が東の家に遊びに来た。手を洗う音は聞こえたが、その後しばらくしても部屋に入ってこない上に何の音もしなくなった。不思議に思って東が様子を見に行くと、鏡の前で何か考え込んでいるようだった。
東に気付くと振り返って、少し悩んでから口を開く。
「俺はイケメンか?」
「?」
何の脈絡もない質問に首を捻るが、荒船は真剣だった。
「それは、どういう意味で……」
「外見だけの話」
鏡を見ながら、腕を組んでまた考え始めた。それほど悩むだけの何かがあったのだろうか。
「奈良坂とか烏丸ほど整ってるわけでもねえし、人並みだと思うんだけど」
東はできるだけフラットな視線を意識して荒船を観察した。顔の美醜の評価など求められたのは初めてだ。
切れ長で涼しげな目に、よく不敵に歪む口元。なるほど先に挙げられたような「大衆が認めるイケメン」ではないかもしれないが、整った外見だと感じる人は決して少なくないだろう。思ったままを伝えた後、東は付け加えた。
「けど、俺は荒船が何をしてても格好よく見えるからなあ」
荒船の目つきが悪かろうが真顔が威圧的だろうが東には全て美点に見えるし、時には可愛らしく見えることさえある。何より東はその中身に惚れているので、そこでかかるフィルターを取り除くのは難しい。
「そっか」
それならいいやと鏡から視線を外した。荒船の中では解決したらしい。
「誰かに何か言われた?」
今までそんなことを気にするタイプではなかったので、もうこの話を終わろうとしているのは承知で引き止めた。可愛い恋人の悩みはちゃんと解きほぐしておきたいものだ。
「……学校の奴に、俺が年上の男と付き合ってるってバレてさ。まあそれはいいんだけど、イケメンなのに勿体ないとかなんとか」
そう言った彼らに悪気は無いのだろう。頭では分かっているのだが、言われた方の心には引っかかるもの。それで手近なところで客観的な意見を求めたのだ。
「はは、そういうことか」
意味が分からないとばかりに荒船は溜息を吐く。顔が良ければ綺麗な女性と付き合わなければならないなんて、そんな道理は無い。どんな人を好きになるか、あるいはならないかも自由だ。
「ボーダーだと逆なんだけどな。東さんみてえなすごい人と付き合うのが俺で勿体ないとか思われてそうで」
「褒めてくれてる?」
「当然」
東は知っていた。東をすごいと思うのは大体が年齢によるところが大きく、子供達もこれくらいの歳になればそれなりの知識や技量は身につけられる。勿体なく思われる要素なんて本当は無い。じわじわと差を縮められ、いつか追い越されはしないかとただ恐れているのだ。荒船もきっと薄々は気付いている。
これが鏡に映るくらいの単純な話ならまだ良かった。それでもなおこの子供から離れるという選択肢が出てこないのだから重症だ。
「ま、結局外野が何を言おうと関係ないよな」
荒船はそう言って東の背を押し、二人で洗面所を後にした。
共有物(冷蔵庫)
「荒船は自炊したいタイプ?」
大学入学を目前に控えた三月、荒船と東は家電量販店で冷蔵庫を探していた。春から一緒に住むことを決め、荒船の生活に必要なものを揃えている。家電は大体東のものを使うのだが、冷蔵庫だけは小さすぎるということで買い換えることにしたのだ。
「できるだけしたいですね。食事もトレーニングの一貫ですし」
ほとんど自炊しない一人暮らしから、食べ盛りな上にストイックな男子学生との二人暮らしになる。東の生活スタイルも変わらざるを得ないだろう。
家族用とまではいかないが、中型サイズのものを物色する。想像よりバリエーション豊かで、性能の高いものが並んでいた。
「どんなのがいいかな」
「冷凍室が大きいやつがいいんじゃないですか? 東さんよく家空けるし」
「……できるだけ帰って来ようとは思ってるよ」
共同生活を始める前から諦められているのが悲しい。これを機に雑になっていた私生活を改めようとは東も思っていた。なにせ恋人と同棲するのは初めてのことだ。毎日家に帰りたくなるのは目に見えている。
「まあ俺もシフト増えますし、大きくて困ることはないでしょう」
話しながらも荒船は次々と冷凍庫のドアを開けては閉め、値段を確認していく。家電は東が支払うことになっているので値段は気にしなくていいのだが、そういうわけにもいかないらしい。
「そういえば、料理はできるのか?」
「人並み? 特別うまいものは作れませんけど、生活するには困らないくらいだと思いますよ。ネットで調べりゃ大抵のことはなんとかなりますから」
東もその程度だ。料理は嫌いではないのだが、一人暮らしを始めて早々に自炊を諦めたのであまり上達しない。お互い、今後に期待といったところだろう。
「俺もちょっと練習しようかな」
「え、料理する気あったんですか?」
「荒船が家に居るならな」
一人だとわざわざ毎週買い物をしたり使いきれるか分からない調味料を揃えたりするのは手間だが、置いておけば消費してくれる誰かが家に居るというのは大きい。東が自炊を諦めた理由の大部分は、買ってきた食材を使いきれないという点にあった。
かつての彼女が料理してくれたこともあったが、一般人相手ではボーダーの活動への理解度が違う。色々と苦い思い出はあるものの、荒船ならばそんな心配も無さそうだ。もちろんそれをあえて口に出すような真似はしない。
製氷機の要不要、ドアの開き方、色などを吟味した結果、やはり大きめの冷凍室が備えられたシルバーの冷凍庫に決定した。機能はシンプルな分、値段も大したことはない。配送の手配をして買い物を終えた。
「楽しみにしてますよ、東さんの料理」
「ハードル上げないで待ってて」
初めて買った共有物に新生活への期待も高まる。引越しの予定日はもう目前だ。あれが新居に届いて使い始める時のことを想像すると顔が勝手ににやついてしまって、東は密かに口元を隠した。
冷蔵庫は決めたが買うものはまだまだたくさんある。浮かれた気分のまま、二人は次の買い物に向かった。
そういうことは先に言え(スーツ)
とある日の午後。荒船が任務のために本部へ入ると私服の女子二人とすれ違った。よく知らない顔なのでC級だろうか。狙撃手ではなさそうだ。特に何事もなく通り過ぎようとしたのだが、聞こえてきた会話につい足が止まった。
「ねえさっき東さん見かけたんだけど、今日スーツ着てたよ!」
何もない場所だったので携帯を確認するふりをして会話を聞く。この程度の話題でも名前が挙がるほど、荒船の恋人は有名人だ。スーツということは午前に学会か何かでもあったのか。思えば最近は特に忙しそうにしていたな、とここしばらくの東の様子を思い出した。
「うそ⁉ 見たい!」
「すごい格好良かった!」
「まだ帰ってないといいなー」
元気に話しながら歩く二人は、荒船が盗み聞きしているなどとは露ほども思わなかっただろう。
彼女らが去った後、荒船は小さく舌打ちする。
用事を済ませて帰ろうとしていた東だったが、部屋を出た途端に横から腕を掴まれた。
「荒船⁉」
「ちょっとツラ貸せ」
何事かと思えば犯人は恋人だ。不機嫌そうな態度でぐいぐいと引っ張られ、人気のない方へ進む。空いている会議室に入り、扉を閉めると同時に荒船が東のネクタイを引いた。
「!」
強めに唇に食いつき、ここが基地であることを忘れているかのように激しく東を求める。急なことに焦っていた東もやがてそれを受け入れて、舌を絡ませて逆に荒船を弄んだ。唇を吸う音と呼吸音、そして時折鼻を抜けるような小さな声だけが薄暗い部屋を満たす。
しばらく堪能してキスには満足したのか顔を離したが、荒船は依然として鋭い視線を向けている。何かしただろうかと考えるが、身に覚えがない東はただ困惑していた。
もう一度ネクタイを引き、顔を寄せて荒船が口を開く。
「スーツ着たくらいでキャーキャー言われやがって」
電気が点いていない中でも分かるほど荒船は不機嫌そうに眉根を寄せている。ついでに正面切って舌打ちまでされてしまった。
「あ、これ? 今日は学会があったから……っていうか、キャーキャー言われてたのか?」
女子らは東の居ない所で騒いでいたので知る由もないのだが、今重要なのは荒船がそれを見聞きしたという事実だけである。
東はそれで大体のところを把握した。本部にはちょっとした用事で立ち寄っただけなのだが、この格好のまま来て正解だったようだ。知らない場所で抱かれたものであっても嫉妬は嫉妬。荒船がここまで強引なことをするのは珍しく、つい甘やかしたくなってしまう。
「今日うち来るか?」
優しく抱き締めて囁くと荒船の力が抜け、落ち着いた気配がした。心配などしなくても、東の特別は荒船だけのものだと教えてやる。
「行く……けど、これから任務だから。それ着替えんなよ」
「はいはい」
荒船も東の珍しい服装にテンションが上がっていたのだ。素直でないところも可愛く思えて東はくすくすと笑う。この程度で喜んでもらえるのならいつでも期待に応えるのだが、不意に起こるから効果的なのだろう。その気持ちは分かる。
東の学会準備のため、しばらく二人で会う時間が取れていなかった。今日やっとそれが終わったのだが、直後に荒船からこれほど熱烈なご褒美が貰えるなんて嬉しい誤算だ。荒船にそのつもりが無かったとしても、東にとってはご褒美に変わりない。
きっと荒船もストレスが溜まっていたのだろう。東も大分我慢していたが、先ほどのキスでもう駄目だった。今日は目一杯可愛がって、労いも込みで思いきり甘やかしてもらいたい。任務終了の時間が待ち遠しくてつい口元が緩む。
夕飯を用意して待っていると伝え、もう一度キスを交わしてから二人は会議室を出るのだった。
心に春(眼鏡)
東が荒船の家へ遊びに行くと、見たことのない姿の恋人に出迎えられた。
「悪い東さん、明日が締切のレポートあるの忘れてたからそれ終わるまでちょっと待っててもらっていいか」
「それはいいけど……お前、目悪かったっけ?」
「え? あ、眼鏡か」
部屋の中に入りながら荒船が眼鏡を取った。着けていることも忘れていたらしい。
「視力は落ちてねえよ。パソコン用だ」
大学に入ってから、荒船は授業も課題も半分以上はパソコンを使用する。最初の内は問題なかったのだが、次第に頭痛が酷くなってきた。眼精疲労が原因と分かったので即座に眼鏡屋へ行き、ブルーライトカットの度無し眼鏡を手に入れたのだ。荒船自身もどんなものかと思っていたが、効果はてきめんだという。
「画面の輝度抑えた方がいいんじゃないか?」
「それは一応やってんだけど、とにかく画面見る時間が長いからな。スマホも使うし」
「後で肩でも揉んであげよう」
やめろよと荒船は笑ったが、おそらく首も肩も凝っているだろう。何を隠そう東も経験者だ。多少嫌がられてもその凝りを自覚してもらうつもりでいる。
二人分のコーヒーだけ淹れた後、荒船は眼鏡をかけ直してレポートに戻った。もうほとんど出来上がっているのだが、散乱した情報をまとめて体裁を整える必要がある。そもそも英語の課題なので文章として問題が無いかもチェックしなければならなかった。
東は集中する荒船をただ見つめる。放っておかれるのは寂しいが、代わりに良いものを見られた。眼鏡をかける荒船は普段より知的で、ほんの少し大人っぽく見える。総合的に見ると五割増しだと感じた。
(眼鏡も似合うなあ)
ボストンタイプで太めの青緑のフレームは存在感があるが、荒船の顔は負けていない。改めて見ると、特別華やかというわけではないが綺麗な顔をしていると思う。東の惚れた欲目かもしれないが。
こういった学生らしく可愛げのあるフレームも良いし、もっとレンズが細いシルバーフレームのタイプも似合いそうだ。服も小物も大体何でも似合ってしまうのは一種の才能だろう。機会さえあれば色んな服を着せてみたいと東は思うのだが、果たしてそんな日は来るのか。
「そんなにじろじろ見て楽しいか?」
他に何をするでもない様子に気付き、荒船が視線だけ東の方に向けた。今日はその仕草ひとつ取っても刺激的だ。
「楽しいよ。眼鏡似合うなと思って」
「そりゃどうも。後ちょっとで終わるから、もう少しだけいい子にしててくれ」
にやりと笑う荒船が格好良くて、なんでも言うことを聞きたくなる。いや、そもそも東は普段から荒船に従順なのだが。
「あんまり待たせると言うこと聞けなくなるかもよ」
「すぐ終わるって」
宣言通り、荒船はそこから十分以内にパソコンを閉じた。それと同時に眼鏡を外してしまう。
「はい、終わったぞ」
「……」
「東さん?」
せっかく荒船が自由になったというのに、東はじっと顔を見つめるばかりだ。
「今日この後も眼鏡かけたままでいてくれない?」
「えっ、なんで」
普段かけ慣れていないので、荒船としてはできれば外したい。軽量タイプのものを選んだとはいえ邪魔なものは邪魔だ。
「いつもと違う雰囲気で新鮮というか、ずっと見ていたい気分になるというか、何て言えばいいんだ……〝萌え〟?」
東は自分の感情を冷静に分析したつもりだったが、普段の言動からは想像もできない言葉が飛び出してきて荒船は思わず噴き出した。
「ふっ、はははっ、あ、東さんの口から萌えって!」
「分かりやすい表現だと思ったんだが」
見ているだけで気分が高揚する、いつもより格好良く見えるという感覚を短い言葉で表すには丁度いい。東の中でもすとんと腑に落ちた。
「あー、ふはっ、確かに分かりやすいけどよ」
まだ笑いが収まらないようだが、荒船は再び眼鏡をかけた。東の頼みを聞いてくれるつもりらしい。
「今日はちょっと待たせちまったからな。どうしても邪魔になったら外すぞ」
「ありがとう。写真撮っていい?」
「それはダメ」
ケチ、と東が口を尖らせる。恋人の前ではたまに大人の顔が崩れることがあり、荒船はそれが可愛いなどと思っていた。これもある意味「萌え」だろうか。
「写真なんかより遥かに解像度高いのがここに居るだろ」
そう言って荒船は東の隣に回る。顔を寄せ、東がたじろいだ隙を狙って携帯を没収した。これで隠し撮りもできない。
「眼鏡したまま言うのは反則だろ」
東は両手を挙げて降参した。やはり荒船には逆らえない。携帯を取り返すのは諦め、隣に座ってきた五割増しの恋人を抱き寄せた。
いまきたばかりだけど(彼シャツ)
東の部屋のチャイムが鳴る。そこで東の意識が戻ってきた。今日は荒船が泊まりに来る予定で、東はその時間まで少しばかり昼寝をしていた。たった十五分ほどだが、疲れていたためか深く眠っていたらしい。欠伸をかみ殺しながら玄関の鍵を開けた。
「いらっしゃ……うわっ! どうしたんだそれ!」
扉の外に立っていたのは確かに荒船だが、川にでも落ちたのかというほど全身ずぶ濡れである。水も滴る何とやらとは言うものの、今の荒船はどちらかと言えば濡れ鼠という言葉の方が似合う。東がふと視線を上げると、外はひどい雨が降っていた。
「ゲリラ豪雨……」
東が寝落ちる前、思えば外が暗かったような気がする。昼寝をしていて全く気付かなかった。
とにかく部屋の中に入れたが、荒船は玄関で立ち止まる。全身くまなく濡れているのでこのまま入るわけにはいかないのだ。九月とはいえまだ残暑がきつく、部屋の中は冷房を効かせてあった。今入れば確実に風邪を引いてしまう。
「まず風呂入るか。ちょっと水溜めてくるから待ってろ」
「悪い、頼む」
東が洗面所から投げたタオルを受け取り、とりあえず靴と靴下だけは脱いだ。守ってはいたが当然ながらバッグもびしょ濡れである。荒船はハッとして中身を確認し、絶望の呻き声を上げた。
「どうした?」
そこへ東が戻ってくる。背後からは風呂に湯を溜める音がした。
「着替えも半分くらい濡れちまった」
「あー……下着は?」
「かろうじて無事」
風呂に入るのは良いが、その後着るものが無ければ風邪を引く運命を避けられない。
「じゃあ俺ので悪いけど、何か着るもの出しとくよ。洗濯回すから濡れた物は全部入れて。夜までに乾かすから」
「何から何までありがとな……」
ずぶ濡れで弱気になってしまったのか、荒船は殊勝な態度で洗面所に向かった。服は全て洗濯機に放り込み、湯が十分溜まるまでシャワーを浴びる。積乱雲の下では急に気温が低くなったので、冷えた肌に温かい湯がありがたかった。
「荒船、服置いとくからな」
「ああ」
「しっかり温まれよー」
東は声を掛けるついでに洗濯機のスイッチを入れた。荒船が風呂から出たら風呂場に干して、乾燥機を使えば数時間で乾くだろう。
荒船は言われた通り、しっかりと湯船に浸かって体を温めた。
風呂から出て体を拭いて、下着を履いたところまでは良かった。置いてあった服に袖を通した瞬間、荒船は得も言われぬ敗北感を味わう。
(でけえ……つーか、手足がなげえ)
上はカーキの綿シャツ、下は黒のチノパン。身長が十センチも違えば当然だが、袖も裾も大分余る。それでいて腰回りはさほど変わらないようだ。これは胴体の筋肉によるものだろうから別に構わない。
湯冷めしないよう長袖を用意してくれたのだろうが、手首も足首も捲り上げることになるくらいなら半袖短パンで良かった。ただし今日は借り物なので文句は一切言わない。ざっと髪を乾かして、使ったタオルは稼働中の洗濯機の上に置いておいた。
やっと部屋に入ると冷房は弱めにしてあった。雨で気温が下がったのも助け、適温に保たれている。
「東さん、風呂ありがと」
「あ、出たか。洗濯物干してくる」
「いや、それくらい俺がやるって」
「いいよ。来たばっかりだろ。大した量じゃないしな」
半ば強引に座らせられてしまい、荒船は渋々諦めた。外は先ほどの雨が嘘のように晴れて、滅多に出ないベランダには荒船の鞄が干されている。次に使うのは帰る時なので少々湿気たままでもさほど問題ではない。
今日持ってきたのは着替えの服だけだ。精密機械などを入れていなくて良かったと安堵の息を吐いた。荒船のスマホは防水であるし、ポケットの中に入れてあったので無事だ。服は借りることになってしまったが、この格好で家から出るわけでもないので気にしないことにする。
東が戻ってきて、荒船の隣に座り一息ついた。
「すごい雨だったな」
「家出た時は晴れてたんだよ。まあ傘持ってても役に立たなかっただろうけど」
「確かに」
東は笑っているが、視線はずっと荒船に向いている。遠慮のないそれを荒船が気にしないはずがない。袖が余るのを面白がっているのか。
「な、なんだよ、さっきからじろじろ見て」
「いや……いいもんだなと思って」
「は?」
荒船が首を傾げる間に、東は腕を引いて後ろから抱き込んだ。首筋の匂いを嗅がれ、荒船はくすぐったさに身を捩る。
「石鹸の匂いがする荒船が、俺の服着て俺の部屋に居るって最高だな」
「!」
本能的に身の危険を感じて東の腕から抜け出そうとしたが既に遅い。上半身はがっちりと捕まり、脚も絡められて身動きが取れなかった。東は逃げられないのをいいことに荒船の肩を舐めたり噛んだりし始める。
「ひっ、おい!」
「ボタンも開いてるし」
「暑いんだから当たり前だろ!」
九月といってもまだほぼ夏のようなもの。風呂で十分に温まった体にはボタン二つ開けるくらいが丁度いいのだ。抵抗はするものの、冷房の効いた部屋に居た東の肌は冷たくて気持ち良かった。
東とそういうことをしたくないわけではないのだが、まだ数えるほどしか経験が無くていつも焦る。追い付けていないのは体の大きさよりも心の余裕なのだろう。
「温かいな、お前」
「そりゃ、風呂、入ったからな」
「いい匂い」
「んんっ」
東は荒船の髪の匂いを嗅ぎ、赤くなった耳を甘噛みする。気付けば右手がシャツの下に侵入していた。これはもう本格的に煽りにきている。
「東さ、だめ、だって」
「ダメ?」
流されるわけにはいかないと荒船が振り返ると、蕩けそうな瞳に射抜かれた。愛しくてたまらないと語る目。そんなものを向けられると荒船は何も言い返せなくなる。
「本当に?」
そんな表情をしているくせに、両手は意地悪だ。荒船が弱いと分かっていて脇腹を撫で、ボタンを一つ外す。
本当にダメなのか? 聞かれて荒船は自問する。今日はそもそも泊まりに来ていて、そういう想定もしていた。どこかに出かけるつもりもない。少しタイミングが早まっただけといえばそうだろう。何より、こんなに可愛い表情の東を見て強くダメだとは言えない。
荒船は硬くなった体の力を抜き、やっぱりダメじゃないと小さく呟いた。
裏切らないから(筋トレ)
俺の弟子と恋人はたまに二人で会っている。別に変な意味ではないし、何をしているかも知っている。トレーニングだ。
外でのロードワークや、レイジの持っている器具での筋トレ。荒船は普段から自主的にトレーニングをしているが、定期的にトレーナーに会うような感じなんだろう。
基礎体力を上げてより動ける体を作るというのはまあ、いいことだ。生身の健康面で考えても。ただなんと言うべきか。
「荒船、またちょっと大きくなってないか…?」
「そうですか⁉」
無論太ったという意味ではない。これを言うと荒船は喜ぶんだが、俺が複雑な気持ちでいるのを分かっているのか。
そりゃ荒船はどんな姿でも魅力的だし、女性のような柔らかさも求めてはいない。でも恋人がレイジみたいになると想像するとなんとも言えない気持ちになる。
「お前は何を目指してるんだ」
ぽろっと本音を零したら、それが火をつけてしまったらしい。
「いいですか、俺は何かを目標にしてトレーニングしてるんじゃありません。週刊です」
「はあ」
「筋トレに終わりはないんですよ。東さんも目標があって毎日歯磨きするわけじゃないでしょう」
「歯磨きと同等か⁉」
体を鍛える人の心理はそれなりに分かっていたつもりだが、もっと遥かに深かったようだ。まるで底が見えない。
「でもなあ……せめて抱き上げられるサイズであってほしい」
可愛げなんかを求めているんじゃない。これは物理的な問題だ。抱き上げる機会なんて滅多にないが、いざという時にできなかったら多分凹む。
「……じゃあ、東さんも筋トレすれば万事解決じゃないですか?」
「……そうきたか」
確かに他人の考えを変えるより自分を変える方が簡単だ。だが筋トレを習慣化するなんて、口で言うほど簡単にできたら苦労しない。
「一緒に筋トレしたら会える時間も長くなりますし」
それを言うのは卑怯じゃないか? たった一言で気持ちが揺らぐ。結局のところ、俺は荒船に構ってもらえるならなんでもいいのか。我ながら単純すぎる。
分かった、俺の負けだ。付き合おう。とりあえず一回だけ。一回だけだからな。
笑ってみせて(酔っ払い)
『東さん、今から飲み会来ませんか?』
当真から届いたメッセージに東は首を傾げた。今夜、当真らは同級生で集まって飲み会をしている。荒船から聞いていたので当然知っているが、誘われる理由は全く分からない。
『同級生飲みの邪魔しちゃ悪いだろ』
別に予定があるわけではないが、七歳下の集まりに一人で飛び込むほど東は陽気なタイプではない。
『いいんですか? 今来ないと後悔すると思いますよ』
即座に届いたメッセージにどきりとした。まさか荒船が酔って暴れたりなどしていないだろうか。心配でそわそわし始めたところに一枚の画像が送られてくる。
「……マジか」
思わず声が漏れ、次の瞬間には家の鍵と上着を掴んでいた。
「あ、来た。東さーん」
ざわつく居酒屋、店員に案内してもらった先で当真が手を振る。既に飲み会はかなり盛り上がっていて、東の方を見たのは近くに座っている加賀美と蔵内くらいだった。
「荒船は……」
「あっちの席」
同級生がほぼ全員集まってかなりの人数だ。廊下に近い当真のほぼ対角線上、部屋の奥に荒船が座っている。東が来たことにはまだ気付いていないようだ。
「連絡ありがとな。画像見てびっくりした」
「いやー、オレらも驚いてたんすよ」
なあ、と当真は首を「そちら」に向ける。視線の先に居る荒船は、普段の凛々しさからは考えられないほど柔和な笑顔を浮かべていた。隣の村上と並んで、その一角だけ飲み会らしからぬ穏やかな空間である。
「まさか荒船があんな風になるなんて……」
「東さんでも初めて見るとか相当レアだな」
「今日は特に機嫌良いみたいですよ」
「半崎くんがテストで良い点とった時よりいい笑顔だわ」
口々に感想を述べながら荒船を観察していると、流石に本人も刺さる視線に気付いた。にこにこと手を振るが、東を認識した途端に動きが固まる。
「あれ、戻っちゃった」
「東さん呼ぶって言ってねえからな」
「言ってないの⁉」
せっかくの珍しい表情が消えた上、荒船は気まずそうにそっぽを向いてしまった。その様子が気になって東は荒船が座っている方に移動し、それに気付いた村上が気を遣って当真達の方へ席を移す。荒船が縋るように引き止めようとしたが、やんわりと断られていた。
空いた席に腰を下ろすと酒が入った同級生らがはやしたてたが、荒船は冷静さを取り戻そうと必死だ。
「東さん、なんで居るんですか」
「当真に呼ばれた。荒船が可愛いことになってるって聞いて」
「あの野郎……」
荒船は渋面を作るがどことなく普段より険しさが薄い。顔に力が入っていないのだろうか。
「なあ、さっきみたいに笑って」
「無理です。ダメです」
「なんで?」
顔を覗きこもうとしたら両手で顔を覆い隠してしまう。成人したというのにこの仕草の可愛さは年上の恋人によく効いた。
「東さんの前では格好つけたいんで……」
非常に小さな声だったが東にはちゃんと聞こえた。いよいよキャパシティを超え、顔を覆う両手を剥がそうと試みる。
「やめ、やめろって」
「もう一回笑ってくれるまでやめない」
酒のせいだけでなく赤くなった顔で必死に抵抗する姿でさえ愛しくて、東は珍しく悪ノリして荒船を追い詰めた。
「……家でやってくれないかなあ」
犬飼の呟きが二人に届くことはないのだった。
予約済み(俺の)
「荒船先輩、東さん借りますね」
「おう。後で返せよ」
緑川が荒船の横を走り抜けていく。今日は緑川・米屋・出水が東に焼肉を奢ってもらう約束をしているそうで、出発前に荒船に一声かけたのだ。
年上を物扱いすると往々にして咎められるものだが、荒船と東に限ってはそれが許される空気がある。こうなったのは本人達が原因だった。
その日、冬島はげんなりした様子で東と話していた。休日のラウンジは賑わっていて、静かな部屋で仕事をしていた身には雑踏がむしろ心地良い。
「実家ってあんなに疲れる場所だったかねえ……」
「何かあったんですか」
「彼女は居ないのか、結婚しろ、お前の同級生はどうのこうのってもう……よそはよそ、うちはうちって言ってたのはどの口だっつの」
珍しく連休を取って実家に帰ったところ、親や親戚からの結婚しろコールに晒されてしまったという。なんとか逃げ切ってはきたが、ただでさえ滅多に帰らなかった冬島の足は更に遠のいたようだ。
「結婚だけが人生じゃねえって言ってんのに全く聞く耳持たねえし……当分帰りたくねえわ」
「それはお疲れ様です」
東はまだ経験していないが、思えば小中の同級生には既に結婚して子供が居る人も複数知っている。自分がそんな年齢かと思うと東もげんなりしてきた。その手の煩わしさは好きではない。
「他人事みたいに言ってるけど、お前も院卒業したらすぐにこうなるぞ」
「憂鬱になること言うのやめてくださいよ……」
「俺もお前も、せめて彼女が居たらなあ」
溜息を吐く冬島に対し、東は冷や汗を流した。冬島を始めとしたボーダーの隊員が知らないだけで、東には恋人が居る。プロポーズこそしていないが、生涯を共にしたいと思えるだけの相手だ。その点においては冬島と同じ状況にはならないと予想される。
だが東は黙っていた。恋人の存在は明かしていないし、更にこの場でわざわざ言えば角が立つ。そもそも今は東の意見を求められている場面ではない。大事なのは実家帰りで疲れた先輩を労ってやること。憂さ晴らしに今日は諏訪らを呼んで麻雀でもしますかと言おうとした時、ふと背後に気配を感じた。
「東さんに彼女は居ませんけど、恋人は居ますよ」
項垂れていた冬島もその声に顔を上げた。そこに居たのはけろりとした顔の東の恋人、荒船である。
「荒船? そりゃどういう……」
「東さんは俺のなんで」
「⁉」
東が何かを考える暇もなく、荒船は東の隣に座って肩を抱き寄せた。突然の暴露に冬島はもちろんのこと、東も混乱している。こんな場所で普通に話していたので会話を盗み聞きしていたことは咎めないが、今明かしてしまうのかと。冬島だけならいざ知らず、人の集まるラウンジだ。現にすぐ傍を通った隊員がぎょっとして荒船の方を見ている。
「え、お前ら、もしかしてそういう……」
「そうですよ。誰にもあげません」
「あの、えっ、荒船⁉」
どういうつもりかと聞こうとしたが、荒船はそれだけ言うと立ち上がってどこかへ行ってしまう。追いかけるべきか、冬島に釈明すべきか。迷った結果、とりあえず後者を選んだ。荒船には後でゆっくり話を聞くつもりだ。
「お前……女の影すらねえと思ったら、男と付き合ってたのか」
「まあ、はい……そういうことです」
何か強い意図があって隠していたわけではないが、なにもこの冬島に追い打ちを与えるタイミングでばらさなくても。どんな反応が来るか東が様子を窺っていると、冬島がなぜか笑い出した。思ったよりも悲壮感は無い。
「なんかアレだな。俺の悩みがどうでも良くなってきたな」
「はい?」
「男と付き合うなんて並大抵じゃねえよ。しかもあの荒船相手ときたら、そりゃ色々苦労しただろ?」
「え、ええ……」
どうやら冬島には東に裏切られたという気持ちよりも、東の恋人が荒船であった衝撃でいっぱいのようだ。確かに荒船と付き合うにあたっては紆余曲折あったが、冬島の憂鬱はもう吹き飛ばせたと思っていいのだろうか。それならそれで東としては構わないのだが。
「まあ隠してた罰として、今日は全部聞かせてもらうぜ」
冬島はやたらと元気になって携帯を取り出した。諏訪か太刀川あたりに連絡するのだろう。今夜麻雀をするという予定は結局変わらないらしい。
「あ、その前にご主人サマにお借りしますって連絡しとかねえとな」
にやりと楽しそうに笑う冬島を見ると、東はもう何も言えないのだった。
機嫌の調整(翌朝)
荒船が起き上がると、キッチンから良い香りがした。それにつられてふらふらとベッドを出る。
「あ、おはよう。そろそろ声かけようと思ってたんだ」
「……朝飯?」
「ああ。腹減ってるだろ」
東の手元には味噌汁の鍋がある。具は豆腐と若布のようだ。それを横目に見ながら、まずは顔を洗いに洗面所へ向かった。
「「いただきます」」
東はあまり朝食を食べないが、荒船が居るときはちゃんと用意する。普段は大体パンとせいぜい簡単な卵料理くらいなのだが今日は和食、しかも品数が多い。味噌汁と卵焼き以外はほぼ出すだけではあるが、豪勢な朝食と言っていいだろう。
「今日は夜まで居る?」
「ん」
「帰りは車出そうか?」
「いい」
荒船の返事は全て素っ気ない。それに対して東はひたすら優しく対応する。別に荒船はただ眠いだけではないのだ。今の状況には全て理由があった。
「あの、体は大丈夫か」
「逆に聞くけど、大丈夫だと思うか?」
「すみません……」
昨夜、荒船は東に〝ちょっとした〟無理を強いられた。お陰で全身が怠くあちこちが痛む。気絶するように眠り、気付けば朝。東は罪悪感から甲斐甲斐しく荒船の世話を焼いているのだ。体力が回復できるよう、しっかり食べられる和食にしたのもそのため。
「何か必要な物はない?」
「そうだな……映画でも観るか。あんま動けねえし」
荒船はまだちくりと刺しておきたいようだ。東もそれを甘んじて受ける。
「ご希望のタイトルは?」
「ちょっと考える。あと五分待ってくれ」
「了解」
好きなもののこととなると機嫌が回復する。東はほっとしながら、食べ終わった食器を片付け始めた。
「東さん、借りてきてほしいやつ決めたから、携帯に送っといた」
「ありがとう。じゃ、ちょっと行ってくる」
車の鍵を手に取り、東だけが出発する。レンタルショップはここから車で十分ほどの場所にあり、歩くには少しばかり遠い。今日は荒船が動けないので一人で行くのも致し方なしだ。
車が発進した音を聞いて、荒船はソファに倒れ込んだ。腹が減っていたから起き上がって食事はしたが、それが満たされるとまた眠気がやってくる。ただ食べてすぐ寝るのは荒船のポリシーが許さないので、なんとか抗おうとはしていた。
昨夜のことを怒っているわけではない。泊まりに来たのが久々であったし、荒船にも気持ちは分かる。ただ、これが毎回となると困るから少し厳しめに当たっているのだ。確かにもう少し手加減しろと思っている部分が無いわけではないが。
(あんまり甘やかしすぎてもダメになるからな、東さんは)
調子に乗られ過ぎても自分が痛い目に遭うので、バランスが難しいところだ。とりあえず、今の体の重さはしばらく味わいたくない。
荒船は上体を起こしてぼんやりと携帯を眺める。そういえば昨日の夕方から何もチェックできていない。同級生のグループメッセージが何件か入っていたが、荒船に直接関係ある内容ではないのでスルーした。他には珍しい通知が一つ来ている。
(冬島さん?)
東に連絡を取りたい時、本人よりも荒船に知らせた方が通じやすい場合があるからと連絡先を交換したのだ。あまり頻繁にやりとりをするほどの仲ではない。何か東に急ぎの用時でもあるのかと思い開いてみると、それはむしろ荒船宛のメッセージだった。
『今日東と会うよな? 大学で何かあったらしくて少し荒れてたから、できれば優しくしてやってくれ』
荒船はそれを二、三度読んだ後、了解のスタンプを送って携帯を置いた。半日以上空けてしまったがまだ有効だろう。荒れていた素振りなど一切見られなかったが、なるほどそういうことなら合点がいく。
(疲れてたんなら素直にそう言えば……いや、だからってアレはやりすぎだけど)
弱っているところをなるべく見せようとしないのは東の悪い癖だ。格好つけたがりめ、と荒船は溜息を吐いた。
甘やかしすぎは良くないが、事情があるなら話は別だ。帰ってきたら機嫌はリセットして、優しく接してやろう。映画を観る間は邪魔さえしなければ腕の中に抱かれてやってもいい。
先に冬島からのメッセージを見ていたら今朝の状況が変わっていたかと言われると微妙なところだが、少なくとも今気付けて良かったとは思う。早く帰ってこいと念じながら、荒船はもう一度ソファに横たわった。
お仕置き(依存)
ランク戦と反省会を終えて帰宅しようとした荒船は、隊室を出た瞬間に両側から腕を拘束されてしまった。
「お願い荒船! 勉強教えて!」
「お願い!」
右腕には当真、左腕には国近。同級生の中でどちらかといえば成績の悪い二人である。どちらも必死な形相だが、荒船は彼らのこんな行動にも慣れていた。
「なんだ急に……俺もそんな暇じゃねえんだ。離せ」
「大事な友達が留年してもいいの⁉」
「はあ?」
先日、どこの高校でも最後の期末テストが行われた。聞けば三門第一では赤点を取った者は課題を与えられた上でその教科の追試を受けるのだが、そこでも基準点に満たなければ留年も有り得ると教師に脅されたという。追試は課題の内容から出るそうなので荒船からすると随分な温情措置だ。それに三門第一の方針から考えれば、留年というのも口先だけではないだろうか。本当にその気があるなら、もっと早くに手を打っていたはずだ。この二人はそれでも不安いっぱいらしい。
ちなみに成績的には影浦も同類だが、今回は奇跡的な運によって全教科ギリギリで赤点を回避していた。
「そんなの自業自得だろ。自力でやれよ」
「甘いぜ荒船。自力で勉強できたらそもそも赤点なんか取らねえ」
「堂々と言うな。つーかまず離せ」
二人に呆れつつも荒船は少し焦っていた。今日は東も本部に居る。今この状態を見られるのはまずい。しかしこれを引き受けるのは面倒だ。
「会長は?」
「蔵内くんは……優しすぎて……」
「オレらアホすぎて何度も同じこと聞くし……いくらなんでも申し訳なくて……」
二人とも急に遠い目になった。今回の期末テストも蔵内が手伝ってやっていたのは荒船も知っている。同級生で一番の秀才に教わってなお赤点を取るというのも中々だが、そういった負い目もあって今回は蔵内に頼めないらしい。荒船としても蔵内にはできれば平和に過ごしてほしいところだ。
「水上は」
「逃げられた!」
(あの野郎……)
水上も成績優秀であるし、何より二人と同じ学校だ。絶対に適任だと思ったのだが、この事態を察知していち早く逃げたに違いない。
「なら王子は」
「教えるの下手!」
国近はそう言うが、荒船の予想だと二人とも王子の教え方が合わないのだろう。王子は王子で見切りをつけるのが早いので、根気が必要なこの二人には向いていなそうだ。
「荒船くんが引き受けてくれるって言うまで離さないからね!」
「ね!」
国近の真似をする当真の可愛くなさはさておき、早いところ離れてもらわなければまずい。この状態が人づてにも東の耳に入ってしまったら。そう思った瞬間、絶対に聞きたくなかった声が聞こえた。
「荒船、モテモテだなあ」
三人の前方、廊下の先から東が現れた。荒船の顔がさっと蒼くなる。
「東さん、違っ、これは」
「廊下の向こうでも聞こえてきたぞ。ほどほどにな」
「「はーい」」
元気に返事をする両脇の二人は荒船の異変に気付いていない。気付いているのは正面に居る東だけだ。荒船の様子を知りながら、東はなんでもないように三人の横を通り過ぎていく。その間、荒船は顔を上げられないでいた。
「あ、荒船」
去り際に東が振り向き、荒船の体がびくりと跳ねた。
「後で少し時間くれるか」
これは言葉通りの意味ではない。今日は帰らないと先に家へ連絡を入れておいた方が良いだろう。本部に泊まったことも何度かあるのでバレることはない。
「分かり、ました」
うん、と頷いて東は笑顔でこの場を去っていった。その表情がやけに楽しそうで、当真も国近も首を傾げる。
「なんか東さんめちゃくちゃ機嫌いいな……?」
荒船だけがそうではないと知っている。あれは後でどうやって荒船をいたぶるか考えている顔だ。何も知らない当真と国近は気楽なもので、まだ荒船の腕に抱きついたまま。
「チッ、お前らのせいだからな」
「え?」
二人ともきょとんとしている。意味は分からなくて当然だが、荒船は八つ当たりせずにはいられなかった。
「勉強は見てやる。絶対に留年なんかできねえくらいとことん厳しくしてやるよ……」
勉強を見てくれることになり取り急ぎの危機は免れたが、荒船の様子は鬼気迫るものがあった。二人は喜びつつもその気迫に慄く。
しかし荒船が後で東にされることと比べれば、二人に対する荒船のスパルタ指導など大したことはない。
東は荒船が自分以外の誰かと生身で接触するのを嫌う。その場面を直接見るだけでなく、話を聞くだけでもひどく荒れるのだ。今日など二人に抱きつかれている現場を見られてしまったので最悪である。
(今日寝られるかな……土曜で助かった)
荒船だけが知る、人格者・東春秋の像が崩れる瞬間。それはとても他人に言えるようなものではなかった。体に痕が残るようなことはされない。そこもまた東の賢しいところだった。無論、荒船が訴えに出る可能性など皆無だが、他人に気付かれれば口を出されるかもしれない。万に一つの可能性でも潰しておきたいらしい。
「それ」自体は嫌だし辛い。だが東と別れたいという気持ちは全く起こらなかった。むしろあの東から執着を向けられることに対する優越感すらある。
これは合意の上で行われていることなのだ。荒船が逃げようと思えばいつでも逃げられるし、東もそれを許す。だが荒船が逃げたことはない。それで東の気が済むのならと全て受け入れた。東による一種の甘えと言ってもいいだろう。
無くて済むなら無い方が良い。だがあるのだから仕方ない。これはそういう儀式のようなもの。
(俺も大概、病的だな)
吸血鬼の僕(主×従)
吸血鬼の僕〈しもべ〉とは、純血の吸血鬼から血を分け与えられた人間を指す。僕を作るのは禁止されたために今ではほとんど残っていないが、荒船はそんな希少な存在の一人だった。
日が沈むと主たる東の一日が始まる。目覚ましは荒船の仕事だ。
「東さん! 起きろ! さっさとメシ食え!」
ただ僕とはいえ、大衆のイメージ通りにしおらしく謙虚であるとは限らないのだが。
東が食事を終えて仕事を始めると、荒船もその後ろをついて回る。日中は人間としての仕事をして、夜は東の補佐として仕事を手伝うのだ。
「これとこれはもう送っていいから封しておいて。こっちは急ぎだから二宮か加古が来たら渡して。あとこの辺りの書類に目を通して、俺の印が要るのと要らないのに分けて」
「はい」
次々に渡される紙の束を荒船はてきぱきと捌いていく。荒船が手伝っていられる時間は短いので、手際の良さは重要である。
仕分けた書類を渡すと、東のチェックに時間がかかるから風呂にでも入ってくるよう言われた。家で仕事ができるのは便利だ。
再び東の部屋に戻ると書類のチェックは終わっていた。東は机の上に本を山と積んで、少し読んでは次の本を開いてを繰り返している。
「東さん、次の仕事は?」
「今日はもう終わり」
どう見てもそうは見えない。多分、今日はもう寝ろと言われるのだろう。確かにそれなりの時間だが、まだ起きていられる。
「この本の山は?」
「ちょっと調べ物。来週までに返事すればいいから急がないよ」
内容を教えてくれないあたり徹底しているが、科学に関することを調べているらしいとは背表紙から予想できた。
「それくらい俺がやるのに」
二百歳を超える東には及ばないだろうが、荒船にも学はある。本の中から必要な情報を拾うくらい簡単だ。というか、そういう雑事こそやらせてほしいと荒船は思っている。
「ダメ。お前は今日朝から起きてるだろ。早く寝なさい」
東の食糧である血液が荒船から提供されていることもあり、荒船の健康管理にはうるさい。血を与えられて以来そう簡単に体調を崩したりはしないのだが、この様子だといくら待っても仕事は与えられないだろう。きっぱりと言われ、荒船は仕事獲得を諦めた。
「あ、ちょっと」
「ん?」
寝ろと言われたので仕方なく自室に戻ろうとすると、東に呼び止められる。
「誰が自分の部屋に戻れって言った?」
「あ? 何言ってんだ」
荒船のベッドは荒船の部屋にある。東の言っていることはどう考えても矛盾しているのだが。
「ここで寝て」
納得はしたが、意味は分からない。自分の主の言葉だからといってなんでもかんでも従うわけではないのだ。そのままスルーして帰ろうと背を向けた。
「なんでわざわざアンタのベッドで……」
『ここで寝ろ』
東の声が荒船の頭の中で反響した。これは「逆らえない命令」だ。東がそのつもりで命令を下せば、荒船は自分の意志と関係なく従ってしまう。僕とはそういう存在であり、だからこそ人権的な観点から作ること自体を禁じられている。
「ずりーぞ! ろくでもねえ命令ばっかりしやがって!」
とは言いつつ体は逆らえず、素直に布団に収まった。東が寝る頃に荒船が起きだすので別に一緒に寝るわけではない。ただ荒船が東の目の届く範囲に居ることが重要なのだ。
東は主のくせに僕と離れるのが好きではない。僕が主のベッドで寝て主が働いているというこの状況も東は一向に構わないし、むしろ嬉しいと感じている。荒船が望むなら何だって与え、危険からはひたすら遠ざける。これではどちらが主か分からない。
「また明日、別の仕事をお願いするから」
「本当だな?」
「お前に嘘はつかないよ」
不服そうだった荒船はあっという間に機嫌を治した。荒船にとっては東からの頼み事が至上の喜びなのだ。それは僕の本能だが、二人の信頼関係に依るところもある。
苛立ちが治まったので荒船は明日を楽しみにして目を閉じた。
「おやすみ、荒船」
本当はもう少し話していたいが、それを言い出すと際限がなくなるので、東はせめて寝顔を見て我慢するのだった。
利己的な僕(従×主)
東は吸血鬼の僕である。誰に頼まれずとも主たる荒船の世話を焼き、仕事を手伝う。人間でなくなってからは起きる時間さえ荒船に合わせ、どこにでもついて回っていた。
「荒船、何か俺にできることはない?」
「表の掃除と応接室の準備してくれ。今日は客が来るから」
「分かった。お客さんは人間?」
「ああ」
「ならお茶も準備しないとな」
「任せる」
荒船は人間の食べ物に詳しくない。たまに人間の客が来た時のもてなしは東に任せきりにしている。それはそれとして、荒船は自分の準備に取り掛かった。
客が帰った後、別の部屋で過ごしていた東が片付けに現れる。
「お客さんは喜んでた?」
「ああ。この家に東さんが居て良かったってよ」
昔は人間が家に来てももてなす準備が何も無くて毎回悩んでいたものだが、東が来てからは荒船が助かるだけでなく客も喜んでいる。良いこと尽くめだ。
「じゃあ、褒めて」
東は荒船の前で立ち止まり、にこりと笑って褒めてもらえるのを待っている。僕は主の役に立つことが何よりの喜びなのだ。大人のくせに、たまにこういうところがあるのが可愛いと感じてしまう。
「よ……よくやった」
よしよしと優しく頭を撫でてやると、もっとと言わんばかりに頭を押し付けてくる。こんな時だけはまるで大きなペットのようだ。嬉しそうな顔を見ると荒船の顔もつい緩んだ。
今でこそほのぼのと過ごしている二人だが、その過去は壮絶だった。
荒船はかつて決まった人間と契約して血を貰うことをせず、その日に出会った人から貰っていた。その一人が東だ。代金を支払って別れようとしたところで手を掴まれる。
「何だ? まだ何かあるのか?」
「俺が毎日血をあげるから、金の代わりにお前をくれないか?」
「は?」
規則を破るわけにはいかないので荒船は血の対価を払うものの、東は諦めず荒船を追いかけた。最初は厄介な奴に捕まったと思ったが、渋々付き合ってみると意外と真っ当な人間であると知る。むしろ人間社会では年齢の割に随分と高い地位を持ち、社会のために働く人格者だ。
そんな人間が一体荒船の何を気に入ったのか分からないが、毎日好きだと伝えられる内に荒船も次第に東を好意的に思うようになっていった。
しかし吸血鬼と人間にはどうしても越えられない壁がある。千年生きる吸血鬼に対し、人間はどんなに長くても百年ほどしか生きられない。もっと若い頃の荒船は人間と深く交流していたが、今は誰一人として残っていない。先立たれる悲しみを知り、荒船は人間と必要以上の付き合いをしないようにしていた。
故に東からも離れようとしたのだが、なかなかどうして東の勘は鋭い。すぐに見つかり問い詰められた。
「俺が人間だから俺を受け入れてくれないのか?」
「……そうだよ。人間はすぐ死んじまう。だから情が移らないように毎日違う人から血を貰ってたんだ。なのにアンタが……」
人間と深く関わりたくなかったのに、東は荒船の領域に無理矢理入ってきた。もう東を無視することはできず、話しかけられるのが嬉しいとさえ思ってしまう。
「少しは俺の気持ちが通じてたかな」
「少しどころじゃねえ。けど、やっぱりダメだ。アンタもあと五十年やそこらで俺を置いてっちまう」
吸血鬼にとっては長い時間ではない。東は満足かもしれないが、置いていかれる者の気持ちも知らないで。
すると東は何か思いついたように口を開いた。
「なあ、荒船。お前の血を飲めば俺も少しは長生きできるんだよな」
「! 馬鹿なこと言うんじゃねえ。血分けは禁止されてる。それにアンタを俺の僕にするなんて」
「いいよ。荒船の命令なら、俺は自分の命だって捨てる」
「だから! 馬鹿なこと言うな!」
荒船は本気で怒った。短い寿命しか生きられない、少しの怪我で簡単に死んでしまう生き物のくせに、簡単にそんなことを口にするべきではない。
「馬鹿なことじゃない。俺だってできるだけ長く荒船と居たいんだ。どうしてもダメか?」
「ああ。ルール違反はできないし、東さんを僕にもしたくない」
大事な相手だからこそ僕になどしたくない。荒船はそういうつもりで言ったのだが、東は不服な様子だった。
「そう……なら、俺にも考えがある」
東の目からすっと光が抜けた気がした。とても嫌な目だ。何をするのかと思ったら、東はどこからか取り出したナイフを迷うことなく自分の腹に突き立てた。
「なっ⁉」
「俺が好きなら、お前の血を飲ませて。それができないならこのまま放っておいて、死なせてくれ」
「なんで、アンタ、こんな……」
荒船は混乱する頭で必死に考えた。刃を抜いていないので今すぐ医者を呼べば助かるかもしれない。しかし今は深夜。即座に急を知らせる手段も無い。一番近い医者の家まで荒船が東を運んで飛んでいくことも考えたが、東を動かすこと自体に不安がある。途中で刃が抜けたりなどすれば終わりだ。そもそも東の様子からして、荒船の血を飲む以外の治療は跳ねのける可能性が高い。
「心配してくれるのは……嬉しいけど……あまり、迷っている時間は……ないぞ」
顔は笑っているが、腹の傷は深い。みるみる血の気が失われていく東の顔を見て、荒船はよく知る恐怖に襲われた。このままではまた大事な人を喪ってしまう。だが、自分の血さえ飲ませれば東の命だけは助けられる。
「クソッ」
その時、荒船が取れる選択肢は一つしかなかった。
今でもふとあの日を思い出すことがある。東は無事に蘇生し、こうして荒船と共に暮らしているわけだが、その笑顔の裏には惨劇があったのをどうしても忘れられない。
「荒船、どうかした?」
人命救助のためということで、血分けを行った荒船の罪は軽いもので済まされた。全て丸く収まったと言っていい。しかしこれは何もかも東の思うつぼだったのではないだろうか。たった二十年かそこらしか生きていないのに、荒船は時々東が恐ろしくなる。
「いや……なんでもねえよ。今日は本部に行くから、それ片付けたらメシにしよう」
「分かった」
だがその東も今や荒船の僕。主の命令に逆らえない身になったのだから、いざという時は荒船が制御すればいいはず。茶器を運ぶ背中を見送りつつ、自分の中にある仄かな不安を拭い去るように部屋の扉を閉めた。
音まで愛して(作曲家×演奏家)
「これ新曲。また頼むな」
東はそう言って楽譜の束を荒船に渡してきた。これでもう三回目だ。練習曲から交響曲まで作る男が、最近はなぜかピアノの協奏曲ばかり書いている。人気の作曲家なのだから何を書いても喜ばれるのだろうが、問題はそれをいつも真っ先に若手ピアニストへ渡すところだった。
「なんで毎回俺に弾かせるんですか?」
荒船が東と知り合ったのは一年前で、荒船の師匠から紹介されたのがきっかけだ。それからたまに連絡を取り、初めて楽譜を貰ったのが半年ほど前。新曲のお披露目でコンサートを行うから、ソリストを荒船に頼みたいと言ってきたのだ。プロとして活動は始めたもののなかなか機会に恵まれなかった荒船は、人気作曲家の申し出を喜んで受けた。しかしそれが三回目ともなると何か裏があるのではないかと疑いたくなってくる。
「東さんもピアノは弾けるんだから、お披露目なら自分でやった方が」
「俺はそんなに巧くないからさ」
(嘘つけ……)
東が演奏家としても十分な腕を持っていると知っている。なんといっても荒船の師匠が世話になった人であり、彼が息抜きに演奏しているのを何度か聞いたこともある。
「本当だって。それに自分で弾くより若手の演奏家にチャンスをあげたいから」
思っていたことが顔に出過ぎていたようで、東からしっかりフォローが入れられてしまった。
「でも俺だって別にそれほど……俺より巧い若手ならいくらでも居るし、東さんの曲なら皆喜んで飛びつきますよ」
「荒船に弾いてほしいんだよ。お前の音が好きだから」
平凡な自分の音の何がそんなに気に入ったのか分からないが、そこまで言われたら断れない。結局、いつもの通り東に渡された譜面を受け取った。プロデューサーにいくらでも出すと言わしめる紙の束だ。
東のお陰で知名度は上がってきたが、まだまだ若輩者であることに変わりはない。ここで発表するつもりだと提示された日はもちろん空いていた。
「ちょっと弾いていくか?」
「時間があるなら、ぜひ」
譜読みをして、東からの指示を受けながら演奏する。順調に進めていたが、二楽章の後半に差し掛かったあたりで荒船が気付いた。
「……?」
「どうかした?」
そのまま演奏を続けようとしていたが、東に見咎められたので一旦手を止める。流石に作曲家の耳は鋭い。
「ここのフレーズ、最初の曲にもありませんでした?」
「ああ、あるよ。形は少し変えてるけど」
同じメロディーの形は耳で聴くと分かりやすい。音の動きにどこか懐かしさを感じたのは正しかった。
「ちなみに前回の曲にもあったんだけど、気付かなかった?」
「えっ、どこですか」
「ここ」
そう言いながら東が荒船の横から鍵盤に手を出した。曲は鮮明に覚えているが、同じフレーズがあっただろうか。東が該当部分を抜き出して弾いてみせる。荒船は目の前の楽譜と比べてようやく理解した。
「うわ、本当だ。全然分かりませんでした」
解説がつくと分かりやすく浮き彫りになるのだが、巧みに隠されているので楽譜を読んでも気付きにくい。こういう遊び心と技巧が東の人気たる所以でもある。
「まさか他の曲でもこんなことしてるんですか?」
「いやいや、この三曲だけだよ」
ということは、この三つの協奏曲には何か一貫した主題があるのだろう。音楽家は楽譜の上でこそ雄弁に語る。ときには言葉にならないメッセージすら音楽に変えてしまうのだ。ただ、別々の協奏曲でそれを表すのは珍しいかもしれない。
「これはね、荒船のテーマ」
「は……?」
荒船は思わず東の顔を見た。時々お遊びのようなことをする人ではあるが、表情からは本気なのか冗談なのか読み取りにくい。
「ふざけてます?」
「俺はいつも真面目だよ。このフレーズは荒船をイメージして作ったんだ。よくあるだろ」
誰かをイメージして曲を作ったり、主題を決めて度々登場させるというのは確かによくあることだ。特定の演奏家に対してそれを行う場合も、頻繁ではないにせよあるにはある。ただしこの表現は往々にして、作曲家がその人に対して何らかの大きな感情を抱いていることを表す。それは感謝や愛情といった好意的なものから、憎悪などの負の感情まで様々だ。
「ありますけど……いや、うん。分かりました。続きやりましょう」
東からどんな答えが返ってきても冷静な対応ができる自信が無かったので、荒船はそれをスルーした。もしかしたら東はなんとなくそうしただけで、特に深い意味は無いのかもしれない。とりあえずそう考えておかなければ、何か恐ろしい事態が起こるような気がする。
振り向けば魔王に連れて行かれてしまいそうな寒気を感じながら、荒船は無心で鍵盤を叩いた。
名前で呼んで(生徒×先生)
東が三年生になった四月、産休に入った養護教諭の代理がやって来た。荒船という若い男性で、務めるのはこれからの一年間のみ。始業式の壇上で挨拶をしている時、東は彼のことなど全く気にしていなかった。
授業が始まって二日目。東はさっそく保健室の前に立っていた。サッカーの授業中に他の生徒の足を踏んで転倒、強めに捻ってしまい痛むので一応見てもらうことになったのだ。全く歩けないほどではなく、保健室は近かったために一人で歩いてきた。
「失礼します」
扉を叩いて中に入ると、数日前に見た顔が東の方を向いた。近くで見ると鋭い目をしていて、あまり養護教諭という印象ではない。
「お、生徒第一号」
「?」
読んでいた本を閉じ、椅子ごと体を荒船の方に向けた。
「俺がここに赴任して初めての生徒。足どうした?」
「あ……体育で他の人の足を踏んで、捻りました」
「よし、見せてみろ」
車輪付きの丸椅子を入口まで持ってきて、先に東を座らせた。靴を脱いだらそのまま机の方まで押していく。
靴下を脱いだ足を小さな台に乗せ、荒船は東に確認しながら触ったり曲げたりを繰り返す。
「うん、捻挫だ。よく一人で歩いて来たな」
「近かったので」
「でも痛いだろ。冷やしてからテーピングしてやる」
冷凍庫から保冷剤を取り出し、タオルで包んで足に当てた。その間無言でいるのもどうかと思い、東が気になったことを聞いてみる。
「入ってきた時は何も言わなかったのに、なんで足って分かったんですか」
「保健室の前で片足で立ってりゃ足に何かあったって思うだろ」
脈打つような痛みは引いたと伝えると、荒船は戸棚から湿布とテープを取り出してきぱきと東の足に巻いていく。判断が早く的確で、若いのに非常に経験豊富に見える。
「どうだ? ちょっと両足で立ってみろよ」
「! だいぶ楽です。テーピング上手いですね」
「だろ。俺スポーツドクター目指してるからな」
さらりと言ったが、スポーツドクターとはもちろん医者のことだ。確か医師の経験を最低でも五年は積まなければならないはず。
「え、医師免許持ってるんですか?」
「まあな。まだ臨床経験は浅いけど」
詳しく聞こうとした時、扉を叩く音がした。入ってきたのは東のクラスの友人達だ。昼休みになったので、東がなるべく歩かずに済むよう着替えと弁当を持ってきてくれたのだ。三年生の教室は三階にあるので非常にありがたい。
当の友人らは東が大丈夫そうであると確認すると保健室を出ていった。とりあえずベッドを一つ借りて着替えを済ませる。
「せっかく持ってきてくれたし、歩くの辛かったらここで食っていいぞ」
荒船もこれから昼食にするようだ。コンビニのおにぎりとカップの味噌汁を机に出し、ポットの湯を用意し始めた。医者がそんな適当な食事でいいのかとは思ったが、そこは個人の事情だろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
テーピングをしてもらったのでその気になれば教室に戻ることもできるが、東は荒船に興味が湧いた。他に生徒も居ないし、こんな話を聞ける機会は滅多に無いだろう。
「医師免許持ってるのに、どうして保健室の先生やってるんですか?」
親にも聞かれたよ、と荒船は苦笑いした。
「知ってるだろうけど、医者ってめちゃくちゃ忙しくてな。ちょっと前に体壊して、休んでたタイミングでここの教頭に会ったんだ。俺の三年の時の担任でさあ。で、たまたま養護教諭が産休に入るって聞いたから、俺からやりたいって言ったんだ。教員免許も持ってたし」
養護「教諭」ということは教員免許も持っていなければならない。思えばその通りだが、そんな片手間に取得できるものだろうか。
「……すごいですね。医者からいきなり先生なんて」
「そうでもねえよ。要は一旦医療の現場から逃げたってことだから」
荒船の顔は暗い。体を壊すほどの忙しさなら現場を離れたくなっても仕方ないと東は思う。しかし周りがどう思おうが荒船自身は逃げだと考えていて、それを後ろめたく感じているようだ。
「でもまあ、怪我の多い若者の近くに居られるのは良い経験だよ」
そう言うと東の足を指さして笑った。実際、学校側としても医者が常駐するのは非常にありがたいことだ。来週の健康診断にももちろん参加するという。
自分ができることを増やし、求められている場所で活躍する。仕事とはそういうものだが、ただそれだけのことが東にはとても羨ましかった。
話し込んでいると五限の予鈴が鳴った。名残惜しいがタイムアップだ。
「じゃあな、一号くん。足が痛んだらまた来い」
二日後の朝、東は再び保健室を訪れた。歩くとまだ少し痛むのでまたテーピングをしてもらいに来たのだ。巻いてもらう間、また東の方から話しかける。
「先生は一年限りで病院に戻るんですか」
「そのつもりだ。本業だからな」
「体を壊して一度逃げたのに、ですか」
意地の悪い聞き方だという自覚はあった。しかしそこまでの経験をしても医者を続けたい理由を聞いてみたい。
「それに関しては、俺が不慣れだったせいもある。今度はもっと上手くやるよ」
東の意地悪な質問に対して、荒船はのんびりと答える。彼の中では既に答えが出た話なのだ。
「大変だけどさ、やっぱりずっと憧れてた仕事だから」
「……やっぱりすごいですよ、先生」
人間、憧れだけでそこまで努力できるものか。東には荒船が輝いて見えた。何でもできて、何にでも挑戦していく勇敢さが羨ましいと思った。
「なんだ? 悩みでもあんのか?」
テープを巻き終わった荒船が顔を上げた。相変わらず綺麗な出来上がりだ。これひとつであっても、ここまでできるようになるまでどれくらいの経験を積んだのか。
「俺は、何でもできるけど何もできないので」
「うん?」
高校三年生になって、進路の話題が以前よりも頻繁に上るようになった。東は勉強も運動も万遍なくできるので、おおよそどんな大学でも問題ないだろうと言われている。だが当の東は、自分が何をしたいかずっと分からないままでいた。目的が無いからどの大学で何をするかも決まらない。なんとなく潰しがききそうだと思ってとりあえず理系コースに進んだが、周りからはそろそろはっきりした目標を決めろと言われていた。
「大学には行こうと思ってるんですが、何をしたいか自分でも分からなくて」
「ふーん、進路相談か」
どの大学でも選べるからこそどこに行けばいいか悩むのだ。そもそも大学へ行くこと自体が自分に必要なことなのかも不明のまま。
「俺は進路指導の担当じゃないことは断っておくが……別に今見つけようとしなくてもいいんじゃねえか」
荒船の答えは答えになっていない。東は一瞬呆気にとられてしまった。
「いや、でも受験が」
「大学って、思ってるより自由なところだぜ。やりたいことが見つかったら学部を変えるのもアリだろ。俺みたいに医学部通いながら教職も取れるし。まあ人よりちょっと面倒かもしれねえけど、秀才の一号君には難しいことじゃねえだろうよ」
目から鱗が落ちるようだった。結論の先延ばしではあるが、学部に入ったらそれきりだと思っていた故に、大学や学部選択に対する心持ちが急に軽くなる。
「そんなことできるんですね」
「やる奴はあんまり居ねえけどな。他にも二年目から学科が分かれるところとか色々あるから、まあそんな重く考えなくて大丈夫だよ」
東の黒髪を荒船がくしゃりと撫でた。誰かに撫でられるなんて何年ぶりだろうか。荒船の手は武骨だが優しく、嫌な感じはしなかった。
その時、ホームルーム開始五分前のチャイムが鳴る。
「あ、予鈴か。教室戻りな」
「はい。ありがとうございました」
東は素直に保健室を出ようとしたが、ドアを開けたところで立ち止まる。このままドアを閉めたら、次に何か怪我をするまでここへは来られないのではないか。荒船は今までの東の人生には存在しなかったタイプの人間だ。もっと彼のことを知りたいし、色んなことを教えてほしい。
怪我などしなくてもここへ来る理由が欲しくて、東は荒船の方へ振り返った。
「あの、また話を聞いてもらってもいいですか」
ダメと言われたらそれまでだが、できれば荒船から許しを得たい。荒船は一瞬だけ驚いた顔をした。
「スクールカウンセラーでもねえんだけど。まあ、いいぜ。他の生徒が居ない時ならな」
にっと笑った顔はとても眩しくて、東はそれをずっと見ていたいと思った。
期限はあと一年。まずはちゃんと名前を呼んでもらえるようになるところから。
あの子の匂い(犬×猫)
東には最近気になる存在がある。毎日同じくらいの時間に塀の上を通っていく、茶虎の野良猫。塀のすぐ下に居る東には目もくれず、長い尻尾を立てて歩く姿が綺麗だ。
今日こそは話しかけてみようと心に決めていた。猫はいつも通りの時間に現れ、すたすたといつもの方向へ歩いていく。
「毎日どこへ向かってるんだ?」
塀の下から声をかけると猫は立ち止まった。紫色の目で東の方を一瞥する。
「アンタには関係ねえだろ」
初めて東の方を見てくれたのはいいが、返事は冷たい。ぷいと顔を背けて走って行ってしまった。
東とよく話をする猫も多いだけに、そんな反応をされたのはショックだ。敵意は向けていないから、単にあの猫の性格なのだろう。
翌日。今日は会えないかと思ったが、また同じ時間に猫は現れた。昨日のつれない態度くらいで諦める東ではない。
「犬が怖いのか?」
また声をかけてみると、今度はあからさまに嫌そうな顔になった。
「うるせえ! 怖くなんかねえよ! 嫌いなだけだ!」
シャーと牙を剥いて威嚇されてしまう。これは触れてはいけない話題だったのだろうか。確かに野良は飼い犬に良いイメージを持っていないタイプも居る。
「俺は猫とも割と上手くやってる方なんだが……」
「知るかよ」
ふんと鼻を鳴らし、猫はまた走り去っていった。
更に翌日、やはり同じ時間に猫が現れた。昨日は威嚇までされてしまったのにここを通るということは、それなりの理由があるのだろう。
「犬が嫌いなら、どうして毎日ここを通るんだ?」
「近道だからだ。つーか話しかけんなよ。毎日毎日」
忌々しそうな顔をされてしまった。またすぐ逃げられてしまわないよう、言葉は慎重に選ばなければ。
「俺は君と仲良くなりたいんだけど」
「なんで犬なんかと……うわっ」
身を乗り出した拍子に猫が前足を踏み外した。そのまま塀の下、東の所まで転がり落ちる。結構な高さだ。
「大丈夫か⁉」
「おい、来んな! 触んな!」
東が駆け寄ると猫は元気に抵抗した。猫の身体能力の高さは知っているが、不意に落ちて思わぬところを擦りむいたりすることもある。東は前足で猫を抱え込んで容体を確認しようとした。
「怪我してないか⁉」
「猫なめんな! 離れろ!」
一時は両前足の中に収まったものの、猫は威勢のいい蹴りを東の顎に食らわせてするりと抜け出した。全身の毛を逆立てて牙を剥いた後、急いで再び塀に上っていく。一瞬の出来事だった。
猫は塀の上で簡単に毛繕いを済ませると、東の方をひと睨みしてからいつもの方角へ消えていく。一匹残された東は、寂しく思いつつも自分の前足に鼻を寄せた。
(……あの子の匂いだ)
その日の午後、東の居る庭に黒猫が遊びに来た。当真という名前で、少し離れた所に住む馴染みの家猫である。
「東さん、荒船の匂いがする」
「荒船?」
「この辺を縄張りにしてる茶虎の猫ですよ。あ、でも犬嫌いだから東さんの前には出てこねーかも」
勘違いか? と当真は首を捻る。犬嫌いな茶虎の猫。あの子のことだと東はすぐに分かった。先ほど触った時の匂いが残っていたのだろう。ようやく名前を知れて東は尻尾をぱたりと振る。
「あの子、荒船って名前なんだな」
「会ったことあるんですか?」
「毎日ここを通るよ」
荒船の尊厳のため、塀から落ちたことは言わないでおいた。ああいった性格の子は、どんな形であれ自分の失態を話されることを嫌うだろう。今以上に好感度を下げたくはない。
「でも荒船、犬嫌いなのに東さんには触れたんすね」
正確には東が一方的に触ったのだが、どう説明したものか。むしろここは適当に流しておいて、「荒船が唯一触れる犬」のように振る舞ってみるのはどうだろう。当真が荒船の知り合いという情報も収穫だった。
「当真。あの子のこと、もっと教えてくれないか」
一対一では逃げられてばかりだが、これならまともに話をする算段もつけられそうだ。東はこれからどう荒船に近付いていくか思案を巡らせた。
夢の通い路(稲荷×神職見習い)
最後の参拝客を見送ってから、荒船は入口の鎖をかけた。人は出入りできるが、車が入れないようにするためのものだ。倉庫から熊手を出して砂利をならしていると、その後ろに音もなく人影が浮かび上がった。
「あの女の子、お前が通ってる高校に受かりたいらしいぞ」
「そういうの読むなって言ってるでしょう。プライバシーの侵害ですよ」
「読んだんじゃない。あの子が俺にお願いしたんだ」
「だとしても人に教えないでください」
荒船が振り返った先には、影の無い着物姿の男が立っている。ふさふさとした尻尾を悠然と揺らす男は、この神社の神様だった。
「お前ももうすぐ受験だろう。勉強しなくていいのか」
「いいんです。なんなら今試験を受けても問題ないくらいですよ」
荒船の父はここの宮司である。一人息子である荒船はそれを継ぐために神職の資格を取れる大学を受けるつもりだ。荒船は成績優秀なので、余程のことがない限り落ちたりはしないと太鼓判を押されていた。
「俺のおかげかな」
「東さんにお願いした覚えはありませんけど」
ここは主に学業成就のご利益がある神社で、毎年多くの受験生が訪れる。それほど大きくはないが、地域に根差して親しまれる存在だった。
普通の人間に東の姿は見えない。荒船も最初から見えていたわけではなかった。父や祖父が時々何もない方を向いて独り言を呟いているくらいの認識だったのが、十五歳になった途端いきなり姿が見えるようになった。嫁入りしてきた母には見えないが、ここで暮らす内になんとなくその辺りに居る程度のことは分かるようになってきたらしい。人の前に姿を現すなど、不思議な神も居たものだ。
「大学に行って、成人しても酒は飲み過ぎるなよ。あと煙草は空気が汚れるからダメだ」
「分かってますって」
「親の目が無いからって不摂生するなよ。ちゃんと睡眠時間もとらないとお前すぐ調子悪くなるから」
保護者かと突っ込みを入れたくなるが思い止まった。東は荒船の親どころか、先祖からこの家の人間を見守っている。ある種、保護者以上と言ってもいい。
「はいはい、それも分かってますよ」
東は真剣なのだが、どうも荒船が適当に流している様子なのが気に入らない。ちゃんと話を聞けと言わんばかりに荒船の正面に立って顔を近付ける。
「それと、浮気もしないように」
「そっ……れこそ、今更です」
急に近寄られて荒船は半歩下がった。触れないとしてもこの距離は怯む。
「都会の誘惑を分かってないな。やっぱり付いて行こうか」
「何言ってんですか。神様が神社を離れたら神社じゃなくなるでしょう」
「そこは代理を立てて……」
「ダメです」
この神様は人間の中でも荒船を特に可愛がっている。神社を空けるなど普通は有り得ないことだが、東ならやりかねないと思わせてしまうほどだ。
しかし本人からきっぱりと断られ、豊かな尻尾をしょんぼりと下げた。顔よりも尻尾に感情が出やすい。
「大学は四年もあるんだろう。修行なら二年で済むのに。哲弥は修行だったぞ」
「大学を卒業しておいた方が便利なんですよ、色々。まあ長い休みには帰ってきますから」
「年末年始みたいな忙しい時じゃなくて、もっと暇な時がいい」
「我儘ですね……」
この神社で最も偉い存在なので当然といえば当然だが。
東は荒船の方に手を伸ばし、頬に寄せた。互いに触れることはできないが、人の肌のような温かさが伝わってくる。
「早く卒業しておいで」
「ん……」
一人と一柱の間には約束がある。荒船が神職の資格を得たら、東の力を少しだけ分けてやるというものだ。それにより荒船は東に触れることができるようになる。神職でない者に力は与えられないので、東はひたすら荒船が資格を取るのを待っているのだ。
しかし神にとって四年など一瞬だろうに。対して荒船にとっては短い人生の内の四年。父のように修行に行けば確かに二年で済むが、荒船には荒船なりの考えがあって大学を選んだ。しばらくは我慢である。
「触れるようになったら、尻尾ふかふかしていいですか」
「……いいけど」
もっと他にあるだろうと東は渋い顔をする。荒船はまだ知らないだけで、神が一人の人間にここまで入れ込むなどほぼ禁忌に近い。荒船には追々その愛情の重さを理解してもらわなければならないが、先はまだ長そうだ。
と、風も無いのに裏手の山の木々がざわついた。東が反射的にそちらを向く。
「東さん、呼ばれてるんじゃないですか?」
「ああ」
名残は惜しいが、これも神の仕事の一つ。東は恋人の顔から神様の顔に切り替える。荒船はこの東の真剣な表情が好きだった。
「また夢の中で逢おう、哲次」
荒船の頭を撫でるようにしてから、東は薄闇の中へ姿を消した。
その夜、荒船は夢を見る。地球の外からやってきた敵が町を破壊し、荒船はそれに対抗するための組織に在籍していた。武器を持って同級生や後輩らと一緒に戦い、襲い掛かる敵を追い払う。命がけだが、映画の登場人物になったようでとても楽しかった。
そんな中、荒船の前に見知った顔が現れる。
「また随分と物騒な夢を見るなあ。映画の観すぎじゃないのか」
いつも着ている着物ではなく、荒船と同じようなジャージ姿で尻尾も無い。だが紛れもなくそれは東だった。
「東さん……ああ、夢か、これ」
それを自覚した瞬間、先ほどまではっきりとしていたはずの背景が一気にぼやけていく。周りで動いていた物も時が止まったようになり、音が消える。荒船と東だけが自我を持つ存在になった。
「後で逢いに行くと言っただろう」
東は荒船の夢の中に入ることができる。そして荒船は、夢の中ならば何でもできる。もちろん、東に触れることも。荒船は駆け出して東に飛びついた。
「わっ」
「今日は尻尾無いんですね」
「お前が消したんだろ」
あくまでも夢の主は荒船なので、東もその世界から逸脱した姿は取れない。今日はただの人間の姿で荒船は少しだけがっかりした。
荒船は東の脚の間に収まって背を預ける。夢の中の時間は不確かで、いつ終わってしまうか分からない。だから二人はこの時間を大事に過ごすことにしていた。
「遠くに居ても夢に入って来られますか?」
「多分な。流石に日本を出たら力は届かないかもしれないけど」
「じゃあそんなに心配する必要ないじゃないですか」
眠りさえすれば毎日でも会える。今日東が言っていたような心配をせずとも、様子を見に来ればいいのにと荒船は思うのだが。
「……いくら夢で逢えても、実際のお前を見られないだろう。夢の中であったことは記憶に定着しにくいし」
「俺は夢の中でも東さんとの会話は覚えてますよ」
「今はな。でもここはお前の夢で、お前の意識次第では起きた途端に忘れてしまうことだってある」
「俺の意識?」
首を傾げる荒船の頭を東の手が撫でる。いつだってその手は優しく心地良い。
「お前が……俺をどうでもいいと思ったりしたら」
荒船は堪らず振り返った。東は寂しそうな顔をしている。まるで荒船がそうなることを予見しているかのように。
「東さんをそんな風に思うわけありません!」
「未来は分からない。俺にもな……俺はただ、お前に忘れられるのが怖いんだ」
東は荒船と額を合わせた。神は人から信じられ、大事にされることで存在を保っている。もし荒船が東を忘れれば、東は荒船に姿を見せることもできなくなってしまうだろう。
「人間はそれほど強くない。価値観も、大事なものも、ある日突然変わったりする。お前は強い方だけど、そうなったとしても何も不思議ではないよ」
もしかすると東は、荒船が別の道を選んでもいいよう逃げ道を作っているのではないか。荒船は直感的にそう思った。忘れられるのが怖いと言っておきながら、そうなった場合は仕方ないと諦めるのか。神様なのだからもっと強気に出たっていいのではないか。荒船は別に義務感から東と付き合っているわけではないのだ。
「俺が大学に行くのは神社を継ぐためです。何があってもそれだけは変わりません」
「哲次……」
荒船は東の顔を見据えたまま強く言う。この目は先祖代々同じだなと東は思った。
神職を選んだのは神社に生まれたのが理由であっても、荒船はそれが嫌だとは全く感じていないし強制もされていない。東が今までどんな人間を見てきたかは知らないが、それと一緒にしないでほしいと荒船は思う。
「東さんに会う前から決めてたことです。こっちは一生を捧げるつもりでやってるんですよ。ちょっと離れる時間があるからって弱気にならないでください。神様でしょう」
十八の子供の言葉は濁りがない。若さ故の無鉄砲で純粋な姿勢は長きを生きる神にとってときに恐ろしく、しかし今は好ましく映る。
「ああ……すまない。お前の言う通りだ」
これほど人間を愛しいと思ったのはいつ振りだったか東にはもう思い出せない。だからこそ離れてしまうのが怖くて予防線を張ろうとしてしまう。だが東の思う最悪の可能性が残っているとしても、それが実現しない限りはもう一方の可能性もちゃんとあり続ける。今ここで捨ててしまう方がずっと愚かだ。
「毎晩夢に出て悪さしてないか確認するからな」
「いいですよ。東さんに会えるなら、俺はそれで」
音も時間もない世界で、二人の唇が触れた。